「普通のおばさん」発言の波紋
本日の「毎日・仲畑流万能川柳」欄の秀逸句は、
女医さんとわざわざ言うのなんでだろ(北九州 森友紀夫)
というもの。
かつて、女性医師は珍しい存在だった。「医師」の中に、医師とは独立した「女性の医師」の存在感があった。「女医」「女医さん」には、人それぞれに、また場面々々で、いろんなニュアンスがあろうが、差別的な意味合いは感じられない。
日本最初の女性医師・荻野吟子の生涯が渡辺淳一の小説『花埋み』に詳しい。萩野は最初の夫からうつされた淋病の治療を受けた際に、男性医師からの診療を恥辱としたことを契機に医師を志したという。イスラム世界の一部では、いまだに女性患者が男性医師に肌を見せてはならないとして、女性医師が不可欠だとのこと。現在の日本でも、同性医師の診療を受けたいという患者の要請はあるのではなかろうか。その意味では、「男医」「女医」の属性の意味はあるだろう。
法曹の世界では、医療の世界に比較すれば、性別に特有の問題はずっと少なく、協働したり相手方となる弁護士の性別を意識することはほとんどない。しかし、女性の権利を救済する法的手続に「女性弁護士」の存在意義はいまだに大きい。
男女間に素質的な能力差のないことは当然なのに、作曲家に女性が少なく、まだ将棋連盟のプロのレベルに女性が届かないなど、生育期の環境による女性のハンデは否定しえない。そのような現状において、医師や弁護士以上に、裁判官は女性に向いている職業だと思う。
力ではなく権威でもなく、純粋に理念と論理をもって人を説得しなけれはならない司法の世界において、「女性裁判官」は所を得た存在だと思っている。性別にかかわらず、裁判官の力量や人柄は、法廷で対峙する弁護士からは公平な評価を受けている。私の思い込みかも知れないが、女性裁判官は、男性裁判官に比較して出世への意欲が希薄で、まともな判決を書いてくれる期待が高い。もっとも、今のところは、ということかも知れないが。
最高裁裁判官は長く男性ばかりの世界だったが、わずかながらも女性裁判官の選任が増えてきた。ようやく、今年になって三つの小法廷に一人ずつの女性裁判官が在籍することになった。第二小法廷5名の裁判官のうちの一人が、鬼丸かおる氏。東京日の丸訴訟(2次訴訟)の上告事件で裁判長を務め、9月6日の判決言い渡しの際に初めてお目にかかった。
鬼丸裁判官の憲法判断は、「日の丸・君が代強制は間接的な思想良心の侵害と認められるが、間接侵害に過ぎないから緩やかな違憲審査基準に基づいて合憲」とする従来の判断を踏襲するもので、この点は不満の残るところ。
だが、貴重な補足意見を書いてくれた。前任の須藤正彦裁判官の補足意見に比較すればもの足りなさは残るものの、「都教委に対して謙抑的な対応を求めるとする」立派な内容。不起立・不伴奏の教員の気持に寄り添う裁判官の心情あふれる補足意見に、辛うじて闇夜に遠くの燈火を見た思い。
このことを報告する集会の席上で、私は、「原告教員たちの真摯さや、悩みや、勇気が伝わって、裁判官の気持を揺さぶった」とした上、この原告の気持を受けとめ理解してくれた鬼丸裁判官を評して「普通のおばさんの感覚」と表現した。
永六輔が自分を「男のおばさん」と呼んでいるあの感覚の「普通のおばさん」。自分では肯定評価の感覚だった。むしろ褒め言葉。なによりも、最高裁裁判官の権威を否定して、彼ら彼女らにも、普通人の感覚が通じないはずはないことを強調したかった。「普通のおばさん」とは、そのような心情の通う女性。しかし、この発言は評判が悪い。事後に何人かの人から、「あの発言はまずい」と注意を受けた。
「仲間として忠告をする」というニュアンスのものもあり、叱責をするニュアンスのものもあった。発言も難しいが、注意はもっと難しい。注意を受けて、さてどう「反省」するかはさらに難しい。
まだ、考えて続けている。自分に女性を軽んじる意識があるのだろうか。私は弁護士出身の女性裁判官だから、「普通のおばさん」と言ったのだろうか。確かに、一次訴訟判決のときには、違憲判決を書いてくれた宮川光治裁判官には「普通のおじさん」と表現した報告はしなかった。しかし、あれはとても「普通」のレベルではなかったからだ。それ以外の裁判官は、「普通」のレベル以下だった。
普通のレベルで、原告らの心情に寄り添った意見を寄せてくれた男性裁判官に遭遇していれば、「普通のおじさん」と言っただろうか。「おばさん」発言もとっさのことで、「おじさん」発言があったかどうかは分からない。「おばさん」には気持が通い合うイメージがあるが、おじさんにはそれがないからかも知れない。
人の発言に厳しい私だ。自分の発言に、忌憚のない意見をもらうのはありがたい。もう少し、「普通のおばさん」と発言した自分の気持と向かい合い突きつめてみたい。
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『ムスリム世界の女性たち』
パキスタンのマララ・ユスフザイさんは女性の教育を受ける権利を主張して、タリバンから瀕死の重傷を負わせられた。しかし、「イスラームの日常世界」(片倉もとこ著 岩波新書)によると、ムスリム世界すべてが女性差別世界ではないという。1991年出版の著書であるし、サウジアラビアやエジプトなどの豊かに見えるムスリム社会について書いてあるのでパキスタンの状況とは異なるのだろうか。同著には以下のように書いてある。
イスラム教の開祖・ムハンマドは、大実業家で15歳年上の女性に見初められて結婚した。ある日、突然神の啓示を受けたムハンマドはびっくりして、うちに戻り姉さん女房の膝にしがみついて震えたという。しかし妻に励まされて、妻と共にイスラム布教のかずかずの迫害を戦った。妻以外にもイスラム史上の数々の闘いに名を残した女性たちの活躍が、イブン・サアドの「ムハンマド伝」に記されている。「イスラム勃興に女性の力あり」である。黒いベールの陰で抑圧されている女性という印象は全く間違っている。
ムスリム社会では、妻は固有の財産を持っている。夫婦は別々の財産を持つものとされ、家畜にいたるまで、「あの羊たちとこの山羊たちはわたしのもの」といった風に、所有権がはっきりしている。仕事を持ったり、政治に進出している女性もたくさんいる。生活費は、すべて夫の義務とされるので、仕事を持っているいないにかかわらず、妻の方が金持ちな夫婦が多い。「あれは誰の住まいか」ときくと、そこに住んでいる男性の名をあげて、「ハッサンの家だよ」という答えが返ってきても、実は、妻の所有だということが間々ある。夫所有の家に同居している妻が多い日本と全く逆である。このように所有の取り決めが明確ならば、先日、日本で最高裁判決が出た婚外子の相続の問題も解決が容易なのにと思う。
結婚もイスラム法にはひとりの男とひとりの女の間でなされる契約だとはっきり宣言されている。結婚契約に当たっては、男から女に支払うハルマ(結納金の額)、および離婚の時に支払うハルマの額が取り決められる。離婚の時のハルマは結婚時のハルマよりはるかに多額であって、離婚保険ともなっている。
ムスリム世界で許される一夫多妻も、イスラム法で妻を「公平に扱うなら」という条件がついているので、実際には、物質的、精神的、肉体的に不可能なことである。一般の男性の間では「2人の女を妻にするのは、両手に炭火をにぎるようなもの」といわれて、実際にははやらないらしい。
ムスリム社会では「男の社会」と「女の社会」が厳格に別れているが、両者の間には上下差はない(本当だろうか)。女性は「男の世界」へ乗り出していかなくても、「女の世界」があるので、社会的活動は十分できる。女性の学校には女性の教師が必要で、「女の先生は頼りない」などというそしりは全くない。女性は病気の時、女医に見てもらうほうがいい(親族以外の男性との接触は禁止されている)ので、医学部の半分は女子学生である。看護婦と看護夫も半々である。女性専用の銀行もあり、店長以下すべて女性で、お客も女性である。
想像もつかない社会だ。女子大学がそのまま社会になったようでもある。この著書の扱っている社会はサウジアラビア、エジプトなどの豊かな生活である。そこで満足している女性も確かにいるだろう。自動車の運転を禁じられているサウジの女性はどう考えているのだろう。
貧しい国のムスリム女性の生活はどうなのか。バングラディシュのグラミン銀行を中心になって運営しているのは女性だ。そもそもグラミンが女性の権利獲得の社会運動である。夫婦の間に分けるほどの財産がなければ、結婚契約など意味もない。医療が国中に普及していなければ男医だの女医だの分ける意味もないし、女子どもは医療に接することもできない。
90年代以降のイラン・イラク戦争、湾岸戦争、イスラム原理主義の勢力拡張、「アラブの春」などの激動は、女性たちの生活や意識に大きな変化をもたらしたに違いない。今やイスラム人口は世界人口の約4分の1で16億人にも上る。8億人は女性だ。マララさんが主張するように、女性が教育を安心して受けられる社会が良いに決まっている。男女平等は人類共通の人権だ。女性と子どもに「エデュケーション・ファースト」を切に願う。
(2013年9月11日)