澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

今日は「憲法公布記念日」

1946年11月3日に、日本国憲法は公布された。今日が、68年目の憲法の誕生日となる。その憲法の第100条に、「この憲法は、公布の日から起算して六箇月を経過した日から、これを施行する」との定めがあって、翌47年5月3日が施行の日となった。「憲法記念日」として国民の祝日とされたのはこちらの施行日である。

憲法公布の日として特に11月3日が選ばれたのは、この日が明治節(明治天皇睦仁の生前には天長節)だったから。旧時代の遺物を払拭し切れていない「新憲法」の中途半端さを象徴する日取りの設定である。もっとも、当初は紀元節(2月11日)を憲法施行記念日とすることが吉田内閣の腹案だったようだ。ところが、政権議会が意外に長引いたため、明治節の公布という日取りを選んだとされている。

たまたま、ウィキペディアで、入江俊郎『日本国憲法成立の経緯原稿』の次の抜粋を目にした。
「新憲法は昭和二十一年十一月三日に公布された。 この公布の日については二十一年十月二十九日の閣議でいろいろ論議があつた。公布の日は結局施行の日を確定することになるが、一体何日から新憲法を施行することがよかろうかというので、大体五月一日とすれば十一月一日に公布することになる。併し五月一日はメーデーであつて、新憲法施行をこの日にえらぶことは実際上面白くない。では五月五日はどうか。これは節句の日で、日本人には覚えやすい日であるが、これは男子の節句で女子の節句でないということ、男女平等の新憲法としてはどうか。それとたんごの節句は武のまつりのいみがあるので戦争放棄の新憲法としてはどうであろうか。それでは五月三日ということにして、公布を十一月三日にしたらどうか、公布を十一月三日にするということは、閣議でも吉田総理、幣原国務相、木村法相、一松逓相等は賛成のようであつたが、明治節に公布するということ自体、司令部の思惑はどうかという一抹の不安もないでもなかつた。併し、結局施行日が五月一日も五月五日も適当でないということになれば、五月三日として、公布は自然十一月三日となるということで、ゆく方針がきめられた。
公布の上諭文は十月二十九日の閣議で決定、十月三十一日のひるに吉田総理より上奏御裁可を得た。」

さて、この文書がどれほど真実に近いか、私は検証の能力を持たない。しかし、「公布は自然十一月三日となる」というこの文章の弁解がましさに注目されるべきだろう。実は積極的に11月3日を選んだのだが、その選択は消極的だったと弁明を試みているように思える。入江自身のこの文章によっても、メーデーの日は「実際上面白くない」と意識的にさけられている。5月5日を避ける理由は薄弱である。5月2日、4日、6日は検討もされていない。まさか、4月29日はあるまいが、30日の検討もない。11月3日公布は、4月29日(天長節)や2月11(紀元節)に次ぐ、保守政権のホンネの選択肢だったのではないだろうか。

なお、日本国憲法の制定は、以下の大日本帝国憲法73条の改正手続きを経る形式を借りて行われた。
1項 将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ
2項 此ノ場合ニ於テ両議院ハ各々其ノ総員三分ノ二以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス出席議員三分ノ二以上ノ多数ヲ得ルニ非サレハ改正ノ議決ヲ為スコトヲ得ス

要するに、憲法改正の発議権は天皇にのみあり、改正の議決をする議会が成立するためには議員数の3分の2以上の出席を要し、貴衆両院で出席議員の3分の2以上の賛成を要するとされていた。国民投票の制度はないが、普通選挙制度の下ではなかなかの硬性憲法と言ってよい。

50年間、明治憲法は一度の改正を経ることもなかった。最初から天皇制に不都合にはできていなかったからでもあり、そもそも憲法とはフレキシブルなものだからでもある。

この条文に則って、4月17日天皇の詔書の形で、「帝国憲法改正案」が発表され、同日枢密院に諮詢。6月3日枢密院の可決を経て、衆議院上程は6月25日だった。衆院が政府原案を修正可決したのが8月24日。貴族院に回付された修正案は、ここでも追加修正があって、再度衆議院に回付されて、10月8日衆議院で可決成立。しかし、これだけでは手続きは終わらない。再度枢密院への諮詢を経て、ようやく11月3日の公布となった。

天皇の「憲法改正案」発議に対して、貴衆両院(3分の2の特別決議)だけでなく、枢密院を含めた3機関全部が修正同意してようやく成立となったのだ。衆議院も貴族院も、それなりの独自性を発揮している。政権議会の議論は活発だった。議論の質の水準も高かった。しかし、それでも、11月3日の天皇による公布が象徴するとおりの中途半端さは否定し得ない。国民主権と天皇主権との狭間における中途半端である。

この中途半端な「日本国憲法」という存在を、国民主権・人権・平和の方向に解釈を進めて生かすのか、その反対方向へ後退させてしまうのか。天皇の権威を復活し、国家主義や軍国主義の「日本を取り戻す」動きを許すのか、阻止するのか。日々の「憲法の再選択」が国民の課題となっている。11月3日は、そのような課題を再確認すべき日だと思う。
(2014年11月3日)

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Published in 月曜日, 11月 3rd, 2014, at 17:29, and filed under 天皇制, 歴史認識.

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