「一人ひとりは微力だが無力ではない」のか、「無力ではないとしても、微力に過ぎない」のか。
(2022年1月10日)
本日は「成人の日」だそうな。いつの間にか、どうして今日が「成人の日」になったのか。その所以はよく知らない。かつては、1月15日が成人の日だった。この日が小正月で、武家では元服の儀式が行われていた慣わしによるものと聞かされてきた。天皇制とは無関係な祝日だが、武家社会の男子だけの通過儀礼を起源としたわけだ。
自分の成人のころを思い出す。私は学生だったが、アルバイトで自活していた。いつから成人したというような意識も自覚もなかった。強いて言えば、田舎の高校を卒業して学生として上京した18歳の春だったろう。成人式の案内というものを、区役所からもらった記憶があるが、バカバカしくってそんなことに費やす時間はないと無視した。若者を集めて、したり顔の年寄りの説教など聞きたくもなかった。
人類最古の文字による記録は、シュメール文明の粘土板に書き付けられたものだというが、その最古の文章が「近頃の若いモンは…」「実に嘆かわしい」という内容であるという。また、パピルスに書かれたヒエログラフの最古の文書もまた、「近頃の若いモンは…」という嘆きだとか。本当のところは知らないが、年寄りの若者に対する説教の歴史には、人類の歴史とともに年季が入っているのだ。
年寄りの説教好きとともに、年寄りが作った社会に対する若者の反抗心も年季が入ったもの…と思っていた。私は長く、「若者とは、常に社会への抵抗者である。齢をとるにつれて抵抗をあきらめ、既存の社会秩序に迎合して保守化し、やがて、次代の若者の抵抗の姿勢を嘆くのだ」と思ってきた。あるいは、「若者とは、常に理想を追い求める者、しかし、齢を重ねるにつれて現実に絡めとられ理想を失って妥協し、保守化し、やがて、次代の若者の理想を力なく嗤うことになるのだ」とも。
このことが永遠の法則かと思っていたら、昨今はどうも様相を異にするようだ。若者ほど自民党の支持率が高いという。「そんなバカな…」と絶句するしかない。
おそらくは、粘土板に書かれた楔形文字の文章は、「近頃の若い者は、私たちが苦労して作りあげたこの社会の秩序や道徳に反抗的である」「慎みなく新しい秩序を作ろうなどと攻撃的で実に嘆かわしい」というものであったろう。ところが、今やこの社会では、年寄りがこう言わざるを得ない。「近頃の若いモンは、私たちが苦労してぶち壊そうとしてもう一歩で成功しなかった旧社会の秩序に安住して抵抗も反抗もしようとしない」「理想をもって新しい秩序を作りだそうというエネルギーに欠けて実に嘆かわしい」
本日の東京新聞社説が、「成人の日に考える 『関係ない』と言わぬ人」というタイトル。至学館大学(愛知県大府市)の越智久美子准教授による「主権者教育」への取り組みを紹介している。その中に次の一節がある。
戦争を生き延びたある先輩の証言が、主権者教育に取り組むきっかけになりました。
「軍需工場といえば空襲の標的です。そんなところにいることは、恐ろしくなかったですか」と越智さんが尋ねると、その人は言いました。
「はじめはちっとも怖くなかった。何も知らなかったから。自分には関係ないと思ってた。家を焼かれ、家族を失い、ようやく震えが来ましたよ。その時にはもう手遅れでした」
越智さんは考えます。
「温暖化も原発事故もコロナ禍も、知らなかった、関係ないでは済まされない。今を生きる若い人には、過去に学び、今にかかわり、未来を創造する人になってほしい。それが主権者。そのための一票です。一票は微力かもしれません。でも決して無力ではありません」
無関心といわれる若い人たちに、選挙の内側に入ってもらい、一票の力を感じてもらうのが、演習の狙いです。
「一票は微力かもしれません。でも決して無力ではありません」「無関心といわれる若い人たちに一票の力を感じてもらいたい」がキーセンテンス。昔から言われてきた「一人ひとりは微力だが決して無力ではない。連帯し団結することによって社会を動かす力となる」という文脈の一部。ゼロをいくつ重ねても総和はゼロにしかならないが、「ゼロではない微力なら、票を増やし、仲間を増やせば確実に力となる」という理屈。
そうとも言えるが、実は「一人ひとりは決して無力ではないにしても、まことに微力に過ぎない。だから、自分の投票行動で社会が変わるとも思えないし、連帯し団結することによって社会を動かす力になるとの実感をもてない」ことが問題なのだ。その発想の転換をどうすればよいのか。
何よりも、意識的な家庭教育、学校教育の成果に待ちたいところだが、自分の体験で言えば、社会との関わりをもち、何らかの能動的な行動を経験するところが出発点だ。などと、私も、いまどきの若いモンに説教する側にまわったようだ。無駄なこととは知りつつも、である。