澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

儀礼・儀式こそ、国家主義刷り込みの手段だー東京「君が代」裁判の法廷で

本日は、東京「君が代」裁判・4次訴訟の第6回口頭弁論期日。東京地裁527号法廷が、代理人席傍聴席とも満席となった。原告の準備書面(5)の陳述に加えて、原告1名、原告代理人1名が口頭で意見陳述をした。 

「日の丸・君が代」強制の職務命令違反を理由とする懲戒処分の効果は、第1次訴訟の最高裁判決が、かろうじて処分の合憲性を認めたが、損害を伴わない戒告のみにとどめるべきとして、減給停職等の実質損害を伴う処分は過酷に過ぎて違法とされている。

石原教育行政の処分の量定は以下のように累積加重するものであった。
 1回目不起立  戒告
 2回目     減給(10分の1・1か月)
 3回目     減給(10分の1・6か月)
 4回目     停職1月
 5回目     停職3月
 6回目     停職6月
おそらくは、7回目で免職を考えていたはず。

この累積加重の懲戒処分の手法を我々は、「転向強要システム」と呼んだ。心ならずも、思想・良心を枉げて、国旗国歌(「日の丸・君が代」)への敬意表明強制の屈辱を受け入れるまで、処分は加重され、それでも拒否し続ければ最終的には失職を余儀なくされる。400年前の、あのキリシタン弾圧の踏み絵と同じ構造だというのが我々の主張である。最高裁は、この点を認めた。最高裁が認める処分の量定は、原則戒告だけなのである。

もちろん、原告団も弁護団も、それで満足していない。違憲の判断を求めて、裁判所を説得する努力を重ねている。訴状と、その後の5本の原告準備書面は、違憲論で埋めつくされている。本日陳述の準備書面(5)も同様である。そして、その中のさわりを弁護団の雪竹奈緒弁護士が語った。

テーマは「儀礼・儀式論」である。最高裁の合憲判断の理由中に、「卒業式の国旗国歌掲揚は儀礼・儀式に過ぎない」と述べられている。「儀礼・儀式に過ぎないものの強制は、直接に思想良心を侵害するものとはならない」との文脈である。これへの反論の仕方には、「儀礼・儀式であっても、その強制は思想良心の自由を侵害しうる」というものもあるが、本日の雪竹弁護士の論旨は、「学校行事における儀礼・儀式こそ、子どもへの特定の思想刷り込みの手段として危険なもの」ということにある。

長文の準備書面の一部の要約だが、短くすることで、ポイントを凝縮した分かり易い意見陳述となった。以下、その原稿を掲載する。

なお、原告本人(数学科教員)の陳述も、教育の場における「日の丸・君が代」強制の問題点を浮かび上がらせて、立派な内容だった。残念ながら、当ブログへの掲載の許諾を得ることを失念していた。後日あらためて掲載したい。

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            意 見 陳 述
東京地方裁判所民事第11部乙B係 御中
                     原告ら訴訟代理人 弁護士 雪竹 奈緒
1 本件で問題となっている国旗掲揚・国歌起立斉唱につき、最高裁判所は、「学校の儀式的行事」における「慣例上の儀礼的な所作」であって、個人の思想良心を直ちに制約するものではない、と述べています。また都教委は、国旗掲揚・国歌起立斉唱は「国際儀礼」である、として、やはり「儀式」「儀礼」であるから思想良心の侵害にはならない、と主張します。
  しかし、「儀式である」から、「儀礼である」から、起立斉唱を命令しても思想良心を侵害しない、ということになるのでしょうか。むしろ、「学校儀式」における「儀礼的所作」こそが子どもへの思想注入に利用され、大変恐ろしい結末をもたらしたという歴史的事実があったのだという現実を、私たちは決して忘れてはなりません。
2 戦前の小学校や中学校においては、三大節や四大節といった国家の祝祭日に、学校儀式を挙行することが、小学校令施行規則などによって定められていました。その内容は、時期によって多少の違いはあるものの、おおむね「唱歌君が代合唱」、「天皇・皇后の『御真影』への一同最敬礼」、「学校長教育勅語奉読」等を含むものでした。昭和期にはいって発表された文部省「礼法要綱」では学校儀式の順序・方式等を細かく定め、全国で画一的な学校儀式が挙行されてきました。
  戦前の学校教育は総体が、教育勅語を中心として「忠君愛国の志気を興す」国民教化の場でしたが、特に学校儀式については、四大節に関する教材に以下のような教員向け記述があります。「天長節の儀式と緊密に関連させて、最後に右のごとき心構を喚び起こし得るように取り扱う。」その内容として「みんな天長節の式に列して、ほんとうにおめでたい日であると思った。お写真を拝んでありがたいと思った。天皇陛下の御恵みをうける私たちは、みんなしあわせである。天皇陛下が益々お健やかで、日本の国が益々栄えていくことをうれしいと思った。わたしたちも、先生のいいつけをよく守って、りっぱな国民にならなければならない、という覚悟をつよくした。」とあります。
  すなわち、学校儀式は、児童生徒にこのような忠君愛国の心構えを植え付ける目的があることを明言しているのです。
  実際、戦前の学校儀式を体験した人たちの証言では、「私たちの周囲には国とか天皇とかいうただならぬものがたちこめていて、子供心に私はすくなくともただならなさは感じとっていた」とか、「(御真影は)何かわけが分からぬながら、畏敬すべきもの、この世のほかのものという印象を受けていた」など、厳粛な雰囲気の学校儀式の中で、天皇や国家が神聖化され、「何かわけが分からぬながら」ひれ伏すべきもの、という心情が醸し出されていったことが見てとれます。
  国家は目に見えない抽象的なものであり、天皇ははるか遠くの存在です。それを、旗や歌、御真影といった「目に見えるもの」「感得出来るもの」に象徴させ、それらを使った儀式を繰り返し行うことによって、国民に、天皇や国家への絶対服従を刷り込んでいったのです。
  このような忠君愛国精神の国民に統合された国家がいかなる悲劇を生んだかは、あらためてここで申し上げる必要もないと思います。
3 10・23通達は戦前回帰だ、というと、「何を大げさな」「この近代民主主義国家で、今さら、あのころのような戦争体制に戻るはずはない」とお思いになる方が多いかもしれません。しかし、つぶさに見ていくと、それが決して杞憂でないことがお分かりいただけると思います。
  かつて国家統合の象徴として利用された「君が代」や「日の丸」を中心に据えた儀式。
  御真影の位置や式の順序等を詳細に定めた戦前の学校儀式同様、国旗の掲揚位置や式次第、会場設営まで詳細に定めた画一性。
  何よりも、「厳粛かつ清新な」雰囲気の中で例外なく全員を起立斉唱させることで、ただなんとなく「全員が起立斉唱するのが当然のもの」「国旗・国歌は敬意を表すべきもの」という雰囲気を醸し出すこと。
  なんと、戦前の儀式の光景に似ていることでしょうか。
  10・23通達の実施の指導の中で、近藤精一指導部長が次のような発言をしています。「卒業式や入学式について,まず形から入り,形に心を入れればよい。形式的であっても,立てば一歩前進である。」
  「形」すなわち儀式から入り、後に「心」を入れる。まさに、戦前の学校儀式と同じ意図を有していることを、都教委自身が告白しているのです。
4 10・23通達について、これは教師や生徒にロボットになれというのと同じことであるとし、ナチスの将校、アイヒマンの例を引いて警鐘を鳴らす学者もいます。アイヒマンは、ナチス・ドイツの占領したヨーロッパ全域からユダヤ人をポーランドの絶滅収容所に移送する責任者で、ホロコーストに大きな責任を負っている人物でした。しかし彼は、上司の命令をただ伝えただけだと裁判で抗弁し、自分が義務に忠実であったわけで、ほめられることはあっても犯罪者ではないと主張しました。
  行政や上司の命令について、その内容を吟味することなく無目的に従うことを当然視する教員が多くなってしまえば、皆がアイヒマンになってしまうわけで、その命令が誤っていたときに取り返しのつかない結果をもたらすことになるのです。
5 現在、国会で議論されている、いわゆる安保関連法案について、「戦争できる国家体制づくりだ」と批判する声が上がっています。「戦争できる国家体制」に、「国家に絶対服従する国民」がそろったら、この国はどうなってしまうのでしょうか。いま、この国は重大な岐路に立たされています。
  平和国家70年の歴史に恥じないご判断を裁判官の皆様にお願いして、私の陳述を終わります。
(2015年7月10日)   

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