澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

自分自身の思想と良心を守り抜いた原告の皆さまに敬意を表します。

東京「君が代裁判」4次訴訟の終了報告集会にご挨拶申し上げます。
提訴から最高裁決定で確定するまでの、事件の経過や各審級の判決内容は、平松真二郎弁護団事務局長から報告があったとおりですので、私は別の角度からのお話しをさせていただきます。

弁護士は、事件と依頼者によって、はじめてはたらく場が与えられます。事件と依頼者によって、弁護士としての生きがいを得、力量を育てられるものです。私は、育てられるにはやや手遅れですが、私を除く弁護団の皆が、この事件に真剣に取り組み、弁護士としての生き甲斐を得、大きく育てられたことをありがたく思っています。

人はパンのみにて生くるものにあらず。弁護士はルーチンの債務整理のみにて生くるものではありません。弁護士を志したときには人権擁護の理念に燃えていたはずです。そのような弁護士本来の活動の機会を得たことを好運に思い、魅力ある原告の人々と信頼関係を築いて交流することができたことをありがたいこととも、好運であったとも、思っています。

この訴訟では、君が代不起立に対する懲戒処分のうち、減給・停職の苛酷な処分はすべて取り消されて確定しました。そのうちの田中さんに対する、4回目・5回目の不起立に対する減給処分がいずれも取消されて確定したことが、特筆すべき成果として強調されています。原告の訴えをよく聞く耳を持っている、血の通った裁判官のお陰でもありますが、私は、一審14人の原告団全員の熱意と真面目さが裁判所を動かしたのだと思います。田中さん一人の成果ではなく、14人全員の成果であったと思います。また、その成果は、予防訴訟から、処分取消を求めた1次、2次、3次訴訟の積み上げの上に、大きな支援の輪の広がりの中で勝ち得られたのだと思います。

一方、残念ながら4次訴訟でも、戒告処分を取り消すことはできませんでした。最高裁の壁は厚かったというほかはありません。このことは、5次訴訟以後の課題として残されたことになります。私たちは、日本国憲法の理念から、「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱せよ」という職務命令も、その職務命令違反を理由とする懲戒処分も、本来は違憲違法なのですから、戒告処分取消の判決を得るまで、力を尽くしたいと思っています。

すこしだけ、この事件において問われているものを振り返ってみたいと思います。
最近、何度か韓国へ行く機会があります。その都度ことあるごとに、韓国では国旗国歌への敬意強制に関する問題はないのか、強制に反対の運動はないのかと聞くのですが、誰もが強制を意識することもないし、強制反対の運動もない、と言います。

よく知られているとおり、韓国の国旗は太極旗。起源は李氏朝鮮時代からと言いますが、1919年の3・1独立運動では、独立を求める行進の先頭にこの旗が立ち、独立宣言文以上に、独立を求める民衆を鼓舞する役割を果たしたと言われています。以来、抗日と民族独立運動のシンボルとなり、独立後に正式に国旗として制定されました。

韓国では、右派・左派を問わず、国旗に親近感・肯定感が強いようです。この旗に、プライドを持ち、この国旗に敬意を表することは当然のことという共通の了解があり、国旗に敬意を強制の問題も、国旗に抵抗の問題も聞いたことがない、と言うわけです。

日本では事情が違うとお話しします。日本で国旗とされている「日の丸」は、かつては富国強兵と滅私奉公をスローガンとした、天皇制軍国主義国家のシンボルでした。侵略戦争と植民地主義の象徴だったと言ってよい。敗戦後、新憲法で国の基本原則が根底から変えられたのに、「日の丸」は依然として国旗となっている。この旗を憲法理念に敵対する旧体制の残滓のシンボルと考え、敬意を表することができないという少なからぬ良質な人々がいます。私も、日の丸は嫌いだ。こう説明すると、「なるほど。分かります。そんなふうに、国旗の成り立ちや意味合いが違うのですね」ということになります。日本の事情は分かるけど、韓国は違う、というわけです。

でもね、と話は続きます。日本ではあまり知られていませんが、韓国の国歌は「愛国歌」といいます。その歌詞は、韓国の自然や国民の精神を讃え、最後がこう結ばれています。

この気性とこの心で忠誠を尽くし、辛くとも楽しくとも国を愛そう

忠誠の対象は国。愛そうという呼びかけの対象も国。私の感覚では、「国に忠誠を。国を愛そう」なんて歌は気持ちが悪くて歌えない。どんな民主的な国であろうとも、国家は権力として国民と対立する。自立した個人の尊厳を守るためには、どんな国家に対しても、批判や抵抗が必要ではないか。国旗国歌に無批判に敬意を表するということは、個人の尊厳を放棄して権力に従順であれということ。だから、「国を愛そう」などとは言うべきではないし、けっして言えない。国旗国歌に忠誠を誓ったり、敬意を表明するなんてできない。そう考えている少なからぬ良質な人々がいる。私もその一人だ。だから、「日の丸が嫌い」だけでなく「国旗」が嫌いだ。

こう言うと、韓国のたいていの人は首を捻ります。そういう理屈は分からないでもないが、現実にはそんな問題も運動も韓国にはないと思います、となる。

今年(2019年)5月18日光州民主化運動犠牲者追悼の国家式典に参加しました。この式の冒頭に韓国国歌の演奏を聴きました。ああ、韓国の国民は、国旗国歌に違和感がないのだな、と思わせられました。

日本と韓国、国旗国歌に対する国民感情がずいぶん異なります。「日の丸・君が代」強制を受け入れがたいとする私たちは、いったい何に抗い、何を求めているのだろうか、と考えます。

問われているものは、歴史観であり、国家観であり、教育観ではありますが、その根底にあるのは、個人の尊厳を擁護する課題だと思うのです。自分を大切にしたい、自分の人生の主人公は自分自身であって、自分の生き方は自分で決める。国家に余計な口出しはさせない、ということが根本にあるように思うのです。

国家の権力や、社会の多数派が求めるとおりの生き方は、波風が立たず、案外楽なのかも知れません。しかし、自分は自分である、みんながそれぞれの個性を認め合って、生きてゆける社会を作りたい、とりわけ次代の社会の主人公を育てる立場の教員であれば、そう思うのは当然です。これを蹂躙する権力の行使は、理不尽極まるものといわねばなりません。

とは言え、この理不尽に抵抗するか、妥協するか。これは、人生観の分かれ目。敢えて、覚悟の抵抗をされた方に、私は尊敬の念を禁じえません。

そこで、不起立を貫き、この訴訟を闘い抜いた意義を確認したいと思います。まず、何よりも自分を裏切らず、自分の信念を曲げることなく、自分自身のプライドを守ったことが大きな成果ではないでしょうか。憲法を武器に、堂々と正論を述べたことを誇りにしてよいと思います。

それだけではなく、国旗国歌の強制に反対の大きな運動に参加し寄与したことも、素晴らしい成果だと思ます。原告の皆さんは、はからずも、歴史を進歩の方向に動かすか、退歩の方に動かすかの岐路に遭遇したのです。あきらめて権力に膝を屈するのではなく、敢然と力を合わせて闘ったことが、歴史を進展させるベクトルに作用したのです。日の丸・君が代強制反対運動は、人権運動であり、民主主義擁護運動であり、自由な教育を目指す運動でもあります。4次訴訟原告の皆様が、この運動に力強い刺激を与え、これを支える大きな力となって来られたことに、重ねての敬意を表明して、ご挨拶とします。
(2019年6月1日)

東京「日の丸・君が代」強制拒否訴訟報告

どこの国にも国旗がある。日本には「日章旗」、韓国は「太極旗」、北朝鮮は「共和国旗」である。台湾は「青天白日旗」を国旗として、「五星紅旗」に対抗している。
国家は、その象徴として国旗を制定する。国家という抽象物は目に見えないが、国家を象徴する国旗は、国民の目の前で翻ってみせる。国民の目の前で翻る国旗は、国民のナショナリズムを刺激する。おなじ旗に集う者として国民を束ね、束ねた国民を国家に結びつけるよう作用する。
国家(より正確には国家を掌握している権力者)は、より強い国民の国家統合を求めて、国民に対して「国旗を尊重せよ」「国旗に敬意を表明せよ」と要求する。国家への忠誠を国旗に対する態度で示せということなのだ。場合によっては、国旗への敬意表明が国民の法的義務となる。わざわざ法的義務としなくても、国民多数派の社会的同調圧力が、全国民に国旗尊重を事実上強いることになる。
全国民が、無理なく受け入れられる国旗をどうデザインするかは難しい。東京朝鮮中高級学校のホームページを開くと、まず目に飛び込んでくるのは、「統一旗」である。在日の皆さんが求める国家的アイデンテティをよく表している。かつての枢軸3国の内、ドイツもイタリアも敗戦後の再出発にあたっては、国旗を変えた。国家が生まれ変わったのだから、国旗も国歌も変えるのが当然なのだ。しかし、日本だけが旧態依然である。あの神権天皇制の日本。侵略戦争と植民地支配に狂奔した軍国主義日本と、あまりにも深く一体化した旗と歌とが今なおそのまま国旗となり国歌となっている。
天皇代替わりの今、あらためて、敗戦と日本国憲法制定にもかかわらず、この国の変わり方が不徹底であったことを噛みしめざるを得ない。多くの国民が、天皇の戦争責任追及をしなかった。自らの侵略戦争や植民地支配への加害責任の自覚が足りない。旧体制を支えた天皇の権威への盲従に、反省がまことに不十分なのだ。そのことが、歴史修正主義者を跋扈させ、今日に至るも近隣諸国に対する戦後補償問題が未解決な根本原因となっている。
学校での「日の丸・君が代」強制も、主には歴史認識問題である。旧体制批判に自覚的な教員の多くが、「日の丸・君が代」強制に抵抗してきた。
「日の丸・君が代」は、あまりに深く旧体制と結びついた歴史をもつ。天皇主権・天皇の神格化・富国強兵・滅私奉公・軍国主義、そして侵略戦争と植民地支配である。「日の丸に向かって起立し、君が代を唱え」と強制することは、新憲法で否定されたはずの旧価値観を押し付けることではないか。一人ひとりの思想・良心の自由を蹂躙して、国家が良しとする秩序を優先することは受容しがたい。それが、圧倒的な教員の思いであった。
しかし、国は徐々に「日の丸・君が代」強制強化に布石を打っていった。文部省は1989年に「学習指導要領」を改訂し、従前は「指導することが望ましい」とされていた表記を、「入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする。」とあらためた。さらに1999年8月には、国旗国歌法を制定して「日の丸・君が代」を国旗・国歌とした。
こうして、制度が整うと、強制の徹底を買って出る自治体が現れる。まずは、石原慎太郎都制下の東京都教育委員会が、2003年10月に、悪名高い「10・23通達」を発出した。以来、都内の公立学校では、式のたびに全教職員への起立斉唱の職務命令が発せられ、不起立の職員には懲戒処分が強行されることになった。今日まで、戒告・減給・停職の処分が延べ480名余に強行されてきた。これに関連するいくつもの訴訟が提起され、最高裁判決も積み重ねられている。
残念ながら、教員側は、最高裁で「いかなる処分も違憲」という判決を獲得し得ていない。しかし、最高裁は、戒告を超えて減給以上の実質的な不利益を伴う重い処分量定は苛酷に過ぎ、懲戒権の逸脱濫用にあたるとして、都教委の暴走に歯止めを掛けてきた。
今回、3月28日に最高裁は、都教委の上告受理申立を不受理として、現役教員の4回目・5回目の不起立に対する各減給処分(いずれも減給10分の1・1月)を違法とする原判決を容認した。不起立回数に関わりなく、君が代・不起立の処分は戒告にとどまることになった。
「日の丸・君が代」強制反対訴訟は、まだまだ続く。この訴訟と支援の運動は、児童・生徒のために自由闊達で自主的な教育を取り戻すための闘いとともにある。本来が、教育とは、国家の強制や政権の思惑からは独立した自由なものでなくてはならない。教育への公権力の介入を象徴するこの訴訟への関心と、ご支援を心からお願いしたい。

(日朝協会機関誌「日本と朝鮮」東京版・2019年6月号掲載)

(2019年5月29日)

 

本日(4月20日)の東京新聞「こちら特報部」に、国旗国歌強制の是非を問う記事。

本日(4月20日)の東京新聞「こちら特報部」に、「進んだ愛国心強制」「日の丸・君が代 問われた平成」というタイトルの記事。都教委の「日の丸・君が代」強制と、それへの抵抗の運動と訴訟の記事がメインとなっている。もう一つのテーマが、ILOによる日本政府への国旗国歌強制改善勧告の件。

リードは、以下のとおり。

「日の丸」の掲揚と「君が代」の斉唱が学校教育で規定された1989年の学習指導要領改定から30年。平成の時代は教師らにとって、思想良心の自由に「踏み絵」を迫られた時間でもあった。卒業式などで起立せず、君が代を歌わなかったのは職務命令に反するとして、処分を受けた教師らがその違憲性を訴えた裁判は今春、終結。国際労働機関(ILO)は日本政府に改善を促した。国旗国歌の強制問題は今、どこにあるのか。

「平成の時代は教師らにとって、思想良心の自由に「踏み絵」を迫られた時間でもあった。」という、「平成『踏み絵』時代論」、あるいは「思想良心受難時代論」である。「平成」という期間の区切り方にはなんの必然性もないが、なるほど、符合している。学習指導要領の国旗国歌条項の改定が1989年だった。それまで学校行事での国旗掲揚・国歌斉唱は「望ましい」とされていたに過ぎなかったものが、「国旗を掲揚し国歌を斉唱するよう指導するものとする」と、義務条項に読める文言となった。あれから、ちょうど30年。平成と言われる時代は、愛国心教育が子どもたちに吹き込まれた時代と重なった。

おそらくは、愛国心教育というマインドコントロールの効果に染まった子どもたちが、大量のネトウヨ族に育ち、嫌韓反中本や「日本国紀」などの読者となっているのだろう。自分自身の自立した主体性をもたず、自分の頭でものを考えることなく、国家や民族に強いアイデンティティを感じて、自国・自民族の歴史を美化し、民族差別を当然のこととするその心根。それが、愛国心教育の赫々たる成果だ。

これに抵抗する教員が少数派となり、抑圧の対象となり、権力的な制裁を受けてきたのが、なるほど「平成」という元号に重なる30年の時代だった。日の丸・君が代問題は、時代の空気の象徴である。こと、思想・良心の自由、あるいは教育の自由にとって、受難の時代として振り返るしかない。しかし、単なる受難一方の時代ではない。精一杯の抵抗の時代でもあった。

特報部記事の取材先は、5回の不起立で裁判を闘った田中聡史さん、やはり訴訟の原告だった、渡辺厚子さん。そして、弁護団の私、名古屋大学の愛敬浩二さん、東大の高橋哲哉さんなど。

良心的なメディアに、真面目な姿勢で取りあげていただいたことが、まことにありがたい。

ところで、東京新聞は、3月30日に、「ILO、政府に是正勧告」の記事を出している。これについては、同日に私のブログで紹介しているのでご覧いただきたい。

「ILOが日本政府に、「日の丸・君が代」強制の是正勧告」
https://article9.jp/wordpress/?p=12331

この東京新聞記事を検索すると、この記事に対する賛否の意見を読むことかできる。これが、興味深い。まことに真っ当なILO勧告への賛成意見(「日の丸・君が代」強制反対)と、まことに乱暴で真っ当ならざる反対意見(「日の丸・君が代」強制賛成)との対比が、絵に描いたごとくに明瞭なのだ。

いくつかの典型例をピックアップしてみよう。

侵略戦争のシンボルに拒否感を抱く人の思想・良心の自由は保障されるべきであり、学校という公的な場でこそ尊重が求められる。政府も国旗国歌法の審議で「強制しない」としていた。懲戒処分を背景に強制などもってのほか。(山添拓)

学校現場での「日の丸掲揚・君が代斉唱」の強制(従わない教職員らへの懲戒処分)を巡り、ILOが初めて是正を求める勧告を出したとのこと。侵略戦争・植民地支配のアンセムとして機能した「君が代」の斉唱の強制は、内心の自由の侵害です。歌わない自由を認めるべきです。(明日の自由を守る若手弁護士の会)

「君が代」「日の丸」はただの物ではなく、天皇主権とその下での侵略戦争の歴史を背負っている。だから良心的な教員であるほど、それらに敬意を表することはできないのだ。とにかく国旗掲揚や国歌斉唱を強制する職務命令は、国際的には無効であることが示されたわけだ

これ本当は独立の近代国家である(少なくともそう自称している)我が国の裁判所が言わなきゃいかんことなのよ。ところが我が国の裁判所は正反対のことを言いそういった我が国の現状に対してまたしても海外から至極真っ当な苦言を呈されるという。いつまで続けるのこんなこと

また、「ILOは反日」と言い出す輩が現れるのだろう。国連も反日、ASEANも反日、世界中反日だらけ。自分の方がおかしいとか思わないのかね。

強制賛成派は、こんな調子だ。

は?日本人じゃないんですか?
国家(ママ)歌いたくないとか、国旗掲揚したくないとか、どこのダダっ子…(笑)
嫌なら教員辞めれば良いだけw
就業規則に従わない社員みないなものですよねw

ふざけるな!教師は国旗掲揚、国歌斉唱は義務です。それが仕事だからです。いやなら、辞めればいいだけです。

↑なに大喜びで報道してんだよ
サヨクミニコミ誌か?
ホントどこの国の新聞なんだ?

「内心の自由」が無定量に認められると面白い世の中になる。「気に入らない客」も「気に入らない上司」も皆、憲法で認められた「内心の自由」で沈黙=無視しておけばオケw  いんじゃない?

えぇ……(困惑)
教員は国家と契約して国民の血税で食ってるやんな、国家に対して従うと宣誓してるワケ
なら、その国家の歌を儀式的な場で歌うというのは、至極当然のことじゃないか?

少し誤解があるようだから、一言。訴訟での教員側の主張は、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制は受け入れがたいとしているだけ。けっして、思想・良心の自由の外部的な表出行為について、無制限な自由を主張しているわけではない。教員の職務との関係で、思想・良心にもとづく行動にも当然に限界がある。

たとえば、仮に教員が天地創造説を信じていたとしても、教室では科学的な定説として進化論を教えなければならない。記紀神話の信仰者も、神話を史実として教えてはならない。その場面では、教員の思想・良心の自由という憲法価値が、子どもの真理を学ぶべき権利に席を譲るからだ。

しかし、国家と個人の関係に関わる問題についてはそうではない。優れて価値観に関わる問題として、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制に対する態度には、科学や学問とは異なり、何が正しいかを決めることはできない。この局面では、教員は自らの思想・良心にしたがった行動をとればよく、子どもたちの教育のためとして、思想・良心を枉げる必要はない。

進化論を否定する子どもや、アマテラスの存在を史実だと信じる子どもを育ててはならない。国旗・国歌の強制を認める子どもを育てるべきか、国旗・国歌の強制を認めない子どもとなるよう教育すべきかは、一律に教育も教育行政も決することはできない。その分野では、教員は自分の信念に従ってよいのだ。
(2019年4月20日)

あやまれ つぐなえ そして なくせ『君が代強制』

弁護士の澤藤から、「君が代裁判4次訴訟」の弁護団を代表して、東京都教育委員会の情報課長に一言申し上げる。

「10・23通達」発出以来、私は毎年々々、この季節にはこの場にやってきて、歴代の情報課長にもの申してきた。いつも、情報課長の後にいる極右というべき知事や、無能な教育長やお飾りの教育委員に語りかけてきた。私は、陳情や要請をしてきたのではない。憲法を知らず人権を知らない都教委に、怒りの抗議をしてきたのだ。

私は、本件のような行儀のよい原告の事件ばかりを担当してきたわけではない。不当労働行為や争議介入をする乱暴な企業、解雇事件や、公害や、消費者被害や、労災職業病などの事件で、悪徳企業・悪徳商法と果敢に闘う事件の担当を経験してきた。いま、東京都がしていることは、悪徳企業・悪徳商法並みの反憲法的違法行為以外のなにものでもなく、嘆かわしいというほかはない。

本日の抗議と要請は、3月28日の最高裁決定を受けてのもの。都教委は、この席にいる田中教諭に「君が代」斉唱時の不起立を理由に懲戒処分を科した。一再ならず、5回にわたってのこと。処分の量定は、1回目から3回目までは戒告だった。ところが、4回目・5回目は減給(10分の1)1か月というものとなった。

戒告処分についても、その違憲違法不当について言いたいことはいくつもあるが、本日の抗議の趣旨は、田中教諭に対する減給処分についてのことだ。この件については、これまでの最高最判例を踏まえたかたちで、一審東京地裁は原告の言い分を全面的に認めて当該の処分は懲戒権の逸脱濫用にあたると判断し、違法な処分と認定して処分を取り消した。都教委は、この地裁判決を不服として東京高裁に控訴したがここでも敗訴した。都教委は、さらに最高裁に上告受理申立までして、これが不受理となって、敗訴確定に至ったのが、3月28日である。

公害や、職業病や、悪徳商法の被害回復運動の合い言葉を紹介したい。
「あやまれ つぐなえ なくせ」というのだ。今、原発事故被害回復の運動や訴訟でも、「あやまれ つぐなえ なくせ 原発」というふうに使われている。

「あやまれ つぐなえ なくせ 「君が代」処分」と言いたいところだが、本日は減給以上の処分に限って言う。まずは、「あやまれ」である。

本件4次訴訟の一審判決では、《停職6月》1名、《減給10分の1・6月》2名、《減給10分の1・1月》3名(4件)が、いずれも取り消された。これについて、都教委は、田中教諭の《減給10分の1・1月》(2件)だけを控訴して、他は確定させた。そして、このたび、6名7件についての一審判決の処分取消の全部が確定した。

ところが、東京都は、この6名7件の確定した処分取消に対して、謝罪をしていない。謝罪をしようともしていない。まずは、真摯にあやまっていただきたい。

まずは、当事者本人に。それだけではない。この教員たちに苛酷な処分をすることによって、他の多くの教員を威嚇し萎縮させたのだ。すべての教員にあやまっていただきたい。そのような見せしめで、子どもたちが一つのイデオロギーに染められてきたのだ。子どもたちにもあやまらねばならない。また、訴訟費用という無駄な税金の拠出をしたことを納税者である都民にもあやまれ。

苛酷な処分によって、当事者がどんなに苦しんだか。その身なって考えて見よ。処分は、ホームページに掲載されるのに、処分の取り消しはホームページに掲載しないというのは、まったくわけの分からぬ奇妙奇天烈。至急に名誉回復の措置をとるべきが当然ではないか。

次が「つぐなえ」だ。減給処分取消に伴う、バックペイだけでこと足りたとしてはならない。原告となった教員たちは、都教委の違法な処分を取り消させるために、人事委員会申立・提訴を余儀なくされた。訴訟にはカネがかかるのが、常識ではないか。都教委側は税金で訴訟を維持しているが、教員側は手弁当だ。訴訟にかかった費用くらいは、償うべきが当然ではないか。

最後に、「なくせ」だ。教育長以下のお飾り教育委員、そして教育庁幹部には、再発防止研修がどうしても必要だ。憲法とはなにか。権力の行使とはどんな意味をもつことなのか。教育と教育行政とはどう違うのか、教育の本質とは何か、教育行政は何をすべきで何をしてはならないのか。思想・良心・信仰の自由とは何か。「10・23通達」関連判例は、都教委に何を求めているのか…。しっかりと研修を受けさせ、その研修の成果としての理解の程度を確認しなければならない。

場所は研修センターで、研修の担当者は、教育学や教育法学、あるいは憲法学のしかるべき研究者や法曹から選任すべきだが、原告弁護団からも講義担当者を出してもよい。都教委幹部は、真摯に、自分がまちがっていることを自覚しなければならない。

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?請 願 書

2019年4月15日

「日の丸・君が代」不当処分撤回を求める被処分者の会
東京「君が代」裁判原告団
共同代表 岩木 俊一  星野 直之

東京都教育委員会教育長 中井 敬三 殿

<請願の趣旨> 

1.最高裁第一小法廷(池上政幸裁判長)は2019年3月28日、東京「君が代」裁判四次訴訟(一審原告14名。上告人13名)において、一審原告らの上告を棄却し、戒告処分取消・損害賠償を求める上告受理申立を不受理とする一方、減給処分取消を認めた東京高裁判決を不服とした都教委の上告受理申立についても不受理とする決定をした。これにより、1名・2件(特別支援学校教員)の卒入学式での4回目・5回目の不起立に対する減給処分(減給10分の1・1月)が取り消され、都教委の敗訴が確定した。これは、従来の最高裁判決(2012年1月16日及び2013年9月6日)に沿って、不起立の回数を理由により重い処分を科す都教委の累積加重処分を断罪し、その暴走に歯止めをかけたものである。

2.卒業式・入学式等で「日の丸・君が代」を強制する東京都教育委員会の10・23通達(2003年)とそれに基づく校長の職務命令により、これまでに懲戒処分を受けた教職員は延べ483名にのぼる。

3.これらの懲戒処分について、最高裁判決(2012年1月16日及び2013年9月6日)は、起立斉唱行為が、「思想及び良心の自由」の「間接的制約」であることを認めた上で、「戒告を超えてより重い減給以上の処分を選択することについては,本件事案の性質等を踏まえた慎重な考慮が必要」「処分の選択が重きに失するものとして、社会観念上著しく妥当を欠き、…懲戒権者としての裁量権の範囲を超えるものとして違法」として減給処分・停職処分を取り消した。これらの最高裁判決には、都教委通達・職務命令を違憲として、戒告を含むすべての処分を取り消すべきとの反対意見(2012年1月宮川裁判官)を始め、都教委に対し「謙抑的な対応」を求めるなどの補足意見(2012年1月櫻井裁判官、2013年9月鬼丸裁判官)があり、教育行政による硬直的な処分に対して反省と改善を求めている。

4.最高裁判決とその後の確定した東京地裁・東京高裁判決及び今回の最高裁決定で、10・23通達関連裁判の処分取り消しの総数は合計76件・65名にのぼる。

5.ところが都教委は、裁判で敗訴したにもかかわらず、違法な処分を行ったことを原告らに謝罪しないばかりか、2013年12月、2015年3月?4月及び2018年2月、最高裁判決・東京地裁判決で減給処分が取り消された都立高校教員計18名に新たに戒告処分を科す(以下再処分という)という暴挙を行った。また、2012年4月より、被処分者に対する服務事故再発防止研修を質量共に強化して、「反省・転向」を強要している。更に、最高裁判決に反して、4回目以上の不起立に対して都立学校教員2名に減給処分を出した。今回の最高裁決定は、その内1人の減給処分が取り消されたことを意味する。残る1人の減給処分は東京都人事委員会において係争中である。これらは、最高裁判決の趣旨をねじ曲げないがしろにするもので断じて許すことはできない。

6.東京都教育委員会が、これまでの一連の10・23通達関連訴訟で司法に断罪され、「違法」とされた減給・停職処分を行ったこと、また今回も最高裁判決に反して4回目以上の不起立に対して行った減給処分が「違法」として取り消されたことは、教育行政として重大な責任が問われる行為である。今すぐ原告らに謝罪し、その責任の所在を明らかにし、再発防止策を講じるべきである。また、都民の貴重な税金を浪費して争った裁判で敗訴したことを都教委ホームページ等で公表し、都民に謝罪すべきである。

7.問題の解決のために、都教育庁の責任ある職員と被処分者の会・同弁護団との話し合いの場を早期に設定すべきである。

8.これまで私たちの請願・要請・申し入れなどについては教育委員会に報告・検討されず、教育庁総務部教育情報課長名で所管課の回答をまとめた文書が「回答」として送付されるだけだった。都民の請願権を踏みにじる対応を反省するとともに、10・23通達発出当時の教育委員がすべて退任した現在、あらためて同通達に係わる諸問題について教育委員会で真摯かつ慎重に議論し、これまでの教育行政及び10・23通達を抜本的に見直すことを強く求める。

以上の趣旨から、下記請願する。

<請願事項>

1.最高裁決定を真摯に受け止め、該当者に謝罪すること。

2.最高裁・東京高裁・東京地裁及び今回の最高裁決定等で「裁量権の逸脱・濫用で違法」とされた減給・停職処分を行ったことを反省し、原告らに謝罪し、再発防止策を講じること。

3.最高裁決定で減給処分取消が確定した教員に再処分(改めて戒告処分を発令すること)をしないこと。

4.最高裁・東京高裁・東京地裁判決及び今回の最高裁決定等で「思想及び良心の自由」を「制約する」とされた職務命令への違反を理由としていかなる懲戒処分も行わないこと。

5.職務命令違反を理由に最高裁・東京高裁・東京地裁判決及び今回の最高裁決定等で違法とされた減給・停職処分などの累積加重処分を行わないこと

6.今回減給処分取消が確定したことに鑑み、人事委員会で係争中のもう一人の減給処分を撤回すること。

7.10・23通達に基づく校長の職務命令への違反を理由とした過去の全ての懲戒処分を即時撤回すること。

8.10・23通達に基づく校長の職務命令を発出しないこと。

9.10・23通達を撤回すること。

10.10・23通達に係わって懲戒処分を受けた教職員を対象とした「服務事故再発防止研修」を行わないこと。

11.問題の解決のために都教育庁関係部署(人事部職員課、指導部指導企画課、指導部高等学校教育指導課、教職員研修センター研修部教育経営課など)の責任ある職員と被処分者の会・同弁護団との話し合いの場を早期に設定すること。

12.以上を検討するにあたり、本請願書を教育委員会で配付し、慎重に検討・議論し、回答すること。

(2019年4月15日)

東京「君が代」裁判4次訴訟 最高裁決定で「減給処分取消の一部勝訴確定」のお知らせ

弁護士の澤藤です。東京「君が代」裁判・4次訴訟について、最高裁の決定が出ましたので、お知らせの記者会見を行います。

ご承知のとおり、「10・23通達」が発出された2003年10月23日以来、都内公立校の卒業式・入学式における国歌斉唱時の起立斉唱強制は今日まで続いており、この強制に従わない者に対しては、容赦のない懲戒処分が科せられています。その懲戒処分の取り消しを求めるのが東京「君が代」裁判。4次訴訟は、一審原告14名、上告人13名(現職教員8名)が、処分の取り消しを求めている訴訟です。

東京地裁(2017年9月)・高裁(2018年4月)の各判決で、減給・停職処分計6名・7件が取り消され、一部勝訴しました。これに対して、都教委は1名・2件についてだけ上告受理申立を行いました。この教員に対する2件(不起立4回目、5回目)の減給処分取り消しを不服としたものです。また、一審原告教員らはすべての処分について、取り消し、損害賠償を求めて上告及び上告受理申立をし、事件は最高裁第1小法廷に係属して、双方が正面対決する構図になっていました。

以上のとおり、東京「君が代」裁判4次訴訟は、3件に分かれて最高裁に係属してまいりました。原告教員側からの上告事件・上告受理申立事件、そして一審被告都教委の側からの上告受理申立事件です。

これに対して、教員の側からの上告を棄却する決定と、当事者双方の上告受理申立をいずれも不受理とする旨の決定が3月28日付でなされ、その通知が同月30日に弁護団事務局に送達されました。4月1日付の原告団・弁護団声明を作成し、本日記者会見をする次第です。

懲戒処分を受けた教員が上告理由としているのは、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の憲法違反です。何ゆえに憲法違反か。上告理由書は260ページに及ぶ詳細なものですが、煎じ詰めれば、思想・良心・信仰の自由という憲法に明記されている基本的人権というもの価値が、他の諸価値に優越しているということです。

教員の一人ひとりに、それぞれの思想・良心・信仰の自由が保障されています。各々の思想や良心やあるいは信仰が、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明を許さないのです。公権力が、敢えてその強制を行うことで、一人ひとりの精神的自由の基底にある、個人の尊厳を傷つけているのです。傷ついた個人の尊厳という憲法価値を救うために、裁判所は国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明強制は違憲だと宣言し、懲戒処分を取り消さなければなりません。

原告教員の側は、個人の尊厳という憲法価値を前面に立て、これを侵害する懲戒処分を取り消すよう主張を重ねてきました。一方、都教委側が主張する憲法的価値はと言えば、それは国家です。あるいは国家の尊厳、国家の秩序。国旗・国歌(日の丸・君が代)は国家象徴ですから、すべての人に「国旗国歌に敬意を表明せよ」と強制するには、国家に、個人の尊厳を凌駕する憲法価値を認めなければできないこと。個人の尊厳と、国家と。この両者を比較検討してどちらを優越する価値と見るすべきでしょうか。

多くを語る必要はありません。個人の尊厳こそが根源的価値です。国家は便宜国民が作ったものに過ぎません。個人の尊厳が傷つけられる場合、公権力が個人に国家への敬意を強制することはできないはずです。

いま、最高裁判例は、「国旗・国歌への敬意表明の強制は、間接的に強制された人の思想・良心の自由を制約する」ことまでは認めています。しかし、その制約は「間接的」でしかないことから、強制に緩やかな必要性・合理性さえあれば制約を認めうる、と言うのです。私たちは到底納得できません。判例か変更されるまで、工夫を重ねて何度でも違憲判断を求める訴訟を繰り返します。

一審原告の上告受理申立理由の中心は、本件不起立行為を対象とする戒告処分も処分権者の裁量権を逸脱濫用した違法のものであって取り消されねばならない、というものです。仮に、本件各懲戒処分が違憲で無効とまでは言えなくても、わずか40秒間静かに坐っていただけのことが懲戒処分に値するほどのことではありえない。実際、式の進行になんの支障も生じてはいないのです。懲戒処分はやり過ぎで、懲戒権の逸脱濫用に当たる、と言うものです。現に、2011年3月10日東京高裁判決は、処分は違憲との主張こそ退けましたが、懲戒権の逸脱濫用として全戒告処分を取り消しています。

この高裁判決を受けての最高裁判決か2012年1月16日第一小法廷判決です。戒告処分違法の判断を逆転させて、「戒告は裁量権の逸脱濫用には当たらない」としたのです。しかし、さすがの最高裁も、戒告を超えた減給以上の懲戒処分は苛酷に過ぎて裁量権の逸脱濫用に当たり違法、としたのです。

つまり、不起立に対する懲戒処分は違憲とまでは言えない。しかし、懲戒処分が許されるのは戒告処分止まりで、それ以上の重い減給や停職などの懲戒処分は裁量権の逸脱濫用として違法。これが現時点での最高裁判例の立場です。

私たちは、多様性尊重のこの時代に、全校生徒と全教職員に対して、国旗・国歌(日の丸・君が代)に敬意表明を強制することはあってはならないことだと考えます。思想や良心、あるいは信仰を曲げても、国旗・国歌(日の丸・君が代)に敬意を表明せよという強制は違憲。少なくとも、起立できなかった教員に対する懲戒処分はすべて処分権の逸脱濫用として取消しとなるべきことを主張してきました。

問題は、都教委が教員の一人を相手方にして上告受理申立をした事件。相手方となった教員が過去3回の不起立・戒告処分があるから、4回目は減給でよいだろう。そして5回目も減給、というのです。都教委側の理屈は、「処分対象の非違行為を重ねることは本人の遵法精神欠如の表れであって、その矯正のためにより重い処分をなし得る」ということになります。

しかし、この教員の思想も良心も一つです。何度起立を命じられようとも、思想・良心が変わらぬ限り、結果は同じこと。処分回数の増加を根拠に、思想や良心に対する制約強化が許されるはずはないのです。思想を変えるまで処分を重くし続ける、などという企みは転向を強要するものとして、明らかに違法と言わざるを得ません。

実は憲法論と同じように法的価値の衡量が行われています。衡量されている一方の価値は、思想・良心・信仰の自由。その基底に、個人の尊厳があります。衡量されているもう一方の価値は、「学校の規律や秩序の保持等の必要性」であり、違憲論の局面で論じられた価値衡量の問題が、本質を同じくしながら公権力の行使の限界を画する懲戒処分の裁量権逸脱濫用の有無という局面で論じられているのです。

今回、最高裁(第一小法廷)が都教委の上告受理申立を不受理としたのは、最都教委の請求を認めず、特別支援学校現役教員の4回目・5回目の卒入学式での不起立に対する減給処分(減給10分の1・1月)の取り消しが確定したことになります。都教委の敗訴です。これは、不起立の回数(今回は4回目・5回目)の増加だけを理由に減給処分という累積過重処分を行った都教委の暴走に歯止めをかけたものと評価できます。これにより、東京「君が代」裁判四次訴訟は、原告らの「一部勝訴」で終結することになりました。

なお、4がつ1日付の東京「君が代」裁判4次訴訟原告団・弁護団声明は下記のとおりです。

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声         明

1 2019年3月28日,最高裁判所第一小法廷(池上政幸裁判長)は,都立学校の教職員13名(以下,「原告ら教職員」という)が「日の丸・君が代」強制にかかわる懲戒処分(戒告処分10件)の取消しと損害賠償を求めていた上告事件及び上告受理申立事件について,それぞれ上告棄却,上告申立不受理の決定をした。
  あわせて,一審原告1名に対する原審における減給10分の1・1月の処分の取消を維持して東京都の上告受理申し立てを受理しない旨の決定をし,減給処分を取り消した東京高裁判決が確定した。
  今回の最高裁の上告棄却及び上告不受理決定では,戒告処分の取消しが認められなかったものの,最高裁が,2012年1月16日判決及び2013年9月6日判決に沿って,減給以上の処分による国歌の起立斉唱の強制を続けてきた都教委の暴走に一定の歯止めをかけるものと評価できるものである。

2 本件は,東京都教育委員会(都教委)が,2003年10月23日に「入学式,卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について」との通達(10・23通達)を発令し,全ての都立学校の校長に対し,教職員に「国旗に向かって起立し国歌を斉唱すること」を命じる職務命令を出すことを強制し,さらに,国歌の起立斉唱命令に違反した教職員に対して懲戒処分を科すことで,教職員らに対して国歌の起立斉唱の義務付けを押し進める中で起きた事件である。
  一審原告らは,自己の歴史観・人生観・宗教観等や長年の教育経験などから,国歌の起立斉唱は,国家に対して敬意を表する態度を示すことであり,教育の場で画一的に国家への敬意を表す態度を強制されることは,教育の本質に反し,許されないという思いから,校長の職務命令に従って国歌を起立斉唱することが出来なかったものである。このような教職員に対し,都教委は,起立斉唱命令に従わなかったことだけを理由として戒告・減給等の懲戒処分を科してきた。
  なお,このような懲戒処分は,毎年,卒業式・入学式のたびに繰り返され,10・23通達以降,本日まで,職務命令違反として懲戒処分が科された教職員は,のべ480名余にのぼる。この国歌の起立斉唱の強制のための懲戒処分について,2012年1月16日,最高裁判所第一小法廷は,懲戒処分のうち「戒告」は裁量権の逸脱・濫用とまではいえないものの,「減給」以上の処分は相当性がなく社会観念上著しく妥当を欠き,裁量権の範囲を逸脱・濫用しており違法であるとの判断を示していた。

3 上記最高裁判決以降,都教委は3回目の不起立までを戒告とし4回目以降の不起立に対して減給処分とする取り扱いをしてきた。本判決は,4回目・5回目の不起立に対する減給処分を「減給以上の処分の相当性を基礎づける具体的な事情は認められない」として取り消した原判決に対する東京都の上告受理申立てを受理しなかったものである。
  今回の上告不受理決定は,不起立の回数が減給処分の相当性を基礎づける具体的な事情には当たらないとの判断を示した東京高裁判決を維持して,不起立の回数のみを理由とした処分の加重を否定したものである。
  これまでの最高裁判決そして原判決に引き続き,都教委の過重な処分体制を許さなかったことは,都教委による起立斉唱の強制に一定の歯止めをかける判断として評価できる。

4 しかしながら,一審原告らは,真正面から10・23通達発出の必要性を支える立法事実がないことを明らかにし,思想良心の自由と緊張関係に立つ職務命令の違憲性を主張して上告してきたところであり,さらに,これまでの最高裁判決が判断を示してこなかった,10・23通達,職務命令,懲戒処分が,憲法19条,20条,23条,26条が保障する教師の教育の自由を侵害,また,教育基本法16条が禁じる「不当な支配」に該当するものであって違憲違法であることを主張して上告してきたところである。
  すなわち,一審原告らは,これまでの最高裁判決を含む各判決に憲法解釈の誤りがあることを理由として上告したのに対して,「本件上告の理由は,違憲をいうが,その実質は事実誤認若しくは単なる法令違反をいうもの」であるとして一審原告らの上告を棄却した本件上告棄却決定自体,最高裁は正面から憲法判断をしなければならなかったにもかかわらず,必要な憲法判断を回避したものであって到底容認できるものではない。
  このような,最高裁の判断自体は,従前の最高裁判決に漫然と従って本決定に至ったものであり,十分な審理を尽くさず,事案の本質を見誤ったまま上告を棄却したものであって,憲法の番人たる責務を自ら放棄したとの批判を免れることはできない。

5 都教委は,この司法判断を踏まえて回数だけを理由として処分を加重する「国旗・国歌強制システム」を見直し,教職員に下した全ての懲戒処分を撤回するとともに,将来にわたって一切の「国旗・国歌」に関する職務命令による懲戒処分及びそれを理由とした服務事故再発防止研修を直ちにやめるべきである。
  特に,都教委は,都教委がした違法な懲戒処分が取り消された事実を重く受け止め,今回の上告不受理決定によって減給処分の取り消しが確定する一審原告に対して,同一の職務命令違反の事実について重ねての懲戒処分はやめるべきである。
  わたしたちは,本判決を機会に,都教委による「国旗・国歌」強制を撤廃させ,児童・生徒のために真に自由闊達で自主的な教育を取り戻すための闘いにまい進する決意であることを改めてここに宣言する。
  この判決を機会に,教育現場での「国旗・国歌」の強制に反対するわたしたちの訴えに対し,皆様のご支援をぜひともいただきたく,広く呼びかける次第である。

2019年4月1日
東京「君が代」裁判4次訴訟原告団・弁護団

(2019年4月2日)

ILOが日本政府に、「日の丸・君が代」強制の是正勧告

本日(3月30日)の東京新聞社会面に下記の記事。ILO(国際労働機関)が、日本政府に「教員に対して『日の丸・君が代』を強制せぬよう是正勧告を出した、という内容。いささかの感慨をもって読んだ。

「ILO、政府に是正勧告」というメインの見出し。これに、「『日の丸・君が代』教員らに強制」がやや小さい活字で、その前に並んでいる。ILOが日本政府に是正を勧告した内容が、「『日の丸・君が代』を教員らに強制していること」と読み取れる。

 学校現場での「日の丸掲揚、君が代斉唱」に従わない教職員らに対する懲戒処分を巡り、国際労働機関(ILO)が初めて是正を求める勧告を出したことが分かった。日本への通知は4月にも行われる見通し。勧告に強制力はないものの、掲揚斉唱に従わない教職員らを処分する教育行政への歯止めが期待される。

 ILO理事会は、独立系教職員組合「アイム89東京教育労働者組合」が行った申し立てを審査した、ILO・ユネスコ教職員勧告適用合同専門家委員会(セアート)の決定を認め、日本政府に対する勧告を採択。今月20日の承認を経て、文書が公表された。

 勧告は「愛国的な式典に関する規則に関して、教員団体と対話する機会を設ける。規則は国旗掲揚や国歌斉唱に参加したくない教員にも対応できるものとする」「消極的で混乱をもたらさない不服従の行為に対する懲罰を避ける目的で、懲戒の仕組みについて教員団体と対話する機会を設ける」「懲戒審査機関に教員の立場にある者をかかわらせる」ことなどと求めた。

 1989年の学習指導要領の改定で、入学式や卒業式での日の丸掲揚と君が代斉唱が義務付けられて以来、学校現場では混乱が続いていた。アイム89メンバーの元特別支援学校教諭渡辺厚子さんは「教員の思想良心の自由と教育の自由は保障されることを示した。国旗掲揚や国歌斉唱を強制する職務命令も否定された」と勧告を評価している。

 これまで教育方針や歴史教科書の扱いなどを巡る勧告の例はあったが、ILO駐日事務所の広報担当者は「『日の丸・君が代』のように内心の自由にかかわる勧告は初めてだ」と話している。

 実は、昨日(3月29日)、東京新聞記事に出て来る渡辺厚子さんから、下記の「個人声明」をいただいていた。

ILO/ユネスコ教職員勧告適用合同専門家委員会(CEART) 勧告

 国際労働機関(ILO)と国連教育科学文化機関(ユネスコ)の合同機関であるILO /ユネスコ教職員勧告適用合同専門家委員会(CEART)から、「日の丸・君が代」問題申し立てに対する報告・勧告が出され、2019 年3 月20 日付で公表されました。初めての勧告です。
 2014 年にアイム89東京教育労働者組合は、CEART に対し、10・23通達による卒業式および入学式における「日の丸・君が代」起立斉唱職務命令と教職員処分、そして卒業式・入学式の従来の実施内容変更と実施指針強制等の施策は、日本政府が1966年の教員の地位に関する勧告に違反しており、教員の地位勧告を遵守するようとの申し立てを行いました。
 この申し立ては2015年第12回セッションにおいて検討が開始され、CEART は、日本政府からの情報提供・回答を検討した結果、2018 年10 月1 日から5 日に開かれた第13回セッションにおいて報告・勧告を採択しました。そして3 月20 日、第335回ILO 理事会において、この報告書に留意し、報告書を公表することが承認されました。同時に本年6月に開かれるILO総会の基準適用委員会に討議資料として報告書を提出することが決定されました。
 勧告内容は、6項目に及びます。
? 式典における教職員の義務規則に関して、教員団体と対話し合意すること。規則は、国旗掲揚や国歌斉唱に参加したくない教職員にも対応できるものとすること。
? 懲戒の仕組みについて教員団体と対話する機会を持つこと。
? 懲戒審査機関に教員の立場にあるものを関わらせるよう検討すること。
? 現職教員研修(再発防止研修)を懲戒や懲罰の道具として利用しないよう見直し改めること。(カッコ内は主催者注)
? 障害を持った生徒や教員、障害生徒と関わるもののニーズに照らし、愛国的式典に関する要件を見直すこと。
? 上記勧告に関する諸努力について、その都度セアートに報告すること。
東京都では、10・23通達発出以後、「日の丸・君が代」起立斉唱職務命令に従わなかったとしてのべ483名が戒告、減給、停職処分されています。裁判所によって処分が取り消されても現職教員は同一案件で戒告再処分されています。
沈黙をしいられ、服従させられる子どもや教職員たちにとって、「日の丸・君が代」問題に関して初めて出されたセアート勧告は、大きな希望となります。
学習指導要領で縛り、教職員には市民的自由の保障はないとする政府・裁判所に対して、いかなる場合においても個人としての思想・良心の自由の権利は守られる、と明確に勧告した意義の大きさはあまりあります。また、ブラックボックスであった懲戒処分に関しても審査機関に当事者である教職員の意見が反映される手立てをとるよう勧告しました。加えて「日の丸・君が代」処分後に、必ず懲罰的に行われる再発防止研修についても明確に否定しました。
10・23通達以来、障がい児学校において、例外なく高いステージ使用が義務付けられ、それまでバリアーフリーのフロアーで自力で動いていた子ども達が、高い壇に阻まれて動けなくさせられてきた現実など、障害のある子ども達の実情をしっかり把握し、子どものニーズにあった卒業式・入学式をするよう勧告されたことは本当に意義深いことです
日本の教職員・教育にとって希望を沸き立たせるこの勧告は、日本にとどまらず、世界のあちこちで苦悩し呻吟する教職員達にも、権利擁護と教育の質の向上にむけ、大きな勇気を与えるものです。
子ども達自身のためにあるべき教育が、安倍政権によって、戦前教育へと引き戻されつつある今、今回勝ち取った勧告は、大きな意味があります。この勧告を生かしていく努力を重ね、どの子ものびのびと息をしていける教育、多文化共生の学校を作っていくために、共に闘っていきましょう。
   2019 年3 月29 日
 アイム89東京教育労働者組合元組合員
 元特別支援学校教員
 「良心・表現の自由を!」声をあげる市民の会
   渡 辺 厚 子

これで、事情はよくお分かりいただけたことだろう。日本の最高裁が容認した日本独自のローカルルールが、グローバルスタンダードに照らして批判を受け、是正を勧告されているのだ。

但し、当面直接に批判されているのは、国ではなく自治体である。とりわけ、東京と大阪が突出している。東京都・大阪府の教育委員諸君には、虚心に考え直していただきたい。あなた方が主導している、教員への国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明強制は、国連の機関から反省を迫られているのだ。

ところで、ILO(国際労働機関)は国連の専門機関ではあるが、その前身は「1919年に、ベルサイユ条約によって国際連盟と共に誕生しました」というから国連よりもはるかに古い。今年が創設100周年である。1944年、「フィラデルフィア宣言」と呼ばれる憲章を作成し、これが今もILOの憲章として生きている。その「国際労働機関憲章」前文の中に、次の文章を読みとることができる。

「世界の永続する平和は、社会正義を基礎としてのみ確立することができる」「いずれかの国が人道的な労働条件を採用しないことは、自国における労働条件の改善を希望する他の国の障害となる」「締約国は、正義及び人道の感情と世界の恒久平和を確保する希望とに促されて、且つ、この前文に掲げた目的を達成するために、次の国際労働機関憲章に同意する。」

我が国が、野蛮極まる國体を護持するために絶望的な兵員の生命を消耗する戦闘を続けていた1944年当時に、文明世界は、かくも格調高い理念を掲げていたわけだ。今の課題に引きつけて翻訳してみたらこうであろうか。

「日本という国が、教員に対して、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明という非人道的な労働条件を押し付けていることは、他の国の人道的な労働条件の改善の障害となる」「この労働条件改善の障害が蔓延すれば、大きな社会不安を起こす不正、困苦及び窮乏を多数の人民にもたらす」「そのことは、とりもなおさず世界の平和及び国際協調が危くされることにほかならない」
(2019年3月30日)

国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の撤回に関する都教委への申し入れ

われわれは、教育長を筆頭とする都の教育委員に面会を申し入れているが実現しない。テーマによっては、教育庁の人事部長や指導部長との直接交渉もしたいのだが、教育情報課長段階でブロックされる。やむなく、情報課長の背後にある、教育委員や知事に意見を申し上げる。

「10・23通達」発出以来16回目の春、卒業式・入学式の季節である。国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制はもう止めて、学校現場を生き生きとした本来の教育現場を取り戻していただきたい。このことに関して、個別の課題はいくつもあり、「『日の丸・君が代』不当処分撤回を求める被処分者の会」や、「五者卒業式・入学式対策本部」から質問や要請は多岐に渡っているが、私からは総論的な意見を2点だけ申しあげたい。

われわれは日本国憲法のもとで、日本国憲法に守られて生活している。言うまでもなく権力機構には憲法遵守の義務がある。もちろん、都教委にも。まずは、このことを肝に銘じていただきたい。

日本国憲法は、文明が構築した近代憲法の典型として、「人権宣言」部分と人権を擁護すべく設計された「統治機構」の二部門から成り立っている。憲法は個人の尊厳の確立を究極的な目的価値として、いくつもの人権のカタログをならべるている。その中の精神的自由といわれるものが、思想・良心の自由であり、信仰の自由であり、表現の自由であり、学問の自由等々である。人が人であるための、そして自分が自分であるための自由であり権利が保障されている。

近代憲法は、人権を損なうことがないように統治機構を設計し、運用を命じている。国家に人権を損なうような行為は許されない。ここには、個人の人権と、国家が持つ公権力との緊張関係が想定されていて、その価値序列において、個人の人権が国家に優越する。

国家とは主権者である国民が創設したものである。まず個人があり、その集合体としての国民が形成され、国民が国家に権力を与える。慎重に、憲法が授権する範囲においてのことである。個人・国民の利益に奉仕するために国家が存在するのであって、その反対ではない。

この個人と国家との緊張関係において、国旗・国歌(日の丸・君が代)は、その関係を象徴する存在となる。国旗国歌は、国家と等値と考えられるシンボルなのだから、国旗国歌への敬意表明とは国家に対する敬意表明にほかなならない。公権力が国民に対して、国旗国歌への敬意表明を強制することは、国家が主権者である国民に対して「オレを尊敬しろ」と強制していることにほかならない。

主権者国民によって作られた国家が国民に向かって「オレを尊敬しろ」と強制することなどできるはずがない。それは、憲法の論理の理解において背理であり倒錯以外のなにものでもない。

本来、公権力が国民に対して、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制はなしえないというほかはない。とりわけ、教育部門が国民の育成に国家主義を鼓吹するようなことかあってはならない。

二つ目。これまでの国旗・国歌(日の丸・君が代)強制に関する最高裁判決の理解について、都教委の立場は牽強付会と言わざるを得ない。詳細は措くとしても、けっして最高裁は都教委のこの野蛮を褒めてはいない。我が国の裁判所は、三権分立の理解において、司法の行政府の行為に対する役割を極めて謙抑的に理解する、司法消極主義の立場をとっている。よくよくのことのない限り、司法が行政の行為を違憲として断罪することはない。

都教委の国旗・国歌(日の丸・君が代)強制は、その行政に甘い司法からも、批判を受けていることを自覚しなければならない。地裁レベルでは明確な違憲判決もある。高裁段階では戒告まで含んですべての処分を懲戒権の濫用とする判決もある。最高裁レベルでも、反対意見もあり、多数の補足意見もある。最高裁裁判官総体からは、不正常な教育現場となっていることについての批判を受けていることを自覚しなければならない。

一つでも、そのような都教委に対する全面批判の判決のあることを恥だと思わなければならない。違憲、あるいは違法と紙一重のぎりぎりのところでの無理な教育行政を行っていることは、苟も教育に携わるものとしての見識を疑われていることとして、反省あってしかるべきである。

2003年秋に「10・23通達」が発出されたとき、極右の知事石原慎太郎のトンデモ通達だととらえた。いずれトンデモ知事さえ交代すれば、こんなバカげた教育行政は元に戻る、そう思い込んでいた。

しかし、石原退任後も石原教育行政は続いて今日に至っている。この問題が、教育右傾化の象徴となっている。今年こそ、方向転換の年となるよう願ってやまない。
(2019年3月12日)

バーネット判決から75年。それでも、フロリダではいまだに「忠誠の誓い」の強制。

友人から、下記の記事を教えられた。CNNの日本語版サイトに注目すべき記事。
CNN.co.jpメルマガ? 2019.02.19 Tue posted at 12:27 JST
https://www.cnn.co.jp/usa/35132945.html
「忠誠の誓い」拒否した中学生を拘束、人権団体から批判 米

(CNN) 米フロリダ州の中学校で11歳の黒人男子生徒が日課の「忠誠の誓い」を拒否した後、校内の規律を乱したなどとして拘束されたことに対し、人権団体などから批判の声が上がっている。

地元の学校区や警察によると、少年は今月4日、教室内で忠誠の誓いを拒否。担当の代理教員によれば、この時「国旗は人種差別的」「国歌は黒人を侮辱している」と主張した。代理教員は少年とのやり取りの後、学校の事務室に連絡した。校内に常駐する警官も駆け付けた。

警官が少年に退室を求めると、少年はいったん拒否した。その後教室を出て事務室へ連れて行かれる間、さらに騒いで脅しをかけたという。警察によれば、少年は学校の業務を妨害し警官に抵抗したとして拘束され、鑑別所へ送られた。

少年の母親は地元のCNN系列局に対し、「息子がこんな目に遭ったのは初めて」「処分を受けるとしたら学校のほうだ」と怒りをあらわにした。母親によれば、少年は優秀な生徒を集めた選抜クラスに入っている。かつていじめの対象になったことがあるという。

少年が拘束されたとの報道を受け、憲法で保障された言論の自由の侵害だとする批判が巻き起こった。人権団体「米市民自由連合(ACLU)」のフロリダ支部は、「黒人の生徒に対する行き過ぎた取り締まりの一例だ」とツイートした。

学校区は18日、生徒の言論の自由を尊重するとの声明を発表。代理教員の行動は容認できないとの立場を示した。代理教員は学校からの退去を命じられ、学校区内での職場復帰を禁じられたという。

隔靴掻痒で、詳しいことが分からないのがもどかしい。
ACLUは、通常「アメリカ自由人権協会」と訳される。大規模組織であり、影響力も大きい。「代理教員は学校からの退去を命じられ、学校区内での職場復帰を禁じられたという。」は、いかにも拙い日本語。問題の教員が解雇されたというのか、停職処分となったというのか。その理由は。「学校区内での職場復帰を禁じられた」とはいったい何のこと。何よりも、肝心の11歳の少年がどうなったのか、書いていない。鑑別所に入れられっぱなしなのか釈放されたのか。続報は目につかない。

「忠誠の誓い」(Pledge of Allegiance)というものが、アメリカ合衆国にはある。その一訳例が以下のとおり。
「私はアメリカ合衆国の国旗と,それが表象する共和国に,すなわち神のもとに不可分一体で自由と正義がすべての人のためにある国に,忠誠を誓います」

1923年には、現行の文言に定式化されて、国旗に対する敬礼が公立学校で一般化した。世界各地からの移民で構成された多民族国家である。言語も宗教も歴史もそれぞれ異なる国民を統合するシンボルとして国旗を通しての国家への忠誠が必要とされたのだ。合衆国は、自由と正義を理念とする存在とされ、国旗はその理念のシンボルともされた。しかし、すべての国民に忠誠の誓いを強制することは、自由であるはずの国家理念に矛盾することになる。とりわけ、自らが信じる神以外の一切の対象物に忠誠を誓ってはならないとする信仰者には、深刻な問題が生じることになる。

こうして、公立学校での国旗への敬礼による「忠誠の誓い」拒否が、信仰の自由と国家の要求する秩序との衝突として、大問題となる。社会問題ともなり、教育問題ともなり、最も著名な連邦最高裁判決を引き出した憲法問題ともなった。

この問題での最初の連邦最高裁判決が、1940年のゴビティス事件判決である。国旗への敬礼を偶像崇拝と見なすエホバの証人の子弟であっても、公立学校の生徒は国旗に敬礼しての「忠誠の誓い」を拒否すれば制裁を免れない、というもの。個人の精神生活の自由よりも国家の秩序を優先させた野蛮な判決であった。この判決のあと、エホバの証人に対する集団暴行や脅迫事件が多発したという。野蛮な判決は、野蛮な社会の反映であったろう。

しかし、この判決は3年で劇的な判例変更となる。1943年(第2次大戦中である)のウェストバージニア州教育委員会対バーネット事件判決で、この強制を合衆国憲法修正第1条(精神的自由の保障規定)に照らして違憲であるとの判断を下し、その後70余年この判例に揺るぎはない。にもかかわらず、今頃なぜ、フロリダ州の中学校でこんな強制事件が起こるのだろうか。

それにしても、「国旗は人種差別的」「国歌は黒人を侮辱している」と堂々と主張した11歳に敬意を表したい。その感性と行動力は立派なものだ。何よりも大切なのは、一人ひとりの尊厳であり矜持なのだ。人種差別のない、誰をも侮辱することのない社会を作ることが大切なのだ。「旗」や「歌」が、人間よりも大切なはずはない。「国旗」や「国歌」に敬意を表明することが、もっと大事な何かを傷つけるとすれば強制される筋合いはない。「人種差別的」で「侮辱的な」旗や歌の強制を拒否する権利は誰にもあるのだ。
(2019年2月28日)

「天皇在位30年」 祝意の押し付けは、まっぴらご免だ。

久しぶりに小石川植物園を散策した。梅の盛りである。紅梅・白梅みごとなものだ。ヒガンザクラも椿も彩りを添えている。吹く風もほの暖かく、沈丁花の香りを運んでくる。天気は晴朗、いつもはうるさいヒヨドリの鳴き声も今日はさわやかにきこえる。この上なく雅びで風雅な日本列島の早春。

ところが、行き帰りに目についたのが、交番の日の丸。不粋この上ない日の丸である。喚き散らす右翼街宣車によく似合う、あの日の丸。暴力団組長の床の間にふさわしい日の丸。専制的天皇制国家とあまりにも深く結びついた、国威発揚・富国強兵のシンボルマーク。侵略戦争と植民地支配の象徴てあるあの旗。

さすがに、交番以外では見かけなかったが、この早春の清雅な雰囲気をぶち壊す、興ざめも甚だしい、この旗。

本日は、暦の上での祝日ではない。各紙の朝刊一面に、政府広報の囲みが掲載されている。
「天皇陛下御在位三十年記念式典」というタイトル。これが交番に日の丸の理由。広報の内容は下記のとおりである。

●天皇陛下御在位三十年を記念し、国民こぞってお祝いするため、本日(2月24日)、天皇皇后両陛下のご臨席のもと、政府主催の記念式典を東京の国立劇場で行います。
●国旗を掲げて御在位三十年をお祝いしましょう。
●各種慶祝行事もおこなれます。

この政府広報には、大いに異議がある。
まず「国民こぞってお祝い」など、トンデモナイ迷惑な話だ。常識的に「国民こぞって」とは、「国民のすべてが」、「一人残らずみんなが」という意味だろう。私は祝わない。私は、祝うべきことだとは思わない。祝意の押し売り、押しつけは、金輪際御免を蒙る。

私の天皇在位への祝意強制拒否の表現は、どうでもよいことをことさらに波風立てているのではない。言論の自由を獲得するために必須の言論だとの自覚での発言なのだ。天皇や天皇制への祝意強制には異議を申し立てなければならない。「国旗を掲げて御在位三十年をお祝いしましょう」には、「絶対反対」と声を上げなければならない。これをどうでもよいこと看過していると、言論の自由は錆び付いてしまう。イザというとに抜けば良いという宝刀は、イザといういうときには錆び付いてしまうのだ。

民主主義の根幹をなす言論の自由を抑圧するものは、権力機構ばかりではない。むしろ主要なものは社会の圧力なのだ。とりわけ、社会の「良識」というものが恐ろしい。「『良識』ある者は天皇の批判などはせぬものだ」が通念となれば、言論の自由は大幅に切り縮められることになる。いったん縮小した権利の回復は容易ではない。

言論の自由とは「権力批判のための自由」であるのみならず、権威に対する批判の自由」でもある。分けても、権力との癒着や融合が懸念される権威」に対しては、程度の高い自由が認められなければならない。日本の現状において、その最たるものが、天皇であり天皇制である。天皇や天皇制への批判の言論の自由こそが最大限に尊重されなければならないし、天皇批判の許容度が表現の自由の程度のバロメータにほかならない。

私には、「天皇在位30年」が何ゆえ祝うべきことなのか、さっぱり分からない。忖度すれば、「国民に染みこんだ臣民根性が今に至るも健在で、天皇制打倒という運動もなく、この30年を天皇として安泰に過ごしてくることができたこと」を祝おうというものであろうか。

なお、2月20日配信の共同通信配信記事が、共産、天皇在位30年式典を欠席 政治的な利用を懸念」と報じている。その記事によれば、「共産党の穀田恵二国対委員長は20日の記者会見で、24日に開く政府主催の天皇陛下在位30年記念式典に党として出席しないことを明らかにした」という。

共産党が発表した2月20日が示唆的である。2月20日とは、共産党員作家である小林多喜二の命日である。1933年2月20日多喜二は、天皇制警察によって逮捕され、その日の内に築地署で無惨に虐殺されている。天皇(裕仁)は、「自分が命じたわけではない」と言うのだろう。その長男(明仁)は、自分には関わりがないというのだろうか。

天皇制とは、権力が利用できる権威である。だから、権力にとって調法であり、国民にとっては危険な存在なのだ。天皇個人の人格やら性格などは、些末などうでもよことに過ぎない。戦前の専制的天皇制は、権力が権威を徹底して利用し尽くした政治形態である。多喜二は、天皇の名による政治に抵抗して虐殺された。人権や民主主義を語るほどの者が、天皇に祝意を表明できるはずがないではないか

ましてや、共産党が天皇の在位30周年祝賀に参加できるはずがない。犬が人に噛みついてもニュースにはならない。人が犬に噛みつけばニュースだ。共産党が天皇の在位祝賀に不参加は、余りにも当然のことで、何のニュース価値もない。むしろ、その他の政党は、社民党まで含めて皆参加するのだろうか。日ごろ、人権や民主主義を語る人たちが。それこそ、ニュース価値があるのではないだろうか。

なお、穀田議員は、「天皇の政治的な利用を懸念」「天皇の治的利用の動きがあると感じざるを得ない」と語ったという。そのとおりではあろうが、これはやや誤解を招く表現ではないか。本来、天皇制とは徹頭徹尾、権力による政治的利用を想定された制度である。その点では、戦前も戦後も一貫している。
(2019年2月24日)

東京「君が代」裁判・最高裁要請行動

弁護士の澤藤と申します。1審原告らの代理人の一人です。「10・23通達」発出以来の15年、この問題に携わってまいりました。本件の当事者や支援者と一緒に、要請を申し上げます。

東京「君が代」裁判4次訴訟は、今、3件に分かれて最高裁に係属しています。原告教員側からの上告事件・上告受理申立事件、そして一審被告都教委の側からの上告受理申立事件です。

懲戒処分を受けた教員が上告理由としているのは、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の憲法違反です。何ゆえ憲法違反か。上告理由書は260ページに及ぶ詳細なものですが、煎じ詰めれば、思想・良心・信仰の自由という憲法に明記されている基本的人権というもの価値が、他の価値に優越していると言うことです。

教員の一人ひとりに、それぞれの思想・良心・信仰の自由が保障されています。各々の思想や良心やあるいは信仰が、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明を許さないのです。公権力が、敢えてその強制を行うことで、一人ひとりの精神的自由の基底にある、個人の尊厳を傷つけているのです。傷ついた個人の尊厳という憲法価値を救うために、裁判所は国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明強制は違憲だと宣言し、懲戒処分を取り消さなければなりません。

原告教員の側は、個人の尊厳という憲法価値を前面に立て、これを侵害する懲戒処分を取り消せと主張を重ねてきました。一方、都教委側が主張する憲法的価値はと言えば、それは国家です。国旗・国歌(日の丸・君が代)は国家象徴ですから、すべての人に「国旗国歌に敬意を表明せよ」と命じるのは、国家に、個人の尊厳を凌駕する憲法価値を認めなければできないこと。個人の尊厳と、国家と。この両者を比較検討してどちらを優越する価値とすべきでしょうか。

多くを語る必要はありません。個人の尊厳こそが根源的価値です。国家は便宜国民が作ったものに過ぎません。個人の尊厳が傷つけられる場合、公権力が個人に国家への敬意を強制することはできないはずです。

いま、最高裁判例は、「国旗・国歌への敬意表明の強制は、間接的に強制された人の思想・良心の自由を制約する」ことまでは認めています。しかし、その制約は「間接的」でしかないことから、緩やかな必要性・合理性さえあれば、制約を認めうる、と言うのです。私たちは到底納得できません。判例か変更されるまで、私たちは何度でも違憲判断を求める訴訟を繰り返します。

一審原告の上告受理申立理由の中心は、本件不起立行為を対象とする戒告処分も処分権者の裁量権を逸脱濫用した違法のものであって取り消されねばならない、という点です。仮に、本件各懲戒処分が違憲で無効とまでは言えなくても、わずか40秒間静かに坐っていただけのこと懲戒処分とするほどのことではない。実際、式の進行になんの支障も生じてはいないのです。懲戒処分はやり過ぎで、懲戒権の逸脱濫用に当たる、と言うものです。

現に、2011年3月10日東京高裁判決は、処分は違憲との主張こそ退けましたが、懲戒権の逸脱濫用として全戒告処分を取り消しています。是非、この判決を重く受けとめていただきたいのです。

この高裁判決を受けての最高裁判決が2012年1月16日第一小法廷判決です。戒告処分違法の判断を逆転させて、「戒告は裁量権の逸脱濫用には当たらない」としたのです。しかし、さすがの最高裁も、戒告を超えた減給以上の懲戒処分は苛酷に過ぎて裁量権の逸脱濫用に当たり違法、としたのです。

つまり、不起立に対する処分は違憲とは言えない。しかし、懲戒処分が許されるのは戒告処分止まりで、それ以上の重い減給や停職などの懲戒処分は裁量権の逸脱濫用として違法。これが現時点での判例の立場です。

私たちは、多様性尊重のこの時代に、全校生徒と全教職員に対して、国旗・国歌(日の丸・君が代)に敬意表明を強制することはあってはならないことだと考えます。思想や良心、あるいは信仰を曲げても、国旗・国歌(日の丸・君が代)に敬意を表明せよという強制は違憲。少なくとも、起立できなかった教員に対する懲戒処分はすべて処分権の逸脱濫用として取消しとなるべきことを主張しています。最高裁には、是非とも再考願いたいのです。

そして、都教委が教員の一人を相手にして上告受理申立をした事件。その理由が、相手方となった教員が過去3回の不起立・戒告処分があるから、4回目は減給でよいだろう。そして5回目も減給、というのです。

しかし、この教員の思想も良心も一つです。何度起立を命じられようとも、思想・良心が変わらぬ限り、結果は同じこと。処分回数で思想や良心に対する制裁強化が許されるはずはないのです。これを思想を変えるまで処分を重くする、などという企みは転向を強要するものとして、明らかな違法と言わざるを得ません。

実は憲法論と同じように法的価値の衡量が行われています。衡量されている一方の価値は、思想・良心・信仰の自由。その基底に、個人の尊厳があります。衡量されているもう一方の価値は、「学校の規律や秩序の保持等の必要性」であり、違憲論の局面で論じられた価値衡量の問題が、本質を同じくしながら公権力の行使の限界を画する懲戒処分の裁量権逸脱濫用の有無という局面で論じられているのです。

結論は自ずから、明らかです。都教委の上告受理申立はすみやかに不受理とすべきです。いま、都教委の識見が問われています。しかし、問われているのは都教委だけではありません。実は、最高裁もその識見を、ありかたを問われています。憲法が想定する、憲法の番人、人権の砦の役割を果たされるよう、切に要望いたします。
(2019年2月8日)

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