目くそ君たち、大いに鼻くそを嗤え。
聖書には、引用される名言が多い。「汝らのうち、罪なき者まず石をなげうて」などは、その筆頭格だろう。ヨハネによる福音書第8章なのだそうだ。現代語訳では、「イエスは立ち上がって彼らに言われた、『あなたがたのうちで罪のない者が、まず彼女に石を投げなさい』」となっている。「故事俗信ことわざ大辞典」(小学館)をひもとくと、「この言葉によって、イエスは人が人を裁く権利のないことを悟らせた」との解説が見える。また、十王伝説では、閻魔は人を裁くその罪故に、毎日溶けた銅を飲む責め苦に耐えるのだという。他人の罪をあげつらうのは、罪なき聖者以外にはなしえず、清浄なる者にとっても他人の罪を裁くことは軽々になし得ることではないというのだ。
しかし、俗世は聖書にも仏教説話にもほど遠い。舛添要一の醜態を、我先に石もてなげうつ輩ばかり。これを「目くそが鼻くそを嗤う」という。「目やにが鼻垢を笑う」という語法もあるそうだ。
目くその筆頭は、石原慎太郎であろう。次いで、猪瀬直樹。鼻くそ君にも、3分の理があり、2分のプライドもあろう。この前任者二人に対しては、「ほかの人はともかく、おまえたち二人には言われたくない」との思いが強かろう。
続いて目立った目くそは、橋下徹、萩生田光一といったところ。萩生田光一(東京都第24区選出衆議院議員・内閣官房副長官)については、首を傾げる向きもあろうか。「安保関連法賛成議員の落選運動を支援する弁護士・研究者の会」が、4月28日付で東京地方検察庁に政治資金規正法違反で告発している御仁で、明らかに目くそというに相応しいお一人。
http://rakusen-sien.com/rakusengiin/5625.html
この目くそ君。5月13日の舛添会見後、「(家族と会議?)それ嘘だろ! うさんくさいねえ。オレが記者なら追いかけるよ。これ以上のイメージダウンは勘弁願いたいね」と言っている(週刊文春)。目くそが鼻くそを嗤うの典型パターン。
鼻くそを嗤うのは楽だ。水に落ちた犬を叩くのはたやすい。正義は我にありとして、力を失った者を叩き続けるメディアに真のジャーナリズム魂があるのだろうか。
目くそにはなりたくない。目くそと呼ばれたくもない。ジャーナリスト諸君よ。鼻くそではなく、目くその方を追わないか。石原慎太郎の所業をもう一度洗い出さないか。政権で涼しい顔をしている連中とカネの問題を徹底して洗い出さないか。権力の座にある者、強い立場にある者、権威をひけらかしている者を批判してこそのジャーナリズムではないか。目くそ連中と一緒くたにされて本望か。
しかしだ。もう一段深く考えてみると、視点も変わる。諸々の目くそ君たちよ。目くそと言われて怯んではならない。自分のことは棚に上げて、大いに鼻くその非をあげつらえ。目くそと鼻くそは、実はいつでも交替可能な関係だ。昨日の鼻くそも、今日の目くそとなる。それでよいのだ。権力にある者の不正を批判することに資格は要らない。たとえ自分が汚くても、仮に自分に非があったとしても、権力者の不正批判は社会に有益なのだ。
だから、「汝らのうち権力の不正を目にした者、誰も躊躇なく石をなげうて」なのだ。「我が振り直す前に、権力者の振りに石をなげうて」なのだ。道徳の教えるところと、世俗の政治社会のありようとはかくも違う。
私は道徳にも宗教にも関心はないが、舛添叩きへの加担にいささかの躊躇がある。舛添潰しはもはや政権への打撃にならないのだ。のみならず、舛添後の都知事に最悪の候補者が出てくることにならないかという心配もある。
舛添叩きに加担することに躊躇しつつ、やっぱり舛添告発の代理人の一人となった。政治とカネの汚いつながりを断つために、目くその側に連なったのだ。
(2016/05/21)