澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

吉田清治証言紹介記事取り消しー朝日・赤旗・道新を評価する

北海道新聞が11月17日の朝刊1面に「『吉田証言』報道をおわびします」と題して社告を掲載し、2ページにわたって検証記事を特集した。

毎日の同日夕刊が要領よく報道している。
「従軍慰安婦報道を巡り北海道新聞社(村田正敏社長)は17日朝刊で、朝鮮人女性を強制連行したとする吉田清治氏(故人)の証言を報じた記事について『信憑性が薄いと判断した』として取り消した。同紙は1面で『検証が遅れ、記事をそのままにしてきたことを読者の皆さまにおわびし、記事を取り消します』としている。

北海道新聞によると、吉田氏の証言に関する記事を1991年11月22日朝刊以降、93年9月まで8回掲載(1本は共同通信の配信記事)した。このうち今回取り消した1回目は、吉田氏を直接取材し『朝鮮人従軍慰安婦の強制連行「まるで奴隷狩りだった」』との見出しで報じた。この記事は韓国紙の東亜日報に紹介された。他の7本は、吉田氏の国会招致の動きなど事実関係を報じた内容のため『取り消しようがない』としている」

吉田証言紹介記事の取り消しは、本年8月5日の朝日、9月27日の赤旗に続いて、道新が3紙目となる。もちろん、この3紙だけでなく、当時は各紙とも記事にした。先んじて、検証の上取り消し謝罪した3紙の誠実さは評価されなければならない。
これに続く他紙の対応が注目される。とりわけ、産経と読売である。

以下は、本年8月5日付け朝日の検証記事の一節。まずは、産経の報道について。
「韓国・済州島での『慰安婦狩り』を証言していた吉田氏。同氏を取り上げた朝日新聞の過去の報道を批判してきた産経新聞は、大阪本社版の夕刊で1993年に『人権考』と題した連載で、吉田氏を大きく取り上げた。連載のテーマは、『最大の人権侵害である戦争を、「証言者たち」とともに考え、問い直す』というものだ。
 同年9月1日の紙面で、『加害 終わらぬ謝罪行脚』の見出しで、吉田氏が元慰安婦の金学順さんに謝罪している写真を掲載。『韓国・済州島で約千人以上の女性を従軍慰安婦に連行したことを明らかにした「証言者」』だと紹介。『(証言の)信ぴょう性に疑問をとなえる声があがり始めた』としつつも、『被害証言がなくとも、それで強制連行がなかったともいえない。吉田さんが、証言者として重要なかぎを握っていることは確かだ』と報じた。
 この連載は、関西を拠点とした優れた報道に与えられる『第1回坂田記念ジャーナリズム賞』を受賞。94年には解放出版社から書籍化されている。」
当時の産経は、実に真っ当な報道姿勢をもっていたのだ。

次いで、読売はどうだったのか。
「読売新聞も92年8月15日の夕刊で吉田氏を取り上げている。『慰安婦問題がテーマ「戦争犠牲者」考える集会』との見出しの記事。『山口県労務報国会下関支部の動員部長だった吉田清治さん』が、『「病院の洗濯や炊事など雑役婦の仕事で、いい給料になる」と言って、百人の朝鮮人女性を海南島に連行したことなどを話した』などと伝えている」

当時の読売には、「吉田さんは『病院の洗濯や炊事など雑役婦の仕事で、いい給料になる』と言って、百人の朝鮮人女性を海南島に連行したことなどを話した」「『暴力で、国家の権力で、幼児のいる母親も連行した。今世紀最大最悪の人権侵害だった』などと述べた」などの記事もあったという。

私自身には吉田調書の信憑性を判断して虚偽と断定する能力はない。「第1次サハリン裁判」で吉田清治が証言をした証言調書の抜粋が日本YWCAのパンフレットに掲載されているが、その証言を虚偽だと見抜くのは容易なことではない。当時の各紙の記者が信じ込んだのも無理からぬところ。先行して検証の上記事を取り消した3紙の姿勢を評価し、その他の各紙が次に続くことを期待したい。

その場合に望まれるのは「懺悔」ではなく、「自己検証」の充実である。どうして吉田証言を真実と軽信したのか、どうして訂正記事がこんなに遅れたのか、どうしたら同様の過誤の再発を防止できるのか。是非ともその作業を通じて、国民のジャーナリズムへの信頼を深める努力をしていただきたい。
(2014年11月18日)

「負けるな北星!」  学内公聴会発言者に敬意を表明する

沖縄知事選が始まって以来、沖縄タイムスと琉球新報のサイトに目が離せない。北星学園大学脅迫告発運動に関わって以来は、これに北海道新聞が加わった。3紙とも、よくその使命を果たしていると思う。日本の北と南に、優れた地方紙が育っていることには必然性があるのだろうか。興味深い現象。

その「道新」のサイトが、本日(11月15日)の未明に「元記者雇い止め、学長『慎重に判断』 北星学園大で公聴会」という記事を発信している。短い記事だから、全文を引用する。

「札幌市厚別区の北星学園大が、朝日新聞記者時代に従軍慰安婦問題の報道に携わった非常勤講師との契約を来年度更新しない方向で検討していることについて、同大は14日夜、全教職員を対象とした公聴会を開催した。田村信一学長は終了後、『いろいろな意見が出た。理事会や理事長の意見も聴き、慎重に判断したい』と述べた。
 非公開の公聴会は予定を1時間超過し2時間半続いた。関係者によると、大学側の方針について出席者から『建学の精神のキリスト教に基づく「博愛の精神」と相いれないのでは』という疑問や『雇用打ち切りが学生を守ることにつながるのか』といった意見が出たという」

11月1日付の道新記事のタイトルが、「北星学園大、元記者の契約更新せず 学長、脅迫問題で方針」だったのだから、この2週間で学長の発言にかなりの変化が生じたことが窺える。

道新だけではない。NHKも本日早朝の「北海道News Web」で、次のように報じている。
「朝日新聞の元記者を非常勤講師として雇用している札幌市の大学が、講師を辞めさせるよう脅迫された事件をめぐり、学長が示した来年度は元記者を雇用しない考えについて14日夜、教職員の意見を聴く公聴会が開かれました。
 この事件は、いわゆる従軍慰安婦の問題の取材に関わった朝日新聞の元記者を非常勤講師として雇用している札幌市の北星学園大学に、『辞めさせなければ学生に危害を加える』とする脅迫文が届くなどしたものです。
 田村信一学長が来年度は元記者を雇用しない考えを明らかにしたことを受け、14日夜、大学側が200人以上いる教職員を対象に直接意見を聴く公聴会を開きました。
 出席者によりますと、公聴会にはおよそ100人が参加し、『脅迫に屈して雇用を打ち切るのは大学の自治の放棄になる』など雇用を継続すべきという意見が相次いだということです。
 公聴会のあと田村学長はNHKの取材に対し『いろいろな意見を聞き総合的に判断したい』と述べたうえで、来月初めまでに最終判断する考えを示しました」
公聴会出席者の真摯な発言には敬意を表したい。

私たちは、学長を励ましたいと思う。そのためには、大学が、右翼からの圧力や外部からの学内治安への攻撃を心配することなく、その自治をまっとうできるよう環境を整備しなければならない。380人の弁護士が告発に名を連ねて捜査機関を督励し、大学への激励の意思を表明した。そのうち道内の弁護士は171人に及ぶ。脅迫内容実行の予防には役に立っているのではないか。

「負けるな会」に名を連ねた著名な学者や文化人が、大学に対して来年度からのボランティア講師活動提供を申し出てもいる。私は著名人ではないが、元日弁連消費者委員長として現代の消費者問題のエッセンスや具体的な法的問題を語りたいと思う。

さらに同大学の大学院生らが、「北星・学問の自由と大学の自治のために行動する大学院生有志の会」を結成した、との道新報道もある。同会は、大学に要望書を提出し、「脅迫で誰かの雇用が奪われるという前例ができれば、私たち自身の研究も常に危険にさらされる状況となる」と指摘して再考を求めているという。

卑劣で不当な攻撃に対して私たちの社会がどれほどの耐性をもっているのか、北星学園脅迫事件は、そのテストケースとなっている。心ある多くの人が、動き始めていることに意を強くもちたい。そしてさらに声を揃えて、「負けるな北星!」と叫びたいと思う。
(2014年11月15日)

朝日「吉田調書報道」への「報道と人権委員会」見解に違和感

本日の朝日・朝刊は、福島第1原発事故についての吉田昌郎調書報道に関する「報道と人権委員会」(PRC)見解を受けての「総懺悔録」となっている。PRC見解は当事者の弁明も聴取してのもので丁寧な叙述にはなっている。しかし、どうしても違和感が拭えない。

5月20日記事の「取消」は、はたして妥当だったのだろうか。「訂正」がしかるべきではなかったのか。PRC見解は、記事の功罪の評価においてバランスのとれた的確なものになっているだろうか。全てのメディアや論評が、PRC見解支持で同一方向に纏まってしまうことの不気味さを敢えて問題にしたい。

朝日のPRC見解についてのまとめは以下のとおりである。
A「調書の入手は評価したものの、『報道内容に重大な誤りがあった』『公正で正確な報道姿勢に欠けた』として、同社が記事を取り消したことを『妥当』と判断した」
B「PRCはまた、報道後に批判や疑問が拡大したにもかかわらず、危機感がないまま迅速に対応しなかった結果、朝日新聞社は信頼を失ったと結論づけた」

上記Bは、主として朝日の姿勢や機構の問題だが、Aはジャーナリズムのあり方そのものに関わる。当該の記事を「重大な誤り」と断定する過度の厳格さの要求は、報道の萎縮をもたらすことになりかねない。記事の評価には多様な見解が併存してよいところではないか。PRC見解の立場ばかりが「正しい」か。はたして「妥当」なものだろうか。

まず、闇の中にあった400頁といわれる吉田調書に光を当てて、これを世に出したことの功績は、もっと強調されなければならない。われわれは、この朝日の記事によってはじめて、福島第1原発事故の「本当の恐ろしさ」を知った。「メルト(炉心溶融)の可能性」「チャイナシンドローム」「東日本壊滅ですよ」という言葉が出て来る深刻さだったのだ。事故後の対応の実態もはじめて知って、これにも衝撃を受けた。あらためて、人の手に負えない「原発という危険な怪物」の正体に接した思いであった。国民に原発再稼働是非の判断において不可欠の資料を提供したものが、この朝日の記事ではなかったか。その肯定的評価がPRC見解では不十分ではないか。PRCの結論が、原発事故の恐怖までを「取り消す」印象となることを恐れる。角を矯めて却って牛を殺すの結果となってはいないだろうか。

最大の「誤り」とされている朝日記事の内容は、「所長命令に違反 原発撤退」の見出しを付けた記事について、「?『所長命令に違反』したと評価できる事実はなく、裏付け取材もなされていない。?『撤退』という言葉が通常意味する行動もない。『命令違反』に『撤退』を重ねた見出しは否定的印象を強めている」というもの。

この点、吉田調書では、「操作する人間は残すけれども…関係ない人間は待避させます」とされ、どのように待避が行われたかについて、「私は、福島第1の近辺で、所内に関わらず、線量の低いようなところに一回待避して次の指示を待てと言ったつもりなんですが、2F(福島第2原発)に行ってしまいましたと言うんで、しょうがないなと。」となっている。

つまり、所長は、次の指示があれば直ちに応じることができるように、「福島第一の近辺に待避せよ」と命令したつもりだったのだ。ところが、所員は所長の意図とはまったく別の離れた場所(福島第2原発)にまで行って、必要な指示をしても即応はできない事態となった。これを朝日記事が「命令違反」の「撤退」と言って、誤りとは言えないのではないだろうか。「命令」とは、「業務命令」「職務命令」のそれ。広辞苑を援用しての語釈ではなく、勤務時間における労務指揮の内容を「命令」と言って不自然ではない。所長が、次の業務指示に即応できる場所に待避せよと言った、とはその旨の業務命令があったといってよい。それが、どこかで「伝言ゲーム」のように不正確に伝わって、所長が想定した場所から10キロも離れた場所に所員が移動してしまった。これを「命令違反」の「撤退」と言って重大な誤報などと言えるだろうか。

もっとも、「大混乱の中、所長の避難指示不徹底」「明示の指示ないまま所員第二原発へ避難」「曖昧な指示 所長の想定に反した所員の移動」などとした方が正確かも知れないが、「所長命令に違反 原発撤退」と、さほどの差があるとは思えない。

この点について、PRC見解は次のようにいう。
「吉田氏の指示は的確に所員に伝わっていなかったとみるべきである(裏付け取材もなされていない)。さらに極めて趣旨があいまいであり、所員が第二原発への退避をも含む命令と理解することが自然であった。したがって、実質的には、『命令』と評することができるまでの指示があったと認めることはできず、所員らの9割が第二原発に移動したことをとらえて『命令違反』と言うことはできない」「本件記事の見出しは誤っており、見出しに対応する一部記事の内容にも問題がある」

「福島第1の近辺で待避して次の指示を待て」という指示はあったが、それは趣旨が曖昧で的確に所員に伝わっていなかった。だから、『指示』に反した結果とはなったが、それをとらえて『命令違反』とまでは言えない、というのだ。記事に根拠はあった。根も葉もあった。煙だけではなく、火もあったのだ。それでも、「全文取り消しが妥当な」「重大な誤り」という結論になっている。本当にこれでよいのだろうか。

朝日の記事の正確性の問題とは別に、私は9月12日の当ブログで、「明らかに所長の指示がよくない。この事態において、650名もの所員に、『何のために、どこで、いつまで、どのように、待避せよ』という具体性を欠いた曖昧な指示をしていることが信じがたい」と書いた。自分がその立場で十分なことができる自信はないが、しかるべき立場にあるものには、その立場にふさわしい能力が求められる。

PRCも、「所長の指示を極めて趣旨があいまい」と強調した。曖昧な指示だったから、所員が「第二原発への退避をも含む命令と理解」することが自然であり、したがって、実質的には、『命令』と評することができるまでの指示があったとは認めることはできない、だから朝日の記事は重大な誤り、となる。

9月12日当ブログの感想を再掲しておきたい。PRC見解が出たいまも、このとおりだと思う。

「朝日に対して、もっと正確を期して慎重な報道姿勢を、と叱咤することはよい。しかし、誤報と決め付け、悪乗りのバッシングはみっともない。そのみっともなさが、ジャーナリズムに対する国民の信頼を損ないかねない。

各紙に報道された吉田調書を一読しての印象は三つ。
一つは、原発の過酷事故が生じて以降は、ほとんどなすべきところがないという冷厳な事実。なすすべもないまま、事態は極限まで悪化し、『われわれのイメージは東日本壊滅ですよ』とまで至る。原発というものの制御の困難さ、恐ろしさがよく伝わってくる。『遅いだ、何だかんだ、外の人は言うんですけれど、では、おまえがやって見ろと私は言いたいんですけれども、ほんとうに、その話は私は興奮しますよ』という事態なのだ。3号機の水素爆発に際しては、『死人が出なかったというので胸をなで下ろした。仏様のおかげとしか思えない』という。正直に科学や技術が制御できない事態となっていることが表白されているのだ。

二つ目。官邸・東電・現場の連携の悪さは、目を覆わんばかり。原発事故というこのうえない重大事態に、われわれの文明はこの程度の対応しかできないのか。この程度の準備しかなく、この程度の意思疎通しかできないのか、という嘆き。これで、原発のごとき危険物を扱うことは所詮無理な話しだ。

さらにもう一つ。吉田所長の発言の乱暴さには驚かされる。技術者のイメージとしての冷静沈着とはほど遠い。この人の原発所長としての適格性は理解しがたい。
たとえばこうだ。
『(福島第1に異動になって)やだな、と。プルサーマルをやると言っているわけですよ。はっきり言って面倒くさいなと。…不毛な議論で技術屋が押し潰されているのがこの業界。案の定、面倒くさくて。それに、運転操作ミスがわかり、申し訳ございませんと県だとかに謝りに行って、ばかだ、アホだ、下郎だと言われる。くそ面倒くさいことをやって、ずっとプルサーマルに押し潰されている』

吉田調書は、原発事故の恐怖と、原発事故への対応能力の欠如の教訓としてしっかりと読むべきものなのだと思う。」

改めて恐れることは、吉田清治証言が虚偽とされるや従軍「慰安婦」そのものがなかったかのごとき言説がまかりとおること。同様に、吉田昌郎調書報道に「誤り」があるとして、原発事故を起こした東電が免責され再稼働派が勢いづくことである。

これで決着がついたとするのではなく、心あるジャーナリストには、今回のPRC見解を十分に検証し、果敢にこれに切り込んでいただきたいと思う。
(2014年11月13日)

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