再び、「取り消せ、謝れ、辞めろー橋下」
まずは、取り消せ
品性下劣な恥ずべき妄言を
人間の尊厳を蹂躙する暴言を
歴史を偽るその虚言を
どうして、いまだに取り消さないのか。
今さら取り消しても既に遅いが、
人を傷つけた言葉をそのまま残しておくことは許されない。
そして、謝れ
この上ない侮辱を受けた女性に対し
愚弄された沖縄に対し
貶められた平和と人権と歴史の真実に対して
どうしていまだにあやまらないのか。
強いアメリカとアメリカ国民には謝罪したのに、
本当に謝罪しなければならない相手にそのままとは何ごとぞ。
そのうえで、辞めろ
大阪市長も政治家も弁護士も
思想良心の侵害も不当労働行為も
そして歴史の改ざんも改憲策動も
どうして、いまだに辞めないのか。
大阪市民は肩身が狭い、弁護士仲間も恥ずかしい。
維新にはお似合いだが、政治家としては失格だ。
しかし、たったひとつ。取り消さない、謝らない、辞めない、橋下徹の功績がある。公平な立ち場から、その功績を述べておきたい。
日本国憲法が硬性で96条の改正手続が厳格なことの理由として、改憲には国民の熟慮が必要とされていることが挙げられる。一時的な国民的熱狂が過半数を超えたとしても、その勢いで憲法を変えてはいけない。冷静な熟慮とそのための期間が必要なのだ。
今、あらゆる世論調査で、維新の会の支持率の低下が続いている。その理由は、橋下徹の薄汚い正体が明らかになってきたからだ。国民が情報を集積し熟慮を重ねて、橋下のみっともなさに愛想をつかしてきた。今度ばかりは、国民の目は節穴ではない。
冷静に熟慮をするには一定の時間がかかる。この熟慮期間をおくことが大切だ。ボロを出さないうちの橋下人気で96条先行改憲などしていたら、それこそ肌に粟立つホラーな事態であった。維新の人気凋落が、冷静な熟慮とそのために必要な期間の重要性を教えてくれている。これが、橋下の唯一の功績。
もう一つ、提案したい。橋下の醜悪さは、実は安倍晋三の醜悪さでもある。歴史修正主義者として、人権感覚の鈍さにおいて、大戦後の世界の秩序に仲間入りするための条件だった戦争に対する真摯な反省を覆そうとしている悪質さにおいて。橋下から安倍批判に的を変えよう。橋下を批判した論法の多くはそのまま安倍晋三批判に使える。
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『関口芭蕉庵』
文京区関口に松尾芭蕉の旧跡がある。神田川に面した目白台の緑のなか、広大な「椿山荘」と「新江戸川公園(細川藩下屋敷あと)」に挟まれて、肩身が狭そうにちんまりとした「関口芭蕉庵」である。芭蕉はここで1677年から3年間を過ごした。出身の藤堂藩が神田浄水の改修工事にたずさわり、その帳付け役をしていたらしい。詳細はわからないが、心楽しい日々ではなかったはずだ。ところがこの場所は、青年芭蕉が糊口を凌ぐため、しばし住まいしてくれたお陰で、「芭蕉庵」の名を冠した名所になって残っている。1726年の33回忌に、門人たちの手で、芭蕉と其角・去来らの像を祀った「芭蕉堂」が急な狭い丘の上に建てられた。その脇には真筆の短冊を埋めて作った石碑「さみだれ塚」がある。眼下の早稲田田圃を琵琶湖畔に見立てて、「五月雨にかくれもせぬや瀬田の橋」とある。
初めて知ったことだが、芭蕉を「俳人」というのは間違いらしい。正しくは「俳諧師」。古く、貴族の優雅な遊びとして、一首の短歌を上の句と下の句にわけて、二人以上で詠み合い鎖のようにつなげていく「連歌」があった。それが江戸時代には、武士町人のあいだで諧謔味がつけくわえられて「俳諧」といものに変化していった。その最初の五七五を発句といい、脇句、第三と次々つなげて最後を挙句と名付けて楽しんだ。
発句のみを独立した作品としたのは芭蕉に始まるもののようだが、俳諧は連綿として続いた。そして明治時代、正岡子規が発句だけを俳諧から独立させて「俳句」と名付けた。だから芭蕉の時代には「俳句」という言葉はなかったし「俳人」もいなかった。
古池やかわず飛び込む水の音(芭蕉)
芦のわか葉にかかる蜘蛛の巣(其角)
五月雨を集めて涼し最上川(芭蕉)
岸にほたるを繋ぐ舟杭(一栄)
むざんやな甲の下のきりぎりす(芭蕉)
ちからも枯れし霜の秋草(享子)
これらの有名な芭蕉の句は連綿と続くストーリー性のある「俳諧」の一部を切り取ったもの(らしい)。
ところで、プロの「俳諧師」を「業俳」といい、アマを「遊俳」と言った。芭蕉は業俳の典型だが、業俳稼業は楽ではない。まず、文句のない教養と才能と実力がなければ続かない。要求されるそのレベルを、「はるかに定家の骨をさぐり、西行の筋をたどり、楽天が腸をあらひ、杜子が方寸に入るやから」と門人の曲水へ書いている。実力をもって門人の尊敬と献身を勝ち得なければならない。蕉門の門人は十哲をはじめとして2000人ともいわれた。その中には「俳諧の連句を興業」して「出板費」を引き受けたり、紀行行脚の企画立案をしてくれたり、日々の生活の面倒を見てくれたり、庵を提供してくれるようなスポンサーが全国各地に数多くいた。次々と「歌仙を巻いて」連句の座を興業し世間の耳目をひきつけておくのは、才能あふれる門人の協力なくしてはできないこと。才気煥発で、我が儘な門人たちの喧嘩の仲裁もうまくしなければならない。自分の才能を枯渇させないためには、病気味でも「奥の細道」への旅にも出なければならない。
忙しく、清貧の51年の生涯を終える時、「木曽殿と塚をならべて」(其角の「終焉記」)と残した言葉どおり、芭蕉は大津の義仲寺の木曾義仲の墓の隣に葬られた。生前芭蕉は義仲が好きであった。31歳の若さで、瀬田で討たれた義仲の心が哀れでならなかったのだ。
40歳の頃でも60歳に見え、気詰まりで面白くないと、敬して遠ざけられた大先生の「義仲好き」を門人たちはどう思っただろうか。
墓の下で「旅に病んで夢は枯れ野をかけ廻る」の脇句を付けてくれよと義仲にせがんでいるのでなかろうか。いや、もう相当な俳諧ができあがっているのかも知れない。
(2013年5月28日)