江戸期訴訟制度の教科書として百姓一揆の訴状が使われていた
世の中、知らないことばかりだが、ときに、知らなかったというだけでなく、「えっ?」「どうして?」と盲点を衝かれたような事実を知らされることがある。「闘いを記憶する百姓たち:江戸時代の裁判学習帳」 (八鍬友広著:吉川弘文館・歴史文化ライブラリー、2017年9月刊)の読後感がそれ。
この本で、筆者が「目安往来物」と名付けるジャンルがあることを初めて知った。これが、意外なもので興味が尽きない。
「往来物」とは、中世から近世にかけての庶民階層の教科書である。寺子屋は、官製の小学校と張り合って、明治の中期までは盛んだったというから、往来物もその頃までは命脈を保っていたことになる。もともと「往来」とは、「消息往来」の意味で書翰の往復を意味した。模範的な手紙文が、教科書のはじめであったことは容易に肯ける。
やがて、「庭訓往来」「商売往来」「百姓往来」「名所往来」等々の各種往来物が出回り、これによって子どもたちが読み書きを憶え、文章の作法を心得、その内容を通じて算術や商売の基礎や農事を身につけ、地理や歴史や伝承を習い、礼儀や道徳も学んだ。
「目安」とは、訴状のことである。もともとは箇条書きにした「見やすい」文書のことだったが、近世以後はもっぱら訴状を指すという。この用語は8代将軍吉宗の「目安箱」で有名だが、目安箱は江戸城外辰ノ口の評定所(幕府の司法機関)に置かれた。「目安箱」とは、庶民の不満についての「訴状」受け付け窓口だったのだ。
だから、「目安往来物」とは、江戸期の庶民が訴状のひな形を教科書にして、読み書きを習い、同時に「訴状」の書き方を学んでいたというのだ。しかも、この「目安」は、貸金請求や、家屋明渡請求、離婚請求の類の訴状ではない。歴とした現実の百姓一揆の「訴状」なのだ。生々しくも、百姓一同から、藩や幕府への訴状。まずは、具体的な要求を整理して列挙し、その要求の正当性を根拠づける理由を述べるもの。領主や代官の理不尽な圧政、それによる領民の苦しみ、そしてその怒りが暴発寸前にあること、事態がこのまま推移した場合の領民たちの決起の決意、等々を順序立てて説得力ある文章でなくてはならない。これを、江戸期の庶民が教科書として繰りかえし書き写し、その文体を身につけ、さらにはこの訴状を書いた先人を義民と讃える口碑の伝承とともに、反権力の作法を学んでいたのだ。
筆者八鍬友広の見解によれば、苛政に対して庶民が実力での蜂起を余儀なくされていた「一揆の時代」は江戸初期までで、幕藩体制の整備とともに、江戸中期以後は「訴訟社会」になっていたという。そのため、人々は先人の一揆の訴状を教材として、訴訟制度の利用に知恵を磨いたのだという。けっして、幕末に幕政の権力統制が衰退したから、反体制の文書が許容されたという事情ではないとのことだ。
その見解に安易に同意はしがたい。しかし一揆の訴状の教科書化は、連綿として苛政への反抗の精神を承継することに貢献しただろう。何よりも、我が国の近世には反権力的訴訟があったこと、また反権力的訴訟制度を学習してこれを利用しようとする運動の伝統があったとの歴史的事実には、まことに心強いものがある。
権力や強者の苛斂誅求や理不尽があったとき、被圧迫者はけっして泣き寝入りしない。団結し連帯して闘おうとするのだ。訴訟制度があれば訴訟を手段として、訴訟制度を手段とすることができなければ、実力をもってする。これは、万古不易変わらない。
この書物で蒙を啓かれたのは、実力をもってする一揆と、法と理をもってする訴訟制度の利用とが、明確につながっていることだ。そのことが、「闘いを記憶する百姓たち」というタイトルと、「江戸時代の裁判学習帳」というサブタイトルによく表れている。江戸中期以後、苛政にあえぐ庶民たちは、一揆に立ち上がった先人たちの闘いの精神や犠牲を忘れず、これを教材に訴訟制度の利用方法を学習したのだ。
私も、現代の訴訟に携わるものとして、一揆の精神を受継した先人の心意気を学びたいと思う。
(2018年1月14日)