澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

緊急事態条項は、日本国憲法の3本の柱を壊してしまう

本郷にお住まいの皆さま、ご通行中の皆さま。地元の「九条の会」です。少しの時間お耳を貸してください。

ご承知のとおり、日本国憲法は3本の柱で組み立てられています。
 まずは、基本的人権の尊重。
 そして、民主主義。
 さらに、平和主義です。

この3本のうち、人権と民主々義とは、どんな憲法にも書いてあります。これが欠けていれば憲法とは言えないのですから。しかし、3本目の「平和」の柱をしっかりと立てて、堅固な家を建てている憲法は、実はごく少ないのです。

日本国憲法の3本目の「平和主義」の柱は、「陸海空軍その他の戦力は保持しない」「国の交戦権は認めない」という徹底した平和主義に貫かれています。誇るべき非凡な憲法と言わなければなりません。しかも、日本国憲法の平和主義は、9条に戦争放棄・戦力不保持が書いてあるからだけでなく、その理念が前文から本文の全条文に貫かれています。戦争をしないこと、国の外交・内政の選択肢として戦争も戦争の準備もあり得ないことを憲法全体が確認しています。その意味で、日本国憲法は文字どおり「平和憲法」なのです。

日本国憲法の3本の柱は、互いに支え合っています。けっしてバラバラに立っているのではありません。そして、この3本の相性がとてもよいのです。とりわけ強調すべきは、「平和」を欠いた「人権」と「民主主義」の2本だけでは、実はとても座りが悪いのです。この点が世界各国の憲法の悩みの種でもあるのです。

多くの憲法の条項には、立派な「人権」と「民主主義」の柱が立てられています。しかし、見かけは立派でも、この2本の柱は完全な物ではありません。実は大きな虫喰いがあるのです。「人権や民主主義は平時の限り」という限定の大穴が開いているのです。「戦争になれば、人権や民主主義などと生温いきれいごとを言ってはおられない」「そのときは、戦争に勝つために何でもありでなくてはならない」と人権や民主々義尊重の例外が留保されているのです。この例外は、「戦時」だけでなく、「戦争が起こりそうな場合」も、「内乱や大規模なデモが起こった場合」も、「自然災害があった場合も」と、広範に拡大されかねません。これが、「普通の国の憲法」の構造なのです。

日本国憲法は、堅固な平和主義の柱を立てています。ですから、一切戦争を想定していません。そのため、人権や民主主義の例外規定をもつ必要がなかったのです。戦時だけでなく、内乱や自然災害に関しても、意識的に憲法制定過程で人権擁護や民主主義遵守の例外をおきませんでした。戦前の例に鑑みて、例外規定の濫用を恐れたからです。

典型的には戦時を想定した人権や民主々義擁護の例外規定を「国家緊急権条項」と呼びます。日本国憲法にその条項がないばかりか。曲がりなりにもこれまで平和主義を貫いてきた日本では、憲法に国家緊急権条項を入れる必要はありませんでした。しかし、戦争をする国を作ろうとなると話は別です。「お上品に人権や民主々義を原則のとおりに守っていて、戦争ができるか」ということになります。

いま、安倍政権が改憲の突破口にしようとしているのは、このような意味での国家緊急権を憲法に書き込もうということなのです。それは、戦争法の制定と整合するたくらみなのです。とうてい、「お試し改憲」などという生やさしいことではありません。

改憲勢力は、頻りに「東日本大震災時に適切な対応が出来なかったその反省から、災害時に適切な対応が出来るように憲法改正が必要だ」と言っています。これは、何重にもウソで固められています。なにせ、「完全にコントロールされ、ブロックされています」とウソを平気で言う、アベ政治です。自信ありげな顔つきのときこそ、信じてはなりません。

2012年4月27日決定の自民党改憲草案が、アベ政権の改憲案でもあります。ここに、書いてある緊急事態の要件は、真っ先に戦争です。書きぶりは、「日本に対する外部からの武力攻撃」となっていますが、まさか日本からの侵略とは書けません。ついで、「内乱」。内乱だけでなく、「内乱等による社会秩序の混乱」という幅広く読める書き方。3番目が「地震等による大規模な自然災害」ですが、それだけではありません。「その他の法律で定める緊急事態」と続いています。
自然災害は「三の次」で、実は、「緊急事態」は際限もなく広がりそうなのです。

誰が緊急事態宣言を発するか。内閣ではなく、内閣総理大臣です。これは大きな違い。国会での承認は事前・事後のどちらでもよいことになっています。

そして、その効果です。緊急事態を宣言すれば、内閣は国会を通さずに、法律と同じ効力のある政令を制定することができるようになるのです。いわば、国会の乗っ取りです。そして、国民は「国その他公の機関の指示に従わなければならない」という地位におかれます。

1933年制定の悪名高いナチスの全権委任法となんとよく似ているではありませんか。全権委任法は「内閣が法律を作ることができる」としました。ともに、非常に危険と言わざるを得ません。ナチスの全権委任法も、緊急時の例外として時限立法とされましたが、敗戦までの12年間、「例外」が生き続けることになったのです。

日本国憲法を形づくる3本の柱のうち、平和の柱を崩そうというのがアベ政治の悲願。そのための大きな仕掛けが緊急事態条項です。しかも、この緊急事態条項は人権や民主主義に後戻りできない傷をもたらす危うさを秘めているのです。

アベ政権になって以来、教育基本法が変えられ、特定秘密保護法が成立し、戦争法が強行されました。そして、今度は明文改憲に手が付けられようとしています。その突破口と目論まれているのが、緊急事態条項です。さらに、9条2項を変えて、「戦力」ではない自衛隊を、堂々たる一人前の国防軍とする。これが、アベ政治の狙いと言わざるを得ません。

60年の安保や、昨年の戦争法反対の国民運動が大きくなれば、国家緊急事態として、国防軍が治安出動もできるようになる。恐るべき近未来ではありませんか。

ぜひ皆さま、日本国憲法に対する本格的な挑戦である緊急事態条項創設に反対の世論形成に力を貸していただくよう、よろしくお願いします。

そして、その闘いの一環として、平和を擁護するための「戦争法廃止2000万人署名」にご協力ください。
(2016年2月9日)

「孔教問題」?安倍晋三改憲論は100年前の中華民国における憲法論争に及ばない

宮崎市定は『論語』で説かれる徳目の掲載頻度を数え出しているそうだ。いちばん多いのは、孔子が最も大切にした「仁」で97回。次に多いのは、孔子が職業教育的に教えた「礼」の75回。その次が「信」で38回。そして、その次が「孝」と「忠」が同じく18回だという(片山智行『孔子と魯迅』筑摩選書69頁による)。

かくも「忠」の頻度が少ないのは意外ではないか。「忠」は孔子が重視した徳目の一つではあるが、孔子の教説におけるキーワードではなさそうだ。しかも、孔子のいう「忠」は、忠義・忠節という主君に対する服従を美徳とする意味ではない。片山の解説では、「誠実さ」「誠実に真心を尽くす」という普遍性の高い一般的な対人関係での心得である。

「君は臣を使うに礼を以てし、臣は君に事うるに忠を以てす」という一文があるが、これとて、「臣下が主君に仕えるときにも、『忠=誠実さ』が必要」というだけのこと。「普遍的道徳としての忠を君臣間に当てはめ」たに過ぎないという。孔子自身がひとりの君主への「忠節」を尽くした人ではないとも指摘されている。なるほど、そのとおりだ。

ところが後代、儒学が体制の教学となって、事情が変わる。
このことを痛烈に喝破しているのが、清末の思想家譚嗣同という人物の『仁学』。彼は戊戌の政変に敗れて刑死したが、『仁学』は処刑前に友人に託された覚悟の遺稿だという。片山は「儒教道徳の恐ろしさを痛烈に批判したこの書は、出色の名著」という。

譚嗣同によれば、荀子こそが、「後王(当代の君主)に服従し、君統(君主支配)を尊ぶ」方向に道(孔子の教え)を歪めた憎むべき張本人なのである。すなわち、荀子の考えが李斯(戦国時代の法家。始皇帝のときの丞相)に引き継がれ、秦の始皇帝より連綿と王朝の支配のために利用されて、朱儒(朱子学)に至ってそれがいよいよひどくなった、と言う。

したがって、二千年来の政治は秦の政治であり、みな「大盗」(大泥棒=皇帝のこと)であったと言わなければならない。二千年来の学は旬学であり、すべて郷愿(にせ君子。封建思想の儒者)であったと言わなければならない。大盗が郷愿を利用し、郷愿が大盗にうまく媚びただけである。二者は互いに結託し、すべてを孔子にかこつけてきたのである。かこつけた大盗、郷愿を捉まえて、かこつけられた孔子のことを責めたところで、どうして孔子のことがわかろうか?

つまり、論語に表れた孔子の思想と、その後長く封建制度を支えた儒学とは別物というのだ。孔子は権力者とこれに媚びる後代の儒者に利用されたに過ぎないというのが、譚嗣同の立場であり片山の是認するところ。

二千年来、儒者たちは「孔子の名を騙って、孔子の道を敗(やぶ)った」。その際に「支配の道具」として利用され、封建王朝の支配を維持したのが「三綱五倫」である。三綱とは「忠・孝・(貞)節〈君臣・父子・夫婦間の身分的秩序〉」、五倫とは「父子の親・君臣の義・夫婦の別・長幼の序・朋友の信」をいう。これが、支配者が目下の者を、倫理において服従させるための道具になった。

各王朝の歴代皇帝を「大盗」(大泥棒)という激しさはすさまじい。自らの政治を正当化するために、孔子の学問の真髄を盗み取ったという謂いなのであろう。明治維新以来の日本の天皇は「大盗」のイミテーションというところ。現実に、このようなやり方が敗戦まで通用し、さらにその残滓が今日まで清算されることなく生き残っていることが恐ろしい。

私は知らなかったが、中華民国憲法制定過程で「孔教問題」が論じられたという。
康有為は、儒家でありながら儒教批判の先鞭をつけた大学者だったが、辛亥革命(1911年)後の憲法に「孔教」を国教とするよう提案して論争を巻き起こした。康有為がいう「孔教」は、封建道徳の根拠となった後代の儒教とは異なった、言わば「原始儒教」としての「孔子の教え」だったのだろう。

これに、反対の論陣を張ったのが、のちに共産党創立の立役者の一人となった陳独秀だった。彼の康有為に対する反論は、儒教批判を徹底したもので、「三綱五輪は、単に後代の儒者が偽造したものではなく、孔教の根本教義と見なすべきだ、とさらに批判の度を強めた」(片山)

片山が引用する陳独秀の論が、たいへんに興味深い。

「三綱の根本的意義は、階級制度である。尊卑を分け、貴賤の別をはっきりさせるこの制度を擁護するものである。近代ヨーロッパの道徳と政治は、自由、平等、独立の説をもって大本となし、階級制度とは完全に相反する。これが東西文明の一大分水嶺なのである。」(陳独秀『吾人の最後の覚悟』1916年)

「まず西洋式の社会と国家の基礎、いわゆる平等と人権の新しい信仰(思想)を、輸入しなければならない。この新社会、新国家、新信仰と相容れない孔教に対しては、徹底した覚悟と勇猛な決意を持たなければならない。(陳独秀『憲法と孔教』1916年)

100年前の中国における憲法論争である。日本の現在の憲法状況に通じるものとして、たいへんに興味深い。示唆されるところをいくつか述べておきたい。

康有為対陳独秀の憲法制定に際しての孔教論争は、固有の歴史を憲法に書き込むべきか普遍的原理を貫徹するかの争いである。

康有為には、中華民族の誇るべき精神文化としての孔教が、深く位置づけられていたのだろう。支配の道具としての儒教ではなく、人倫の根本を貫く普遍的な倫理として孔教が間違っているはずはない、という思いが強かったに違いない。これに対する陳独秀は、孔子の教えそのものが人間を差別して怪しまない旧時代の道徳を肯定するものとして排斥の対象とした。個人の「自由・平等」を徹底すべき近代憲法の原則に適合しないと説いたのである。

いま、安倍晋三が「これが具体的改憲案」という、2012年自民党改憲草案は、陳独秀の論だけでなく、康有為のレベルにも及ばない。日本の「歴史・民族・文化」がてんこ盛りなのだ。つまりは、日本民族の固有性をもって、近代憲法の普遍的原理を限りなく薄めてしまおうとの魂胆が見え見えなのである。

しかも、日本民族の固有性の内実とは、「天皇を戴いていること」と「和の精神」以外にはない。いずれも、支配者に都合のよい旧道徳。とうてい、100年前の陳独秀の批判に耐えうるものではなく、康有為にも嗤われる類の代物。

私には、陳独秀が、どのような憲法を作るかを「思想の問題」と捉えていることが印象的である。長い中国の歴史を通じて、学問とは、人格を形成し、生き方の根本を形づくる営みであった。科学や技術の習得を学問とは言わないのだ。その文化の中で育った陳独秀が、「尊卑を分け貴賤の別を前提とする身分制度」を攻撃して、その温存につながる学問思想を否定する断固たる姿勢が小気味よい。この点について、「これが東西文明の一大分水嶺なのである」というのは、学問や思想が身分制度の否定につながることを当然とするという確信に支えられたものであろう。

「神聖なる天皇」を元首とし、「個人よりは家族を重視」し、「承詔必謹の和を以て貴しとなす」憲法を作ろうというのが、安倍晋三の願望。個人の尊厳や、自由・平等という普遍的価値を理解できない反知性というにふさわしい。憲法の理念を学ぶことは、本来的な意味で学問をすることであり、教養を深めることなのだと、あらためて思う。

引用した片山の著書は、昨年(2015年)6月の発刊。主として、孔子の教説をヒューマニズムに通じるものとして肯定的に捉え、魯迅と通底するものがあるとして、魯迅を詳説する。魯迅の儒教批判は痛烈ではあるが、これは後代の支配の道具としての儒教であって、けっして孔子の教えそのものの批判ではないとするのが片山の立場。

もっとも、魯迅の儒教批判は徹底している。『狂人日記』の中では、「狂人」の口を借りて儒教は人食いの教え、とまで言っている。「人食い」とは、体制がつくり出した儒教の倫理が、民衆を徹底して支配していることの比喩である。儒教の倫理に絡めとられて、体制の不合理に反抗しない「中国民衆の無自覚」に対する魯迅の切歯扼腕が詳細に語られている。

他人ごとではない。戦前には、直接的に民衆の精神に侵入して支配の道具となった神権天皇制を唯々諾々と受容した臣民について、そして戦後70年なお、臣民根性を捨てきれない日本の民衆の無自覚に対しても、魯迅と同様に切歯扼腕せざるを得ない。
(2016年2月8日)

民主社会主義者の米大統領誕生で、歴史にインパクトを

アメリカ大統領選の予備選が実に興味深い。共和党のトランプとクルーズは、言葉の正確な意味で「ならず者」、あるいは「ゴロツキ政治家」というべきだろう。排外主義と極端な宗教保守主義をウリにし、いずれもその非寛容の政治姿勢を示すことで、右派の民衆から熱狂的支持を獲得している。アメリカの反知性と暗部を象徴しているとしか形容すべき言葉を知らない。

一方、民主党である。ヒラリー・クリントン独走の構図が崩れて、バーニー・サンダースが本命に躍り出た。2月9日ニューハンプシャー州の予備選挙では、サンダース圧勝を予測する複数の世論調査結果が公表されている。これは凄いことだ。サンダースこそがアメリカの希望を象徴している。

かくて、アメリカの光と影、リベラルと極右が、大きな対立とせめぎ合いを見せている。アメリカが抱えている深刻な矛盾をリベラルの側から解消するとすればサンダース。極右の側から切り込めば、トランプかクルーズ流に。アメリカは両極化の様相なのだ。

アメリカの抱える深刻な矛盾とは、格差と貧困であり、それがもたらす絶望である。中間層が没落し、若者が未来に展望を見出しがたい現実。希望を見出しがたい社会は、当然に荒れる。暴力と犯罪がはびこり、刑務所が満杯になっている。これが、レーガノミクスから始まった新自由主義が到達した社会だ。さらに、宗教や文化に対する非寛容が加われば、テロの温床はバッチリだ。まさしく、アベノミクスがもたらすであろう日本社会の先取りの姿にほかならない。

アメリカの抱える矛盾への対応策としては二つの基本手法が考えられる。まずは、社会の矛盾を解消するのではなく、矛盾に対する不満や批判を押さえ込む手法だ。難民は受け入れない。マイノリティーの宗教も文化も押さえ込む。テロも暴力も犯罪も厳罰をもって徹底して取り締まる。刑務所は必要なだけ増やせばよい。かくて、マイノリティーの主張を一掃し、不平や不満を表に出さないよう封じ込めば、いっときながらもマジョリティーにとっての住みごこちのよい社会ができあがる。

もう一つは、この社会の格差や貧困を社会悪として、これをなくすことを目指すやり方だ。いまやアメリカ社会の財産と所得分布の不公平は耐えがたいものとなっている。ならば、所得や財産の再分配が必要だ。これに手を付けなければならならず、ウォール街との闘いが避けられない。これが、サンダース自らが、「民主社会主義者」と称する所以であろう。

民主社会主義(democratic socialism)であって、社会民主主義(social democracy)ではない。民主的(democratic)という形容は付けながらも、自らを社会主義(socialism)を信奉する者(socialist)だと広言しているところが見事である。

アメリカの社会で政治的影響力を持とうとすれば、自助努力こそが大切とする、経済的自由主義を逸脱することは考えられなかった。いま、自らを民主社会主義者(democratic socialist)と規定する人物が有力な大統領候補となり、若者層から熱烈な支持を得ているという。そのことを必然化するだけのアメリカの深刻な現実があるのだ。

サンダースは急進的な格差是正策を前面に打ち出し、最低賃金の大幅な引き上げや、大企業や富裕層への増税などを訴えている。国民皆保険や公立学校の無償化などが政策の目玉として話題となっているが、これは他と切り離された個別政策ではなく、格差、貧困の再生産を防止するための政策という位置づけ。その政治姿勢について、1月26日の毎日新聞に現地で取材する西田進一郎記者の次の記事が分かり易い。

「『多くの人々を助ける計画を紹介してきたが、現実的にお金はどう手当てするのか』集会では、格差是正を中心課題に据え、公立大学の無償化などを掲げるサンダース氏に対し、こんな質問が浴びせられた。クリントン氏との差が縮まってきたことで、政策の詳細にも少しずつ焦点が当たり始めている。
サンダース氏は政策実現に必要な予算について、税制の『抜け道』を使っている企業への課税や、最富裕層への増税を充てると説明。タックスヘイブン(租税回避地)などを使った企業の課税逃れを無くすことで1000億ドル(約12兆円)を徴収し、社会基盤整備に投資して雇用を生み出すなどと説明した。
公約に掲げる国民皆保険制度の実現には、10年間で約1700兆円必要との試算がある。集会で司会者から増税について尋ねられたサンダース氏は『増税する。しかし、個人や企業の保険料もなくす』などと説明した。」

所得再分配を実現するために、企業課税を強化し、個人所得課税の累進制を強化するのは常識的な手法である。サンダースは、その政策を推し進めることを掲げて大統領選を闘うことを公表し、その掲げる政策故に支持を獲得しているのだ。企業減税の大盤振る舞いをして、庶民増税を押しつける、安倍晋三流の経済・財政政策とは真逆の政策である。

ニューハンプシャー州予備選を控えての、サンダースとクリントンの討論会が報道されている。「民主党の立候補者を2人に絞った討論会は今回が初めて。両候補の政策の違いが浮き彫りとなった」(BBC日本語版)とのことだから、関心をもたざるを得ない。結局は、サンダースの政策にクリントンが引っ張られているではないか。

毎日新聞の西田記者報道は、両者の討論を、「『体制派』対『反体制派』」の構図を作りたいサンダース氏に対し、これを否定して『実績と政策の実現可能性』に焦点を当てたいクリントン氏が反撃し、火花を散らした」としている。

「クリントン氏はエスタブリッシュメント(体制派)を代表しているが、私は普通の米国人を代表している」。サンダース氏は、クリントン氏が自分や自分を支持するリベラル層や若者たちとは異なる立ち位置にいると再三印象付けようとした。クリントン氏が『進歩派』を自称することについても、かつて『穏健派』と表現していた発言を持ち出して否定した。

これに対し、クリントン氏は『私を体制派とみなしているのは一人(サンダース)だけだ』と反論。サンダース氏が、金融業界(ウォール街)からクリントン氏側への資金提供に触れ、同氏は中間層や労働者家族に必要な変化をもたらすことはできないと批判すると、『あなたや陣営がやってきた巧妙なレッテル貼りはやめる時だ。政策課題への見解の違いについて話そう』と強い口調でまくし立てた。」

金融業界(ウォール街)とつながり、ここから政治資金の提供を受けていることが、「非進歩派」「体制派」の烙印と見なされ、明らかにマイナスシンボルとされている。格差、貧困の抜本是正をテーマとする選挙では、その格差や貧困の張本人である財界との関係が厳しく問われる。政治資金をウォール街に依存していることは、それだけで非難される材料になるのだ。これまでのアメリカの選挙とは明らかに様相を異にしている。

サンダースの問題提起に、クリントンが振り回されているという構図。また、サンダースがTPP反対の立場を明確にし、クリントンもこれに追随せざるを得ない論戦となっているのも興味深い。

これは、ひょっとするとひょっとするのではないか。初の女性大統領もみたいところだが、女性というだけでは稲田朋美のような極右もいる。「民主社会主義者の米大統領」の実現の方が、はるかに世界と歴史へのインパクトが強い。
(2016年2月7日)

弁護士会選挙結果報告ー安保関連法廃止の方針に変化はない

日弁連会長選挙は、昨日(2月5日)の投開票で、「現執行部の路線を継承する大阪弁護士会元会長の中本和洋氏(69)が、東京弁護士会の高山俊吉氏(75)を破り、次期会長に内定した」(毎日新聞)

日弁連選管の発表は以下のとおり。
選挙人数       37,374
投票総数       17,633
投票率        47.18%
中本候補有効票  12,282
高山候補有効票   4,923
白票             386
疑問票            42
中本候補獲得会      48単位会
高山候補獲得会   下記4単位会
(埼玉・千葉県・栃木県・岩手各弁護士会)

なお、その他、下記のように拮抗している単位会がある。
横浜   362対330
長野県  94対71
愛知県 266対193
岐阜県  41対33
大分県   44対30
仙台   101対62
函館    24対15

ダブルスコアでの中本候補圧勝は、両陣営の地力の差なのではあろう。とは言うものの、嫌われ者稲田朋美への政治献金話題の影響が小さかったことに意外の感を禁じ得ない。

もっとも、私にも何本かあった中本候補への投票依頼の電話は、いずれも中本候補の憲法感覚や人権擁護に関して筋を通す姿勢を評価してのものだった。また、「中本氏は開票後の記者会見で安全保障法制について『施行されても違憲性に変わりはない。廃止を求め取り組んでいく』と述べ、憲法改正の動きも注視していく考えを示した」(毎日新聞)と報道されてもいる。中本陣営は、「稲田献金による誤解」を払拭すべく、立憲主義、平和主義などの姿勢を強調したという印象。そのため、稲田献金問題は事前に予想されたほど大きな失点にはならなかったようだ。ぜひ、当選後の記者会見での姿勢を貫ぬく活躍をされるよう期待したい。

なお、東京弁護士会選挙の公式発表は以下のとおり。
「2016(平成28)年度の東京弁護士会役員は,本日下記のとおり確定いたしました。
会  長  小林 元治 (こばやし もとじ)
副会長  成田 慎治 (なりた しんじ)
副会長  仲   隆  (なか たかし)
副会長  芹澤 眞澄 (せりざわ ますみ)
副会長  佐々木広行 (ささき ひろゆき)
副会長  谷  眞人  (たに まさと)
副会長  鍛冶 良明  (かじ よしあき)
監 事  菅沼 真    (すがぬま まこと)
監 事  村田 智子  (むらた ともこ)
※副会長は選挙の得票順
※監事選挙は無投票・立候補届出順

◇副会長選挙投票率は以下のとおりです。
有権者数:7676名
投票者数:4477名
投票率 :58.325%

副会長選挙の得票数は以下のとおり。
1位 成田 慎治  837
2位 仲  隆    784
3位 芹澤 眞澄  655
4位 佐々木広行 627
5位 谷  眞人  618
6位 鍛冶 良明  542
7位 赤瀬 康明  359 (落選)

私には選挙事情のディテイルはよく分からないのだが、大方の予想にしたがった順当な選挙結果なのだろう。番狂わせのない現状維持の選挙結果は、これまでの弁護士会の方針が是認されて続くことになる。

なお、投票前の選挙に関する当ブログでの論評は以下のとおり。

https://article9.jp/wordpress/?p=6309
https://article9.jp/wordpress/?p=6329

政権が極端な憲法軽視の姿勢に偏るとき、法の専門家集団としての弁護士会が在野の立場から政権批判の側に立つことは、きわめて健全なあり方と言わねばならない。政権によって戦後民主主義が攻撃されているとき、人権や民主主義そして平和を、崩壊せぬよう支えている弁護士の役割は大きい。今回の選挙結果は、多くの弁護士がこれまでの弁護士会の立憲主義擁護の運動のあり方を是認したものと受け止めてよいと思う。
(2016年2月6日)

「機密解禁文書にみる日米同盟」(末浪靖司著)から見えてくる、日米安保体制と9条擁護のたたかいの構図

本日は、日民協憲法委員会の学習会。末浪靖司さんを講師に、「『機密解禁文書にみる日米同盟』から読み解く日米安保体制と私たちのたたかい」というテーマ。

末浪さんは精力的にアメリカの公開された機密公文書を渉猟して、日本側が隠している安保関係の密約文書を世に紹介していることで知られるジャーナリスト。『機密解禁文書にみる日米同盟』は、その成果をまとめた近著である。

最初に、アメリカの文書開示制度と国立公文書館についての解説があった。
1789年フランス人権宣言15条には、「社会は、その行政のすべての公の職員に報告を求める権利を有する」と明記されている。フランス革命に先立って、独立革命をなし遂げたアメリカ合衆国第2代大統領アダムズ(独立宣言起草に参加)は、「政府が何をしているかを知るのは国民の義務」とまで述べ、これが公文書公開制度のモットーとなって、1967年制定の「情報の自由法」FOIA(The Freedom of Information Act)に生きている。その充実ぶりは、日本の外務省の外交文書公開の扱いとは雲泥の差。この10年アメリカ公文書館その他に通って、大要下記のことを確認した。

※アメリカ政府の憲法9条改憲の内的衝動と米軍の駐留
☆アメリカ政府内で最も早い時期に改憲要求を明確化したのは、ジョン・B・ハワード国務長官特別補佐官(国際法学者)である。
アメリカの核独占体制がソ連の核実験によって破られ中華人民共和国が成立するという状況下の1949年11月4日、機密文書「日本軍隊の復活に関する覚書」の中で、「日本再軍備の決定は、憲法の『戦争と軍隊の放棄』をどうするかという決定と無関係ではない」とし、同月10日には、国務長官宛の機密覚書で、「日本軍復活に関して国務省のとるべき態度」との表題をつけて「米の援助と日本の資金・労力は米軍の駐留と強力な警察部隊の維持にあてられるべき」と述べている。
ハワードは、国務長官をはじめ国務省、国防総省などに論文、報告書をばらまいて自分の考えを売り込んだ。彼は、9条改憲を望みながらも、改憲が実現する前に米軍駐留を合憲とする理屈を考えた。50年3月3日付の極秘報告「軍事制裁に対する日本の戦争放棄の影響」には、「外国軍隊は日本国憲法9条が禁止する戦力ではない」「外国軍事基地は憲法の範囲内の存在」という、その後の安保そして砂川判決の論理が明記されている。

☆日本の再軍備と改憲要求は米軍司令部から出てきている
1950年8月22日ブラッドレー統合参謀本部長から国防長官宛の機密覚書「主題:対日平和条約」には、「アメリカは非武装・中立の日本に生じる軍事的空白を容認し続ける立場にはない。それ(軍事的空白の解消)は、万一世界戦争が起きた際に、アメリカの戦略と世界戦争に良い結果をもたらすだろう」
また、同年12月28日付統合参謀本部への機密文書「アメリカの対日政策に関する共同戦略調査委員会報告」では、「米国の軍事的利益は日本の能力向上により得られる。そのために憲法変更は避けがたい」と9条改憲の意向が明確化されている。
さらに、51年3月14日統合参謀本部宛の海軍作戦部長の機密覚書には、「日本が合法的に軍隊を作れるようになる前に、憲法の改定が必要になる」とされている。

☆1951年8月8日 統合参謀本部から国防長官へ、極秘覚書、主題:対日平和条約に関する文書 「行政協定により、ダレス訪日団が準備した集団防衛に参加する」。12月18日統合参謀本部から国防長官宛の機密覚書には、「統合参謀本部は、戦時には、極東米軍司令官が日本のすべての軍を指揮する計画である」。52年2月6日文書には、「行政協定交渉で米側提案:軍事的能力を有する他のすべての日本国の組織は、米国政府が指名する最高司令官の統合的指揮の下に置かれる」とされている。
こうして、旧安保条約が成立した。

※安保改定秘密交渉で改憲問題はいかに議論されたか
1958年8月1日 マッカーサー?(ダグラスマッカーサーの甥。)大使から国防長官へ、秘密公電は「適切な措置をとることが、安保条約を改定し、日本の軍隊を海外に送り出すことを可能にする憲法改定の時間をわれわれに与えてくれるだろう」としている。
8月26日 マッカーサーから国務長官への極秘公電には、「岸は自分が考えていることを大統領に知ってもらいたいと言って、友人としての最初のフランクな会話をしめくくった。——私は個人的には、岸が好む線で日本との安保関係を調整することが、われわれ自身の利益になると考える。」とある。
その岸は、同年10月15日に、NBC放送のインタビューで「日本が自由世界の防衛に十分な役割を果たすために、憲法から戦争放棄条項を除去すべき時がきた」と述べている。

☆58年10月4日帝国ホテルで藤山愛一郎とマッカーサーの秘密交渉が開始され、安保改定の原案が固まった。藤山は東京商工会議所会頭で、海軍省の顧問であり、東条内閣の終末を決めた岸とは親友の間柄。

折り合わなかったのは、藤山が安保条約第3,5,8条を「憲法の枠内」「憲法の制約の範囲内で」と提案。アメリカ側は「憲法の規定に従うことを条件として」という対案。結局アメリカ案で決着するが、この間の文書が興味深い。たとえば、59年6月18日マッカーサーからディロン国務長官への機密公電「われわれが提案した(「憲法の規定に従うことを条件として」などの)文言を[日本側が]受け入れることが難しいのは、憲法に自衛力に関するいかなる規定もないことからきている。反対に、憲法第9条では、陸海空軍を、その他の戦力とともに、日本が維持することを絶対的に禁止している。日本国憲法は、固有の自衛権を、したがって自衛隊の必要性を否定していないと解釈されている一方で、そうした能力が「憲法の規定に従うことを条件として」維持され発展させられるということは、法的に不可能である。なぜなら、憲法にはそうした規定がないからである。」

☆マッカーサー大使の情勢観
ダグラス・マッカーサー?(駐日大使)は、沖縄をはじめ、九十九里浜、内灘、妙義山、砂川、北富士、横田、立川、新潟、小牧、伊丹、木更津などの基地反対闘争、原水爆禁止と核持ち込み阻止を求める日本国民の運動に手を焼いたジョン・フォスター・ダレスにより日本に送り込まれた。マッカーサーが57年2月に東京に着任した時、日本はジラード事件や米兵犯罪で米軍に対する怒りが渦巻いていた。
危機感をもったマッカーサーは、4月10日岸信介と長時間にわたり密談し、「このままでは、米軍は日本から追い出される」と長文の秘密公電で日本の情勢を報告している。

報告はもっと多岐にわたるが、上記のことからだけでも、以下の事情がよく分かる。
1947年に施行となった日本国憲法は、その直後の冷戦開始以来、日米両政府から疎まれ改憲が目論まれる事態となっている。そのイニシャチブは常にアメリカ側にあり、改憲論を裏でリードし続けたのがアメリカ政府の意向であった。旧安保条約、改定安保条約が基本的にそのようなものであり、そしてガイドライン、新ガイドライン、さらには新新ガイドラインも同様である。

憲法を侵蝕する安保条約、ないしは安保体制の実質的内容は、アメリカの意向と日本の国民の闘いとの力関係で形づくられてきた。これが、末浪報告の核心だと思う。アメリカの意向とは、アメリカの軍事的世界戦略が日本に要求するところだが、実は軍産複合体の際限の無い戦争政策である。そして、これに対峙するのが、核を拒否し米軍基地のない平和を願う日本国民の戦後の平和運動である。

アメリカにおもねりつつ、9条改憲をねらっていた岸政権を倒した60年安保闘争が、あの時期の改憲を阻止した。そしていま、また安倍政権が、9条改憲をねらっており、その背後にはこれまでのようにアメリカがある。

末浪報告で、戦後の歴史の骨格が見えてきたように思える。詳細は、「機密解禁文書にみる日米同盟?アメリカ国立公文書館からの報告」(末浪靖司・高文研)を参照されたい。
(2016年2月5日)

表現の自由を護るための、スラップ防止対策シンポジウム構想 ?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第71弾

先週の木曜日、1月28日にDHCスラップ訴訟控訴審の判決が言い渡されて本日でちょうど1週間が経過した。上告ないし上告受理申立期間は本来は来週の木曜日、2月11日までだが、この最終日が休日(「建国記念の日」)なので、2月12日(金)となる。DHC・吉田嘉明は、おそらく期限ぎりぎりまで考え続けるのだろう。

上告も上告受理申立も、これが受理され審理されるのはきわめて制限された狭い門である。本件の場合も、この高いハードルを乗り越えての逆転など万に一つの目もない。そのことは、一審・二審と完全な敗訴を続けたDHC・吉田側もよく分かっているはず。いや、最初から勝訴の見通しなど持っていなかったというべきなのだろう。勝訴の見通しなくても、提訴自体の言論封殺効果をねらっての典型的スラップ訴訟。だからこそ、威嚇として十分な非常識高額請求訴訟となったのだ。

DHC・吉田の当初の請求は2000万円だった。私が、この訴訟をスラップ訴訟として当ブログで反撃を開始した途端に、請求額は6000万円に跳ね上がった。当初は2000万円の請求金額で威嚇効果十分と考えたのが、予想外の反撃を受けてこの程度の金額では提訴の持つ威嚇効果不十分と認識したからこその請求の拡張、それもいきなりの3倍化ということなのだ。

DHCスラップ訴訟の被害者は、被告とされた私だけではない。社会の多くの人が、「DHCや吉田嘉明を批判すると、やたらと訴訟を提起されて面倒なことになる」ことを恐れてDHC・吉田に対する批判を自制している現実がある。言論の萎縮効果が蔓延しているのだ。

私は、当事者として、また弁護士という職業上の使命において、このような言論の萎縮をねらった社会悪に立ち向かわなければならない。いかに面倒であっても、逃げるわけにはいかない。飽くまで闘うのみである。

DHC・吉田の上告(受理申立)可否についての考慮の構図は、次のようなものだ。

積極方針の根拠。
「最初から覚悟していたことではあるが、こんなみっともない敗訴には腹が立つ。万に一つでも逆転の可能性があるのなら最高裁まで争ってみたい」「それだけではない。もともとが澤藤に負担をかけることを目的とした提訴だ。少しでも長く、被告の座に坐らせ、少しでも大きな財政的心理的な負担をかけようという初心にたちかえって最高裁に上訴すべきだろう」「幸い、我が方にはカネの力がある。弁護士費用なぞはいくらかかってもかまわない。上告の手数料(貼用印紙)は、わずか40万円余だという。貧乏人には高いハードルとして評判悪いが、私にはなんの負担感もない」

消極方針の根拠。  
「最高裁でもほぼ確実に敗訴を重ねる公算が高い。3度めの恥の上塗りはみっともなさを天下に曝すことになる」「スラップだ、濫訴だ、不当提訴だと、また叩かれることになる」「渡辺喜美に8億円を提供したことをまた蒸し返され、結局は規制緩和を求めて裏金を渡したと世間に印象づけることになってしまう」「化粧品やサプリメントを販売している当社にとって、ダーティーな商品イメージにつながって商売に影響を及ぼすことが心配だ」「結局は、上告をやめてこのトラブルを早めに終息させた方が経営上は得策だろう」

どちらでも、よく考えてみるがよい。どちらにしても針のムシロ。自分で播いた種だ。自分で刈り取るしかない。

スラップ訴訟は、訴権を濫用して、表現の自由を萎縮させる深刻な社会悪である。スラップ訴訟の提起者には、相応の制裁があってしかるべきだ。控訴・上告に至ったスラップには、比例原則にしたがった制裁措置がなくてはならない。制裁の方法や制裁が及ぶべき範囲についてはいろいろと考えられるが、まずはその方法を考える大きなシンポジウムを開催したい。仮称「スラップ訴訟とDHC」である。

シンポジウムは2部構成とする。
第一部は、スラップ訴訟一般について。スラップの何たるか、その実態と弊害。憲法的な問題点、訴訟法的な問題点、米国のスラップ事情、どのように、スラップ防止の仕組みを構築すべきか。そしてスラップ提起者や代理人弁護士に、どのような実効性ある具体的制裁が可能か。

第二部は、もっぱらDHC問題。DHCが過去に起こしたスラップ訴訟の総ざらい。そして、DHCスラップ訴訟対澤藤事件における、上告(受理申立)理由の徹底検証を公開の場で行う。

メディアも招待して、自分の問題として考えもらうきっかけとしたい。記録を映像化し、また書籍化して、多くの人に広めたい。

先日、「バナナの逆襲」というドキュメント映画を製作したフレデリック・ゲルテン監督(スウェーデン人)と対談の機会があった。世界的な大企業であるドールフードからの「上映差止請求スラップ訴訟」との闘いを、そのままドキュメントにしたもの。このスラップ訴訟を取り下げさせた監督の述懐として、「最も効果のあった闘い方は、スウェーデンでの不買運動方針の提起だった」とのこと。

バナナとサプリメントでは商品の違いも、流通経路の違いもあるだろう。対DHC不買運動の提起が有効かどうか。どのようなやり方があり得るか。この点も大いに議論したいところ。

シンポジウムでは、上告(受理申立)から50日を期限として、上告(あるいは上告受理申立)理由書が出て来る。これを徹底して検討し叩く場にしたい。連休明け頃がこのシンポジウムの時期となるだろう。ぜひお楽しみにしたいただきたい。
(2016年2月4日)

差別のない寛容な社会が平和と安全をつくり出すーフランスの現状が示唆するもの

「法と民主主義」1月号をご紹介する。時宜に適ったタイムリーな企画となっている。「理論と運動を架橋する法律誌」の名に恥じないと思う。編集委員の一人として、多くの人にお読みいただきたいと思う。

目次は以下のとおり。
特集★戦争法廃止に向けて──課題と展望
◆特集にあたって………編集委員会・丸山重威
◆戦争法は廃止しなければならない──日本社会の岐路と新たな選択………広渡清吾
◆「国際平和協力」を理由とした武力行使への突破口………三輪隆
◆「戦争法」は世界と紛争地における日本の役割をどう変容させるのか──国際人権・国際協力NGOは戦争加担に反対する………伊藤和子
◆「落選運動」の意味と展望………上脇博之
◆戦争法廃止運動と自衛隊裁判の位置付け──砂川・恵庭・長沼・百里・イラクの経験をふまえて………内藤功
◆「戦争法」違憲訴訟の目標と課題………伊藤真
◆戦争法反対にむけたロースクールでの運動………本間耕三
◆国会周辺の抗議活動に関する「官邸前見守り弁護団」の活動………神原元

・司法をめぐる動き・人権救済の使命を回避した司法──「夫婦同姓の民法規定を合憲」とした最高裁大法廷判決………折井純
・司法をめぐる動き・12月の動き………司法制度委員会
・トピックス☆日本軍「慰安婦」問題に関する日韓外相会談の合意について………川上詩朗
・メディアウオッチ2016☆新年のニュース 参院選の焦点に「改憲」「ニュース操作」に警戒感を………丸山重威
・あなたとランチを〈№15〉 ………ランチメイト・長谷川弥生先生×佐藤むつみ
・連続企画☆憲法9条実現のために〈3〉フランスにおける人権と社会統合………村田尚紀
・時評☆国民対話カルテットのノーベル平和賞受賞…………鈴木亜英
・ひろば☆2016年 安倍政権による改憲策動を打ち砕く年に………澤藤統一郎

下記のURLで、丸山重威さんの「特集にあたって」、鈴木亜英さん(弁護士・国民救援会会長)の時評「国民対話カルテットのノーベル平和賞受賞」、そして私の「ひろば」の記事が読める。その余の記事は購読していただけたらありがたい。
  http://www.jdla.jp/houmin/index.html

広渡清吾さんの巻頭論文に続く、著名執筆者の特集記事は読み応え十分。
以下は、敢えて特集ではない論文「フランスにおける人権と社会統合」(村田尚紀関西大学教授・憲法)をご紹介したい。目からウロコのインパクトなのだ。

シャルリーエブド事件やパリ同時多発テロなど、フランス社会が話題となっている。イスラム社会との軋轢の厳しさにおいてである。多くの日本人の印象としては、「先進的な自由主義社会が蒙昧な勢力から攻撃を受け防衛せざるを得ない立場にある」というくらいのものではないだろうか。しかし、フランスの法制や社会事情をよくしらないことが理解を妨げている。とりわけ、イスラム社会との接触におけるキーワードになっているフランス特有の「ライシテ」という概念が呑みこめない。フランス流政教分離がどうして、イスラムとの軋轢を生じることになるのか。こんな疑問を村田論文が氷解してくれる。

村田論文の教えるところは、「フランスにおけるきわめて深刻なムスリムの人権状況」である。「今日のフランスの移民問題は、移民=ムスリムが引き起こす社会統合の機能不全ではなく、イスラモフォビー(イスラム嫌い・対イスラム偏見)というイデオロギーが作り出す人種差別である」という。問題はけっしてライシテにあるのではない。そして、イスラモフォビーはパワーエリートとメディアによって意識的に捏造され拡散されたイデオロギー(虚偽意識)だという。

その例証として、公共空間からのムスリム排除を象徴する二つの法律が詳しく語られる。私はこの二つの法律の区別を知らなかった。ニュースでは接していたが、ほとんど何も分からなかった。

二つの法律の前段階の時代がある。1989年にパリ郊外クレイユのコレージュ(中学校)校長が授業中にスカーフをはずすことを拒否した3人のムスリム女子学生に対して教室への入室を禁じるという事件が起きた。
このイスラム=スカーフ事件は、メディアによって大きく報道され、国論を二分する論争に発展した。憲法上の中心的な争点は、「スカーフを着用して登校することが信教の自由によって保障される」のか、それとも「ライシテ(政教分離)原則に反して許されないのか」というものであった。
国民教育相から諮問を受けたコンセイユ=デタ(最高行政裁判所)は、1989年11月27日答申において、「ライシテ原則は、必然的にあらゆる信条の尊重を意味する」と述べて、宗教に対するいかなる優遇も拒否しつつ他者を害しないかぎり宗教的信条の表明を許す白由主義的ないわば「寛容なライシテ」の立場をとることを明らかにした。その後のコンセイユ=デタの判決は、このような立場を堅持し、学校内における宗教的シンボルの着用の制限を慎重に判断した。たとえば、1996年のある判決は、学校が、スカーフ着用を性質上ライシテ原則と両立しないとして、スカーフをはずさなければ授業に出席することを許さないとした処分を違法とした。

この「寛容なライシテ」の立場が見直された。「2004年3月15日ヴェール法」である。リヨン郊外のリセにおいて、ムスリムの女子学生がバンダナをはずすことを拒否して、教師が抗議行動を起こしたことがきっかけだという。

この法は、正式には「ライシテの原則を適用して、公立の学校およびコレージュおよびリセにおいて宗教的帰属を明らかにする徴表または衣服を着用することを規制する法律」という名称で、ライシテ原則を根拠に「これみよがしな宗教的シンボルや衣服の着用」を禁止する教育法典条項を創設するものであった。

この法の通達は、呼称の如何を問わずイスラムのヴェールや明らかに大きすぎる十字架を許されない例として明示している。これはイスラム=スカーフが「これみよがし」に該当しないとしたコンセイユ=デタの判例を覆すものであった。

著者はこの法を次のように評している。この評は示唆に富むものと思う。
「教会と国家の分離に関する1905年12月9日法によって確立するライシテ原則は、『社会の宗教的多様性』を可能とし、公序を侵害しないかぎり『さまざまな宗教的傾向が公共空間に共存する可能性』を保障する自由主義的な原則である。2004年ヴェール法は、この寛容なライシテを排除して、宗教も文化的独自性も特別扱いしない共通価値を学校が継承することを前面に押し出すいわば『戦闘的ライシテ』を採り、さらにライシテを公立学校という公共空間を支配する原則とすることによって、国家を拘束する原則からその場にいる私人をも拘束する原則に転換したのである。」

問題はさらに深刻になった。通称「ブルカ禁止法」によってである。
強硬な移民排斥路線を打ち出したサルコジ大統領の政権下で成立したこの法律の正式名称は、「公共空間において顔を隠すことを禁止する2010年10月11日法律」という。これは、宗教的シンボルの着用を禁じるものではなく、もはやライシテ原則に拠るものではない。イスラモフォビーに発した、公共の安全のための治安政策なのだ。

筆者はこう批判している。
「そもそも奇妙なことに、2010年10月11日法には目的規定がない。1789年人権宣言5条は、『法律は、社会に害をなす行為にかぎりこれを禁止することができる』と定める。公共空間で顔を隠すことがライシテ原則を侵害するとはいえないとすると、何を侵害するのか? 同法に賛成した多数派の主流は、公共の安全を害すると同時に社会生活上の最小限の義務に反するという驚くべき主張をした。社会生活上の最小限の義務とは、人前では顔を見せるものだというフランス共和国のマナーなるもののことである。2010年10月11日法によってフランスの公共空間は道徳化するのであるが、現実にこの道徳によって公共空間から排除されるのは、ブルカやニカブを着用するムスリムの女性である。実質的に一部のムスリム女性だけが同法のターゲットになっているといえるのである。それゆえ、この法律をブルカ禁止法と呼ぶことには充分理由がある。」

筆者は結語として次のように言う。
フランス共和国の標語は《自由、平等、友愛》である。しかし、このうちの「友愛」は相次ぐテロ対策によって「安全」に取って代られてきている。それとともに、以上のようなイスラモフォビーの法的表現というべき立法によって、「自由」・「平等」も変質しつつある。フランス共和国は、いわば戦う原理主義的な共和国と化している。

フランスの現実はなんとも暗く重い。この論文は、「憲法9条実現のために」とするシリーズとして執筆されたものである。格差・差別や貧困が、憎悪と対立を生んで、平和や安全を脅かす。格差と貧困を解消し、差別のない寛容な社会こそが平和をつくり出す。まことに示唆的で教えられるところが多い。
(2016年2月3日)

頑張れ原告・弁護団! 「安倍靖國参拝違憲訴訟・関西」1月28日大阪地裁判決を読む

明文改憲を呼号する安倍晋三の反憲法的性格は、戦争法だけのものではない。教育基本法・地教行法の改悪、特定秘密保護法の制定や武器輸出3原則の清算、NHKの人事統制等々多岐にわたる。靖國神社公式参拝も顕著な反憲法的姿勢の表れである。

2013年12月26日、安倍晋三は内閣総理大臣の公的資格をもって靖國神社参拝を強行した。国内外からの強い反対論、明白な憲法違反の指摘を押し切ってのことである。安倍は、公用車で靖國神社に向かい「内閣総理大臣安倍晋三」と肩書記帳したうえ正式に祓いを受けて昇殿参拝した。政教分離を規定した憲法第20条3項に違反することは自明といわねばならない。

最高裁大法廷判決(1997年4月2日)は、愛媛県知事の靖國神社への玉串料奉納を違憲と断じている。多数意見13人対反対意見2人の大差であった。この孤立した反対意見者のひとりが当時最高裁長官だった三好達、現日本会議議長である。

県知事の玉串料奉納ですら違憲なのだ。ましてや内閣総理大臣の靖國神社公式参拝が違憲であることに疑問の余地はない。なお、最高裁判決で首相の靖國参拝の合違憲に触れた判決はまだないが、仙台高裁(仙台高判1991年1月10日)が岩手靖國違憲訴訟で明確に違憲判断をして以来、高裁・地裁での違憲判断はいくつかある。もちろん、合憲判断は皆無である。

この安倍晋三の違憲行為に司法の場で制裁を加えようとの果敢な試みが、「安倍靖國参拝違憲訴訟」として東京と大阪の両地裁で行われ、大阪訴訟の審理が先行して、2015年10月23日結審、本年1月28日(木)午前10時に判決言い渡しとなった。注目の判決だったが、はからずもDHCスラップ訴訟控訴審判決日と重なり、内容紹介のブログ掲載が遅れた。

ご存じのとおり、判決主文では敗訴であった。が、判決を一読した印象において、さしたる敗北感がない。判決は憲法判断を回避したが、無理をしてでも憲法判断はしたくない、という姿勢が見え見えなのだ。

「原告団一同」の名による判決への抗議声明が出されている。その冒頭の一節をご紹介する。
「本日大阪地裁は、安倍靖国参拝違憲訴訟に対して極めて不当な判決を出した。判決は、小泉首相靖国参拝違憲訴訟の2006年最高裁判決にいう、「人が神社に参拝をしても他人の権利を侵害することはない。これは内閣総理大臣が靖国神社を参拝したとしても変わりがない」をなぞるだけのものであった。
 しかし、ここにいう「人」は、違憲の戦争法をごり押しし、憲法そのものにも敵対しこれを破壊する意図を明確にしている内閣総理大臣の安倍晋三である。「神社」は、殺し合いを強いられた人を天皇に忠義を尽くした人として顕彰し未来の戦死を誘導する靖国神社である。このことを踏まえれば、これを「人が神社に参拝する行為」と一般化同列化することができないことはだれが見ても明らかなことである。
 安倍靖国参拝はそれが単に政教分離規定に反する違憲行為として内心の自由等の権利を侵害するのみならず、いわば戦争準備行為なのであり、平和的生存権も侵害する行為である。」

ここに怒りはあっても、敗北感はない。原告らの抗議の声は「安倍靖國参拝は戦争準備行為であり、平和的生存権を侵害する」となっている。安倍晋三の9条改憲の野望と軌を一にするものとして、靖國神社参拝が位置づけられている。これまでの靖國違憲訴訟にはなかったトーンである。

言うまでもなく、靖國神社は、国家神道における軍事的施設であり、軍国主義における宗教的施設である。軍国主義からの訣別を宣した日本国憲法の政教分離とは、時の政権と靖國との癒着を禁じたものと読むべきなのだ。いま、安倍政権の戦争推進政策の中で、新たな危険な意味合いをもった政教の癒着として靖國神社公式参拝が強行されているのだ。

この訴訟と判決が注目されたのは、政教分離問題としてだけでなく、戦争法違憲国賠訴訟、あるいは自衛隊派兵差止訴訟提起の試みに関連してのものである。国民ひとりひとりが持つ平和的生存権を根拠として訴訟の提起が可能か否か。

これまで、靖國公式参拝を政教分離に反するとする訴訟は、主として国賠請求事件として争われてきた。その場合の請求の根拠とされたものは宗教的人格権の侵害である。先に引用した抗議声明の文中にある「2006年最高裁判決」とは、2006年6月23日第2小法廷判決。その理由中に、「人が神社に参拝する行為自体は,他人の信仰生活等に対して圧迫,干渉を加えるような性質のものではないから,他人が特定の神社に参拝することによって,自己の心情ないし宗教上の感情が害されたとし,不快の念を抱いたとしても,これを被侵害利益として,直ちに損害賠償を求めることはできないと解するのが相当である。」「このことは,内閣総理大臣の地位にある者が靖國神社を参拝した場合においても異なるものではないから,本件参拝によって上告人らに損害賠償の対象となり得るような法的利益の侵害があったとはいえない。」という一文がある。この論理を克服しなければならないのだ。

安倍靖国神社参拝違憲訴訟・関西の原告は765名。
被告は、安倍晋三・靖國神社・国の3名。

「請求の趣旨」は以下のとおり、3個の請求からなる。
1 (差止請求) 被告安倍晋三は内閣総理大臣として靖國神社に参拝してはならない。
2 (差止請求) 被告靖國神社は、被告安倍晋三の内閣総理大臣としての参拝を受け入れてはならない。
3 (賠償請求) 被告(安倍・靖國・国)らは、各自連帯して、原告それぞれに対し、金1万円及びごれに対する2013年12月26日から支払済みまで年5バーセントの割合による金員を支払え。

分離を求められている政(権力)と教(宗教)とは、公式参拝をめぐっては安倍晋三と靖國ということになる。その安倍には、「靖國神社に参拝してはならない」とし、靖國には「安倍晋三の参拝を受け入れてはならない」とする。この形で、両者の癒着の禁止を命じる判決を求めるのが、第1項と第2項の請求。

そして、安倍と、安倍が代表する国と、靖國との3者に対して、違憲違法な行為によって原告らにもたらされた精神的損害の賠償を求めるのが第3項の請求。

以上の3個の請求を認容するためには、いくつかのハードルを越えねばならない。
担当裁判所は、そのハードルを8個として、次のとおりに整理した。これが各「争点」である。

(1) 本件参拝は公務員が職務を行うについてされた行為といえるか。
(2) 本件参拝は政教分離原則に違反し違法か。
(3) 本件参拝により損害賠償の対象となり得るような原告らの権利又は法律上保護されるべき利益の侵害があったといえるか。
(4) 本件参拝受入れにより損害賠償の対象となり得るような原告らの権利又は法律上保護されるべき利益の侵害があったといえるか。
(5) 原告らの損害
(6) 被告安倍の個人責任の成否
(7) 本件参拝差止請求の必要性
(8) 本件参拝受入差止請求の適法性及び必要性

このハードルを全部越えることができれば、前記の3個の請求が全部認容されることになる。原告にとって、最大の関心事は、憲法問題としての「(2)本件参拝は政教分離原則に違反し違法か」という点である。他と切り離して、これだけでも真っ先に判断してもらいたいところ。ところが、この8個のハードルの並べ方、つまり判断の順番は裁判所の裁量に任されている。どのような順番でもよいのだ。

だから、憲法判断を真っ先にして違憲であることを確認し、しかるのちに「その他の損害賠償の要件が認められない」「安倍参拝は違憲ではあるが、差し止めの要件が調っているとは言えない」などとして、請求を棄却する判決はあり得る。もちろん、多くの実例もある。

しかし、本件ではそうはならなかった。重い、違憲判断は避けられた。整理された争点の(1)と(2)の判断に裁判所が触れるところはまったくなかった。もちろん、安倍参拝を合憲とは言わない。裁判所は憲法判断を回避した。敢えて言えば逃げたのだ。

裁判所の判断は、もっぱら、(3)と(4)「安倍の本件参拝、ならびに靖國の参拝受け入れにより、原告らの権利又は法律上保護されるべき利益の侵害があったといえるか」に集中することになる。

前述のとおり安倍晋三の靖國参拝が違憲であることは明々白々であるが、問題はそのことを裁判で争うことが出来るかどうか、である。裁判とは、原告の権利が侵害されたときにその回復を求めてするもの。自分の権利侵害ないのに抽象的な法令違反を糺すための制度とはなっていない。だから、安倍の参拝によって法的な意味で各原告らの権利、または法的保護に値する利益の侵害がなければならない。それあると言えなければ、訴訟として成立し得ないことになる。このハードルをクリアーするためのキーワードが、宗教的人格権であり、平和的生存権である。各原告がそれぞれに持っているこの権利(あるいは権利と言えないまでも、法的な保護に値する利益)が侵害されたとの認定がなければ、憲法判断に到達できない公算が高くなる。

したがって、関心はもっぱら被侵害利益の有無に集中する。原告らの主張は、概要以下のようなものだった。
(1) 宗教的人格権の侵害 
原告らは、被告安倍の本件参拝及び被告靖國神社の参拝受入れによって、内心の自由形成の権利、信教の自由確保の権利、身近な死者を回顧し祭祀することについての自己決定権を侵害された。
>(2) 平和的生存権侵害
本件参拝等によって、原告らの平和のうちに生きる権利が侵害された。現代社会においては、平和なしにはいかなる個人の権利も実現することができない。平和的生存権に対ずる侵害によって生ずる損害は、人格的生存の根幹に関わるものである。
 靖國神社の歴史的経緯等に加え,被告安倍が憲法9条の改正を政治家としての目標に掲げていることからすれば,本件参拝は靖國神社という戦前の軍国主義・全体主義を承認するばかりか、称揚鼓舞する行為である。さらに,被告安倍が,これまでの内閣法制局の見解を無視し集団的自衛権の行使について憲法に反しないと主張している事実、訪米時に「私を右翼の軍国主義青と呼びたければそう呼んでいただきたい」と発言した事実等に鑑みれば,本件参拝は、靖國神社の有していた戦前の軍国主義の精神的支柱としての役割を現在において積極的に活用しようという意図のもと行われた、「戦争の準備行為」にほかならない。

しかし、判決は、安倍の靖國神社参拝によって、原告らに法的保護に値する利益の侵害があったとは認められないとした。

まず、宗教的人格権について。
「原告らは、人が神社に参拝する行為と、内閣総理大臣が靖國神社に参拝する行為は異なるとして、被告安倍が内閣総理大臣として憲法9条の改正等を目標としていることや靖國神社の歴史的経緯等に照らせば、本件参拝及び本件参拝受入れは,大々的に喧伝されることによって,国又はその機関が靖國神社を特別視し, あるいは他の宗教団体に比べて優越的地位を与えているとの印象を社会一般に生じさせ,原告らを含む個人の内心の自由形成、信教の自由確保,回顧・祭祀に関する自己決定に対し,重大な圧迫,干渉を加え,原告らの内心の自由形成の権利,信教の自由確保の権利,及び遺族原告らの回顧・祭祀に関する自己決定権を侵害するものであると主張する。
確かに,靖國神社は,その歴史的経緯からして一般の神社とは異なる地位にあることは認められ、また、行政権を有する内閣の首長である内閣総理大臣の被告安倍が本件参拝をすることが社会的関心を喚起したり,国際的にも報道されるなど影響力が強いことは認めることができる。しかしながら、被告安倍が参拝するという行為は、それが参拝にとどまる限度において,原告らの特定の個人の信仰生活等に対して、信仰することを妨げたり,事実上信仰することを不可能とするような圧迫,干渉を加えるような性質のものでないと解される。
そうであれば,内閣総理大臣の地位にある者が靖國神社を参拝した場合においても,原告らが、自己の心情ないし宗教上の感情が害されたとし、不快の念を抱いたとしても,これを被侵害利益として,直ちに損害賠償を求めることはできないと解するのが相当である。」

また、平和的生存権については、次のように言及されている。
「平和に生存する権利の具体的な内容は曖昧不明確であり,認定事実を前提としても、憲法第3章に規定する基本的人権として保障される権利自由とは別に平和的生存権として保障すべき権利,自由が現時点で具体的権利性を帯びるものとなっているかは疑問であり,裁判所に対して損害賠償や差止めを求めることができるとまで解することはできない。
したがって、原告らの主張する平和的生存権を根拠として, 裁判所に対し,損害賠償や差止めを求めることはできないというべきであり,本件参拝及び本件参拝受入れによって, 原告らの平和的生存権が侵害されたとの主張は理由がない。」

超えられなかったハードルは相当に高い。そのことは率直に認めざるを得ないだろう。しかし、原告や弁護団にとっては、想定の範囲のものといってよい。むしろ、裁判所の判断はけっして説得力を持ったものとなってはいない。既にある結論ののための理屈づけにしても、けっして成功していない。今回は実を結ばなかったにせよ、ハードルを超えるための工夫も積み重ねられている。

原告団は控訴の意向である。そして、東京地裁の判決も今秋には出ることになろう。敗訴判決にめげていない、原告団と弁護団の努力に声援を送りたい。
(2016年2月2日)

東京弁護士会副会長選挙における「理念なき立候補者」へ

1月が行って、今日から2月。今年もまた弁護士会役員選挙の季節となった。2月5日(金)が日弁連と単位会の投票日。今日から期日前投票が始まっている。

私は、弁護士会の人事はけっして私事ではないと思っている。弁護士会の役員選挙は、社会の関心事でなければならない。どんなグループがどんな理念をもって選挙に打って出ているのか、何が対立する論争のテーマなのか。出来るだけ正確に市民に知ってもらうことが望ましい。だから、各陣営や有権者の選挙運動は開かれたものとして市民の目に触れるものとすべきであろう。

今年の日弁連会長選挙は、もっぱら「稲田朋美騒動」の様相。「稲田朋美に政治献金をするような候補者は日弁連のトップにふさわしくない」のか、「稲田がいかに唾棄すべき輩であるとしても、それだけを候補者選定の基準にするのは了見が狭すぎる」のか。私は、ほかの政治家はともかく、稲田だけはアウトだろうという立場。そのことは下記のブログに書いた。
 野暮じゃありませんか、日弁連の「べからず選挙」。(1月29日)
  https://article9.jp/wordpress/?p=6309

ところで、東京弁護士会は会長立候補者がひとりだけ。これは淋しい。が、選挙公報で語られている「立候補補に当たっての基本姿勢」は、至極真っ当である。その冒頭の文章は、次のとおり。
「私たちの先達は、戦前の官憲による人権弾圧の経験から、戦後、議員立法である弁護士法により弁護士自治を獲得しました。それにより、弁護士は基本的人権の擁護と社会正義の実現を自らの使命として高らかに謳い、戦後の民主主義と人権の担い手となりました…。」

憲法問題については、「安保法制と憲法改正」という項を起こして、「2014年7月1日閣議決定を踏まえた安全保障関連法案は、昨年9月19日に成立しました。 憲法解釈の限界を超え、立憲主義に違反すると言わざるを得ません」「恒久平和主義を根底から覆すような憲法改正には反対です」と明記されている。

そして、「司法アクセスへの充実」「人権課題への取り組み」「法曹養成のあり方」などが、バランス感覚よく語られている。安心できるという印象。

さて、問題は副会長選挙である。定員6名のところに7名が立候補した選挙戦となっている。
本日昼ころ、法律事務所には場違いのファクスが舞い込んできた。
「てか、弁護士会職員の人件費 高くね? そう思った方はもう少し読んでください。」
そういえば、先週には、こんなのもきていた。
てか、若手弁護士会費負担 減らせね? そう思った方はもう少し読んでください。」

中学校や高校の児童会・生徒会でも、こんな品位に欠けた乱暴なチラシは作らないのではないか。弁護士会選挙にふさわしくないなどと言うのではない。とても、大人が真面目に書いた文章とは思えない。

今日のファクスの内容は、「私は、無駄な委員会活動、そしてそれに伴う人件費を徹底的に削減します」というもの。このファクスの送信者は、「ごめんなさい。熱くなりすぎてしまって…(笑)皆さんおなじみの赤・瀬・康・明(あかせやすあき)です!!」となっている。

昨年に引き続いての問題候補赤瀬康明の立候補である。私は昨年当ブログで2回この候補者を取り上げて、「立候補の理念を欠く」と叱責した。

 弁護士会選挙に臨む三者の三様ー将来の弁護士は頼むに足りるか(2015年2月2日)
  https://article9.jp/wordpress/?p=4313
 東京弁護士会役員選挙結果紹介 ? 理念なき弁護士群の跳梁(2015年2月15日)
   https://article9.jp/wordpress/?p=4409
今年も同じことを繰り返さなければならない。そして、もう一つ、その訴え方の不まじめさの指摘を付け加えねばならない。

東京弁護士会選挙公報から同候補の「立候補の弁」の一部を抜粋してみる。

昨年度の副会長選挙では私が掲げたマニフェスト以前に、私の立候補には「理念がない」とのお声をいただきました。
その声がいう「理念」とはなんでしょうか?
「理念」という言葉をひとり歩きさせ、何も動かないことでしょうか?
その声がいう「理念」が、東京弁護士会の会員の方を満足させたのでしょうか?
私に「理念」があるとしたら、ただひとつ。それは、「実際に決断・実行し、東京弁護士会の会員にとって東京弁護士会をより魅力的な会にすること」です。
東京弁護士会にとってお客様はだれでしょうか?
誰のお金によって運営できているのでしょうか?
いうまでもなく、東京弁護士会に所属する会員こそが「お客様」であるはずです。
他の誰でもなく、会員の方こそが会費を支払っているのです。
もう一度、皆様にお尋ねします。
今の弁護士会のあり方や活動に本当に満足していますか?
今の弁護士会の活動はあなたの意志を本当に反映していますか?

疑問形になっているから、答えよう。私が、キミの理念の欠如を指摘したひとりだ。私がいう「弁護士になくてはならない理念」とは、弁護士法にいう「基本的人権の擁護と社会正義の実現」のことだ。このような理念をもっていればこその弁護士であり、この理念を失えばバッジをつけていても弁護士ではない。その点で、キミはどうやら失格ではないか。

もちろん、「理念」がひとり歩きすることはない。理念の実現のためには、弁護士と弁護士会が汗をかいて動かねばならない。課題は数え切れないほどにある。冤罪の訴えある者を支援し、ヘイトスピーチの被害に泣く者を救済し、外国人難民の在留に手を貸し、震災被害者の救援もし、公害・薬害・消費者被害に苦しむ者を援助し、さらには司法制度の円滑な運用や、憲法上の人権・民主主義・平和を守ることまで、弁護士会はその使命として目配りをしなければならない。
キミに「理念」があるとしたら、ただひとつ。それは、「基本的人権の擁護と社会正義の実現などという陳腐な呪縛は捨ててしまえ」という姿勢のみだ。人権擁護活動などは、弁護士個人が勝手にやるべきことで、東京弁護士会としては何もしないと決断すべきだというのだ。そうして会費を節減することこそが、会員のホンネにおける魅力的な会のあり方、と言っているのだ。キミは、東弁の会員弁護士や、とりわけ若手を見くびっているのではないか。

キミは、「東京弁護士会にとってお客様はだれでしょうか? 誰のお金によって運営できているのでしょうか?」と問う。そのとき、キミの視野には市民が入っていない。本当の「お客様」は市民ではないか。弁護士の「お金」も市民からのものだということが忘れられていないか。市民の役に立ち、社会に支えられていればこその弁護士であり、弁護士会ではないか。市民からの支援あれば司法修習の給費制を実現出来る。弁護士・弁護士会の人権活動や公益活動なくして給付制の実現はない。実は弁護士活動のすべてについて言えることなのだ。市民から見捨てられるような、弁護士会のあり方の政策提起は、とうてい是認し得ない。

去年のブログの一節をもう一度繰り返す。
弁護士会の人権活動や公益活動を費用の無駄と考え、弁護士自治に関心なく、稼ぎに汲々としている若手弁護士が群をなして存在しているという。志のない弁護士たち、漫然と法律事務所に就職したとの意識の弁護士たち。こんな弁護士が増えつつあることは、保守政権や財界にとっては、確かに「希望の幕開け」といってよい。彼らは、つべこべ言わずに、ひたすら報酬を求めて、強者の利益のために働くことを恥と思わない弁護士となるのだろうから。

歌を忘れたカナリヤのごとく、公益性も志も忘れた「資格だけの弁護士群」の拡大は、由々しき問題だと思う。国民から「後ろの山に棄てましょか」とされかねない。いま、人権や平和などの憲法理念の有力な担い手としての弁護士層の役割を頼もしいと思う立場からは、志を失った弁護士の将来像を思うとき、暗澹たる気分とならざるをえない。

昨年の暗澹たる思いは、赤瀬候補の落選で多少は救われた気持になっている。まさか今年が、嘆きの年になるまいとは思うのだが。
(2016年2月1日)

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