前天皇の家族は、憲法記念日に「あたらしい憲法のはなし」を熟読していた?
5月3日の東京新聞22面(第2社会面)に、こんな見出しの記事が掲載されていた。
「美智子様の言葉」「『憲法のはなし』毎年家族で熟読」「復刻本発行者・田中さんが感銘」
「美智子様」とは生前退位した前天皇の妻(旧姓・正田)のこと。「憲法のはなし」とは、文部省が日本国憲法施行間もなくの時期に、新制中学校1年生用社会科の教科書として発行された新憲法の解説書。正確には「あたらしい憲法のはなし」である。1947年8月2日文部省検査済とされている。「田中さん」とは、政府に不都合として絶版とされたこの教科書を復刻した出版社「童話屋」の創業者とのこと。
その復刻版『あたらしい憲法のはなし』を、前天皇の一家が毎年憲法記念日には、家族で熟読していたというのだ。これも、「国民とともに憲法を守る」姿勢を見せた、前天皇にまつわるあたらしい神話の一つ。
前天皇の家族が熟読という、その「家族」の範囲はよく分からない。もちろん、、「熟読」の程度も不明だが、この「教科書」をどう読んで、どう理解していたのか、聞いてみたいところではある。
これまで、当ブログでは「あたらしい憲法のはなし」の各章を取りあげて論じてきた。戦力不保持の決意など評価すべき点がないわけではない。しかし、今どき、こんなものを有り難がってはならない。この「憲法のはなし」には、国民と国家、人権と権力の緊張関係が描かれていない。つまりは、立憲主義という憲法の基本構造の解説が抜け落ちているのだ。解説が抜け落ちているというよりは、個人主義・自由主義という近代憲法の根本理念に対する理解がない。
つい、この間まで神とされた天皇の権威と権力が、国民の思想や信仰や政治活動に、あれ程の弾圧の猛威を振るったことへ反省の言葉が一つとしてない。侵略戦争や植民地支配の加害責任を語って、再び同じ過ちを繰り返さないことを宣言したはずの憲法制定の趣旨が語られていない。
特に、「五 天皇陛下」の叙述があまりにもひどい。
冒頭、「こんどの戦争で、天皇陛下は、たいへんごくろうをなさいました。」という一文で始まる。最後が、「ですから私たちは、天皇陛下を私たちのまん中にしっかりとお置きして、国を治めてゆくについてごくろうのないようにしなければなりません。これで憲法が、天皇陛下を象徴とした意味がおわかりでしょう。」と締めくくられている。分かるはずはない。この文章の起案者自身が、天皇制の呪縛から逃れ得ていないこと、象徴天皇とは何かについて何も分かっていないことが、よく表れている。
この書は、戦後民主主義の不徹底の墓碑銘として、読まねばならない。国民が天皇の政治責任・戦争責任を追及し得なかったことの慚愧の証言でもある。マッカーサーの、占領政策に天皇の権威を利用しようとした意図そのままの憲法解釈なのだ。
しかし、いつからのことかは分からないが、次代の天皇の家族が、この書物を読みながら、象徴天皇のありかたを考えていたとすれば、示唆的ではある。
この短い文書の中に、まとまりなく論理のつながらない、こんな文章がある。
「つまり天皇陛下は、一つにまとまった日本国民の象徴でいらっしゃいます。これは、私たち日本国民ぜんたいの中心としておいでになるお方ということなのです。それで天皇陛下は、国民ぜんたいをあらわされるのです。」「天皇陛下は、けっして神様ではありません。国民と同じような人間でいらっしゃいます。ラジオのほうそうもなさいました。小さな町のすみにもおいでになりました。」
こんな文章を「熟読」して、前天皇は、「象徴としての勤めとは、小さな町のすみにも行って、国民と接することだ」と思い立ったのだろうか。また、この文章に決定的に欠けているものは、過去の天皇制が果たした対内的な弾圧体制への反省であり、侵略戦争や植民地支配の天皇の加害責任である。結局のところは、この熟読した書物に書かれていなかったことには、思い及ばなかったということであろうか。
なお、当ブログでの、「あたらしい憲法のはなし」についてのコメントは、以下のとおりである。
「あたらしい憲法のはなし 『天皇陛下』を読む」
https://article9.jp/wordpress/?p=11417
「『新しい憲法のはなし』のはなし」
https://article9.jp/wordpress/?p=11686
「あたらしい憲法のはなし 『戰爭の放棄』を読む」
https://article9.jp/wordpress/?p=11701
「あたらしい憲法のはなし 『主権在民主義』を読む」
https://article9.jp/wordpress/?p=11779
「あたらしい憲法のはなし 第7章 基本的人権」を読む。
https://article9.jp/wordpress/?p=12292
(2019年5月6日)