5月18日、私は小雨ふる光州にいた。1980年5月の光州は夏の暑さだったと聞かされたが、あの事件以後、光州の5月18日には雨がふさわしい。国立5・18民主墓地での「5・18光州民主化運動39周年記念式典」に参加して、文在寅大統領のかなり長い演説を聴いた。有能な通訳のおかげでほぼ内容は把握でき、立派なものだと感心した。
通訳を通じての言葉として印象に残ったのは、「光州の5月はけっして悲劇の5月に終わらせない。これからは希望の5月にしよう」という呼びかけだった。
ハンギョレ新聞によると、「大統領の演説は、メッセージ自体よりも、演説途中に20秒間近く続いた“言葉の空白”が話題になった」とされている。その沈黙は、「人権弁護士であると同時に民主化運動家として、光州に対して持ち続けた負債意識の表れであり、国政責任者として光州が再び侮辱される状況を目にしなければならない惨憺たる思いの表現だ」という。
「負債意識」とは、こなれない日本語だが、「負い目」「疚しさ」「呵責」ということなのだろう。ともに闘うべくして闘わず、友人を見殺しにしてしまった、という後ろめたさ。文在寅は、自分の立場が、常に民主主義や自由のために闘った人々の側にあるということを明確にしている。そして、野蛮な暴力と虐殺とで民主主義や自由を蹂躙した公権力の非道を、今や全国民を代表して謝罪しているのだ。
ハンギョレ紙は、こう続けている。
「沈黙の末に再開された記念演説は『1980年、光州が血を流して死んで行く時に、光州と共に(行動)できず、その時代を共に生きた市民の一人として、本当に申し訳なく思っている。公権力が光州で行った野蛮な暴力と虐殺に、大統領として国民を代表し、もう一度深くお詫び申し上げる』という、より具体的な謝罪につながった。」
この演説の日本語訳をネットで探してようやく見つけた。青瓦台から配布されたテキストを、ソウル在住のジャーナリスト・徐台教氏が翻訳したもの。以下は、飽くまでも私流の、抜粋・要約である。
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「5.18民主化運動 39周年記念式典式辞」
尊敬する国民の皆さま、光州市民と全羅南道道民の皆さま。今年もまた五月がやってきました。悲しみが勇気として咲きほこる五月です。
決して忘れることができない五月の民主の英霊たちを悼むとともに、厳しい歳月を生き抜いてこられた負傷者と遺家族の皆様の御苦労に心からのお見舞いを申し上げます。
来年は5.18民主化運動40周年になります。そのため、大統領がその時に記念式に参加する方がよいという意見がありました。しかし、私は今年の記念式に必ず参加したかったのです。光州の市民たちに対する、あまりに申し訳なく恥ずかしいという私の思いを、皆さまに訴えたかったのです。
80年5月、光州が血を流し死んでいくその時を私は光州と共にすることができませんでした。そのことが、その時代を生きた市民の一人として、本当に申し訳ない気持でいっぱいなのです。…… あの時、公権力が光州で行った野蛮な暴力と虐殺に対し、大統領として国民を代表する立場で、もう一度深く謝罪いたします。
今も5.18民主化運動を否定し侮辱する妄言が、はばかりなく大きな声で叫ばれている現実を、国民の一人としてあまりにも恥ずかしく思います。個人的には、憲法前文に5.18精神を書き込むとした約束を今日までに果たすことができていないことをお詫びいたします。
国民の皆さま、1980年5月、私たちは光州を見ていました。民主主義を叫ぶ光州を見、徹底して孤立した光州を見、孤独に死んでいく光州を見ました。全南道庁を死守した市民軍の最後の悲鳴と共に光州の五月は私たちに深い負い目を残しました。五月の光州と共に行動できなかったこと、虐殺される光州を放置したという事実が同じ時代を生きた私たちに消せない痛みを残しました。そうして私たちは光州の痛みを共に経験しました。
その負い目と痛みが1980年代民主化運動の根となり、光州市民の叫びがついに1987年6月抗争につながりました。大韓民国の民主主義は光州にあまりにも大きな恩恵を受けました。大韓民国の国民として同じ時代、同じ痛みを経験した者であれば、そして民主化の熱望を共に抱いて生きてきた者ならば、誰一人としてその事実を否定することはできないでしょう。
光州が守ろうとした価値こそがまさに「自由」であり「民主主義」でした。独裁者の後裔でない限り、5.18を別の目で見ることはできません。「光州事態」と侮蔑的に呼ばれた5.18が、「光州民主化運動」として公式に呼称されるようになったのは1988年の盧泰愚政府の時でした。金泳三政府は1995年、特別法により5.18を「光州民主化運動」と規定し、ついに1997年に5.18を「国家記念日」に制定しました。大法院もやはり新軍部の12.12クーデターから5.18民主化運動に対する鎮圧過程を、軍事反乱と内乱罪と判決し、光州虐殺の主犯を司法的に断罪しました。
国民の皆さま、こうして私たちはすでに20年も前に光州5.18の歴史的意味と性格について国民的な合意を成し遂げ、法律的な整理まで終えました。もうこの問題についてこれ以上の議論は必要ではありません。私たちがすべきことは民主主義の発展に寄与した光州5.18を感謝しながら私たちの民主主義をより良い民主主義に発展させていくことです。
そうしてこそ私たちはより良い大韓民国に向けて互いに競争しながらも統合する社会に近づいていけるでしょう。
しかし、虐殺の責任者、秘密埋葬と性暴力の問題、ヘリからの射撃など明かすべき真実は依然として多くあり、この真実を明らかにすることが今、私たちに求められています。そのようにして、光州が担った重い歴史の荷を下ろし、悲劇の五月を希望の五月に変えていきましょう。
私たちは五月が守った民主主義の土台の上で共に歩んで行かなければなりません。光州に受けた恩義を大韓民国の発展で返さなければなりません。
わが政府は国防部独自の5.18特別調査委員会の活動を通じ戒厳軍によるヘリ射撃と性暴力、性的暴行、性拷問など女性の人権への侵害行為を確認し、国防部長官が公式に謝罪しました。政府は特別法による真相調査究明委員会が発足すればその役割を果たせるように全ての資料を提供し、積極的に支援することを約束します。
光州市民と全羅南道の皆さん、5.18民主化運動39周年の今日、光州は平穏な人生と平穏な幸福を夢見ています。
その年に生まれて39回の五月を過ごした光州の子どもたちは中年の大人になりました。結婚もしたでしょうし、親になってもいるでしょう。真実が常識になる世の中で光州の子どもたちが共に良く暮らすことを私は心から望みます。
民主主義を守った光州は今や経済民主主義と共生を導く都市になりました。労使政それぞれが譲歩し分け合うことで社会的な大妥協を成し遂げ「光州型雇用」という名前で社会統合型の雇用を作り出しました。すべての地方自治体が、第2、第3の「光州型雇用」を模索しています。
五月はこれ以上、怒りと悲しみの五月になってはいけません。私たちの五月は希望の始まり、統合の土台にならなければなりません。
光州が担った歴史の荷はあまりにも重いものでした。その年の五月、光州を見て経験した国民が共に担うべき荷です。
光州により蒔かれた民主主義の種を共に育て大きくしていく事は、全国民の幸せにつながるものとなるでしょう。私たちの五月が毎年かがやき、すべての国民に未来に進む力となることを望みます。
ありがとうございました。
(2019年5月21日澤藤記)
本日はツアー最終日。午前中は釜山の街を見学する観光客となった。まずは港町を一望する竜頭山公園に。
公園の広場に、巨大な李舜臣将軍像が建てられている。将軍が見はるかす先に、影島(ユンド)という島がある。ここが、豊臣政権軍先鋒の朝鮮侵略上陸地なのだという。
小西行長の軍勢が朝鮮に奇襲を掛けたとき、侵略者側は長い戦国時代を経て戦争の技術を磨き抜いた血生臭い武装集団。対する被侵略側は、李朝200年の平和を満喫していた文化国家であった。
1592年5月24日(旧暦4月13日)、早朝6時小西行長麾下の宗義智は影島から釜山の城壁に攻め寄せた。迎え撃った、朝鮮側の将軍は鄭撥。味方の軍船を自ら沈め、兵民とともに城に籠った。
いくさ経験豊富な日本兵は朝鮮側の防衛を圧倒し、鄭撥は果敢に反撃したが被弾して戦死。翌25日午前8時頃には城が落ちたという。
この戦いに参加していた吉野甚五左衛門の従軍記『吉野日記』には、朝鮮側の軍民はほとんど全て撫で斬り、隠れていた兵士も探し出し、ひれ伏した兵士も踏み殺し、「女男も犬猫もみなきりすて、きりくびは3萬ほど」と書かれており、吉野自身が「今思えば武士とは『鬼おそろしや』」と回想しているという。これが、近世における日本と朝鮮の原風景とも言うべき場面。
悪夢は300年の後に繰り返される。1894年日清戦争開戦直前の日本軍による朝鮮宮廷占領、そして95年終戦後の皇后暗殺。その後の植民地化と創氏改名、さらに日本のアジア太平洋戦争への加担の強制…。
本日最後の訪問先は、日本領事館裏の「少女像」。そして、その近くに、新設された徴用工像。朝鮮民族の日本に対する「恨」の思いを受けとめねばならないとする一日。14時発の日航機で帰途に。
5日の旅を終えて、すこしだけでも見聞は拡がった。これまでの韓国への旅では、毎回韓国に好意を積み重ねてきた。今回もそうなった。
私は、かつて中国には何度も足を運んだ。しかし、その都度、中国への好感度は薄れていったと言わざるをえない。中国旅行は漢字の世界、漢字なら読めるし、私はほんの少しだが中国語も分からないではない。それに較べて、まったく読めないハングルの世界は、勝手が違って戸惑うばかり。それでも、韓国の町と人々が作り出している雰囲気は好もしい。
中国の物質的繁栄のテンポの凄まじさには驚嘆するが、最近は韓国の方により強い親しみを感じる。韓国の民主化運動の成果には脱帽して敬意を表するしかない。中国にはそれがないのだ。
今回の旅は、「日本との関係での韓国の歴史」と「現代韓国の民主主義を学ぶ」ものだった。これは、日本の民主主義運動に携わる者にとっての、必須のテーマであるように思う。恐ろしく、多くのことを見聞したように思う。これから、整理をしなければならない。
(2019年5月20日)
本日(5月19日)は、気持が楽だ。陸路、南部の海辺に広がる広大な干潟で有名な順天へ。「順天湾自然生態公園」で干潟の自然を満喫し、その後「楽安邑城民族村」と古寺を見学の予定。その後、再び長駆釜山へ戻って、釜山市内に。2度目になるが、江戸期の日本との交流を伝える 「朝鮮通信使博物館」を見学する。
ところで、「順天楽安邑城(スンチョンナガヌプソン)」とは、李王朝時代の城と村落、市場などが原形そのままに保存された史跡だという。
朝鮮太祖6年(1397年)に倭寇の侵入を受けるや、この地出身の襄惠公金贇吉(キム・ビンギル)将軍が土城を築き、その300年後の仁祖4年(1626年)に忠愍公 林慶業(イム・ギョンオプ)将軍が楽安郡守として赴任し、現在の石城を築いた。他の地域の城郭と異なり、広い平野地帯に1?2メートルの大きさの正方形の石を利用して高さ4メートル、幅3?4メートル、全長1,410メートル、東内、南内、西内など135,537平方メートルに及ぶ3つの村を囲み、400年以上経つ現在も途切れるところなく原形そのままに残されている。今も85世帯がこの中で生活しており、民俗学術資料としてはもちろん、歴史教育の場としても価値が認められている。
ここでも「倭寇」だ。朝鮮と倭とは、切っても切れない宿命の歴史をもっている。
なお、今回の旅も、吉田博徳さんからのお誘いを受けてのもの。2名一室での同宿相手が吉田さん。吉田さんは、先年まで日朝協会都連会長の任にあった人。韓国訪問は、50数回にも及ぶという。韓国語も達者だ。こんな便利な同宿者はほかにない。
吉田さんは、1921年6月23日生まれで、現在97才。もうすぐ98才になる。が、年齢を感じさせないその矍鑠ぶりは人間離れしている。身体も達者だし、好奇心が旺盛。4泊5日の同宿で、長寿と健康の秘密を教えていただきたいところだが、「そんなものは何もない」とおっしゃる。いや、何もないはずはない。この機会に探り当てたいものと思う。
(2019年5月19日)
本日(5月18日)がこの旅のメインの日。「韓国の歴史」ではなく、「現代韓国の民主主義を学ぶ」日。午前中に、事件の舞台となった光州事件ゆかりの地を見学して、政府主催の「光州民主化運動記念集会」に参加。午後には、「光州事件と韓国民主主義への影響」という、現地の講師(金龍哲氏)の3時間を予定したレクチャーを受ける。
1980年5月18日からのこの事件は、当初「光州暴動」と一方的に呼ばれた。その後立場によって、「光州事態」「光州事件」「光州抗爭」「光州民衆抗爭」「光州義擧」などと呼称されたが、1988年以降、「光州民主化運動」として定着したという。
光州事件とは何であるか。韓国の民主化にどのようにつながっているのか。文在寅大統領のドイツ紙(フランクフルター・アルゲマイネ)への寄稿の抜粋から推し量っていただきたい。ぜひ格調の高いこの全文をお読みいただきたい。日本の隣国には、これだけの見識をもつリーダーがいるのだ。
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20190505000700882
1 光州
韓国南西部の光州は韓国の現代史を象徴する都市です。韓国人は光州に心の負い目があり、今でも多くの韓国人が光州のことを考え、絶えず自らが正義に反していないかどうかを問い返しています。
1980年春、韓国は大学生たちの民主化運動で熱気に包まれました。朴正熙(パク・チョンヒ)政権の独裁体制、維新体制は幕を下ろしましたが、新軍部勢力が政権を掌握しつつありました。新軍部はクーデターを起こし、非常戒厳令を発動して政治家の逮捕、政治活動の禁止、大学の休校、集会・デモの禁止、報道の事前検閲、布告令違反者の令状なしでの逮捕など、過酷な独裁を始めました。
ソウル駅に集まった大学生たちは新軍部の武力による鎮圧を懸念し、撤収を決定しました。このとき、光州の民主化要求はさらに燃え上がりました。空輸部隊を投入した新軍部は市民たちを相手に虐殺を行い、国家の暴力で数多くの市民が死亡しました。5月18日に落ち始めた光州の花びらは5月27日、空輸部隊の全羅南道庁鎮圧で最後の花びらまでも散ることになりました。
光州の悲劇は凄絶(せいぜつ)な死とともに幕を下ろしました。しかし、韓国人に二つの自覚と一つの義務を残したのです。一つ目の自覚は、国家の暴力に立ち向かったのが最も平凡な人々だったということです。暴力の怖さに打ち勝ち、勇気を出したのは労働者や農民、運転士や従業員、高校生たちでした。死亡者の大半も、そうした人々でした。
二つ目の自覚は、国家の暴力の前でも市民たちは強い自制力で秩序を維持したということです。抗争が続いていた間、ただの一度も略奪や盗みがなかったということは、その後の韓国の民主化過程における自負心、行動指針となりました。道徳的な行動こそ、不正な権力に対抗して平凡な人々が見せることのできる最も偉大な行動だということを、韓国人は知っています。道徳的な勝利は時間がかかるように思えますが、真実で世の中を変える一番早い方法なのです。
残された義務は、光州の真実を伝えることでした。光州に加えられた国家の暴力を暴露し、隠された真実を明らかにすることがすなわち、韓国の民主化運動でした。私も南部の釜山で弁護士として働きながら、光州のことを積極的に伝えようとしました。多くの若者が命を捧げて絶えず光州をよみがえらせた末に、韓国の民主主義は訪れ、光州は民主化の聖地となったのです。
孤独だった光州を一番先に世の中に伝えた人が、ドイツ第1公共放送の日本駐在の特派員だったユルゲン・ヒンツペーター記者だったという事実は非常に意義深いことです。韓国人はヒンツペーター氏に感謝しています。故人の意向により、同氏の遺品は2016年5月、光州の五・一八墓域に安置されました。
?2 ろうそく革命、再び光州
私が1980年の光州について振り返ったのは、今の光州について話したかったためです。
2016年、厳しい冬の寒波の中で行われた韓国のろうそく革命は、「国らしい国」とは果たして何であるかを問いながら始まりました。韓国では1997年のアジア通貨危機と2008年のリーマン・ショックを経て、経済不平等と二極化が進みました。金融と資本の力はより強くなり、非正規雇用労働者の量産で労働環境は悪化しました。そんな中、特権階層の不正・腐敗は国民に一層大きな喪失感を与えました。ついには韓国の南方沖、珍島の孟骨水道を航海していた旅客船のセウォル号でかけがえのない子どもたちが救助も受けられずに亡くなり、韓国の国民は悲しみを胸に抱いたまま、自ら新たな道を探し始めました。
ろうそく革命は親と子が一緒に、母親とベビーカーの幼児が一緒に、生徒と先生が一緒に、労働者と企業家が一緒に広場の冷たい地面を温めながら、数カ月にわたり全国で続きました。ただの一度も暴力を振るうことなく、韓国の国民は2017年3月、憲法的価値に背いた権力を権力の座から引きずり下ろしました。最も平凡な人々が、一番平和的な方法で民主主義を守ったのです。1980年の光州が、2017年のろうそく革命で復活したのです。私は、韓国のろうそく革命について歌と公演を織り交ぜた「光の祭り」と表現し、高いレベルの民主主義意識を示したと絶賛したドイツの報道をありがたい気持ちで記憶しています。
今の韓国政府はろうそく革命の願いによって誕生した政府です。私は「正義のある国、公正な国」を願う国民の気持ちを片時も忘れていません。平凡な人々が公正に、良い職場で働き、正義のある国の責任と保護の下で自分の夢を広げられる国が、ろうそく革命の望む国だと信じています。
平凡な人々の日常が幸せであるとき、国の持続可能な発展も可能になります。包容国家とは、互いが互いの力になりながら国民一人一人と国全体が一緒に成長し、その成果を等しく享受する国です。
韓国は今、「革新的包容国家」を目指し、誰もが金銭面を心配することなく好きなだけ勉強し、失敗を恐れず夢を追い、老後は安らかな生活を送れる国を築いていっています。こうした土台の上で
行われる挑戦と革新が民主主義を守り、韓国経済を革新成長に導くものと信じています。(以下略)
民主主義とは、安閑として与えられるものではない。闘い取るべきものなのだ。韓国の民主化運動は、そう教えているようだ。
(2019年5月18日)
本日は、全羅南道の羅州市を訪れ、東学農民戦争の跡地を訪ね、光州で宿泊する。
東学農民戦争とは、高校時代の歴史の授業では、「東学党の乱」として教えられた。「東学党」とは「西学に対抗する民衆の新興宗教組織」で、「乱」とは腐敗した李氏朝鮮に対する叛乱。大規模な、この民衆叛乱乱の鎮圧の過程で日清戦争が起き、これに勝利した日本が朝鮮を植民地化する。こんなところが、私だけではなく、日本人の多くの認識水準だったのではないか。
この農民の蜂起は、いま韓国では「甲午農民戦争」とも、「東学農民革命」とも呼ばれているという。「戦争」という規模であり、「革命」という理念をもった行動であったという評価なのだ。そして、この蜂起は近代化した日本軍の残虐な大虐殺によって鎮圧される。このときの韓国民衆の怨念が、今なお、対日感情の底流をなしている。この点については、中塚明さん(奈良女子大名誉教授)のいくつもの著書で、多少なりとも蒙を啓くことになった。
以下は、ウィキペディアからの抜粋である。
儒学の修得が長い年月と相当の財力を必要とするのに比べて、東学において、その真理に達するための修養方法は、日常的に「侍天主 造化定 永世不忘 万事知」の13文字を唱えることであった。東学教徒たちは天主(ハヌニム、「天の神」、朝鮮における古代からのシャーマニズムに由来する概念)を仰ぎ、天主はすべての人間の内に住むと述べて、人間の尊厳と平等とを説いた。また、山中に祭壇を設けて天(ハヌル)を祭り、戦いに備えるため木剣を持って剣舞をならった。しかし、東学の教理は、革命ではなく、教化であり、東学党の上層部は常に農民(賤民層)の暴力的闘争を拒否した。
東学には、不殺生の教えが徹底していたという。戦場でなお、彼らは殺生を避けようとした。これに対する日本軍の殺戮は、仮借のないものだった。本日は、その故地を訪ねることになる。
なお、2019年の「3・1独立運動」に、東学を再興し名称を変更した「天道教」が深く関わっていることはよく知られている。現在なお、南北の朝鮮に多数の信者を有して、一勢力をなしているという。
昨日(5月16日)は、近世日本における秀吉軍の朝鮮侵略。本日(5月17日)は、近代天皇制日本による朝鮮民衆に対する大虐殺。歴史の探訪も気が重い。
(2019年5月17日)
私は、本日(5月16日・木)から5月20日(月)まで、5日間の日程で韓国を旅している。だから、このブログの原稿は予定記事の予約アップということになる。ご了解いただきたい。
私の韓国旅行は4回目。いずれも明確なテーマをもったものだ。
最初が、日民協の企画で韓国の憲法裁判所訪問だった。韓国の司法制度見学というよりは、日本軍「慰安婦」問題での憲法裁判所の判決に関心をもってのこと。これが、衝撃的だった。「日本は韓国に後れを取っている」という印象を強くもった。2度目はチェジュ島の「4・3事件」関連、3度目はソウルを中心に「3・1独立運動」。そして、今回は「5・18光州事件」である。併せて、東学農民戦争の故地を訪ねてこれについても学ぶ旅でもある。
この旅は、ユーラスツアーズが企画した。「東学農民戦争の跡地・光州事件ゆかりの地をめぐる ― 韓国の歴史と民主主義を学ぶ旅」と銘打っての企画。その「魅力とポイント」がこう語られている。
1 光州事件5/18に現地を訪問。映画「タクシー運転手」や光州事件ゆかりの地に
2 現地の専門家、金龍哲先生による「光州事件と韓国の民主主義への影響」についてレクチャー
3 李舜臣将軍の奮闘を偲び、「亀甲船」を見学
4 大規模な反乱のあった羅州で東学農民戦争のゆかりの地をめぐる
5 順天で有名な干潟「順天湾自然生態公園」の見学や釜山で朝鮮通信使の博物館の見学も
訪問先に、ソウル周辺はない。麗水・木浦・羅州・光州・順天・釜山などを訪問する。泊地は木浦・光州(2泊)・釜山である。飽くまで、「5月18日・光州」がメインテーマ。
さて、本日は、釜山空港からバスで長駆麗水まで移動して、その後木浦泊となる。
麗水には、「李舜臣広場」があって、李舜臣が豊臣侵略軍と闘った亀甲船の実物大復元船が展示されているという。これが本日の目玉だ。
第五福竜丸の船体を眼前にしながら、その被爆の実情に思いをめぐらせるごとく、復元船ではあっても、彼の地で亀甲船を目の前にしての説明には、趣き深いものがあるだろう。
日本は何度も朝鮮を侵略した歴史をもつ。「神功皇后の三韓征伐説話」「白村江の戦い」「豊臣政権の侵略」「江華島事件を契機とする近代天皇制政府の植民地政策」。侵略者の走狗となった人物はこれ以上はない侮蔑の対象となり、侵略者と果敢に闘った人物は、民族の英雄となる。
秀吉の侵略軍に対して、水軍を率いて戦い勝利した李舜臣は、憎むべき野蛮な敵国の毒牙から危機に瀕した国を救った「救国の英雄」である。韓国のあちこちで、その像を見ることができる。これに比すべき人物を、日本の歴史で探そうとしてもない。同様のシチュエーションが日本には乏しいからだ。侵略する側のヒーロー像はイメージしにくい。
本日は、侵略される側からの民族の記憶を、その悲劇や説話や知恵や勇気や団結のエピソードの数々に耳を傾けることにしよう。
(2019年5月16日)
本日(5月15日)は、沖縄の「本土復帰」の日である。1972年のあの日から、もう47年にもなる。
当時を思い起こせば、復帰によって、本当に「沖縄が本土並みになるのか」が問われた。むしろ、「本土の沖縄化に道を開くことになるのではないか」との懸念も論じられた。
「沖縄の本土化」論も、「本土の沖縄化」論も、復帰によって沖縄が本土と政治的・経済的に一体となり、当然に文化的・心理的な一体感も醸成されるだろうとの前提では一致していた。なお、当時、沖縄をアメリカに売り渡した、昭和天皇(裕仁)の沖縄メッセージという犯罪的行為は明らかになっていなかった。
47年を経てなお、変わったことよりは、変わらなかったことの方が多いという印象を拭えない。とりわけ、昭和天皇(裕仁)の沖縄メッセージが、沖縄を犠牲に差し出して本土の生き残りをはかろうという、戦前からの変わらぬ本土側の本音であるとすれば、今なお旧態依然ではないか。
本日(5月15日)の沖縄タイムス・コラム[大弦小弦]欄に、「復帰とはね、継母から母の元に帰ることなんだよ」という、反語的でシニカルな、それゆえにまことに的確な指摘の論説が掲載されている。
「復帰とはね、継母(ままはは)から母の元に帰ることなんだよ」。3月まで沖縄国際大教授を務めた稲福日出夫さん(68)は幼いころから、学校で教えられた。継母は沖縄を支配していた米国。母は日本国だ
▼母と信じた日本政府は、2013年に「主権回復の日」式典を開いた。沖縄が日本から切り離されて米軍の統治下に置かれた「4・28」を、国際社会に復帰した記念日と位置づけた
▼沖縄では同じ日に抗議集会があり、稲福さんも足を運んだ。会場の金網に「日本国にもの申す! もはや親でもなければ子でもない」と書かれた布がくくりつけられていたのを覚えている。「基地撤去の言葉より、政権批判より心に刺さった」。ウチナーンチュの率直な感情の発露と捉えた
▼記念日では、ほかにも歴史の皮肉がある。米軍の輸送機「オスプレイ」が沖縄に配備された12年は、復帰40周年だった。配備反対の県民大会があり、全41市町村の代表らが東京での抗議行動に参加した
▼県議だった故玉城義和さんは、撤去を求める文書を「建白書」と命名した。初代知事の屋良朝苗さんが復帰前、米軍基地撤去などを日本政府に求めた「建議書」の精神を継承する意味があった
▼建議も建白も為政者への意見具申だが、実現していない。きょうは47回目の復帰の日。「母」の愛情より、苛烈さが目につく。(吉田央)
まことに、言い得て妙ではないか。継母のもとで苛められていた子が、47年前に、実母のもとに帰ってきた。ところが、この実母、実は自分の保身のために、継母にこの子を売り渡していたのだ。そんな事情を知らないから、子は実母のもとに帰れたことを素直に、喜んだのだ。
しかし、次第に子は悟る。「この実母は継母にばかり気を使って、いまだに続く継母のイジメにガマンしなさいというだけ」「いや、継母と一緒になって私をイジメようとしている」「この冷たい実母は、私に寄り添う人ではない」「私を犠牲にして身の安全をはかろうとしているのだ」。「結局のところ、47年前に継母のイジメが実母の虐待に変わっただけなのだ」。
問題は、46人の同胞たちの姿勢である。腹黒い親は見捨てても、兄弟姉妹は運命共同体である。沖縄を見捨ててはならない。
(2019年5月15日)
本日、お午過ぎ。恒例になった「本郷・湯島九条の会」の街頭宣伝行動。雨もようのなか、「9条改憲問題」と「天皇代替わり問題」と。参加者は少なかったが、とても励まされる「ちょっと良い話」があった。
下記が、世話役の石井彰さんからの、ご苦労さんメール。
各位
「本郷・湯島九条の会」石井 彰
ご参加くださった方々、お疲れ様でした。
本郷三丁目交差点を渡ろうとしていた白服の10人ほどの中学生にチラシを渡し話しかけました。皆さんチラシを食い入るように見入っていました。太平洋戦争も知らないようでした。
9条もまた然り。わたしたちの責任の重さを痛感させられた一幕でした。
わたしたちは毎月一回、第2火曜日の昼街宣をここ本郷三丁目交差点、かねやす前でおこなっていますが、”THE BIG ISSUE”を路上販売している方がいつからか街宣の準備を手伝ってくださるようになり、きょうはとうとうチラシ配りまでしてくださいました。担当が巣鴨になったのでこれから行きますが、来月のきょうもこの時間にここへ来てチラシ配りに参加するとのこと。仲間は大喜びです。
天皇代替わりに伴う改元改憲を許さないたたかいの大切さを訴えました。天皇制についてもしっかり戦前の絶対主義的天皇制下での侵略戦争の事実を訴えていこうと思います。
ご参加のみなさま、ほんとうにごくろうさまでした。次回は6月11日(火)昼、多くのみなさまのご参集をお待ちしています。
以上
本郷三丁目交差点・「かねやす」前は、ビッグイシューの売り場。担当の販売員が常時立っている。私たちはこの人に遠慮しながら街宣活動をしてきたが、考えて見れば、この人が私たちのスピーチを最も良い場所ですべてを聞く立場にあったのだ。しかも、1年余にわたって。その人が、私たち9条の会のスピーチに好感を持ってくれたことがこの上なく、嬉しい。そればかりか、最近巣鴨駅前に担当場所が変更になったのに、今日はわざわざ本郷三丁目まで来ていただいて、ビラ配りにご参加なのだ。
一同、すっかり嬉しくなったが、街宣が終わるとそそくさと姿を消した。「来月も参加しますよ」と言葉を残して。
思いもかけなかった、ちょっと良い話。
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ところで、石井彰さんがどんな人か、ご紹介しておきたい。彼は、親しい仲間からは、「社長」と呼ばれている。渾名のようで、渾名ではない。正真正銘の社長さん。株式会社国際書院という出版社を経営している。しかし、誰をも搾取したことはなさそう。自他共に許す「晴れ男」。石井さんのおかげで、われわれは街宣時に雨天の難を逃れ続けている。今日も、雨のはずが、街宣時だけは何とかもった。
国際書院のURLは、以下のとおり。
http://www.kokusai-shoin.co.jp/
最近、同窓会誌にユニークな論稿を寄稿されているので、その冒頭と末尾を抜粋して紹介の文とさせていただく。
ひとり出版社の果てない旅
45歳の時ひとりで国際書院という出版社を始めた。3年が経っていた。新橋の知人の事務所に間借りをしていた。その日は霙(みぞれ)が降っていた。12月28日の夕方、知人はいきなり、「石井さん、3年の間仕事をみてきましたが、あなたは経営者にはなれない。今日中にここを出てください」。電撃がわたしの体を走った。この間、10点ほど新刊を出してきたが一向に売れる気配が無い。印刷・紙・製本、倉庫代がたまる一方であった。間借り賃も滞りがちだった。当然のこどであった。国際法・国際政治・法文化といった専門書と格闘しながらの毎日ではあったが、所詮お金が入らないことには話にならないのだ。言い捨てて彼は事務所を後にした。
呆然としていても時間が過ぎてゆく。相変わらず霙が事務所の窓を打っていた。本郷で友人がプロダクションの仕事をしていて、いないだろうと思いつつ電話をした。彼はいた。「久しぶりだな」、高い声が返ってきた。事情を話すと急に低音になり、「まあとにかく来いよ」と言った。
三田線の御成門から春日まで荷物を持って三往復した。渋い顔の友人は、「とりあえず、その隅に荷物を置けよ」と言ってテーブルにお茶を出し、「話してみてくれ」と言った。予想通りの答えが返ってきた。「言ったじやないか。初めから博士号論文などといった専門書はやめておけって。まず何でもいいから教科書とかあるいは売れ筋のものでカネを稼いでから、自分の出したいものを出していけって」。その通りなのだ。わたしは答えることができない。
「年を越したらすぐ出て行くから少しだけ置かしてくれ」、そう頼むしかない。そして翌年どころか、またしても3年という歳月が流れていた。
業を煮やした友人は、「石井、いいかげんにしろ。おまえには経営するってことは向いていない。商売替えをしたらどうだ」。そしてその年の暮れ、本郷の一室にヤドカリのように引っ越していった。当然カネはない。とにかく拝み倒して本郷の知り合いに借りた。毎月の家賃を支払うあてなどない。6年の月日が経っていた。以降、経営と生活のどん底と貧困は果てしなく続くのである。
(この間20数年分略)
この30年、「人類の平和的生存」を追い求めてきた。執筆くださっている研究者の方々とこの一点で仕事を続けてきた。夢と現実生活との葛藤を通してこの思いは一層募るようだ。『国連法序説』を執筆してくださった秋月弘子氏が国連の女性差別撤廃委員会の委員に選出され、そのお祝いの宴を国際法・国際機構研究会の方々が主催し、湯島の東京ガーデンパレスでおこなった。わたしも招かれ席に連なった。嬉しいことだ。宴の終わりの直前に、研究会の中心になっている渡部茂巳氏がいきなり立ち上がり、「石井さんに感謝状を差し上げたいと思います」と言ってこれまでの国際書院の事績をあげ、ここにいるみなさんはみな教授です。国際書院から単著を世に出していただいたからです。30年お付き合いさせていただき感謝する、といった趣旨の口上だ。
驚いたことに続いて法文化学会から11月に淵野辺にある大会のあった桜美林大学で「感謝状」が岩谷十郎理事長から渡された。純粋に学問を通して歴史の歯車を一歩でも前へ進めようとしている研究者の方々を心から尊敬している。その方たちからいただいた「感謝状」だ。何より嬉しい。あと100年を30回ほど経過したら国際法というものが実定化し地球を舞台とした人類は平和のうちに生活できる時が来るのかもしれない。わたしの仕事もその礎石のひとつになっていれば良かれと思う。わたしの旅路はまだまだ果てなく続く。
(2019年5月14日)
巻を措く能わずという形容のとおり、読み始めたらやめることができず、一気に読み通した。もう4年前に出た本。その前には、岩波の『図書』に連載されていたものというから、もっと早くに読めたのにようやく今ごろ…。もっと早く、読んでおくべきだった。
一人の誠実な活動家の生き方の記録としてだけでも読むに値するが、歴史の証言としての内容は、幾重にも衝撃的である。とりわけ、「4・3事件」を生き延びた当事者としての生々しい描写に息を呑む。若い彼は、犠牲者総数3万人を超えるとも言われている事件の全体像を語る立場にはないが、弾圧された側の運動を支えた精神を最も鮮明に語りうる活動家の一人ではあった。
結局蜂起は失敗に終わり、無惨な報復的虐殺の嵐が荒れ狂うことになる。なぜ、チェジュ島でこれほどの暴虐が恣にされたのか。十分には理解しえないもどかしさは残るが、どうしても若い彼の行動と気持に感情移入して、はらはら、ドキドキせざるを得ない。敗北の苦い経験だが、傍観者の事後的評価は慎むべきだろう。「4・3蜂起」といわれる彼らの決起行動を「未熟な冒険主義」などと、傲慢に非難する気持にはなれない。
「賽は投げられる寸前でした。座して死を待つか。立って戦うか。祖国分断への単独選挙が目前に迫るなかで、ぎりぎりの選択が党員(「南労党」)全員にかかってきました。」という、回想が胸に迫る。
彼は、「4・3事件」に決起していったん逮捕され釈放の後、再度の任務を遂行して今度こそ進退窮まる。このときに、普段は飄々としている父親が奔走して、日本への密航船を手配する。父親は別れの時に、こう言ったという。
「これは最後の、最後の頼みでもある。たとえ死んでも、ワシの目の届くところだけでは死んでくれるな。お母さんも同じ思いだ」
こうして、彼は、母がつくった炒り豆の弁当と、日本の50銭紙幣の束と、イザというときのための青酸カリをしのばせて、粗末な密航船に乗り込んだ。上陸は瀬戸内の舞子の浜あたりだったという。こうして、その後の人生を在日として生きることになった。
彼は、日本統治下の済州島で、皇民化政策の申し子として育つ。心底からの、天皇崇拝の皇国少年だったと回想している。1945年の「解放」時は、数えで17才。努力して朝鮮人としての自覚を獲得する。ハングルも解放後に学んだという。
彼は、日本へ脱出の後も、アメリカとその傀儡である李承晩政権が圧政を敷く南朝鮮に深く失望し、北に強い憧憬の念を抱く。しかし、次第に北朝鮮の実情を知るに至ってこちらにも失望する。そして、終章の最後をこう締めくくっている。
「新たな戸籍と大韓民国国籍を晴れて取得しました。30年にわたって民衆が闘い続けた民主化要求が実って、民主主義政治が実現した大韓民国の国民のひとりにこの私がなれたことを、心から手を合わせて感謝しています」
2003年のこのとき著者は74才になっている。なお、これに「あとがき」が続き、次のような胸に刺さる一節がある。
「この連載を機に、…今更ながら、植民地統治の業の深さに歯がみしました。反共の大義を殺戮の暴圧で実証した中心勢力はすべて、植民地統治下で名をなし、その下で成長を遂げた親日派の人たちであり、その勢力を全的に支えたアメリカの、赫々たる民主主義でした」
金時鐘氏、1929年の生まれ。在日の詩人。今年90才になる。まぎれもなく、貴重な歴史の生き証人である。
(2019年5月13日)
昨日(5月11日)は、森友事件の刑事告訴と検察審査会の議決を話題にした。首相とその妻の関与疑惑濃厚の「国有地タダ同然払い下げ不正」被疑事実が背任告発であり、その疑惑が明るみに出ぬよう蓋をせんとした証拠隠滅、公文書変造、公用文書毀棄・隠匿の諸告発である。告発された被疑者総数は38名に及ぶ。
首相にまつわる忖度派ご一統以外の圧倒的な国民が、徹底した疑惑解明を望み、起訴あってしかるべきだと考えている。犯罪の構成要件を充足する事実の存在は明らかといってよい。ところが、大阪地検特捜部は、その全部を不起訴とした。忖度による犯罪を、忖度によって不起訴とした、と評されて返す言葉もなかろう。
その反対に、首を傾げざるを得ない起訴と長期勾留が問題となってもいる。「えっ? こんな事件を起訴するの?」「こんな微罪で、こんなにも長期勾留するの?」という、これも検察の政権への忖度が疑われる処分。その典型が「倉敷民商弾圧事件」と「香港人の靖国神社建造物侵入被告事件」である。
「倉敷民商弾圧事件」については、以前に触れた。
「未決勾留428日の民商職員に、一審有罪破棄(差戻し)の控訴審判決」(2018年1月15日)
https://article9.jp/wordpress/?p=9762
本日は、後者を取りあげたい。支援組織の名称が、「12.12靖国抗議見せしめ弾圧を許さない会」という。これに倣って、「靖国抗議見せしめ弾圧」事件と呼ぶことにしよう。
事件は、昨年(2018年)12月12日の早朝に起きた。南京大虐殺の日として記憶される日(12月13日)の前日にあたるこの日の午前7時ころ、香港人の郭紹傑(55)と厳敏華(26)ら2人が、靖国神社の敷地に正当な理由なく立ち入ったとして警視庁に現行犯逮捕された。その後、12月16日に建造物侵入の罪名で起訴され、引き続く勾留が現在に至っている。この間4回の保釈申請がいずれも却下され、身柄の拘束は既に5か月を超えた。
公訴事実は、「被告人両名は、共謀の上、正当な理由がないのに、…(靖国神社の)「外苑」と称される敷地内に同神社神門前、参道入り口から侵入した」というもの。これだけが挙証対象であり、比較的微罪(最高刑懲役3年)でもある。およそ、実害はない。表現の自由侵害の側面は否定しがたい。まさしく「見せしめ弾圧」というにふさわしい。ゴーンのケースよりも、はるかに深刻な「人質司法」弊害の典型例というべきだろう。
第1回公判の罪状認否では、郭被告は「戦争責任を認めないことへの抗議行動で、表現の自由の範囲内だ」と主張。厳被告は「香港のラジオ局から頼まれて郭被告の抗議を撮影したが、取材の自由に当たる行為だ」と述べたと報道されている。
サンデー毎日(牧太郎)によれば、二人の行為は、「靖国神社の神門と第二鳥居の間の石畳で『南京大虐殺を忘れるな! 日本の虐殺の責任を追及する』と中国語で書かれた横断幕を広げ、東條英機元首相の位牌を模した紙を燃やし、もう一人はそれを撮影していた」のだという。また、「郭被告は香港の民間団体『保釣(ほちょう)行動委員会(中国に尖閣諸島の領有権がある!と主張する団体)』のメンバー。「南京事件(1937年)の賠償を、日本政府は被害者に行っていない!」と主張していた。香港のネットでは「この男は反中国活動家で、雨傘革命の先頭にいたのではないか?」などと話題になった。
また、被告人郭は、「昨年12月「長期勾留」に抗議して、約100時間絶食し、その結果、同27日体調不良で検査のため病院に運ばれたりした」という。
これまでの法廷傍聴者からは、次のような報告がなされている。
「2人に対して罵声を浴びせるためだけに、右翼が大量に動員をかけて10人ほど入りこんでいたと思います。その彼らは、法廷の終了が宣告されるや否や、被告に対して差別的な暴言を繰り返しました。その中には、私たちの集会などにも日常的に「カウンター」をかけてくるレイシストも含まれていました。」
また、法廷通訳(北京官話ではなく、広東語)の水準が不十分だとも聞く。
この事件の被告人二人の立場は極めて弱い。天皇代替わりで日本のナショナリズムが沸騰しているこの時期、政権と靖国を直接の敵にまわしているのだから。日本社会の圧倒的多数派世論と敵対的な関係にあるということだ。しかも、外交的に困難な事情として、中国は味方になってくれないということもある。
しかし、最も弱い立場の人権こそが擁護されなければならない。まずは、保釈が認められてしかるべきだ。ゴーンのように注目されないこの事件に、世論の関心を期待したい。
5月22日午前10時から、第3回公判が予定されている。この日には、検察側証人として警察官二人が証言する。なお、傍聴抽選は、同日9時半締め切りとのこと。
(2019年5月12日)