「帝国の慰安婦」著者の起訴に韓国社会の非寛容を惜しむ
本日の夕刊を見て驚いた。「韓国のソウル東部地検は18日、慰安婦問題を扱った学術書『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』の著者、世宗大の朴裕河(パク・ユハ)教授を名誉毀損罪で在宅起訴した。」(毎日)という。
同教授は同書で「日本軍従軍慰安婦」を、「売春婦」「日本軍と同志的関係にあった」などと記述したことから、元慰安婦から刑事告訴されていた。起訴は、この告訴を受けてのもののようだ。
毎日の記事によると、「検察は、河野官房長官談話や、2007年に米下院が日本に慰安婦問題で謝罪を求めた決議などを基に『元慰安婦は性奴隷に他ならない被害者であることが認められている』と指摘。著書の内容は『虚偽』と判断した。」という。これでは、表現の自由の幅は極端に狭くなる。
共同通信の配信記事では、「地検は『虚偽事実で被害者らの人格権と名誉権を侵害し、学問の自由を逸脱している』と指摘した。」「同書は韓国で、日本を擁護する主張だとして激しい非難を浴び、元慰安婦の女性ら約10人が14年6月に朴氏を告訴。ソウル東部地裁は今年2月、女性らが同書の出版や広告を禁じるよう求めた仮処分申し立ての一部を認める決定を出し、出版社は問題とされた部分の文字を伏せ、出版した。」という。表現の自由は、既にここまで制約されているのだ。
私は、民主化運動後の韓国を好もしい隣国であり国民と感じてきた。2年前の5月に訪問したソウルは、穏やかで落ちついたたたずまいの美しい街という印象だった。
憲法裁判所の見学や民主的な弁護士らのと交流で垣間見た、この国の民主化の進み方に目を瞠った。そして、これからは韓国社会に学ぶべきところが大きい。掛け値なしにそう思った。
ところが、その後いくつかの違和感あるニュースに接することになる。その筆頭は、産経新聞ソウル支局長の起訴である。同支局長のコラムが、「大統領を誹謗する目的で書かれた」として、名誉毀損罪で起訴され懲役1年6月の求刑を受けている。判決期日は11月26日、大いに注目せざるを得ない。韓国の司法は、大統領府からどれほど独立し得ているのだろうか。
私は、産経は大嫌いだ。ジャーナリズムとして認めない。常々、そう広言してきた。産経にコメントを求められたことが何度かある。そのたびに、「自分の名が産経紙上に載ると考えただけで、身の毛がよだつ」と断ってきた。その私が、産経支局長の起訴には納得し得ない。元来、権力や権威や社会的影響力の大きさに比例して、あるいはその2乗に比例して、批判の言論に対する受忍の程度も高くなるのだ。大統領ともなれば、批判されることが商売といってもよい。中には、愚劣な批判もあるだろうが、権力的な押さえ込みはいけない。
これに続いての朴裕河起訴である。寛容さを欠いた社会の息苦しさを感じざるを得ない。朴裕河の「帝国の慰安婦」の日本語版にはざっと目を通して、読後感は不愉快なものだった。不愉快ではあったが、このような書物を取り締まるべきだとか、著者を処罰せよとはまったく思わなかった。よもや起訴に至るとは。学ぶべきものが多くあるとの印象が深かった韓国社会の非寛容の一面を見せられて残念でならない。
もちろん、私は日本軍による戦時性暴力は徹底して糾弾されなければならないと思っている。被害者に寄り添う姿勢なく、どこの国にもあったこととことさらに一般化して旧日本軍の責任を稀薄化することにも強く反対する。しかし、それでも見解を異にする言論を権力的に押さえつけてよいとは思わない。当然のことながら、私が反対する内容の言論にも、表現の自由を認めねばならない。
産経ソウル支局長も朴裕河も、情熱溢れる弁護活動と、人権感覚十分な裁判官によって無罪となって欲しいと思う。念のため、もう一度繰り返す。私は産経は大嫌いだ。朴裕河も好きではない。「大嫌い」「好きではない」と広言する自由を奪われたくない。そのためには、嫌いな人の嫌いな内容の言論にも、表現の自由という重要な普遍的価値を認め、これを保障せざるを得ないのだ。
(2015年11月19日・連続第963回)