希望の党に未来はないー「新しい独裁者はいらない」「選別こざかしい」
言葉は生き物だ。言葉の発するイメージは、成長もすれば老化もする。あるときは輝き、そしてまたあるときは枯渇し色褪せる。
「希望」という言葉が、ごく最近突如として生まれ輝いた。いっときその輝きはどこまで大きくなるかと思わせたが、また突如として失速した。今やその輝きは失われ、その言葉のイメージが人々を引きつけた力は既にない。「緑」という色についても、同様である。そして、その二つの類縁にあった「都民ファースト」も。
「希望」は失せ、「緑」はタヌキになった。都民ファーストにも前途はない。東京オリンピックのイメージも大きく傷ついた。あのエンブレムが、肩身が狭いと嘆いている。
転機は明らかに、小池百合子の「私たちの政策に合致するか、さまざまな観点から絞り込みをしたい。全員を受け入れることは、さらさらない」、「(リベラル派が)排除されないということではなく、排除いたします。」と言い切ったときだ。
小池百合子を見る人々の視線が、ここで明らかに変わった。希望の党への評価も変わった。「ああ、狙いはリベラル潰しだったのか」「第2自民党を作ろうとしているんだ」「そんなにエラそうにしたいのか」「いったい何様?」。
百合子伝も辛口となった。もとの職場では同僚からヒラメと異名をとっていたそうだ。上のご機嫌取りに忙しい人だったからだという。その人が、今は上から目線で、多くの人をヒラメと見下しているのだ。
希望の党の公認を得るには、「協定書」という表題の踏み絵を踏まなければならない。常識的な語感では、「協定」とは対等者間の合意だが、これはちがう。小池百合子への一方的な無限の忠誠を求めるものとして、まさに「踏み絵」だ。プライドを持ったものに、署名かできる代物ではない。
踏み絵の効果は、なによりも踏み絵を踏ませることによって、屈辱感を味合わせ、その矜持を砕くことにある。
踏み絵は10項目。たとえば以下の通り。
☆安保法制の合憲性を認めること。現実的な安保政策を支持すること。
☆憲法改正を支持し、憲法改正論議を幅広く進めること。
☆外国人に対する地方参政権の付与に反対すること。
☆党の公認候補になるに当たり、党に資金提供をすること。
☆党が選挙協力する他党への批判禁止
これって、保守というよりは右翼ではないか。
阿部知子が、「新しい独裁者はいらない」とボードに書き込んで掲げたのは、まったく適切ではないか。うっかりするとポピュリズムが独裁者を生み出すことになるのだ。
今朝(10月3日)の毎日が、「細川護熙元首相 『選別 こざかしい』 小池知事を批判」というインタビュー記事を載せている。これは痛烈で、影響は大きい。
細川はこう言っている。
「(安倍政権を倒す)倒幕が始まるのかと思っていたら、応仁の乱みたいにぐちゃぐちゃになってきた。政権交代までいかなくとも、せめて自民党を大敗させて、安倍晋三首相の党総裁3選阻止まではいってもらわないと」。
「同志として小池氏を手助けしたいと考えてきたが、排除の論理を振り回し、戸惑っている。公認するのに踏み絵を踏ませるというのはなんともこざかしいやり方で『寛容な保守』の看板が泣く」「首相を目指すのであれば、保守やリベラルにこだわらず、器量の大きい人でいてもらいたい」
また、連合も希望の党への応援はしないとした。これも、小池百合子のつまずきの結果。選挙実務への影響は大きかろう。
せっかくアベ政権を切り崩しても、第2のアベが登場するのでは元の木阿弥。そのような観点からの小池百合子批判だが、たとえ党の公認候補者数が200を越えようとも、「希望」の輝きが失せた今、先が見えた感がある。やはり、原点に戻って、アベ政権批判に集中しなければならない。
(2017年10月3日)