一昨日(5月11日)の毎日新聞朝刊「ネットウオッチ」欄に、「懲戒請求被害の弁護士 広がる対抗措置の動き (ネトウヨに対して)損害賠償求め提訴へ/請求側(ネトウヨ)は動揺」との記事。(括弧内は澤藤の挿入、以下同)
朝鮮学校への補助金交付は利敵行為??などとするネット上での扇動を背景に(ネトウヨから)大量の懲戒請求を送られた弁護士たちの間で、懲戒請求者(ネトウヨ)に対し、損害賠償請求や刑事告訴など法的措置をとる動きが広がっている。これを恐れ、弁護士に和解金10万円を支払って謝罪する請求者(ネトウヨ)も出ている。ネット空間の無責任な言説にあおられた軽率な行動が、実社会で法的制裁を受けようとしている。
この「《ネット空間》の無責任な言説にあおられた軽率な行動が、《実社会》で法的制裁を受けようとしている」という指摘が的確で印象的である。ネトウヨ諸君には現実感覚が乏しいようだ。バーチャルな《ネット空間》と、リアルな《実社会での法的制裁》の結び付きについての認識が希薄で、クリック一つが高くつくことへの警戒心がなく、あとで仰天することになる。
このことは、弁護士に対する不当懲戒請求に限らない。ネトウヨが寄り集まっての集団提訴や集団告発、あるいはヘイトデモ参加についても同様である。最終的には、違法な行為の責任は個人が、損害賠償という形で負わねばならない。それこそが、アベの大好きな「自己責任」なのだ。煽動に乗せられただけ、単に記事を転送しただけ、後ろにくっついて行っただけ、などは免責理由とならない。
なお、毎日が言う「無責任な言説にあおられた軽率な行動」とは、「余命三年時事日記」なるブログの煽動にうかうか乗せられたことを指す。このブログが、テンプレートをつくっての書き込みを誘っていた。当の「余命三年時事日記」を主宰する者の氏名住所は現時点では未特定。自分は闇に隠れて、人を裏から煽動しているわけだ。私もこのブログに目を通してみた。どうして、こんな低劣な煽動に乗せられる者が続出するのだろうか。詐欺まがい悪徳商法の被害者についても同じ思いだが、まことに不思議でならない。
もちろん、ネトウヨ諸君にも表現の自由はある。しかし、事実無根の主張によって人の名誉を毀損する自由は誰にもない。民族や国籍による差別言動も許されない。ネトウヨ諸君よ。もし、表現の自由を謳歌しようというなら、匿名に隠れることなく堂々と顕名で論争するがよかろう。
毎日新聞の同記事によれば、佐々木亮・北周士の両弁護士が、全懲戒請求者に損害賠償請求訴訟を起こす予定で、虚偽告訴や業務妨害での刑事告訴も検討するという。懲戒請求の全件数は約3000件だそうだから、3000人を被告とする訴訟となる。もっとも、管轄は損害賠償債務の履行地でよいから、全国のすべての被告に対する請求が一通の訴状で、東京地裁に提訴が可能だ。
毎日の記事は、こうも伝えている。
?ある(ネット上の)掲示板には懲戒請求者とみられる人物が「(ネット情報で)俺の連絡先が通知されないと信じて請求した。(扇動者に)裏切られた」「裁判とめるにはどうしたらよいのか」などと不安を書き込んでいる。
佐々木弁護士らは、訴訟前に和解する条件として、明確な謝罪や慰謝料10万円(両弁護士分合計)の支払いなどを求め、すでに応じた請求者もいる。懲戒請求では請求者の実名や住所が当該弁護士に伝えられる。佐々木弁護士は「匿名で請求できると勘違いしている人もいるようだ。素直に謝ってきた人もいた。軽い気持ちでやったという印象を受けた」と話す。
佐々木亮・北周士の両弁護士は、まずは事前の和解を推進する方針で、5月16日に記者会見の予定という。その後塵を拝することなく、榊原元弁護士が5月9日に、東京地裁に提訴した。
以下は、当日の彼のツィート。
朝鮮学校への補助金などを巡って弁護士に対して大量の懲戒請求がなされた件、不当な懲戒請求による損害賠償金の支払いを求め、本日、東京地方裁判所等に訴訟を提起した。現時点で被告は未だごく一部であるが、訴訟前に和解が成立した方を除き、最終的には請求者全員に裁判所までお越し頂きたいと思う。
その後のツィートで彼の基本認識が以下のように語られている。
弁護士に対する大量懲戒請求事件の件。確かに我々個々の弁護士は被害者だ。しかし、本当に攻撃されているのは弁護士会であり、弁護士自治である。さらにいうと、本件は在日コリアンを差別するという動機でなされたヘイトクライムである点を看過してはならない。究極的な被害者は在日コリアンなのである
たかがネットに煽られて弁護士に大量の懲戒請求をしたり、在日コリアンを入管に大量通報したり、検察庁に大量告発したりする日本人が、新聞に煽られたら朝鮮人虐殺をしないはずがない。
何度も言うが、大量懲戒請求事件はヘイトクライムである。ヘイトクライム防止につながる解決でなければならない。
神原弁護士のこの訴状は見ていない。弁護士ドットコムによれば大要以下のとおり。
訴状によると、被告(懲戒請求のネトウヨ)は2017年6月、神奈川県弁護士会に対して、神原弁護士ら複数の弁護士を対象として、弁護士法に基づく懲戒請求をおこなった。同弁護士会綱紀委員会は2018年4月、神原弁護士らを懲戒しないと判断した。
懲戒理由として、「違法である朝鮮学校補助金支給要求声明に賛同し、その活動を推進する行為は、日弁連のみならず当会(神奈川県弁護士会)でも積極的に行われている二重、三重の確信的犯罪行為である」などと書かれていたという。
原告(神原弁護士)は「少なくとも朝鮮学校補助金要求に関連して違法行為をした事実はまったくない」「存在しない事実について、あえて懲戒請求を申し立てていたことが明らかだ」としている。現時点で、被告数や請求額などは明らかにされていない。
そして同記事は次のようにまとめている。
最高裁の判例では、事実上または法律上の根拠を欠く場合において、請求者がそのことを知りながら、または普通の注意を払えば知りえたのに、あえて懲戒請求していれば不法行為にあたる、とされている。日弁連によると、2017年だけで組織的な懲戒請求は約13万件あり、その多くが問題のブログに起因するものとみられる。
当ブログも、このことについては、何度か論及してきた。ぜひ、ご参照いただきたい。
民族差別主義者らの「弁護士懲戒請求の濫用」に歯止めを
https://article9.jp/wordpress/?p=9724
(2018年1月5日)?
安易な弁護士懲戒請求は、損害賠償請求の対象となる。
https://article9.jp/wordpress/?p=9311
(2017年10月12日)
さて、懲戒濫用に対抗の武器となる最高裁判例(平成19年4月24日・三小)の当該部分を再確認しておこう。
「…懲戒請求を受けた弁護士は、根拠のない請求により名誉、信用等を不当に侵害されるおそれがあり、また、その弁明を余儀なくされる負担を負うことになる。そして、同項が、請求者に対し恣意的な請求を許容したり、広く免責を与えたりする趣旨の規定でないことは明らかであるから、同項に基づく請求をする者は、懲戒請求を受ける対象者の利益が不当に侵害されることがないように、対象者に懲戒事由があることを事実上及び法律上裏付ける相当な根拠について調査、検討をすべき義務を負うものというべきである。そうすると、同項に基づく懲戒請求が事実上又は法律上の根拠を欠く場合において、請求者が、そのことを知りながら又は通常人であれば普通の注意を払うことによりそのことを知り得たのに、あえて懲戒を請求するなど、懲戒請求が弁護士懲戒制度の趣旨目的に照らし相当性を欠くと認められるときには、違法な懲戒請求として不法行為を構成すると解するのが相当である。」
つまり、「通常人としての普通の注意を払うことなく」軽々に弁護士懲戒請求をすれば、不法行為として損害賠償請求されることを覚悟しなければならないのだ。
しかも、当然のことながら、懲戒請求は請求者の住所氏名を明記しなければ、受け付けられない。うかうか、扇動に乗せられると、ある日、裁判所から損害賠償請求の訴状が届くことになる。よく考えるべきなのだ。ネトウヨ諸君。
(2018年5月13日)
昨今おおはやりの「忖度」。またまた出てきた。今度は新バージョンだ。しかも、憲法問題として、事態は重大である。
アベ友学園事件でも、腹心の友学園事件でも、「忖度」されたとする意向の当人は、「忖度あったとの疑惑は迷惑、忖度されるような意向は断じてなかった」という否定の文脈で語っている。ところが今度は、「どうして私の意向を忖度してくれないのか」「もっと忖度あってしかるべきではないか」という文脈の語り口なのだ。これが、「新バージョン」という所以。
本日(5月21日)の毎日新聞トップ記事。「陛下・公務否定に衝撃」という大見出し。サブの見出しを拾ってみると、「有識者会議での『祈るだけでよい』」「『一代限り』に不満」そして、「『象徴』実践と不可分」「陛下の祈り 全身全霊」などというもの。
なお、デジタル版の報道には、「宮内庁幹部『生き方否定』」という見出しもつけられている。
「宮内庁幹部は、有識者会議での保守派メンバーによる『祈るだけでよい』という発言に、天皇は『生き方を否定』されたと衝撃を受けている、と語っている」という文脈。
この記事、記者の署名がはいってはいるが、単なる報道ではない。内容からみて、社説に準ずる新聞社の意見と見てよかろう。その姿勢、看過し得ない。大いに問題ではないか。
記事は、一面と三面にまたがっている。三面の記事は「皇室考」という続き物の第1回という体裁。毎日新聞の、天皇の「ご意向」への忖度であふれた内容。その中に、天皇の「世間は、どうして私の意向を十分に忖度してくれないのか」との嘆きが、ことこまかく書き連ねられ、毎日が賛意を表している。さながら、不遇の天皇を支える「忠臣メディア・毎日新聞」という趣である。
一面・トップの記事を引用しておきたい。
『天皇陛下の退位を巡る政府の有識者会議で、昨年11月のヒアリングの際に保守系の専門家から「天皇は祈っているだけでよい」などの意見が出たことに、陛下が「ヒアリングで批判をされたことがショックだった」との強い不満を漏らされていたことが明らかになった。陛下の考えは宮内庁側の関係者を通じて首相官邸に伝えられた。
陛下は、有識者会議の議論が一代限りで退位を実現する方向で進んでいたことについて「一代限りでは自分のわがままと思われるのでよくない。制度化でなければならない」と語り、制度化を実現するよう求めた。「自分の意志が曲げられるとは思っていなかった」とも話していて、政府方針に不満を示したという。
宮内庁関係者は「陛下はやるせない気持ちになっていた。陛下のやってこられた活動を知らないのか」と話す。
ヒアリングでは、安倍晋三首相の意向を反映して対象に選ばれた平川祐弘東京大名誉教授や渡部昇一上智大名誉教授(故人)ら保守系の専門家が、「天皇家は続くことと祈ることに意味がある。それ以上を天皇の役割と考えるのはいかがなものか」などと発言。被災地訪問などの公務を縮小して負担を軽減し、宮中祭祀だけを続ければ退位する必要はないとの主張を展開した。陛下と個人的にも親しい関係者は「陛下に対して失礼だ」と話す。
陛下の公務は、象徴天皇制を続けていくために不可欠な国民の理解と共感を得るため、皇后さまとともに試行錯誤しながら「全身全霊」(昨年8月のおことば)で作り上げたものだ。保守系の主張は陛下の公務を不可欠ではないと位置づけた。陛下の生き方を「全否定する内容」(宮内庁幹部)だったため、陛下は強い不満を感じたとみられる。(中略)
陛下が、昨年8月に退位の意向がにじむおことばを表明したのは、憲法に規定された象徴天皇の意味を深く考え抜いた結果だ。被災地訪問など日々の公務と祈りによって、国民の理解と共感を新たにし続けなければ、天皇であり続けることはできないという強い思いがある。』
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事実関係がこの記事のとおりであるとすれば、問題はすこぶる大きい。天皇は自分の意向が法の整備に反映されて当然と考えているようなのだ。忖度不十分との不満を言える立場と思い込んでいるだけでなく、実際に宮内庁幹部(ないし「関係者」)を通じて内閣に不満を伝えている。「自分の意志が曲げられるとは思っていなかった」とまで、メディアにリークもしている。これは天皇の越権、というよりは叛乱というべきではないか。
私は、平川祐弘も渡部昇一も、虫酸が走るほどに大嫌いだ。しかし、平川も渡部も主権者たる国民の一人として、天皇制や天皇のあり方についてはどのようにも意見を述べる権利がある。国民の誰もがその意見に賛否を示し批判し反論する自由をもつが、天皇にだけはその自由がない。天皇は、国民の総意に基づいて存在する。天皇のあり方は、天皇制の廃止を含めて、すべて国民の議論にゆだねられていることを自覚しなければならない。天皇の立場で、「不満だ」「失礼だ」と言ってはならない。
もっとも、毎日のスタンスについては、原則論からではない別の角度から忖度することが可能だ。
毎日は、現天皇を護憲リベラル派の一員と見て、改憲右翼勢力の先頭にあるアベ政権と対峙させる図式を描いている。平川や渡部は、アベ政権の手先との位置づけで、その意見が批判されているのだ。
所詮天皇とは、政治の道具。幕末の西南雄藩連合と幕府方との拮抗の中で、「玉」と言われた天皇の取り込み合戦が行われた。たまたまそれに勝って、「玉」を手にした方が、「官軍」となったに過ぎない。そう考えれば、いま、リベラルな天皇という「玉」を最大限活用して、アベ改憲勢力に対峙しようとする合理性は納得できなくもない。
毎日は、この政治的プラグマティズムの視点や実践を意識的に貫いているのかも知れない。しかし、天皇制とは、そもそも民主主義にはなじまない危険物である。取り扱いはすこぶる難しい。取り扱いを誤れば、制御しきれず暴走し暴発しかねない。私は、詭道を衒わず、原則論に徹すべきだと思う。
(2017年5月21日)
産経が日弁連(日本弁護士連合会)批判のキャンペーンを始めた。「政治集団化する日弁連」というレッテルを貼ってのこと。その第1部が、4月4日から昨日(4月8日)まで。「政治闘争に走る『法曹』」というシリーズの連載。その第1回の見出しが「政治集団化する日弁連」「『安倍政権打倒』公然と」というもの。「安保法案は憲法違反です」という横断幕を掲げて行進する日弁連デモの写真が掲載されている。これが、「政治闘争に走る法曹」の図というわけだ。「安倍政権打倒」を公然と言うなどとんでもない、というトーン。
産経新聞にはほとんど目を通すことがない。得るところがないからだ。「政権=右翼」の図式が鮮明になっているいま、その両者の広報を担っているのが同紙。政権・与党の改憲路線や歴史修正主義、アメリカ追随を後押しすることが同紙の揺るがぬ基本姿勢である。ジャーナリズムの矜持を捨てて、「権力の公報紙」兼「右翼勢力の宣伝紙」としての立場を選択したのだ。政権支援とともに、さらに右寄りの政治的な立ち位置を旗幟鮮明にすることでの生き残り戦略にほかならない。
そんな産経である。現政権に膝を屈することのない勢力は、すべて攻撃の対象とせざるを得ない。それが、走狗というものの宿命なのだから。
世の中には、権力に擦り寄り、迎合してはならない組織や理念がいくつもある。本来、ジャーナリズムは権力から独立していなければならない。また、大学の自治も学問の自由も、そして教育への不当な支配排除の原則も、時の権力の介入を許さないためにある。もちろん、司法も同様なのだ。
司法の一角を担う弁護士の集団には、在野に徹し権力から独立していることが求められている。権力が憲法の理念をないがしろにすれば、これを批判すべきが権力から独立していることの実質的な意味である。安閑と権力の違憲行為を看過することは、その任務放棄にほかならない。産経の日弁連批判のキャンペーンは、「権力に抗うことをやめよ」という、政権の意図を代弁するもの。あるいは、今はやりの「忖度」なのかも知れない。
産経の論法は、「政治的課題への容喙は日弁連の目的を越える」「全員加盟の日弁連が、多数決で決議をしてはならない」という、これまで長年にわたって、弁護士会内での議論で保守派(あるいは権力迎合派というべきか)が繰り返してきたものの蒸し返しに過ぎない。その会内での一方の意見に、政府公報紙産経が公然と加担することとなったのだ。
産経が批判的に取り上げた日弁連「政治闘争」の具体的テーマは4点。「安保関連法」「慰安婦問題」「脱原発」「死刑廃止」である。消費者問題や公害問題、労働問題、教育問題、子供の権利、男女の平等、司法改革などが出てこないのは、いかがなものか。これらも、すべて政治や行政、あるいは財界や体制派との激しい対立テーマである。けっして、全員一致などにはなり得ないテーマだ。
ご留意いただきたい。日弁連はいかなる場合にも、これらの課題に「政治的に」コミットしていない。「党派的な」立場で関わることもありえない。人権の擁護と憲法原則遵守の視点から、その限りで関わっているに過ぎない。人権擁護と憲法遵守を「政治的」と言い、あるいはその影響が政治性を免れないとして、政治的課題へは一切口出しすべきでないと言うのは、日弁連に「人権擁護活動をやめよ」「憲法遵守など言うな」と沈黙を強いるに等しい。
会内合意形成に慎重な配慮をすべきは当然としても、日弁連の使命を果たすためには、討議を尽くしたうえで、採決するのはやむをえない。私の印象では、執行部の問題提案には、保守派からも革新派からも両様の異論が出て、相当の議論が行われる。国会が作る法や決議が国民の意思を反映している度合いよりは、ずっと会員の意見を反映している。
日弁連の使命とは何か。弁護士法の冒頭に明記されている。
第1条1項 弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする。
第1条2項 弁護士は、前項の使命に基き、誠実にその職務を行い、社会秩序の維持及び法律制度の改善に努力しなければならない。
法律専門職として、「法律制度の改善への努力」が謳われている。当然に、「法律制度の改悪阻止への努力」も弁護士の使命である。「弁護士や弁護士会は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現」しなくてはならない。我々が所与の前提とする自由主義の基本は、国家権力の暴走から人権や正義を守らねばならないという点にこそある。日弁連が、政府を批判する立場をとることになんの問題もない。むしろ、弁護士会が権力や体制批判に臆病になることを恐れなければならない。権力の僕の態度で、人権をないがしろにする政権にへつらい、もの言わぬ日弁連であってはその使命を放棄したことになるのだ。
戦前、弁護士自治のなかった時代には、弁護士も権力の僕であることを強要された。かつて、治安維持法違反被告事件の弁護を受任した弁護士が、その弁護活動を理由に、治安維持法違反(目的遂行罪)で逮捕され起訴され有罪となった。そのとき、当然のごとく司法省は裁判所構成法や旧弁護士法などに基づき、有罪となった弁護士の資格を剥奪したが、当時の大日本弁護士協会が抗議の声を上げることはなかった。
国民の人権を擁護すべき弁護士が、自らの人権も擁護できなかった時代の苦い経験に鑑みて戦後の弁護士法ができた。法は、弁護士の使命を人権の擁護と社会的正義の実現と規定しただけでなく、その実効を保障するために、弁護士自治権を確立した。弁護士資格の得喪や懲戒に、権力の介入を許すことなく、弁護士会が公的機関として自ら行うことになったのだ。
いま、弁護士も弁護士会も権力の僕ではない。日本国憲法に基づき、堂々と政権にものが言える立場である。弁護士は政府協賛機関となってはならない。政府の手によって立憲主義がないがしろにされ、政府の手によって国民の人権が損なわれるとき、「政府攻撃は政治闘争だ」「だから、控えねばならない」などという、権力の走狗の言に耳を傾けてはならない。
産経の妄言はアベ政権の代言である。日弁連が政権の立憲主義への無理解を批判したら、産経から日弁連叩きが始まったのだ。実は、今ほど日弁連の発言が重みをもった時期はない。そのことは、政権が劣化したことの証しにほかならない。しかし、劣化した政権への日弁連の真っ当な批判が真摯に省みられることはなく、「広報紙産経」を使った八つ当たりが始まったというわけだ。
私は日弁連執行部にはないし、日弁連のすべての方針に賛成する立場でもない。しかし、安倍政権を代理しての産経の妄言には、声を大にして反対する。安倍政権への貴重な対抗勢力を貶めてはならない。
これから、日弁連の存在意義を掛けて、共謀罪法案の廃案を求める大運動が起こる。これも、政治闘争ではなく、憲法と人権擁護の運動である。産経ごときの記事で、いささかなりともこの運動が鈍るようなことがあってはならない。この点で、私は日弁連執行部に、心からのエールを送りたい。
(2017年4月9日)
おや、ご存じなかったのですか。この秋津島瑞穂の國は、八百万の神々がしろしめす神域なのですよ。山川草木のすべてに神々が宿りたまい、天が下の森羅万象はことごとく神様の思し召し。ほら、思い出してください。何代か前の首相が、ついつい秘密を漏らしたでしょう。「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知していただく」とね。あれが、真実なのですよ。
もちろんこの国では、政治のすべてが神々の御手で動いています。民が国の主で、民の意思がこの国を動かしているなど思い上がってはいけません。ましてや、アベ一強がこの国を動かしているなんて傲慢この上ないことなのです。すべては、人の祈りと、その祈りを聞き届けた神の力によって、政治も行政も動いているのです。だから、「祈ります」という、あの首相夫人のメールの文章は意味のないことではなく、とても大切なことなのです。
人々の利害が複雑に絡みあっているように、何しろ神様の数も多い。神々の力関係も複雑で、難しい談合や駆け引きを経て神意が表れることになりますが、この過程は、一切人の目には見えません。だから、一見すると、神は気まぐれとも無責任とも見えるのですが、実は神々も苦労しているのです。その辺のことは「国民の皆さんにしっかりと承知して」いただかねばなりません。
神風を吹かせるのは、ご存じ風の神です。この神様、怠け者で普段は寝ているばかり。だから、滅多に神風が吹くことはありません。風の神を揺り動かし、目を覚まさせて、その気になって神風を吹かせるには他の神々の苦労が必要なのです。つまりは、風の神への積極的な働きかけがなければ無理なことなのです。
どうやって、風の神をその気にさせるかですって? それは、「ひ・み・つ」なのですが、人間の世界とそうは違いがありません。人も神も、何らかの利益なくして動くことはありません。どの神様も、その点はしっかりしていますから、その神様のほしいものを用意して提供しなければなりません。一般論として、神様の大好物はお賽銭です。「御神酒あがらぬ神はなし」というとおりでもあります。神様を脅かしたり強請ったりという手もありますし、揉み手や泣き落としの戦術も結構利きますよ。それから、なんと言っても有力な神様の口利きと、忖度です。今回森友に吹いた神風の原因には、口利きと忖度の両方があったと聞いていますね。どこからの情報かって? 実はよく分かりません。そりゃ神のみぞ知るってことですよね。
大事なことは、すべてが生身の人間の目には見えないことなのです。人知を超越した見えないところで風が吹き、見えない風が見えない力となって、その見えない力がものごとを成就させるのです。見えないことが、神風の神風たる所以。口利きがあったとか、忖度があったのでは、と見破られるようでは神風ではありません。見えないからこそ、風の神の仕業なのですが、実は風の神をその気にさせた原因は確かにあるのです。
それを、「口利きも、忖度もないことが明らかになった」などと言うのは笑止千万。愚かしいにもほどがある。身の程を知らない人間の分際での独断。
このたび、風の神になにがしかの働きかけをして、風の神に神風を吹かせたのは、よくは分からないのですが、神々の口に戸は立てられないということで、我々の世界でもうわさは飛びかっています。一番有力なのは、アマテラス以来の皇祖皇宗の神霊ではないかということ。もちろん確証はないのですが、なにしろ、教育勅語復活の小学校教育設立ですから、朕の皇祖皇宗が喜んで一肌脱いだのだろうという憶測。それに出世の神、保身の神、処世の神、へつらいの神なんぞが力を貸して、風の神に働きかけたのだろうと言うのが、もっぱらの風評。
では、なぜ急に風向きが変わって、神風が逆風となったか。こんなことが言われていますね。今や、八百万の神々の勢力関係に変化が生じているというのです。天つ神と国つ神との争いの骨格が古事記以来の伝統でしたが、今やこの構図が壊れそうになっている。アマテラスを筆頭とする天つ神の勢力はこのところ、衰退の一途なのです。ですから、一度は皇祖皇宗の霊の口車に乗せられた風の神は、途中で気が変わったのです。明らかに別の神の働きかけ。
どうも、「民の声は神の声」というのが今高天原のはやり言葉のようなのです。ですから、風の神も考えた。「アベの手下みたいなことをやっていて、私の将来は大丈夫なのか」と。こんな時代錯誤の教育のための右翼学校経営者と右翼政権のために、一肌脱いだことで後世批判の矢面に立つのはイヤだ。となったらしいのです。
で、捨てる神と拾う神がバトンタッチ。その結果風向きが真逆に変化したというのです。アベ政権への追い風が、完全にアゲンストの向かい風になった。森友で着いた火は、逆風に煽られて「加計学園問題」にも飛び火するでしょうし、さらには「順正学園問題」にも類焼しそうではありませんか。その同じ風が、稲田防衛大臣のボロを暴き出しつつあります。これこそが人知を越えた風向きの変化です。これを神のミワザと言わなくて、なんというべきでしょうか。
(2017年3月26日)
ボクって愚かなんだ。あんなこと言わなきゃよかった。いつものことだが、もう少し落ちついて、言葉を選んでものを言うべきだったんだ。でも、ついついカーッとなって、「何をムキになっているんですか」なんて言われちゃうんだ。
あのときは、まさかこんなことになるとは思わなかった。籠池があすこまで肚をくくって逆襲するなんて思いもよらなかった。だって、ボクは総理大臣だよ。長期政権を目指して、アベ一強と言われてもいる。みんな、ボクには揉み手をして擦り寄って、忠義を売ろうとしているじゃないか。籠池もその一人だ。ボクは、擦り寄ってきた友だちをおろそかにせず、それぞれに処遇してやってきた。そのボクに、無名の民間人が食ってかかるなんて、考えられないことだろう。
だから、2月17日の衆議院予算委員会でのこと。森友学園疑惑がメディアに報じられて間もなくの頃だ。民進党の福島伸享議員から森友学園との関係について問われて言っちゃった。「私や妻がですね、認可あるいは国有地払い下げにですね、勿論事務所も含めて一切関わっていないということは明確にさせていただきたいと思います。もし関わっていたんであればですね、これはもう私は総理大臣を辞めるということでありますから、はっきりと申しあげたいとこのように思います」「いずれに致しましてもですね、繰り返して申し上げますが私も妻もですね、一切認可にもですね、あるいは国有地の払い下げにも関係ないわけでありまして…繰り返しになりますが私や妻が関係していたとなればこれはもう、まさに総理大臣も国会議員も辞めるということははっきりと申しあげておきたい」
あんまり、はっきりと言っちゃったんだ。あとさき考えないで。
条件節の主語は「私」「妻」「(安倍晋三議員)事務所」の3者。述語は、(私立小学校設立)認可あるいは(その敷地の)国有地払い下げに、関係していたこと。そして、条件充足の効果は、ボクが「総理大臣も国会議員も辞める」ということ。
ああいう世間知らずの危険な人物と付き合ってしまったのが、かえすがえすも残念だ。あ?あ、また、うるさい野党の連中やメディアに叩かれる。「総理を辞めろ」、「議員も辞めろ」とうるさいだろうな。デモ隊も、「アベは、やめろ」「議員をやめろ」「嘘つきはやめろ」なんて、「ヤメロ・ヤメロ、コール」が鳴り響く。頭が痛くなってきた。
こんなことにもなろうかと、籠池の参考人招致にはゴーサインを出さなかったんだ。もしかしてホントのことを洗いざらい口走ってしまいかねない危険を感じていたんだ。でも、ここまで開き直ることは思っても見なかった。もっと上手に繕って、ボクの窮地を救ってくれてもいいじゃないか。もとは肝胆相照らす同志だった仲じゃないか。それをあんな風に足蹴にされたんじゃ、こちらも惻隠の情を示しようがない。もう終わりだ。
昨日(3月23日)の証人尋問。案の定、証人になんか呼ぶんじゃなかった。だれが見たって、疑惑はいっそう深まった。偽証罪で脅かせばビビって口をつぐむだろうと思ったんだ。見事に思惑外れだ。あれで、内閣支持率は10ポイント下がったんじゃないか。
それにしても、与党担当者の無能力に呆れる。まあ、自分のことは棚に上げてのことだけどね。自民党の国対委員長は、「首相に対する侮辱だから」証人に呼び出す、としっかり言っちゃった。あれはひどい。マイナス5ポイントくらいになったんじゃないの。そして、「首相に対する侮辱だから懲らしめてやる」という姿勢が見え見えの尋問担当者。自民党も公明党も、そして維新もだ。
アベ政権と与党が悪役を買って出て、意地の悪い悪代官と木っ端役人を演じて、結局は籠池をいじめることもできなかった。
あの籠池の「100万円寄付」の証言は痛い。供述に生々しい信憑性がある。とても作り話とは思えない。あの証言を聞かされれば、だれだって妻が籠池に100万円を寄付したと信じるだろうさ。なんと言っても、描写が具体的で詳細だ。客観的な状況に照らして破綻がない。しかも、宣誓をし、偽証罪の制裁を科せられての証言だ。12名の尋問者の質問にほころびが出なかった。
いまさらながら、自民党の国対委員長は、開き直って「百歩譲って、首相夫人が100万円寄付していたとして、それがいったい何だというんですか」と言い始めた。だれだって分かる。「アベの妻は100万円出すくらいの熱い籠池教育支持者だった。ならば、忖度の条件も作ったろうし、口利きだってしただろう」。そのように国民が考えるだろうと言うことだ。
証人に呼び出して、かえってコチラが窮地に立った。野党が嵩にかかって「フェアに、同じ土俵で、首相の妻にも証人として証言をさせよ」と言っている。当たり前だが、そんなことをさせたらおしまいだ。だって、そんなことをさせたら、偽証罪で脅されて、本当のこと言っちゃうもん。
でもよく考えてみると、この話、もともとは妻とボクとが塚本幼稚園の教育に共感し共鳴したことが発端なんだ。なにしろ、幼稚園児に教育勅語を暗唱させ、五箇条のご誓文や軍歌を覚えさせる素晴らしい理想の教育。籠池夫婦もボクら夫婦も、ともに戦後民主主義を否定して、戦前の臣民の道を履践しようという右翼と右翼。言わば、妻も私も籠池の臣民教育に感動し、籠池夫婦はアベ極右政治姿勢に共鳴して、同志的な連帯感をもったということだ。籠池が、設立予定の学校に、安倍晋三記念小学校などと命名しようとしたのはその同志的連帯の証し。私も、右翼の支持者に手柄顔ができると思ったんだ。今は、勅語教育が攻撃の的になり、私が手のひら返したことで、右翼の諸君も私を裏切り者と言い始めている。
ボクは、こんなとき、教育勅語を読み直す。
爾臣民
父母ニ孝ニ
兄弟ニ友ニ
夫婦相和シ
朋友相信シ
恭儉己レヲ持シ
博愛衆ニ及ホシ
學ヲ修メ 業ヲ習ヒ
以テ智能ヲ啓發シ
徳器ヲ成就シ
進テ公益ヲ廣メ……
妻との間の「夫婦相和シ」も実は怪しい。「朋友相信シ」は完全に壊れてしまった。正直の徳目は、教育勅語にはない。「徳器ヲ成就シ」がこれに当たるだろうか。ともかく今はなんとしてでも、籠池を嘘つきの悪者に仕立てて、右翼政権の窮地を脱しなければならない。
妻を証人喚問させるなんて、そんな真実バレバレを許してはならない。そんなことをするくらいなら、総理大臣も議員もやめた方がマシだ。さりとて、証人喚問を拒否すれば、ますます疑惑がふくらんで支持率はますます下がることになる。疑惑が深まっても、拒否せざるを得ない。いい考えも出てこないから、ここしばらくユーウツなんだ。頭がイタイ…。
(2017年3月24日)
アベ友学園疑惑とは、アベの口利きによって、国有財産がただ同然で払い下げられたとの嫌疑である。
だれが名付けた「アッキード」。だれが言ったか「疑惑の3日」。だれの言葉か「疑惑のキーマン」。だれもが疑う「口利き疑惑」。「忖度」程度じゃ収まらない、のだ。
アベ友学園疑惑は、次々と小出しの事実が露わにされて目が離せない。明後日(3月23日)に衆参両院で籠池の証人質疑があって新段階を迎える。手負いの籠池が失うものは既にないとして真相をぶちまけるのか、あるいはブラフの切り札を温存しようと寸止めするのか。それは読めない。
情報が拡散し全体像が曖昧になりつつある「アベ友学園疑惑」だが、疑惑の追及は焦点を定めなければならない。いま、分かりつつあることから、何をもって疑惑の核心とし、何を標的に「疑惑解明」をなさんとしているのか、その視座と視点を明確にしなければならない。
☆アベ友学園疑惑の核心とは、現職首相の口利きによって、国有財産がただ同然で払い下げられ、国民が損害をこうむったことにある。もちろん、今は「疑惑」のレベルであるが、このことを「疑惑」ではなく、証明された事実として暴き出すこと、それが事件に関心をもつ者の共通の課題として確認しなければならない。このような課題を明確にすることなしに、迷宮の奥にある真実にたどり着くことはできない。
☆アベ友学園疑惑の構造は、右翼である現職首相の極右教育への礼賛ないし共鳴が底流にある。右翼首相と極右学校経営者との二つの合い寄る魂を、財務官僚と地方教育行政が支えた。校地取得の面では理財局と近畿財務局、そして私立小学校設立認可の面では大阪府知事と大阪府教育庁である。この4者の連携・協働の構造を骨格として確認しなければならない。
☆以上のアベ友学園疑惑の構造において、最重要の関係はをなすものは、右翼首相と極右学校経営者との二つの魂の遭遇であり親密な接近である。新設予定小学校の校名が「安倍晋三記念小学校」とされ、現職首相の名が寄付の勧誘に用いられた。
これほどの、現職首相とアベ友学園経営者の親密な関係の接点で、首相の妻が重要な役割を演じている。これが、「アッキード」という所以。学園の教育を褒めそやし、複数回の講演をし、新設予定小学校の名誉校長を引き受け、経営者の妻とのメール交換もしている。さらに、新たな100万円寄付疑惑である。寄付を受けたとする者が、「安倍晋三からです」との金の出所の口上まで詳細に語っている。これに寄付をしたと名指しされている者が、自らは口を閉ざして反論していないというのが現状。「民間人」は宣誓の上証言させ、首相の妻という「準公人」を糺そうとしない、この不公正。ここにも遠慮や忖度が見て取れる。
この100万円寄付疑惑は、事実が明らかとなれば、アベ側の右翼教育への共鳴・礼賛の証左として重要な意味をもつ。間接的には、口利き疑惑、少なくも忖度疑惑の有力間接事実となる。「100万カネを出すほどに思い入れが深かったのだから、理財局に口利きくらいはしたことを否定し得ない」との新たな疑惑推認の根拠になるということ。
☆「疑惑の3日」とは、2015年9月3日から5日までの3日。戦争法反対のデモの高揚期でのこと。9月3日午後に、首相は迫田英典理財局長と会っている。財務省の岡本薫明官房長も同席が確認されている。理財局長は国有地の管理や処分を管轄する最高責任のポスト。本件国有地の払い下げはこれ以後異例の進捗を見ているではないか。
その翌日9月4日午前午前中に、近畿財務局9階の会議室で近畿財務局幹部が「瑞穂の國記念小學院」の建設会社の関係者と、双方2人づつの計4人で会合を開いている。そして、4日午後には「テレビ出演」のために、首相が大阪入りしている。
そして、翌日の9月5日にアベの妻がアベ友学園で講演し、新設予定小学校の名誉校長に就任。就任の挨拶は、「こちらの教育方針は大変主人もすばらしいという風に思っていて、(籠池)先生からは、安倍晋三記念小学校という名前にしたいと…」まで述べている。100万円寄付疑惑は、その日のことだ。
☆国有地払い下げが異例ずくめだったことは疑いがない。まずは、異例の国有地についての借地契約がなされ、それに基づいて異例の認可適当との答申があり、さらに異例の超低価格での国有地払い下げがあって、しかも分割払いという至れり尽くせりである。その上、すべての交渉資料が破棄済みだというのだ。今のところ、アベの口利きがあったであろうと考えるのが、最も合理的な推認。その口利きの機会として考えられるのが、9月3日のアベ・迫田面談である。アベの選挙区出身で事件後異例の出世を遂げているというこの迫田英典(現国税庁長官)が「疑惑のキーマン」にほかならない。
だから、言いたい。だれが名付けた「アッキード」。だれが言ったか「疑惑の3日」。だれの言葉か「疑惑のキーマン」。だれもが疑う「口利き疑惑」。「忖度」程度じゃ収まらぬ。
(2017年3月21日)
今日は、3・11。震災・津波・原発の被害について、ぜひとも書かなければならないところだが、思いがまとまらない。PKO部隊の南スーダンからの撤退問題も、アベ友小学校設立認可問題の新局面も、共謀罪も沖縄も韓国も豊洲も軍学共同もトランプも…、書くべきことが山積している。しかし、残念ながら、読んでいただくに値するほどの文章を書ける自信がない。やむなく、イナダ防衛相の資質に関連して、教育勅語について書くことにする。
結論から言おう。イナダは自衛隊を統率する人物として明らかに失格だ。こんな偏頗な思想の持ち主を防衛省のトップに据えておくことは、危険極まりない。この人物、頼りないというだけではない。現行憲法の理念がまったく分かっていない。いや、頭の中が、完全に「反・日本国憲法」で「大日本帝国憲法ベッタリ」なのだ。
大日本帝国憲法時代の日本は、天皇を神とし教祖でもあるとした宗教国家であった。その宗教を国家神道と呼んでいる。国家神道とは、分かり易い言葉を使えば「天皇教」というオカルトである。その教典こそが、教育勅語だった。日本中の教場を布教所として、訓導たちが天皇教の布教者となって子どもたちを洗脳した。日本中が、あの「塚本幼稚園」状態であったわけだ。
いささかなりとも理性をもった目で読めば、神なる天皇から臣民に下しおかれたという、明らかにバカげたカルト文書。少しでも理性の持ち合わせがあれば、こんなものを持ち上げることもありがたがることもできるはずがない。普通の感覚からは、教育勅語を評価していると思われることは、知性も理性もないと言われることと同旨。「恥ずかしい」ことなのだ。
教育勅語は大日本帝国憲法と一対をなすものであった。大日本帝国憲法が失効して、なお妥当性を保つことは出来ない。1948年6月、両院でその廃絶の決議が成立している。とりわけ参議院の決議は、日本国憲法に則って教育基本法を制定した結果として、教育勅語は既に廃止されて効力を失っているとした。教育勅語に代わって、日本国憲法と一対をなす教育の大原則が教育基本法である。
教育勅語の中に、「國憲を重んじ」という一文がある。国憲とは大日本帝国憲法のことにほかならない。当時主権は天皇にあった。だから、エラそうに、天皇が上から臣民を見下して、「憲法を守れ」などと説教できたのだ。
日本国憲法は主権者である国民が作った。その宛名の筆頭は、憲法99条に明記されているとおり天皇である。「憲法を守れ」とは、主権者国民が天皇に向かって言う命令なのだ。だから「教育勅語にもいいところがある」などとは、口が裂けても言ってはならないのだ。
教育勅語の原文は、もったいぶった虚仮威しの言い回しによる読みにくさはあるが、深淵な思想や哲学をかたっているわけではない。さして長くはない文章。句読点をつけるべきところを一字空け、適宜改行して、読み易くしてみよう。
?育ニ關スル勅語
朕惟フニ 我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ 徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民 克ク忠ニ 克ク孝ニ 億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ濟セルハ 此レ我カ國體ノ精華ニシテ ?育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
爾臣民
父母ニ孝ニ
兄弟ニ友ニ
夫婦相和シ
朋友相信シ
恭儉己レヲ持シ
博愛衆ニ及ホシ
學ヲ修メ 業ヲ習ヒ
以テ智能ヲ啓發シ
徳器ヲ成就シ
進テ公益ヲ廣メ
世務ヲ開キ
常ニ國憲ヲ重ジ 國法ニ遵ヒ
一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ
以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
是ノ如キハ 獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス
又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ 實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ 子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所
之ヲ古今ニ通シテ謬ラス 之ヲ中外ニ施シテ悖ラス 朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ 咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御名(睦仁)御璽
ご覧のとおり、教育勅語には「我カ臣民 克ク忠ニ 克ク孝ニ」と、忠孝から始まる幾つかの徳目が書き込まれている。もちろん、天皇制権力に好都合な徳目を羅列して臣民に押しつける類のもの。個性・自主性・自律性の確立、貧困を克服し格差を是正する努力、個人の尊重、男女の平等、権力に対する抵抗、弱者の連帯や団結、平和への献身、国際貢献、自由・人権の重視、宗教や政治信条への寛容、政治的な関心の涵養などは、徳目として書き込まれるはずもないのだ。普遍性を欠いた教育勅語の一部の徳目を持ち上げ、「それ自体は悪くない」などと言うのは笑止千万というべきである。
「修身斉家治国平天下」という中国・朝鮮伝来の儒教思想で固められ、その枠の中の「孝」であり「友」であり、「和」「信」ではないか。「親孝行も、夫婦仲良くも良いことだから、教育勅語も悪くない」は、ものを考えようとしない愚者の言か、人を騙そうとする扇動者の言でしかない。
教育勅語のすべての臣民の徳目は、「常ニ國憲ヲ重ジ 國法ニ遵ヒ 一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ 以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」に収斂する。
私流に、これを現代語訳してみよう。なお、「朕」の訳語は「オレ様」、「爾臣民」は「おまえたち家来ども」がぴったりだ。
「おまえたち国民はオレ様の家来だということをよくわきまえて、オレ様が作った大日本帝国憲法と、オレ様の議会が作ってオレ様が公布するすべての法律に文句を言わずに従え」「もし戦争や内乱や革命など、一大事があるときには、必ずオレ様の兵隊となって命令のとおりに勇猛果敢に命を投げ出す覚悟をせよ。そのようにして、オレ様一族の繁栄が永遠に続くよう最善を尽くさなければならない。それこそがおまえたち家来が守るべき最高の道徳なのだ」
だから教育勅語は、軍国主義の核でもあり基礎でもあるというのだ。富国強兵の時代にはともかく、平和憲法の時代には失効するしかなかった。
以上が、常識的な見解である。ところが、このような常識をもちあせていないことを明言した大臣がいる。イナダ防衛大臣。
3日前の水曜日、3月8日の参議院予算委員会。福島みずほ議員が、教育勅語の評価に関して稲田朋美防衛大臣の認識を問いただして追及した。以下は、その抜粋である。
○福島みずほ 稲田大臣にお聞きをいたします。「ウイル」2006年10月号、228ページの下段、御自身の発言を読み上げてください。
○イナダ (抵抗したが、結局は読み上げる)「教育勅語の素読をしている幼稚園が大阪にあるのですが、そこを取材した新聞が文科省に問合せをしたら、教育勅語を幼稚園で教えるのは適当でないとコメントしたそうなんです。そこで文科省の方に、教育勅語のどこがいけないのかと聞きました。すると、教育勅語が適当でないのではなくて、幼稚園児に丸覚えさせる教育方法自体が適当ではないという趣旨だったと逃げたのです。しかし新聞の読者は、文科省が教育勅語の内容自体に反対していると理解します。今、国会で教育基本法を改正し、占領政策で失われてきた日本の道徳や価値観を取り戻そうとしている時期に、このような誤ったメッセージが国民に伝えられることは非常に問題だと思います。」
○福島みずほ この幼稚園というのは塚本幼稚園のことですか。
○イナダ 今報道等で取り上げられている状況等勘案いたしますと、ここで私が指摘をしているのは塚本幼稚園のことだと推測いたします。
○福島みずほ この後に教育勅語について発言をされているんですが、最後の一行も含めて教育勅語の精神は取り戻すべきという考えは現在も維持されていますか。
○イナダ 教育勅語の核である、例えば道徳、それから日本が道義国家を目指すべきであるという、その核について、私は変えておりません。
○福島みずほ 最後の一行まで全部正しいとおっしゃっていますが、これでよろしいんですね。
○イナダ 私は、その教育勅語の精神であるところの、日本が道義国家を目指すべきである、そして親孝行ですとか友達を大切にするとか、そういう核の部分ですね、そこは今も大切なものとして維持をしているところでございます。
○福島みずほ 念のため聞きます。この文章はこうです。稲田さんが、「麻生大臣は最後の一行が良くないと、すなわち『天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ』といったような部分が良くないと言っているが私はそうは思わない」と言っているんです。つまり、これ全部ということなんですね。この部分も含めて全部ですね。
○イナダ 今申し上げましたように、全体として、教育勅語が言っているところの、日本が道義国家を目指すべきだというその精神ですね、それは目指すべきだという考えに今も変わっていないということでございます。
○福島みずほ 教育勅語が、戦前、戦争への道、あるいは国民の道徳の規範になって問題を起こしたという意識はありますか。
○イナダ そういうような一面的な考え方はしておりません。
イナダに比べれば、麻生太郎が常識的な人物に見えてくる。かくも、防衛大臣は非常識で危険なのだ。
なお、イナダは答弁の中で、執拗なまでに「道義国家」という言葉を繰り返している。教育勅語は、明らかに好戦的な軍国主義の宣言であって、国家としての道議を説くものとなっていない。もとより、「道義」も「道義国家」も教育勅語の原文にはない。
「実は、稲田が持ち出してきた『道義国家』は、『国民道徳協会』現代語訳教育勅語にある「私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます」から引いていると思われますが、教育勅語にはこんな文句はないわけです。明らかに教育勅語が〈読めてない〉」(早川タダノリ)というのが同氏の指摘。なるほど、指摘されて見るとそのとおりなのだ。イナダの答弁は、この現代訳からの借り物。
早川氏には、日民協の「法と民主主義」2017年3月号(3月下旬発刊)にその間の事情を詳しく寄稿いただいている。是非、ご一読いただきたい。
戦前、天皇のために死ぬことが誉れという、天皇教の教義を国民に叩き込んだ教典としては、教育勅語のほかに「軍人勅諭」があり、東条内閣の時代に「戦陣訓」も作られた。兵に天皇の命令のままに死ねと教えた「軍人勅諭」と「戦陣訓」。ともに今はないが、防衛大臣が、教育勅語を持ち上げるのは不気味で恐ろしい。
イナダが、ヌケヌケと教育勅語礼賛を語ることができるのは、アベ政権あればこそである。籠池という尻尾を切っただけでよしとすることはできない。頭も胴体も潰しておかねばならない。イナダのごとき、バランス感覚を欠いたこんな危険人物を防衛大臣にしておくことはゆるされない。
(2017年3月11日)
以下は、井上清『天皇の戦争責任』(現代評論社)「はしがき」の抜粋である。著者の息遣いが伝わってくる。くり返し読むに値するものと思う。
「かつての大日本帝国が、大東亜侵略戦争に敗北し、連合国に降伏してから、三〇周年の日を迎えようとしているいま、私は、あの戦争のぎせい者たち、日本人であると外国人であるとを問はず、軍人もそうでないものも、すべてのぎせい者たちに、真心こめて、一冊の小さな本をささげたいと思う。
その本は、あの戦争における天皇裕仁の責任を、確実な資料によって明らかにしたものである。
天皇は、大日本帝国の唯一最高の統治権者であり、大日本帝国軍隊の唯一最高の統帥権者であった。そればかりでなく、天皇は日本国創造の神の万世一系の子孫であると称する神的権威であった。この最高の権力・神的権威である天皇陛下の命令・統帥なしには、日本国とその軍隊は対外戦争はできなかった。そして日本国民は、天皇に無条件絶対の忠誠をささげるよう、教育され、あるいは強制されて、あの戦争にしたがった。
こういう地位にある天皇裕仁に、戦争責任がないなどとは、ふつうの人間世界に通用するはずのない論理である。しかし、それが日本では通用している。「天皇は立憲君主として、政府や大本営など、輔弼(天皇をたすける)機関が適法に決定して天皇の裁可を請うたことを、裁可しなければならなかった。したがって責任はすべて輔弼者にある」というのが、天皇裕仁自身の論理であり、また天皇に戦争責任なしとするすべての人の論理である。
この本は、そういう論理がなりたたないこと、天皇裕仁は、たんなる捺印器でもなければロボットでもなく、まさに自分が日本国の唯一最高の統治権者であることの責任をはっきり自覚し、主体的に判断し、決意して、あの戦争を発動し指揮したことを、克明に論証した。払が用いた資料は、すべて印刷出版されているので、読者は、もし必要ならば、資料批判もふくめて、私の見解の当否をたやすく検討できるであろう。
((略))
この小さな研究が、日本軍国主義の再起とたたかう人びとのお役に立つならば幸いである。
一九七五年七月一六日 井上清」
併せて、天皇裕仁の記者会見の発言も引用しておこう。
─天皇陛下はホワイトハウスで「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がありましたが、このことは戦争に対しての責任を感じておられるという意味に解してよろしゅうございますか。また、陛下はいわゆる戦争責任についてどのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします。
天皇「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答え出来かねます」
─陛下は(中略)都合三度広島にお越しになり、広島市民に親しくお見舞いの言葉をかけておられましたが、原子爆弾投下の事実を陛下はどうお受け止めになりましたでしょうか。おうかがいしたいと思います。
天皇「この原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむおえないことと私は思っています」
この天皇(裕仁)の無責任ぶりが国民的な批判を受けることはなかった。天皇の戦争責任は、「一億総懺悔」の底に沈み込んでしまったのだ。日本の国民は、いまだにあの戦争の責任の構造を明らかにし得ていない。そのことの影響は大きい。
昨日(3月3日)の石原慎太郎弁明会見における石原の「責任」の語り口の軽さもここに原因していると言ってよい。石原の無責任ぶりは、天皇(裕仁)の亜流であり、その自己免責の理屈は、井上のいう「天皇裕仁自身の論理」の借り物である。
石原の理屈はこうだ。
「(私は)当時の最高責任者として、審議会なり専門家の特別委員会なり、あるいは議会は調査権を持っていろんな調査して、委員会でもきわどい採決で可決されたわけですけども。それを踏まえて、私は最高責任者として、とにかく豊洲移転に裁可願いたいということで、それを承諾して裁可しましたということで、私のハンコを預かっている課長さんが私のハンコを押してことが決まったわけです」
これは、「天皇は立憲君主として、政府や大本営など、輔弼(天皇をたすける)機関が適法に決定して天皇の裁可を請うたことを、裁可しなければならなかった。したがって責任はすべて輔弼者にある」という、天皇免責論そのものではないか。
石原は「最高責任者として裁可したことに関しては責任があるが、私一人というよりも行政全体の責任だ」「総意として上がってきたものを認可した。議会も是とした。責任はみんなにある」とした。その文脈で、「つかさつかさで」という言葉を5度使い、あとは「知らない」「聞いていない」「分からない」と9度繰り返したそうだ。これは、まさしく「一億総懺悔」ではないか。
天皇は、戦争責任を「言葉のアヤ」という「文学方面」の問題と言った。戦没者遺族のすべてが戸惑ったろうが、死者のために心底怒った人は多くはなかった。石原の「最高責任者として裁可したことの責任」も、「言葉のアヤ」程度の自覚でしかない。都民や国民は、これを怒る資格があるか、考えてみる必要があるのではないだろうか。
驚くべきことに、石原がいう「最高責任者として裁可したことに関しての責任」には、民事的な損害賠償責任は含まれていないことだ。「専門家の意見も聞いた上で、議会でみんなで決めたことで私個人の裁可の責任を攻められるのは違うと思います。そんなことで損害賠償訴訟を起こされるなら、私は不当提訴しますよ」とまで述べている。(「私は不当提訴しますよ」は「違法な提訴として、逆に提訴者を訴えますよ」という意味であろう)
これが「国士」を気取って「憂国」を語り、「逃げているとか、隠れているとか言われることが一番嫌い」と言ってきた人物の責任感覚である。
いまさらにして思う。このような人物を知事にして持ち上げてきた都民の責任を。石原とは較べものにならない、超弩級の天皇の責任回避に目をつぶってきた国民の責任を。石原にだけ、「責任逃れ、恥さらしではないか」と言うことに、「何か、割り切れない」ものが残るのだ。
(2017年3月4日)
一昨日(3月1日)の朝日新聞が、「森友学園 公教育を逸脱している」と、異様な塚本幼稚園の教育内容を批判する社説を掲載した。
http://www.asahi.com/articles/DA3S12819044.html
森友学園とアベ政権の関係をめぐるこの一連の疑惑。その根底にある最も本質的な問題は森友学園の教育内容にある。反憲法的な復古主義教育に、政権が無批判であるだけでなく、異例の優遇を重ねてきたことが大問題なのだ。この偏頗な教育内容をこそ、批判の対象としなければならない。「私立学校だから教育方針は自由」との「屁理屈」を許してはならない。キーワードは「公教育」である。私立学校といえども、公教育である以上は教育基本法を頂点とする教育法体系を尊重しなければならない。
朝日社説は、このことを明確に意識したものとなっている。
「子どもの教育法として望ましい姿とはとても思えない。
学校法人森友学園(大阪市)が運営する幼稚園が、運動会の選手宣誓で園児にこんな発言をさせていた。
『日本を悪者として扱っている中国、韓国が心改め、歴史でうそを教えないようお願いいたします』『安倍首相がんばれ』『安保法制国会通過、よかったです』
運動会とはおよそ関係のない話で、異様さに耳を疑う。
教育基本法は、特定の政党を支持するなどの政治教育や政治的活動を禁じている。安倍首相自身、自らへの『応援』について国会で『適切でないと思う』と述べた。当然だ。
深く理解できる年代でもない子に、他国名をあげて批判させたり、法の成立をただ『よかった』と言わせたりすることが、教育に値するだろうか。
他者を排し、一つの考えを植えつけるような姿勢は、公的制度にのっとった公教育としてふさわしくない。『自他の敬愛と協力』の重視を求める教育基本法の趣旨にも反する。
この幼稚園は、園児に教育勅語を素読させてもいる。学園が4月に開校予定の小学校でも同様に素読させるとしている。
教育勅語は、天皇を頂点とする秩序を説き、戦前の教育の基本理念を示したものだ。『基本的人権を損ない、国際信義に対して疑問を残す』などとして、48年に衆参両院で排除・失効の確認が決議されている。この経緯からも、素読は時代錯誤だ。
首相の妻の安倍昭恵氏は、幼稚園での講演で『この幼稚園でやっていることが本当にすばらしい』と語ったという。教育内容をどこまで知っていたのか。小学校の名誉校長を辞したが、経緯はなお不明なことが多い。
首相は当初、学園や理事長について『妻から先生の教育に対する熱意は素晴らしいと聞いている』と肯定的に語っていたが、その後、『学校で行われている教育の詳細はまったく承知していない』などと距離を置き始めた。いかにも不自然だ。(以下略)」
そして、本日(3月3日)の毎日新聞社説が続いた。森友学園の教育内容を厳しく批判したもの。題して、「森友学園 教育機関と言えるのか」。
http://mainichi.jp/articles/20170303/ddm/005/070/098000c
「果たして教育機関を名乗る資格があるのか。学校法人「森友学園」の実態が明らかになるにつれて疑念が深まる。
学園が運営する幼稚園の運動会で「安倍(晋三)首相がんばれ。安保法制、国会通過よかったです」などと園児に選手宣誓をさせていた。この映像を見て異様さを感じた人は少なくないはずだ。
教育基本法は思想が偏らないよう教育の政治的中立を求めている。園児にこうした宣誓をさせることが法を逸脱しているのは明らかだ。
政治について理解する力が身についていない幼児に、大人の思想を押しつけるのは教育ではなく、まさに洗脳である。
子供の健全な成長に影響を及ぼしかねない深刻な事態だと受け止めなければならない。
この幼稚園は教育勅語を園児に暗唱させており、新設予定の小学校でも素読させるとしている。
明治憲法下の教育理念である教育勅語は忠君と国家への奉仕を求めていた。1948年、『基本的人権を損ない、国際信義に対して疑いを残す』などと衆参両院で排除と失効確認が決議された。公式決議の意味は重く、教育現場での暗唱はふさわしくないはずだ。
強引に戦前回帰を進めようとする籠池泰典理事長らの姿勢は時代錯誤と言わざるを得ない。
学園を監督する大阪府は、教育基本法の趣旨を踏まえた教育内容に改めるよう指導を徹底すべきだ。(以下略)」
両紙の社説に賛同し、敬意を表したい。毎日の「政治について理解する力が身についていない幼児に、大人の思想を押しつけるのは教育ではなく、まさに洗脳である。」という一文が、本質を衝いている。
教育とは、特定の価値観を押しつけることではない。多様な見解に柔軟に接して咀嚼する姿勢を基本に、自らの価値観を形成する能力を育成することではないか。教育勅語こそは、天皇制権力による臣民への偏頗な國體意識刷り込み教育の象徴であった。現代の公教育の場にあってはならないものと言うべきである。これを口を揃えて幼児に暗唱させるなど、醜悪でおぞましい洗脳以外のなにものでもない。新設小学校でこのようなことがあれば、入学児童に対する人格破壊行為と言って過言でない。
森友学園に突出して見えている問題は、実は政権も抱えている。幼稚園児や保育児童に対して、「日の丸・君が代」に親しませるというのだ。まさしく、三つ子の魂に、ナショナリズムを吹き込もうということではないか。
森友学園への批判と怒りは、アベ政権への批判と怒りにしなければならない。
(3月3日)
事態の推移が目まぐるしい。昨日(3月1日)の当ブログで、「アベ友学園疑惑」問題での攻防の焦点は4月開校予定の「瑞穂の國記念小學院」の開設許可を阻止できるか否かだ、と書いた。ところが、本日(3月2日)の毎日夕刊に、年度内の設立認可は保留となって、「開校は早くても来年4月になる見通し」の記事が出た。緒戦の勝利だ。これで、疑惑の全容解明に弾みがつこうというもの。昨日(3月1日)の参院予算委員会での共産党小池晃質問の衝撃の効果が大きい。
昨夕の鴻池議員の記者会見も衝撃だったが、本日の朝日夕刊には、「森友学園と国の交渉仲介か 鴻池氏の事務所、接触25回」の記事。「事務所は籠池氏と国の交渉を仲介し、籠池氏や国との接触は2年半で25回に上った。籠池氏の要求は次第にエスカレートし、具体的な金額を提示して金額を低くするよう国への働きかけを求めていた。」という。これこそは、今後解明すべき疑惑の本流であろう。
これは、甘利問題に続いての、あっせん利得処罰法(正確には、「公職にある者等のあっせん行為による利得等の処罰に関する法律」)違反疑惑ではないか。もちろん、「コンニャク」(100万円)まがいを差し出したという籠池夫妻側にも、同法4条違反の「利益供与罪」の疑惑がかかることになる。法定刑は、「1年以下の懲役または250万円以下の罰金」である。
ところで、小池質問にアベが答弁を渋ってもち出したのが、「私の妻は私人」の論理。私人の行為についての質問に回答の義務はなかろう、という文脈での理屈。まともな理屈にならないことはアベもよく分かっているのだろう。一応は拗ねてみたものの、結局は不誠実ながらも回答はしているのだから。
この「首相の妻は公人か私人か」論争。結構紙面を賑わせている。たとえば、朝日が、「首相は、学園が開校予定の小学校の名誉校長になっていた昭恵氏について、『私人だ』と主張。これに対して、野党側は『学園のパンフレットや講演会でも『内閣総理大臣夫人』の肩書で紹介されている。明らかに公人だ』(共産党の小池晃書記局長)と批判している」という具合に。
小池質問とアベ答弁の該当個所を、産経の報道に基づいて抜粋してみる。
小池「『安倍晋三小学校をつくりたい』という話があったのは、総理を辞めたときとおっしゃっていますが、これはいつか?」
安倍「いつかというのは、辞めた後でして、いつかということは記憶には定かではない。夫婦の会話ですから、それは、いつそういう会話をしたかは明らかではないのは当たり前なのではと思います」
小池「『辞めたときに、妻が知っておりまして』ということは、それ以前から夫人は籠池氏を知っていたということか? 総理夫人は、籠池氏といつからの知り合いか? これまで何度会われているのか?」
安倍「これは総理を辞めた後ですから、いつかはわかりませんよ。そして、妻は私人なんです。いちいち、その妻をまるで犯罪者扱いするのは、極めて、私は不愉快です。極めて不愉快ですよ! 本当に私は不愉快ですよ、そういう犯罪者扱いするのは。それは、いつ知ったかということについてはこれは、私は承知をしておりません」
小池「『私人』とおっしゃいますが、パンフレットにも出ている。講演会でも『内閣総理大臣夫人』という肩書が紹介されている。肩書が困るのであれば『やめてください』と言うべきだ。そのまま講演して、パンフレットに載っている。学校案内に載っている。明らかに公人としての活動だ。」
「公人」「私人」二分論が、論争の前提にある。「公人」にプライバシーはなく、批判の言論に高度の受忍義務が課せられる。「私人」のプライバシーは尊重を要するし、名誉毀損言論を甘受しなければならない筋合いはない。この分類において、いかに線引きがなされるのか。
「公人」という言葉は、法律の条文には出てこない。一般的な法律用語とも言いにくい。定評ある「法律学小辞典」(有斐閣)の項目になく、索引にも出て来ない。必ずしも明確な定義のある概念ではない。
「公人」は、アメリカの名誉毀損訴訟における判例紹介の中で、特有の意味を付与された用語だと考えられる。「公務員あるいは議員」として、公務についている人のみをさす言葉ではない。
アメリカの名誉毀損訴訟には、「現実的悪意の法理」というものが定着している。言論による名誉毀損被害者を「公人」と「私人」とに分け、公人に対する名誉毀損表現を手厚く保護する。表現者に現実的悪意(間違った表現であることを知っていてなお敢えてする故意)ない限り、違法とはならない。だから、公人と私人の区別は極めて重要となっている。
アメリカの名誉毀損判例法理では、公人は「公職者(public official)」だけでなく、「公的人物(public figure)」をも含む概念である。公的人物とは、「公職者と同等の政治的重要性をもった人物」「公衆が正当で重要な関心をもつ論点に関与した人物」などとされる(「表現の自由と名誉毀損」松井茂記)。あるいは、「公的な論争に自ら参加したり名声を得たりしたことで批判にさらされる『危険』を引き受け、しかもメディアにアクセスする手段を持つ人のこと」とも(「名誉毀損」山田隆司)。
いかなる定義を与えようとも、アベの妻が「公的人物(public figure)」に該当すること、つまりは「公人」であることにいささかの疑問の余地もない。「公務員でも議員でもないから、『公人』ではない」は、通用しない。国家からの録を食まず、選挙の洗礼も受けていないから、「私人」であるとも言えない。
この人、「公職者と同等の政治的重要性をもった人物」ではないか。「国民が正当で重要な関心をもつ論点に関与した人物」でもある。何よりも、「敢えて右翼教育礼賛の公的な論争に自ら参加したことで、真っ当な世論の批判にさらされる『危険』を引き受け、しかもその右翼教育機関の広告塔を引き受けて、メディアとの積極的な接点をもつ人」にほかならない。
ことは、わが国の政治体質の根本に関わる。徹底して疑惑を解明しなければならない。政治家への口利き依頼の有無については籠池夫妻を国会に招致しての質疑が必要である。そして、政権と右翼教育との橋渡し疑惑には、アベ妻の参考人招致が必要ではないか。けっして私人ではない。いずれも、「公的人物」として、公人としての資格において。
(2017年3月2日)