石原慎太郎の「一文字」改憲論に
石原慎太郎が所属している政党は「次世代の党」という(「前世紀の党」ではない)。その党の衆院予算委員会の持ち時間に石原が質問に立った。10月30日のこと。
その質問について、共同は「憲法前文に助詞の使い方の間違いがあるとして、安倍晋三首相に一文字だけの改正を提案した」と伝えている。時事は、「日本国憲法前文の日本語の使い方に不備があると訴え、安倍晋三首相も石原氏の主張に一部同調する場面があった」と。
メディアの注目度が低く、詳細は報じられていないが、次のような内容であったようだ。
「石原氏は前文の『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼』の部分を例に取り、『助詞の「に」の使い方が明らかに間違いだ。おかしな日本語は日本に厄介な問題をもたらす9条につながっている』とまくし立て、助詞だけでも手直すよう首相に求めた」(時事)
「作家である石原氏は、前文の『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して』の表現について『明らかに間違いだ』と指摘し、『信義に』を『信義を』に改めるべきだと主張した」(共同)
まったくつまらない話。ネタ切れで、目先を変えてみたということ。メディアの受けをねらったものだろうが、当てが外れたようだ。
思い出すのは、教育勅語についての似たような話題。私が手にした高校時代の国文法の教材に、「教育勅語に動詞の使い方の間違いがあった」と述べられていた。「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」の「一旦緩急あれば(已然形)」は、「一旦緩急あらば(未然形)」の間違いだという。
もちろん、間違いではないとする説もあるようだ。しかし、学生が教えられる意味に勅語を理解し、教えられた国文法に照らせば、明らかに勅語には「一字の間違い」がある。しかも「もっとも大事な部分の大きな間違い」なのだ。私が使ったその教材では、「当時、どの国文の教師も間違いには気付いていたが、畏れ多くも天皇の文書に誤りがあるなどとは指摘できなかった。起草者の元田永孚の権威を失墜することも憚られた」と、当時の社会や学会の権威主義を批判していた。
その印象に深い教材のおかげで、私は古語における動詞の「未然形」と「已然形」との違いを理解し、以後取り違えをすることはなかった。
さて今の世に、仮に憲法の「一文字の間違い」があったとして、いかほどの意味を持つだろうか。憲法は拝跪すべき聖典ではない。文字や文章の一字一句を侵すべからずとする神聖な存在でもない。教育勅語とは違うのだ。
石原には、「一文字の間違いがある」と指摘する表現の自由がある。しかし、石原の指摘する「一文字の間違い」で、憲法の理念についての国民の確信に何の揺るぎも生じるものではない。要するに、とるに足りない些事の指摘でしかない。
それでも、彼が、予算委員会で党の持ち時間をこの些事に費やしたことについて、産経は次のように報じている。
「質問を志願したという石原氏が取り上げたのは憲法の前文。『間違った助詞の一字だけでも変えたい。それがアリの一穴となり、自主憲法の制定につながる』と訴えた」
一文字の間違いがあったとしても、「それがアリの一穴となり、自主憲法の制定につながる」は、思い込みも甚だしい。
しかも、彼が何をもって「間違い」、「不備」というのかは詳報に接していないもののどうしても理解しがたい。まさか、「信頼する」は他動詞だから、格助詞は「を」をもちいるべきだ、などと言っているわけでもあるまい。
私には、「日本国民は、‥平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」が日本語の文章として間違いとの指摘には到底頷く気にはなれない。日本語として不適切とも、醜い文体とも思えない。とりわけ、わけの分からない多くの法律条文の「醜悪な」文体に辟易している身には、この日本国憲法の文章は、例外的に分かり易く、美しいとさえ思える。
石原の指摘のごとく、「諸国民の公正と信義を信頼して」としてもよかろうが、やや意味が変わってくるのではないだろうか。両者を比較しての文意についての感覚的な印象としては、「を」を用いた場合には信頼の対象は「諸国民」の意味合いが強く、「に」を用いた場合には信頼の対象はほかならぬ「公正と信義」となるのではないか。
また、「諸国民の公正と信義『を』信頼して、われらの安全と生存『を』保持しようと決意した」という同じ助詞の重なりを避けようとした修辞上の配慮もあったろう。すくなくとも、「を」が正しくて「に」は間違いと決めつけることはできない。ましてや、「助詞の『に』の使い方が明らかに間違いだ」「おかしな日本語だ」と断定する根拠はあるまい。
こういうときには、まず「日本国語大辞典」だ。格助詞「に」を引いてみるが、膨大に過ぎて手に負えない。結局、広辞苑が手頃だ。格助詞「に」について14通りの用法分類があって、その8番目に「対象を指定する」用法の説明がある。文語の用例がいくつかならび、最後に口語の「赤いの『に』決めた」とある。これだろう。
憲法前文は、信頼の対象を単に「平和を愛する諸国民」とせず、さらに「その公正と信義」と指定(特定)したのだ。決して間違った日本語でも不自然な日本語でもない。
なお、憲法の教科書では「平和を愛する諸国民の公正と信義」は、国連の理念と活動への評価だと説かれる。内容においても間違いはなく、ここをもって「アリの一穴」とすべき理由はない。
本日のブログのタイトルを、「石原慎太郎の『一文字』改憲論に」とした。「石原慎太郎の『一字』改憲論に反駁する」の意味である。これを、「石原慎太郎の『一文字』改憲論を」にしないのは「明らかに間違い」、「日本語として不備」などと指さされる筋合いはなかろう。
(2014年11月2日)