澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

漁協ファーストではなく、漁民ファーストでなければならない。

盛岡地裁における「浜の一揆訴訟」の口頭弁論期日(10月28日)が近づいてきた。
前回期日(8月5日)から2か月半。この間に、被告が準備書面による主張を提出し、原告がこれに反論することになる。

☆前回までの原告漁民側の主張を要約すれば、以下のとおり。
※海洋のサケは無主物である。無主物先占の原則のとおり、誰でも獲った人がこれを自分の所有物にすることができる。漁民がサケの捕獲を継続反復して、漁労で生計をたてることは憲法22条に基づく「営業の自由」に属する。制約を受けない権利というものはないが、制約には相応の根拠が必要となる。例えば薬事法が定める薬局の距離制限を求める法律上の根拠に基づいて、薬局開設を不許可とした行政処分を最高裁は違憲と判断して取り消している。この理屈の構造は、本件と同じもの。営業の自由が軽々に制約されてはならない。小規模(20トン以下の小型船)漁民のサケ漁の許可申請には許可すべきが原則で、本件においては不許可の実質的理由すら示されていない。

※また、本件処分は形式的にも違法である。
 不利益処分にはその理由を付記しなければならないが、根拠法条だけではなくその根拠法に該当する具体的な事実も付記しなければならない。しかし、本件の処分にはそのような記載がまったく欠けており、判例上違法として取消を免れない。

☆これに対して、被告岩手県は、9月20日付の準備書面で、初めて、一般漁民に「固定式刺し網によるサケ漁」を許可しない実質的な理由を整理して述べてきた。
以下のとおりである。
?岩手県の長年に亘るサケ産業(水産振興)政策とそれに基づく関係者の多大な尽力を根本的に損ねてしまうこと
?種卵採取というサケ資源保護の見地からも弊害が大きいこと
?各地漁協などが多大な費用と労力を投じた孵化放流事業により形成されたサケ資源をこれに寄与していない者が先取りする結果となり、その点でも漁業調整上の問題が大きいこと
?解禁に伴い膨大な漁業者が参入し一挙に資源が枯渇するなどの問題が生じること?沖合で採捕する固定式刺し網漁業の性質上、他道県との漁業調整上の摩擦も看過できないこと
?近年、県内のサケ資源が深刻な減少傾向にあること

以上の各理由は一応なりとも、合理的なものとは到底考えがたい。こんなことで漁民の切実な漁の自由(憲法22条の経済的基本権)が奪われてはならない。

☆各理由に通底するものは、徹頭徹尾定置網漁業完全擁護の立論である。およそいささかなりとも定置網漁業の利益を損なってはならないとする、行政にあるまじき偏頗きわまる立論として弾劾されてしかるべきでもの。利害対立する県民当事者相互間の利益を「調整」するという観念をまったく欠いた恐るべき主張というほかはない。

しかも、利害対立の当事者とは、一方は原告ら生身の零細漁民である。20トン以下の小型漁船で生計を立てる者で、法的には経済的基本権の主体である。そして対立するもう一方が、大規模な定置網漁業者である。その主体は、漁協単独の経営体であり、漁協と複数個人の共同経営体であり、株式会社であり、有限会社であり、定置網漁業を営む資本を有する経済力に恵まれた個人である。「浜の有力者」対「一般漁民」のせめぎあいなのである。

原告は、「定置網漁業者」と原告らのどちらに、サケを採捕せしめるべきが公平で合理的かという政策論争をしかけているのではない。原告の主張は、「定置網漁業者」の廃業を迫るものでもなければ操業規模を縮小せよというものでもない。定置網漁業者の利益が損なわれる虞があることを理由に、原告らに固定式刺し網によるサケの採捕の一律禁止をすることは法的になしえないと主張しているだけなのである。原告らの憲法上の経済的基本権を制約するに足りる憲法上の制約原理について、被告岩手県に課せられている主張挙証の責めが全うできるのかが問われている。

☆定置網漁業者の過半は、漁協である。したがって、被告の主張は、「漁協が自営する定置営業保護のために、漁民個人の固定式刺し網によるサケ漁は禁止しなければならない」ということに尽きる。

今回の書面のやり取りは、被告岩手県が徹底した「漁協ファースト」の原理を掲げ、原告が「漁民ファースト」をもって反論している構図である。

漁民の繁栄あっての漁協であって、その反対ではない。飽くまで「漁民ファースト」が当然の大原則。漁協の健全経営維持のために漁民の操業が規制される筋合いはない。

☆以下は、被告が「近年、県内のサケ資源が深刻な減少傾向にあること」を不許可の理由として挙げていることに対する批判の一節である。

「近年のサケ資源の減少傾向」が、固定式刺し網漁業不許可の理由とはなりえない。これを理由に掲げる被告の主張は、いわゆる「獅子の分け前」(Lion’s Share)の思想にほかならない。
漁協は獅子である。獅子がたっぷり食べて余りがあれば、狐にも分けてやろう。しかし今はその余裕がないから、狐にやる分け前はない。被告岩手県は無邪気に、傲慢な差別を表白しているのである。
行政は平等で、公正でなくてはならない。漁協を獅子とし、漁民を狐として扱ってはならない。原告ら漁民こそが人権の主体であり、漁協は原告ら漁民の便益に奉仕するために作られた組織に過ぎないのだから。」

(2016年10月22日)

会長への立候補は認めないー岩手県海区漁業調整委員会の暴挙

私は、今猛烈に怒っている。怒りの直接の相手は、岩手県の水産行政だ。そして、この県の姑息なやり方に加担しあるいは傍観する諸勢力にもである。このやり口は、おそらくは岩手県政だけではない。この遅れた国日本、形だけの民主主義国日本の行政の水準。私はそれに腹を立てているのだ。

以前お伝えしたとおり、浜の一揆に立ち上がった100人の原告の中から、二人が岩手県海区漁業調整委員に立候補して見事に当選した。漁業調整委員会とは、漁業の民主化を標榜する漁業法の中心に位置する目玉の制度だ。漁民代表の合議によって「漁業調整」を司る機関である。漁業調整とは錯綜する漁民相互の利害を、あるべき公平な秩序に導こうという漁業法の中心概念である。法は、漁業調整の具体的基準を定めず、漁業調整の手続を定めた。それが、漁民を有権者とする選挙で選出された漁業調整委員会である。この合議機関によって、漁民自身による民主的漁業秩序の確立が法の期待するところ。

岩手県海区漁業調整委員会は、岩手県の沿岸全域についての漁業調整を任務とする組織。「漁業者が選挙で選ぶ漁民委員」が9人、「知事が選任する学識経験委員、公益代表委員」が6人、計15人をもって組織されている。任期は4年間。

戦後民主々義は、お任せ民主々義を排して、中央集権ではない、地域の合議制による身近な民主々義を理想とした。公選制だった教育委員会がその典型だが、残念ながらその理想は長く続かなかった。農業委員も農民自身農政を進める上で貴重な存在だったが、その公選制は最近途絶えた。漁民の選挙による海区漁業調整委員会は、制度としては生き残っているが、形骸化著しい。結局は県政の提案を全部鵜呑みにするだけの委員会になり下がっている。民主的味付けのアリバイ装置といって大きな間違いではない。

その形骸化された海区漁業調整委員会に、ホンモノの民主々義の理念を吹き込もうという二人が委員に加わったのだ。あらためて、第21期となる委員会メンバー15人を見てみよう。

 漁民委員 大井 誠治(宮古漁業協同組合代表理事組合長)
 〃    大船渡市漁業協同組合(代表理事組合長:岩脇洋一)
 〃    菅野 修一
 〃    久慈市漁業協同組合(代表理事組合長:皀健一郎)
 〃    藏  ?平
 〃    小川原 泉(釜石東部漁業協同組合代表理事組合長)
 〃    原子内辰巳(種市南漁業協同組合代表理事組合長)
 〃    前川 健吾(普代村漁業協同組合代表理事組合長)
 〃    吉浜漁業協同組合(代表理事組合長:庄司尚男)
 学識経験委員 菅野 信弘 北里大学海洋生命科学部教授
 〃      熊谷 正樹 岩手県立宮古水産高等学校校長
 〃      斎藤千加子 岩手県立大学総合政策学部教授
 〃      宮本ともみ 岩手大学人文社会科学部教授
 公益代表委員 小田 祐士 野田村村長
 〃      平野 公三 大槌町町長

漁民委員のうち肩書のない漁民は、藏?平・菅野修一の二人だけ。あと7人は、漁協か漁協組合長が委員なのだ。

21期新委員での第1回委員会(通算396回)が一昨日(8月24日)午後1時30分盛岡で開かれた。選挙後の新委員会。国会なら、院の構成が第一の任務となる。その第1号議案は、当然に「会長・会長代理の選任」とされた。

浜の一揆の二人は、次のように決めていた。
「藏?平さんが会長,菅野修一さんが会長代理に立候補する」「立候補にあたっては決意表明をする。『これまでは、県の水産行政を追認するためだけの海区漁業調整委員会だった。それは、漁連や漁協、有力者の利益を代理する海区漁業調整委員会だったということ」「これからは、零細漁民一人ひとりの意見に耳を傾け、その利益を擁護する海区漁業調整委員会にしたい』といった旨を述べる」

仮に、2対13で敗れたとしても、意思表明することに意義がある。ところが、現実にはこうならなかった。立候補の機会が奪われたのだ。奪ったのは、紺野由夫岩手県水産部長だ。

第1号議案上程前に、農林水産部長が仮議長となった。
仮議長が、「1号議案 会長・会長代理の選任」を上程し、選出方法がはかられた。
これに対して、小川原泉委員(釜石東部漁協組合長)から「推薦による選出」という声があがった。

ここまでは慣例のとおり。「推薦による選出で異議なし」とされて、「では推薦による選出といたします」となり、予め県が用意した人事案がシャンシャンと通るばず…。

今回はシャンシャンとはならなかった。菅野修一委員から、異議が出た。「立候補による選出」が提案されたのだ。民主的な合議制組織において、民主的手続で代表を選ぼうという局面である。「立候補による選出」の提案があった以上は、選挙をすべきがあまりに当然ではないか。小学校の学級委員会でも、議長は「では、学級委員に立候補する方は申し出てください」というはずだ。

ところが、そうはならなかった。何を考えてのことか真意はよく分からないが、菅野信弘・学識経験委員から「自薦他薦どちらでも」という発言が続いた。おそらくは、自薦の立候補者だけでなく、他薦の候補者も投票対象とすべきだという意味だったのであろう。

ここで、仮議長(農林水産部長)は奇想天外の議事運営をする。
「推薦と立候補のどちらで選出するか、挙手で採決します」というのだ。「立候補による選挙で会長と代理をきめよう」という藏?平・菅野修一グループは、少数派として挙手採決に敗れることになった。そして、「推薦」で、県漁連会長でもある大井誠治委員(宮古漁協組合長)が、前期に引き続いて会長職におさまった。

信じがたい議事運営ではないか。「推薦」は「会長に立候補者がない場合のやむを得ない措置」に決まっている。立候補による選任との意見が出された以上は、立候補を受け付け、選挙を行わねばならない。大切なのは、立候補者が述べる立候補の抱負の弁である。あるいは他薦の理由である。民主主義とは、熟議に基づく組織運営の原則ではないか。農林水産部長は、この大切な民主々義の熟議の機会を潰したのだ。

民主的な組織においては、誰もが平等に選挙権も被選挙権ももっている。複数立候補者についての自薦他薦の弁に耳を傾けて、しかる後に各々の投票行動があるのが正常なのだ。岩手県の農林水産部長は多数決をもってしても奪うことのできない、藏・菅野両委員の立候補の権利を奪ったことになる。猛省を求めたい。

ことは、極めて象徴的である。県の水産行政と県漁連体制との蜜月ぶりをよく表している。一般漁民には、立候補の機会も与えたくないのだ。海区漁業調整委員会が形だけの民主々義で、内実の空っぽなことをよく示している。

民主々義の感覚が狂っている。挙手による多数決で少数派の発言権を封じることを恥ずべきことと思わない感覚がおかしい。農林水産部長の異様な議事運営に、藏・菅野両委員以外の誰からも異議が出なかったことも情けない。学識経験委員や公益委員というのは、何のために、その席にいるのか。県や漁連と一緒に、漁民の発言抑圧に加担するのが役割だと心得ているのか。

国政も地方行政も地域も業界も、強い者ががっちりと弱者を押さえ込む体制ができあがっている。弱者がこれと闘う武器が民主々義という手続なのだが、今回はその武器すら奪われたということなのだ。このような事態は、日本の社会のどこにもあることだし、歴史的にもいつの時代にもあったことだろう。弱者が理不尽な強者の支配を脱するには、粘り強い持続的な闘いが必要なのだ。

繰り返すが、私は今猛烈に怒っている。この怒りの感情を大切にしたい。そして、これを一歩一歩、たゆみのない闘いを持続するエネルギーに転化して持ち続けたい。
(2016年8月26日)

祝。海区調整委員選挙に、浜の一揆訴訟原告から2名が当選。

昨日(8月3日)、岩手県海区漁業調整委員会委員選挙の投開票。浜の一揆衆から立候補したお二人(菅野修一・藏?平)がみごとに当選した。立派なものだ。たいしたものだ。これで、三陸の浜の空気が少し変わるのではないか。もしかしたら県の水産行政も。

定数9の選挙。事前に浜の一揆から2人立候補の予定が明らかになると、どこからかの天の声で、立候補予定者は合計11名の「2人はみ出し選挙」になる模様と伝えられた。ところが、直前に候補予定者1人が下りて、1人はみ出し選挙となった。1人はみ出し選挙では、当選のための必要得票数がもっとも高くなる。

しかし、心配の必要はなかった。結果は以下のとおりである。

 大井 誠治          1,130
 前川 健吾          1,015
 小川原 泉            951
 久慈市漁業協同組合     753
 菅野 修一            676
 吉浜漁業協同組合       593
 大船渡市漁業協同組合    538
 藏 ?平             365
 原子内 辰巳          325
 JF三陸やまだ          256

投票率は68.68%、投票者総数は6,602票だった。
なお、菅野・藏の両名を除く全候補が、漁協そのものか、漁協の組合長である。いわば、漁協の締め付けの中での選挙戦。浜の一揆訴訟の原告数は100人だから、その10倍の票の獲得は実はたいしたものなのだ。

新しい委員会では、県漁連会長(大井誠治)を含む漁協幹部7名と生粋の漁民2名(菅野・藏)が対峙する。委員会の傍聴に行ってみたいものだ。もちろん、漁協は一色でなく民主的な運営に成功しているところもある。漁協が一色でないように、新委員全部が一色でもない。中には漁民の声に真摯に耳を傾けてくれる委員もいると聞いている。この点が希望だ。

この選挙の管理は、県と各市町村の選挙管理委員会が行う。原則として、県議選挙に準じて公選法の規定が準用となるが、選挙公営制度適用がない。だから、供託金の制度がない。そして、公選法の選挙運動規制が一部読み替えられて適用になる。いくつか現場からの質問を受け、調べて初めて知った。なかなかに興味深い選挙。

ところで、海区漁業調整委員会とは、漁業法に基づいて各海区(原則1県1海区)に設けられた「漁業調整」の役割を持つ委員会。「漁業調整」は漁業法の中心概念だが、分かったような分からぬような。その定義の規定は法にはない。

漁業調整委員会は、「漁業調整」に関して、都道府県知事への諮問機関・建議機関として機能するとともに、委員会みずからが各種の裁定・指示・認定をおこなう決定機関としても広範で強力な権限をもつ(漁業法)。

漁業界には、「地域対立」「漁種対立」「階層対立」があるという。中で、もっとも根深いのが、「階層対立」。いま、その対立構造は象徴的に、三陸沿岸主力魚種サケの採捕の問題に表れている。

現状は、「漁協+浜の有力者」が大型定置網漁の権利を得て、漁獲を独占している。これに対して、小型漁船で操業する「一般漁民」はサケ漁から閉め出されている。うっかりサケを捕れば刑罰の脅しだ。

元々漁民全体の利益のために設立されたはずの漁協が、大規模定置網漁を自営することによって漁民の生活を圧迫している。これは、本来水協法が予定するところではなかったはず。現状の「漁業調整」のあり方を不当・不合理とし、何とか変えなければならないという発想での海区漁業調整委員会選挙への挑戦である。何よりも漁民と漁協の間の対立を解消して、新たな「漁業調整」秩序を作らなければならない。それには漁民の声が反映されなければならず、それこそが浜の一揆のロマンではないか。
(2016年8月4日)

サケ漁は三陸漁民みんなの憲法上の権利だ。大型定置網漁業者の利益のための不許可処分は違法だ。

浜の一揆の次回期日(8月5日)が迫ってきた。当日陳述予定の当方の準備書面を紹介したいのだが、長いし読むのも面倒。おもしろそうなサワリの部分を3個所読み易くしてみた。原告100人が、岩手県知事を被告として起こした、「サケ刺し網漁不許可処分取消請求事件」である。この3個所をつなげば、法律的な主張の骨格が見えてくる。

☆本件各固定式刺し網によるサケ採捕許可申請に対する被告岩県知事の不許可処分を違法とする根拠は大要以下のとおりである。
(1) サケを含む海洋の水産資源は無主の動産であって、その採捕は本来何人も自由になし得るところである。漁民が継続反復してサケを業として採捕して生計を営むことは、憲法22条1項の営業の自由に該当する経済的基本権の行使として保障されなければならない。
(2) 漁業法ならびに水産資源保護法は特別の定めを置き、「漁業調整」(漁業法65条1項)または「水産資源の保護培養」(水産資源保護法4条1項)の必要あるときに限って、これを一般的に禁止したうえ、申請によって各都道府県知事が許可することによってこの禁止を解除する制度を設けることを認めた。
(3) この両法の委任を受けた岩手県漁業調整規則7条および23条が、サケを含む魚種の固定式刺し網漁を一般的に禁止して、個別の申請による許可の手続を定めている。
(4) 原告らは、岩手県漁業調整規則に基づいて一般的に禁止されている固定式刺し網によるサケ漁について、同じく岩手県漁業調整規則に基づく手続をもって許可を求めたものである。
 原告らの憲法上の権利が軽々に制約されてはならず、飽くまでも許可が原則でなくてはならない。
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☆漁民が、いかなる漁法でいかなる魚種を採捕するかは本来自由である。原告ら沿岸の漁民が固定式刺し網の漁法で、三陸沿岸漁業の主力魚種であるサケの採捕を行うことで生計を立てることは憲法上の基本権たる、営業の自由に属することで、これを禁止することは、憲法上の基本権の重大な制約に当たるものとして、軽々になし得るものではない。
☆営業の自由に対する制約が軽々になし得るものでないことは、古典的なリーディングケースとなった最高裁判所大法廷判決(1975(昭和50)年4月30日)の判示するところとしてよく知られている。薬事法の薬局距離制限規定を違憲として、「薬局開設の許可申請に対する不許可処分を違法」と判断したものである。
同判決の結論は、15人の裁判官全員一致の判断で、「薬局の開設等の許可基準の一つとして地域的制限を定めた薬事法6条2項、4項(これらを準用する同法26条2項)は、不良医薬品の供給の防止等の目的のために必要かつ合理的な規制を定めたものということができないから、憲法22条1項に違反し、無効である。」というものである。
☆判決は、薬事法の薬局距離制限規定における「規制目的」を行政庁の主張から確認した上、当該の法の規制目的に照らして、当該距離制限規制が「必要かつ合理的な規制手段とは言えない」から違憲とし、それゆえ当該薬局開設不許可処分を違法と判断して取り消したものである。
☆同判決は、「目的と手段の均衡」が確保され、かつ「他の方法での目的の達成が不可能」な場合でなければ、必要かつ合理的な制約とは言えず、国民の営業の自由を不当に侵害して違憲という判断なのである。
☆本件では、大上段に不許可処分を違憲と主張するものではない。漁業法、水産資源保護法および水産業協同組合法の立法趣旨に照らして、各不許可処分を違法とする判断で十分という立場である。しかし、本件における各処分を違法とする判断の枠組みは、最高裁大法廷判決の違憲判断枠組みをそのまま援用することが可能である。本件における被告行政庁の主張は、「目的と手段の均衡」についても、「他の方法での目的の達成が不可能」に関しても、これを要証事実として主張・挙証の責めを尽くしたものではないことが明らかである。それゆえ、法が期待する重要な公共の利益のために必要かつ合理的な措置であるとは言えず、不許可処分は違法を免れない、というべきなのである。
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被告(岩手県知事)は、原告ら漁民に固定式刺し網によるサケの採捕を禁止している理由について、ごく概括的に下記4点を挙げている。。
?「サケの固定式刺し網漁業が、サケ産業を自然の回遊魚の採捕ではなく各地漁協中心の孵化放流と定置網漁業の方式で振興している当県においては、定置網漁業者との漁業調整上の深刻な摩擦を生じる」
?「仮に被告がサケの固定式刺し網漁業を解禁すれば、原告らに限らず膨大な数の漁業者が参入し、漁業調整や資源保護の見地から深刻な問題が生じる」
?「固定式刺し網漁業により採捕されたサケは海産親魚として利用できず、種卵確保が困難となり資源減少の見地からも推奨できない」
?「他道県との漁業調整上の問題も生じること」
以上の???が漁業調整の必要の有無にかかわる問題で、調整を要する関係は、?が原告ら「零細漁民」と「漁協中心の定置網漁業者」、?は「漁業者間」、?が岩手県と他道県、そして??が資源保護の問題、だということになる。

被告の真の関心とホンネは、?にある。他は些細な問題であり、容易に解決可能である。原告らの本件サケ採捕を認めるとすれば、「定置網漁業者との漁業調整上の深刻な摩擦を生じる」というのは不正確で、「定置網業者の利益を損なう」という表現が正しい。被告岩手県の水産行政は、あからさまに「定置網業者の利益を守る」ために、原告ら零細漁民のサケ漁解禁の要求を封じ込めているのである。「摩擦」は既に生じている。次第に「摩擦」は大きくなりつつあり、行政がサケ漁解禁の政策に転換するまで止むことはない。
被告は、「各地漁協中心の孵化放流と定置網漁業の方式で振興している当県」という言い回しで、岩手県の水産行政がサケの定置網漁業を振興しているのだから、これを擁護して深刻な摩擦を生じないように、原告ら零細漁民に固定式刺し網によるサケの採捕を禁じている、と露骨に述べたのである。これは、原告らにとっては、甚だしい行政の不公平であり、不正義である。
被告の言い回しの中には弁明が含まれている。「孵化放流」と「漁協中心」のキーワードがこれに当たる。しかし、両者とも弁明たり得ない。
サケの「孵化放流」は国や県の補助事業としてなされている。多額の税金が注ぎ込まれている。もちろん、原告らも担税者である。にもかかわらず、「孵化放流」事業の成果たるサケ成魚の採捕は定置網業者の独占するところとなり、原告らに利益が還元されるところはない。
また、「各地漁協中心の定置網漁業者」という微妙な言い方は、定置網漁業者が漁協に限られず、浜の有力者が好位置の定置網漁で巨額の利益を得ていることをカムフラージュしたいからである。
さらに、漁協が定置網漁を自営することの問題性も避けて通れない。本来、漁協は漁民集団の利益を擁護するための互助組織である。その漁協が、漁協組合員である漁民の営業を圧迫する態様での営業をすることは許されることではない。
水産業協同組合法4条は、(組合の目的)と題して、「組合は、その行う事業によつてその組合員…のために直接の奉仕をすることを目的とする」と定める。
漁協の任務は、飽くまでも「組合員のために直接の奉仕をすること」である。漁協が、組合員と利益相反する事業を行い、組合員の事業を圧迫するなどは本来あってはならないことなのである。
現実の事態は深刻である。漁協が大事業体となって大がかりな定置網漁を行って、サケ漁を独占し、その定置網漁の利益を損ねるからということで、原告ら漁民のサケ漁が禁止されている。本来中立でなければならない行政が、「各地漁協中心の定置網漁業者」を援護して原告らの許可申請を懸命に防止しているのである。
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古くから、漁業界では「浜の封建制」が問題となってきた。戦後漁業法は、経済民主化政策の大きな目玉のひとつとして制定され、第1条 (この法律の目的)に、「漁業の民主化を図ることを目的とする」と書き込まれたことで知られる。併せて、水産業協同組合法や海区漁業調整委員会の制度なども作られたが、「三つの対立」構造の克服が困難と言われ続けてきた。
「三つの対立」とは、地域対立、業種対立、そして階層対立である。階層対立の構造は根深く、結局はかつての浜の有力者が漁協の組合長や幹部となって権益を握る構図が各所に伏在している。原告ら100人は、このような「浜の封建制」と闘っているのである。
(2016年8月1日)

「浜の一揆」から、岩手海区漁業調整委員会選挙への挑戦

海区漁業調整委員会という行政委員会があることをご存じだろうか。

戦後経済民主化の一環として成立した漁業法は、第一条(目的)に、「この法律は、漁業生産に関する基本的制度を定め、漁業者及び漁業従事者を主体とする漁業調整機構の運用によつて水面を総合的に利用し、もつて漁業生産力を発展させ、あわせて漁業の民主化を図ることを目的とする」と定める。条文の中に盛り込まれた、「漁業の民主化」という言葉がまぶしい。

この条文中の「漁業者及び漁業従事者を主体とする漁業調整機構」が3種類の漁業調整委員会で、その中核をなすものが、海区漁業調整委員会である。各県1海区を基本とし、北海道11海区、長崎県4海区などいくつかの例外があって、計64海区とされている。

戦後民主主義の理念を背負った行政委員会だが、教育委員会や農業委員会と同様に、「民主化」の香りは色褪せてきたと言わざるを得ない。しかし、制度が残っている以上は活性化のチャンスがあるということだ。

「浜の一揆」を闘う岩手沿岸の漁民が、岩手海区漁業調整委員会の選挙に挑戦している。恒例では候補者は漁連会長や大きな漁協の会長ばかり。前回4年前に初めて藏さんが無投票で委員の一角を占めた。今回は選挙となる。昨・7月25日告示で、8月3日が投票日。有権者総数は9979名。公選委員の定数は9。これに、北(洋野町)と南(陸前高田)の一揆衆が、票田を分けて二人立候補した。カラー4頁の実に立派な選挙ビラを見せていただいた。メインのスローガンが「暮らせる漁業で地域を守る」「若者と現役が希望のもてる漁業を」。そして、「資源管理型の漁業調整へ」という具体的な選挙政策もバッチリ。何よりも、表紙を飾る漁師姿のお二人の顔写真が秀逸。その面構えが見事だ。一人、1000票を獲得すれば当選できるという。

下記は、私からのお二人を激励するメッセージ。
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藏?平、菅野修一両候補への激励メッセージ
 美しいタテマエ
が、実は醜い実態をおおい隠すベールでしかないのが、この世の現実。
 昔、富国強兵の時代には、「君のため国のための滅私奉公」が臣民の美徳と教えられた。結局のところ、滅私奉公は、財閥や大地主や浜の有力者に利益をもたらす労働を美化するタテマエに過ぎなかったではないか。
 今、漁業の民主化も、漁協中心主義も、同じことではないだろうか。選挙も民主主義も、美しいタテマエに過ぎないのではないか。選挙によって、本当に漁民の利益を代表する者が当選しているのだろうか。海区漁業調整委員会に公選委員9人が席を占めているから、民主的な運営がなされていると言えるのか。海区漁業調整委員会が漁民のための民主的な組織というのはタテマエだけの話で、その実態は、漁連や漁協や浜の有力者の利益を擁護するための運営となって、一般漁民の立場を代弁する意見は無視されているのが実態ではないか。

 問題の根源は、漁連や漁協や浜の有力者たちの利益と、浜で働く一般漁民の利益とが、必ずしも一致していないところにある。サケの漁を定置網漁独占として利益を得続けたい既得権者と、サケ漁を零細漁民にも開放せよという一般漁民が、海区漁業調整委員会の席で、真に民主的に議論したことが一度でもあるだろうか。大目流し網漁の操業期間や漁区制限についても同じことだ。TAC(漁獲総量規制)やIQ(漁区漁割当制度)などの、漁民の生き残りをかけた新制度の提案についても議論があってしかるべきではないか。

 漁業の民主化とは、何よりも自ら漁に出ている現場の漁師の声を行政に反映させることでなくてはならない。現場で漁師として働く者でなければ、公平で持続的な漁業の知恵は出てこない。切実に後継者の育成を望む立場であればこそ、真剣に乱獲に歯止めをかけ、資源保護に取り組むことにもなる。

 漁業の民主化をあきらめてはならない。美しい言葉だけのタテマエに終わらせてはならない。漁業の現場から、現役漁師として声を上げた藏?平、菅野修一両候補に精一杯の声援を送りたい。必ずや、多くの一般漁民の声に耳を傾けて、一般漁民の利益に直結する漁業行政への転換の第一歩を築く働きをしてくれるはずだ。
   がんばれ 藏さん!
   がんばれ 菅野さん!
(2016年7月26日)

浜の一揆訴訟が問いかけるものー「21世紀の水産を考える会」総会での報告

「NPO法人21世紀の水産を考える会」の年次総会にお招きいただき、浜の一揆訴訟についてお話しする機会をいただいたことに感謝いたします。

この運動、この訴訟について、是非とも多くの人に知ってもらいたいのです。しかし、岩手の地元メディアは紹介に冷淡です。行政や漁連に遠慮をしているのではないかといういぶかしさを拭えません。漁民自身が、「生活を守ろう」「後継者を確保して漁業を継続しよう」と立ち上がっていることに、もっと大きな関心をもって話題にしてもらいたいところです。

私は、この漁民の運動を、幕末の三閉伊一揆と同様の理不尽な支配構造への抵抗運動だととらえています。そのことをご理解いただきたくて、別紙のようにレジメはつくってまいりました。ところが、本日の総会に配布された、貴会の機関誌「日本人とさかな」33号に、トピックス「浜一揆提訴報告(岩手県サケ漁業権裁判)」が掲載されています。目を通して見ますとこれがなかなかによくできている。無味乾燥なKレジメよりよっぽど面白い。私が今日お話ししようと思ったことは、あらかたここに書いてある。実はこれ、私のブログの転載記事なのです。

「漁業で生活できる行政を」―浜の一揆訴訟の第3回法廷
  https://article9.jp/wordpress/?p=6902

3頁にわたるかなりの長文ですが、さわりは次の文章。

「(1月14日法廷後の)報告集会では、いくつもの印象的な発言があった。
『サケがとれるかどうかは死活問題だし、今のままでは後継者が育たない。どうして、行政はわれわれの声に耳を傾けてくれないのだろうか。』『昔はわれわれもサケを獲っていた。突然とれなくなったのは平成2年からだ。』『いまでも県境を越えた宮城の漁民が目の前で、固定式刺し網でサケを獲っているではないか。どうして岩手だけが定置網に独占させ、漁民が目の前のサケを捕れないのか』『大規模に定置網をやっているのは浜の有力者と漁協だ。有力者の定置網漁は論外として、漁協ならよいとはならない。』『定置網漁自営を始めたことも、稚魚の放流事業も、漁民全体の利益のためとして始められたはず。それが、漁協存続のための自営定置となり、放流事業となってしまっている。漁民の生活や後継者問題よりも漁協の存続が大事という発想が間違っていると思う』

帰りの車内で、これはかなり根の深い問題なのではないかと思い至った。普遍性の高いイデオロギー論争のテーマと言ってよいのではなかろうか。

岩手県水産行政の一般漁民に対するサケ漁禁止の措置。岩手県側の言い分にまったく理のないはずはない。幕末の南部藩にも、天皇制政府にも、その政策には当然にそれなりの「理」(正義)があった。その「理」と、岩手県水産行政の「理」とどう違うのだろうか。あるいは同じなのだろうか。

私は現在の県政の方針を、南部藩政の御触にたとえてきた。定めし、高札にこう書いてあるのだ。

『今般領内沿岸のサケ漁の儀は、藩が格別に特許を与えた者以外には一律に禁止する』
『これまで漁民の中にはサケを獲って生計を立てる者があったと聞くが、今後漁民がサケを獲ること一切まかりならぬ』
『密漁は厳しく詮議し、禁を犯したる者の漁船漁具を取り上げ、入牢6月を申しつくるものなり』
これに対する漁民の抵抗だから、『浜の一揆』なのだ。

しかし、当時の藩政も「理」のないお触れを出すはずはない。すべてのお触れにも高札にも、それなりの「理」はあったのだ。「理」は「正義」と言い換えてもよい。まずは「藩の利益=領民全体の利益」という「公益」論の「理」(正義)が考えられる。

漁民にサケを獲らせては、貴重なサケ資源が私益にむさぼられることになるのみ。サケは公が管理してこそ、領民全体が潤うことになる。公が管理することとなればサケ漁獲の利益が直接に漁民に配分されることにはならないが、藩が潤うことはやがて下々にトリクルダウンするのだ。年貢や賦役の軽減にもつながる。これこそ、ご政道の公平というものだ、という「理」(正義)である。

天皇制政府も、個人の私益を捨てて公益のために奉仕するよう滅私奉公を説いた。その究極が、「命を捨てよ国のため、等しく神と祀られて、御代をぞ安く守るべき」という靖國の精神である。「君のため国のため」「お国のため」の滅私奉公が美徳とされ、個人の私益追求は悪徳とされた。個人にサケを獲らせるのではなく、公がサケ漁を独占することに違和感のない時代であった。

また、現状こそがあるべき秩序だという「理」(正義)があろう。『存在するものはすべて合理的である』とは、常に聞かされてきた保守派のフレーズだ。現状がこうなっているのは、それなりの合理的な理由と必然性があってのこと。軽々に現状を変えるべきではない。これは、現状の政策の矛盾を見たくない、見ようともしない者の常套句だ。もちろん、現状で利益に与っている者にとっては、その「利」を「理」の形にカムフラージュしているだけのことではあるが。

現行の岩手県水産行政は、藩政や明治憲法の時代とは違うという反論は、当然にあるだろう。一つは、漁協は民主的な漁民の自治組織なのだから漁協の漁獲独占には合理性がある、というもの。この論法、原告の漁民たちには鼻先であしらわれて、まったく通じない。よく考えると、この理屈、個人よりも家が大切。社員よりも会社が大事。住民よりも自治体が。国民よりも国家に価値あり。という論法と軌を一にするものではないか。個人の漁の権利を漁協が取り上げ、漁協存続のためのサケ漁独占となっているのが現状なのだ。漁協栄えて漁民亡ぶの本末転倒の図なのである。

また、現状こそが民主的に構成された秩序なのだという「理」(正義)もあろう。まずは行政は地方自治制度のもと民意に支えられている。その民主的に選出された知事による行政、しかも民主的な議会によるチェックも、漁業調整委員会という漁民によるチェックもある。その行政が、正当な手続で決めたことである。なんの間違いがあろうか。そういう気分が、地元メデイアの中にもあるように見受けられる。そのような社会だから、漁民が苦労を強いられることになるのだ。」

以上のことで、私が本日申しあげたいことは尽きているのですが、あらためて整理すれば以下の3点ほどのことになります。

まずは、浜の一揆訴訟では、漁民らは憲法上の権利の実現を要求しているのであって、「お代官様のお情けにおすがりして、サケをとらせていただくよう特別の許可をお願いしているのではない」ということ。

しかも、漁民らの要求は生活の維持のための切実なもので、生存と後継者維持の立場から不可欠なものとして尊重されなければならないこと。

これに対抗して、漁民のサケ漁の権利を制約してもよいとする岩手県知事の側の根拠がおよそ薄弱であること。中でも、漁協中心主義の漁業政策に納得できるような根拠は見出し難いこと。

このことをお話しするために準備したレジメは以下のとおりです。

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はじめに

三陸沿岸の漁民は、予てから沿岸で秋サケの採捕を禁じられていることの不合理を不満とし、これまで岩手県水産行政に請願や陳情を重ねてきたが、なんの進展もみませんでした。とりわけ、3・11の被災後はこの不合理を耐えがたいものと感じることとなり、2015年11月5日、100人の漁民が岩手県(知事)を被告として、盛岡地裁に行政訴訟を提起しました。原告らは、これを「浜の一揆」訴
訟と呼んでいます。

訴訟における請求の内容は、県知事の行った「サケ採捕申請不許可処分」の取消と、知事に対する「各漁民のサケ採捕申請許可」義務付けを求めるものです。
 小型漁船で零細な漁業を営む漁民に「サケを獲らせろ」という要求の実現を目指すもので、このことは、「漁民を保護して、漁業がなり立つ手立てを講じよ」という行政への批判と、「後継者が育つ漁業」をという切実な願いを背景にするものです。本件は県政の水産行政のあり方を問うとともに、地域の民主主義のあり方を問う訴訟でもあります。また、3・11被災後の沿岸漁業と地域経済の復興にも、重大な影響をもつものとも考えています。

? 訴訟の概要
第1 経過概要
 1 県知事宛許可申請⇒小型漁船による固定式刺し網漁のサケ採捕許可申請
    2014年9月30日 第1次申請
    2014年11月4日 第2次申請
    2015年1月30日 第3次申請
 2 不許可決定(102名に対するもの)
    2015年6月12日 岩手県知事・不許可決定(277号・278号)
     *277号は、固定式刺し網漁の許可を得ている者  53名
     *278号は、固定式刺し網漁の許可を得ていない者 49名
 3 審査請求
    2015年7月29日 農水大臣宛審査請求(102名)
    2015年9月17日 県側からの弁明書提出
    2015年10月30日 審査請求の翌日から3か月を経過
 4 提訴と訴訟の経過
    2015年11月5日 岩手県知事を被告とする行政訴訟の提起(100名)
    2016年1月14日 第1回法廷 瀧澤さん意見陳述 訴状・答弁書陳述
    2016年3月11日 第2回法廷 
    2016年5月20日 第3回法廷 
    2016年8月05日 次回第4回法廷(予定)

第2 訴訟の提訴の内容
 1 当事者 原告 三陸沿岸の小型漁船漁業を営む一般漁民100名
          (すべて許可申請・不許可・審査請求の手続を経ている者)
         被告 岩手県(処分庁 岩手県知事達増拓也) 
 2 請求の内容
   *知事の不許可処分(277号・278号)を取消せ
     *277号処分原告(既に固定式刺し網漁の許可を得ている者) 51名
     *278号処分原告(固定式刺し網漁の許可を得ていない者)  49名
   *知事に対するサケ漁許可の義務づけ(全原告について)
    「年間10トンの漁獲量を上限とするサケの採捕を目的とする固定式刺網漁業許可申請について、申請のとおりの許可をせよ。」

第3 争点の概略
1 処分取消請求における、知事のした不許可処分の違法の有無
(1) 手続的違法
  行政手続法は、行政処分に理由の付記を要求している。付記すべき理由とは、形式的なもの(適用法条を示すだけ)では足りず、実質的な不許可の根拠を記載しなければならない。それを欠けば違法として取消理由となる。ましてや、本来国民の自由な行為を一般的に禁止したうえ、申請に従って個別に解除して本来の自由を回復すべき局面においては、飽くまでも許可が原則であって、不許可として自由を制約するには、合理性と必要性を備えた理由が要求される。その具体的な理由の付記を欠いた本件不許可処分はそれだけで手続的に違法である。
  本件不許可処分には、「内部の取扱方針でそう決めたから」というだけで、まったく実質的な理由が書かれていない。
(2) 実質的違法
  法は、申請あれば許可処分を原則としているが、許可障害事由ある場合には不許可処分となる。下記2点がサケ採捕の許可申請に対する障害事由として認められるか。飽くまで、主張・立証の責任は岩手県側にある。
  ?漁業調整の必要←漁業法65条1項
  ?水産資源の保護培養の必要←水産資源保護法4条1項
2 義務づけの要件の有無 上記1と表裏一体。 
3 原被告間の議論はまだ噛み合ったものとなっていない。

? 何が争われているのか
第1 漁民のサケ採捕は憲法上の権利である。これを制限しうるのか。
1 憲法22条1項は営業の自由を保障している。
    ⇒漁民がサケの漁をすることは原則として自由(憲法上の権利)
    ⇒自由の制限には、合理性・必要性に支えられた理由がなくてはならない。
  *漁業法65条1項は、「漁業調整」の必要あれば、
   水産資源保護法4条1項は、水産資源の保護培養の必要あれば、
    「知事の許可を受けなければならないこととすることができる。」
  *岩手県漁業調整規則23条
   「知事は、「漁業調整」又は「水産資源の保護培養」のため必要があると認める場合は、漁業の認可をしない。」
   ⇒県知事が、「漁業調整」「水産資源の保護培養」の必要性について
      具体的な事由を提示し、証明しなければならない。
2 海洋の資源は原則として無主物であって、これを採捕(採取と捕獲を併せた立法上の造語)することは本来的に自由である。採捕を業として行うことは、営業の自由(憲法22条1項)に属する基本権として保障されている。
  憲法上の基本権が、無制限な自由ではなく、「公共の福祉」による内在的な制約に服すべきことは当然としても、原則が自由であることは、その制約には、首肯しうるだけの、制約の必要性と合理性を根拠づける理由がなくてはならない。
3 原告は、自らの憲法上の権利を制約する行政庁の不許可処分を特定して、これを違法と主張しているのである。権利を制約した側の被告行政庁において、その適法性の根拠を主張し挙証する責めを負うべきは当然である。
4 原告の営業の自由を制約する法律上の根拠は、漁業法65条1項にいう「漁業調整の必要」と、水産資源保護法4条1項にいう「資源の保護培養の必要」以外にはない。岩手県漁業調整規則23条1項3号は、この両者を取り込んで「知事は、漁業調整又は水産資源の保護培養のため必要があると認める場合は起業の認可をしない」としている。
5 だから、本来被告は「漁業調整又は水産資源の保護培養のための必要」に当たる具体的事実を主張しなければならない。しかも、「憲法上の権利を制約する根拠として」十分な、必要性・合理性を基礎づけるものでなくてはならない。
6 ところが、被告は自らした不許可処分の適法性の根拠について語るところはなく、もっぱら内規として取り決めた「取扱方針」によるとだけ主張して、具体的な根拠事実を主張しようとしない。原告に許可を与えれば漁業調整や水産資源の保護に不都合が生じる根拠となる具体的な事実についてはまったく主張しようとしない。「庁内で作成した「取扱方針」(2002年制定)にそう書いてあるから」というだけ。しかも、知事が適用している「取扱方針」の条項は、「固定式刺し網漁不許可」に関するもので、「サケ漁の許可」に関するものではない。51名の原告は「固定式刺し網漁不許可」は既に得ているので、被告(知事)の不許可処分の理由は、論理的に破綻している。

第2 漁協中心主義は漁民の権利を制約しうるか。
1 漁業法にいう、漁業の民主化とはなにか。
  零細の個々の漁民の権利にこそ配慮することではないか。漁協の営業のために、漁民の営業を圧迫することは「民主化」への逆行である。
2 漁民あっての漁協であって、漁協あっての漁民ではない。
  主客の店頭は、お国のための滅私奉公と同様の全体主義的発想ではないか。
3 結局は、浜の有力者に奉仕する漁業行政の「カムフラージュの理論」ではないか。
            以 上
(2016年6月25日)  

「漁業で生活できる行政を」―浜の一揆訴訟の第3回法廷

本日は、風薫る盛岡で、浜の一揆訴訟の第3回法廷。地域によってはウニの口開けと重なったとのことだったが、30人の原告が法廷を埋め、報告集会も意気盛んなものとなった。

本日も、法廷では堂々の原告意見陳述があった。かつての三閉伊一揆発祥の地、田野畑村の延縄漁師が、「延縄では漁業を続けることができない。ぜひとも、固定式刺し網でのサケ漁の許可が必要なのだ」という内容。迫力に満ちたものだった。

法廷での陳述は、文章にして読めば分かる、というものではない。生身の人間の発声を通じての訴えは、重く心に響く。真摯さや切実さが伝わってくる。ブログでは伝わらないものもあるが、ご紹介したい。

田野畑村で漁船漁業を営んでおります。昭和33年8月生まれの私は、岩手県立 岩泉高校 田野畑校卒業と同時に、八戸市の水産会社に就職。最初の1年は日本近海を操業。2年目からはニュージーランド等、外国遠海までイカつり操業に従事しました。4年後には茨城県の水産会社に移り、2年間まき網船に乗り、機関助手として働きました。そして沖縄県に本社のある水産会社で現場が八戸市にある沖防波堤工事の作業船に一年ほど乗船しました。

その後、 村に帰って田野畑村漁業協同組合の大型定置網に従事。 一年後の昭和59年、25歳で結婚。所帯をもってからは、漁協理事を兼務する父親と一緒に、養殖の塩蔵ボイルワカメとサケ延え縄漁、そしてカゴ漁でタコを取って生計を維持してきました。父親と二人でしたから、最盛期にはサケ延え縄漁だけで900万円を超す収入もあり、最高収益の賞状を漁協からもらったことも2回あります。この間、3歳ちがいの娘2人を育て、双方とも高校まで卒業させてきました。

5年前の東日本大震災では、小型漁船は沖に避難して何とか助けました。 しかしサッパ船や、1.5トントラック、養殖ワカメの施設、サケ延え縄の諸道具、カゴ漁などの諸施設等一切を流失してしまいました。しかし、何としても生きなければならないために、サケ延え縄漁とカゴ縄だけは、隣り近所からの援助もいただきながら再開しました。こうして、震災1年目から何とか生活できるだけの収入は、かろうじて確保しました。

震災1年目の延え縄の水揚げは、およそ200万円でした。2年目は思いがけなく約700万円の豊漁でした。ところが3年目は、1年目よりもわずかに上回る250万円前後。そして今年は50万円にも届かない40万円ほどで、本当に何ともなりません。延え縄漁については、収入が多くても少なくても経費はほとんど変わらずに50万円前後です。サケ延え縄漁では、どうしても食べていけないのが現実なのです。
大震災のあった平成23年3月11日の2カ月後に、久慈市に住んでいる長女に初孫が生まれ、その時はお祝いをすることができました。でも、昨年2人目の誕生には、可愛さ・喜びは同じでも、満足できるお祝いすら与えることができませんでした。

田野畑漁協管内のサケ延え縄に従事する漁師は、従来50隻以上の出漁でしたが、今ではたった7隻しかありません。こういう状況の中で、三陸沿岸で漁業を続けていくためにはどうしてもサケ刺網漁の許可をえなければならず、それ以外には漁業を続けていく方法がありません。漁師として生きていくために、私は100人の原告の一人として名前を連ねています。

生き残った私の小型船で、どうかサケ刺し網漁ができるよう、裁判官の皆様におかれましては実情をしっかりとお汲み取りいただき、適切なご判断をいただきますよう、どうぞ宜しくお願い致します。
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訴訟の進展は、下記の段階。
訴状⇒答弁書⇒原告準備書面(1)⇒被告第1準備書面⇒原告準備書面(2)

だが、原被告間の議論はまだ噛み合ったものとなっていない。原告の主張の概要は次のようなものである。

海洋の資源は原則として無主物であって、これを採捕(採取と捕獲を併せた立法上の造語)することは本来的に自由である。採捕を業として行うことは、営業の自由(憲法22条1項)に属する基本権として保障されている。
憲法上の基本権が、無制限な自由ではなく、「公共の福祉」による内在的な制約に服すべきことは当然としても、原則が自由であることは、その制約には、首肯しうるだけの、制約の必要性と合理性を根拠づける理由がなくてはならない。
原告は、自らの憲法上の権利を制約する行政庁の不許可処分を特定して、これを違法と主張しているのである。権利を制約した側の被告行政庁において、その適法性の根拠を主張し挙証する責めを負うべきは当然である。

原告の営業の自由を制約する法律上の根拠は、漁業法65条1項にいう「漁業調整の必要」と、水産資源保護法4条1項にいう「資源の保護培養の必要」以外にはない。岩手県漁業調整規則23条1項3号は、この両者を取り込んで「知事は、漁業調整又は水産資源の保護培養のため必要があると認める場合は起業の認可をしない」としている。

だから、被告は「漁業調整又は水産資源の保護培養のための必要」に当たる具体的事実を主張しなければならない。しかし、被告は自らした不許可処分の適法性の根拠について語るところはなく、もっぱら内規として取り決めた「取扱方針」によるとだけ主張して、具体的な根拠事実を主張しようとしない。原告に許可を与えれば漁業調整や水産資源の保護に不都合が生じる根拠となる具体的な事実についてはまったく主張しようとしない。

また、行政処分には理由の付記が不可欠であって、それを欠けば違法として取消理由となる。ましてや、本来国民の自由な行為を一般的に禁止したうえ、申請に従って個別に解除して本来の自由を回復すべき局面においては、飽くまでも許可が原則であって、不許可として自由を制約するには、合理性と必要性を備えた理由が要求される。その具体的な理由の付記を欠いた本件不許可処分はそれだけで手続的に違法である。

被告は、以上の原告主張に的確な対応をしていない。9項目の求釈明にも、真摯な回答をしようとしない。

本日の法廷では、裁判所から被告に対して、次のような指示があった。
「被告第1準備書面の2頁に、『被告知事は、原告らの固定式刺し網漁業の許可申請に対し、規則23条1項3号の上記規定(抽象的な規定内容)をそのまま解釈・適用して本件各不許可処分を行ったのではなく、同号の定め(漁業調整又は水産資源の保護培養の必要)を個別の漁業などの実情に応じて具体化した規程(審査基準。行政手続法5条)である取扱方針(乙2)を適用して許可の当否を判断したのである』と記載されていますが、『個別の漁業などの実情に応じて具体化した』とはどういうことなのか、その内容をもっと具体的に述べていただきたい。原告の反論や求釈明も同じ趣旨だと思われますので、次回までに被告の側でその点を明らかにしてください」

原告が指摘したとおりの裁判所の理解。浜の一揆、訴訟の進行は順調である。
(2016年5月20日)

3月11日津波のあとに漁師になることを決意してくれた息子が継承できる漁業をー「浜の一揆訴訟」法廷で

3月11日である。この日が、特別の感慨をもって語り合われるようになってから、今日が5回目の「3・11」。この日私は、沿岸の漁民の皆さんと盛岡にいた。午後2時46分、集会を中断して一分間の黙祷を捧げた。今日は、何よりも鎮魂の日である。

このような特別の日は、「8月15日」以来のこと。その前には、9月1日くらいしか思いうかばない。「3月10日」「6月23日」「8月6日」「8月9日」。そのいずれも絶対に忘れてならぬ鎮魂の日ではあるが、8月15日の敗戦体験に収斂させることが可能だろう。

震災被災の体験は、戦争体験を思い起こさせる。とりわけ原発事故は国策の誤りとしてよく似ている。その反省のあり方、責任の所在の曖昧さは、酷似しているといってよい。

8・15の悲惨な体験の反省は、「再び戦争を繰り返さない」という非戦の誓いとなった。「再び、負けてはならない」「負けないように戦争の準備をしよう」と反省したのではない。3・11の反省も「再び、原発を稼働してはならない」というものであるべきなのだ。「再び事故を起こさないように原発を稼働しよう」「今度は、事故が起こっても、適切に避難できるようにしておこう」などというのは愚の極みではないか。

戦争への反省において寡少なる者は、原発事故への反省にも寡少である。いまだに汚染水処理もできず、「トイレのないマンション」状態も未解決のまま。それでも、福島第1原発の爆発やメルトダウンの恐怖を忘れ、「アンダー・コントロール」だの「ブロック」だのと強弁して再稼働を進め、さらには原発の輸出までしようという政権の神経に暗澹たる思いである。こんな政権を放置し、許しておいてよいのか。

幸いにして岩手には原発はない。しかし、津波の被害の甚大さは語り尽くせない。いまだに復興は遅々として進まない。本日の盛岡での集会で、今日の東京新聞の次の記事が話題となった。
「岩手県では、沿岸の全12市町村で人口が減少。復興の進み具合で自治体間に差がついている現状が浮き彫りになった。首都大学東京の山下祐介准教授は、『5年たっても完了しない復興政策は失敗』と生活再建の遅れを問題視する。『ボタンを掛け違えたまま同じ路線で政策を進めても傷口を広げるだけで、被災者のためにはならない』と厳しい見方を示した」

「ボタンを掛け違えたまま同じ路線で政策を進めても傷口を広げるだけ」という指摘が、胸に響く。浜の一揆訴訟では、「小型漁船の漁師にもサケを獲らせろ」という沿岸漁民の切実な要請に、県の水産行政は、旧来の政策を固守しようとしている。「ボタンを掛け違えたまま同じ路線で政策を進めて」いるのだ。

本日の浜の一揆訴訟第2回法廷で、原告の一人である漁師(70歳)が、次の通りの堂々の意見陳述をした。

陸前高田市小友町の漁師です。中学をあがってすぐ漁師になりました。北洋サケマス,サンマ巻網など、様々な漁をやってきました。その中でも長年やってきたのは、小型漁船漁業です。ドンコ,スイ,カレイなどの小魚を採って暮らしてきましたが、今では到底生活できません。

 5年前の3月11日、自分はカレイの刺網を上げていました。突然、軽トラで砂利道を走っているような振動が来て、何ごとかと思いましたが…。しばらくして地震だと気づき、津波が来るから、沖からさらに沖へと船を出し、岡に上がったのは次の日でした。倉庫は影も形もなく、もちろん漁具はすべて流され、船も2艘消えていました。

これまでのように小魚で生活していけないので、季節ごとに来る回遊魚に頼るしかありません。サケ,タコ,タラ,カニなどです。
 問題は秋です。カゴ漁がダメになります。
 そこで、9月から12月はタラのはえ縄漁をおこなっています。いま、5.5トンの船に乗っています。タラのはえ縄は、水深300メートル?500メートルの海域でおこなわれ、波も高く、風も強い。9.9トンや19トンの船ならばいいのですが、5.5トン程度の船でやるのは命がけです。
 この時期にサケ刺網漁ができれば、そんな危険な思いをしなくてもと、何度思ったかわかりません。サケでいくらかでも収入があれば、9月?12月の漁をつなぐことができます。小型漁船の経費は決して安くはないのです。

 私が漁をしているすぐ近くに宮城県との境があります。隣の宮城県などでは目の前で小型漁船がサケ刺網を堂々としています。宮城県などでは小型漁船に柔軟に対応しています。
 今は定置網に入るサケの漁も減っていますが、放流も行われていて資源も戻りつつあります。規模の小さな小型船舶が採りつくして資源をなくしてしまうとは思えません。
 うちには後継者がいます。23歳になる息子です。津波の恐ろしい波を見ても、私を助けるために会社をやめてまで漁師になる決意をしました。しかし今その息子に、小遣い程度しかあげられません。会社の給料の半分以下かと苦笑いされます。11月に訴えを起こしたときに息子や地元の若い数少ない後継者に言われた言葉は「弁護士の先生や支援してくれる皆さん方と力を合わせて、何とか漁師で生活していけるようにがんばって欲しい」とのことでした。私はその思いを託されて、こうして声をあげています。

 小型漁船漁師の多くは船が小さく、金額が上がるサンマやイサダを採ることは無理です。少し大きい船は無理をしてやってはいますが、規模が格段と違うので、危険と背中合わせです。しかし、その小型漁船漁業者がいるからこそ常に浜は守られているのではないでしょうか?その漁師を守ろうという気持ちが県にはまったくないのでしょうか?
 今私たちは次の世代に、漁業をつないでいかないといけません。
 裁判官の皆さまには、岩手の漁業の未来のためにもサケ刺網漁を許可していただけるようにお願いします。

残念ながら行政は頼りにならない。憲法22条で保障された営業の自由を行政が侵害しているのだ。漁民たちは司法に頼らざるを得ない。侵害された営業の自由の回復のために。
(2016年3月11日)

明日(3月11日)「浜の一揆訴訟」第2回法廷

けっして忘れることができない、あの「3・11」被災の日から、明日(2016年3月11日)が5年目の日となる。たまたま、その日が盛岡地裁での浜の一揆訴訟、第2回口頭弁論の日となった。

盛岡の各メティアに宛てた、取材依頼と記者レクチャー用のレジメを掲載する。
これで、訴訟の現段階までの経過と、意義をご理解いただけるものと思う。

私は1月15日の等ブログに、次の趣旨を書いた。

「被告の反論は当然にありうる。その有力なものは、漁協や漁連は漁民の民主的な自治組織であるのだから、行政が漁協中心主義の政策をとることは正しい、というものである。行政が海区調整委員会の議を経て、漁協に漁獲を独占させ、個別の漁民にはサケの漁獲を禁じているのは、すべて民主的に行われているのでなんの問題もない、というわけだ。

私は、それなりに耳を傾けるべきことではないかと思うのだが、この論法、原告漁民たちには鼻先であしらわれて、まったく通じない。

よく考えると、この理屈、個人よりも家が大切。社員よりも会社が大事。住民よりも自治体が。国民よりも国家に価値あり。という論法と軌を一にするものではないか。個人の漁を漁協が取り上げ、漁協存続のためのサケ漁独占となっているのが岩手沿岸漁業の現状なのだ。漁協栄えて漁民亡ぶの本末転倒の図なのである。

形だけの民主主義は、支配の道具になりはてる。民主主義には、常に命を吹き込まなければならない。いま、三陸の漁民100人がそのような意識で起ち上がって行動している。

これが、「浜の一揆」である。民主主義の覚醒なのだ。
(2016年3月10日) **************************************************************************

盛岡・司法記者クラブ 殿
同 ・県政記者クラブ 殿
                   弁護士 澤藤統一郎
      「浜の一揆」第2回法廷・記者レクチャー・メモ
第1 当日の日程
 東日本大震災5周年の3月11日
 盛岡地裁「浜の一揆」訴訟の第2回法廷のご案内をいたします。
 取材方をよろしくお願いします。
1 三陸沿岸の漁民は、予てから沿岸で秋サケの採捕を禁じられていることの不合理を不満とし、これまで岩手県水産行政に請願や陳情を重ねてきたが、なんの進展もみませんでした。とりわけ、3・11の被災後はこの不合理を耐えがたいものと感じることとなり、昨年11月5日、100人の漁民が岩手県(知事)を被告として、盛岡地裁に行政訴訟を提起しました。原告らは、これを「浜の一揆」訴訟と呼んでいます。
 訴訟における請求の内容は、県知事の行った「サケ採捕申請不許可処分」の取消と、知事に対する「各漁民のサケ採捕申請許可」義務付けを求めるものです。
 小型漁船で零細な漁業を営む漁民に「サケを獲らせろ」という要求の実現を目指すもので、このことは、「漁民を保護して、漁業がなり立つ手立てを講じよ」という行政への批判と、「後継者が育つ漁業」をという切実な願いを背景にするものです。
2 本件は県政の水産行政のあり方を問うとともに、地域の民主主義のあり方を問う訴訟でもあります。また、3・11被災後の沿岸漁業と地域経済の復興にも、重大な影響をもつものとも考えています。
 原告ら漁民は、岩手県民の理解を得たいと願う立場から、県内メティアの取材を希望いたします。
3 スケジュール
  午後1時30分 盛岡地裁301号法廷 第2回口頭弁論
          原告の意見陳述と、代理人陳述があります。
  午後2時 原告ら報告集会 盛岡市勤労福祉会館401号・402号室
        (盛岡市紺屋町2-9  019-654-3480)
   午後2時30分ころ 同所で集会途中で記者会見

第2 経過概要
 1 県知事宛許可申請⇒小型漁船による固定式刺し網漁のサケ採捕許可申請
    2014年9月30日 第1次申請
    2014年11月4日 第2次申請
    2015年1月30日 第3次申請
 2 不許可決定(102名に対するもの)
    2015年6月12日 岩手県知事・不許可決定(277号・278号)
     *277号は、固定式刺し網漁の許可を得ている者  53名
     *278号は、固定式刺し網漁の許可を得ていない者 49名
 3 審査請求
    2015年7月29日 農水大臣宛審査請求(102名)
    2015年9月17日 県側からの弁明書提出
    2015年10月30日 審査請求の翌日から3か月を経過
 4 提訴と訴訟の経過
    2015年11月5日 岩手県知事を被告とする行政訴訟の提起
    2016年1月14日 第1回法廷 瀧澤さん意見陳述 訴状・答弁書陳述
    2016年3月11日(本日) 第2回法廷 戸羽さん意見陳述

第3 提訴の内容
 1 当事者 原告 三陸沿岸の小型漁船漁業を営む一般漁民100名
          (すべて許可申請・不許可・審査請求の手続を経ている者)
         被告 岩手県(処分庁 岩手県知事達増拓也) 
   ☆農林水産大臣の裁決を待たず提訴する者   ⇒100名
   ☆審査請求に対する農林水産大臣の裁決を待つ者⇒  2名
 2 請求の内容
   *知事の不許可処分(277号・278号)を取消せ
     *277号処分原告(既に固定式刺し網漁の許可を得ている者) 51名
     *278号処分原告(固定式刺し網漁の許可を得ていない者)  49名
   *知事に対するサケ漁許可の義務づけ(全原告について)
    「年間10トンの漁獲量を上限とするサケの採捕を目的とする固定式刺網漁業許可申請について、申請のとおりの許可をせよ。」

第4 争点の概略
 1 処分取消請求における、知事のした不許可処分の違法の有無
(1) 手続的違法
    行政手続法は、行政処分に理由の付記を要求している。付記すべき理由とは、形式的なもの(適用法条を示すだけ)では足りず、実質的な不許可の根拠を記載しなければならない。
    しかし、本件不許可処分には、「内部の取扱方針でそう決めたから」というだけで、まったく実質的な理由が書かれていない。
  (2) 実質的違法
    法は、申請あれば許可処分を原則としているが、許可障害事由ある場合には不許可処分となる。下記2点がサケ採捕の許可申請に対する障害事由として認められるか。飽くまで、主張・立証の責任は岩手県側にある。
  ?漁業調整の必要←漁業法65条1項
  ?水産資源の保護培養の必要←水産資源保護法4条1項
 2 義務づけの要件の有無 上記1と表裏一体。 

第5 答弁書の内容
 *訴えの適法性についての問題点の指摘はない。
 *許可申請と不許可の経過、不許可の理由は訴状の主張を認める。
 *争点について、不許可理由は処分時のものを繰り返すだけ。
 *なお、漁業法が言う「漁業の民主化」とは、「漁協・漁連・海区調整委員会の意見を尊重すること」だということが強調されている。

第6 本日陳述の原告準備書面(1)の内容
 1 基本的な考え方
  *憲法22条1項は営業の自由を保障している。
    ⇒漁民がサケの漁をすることは原則として自由(憲法上の権利)
    ⇒自由の制限には、合理性・必要性に支えられた理由がなくてはならない。
  *漁業法65条1項は、「漁業調整」の必要あれば、
   水産資源保護法4条1項は、水産資源の保護培養の必要あれば、
    「知事の許可を受けなければならないこととすることができる。」
  *岩手県漁業調整規則23条
「知事は、「漁業調整」又は「水産資源の保護培養」のため必要があると認める場合は、漁業の認可をしない。」
     ⇒県知事が、「漁業調整」「水産資源の保護培養」の必要性について
      具体的な事由を提示し、証明しなければならない。
 2 ところが、被告(県知事)は、不許可事由として、「漁業調整」「水産資源の保護培養」の必要性にまったく触れるところがない。
   不許可の理由は形式的に「庁内で作成した「取扱方針」(2002年制定)にそう書いてあるから」というだけ。
   この理由付記は最高裁判例が求める要件を欠き、不許可処分が違法となる。
 3 しかも、知事が適用している「取扱方針」の条項は、
   「固定式刺し網漁不許可」に関するもので、「サケ漁の許可」に関するものではない。51名の原告は「固定式刺し網漁不許可」は既に得ているので、被告(知事)の不許可処分の理由は、論理的に破綻している。
 4 原告は、被告に9項目の求釈明をして、回答を求めた。
   回答次第で、審理の進行は大きく変わって来ることになる。
     以 上

高札「領内沿岸の漁民においてサケを漁することまかりならぬ」「密漁は厳しく詮議し、禁を犯したる者には入牢6月を申しつくるものなり」

昨日(1月14日)の「浜の一揆訴訟」の第1回口頭弁論には、三陸沿岸に散らばっている原告100人のうち約40人が参加した。法廷の前と後に集会が行われたが、その要求の切実さ、真剣さにはたじろがざるを得ない。岩手県の水産行政は、この人々の真剣さをどれだけ受け止めているだろうか。

法廷では、原告を代表して瀧澤英喜さんが、以下のとおりの堂々の陳述をした。
「大船渡市三陸町越喜来の瀧澤英喜です。
 私たち、岩手県沿岸全域の小型漁船漁業者は、東日本大震災の津波で船・漁具・住まいなど大きな被害を受けました。生活の再建と漁業の再開、地域の復興のために、日々努力しています。
 私の自宅は海抜50mのところにあるので、震災で家屋敷は無事でした。しかし、船3艘と倉庫・養殖施設・資材が全部被害を受けました。
 このような中でも船をつくり、漁具を入手して、漁を再開しています。今はホタテ養殖を通年、そして季節ごとのカゴ漁をやっています。私たちの仲間は、同じようにカゴ漁や刺し網などをやっています。春先はイサダ、5月はシラス、夏場はタコ、1月はタラ刺網など、季節ごとにとれるものが違います。
 毎年苦労するのは9月から11月です。獲れる魚が激減する時期です。唯一たよりになるのがサケです。サケのように、値段がしっかりしていて、量もとれるものをやれれば、漁業者の意欲につながります。
 ところが、岩手県では「定置網漁」「延縄漁」以外でサケをとることが許可されていません。
 禁止される前は、県内でも多くの小型漁船漁業者がサケを刺網でとっていました。今でも、青森県・宮城県ではとっています。私も、すぐ近くが宮城県のため、宮城の漁師たちがサケを獲っているのをいつも目にしてきています。
 刺網でのサケ漁が禁止になって4?5年は、延縄でサケをとる漁師がたくさんいました。当初はある程度の漁があったのですが、だんだん、とれる量が少なくなってしまいました。燃料代や労力を考えると、延縄でサケをとるのでは、経営的にあいません。現在は、県内では延縄でのサケ漁はほとんどありません。「刺し網でサケを獲れれば」という声は小型漁船漁業者にとって長年の悲願でした。
 うっかり刺網でサケを捕獲すると「密漁」となり、県条例で「6ヶ月以下の懲役、若しくは10万円以下の罰金」に処せられます。漁業許可の取り消しから漁船・漁具の没収まで及ぶ制裁も用意されています。ですから、網にサケがかかれば、もったいなくても海に捨てなければなりません。捨てれば不法投棄となります。実質的に、ほかの魚種をねらった刺網漁もできません。宮城ではサケがとれれば大漁旗をたてて喜ぶのですが、岩手では、サケがとれれば泣く。こんな状況です。
 特に東日本大震災以降、小型漁船漁業者にとって「船はできたが魚をとれない」という切実な問題となっています。
 震災のあと、海の状況が変わってしまい、以前ほど魚がとれなくなっています。現状では、「赤字」か、「ギリギリ赤字にならない程度」の経営内容がほとんどです。それ以上の新しいことをやる資金がまったくありません。もしサケ刺網漁をやれれば、一定の収入が期待できます。その収入をもとに、別の魚種・漁法に手をつけることができます。
 サケをとれれば、後継者が続けて行く展望も持てます。数少ない若手ががんばってやっていますが、このままでは、とても家族を養っていけません。後継者がいる家でも、家に置いて良かったのか、悩みながらやっているのが実際です。
 沿岸の地域・経済を支えてきたのは漁業です。とりわけ小型漁船漁業者がいるからこそ、浜の環境・資源が守られます。被災地の復興は、小型漁船漁業の再生にかかっています。浜のことですから、大漁・不漁があるのは漁師も覚悟のうえです。しかし、漁をできないというのはあまりにもひどい。こんなのは岩手県だけです。県は「希望郷いわて」を掲げていますが、いまの岩手の浜には希望がありません。
 豊かな漁業の再生と、希望ある未来のために、サケ刺網漁の許可を心から求めます。」

報告集会ではいくつもの印象的な発言があった。
「サケがとれるかどうかは死活問題だし、今のままでは後継者が育たない。どうして、行政はわれわれの声に耳を傾けてくれないのだろうか。」「昔はわれわれもサケを獲っていた。突然とれなくなったのは平成2年からだ。」「いまでも県境を越えた宮城の漁民が目の前で、固定式刺し網でサケを獲っているではないか。どうして岩手だけが定置網に独占させ、漁民が目の前のサケを捕れないのか」「大規模に定置網をやっているのは浜の有力者と漁協だ。有力者の定置網漁は論外として、漁協ならよいとはならない。」「定置網漁自営を始めたことも、稚魚の放流事業も、漁民全体の利益のためとして始められたはず。それが、漁協存続のための自営定置となり、放流事業となってしまっている。漁民の生活や後継者問題よりも漁協の存続が大事という発想が間違っていると思う」

私も、ときどきはものを考える。帰りの車内で、これはかなり根の深い問題なのではないかと思い至った。普遍性の高いイデオロギー論争のテーマと言ってよいのではなかろうか。
岩手県水産行政の一般漁民に対するサケ漁禁止の措置。岩手県側の言い分にまったく理のないはずはない。幕末の南部藩にも、天皇制政府にも、その政策には当然にそれなりの「理」があった。その「理」と、岩手県水産行政の「理」とどう違うのだろうか。

私は現在の県政の方針を、南部藩政の御触にたとえてきた。定めし、高札にこう書いてあるのだ。「今般領内沿岸のサケ漁の儀は、藩が格別に特許を与えた者以外には一律に禁止する」「これまで漁民でサケを獲って生計を立てる者があったと聞くが、今後漁民がサケを獲ることまかりならぬ」「密漁は厳しく詮議し、禁を犯したる者の漁船漁具を取り上げ、入牢6月を申しつくるものなり」
これに対する漁民の抵抗だから、「浜の一揆」なのだ。

しかし、当時の藩政も「理」のないお触れを出すはずはない。すべてのお触れにも高札にも、それなりの「理」はあったのだ。まずは「藩の利益=領民全体の利益」という「公益」論の「理」が考えられる。

漁民にサケを獲らせては、貴重なサケ資源が私益にむさぼられることになるのみ。サケは公が管理してこそ、領民全体が潤うことになる。サケ漁獲の利益が直接には漁民に配分されることにはならないが、藩が潤うことはやがて下々にトリクルダウンするのだ。年貢や賦役の軽減にもつながる。これこそ、ご政道の公平というものだ、という「理」である。

天皇制政府も、個人の私益を捨てて公益のために奉仕するよう説いた。その究極が、「命を捨てよ国のため、等しく神と祀られて、御代をぞ安く守るべき」という靖國の精神である。滅私奉公が美徳とされ、「君のため国のため」「お国のため」に個人の私益追求は悪徳とされた。個人にサケを獲らせるのではなく、公がサケ漁を独占することに違和感のない時代であった。

また、現況こそがあるべき秩序だという「理」があろう。「存在するものは合理的である」とは、常に聞かされてきたフレーズだ。現状がこうなっているのは、それなりの合理的な理由と必然性があってのこと。軽々に現状を変えるべきではない。これは、現状の政策の矛盾を見たくない、見ようともしない者の常套句だ。もちろん、現状で利益に与っている者にとっては、その「利」を「理」の形にカムフラージュしているだけのことではあるが。

藩政や明治憲法の時代とは違うという反論は、当然にありうる。一つは、漁協は民主的な漁民の自治組織なのだから漁協の漁獲独占には合理性がある、というもの。この論法、原告たちには鼻先であしらわれて、まったく通じない。よく考えると、この理屈、個人よりも家が大切。社員よりも会社が大事。住民よりも自治体が。国民よりも国家に価値あり。という論法と軌を一にするものではないか。個人の漁を漁協が取り上げ、漁協存続のためのサケ漁独占となっているのが現状なのだ。漁協栄えて漁民亡ぶの本末転倒の図なのである。

また、現状こそが民主的に構成された秩序なのだという「理」もあろう。まずは行政は地方自治制度のもと民意に支えられている。その民主的に選出された知事による行政、しかも民主的な議会によるチェックもなされている。その行政が決めたことである。なんの間違いがあろうか。そういう気分が、地元メデイアの中にもあるように見受けられる。そのような社会だから、漁民が苦労を強いられているに違いない。
(2016年1月15日)

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