澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

安倍政権下の「奇妙なナショナリズム」とは?

話題の書「奇妙なナショナリズムの時代ー排外主義に抗して」(岩波書店)に一通り目を通した。
これから、この書を手に取る方には、まず305頁の「おわりに」から読み始めることをお勧めする。この「おわりに」に、編者山﨑望の問題意識と立場性が鮮明である。何よりも、この部分は平明で分かり易い。編者であり自らも巻頭(序論)と巻末に2論文を執筆している山﨑が、ヘイトスピーチデモの風景に驚愕した心情を率直に語り、その違和感が本書のナショナリズム論の契機となったことが記されている。

ここで山﨑は、現在の政治状勢に触れて、こう言っている。
「安倍政権は『奇妙なナショナリズム』の時代に生まれた政権であり、また『奇妙なナショナリズム』を促進する政権でもある。」
「安倍政権は『日本固有』とする道徳・伝統・文化・歴史認識を国民に浸透させる意図を持つが、それは戦後の日本という国民共同体が醸成してきた道徳・伝統・文化・歴史認識とは異なる。その断絶性は「戦後レジームからの脱却」や「日本を取り戻す」といったキャッチフレーズに集約されている。被害者意識を背景にした歴史修正主義(侵略、戦争責任、敗戦の軽視もしくは否定)、排外主義やレイシズムを組み込んだ文化、国家主義的な伝統・道徳の復権は、戦後に形成されてきた国民共同体を堀り崩す。時代の区切りをめぐる意見の相違はあるにしても、安倍政権は戦後日本における従来の政権とは異質であり、「奇妙なナショナリズム」に完全に符合している政権であることは確認しておきたい。」

戦後民主主義を「戦後に形成されてきた国民共同体」とほぼ同義なものとして評価し、安倍政権と安倍政権を支えるものをそれとは断絶した異質なものとして警戒する立場を鮮明にしている。その「異質」が、「奇妙なナショナリズムの奇妙さ」となるものだが、ここでは、「歴史修正主義、排外主義やレイシズム」とされている。この基調が、この書の全編を貫いている。

以上の文章にも明らかなとおり、山﨑はけっして「革新」の側に立つ論者ではない。ナショナリズムを否定的で清算すべきものとは見ていない。「戦後に形成されてきた国民共同体」に親和感をもち、「奇妙ではない・ナショナリズム」には肯定的な論調である。その山﨑にして、安倍政権下のナショナリズム模様の奇妙さ・異様さは看過できないのだ。そのことは、次の結びの言葉にいっそう鮮明である。

「従来のナショナリズムと密接に結びついてきた立憲民主主義、自由主義、平和主義、国民主権が危機にさらされている情況において、われわれは、ナショナリズムの在り方を考えることなくして、現状に対峙することはできない。戦後日本のナショナリズムヘの郷愁や全面肯定を警戒しつつも、人々が自らのものとしてきた立憲民主主義、自由主義、平和主義、国民主権をナショナリズムとの関係で、いかに「保守」もしくは発展させていくべきか。本書がこうした問いを考え、行動するための一助となれば幸いである。」

この一文は、山崎の「日本国憲法の憲法価値を、従来のナショナリズムが支えてきた」という構図を鮮明にしている。この書の全体を通じて、「保守」や「従来のナショナリズム」は肯定的に語られている。私は、「普遍性をもった日本国憲法の憲法価値に、戦前を引きずるナショナリズムが敵対してきた」という認識をもっている。ずいぶん違うようにも思われるが、いま「奇妙なナショナリズム」が跋扈して安倍政権を生み、安倍政権がこれまでの保守政権や国民意識からは断絶して、「突出した反憲法的ナショナリズム」に依拠していることにおいては異論がない。言わば、邪悪な敵出現によって、「戦後民主主義を支えた保守」も「そのイデオロギーとしての従来のナショナリズム」も、論争の相手方ではなくなった。むしろ、頼もしい味方のうちなのだ。

では、「従来のナショナリズム」とは異なる「奇妙なナショナリズム」の、奇妙さとは何か。従前には、安定的な「国民国家」が存在し、これを支えるものとして従来のナショナリズムがあった。いま「国民国家」に揺れが生じ、これまで「国民国家」を支えてきたナショナリズムも大きく揺れて変容している。

その出発点は、「グローバル化」(情報と金融の分野を中心に国境を越えて人々を結びつけるもの)と「新自由主義」(国家や共同体から人々を解放し、人間を等価な市場的存在とするもの)だという。国民国家の境界も内実も曖昧・不安定になって、再定義が求められている。これに伴ってナショナリズムも変容しつつある。山崎は、「国民国家は先進諸国を中心に、他国との境界線で明確に区切られた安全保障、社会保障、国民共同体、民主主義の四つの層(レイヤー)の結合によって形成されてきた。」と立論し、いま、その4層のすべてでこれまでの国民国家では自明であったものが掘り崩されている、とする。

だから、「(かつては)国民国家システム形成の原動力となったナショナリズムが、(いま)グローバル化と新自由主義の中で、どのように境界線を引き直し、「われわれ」を模索しているのか、多層的な単位(政治的決定の単位、安全保障の単位、社会保障の単位、経済的な単位、文化的な単位)の間にいかなる関係を構築しようとしているのか。いかなる境界線についての正当化の論理を掲げているのか。」その問いかけが必然化しているのだという。

山崎は、これまでのナショナリズムと比較して、グローバル化と新自由主義という背景を持つナショナリズムの「奇妙さ」をいくつか挙げているが、その内の興味を惹くものを要約して紹介したい。

■「被害者としてのマジョリティ」という「奇妙さ」
 少数派ではなく、マジョリティこそがむしろ様々な層における「被害者」(もしくは潜在的な被害者)であり、マジョリティが「力のない者」へ、さらには「マイノリティ」化しつつある、という自己定義をしている点に、このナショナリズムの「奇妙さ」がある。
 ナショナリズムが自らの集団の危機を訴えること自体はたびたび観察されるものであるが、マジョリティでありつつも「想像された強者であるマイノリティ」によって被害を受けているという「被害者意識」を強く特つ点に特徴がある。この背景には、グローバル化による国民国家の融解が、既存の「力のあるマジョリティ」と「力のないマイノリティ」という図式が不明確になっているという認識がある。
 マジョリティの側がその要因を外部に求めるとき、「われわれ」の権利を侵害し「権利を得ている(と想像する)マイノリティ」や「マジョリティと同等の権利を持つ(と想像する)マイノリティ」を立ち上げ、彼らが「われわれマジョリティの権利を奪っている」という感情を高めることになる。

■レイシズムに重点を置く奇妙さ
 人々の同化による拡大ではなく、排除による国民の範囲の縮小を志向する点において、ナショナリズムの観点からは「奇妙さ」がある。従来のナショナリズムにおいても、レイシズムや排外主義の要素は存在していた。しかし既存の制度化されたナショナリズムによる国民像を逸脱して、それを解体する強度のレイシズムや排外主義が前面化し、普遍化の契機に乏しい歴史修正主義を強調する点において「奇妙さ」がある。レイシズムに基づく純化、排除や浄化を志向し、同化や統合もしくは拡張の思想ではないナショナリズムは、国民統合や国家建設を重視するナショナリズムや帝国主義的なナショナリズムの観点からは「奇妙さ」を醸し出す。その結果としてナショナリズムの特徴とも言うべき両義性が失われ、片方の要素(特殊性、排除、自然の強調)のみが重視されている点において「奇妙さ」が際立つことになる。

■「敵」とする外部の安定性の欠如という「奇妙さ」
「敵」という外部の設定によって定義すべき「友であるわれわれ」の輪郭と内容が定まるとするならば、「敵」の不安定さは、「友であるわれわれ」の不安定さを招いてしまう。とりわけ領域主権国家システムからなる国際関係のナショナリズムにおいては「敵」とされる「外部」は一定の継続性を特つことが多いが、現代のナショナリズムにおける「敵」は「変易性」が高く多岐にわたる。とりわけ日本における事例では、外国人労働者や観光客、少数民族、近隣諸国のみならず国際機関、政府、政党、マスメディア、官僚、警察、女性、若者、生活保護受給者、原爆被災者、東日本大震災の被災者、脱原発運動、フェミニスト、他のナショナリスト、学校関係者、地域住民、障害者、反レイシストなど「敵」は多岐にわたり、その変易性も高い。その点において従来のナショナリズムとは異なる「奇妙さ」を持っている。

なるほど、安倍内閣の支持勢力も、その持って生まれた歴史修正主義も、ヘイトスピーチの蔓延も、橋下徹の政治手法の一定の「成功」も、そして米大統領予備選挙におけるトランプ現象も、このような説明枠組みで思い当たることが多い。注目すべきは、「奇妙なナショナリズム」の敵としては、多国籍企業もアメリカも政権も意識されないことだ。本当の奇妙さは、このあたりにあるのではないか。

グローバル化と新自由主義⇒国民国家の揺らぎ⇒ナショナリズムの変容
という構図自体は分かるものの、一般論と具体論との連結はよく見えてこない。何が、どのように、ネトウヨに代表されるような奇妙なナショナリズム変容をもたらしたのか、このあたりの丁寧な説明が欲しいと思う。そのような診断があってこそ、安倍や橋下やヘイトスピーチを克服するにはどうすればよいのか、処方も書けることになるだろう。次を期待したい。

なお、山﨑望論文の紹介で手一杯だが、この書の全体の構成(目次)は以下のとおりである。山﨑の問題意識で下記の9論文が並んでいる。

序 論 奇妙なナショナリズム? 山崎 望
第1章 ネット右翼とは何か 伊藤 昌亮
第2章 歴史修正主義の台頭と排外主義の連接 清原 悠
    ―読売新聞における「歴史認識」言説の検討
第3章 社会運動の変容と新たな「戦略」 富永 京子
    ―カウンター運動の可能性
第4章 欧州における右翼ポピュリスト政党の台頭 古賀 光生
第5章 制度化されたナショナリズム 塩原 良和
    ―オーストラリア多文化主義の新自由主義的転回
第6章 ナショナリズム批判と立場性ポジショナリティ 明戸 隆浩
    ―「マジョリティとして」と「日本人として」の狭間で
第7章 日本の保守主義 五野井 郁夫
    ―その思想と系譜
第8章 「奇妙なナショナリズム」と民主主義 山崎 望
    ―「政治的なもの」の変容
おわりに

著者のほとんどが、1970年代・80年代生まれ。若い気鋭の研究者(政治学・社会学・社会運動論・比較政治学など)らの意欲を頼もしいと思う。
(2016年3月20日)

自治体はヘイト集会への施設使用を拒否しなければならないー東京弁護士会バンフレットの普及と活用を

昨日(1月10日)の毎日新聞に、「ヘイト集会拒否できる」「東京弁護士会がパンフ 自治体向け」の記事が掲載されている。ヘイトスピーチの集会に公共施設が利用される事態を防ごうと、東京弁護士会が利用申請を拒否する法的根拠をまとめたパンフレット「地方公共団体とヘイトスピーチ」を作製し自治体向けに配布している、との内容。

このパンフの内容となっている「地方公共団体に対して人種差別を目的とする公共施設の利用許可申請に対する適切な措置を講ずることを求める意見書」の発表は、昨年(2015年)9月7日のこと。以来4か月、東京弁護士会は、東京都内の全自治体や議会事務局、全国の弁護士会に配布してきたという。東京以外からも「参考にしたい」との問い合わせが相次ぎ、これまでに全国の25団体に送付。具体的な取り組みについて、東京弁護士会の担当弁護士と話し合いを始めた自治体もあるとのこと。

パンフの内容となっている意見書の全文は、東京弁護士会の下記URLで読むことができる。表現は慎重で穏やかだが、ヘイトスピーチの撲滅が国際条約上の国の義務となっているにもかかわらず政府は無為無策、これを放置している人権後進国日本の現状がよく分かる。
  http://www.toben.or.jp/message/ikensyo/post-412.html

国がなんの施策も行おうとしない現状で、自治体がヘイト集会への会館使用を拒否することは、ヘイト対策として実効性のある手段の提供としてその着眼がすばらしい。しかも、このパンフは、実によくできている。表現の自由にも慎重な目配りをしたうえでの具体的な提言である。説得力がある。今後の課題は、これを全国の自治体に普及して啓発し、遵守してもらうよう粘り強く働きかけること、さらにはその実現のための実効的措置を追求すること、だと思う。

東京弁護士会は、日本が締結し批准もしている人種差別撤廃条約を根拠に、「自治体は差別行為に関与しない義務を負って」おり、「公共施設が人種差別に利用されると判断される場合には会館等の利用を拒否できる」だけではなく、「会館等の利用を拒否しなければならない」と指摘している。

もちろん、要件は厳格でなければならないが、昨今問題となっているヘイトスピーチの集会に、会館等使用を許可すれば違法となり、当該自治体の住民の誰もが、自治体の財産管理における違法を主張して、住民監査請求から住民訴訟を提起することができることになる。

また、この東京弁護士会の「反ヘイト・バンフ」が普及してくれば、自治体の首長や責任者がヘイト集会に会館使用を許可したことは、違法というだけでなく、過失の認定も容易になる。集会と、それに引き続くデモなどで精神的被害を受けたという被害者にとって国家賠償請求が容易になると考えられる。このような事後的な法的支援についても、具体的な方策が考えられてしかるべきではないか。

東京弁護士会意見書の意見の趣旨は以下のとおりである。読み易いように、カギ括弧などを入れてみた。

地方公共団体は,「市民的及び政治的権利に関する国際規約」及び「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」に基づき,人種差別を撤廃するために,人種的憎悪や人種差別を扇動又は助長する言動など,人種差別行為を行うことを目的とする公共施設の利用申請に対して,「条件付許可」,「利用不許可」等の〈利用制限その他の適切な措置〉を講ずるべきである。」

この意見書の下記の言及は、襟を正して読まねばならない。

ヘイトスピーチなどの人種差別行為の放置は,社会に深刻な悪影響を与える。差別や憎悪を社会に増大させ,暴力や脅迫等を拡大させる。国連人種差別撤廃委員会が2013年の一般的勧告「人種主義的ヘイトスピーチと闘う」で強調しているように,それらの放置は,「その後の大規模人権侵害およびジェノサイドにつながっていく」。ナチスによるホロコーストやルワンダにおける民族大虐殺等だけでなく,日本においても,1923年に発生した関東大震災で,朝鮮人が暴動を起こしているとの流言飛語が広まり,日本軍や,民間の自警団によって少なくとも数千人の朝鮮人が虐殺された。これは,1910年に朝鮮半島を植民地とした後,被支配民族としての朝鮮人に対する蔑視と,植民地化に対する朝鮮人の抵抗運動に対する恐れから,日本国内で朝鮮人に対するヘイトスピーチが蔓延した結果であった。日本にもこのような過去があることが想起されなければならない(2003年8月25日付け日弁連「関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺人権救済申立事件」勧告書参照)。

人種や民族間の差別意識は、人為的に創られ煽られて生じる。植民地支配や戦争の準備と重なる。アベ政権の好戦的な憲法改正の策動と切り離せない問題といわざるを得ない。

ナチスはユダヤ人をホロコーストの対象とした。その数、500万人を超す。一般のドイツ人がそのことを知らなかったわけではない。ある日ユダヤ人が消える。その財産は、ドイツ人に分け与えられる。あるいは消えたユダヤ人が占めていた地位をドイツ人が襲うことになる。こうして、ホロコーストは、ドイツ人に現実的な利益をもたらしたのだ。

社会の中の特定の集団を敵として、多数派が寄ってたかっていじめるとはそういう実利に結びつくことなのだ。恥ずべき泥棒根性といわざるを得ない。いま、ヨーロッパでもアメリカでも、そしてもちろん日本でも、弱い立場の人種や民族に対しての非寛容な空気の醸成がおぞましい。ヘイトスピーチの抑制は、平和に通じるのだ。東京弁護士会の試みを、成功を念じつつ見守りたい。

なお、紹介されている具体例を挙げておく。
公共施設の利用拒否が可能になり得る具体的な例。
・人種差別集会を繰り返している団体や個人から申請があった
・施設の利用申請書に特定の民族を侮辱する表現が含まれていた
・集会の案内状に人種差別をあおる内容が書かれていた

施設の利用拒否が可能な人種差別行為の具体例
・「○○人は犯罪者の子孫」などの発言を繰り返す
・「○○人を殺せ」などのプラカードを掲げる
・「○○人のゆすり・たかりを粉砕せよ」などと告知して集会を開く

ここを出発点に、ヘイトスピーチ撲滅の動きを作り出せそうな気がする。
(2016年1月11日)

差別と偏見を克服しよう。憎しみと暴力と戦争をなくすために。

アメリカ南部・サウスカロライナ州の教会で9人が惨殺された。殺人者は21歳の白人男性、乱射された銃弾で亡くなったのはいずれも黒人の9人。現地時間6月17日夜(日本時間18日午前)のこと。教会で、無防備の人々を襲った悲劇。その理不尽に胸が痛む。

逮捕された犯人は日頃から人種差別の言動を露わにしており、典型的なヘイトクライムであると報じられている。また、この犯人は本年4月、21歳の誕生日に親から銃を買ってもらっているともいう。社会の暗黒と人の心の底に秘められた暗部とが噴出した印象。恐るべき社会の恐るべくも悲惨かつ醜悪極まる犯罪。

生まれながらの差別主義者はいない。生得の偏見はない。人は、物心ついてから理不尽な差別や偏見の感情を、社会や家庭から学んで獲得していくのだ。彼の地の黒人差別、ユダヤ人差別、ヒスパニックやアジア人に対する差別感情。そして、身近な問題として在日の人々への理由なき偏見、ヘイトスピーチ。どのようにすれば、差別や偏見を克服できるのだろうか。

惨劇の舞台となった教会は、マーチン・ルーサー・キング牧師が訪れたこともある、公民権運動にゆかりの場所であるという。「キングセンター」は、殺害された人々に哀悼の意を表すとともに「キング牧師の魂、そして、その哲学に従い、私たちはいかなる人種差別、憎しみ、戦争、そして、暴力に強く反対します」とコメントしたという。「差別、憎しみ、暴力、そして戦争」が、否定さるべき負のキーワードとされている。

たまたま、本日の赤旗文化欄「今月の詩」に、おぎぜんたの「虐殺記念日のヤモリ」という題の詩が紹介されている。「ルワンダの虐殺記念日の夜」にちなんだ沈痛な詩。その中で、次の歌の一節が引用されている。

 ある人種が優れていて
 ある人種が劣っているという哲学が
 永久にこの世から抹殺されるまで
 この世はいつまでも戦争だ

注がついている。「ボブ・マーリーの歌『ウォー』から(エチオピアのハイレセラシェ皇帝の演説をもとにした歌である)」と。キングセンターのコメントと符節がピッタリだ。今日だからこそ、この歌詞が深く胸にしみいる。

ネットで検索すると、こんな訳文も見つかった。
 ある民族がある民族より優れている、または劣っている
 そんな思想が、最終的かつ永続的に根絶され廃棄されない限り
 いたるところで、戦いは続いていく

 いかなる国においても、市民の間に差別がなくなり
 人間の肌の色が目の色と同じく意味をなさなくなるその日まで
 戦いは続いていく

この歌の中の「人種」「民族」は、いろいろに置き換えられる。宗教、言語、家柄、門地、地域、性別、年齢、職業、経済力、学歴、身体能力、容姿……。人と人の間に、尊厳における優劣があると認めるところに、諍いの火種が生じる。諍いは憎悪であり、暴力を生み、戦争にもつながる。

この歌の中の「戦争」は、象徴的な意味であるだけではなく、現実の国家間の武力衝突でもあり陰惨な殺戮でもある。

差別と偏見とは、社会に埋め込まれた毒物であり自爆装置である。その処理を誤れば社会が崩壊する。人類の壊滅にもつながりかねない。だから、社会は理不尽な差別と偏見を克服しなければならない。そのためのあらゆる努力をしなければならない。それが、あらゆる憎しみや暴力をなくし、さらには戦争をなくする正道となるだろう。
(2015年6月19日)

安田浩一『ヘイトスピーチー「愛国者」たちの憎悪と暴力』を薦める

安田浩一著の『ヘイトスピーチー「愛国者」たちの憎悪と暴力』(文春新書・5月20日刊)を読んだ。私は、鶴橋や新大久保でのヘイトスピーチを、知らないではない。先日は秋葉原で、ヘイトスピーチデモとカウンターと警察3者の軋轢の場に出くわしてもいる。私も編集に携わっている「法と民主主義」誌で2度の特集もしている。それでも、この書の読後感は「衝撃」というほかはない。この臨場感溢れるルポを取材し書き下ろした著者に敬意を表したい。

ともかく、この書は多くの人に広く読まれるべきである。評価・評論はじっくりと時間をかけて考えよう。政治学的に、文化論的に、経済現象から。あるいは社会学的に、心理学的に、もちろん歴史的にも…。さらには、国際的にも、学際的にも、そして最後に法的な観点から…。さまざまな切り口から、生起している現象のトータルな説明や、原因分析や、対応策が議論されねばならない。が、それより以前に、情報を共有しよう。何が起こっているのかを社会全体で確認しなければならないと思う。私も、認識が不十分だったと思うのだ。

この書は、延々とヘイトスピーチの実態を叙述する。「第1章 暴力の現状」「第2章 発信源はどこか?」「第3章 『憎悪表現』でいいのか?」「第4章 増大する差別扇動」「第5章 ネットに潜む悪意」「第6章 膨張する排外主義」…。差し支えない限りに実名で語られる。基調は「ヘイトスピーチは、表現の範疇ではない。生身の人を深く傷つける暴力そのものであり、社会を壊す」というもの。説得力に富み、たいへんな迫力である。とりわけ、「第4章 増大する差別扇動」を読むと息苦しくなる。

私の読後感の「衝撃」は、恐怖でもある。私たちの暮らすこの社会は、今とんでもなく病んでしまっているのではないだろうか。もしかしたら、壊れかかっているのではないだろうか。あるいは、日本の社会が腐りかけ腐臭を放ちつつあるのではないのだろうか。そういう恐怖である。論理も、会話も、心情も、まったく通じない人々の集団がこんなにも肥大しているのだという恐怖。

差別や排外主義、弱い者イジメは以前から社会に潜んでいるにせよ、それが恥であることは共通の認識だったはず。隠れての言動はあれ、公然と口にし、行動することは希なことではなかったか。しかもこれだけの集団で執拗に。クー・クラックス・クランでさえ覆面をしていたではないか。我が国で、白昼堂々と、大っぴらに差別用語を広言する人々の集団が街を練り歩くこの事態に薄気味悪さを通り越した恐怖を禁じ得ない。

在特会の京都朝鮮学校襲撃事件に際して、3人の子を同校に通わせていた父親の話が印象に深い(同書106ページ)、龍谷大学の教員である彼は、勤務先から現場に自転車で駆けつけた。「実は、彼ら(襲撃メンバー)を説得できないものかと考えていたんです。学校にわが子を通わせている親としては、問題はきちんと解決したいし、地元に住む人々と摩擦など起こしたくない。ここで生きていく以上、日本人との対立を望む在日など、いるわけありません。話せばきっとわかってもらえる。そんな気持でいたんです」
しかし、この常識的な考えは裏切られ、彼は現場で立ちすくむことになる。投げかけられた悪罵は「朝鮮人はウンコ喰っとけ!」というものだった。

以来5年間、彼は裁判の支援に走り回った。刑事では首謀者4名に威力業務妨害による懲役1年~2年の刑(執行猶予付)が確定し、民事訴訟では在特会に1200万円の高額認容判決が確定した。しかし、裁判で何かが本当に変わったのか、変わらないままなのか。彼も著者も、在日への冷たい視線は残ったままだという。

また、中学2年生の女子学生が、「そこで生きる人々を恐怖のどん底に落とした」という「鶴橋大虐殺スピーチ」も紹介されている。
「鶴橋に住んでいる在日クソチョンコの皆さんこんにちは!」「私もホンマ、皆さんが憎くて憎くてたまらないんです。もう、殺してあげたい」「いつまでも、調子に乗っ取ったら、南京大虐殺じゃなくて、鶴橋大虐殺を実行しますよ!」「ここはニッポンです。朝鮮半島ではありません。帰れー!」
なんということだろう。著者の表現のとおりに、息苦しいし腹だたしい。

彼らは、在日差別だけてなく、ニューカマーへの差別も、部落差別も平然と口にする。その口舌たるやすさまじい。書中には、在特会を「反日」攻撃の一員と遇する右翼とのつながりや、現政権中枢とのつながりも示唆されている。嫌韓本や嫌中書が売れる時代の背景もある。警察の対応も問題視されている。

会話を拒否し、言葉も心も通じない集団が、容易にネットで増殖されていく恐怖。しかし、最終章で「ヘイトスピーチを追いつめる」として、カウンターデモに起ち上がった一団のことも語られる。これが救いであり、希望である。

著者の次の感想は重い。
「いま、日本は憎悪と不寛容の気分に満ちている。差別デモだけではなく、ネットで、書籍で、テレビで、飲み屋の片隅で、あるいは政治の場で、差別が扇動されている。」
おそらく、この憎悪と不寛容の気分も、煽動されている差別も、国際協調や平和への敵対物である。改憲勢力を利するものでもあろう。とにもかくにも、この社会のほころびの原因と修復の手立てを考えねばならないと思う。
(2015年5月31日)

舞の海秀平の珍説ーこれは外国人力士への差別発言だ

今日(5月10日)から大相撲夏場所が始まった。結びの一番に、逸の城が白鵬を突き落としで破って座布団が舞った。外国人力士の活躍が大いに土俵を沸かせている。ところが、これを不愉快とヘソを曲げている一群の人々がいる。「日本人の活躍がない「国技」を面白いなどとは不届き千万」、「そのような輩は自虐ファンだ」というわけだ。国籍・人種・民族の違いに過度にこだわる人々。その多くが、すべての人を平等と見る日本国憲法の嫌いな人たちに重なる。

憲法記念日には、憲法が嫌いな人たちも寄り合って集会を行う。憲法を攻撃するために集会を開く権利も、憲法を貶める言論の自由も、懐広く憲法の認めるところだから堂々となし得る。この人たちも憲法の恩恵に浴しているのだ。

今年の5月3日には、東京・平河町の砂防会館別館で開かれた公開憲法フォーラム「憲法改正、待ったなし!」が、そのめぼしいものだった。
主催は、「民間憲法臨調」と「美しい日本の憲法をつくる国民の会」。この集会の登壇者は次のとおりである。さすがに公明党関係者はいない。
 古屋 圭司(衆議院憲法審査会幹事)
 礒崎 陽輔(自民党憲法改正推進本部事務局長)
 松原  仁(民主党、元国務大臣・拉致問題担当)
 柿沢 未途(維新の党政調会長)
 中山 恭子(次世代の党参議院会長)
 森本 勝也(日本青年会議所副会頭)
 舞の海秀平(大相撲解説者)
 細川珠生(政治ジャーナリスト)
 櫻井よしこ(両主催団体代表)
 西 修(民間憲法臨調運営委員長)

相も変わらぬ顔ぶれの中で、人目を引いたのが舞の海の発言。この人は、現役時代は器用な相撲を取っていた。きっと世渡りも器用なのだろう。現役を退いてからは器用に相撲解説をし、右翼の政治集会でも器用に「珍説」を披露して期待に応えている。

舞の海の珍説は、嗤ってばかりでは済まされない。かなりきわどい内容。これは外国人力士に対する差別発言ではないか。ヘイトスピーチと言ってもおかしくはない。

以下が、産経の報じる舞の海の発言内容。
日本の力士はとても正直に相撲をとる。「自分は真っ向勝負で戦うから相手も真っ向勝負で来てくれるだろう」と信じ込んでぶつかっていく。ところが相手は色々な戦略をしたたかに考えている。立ち会いからいきなり顔を張ってきたり、肘で相手の顎をめがけてノックダウンを奪いに来たり…。あまりにも今の日本の力士は相手を、人がいいのか信じすぎている。

「これは何かに似ている」と思って考えてみたら憲法の前文、「諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」に行きついた。逆に「諸国民の信義」を疑わなければ勝てないのではないか。

私たちは反省をさせられすぎて、いつの間にか思考が停止して、間違った歴史を世界に広められていって、気がつくとわが日本は国際社会という土俵の中でじりじり押されてもはや土俵際。俵に足がかかって、ギリギリの状態なのではないか。

今こそしっかり踏ん張って、体勢を整え、足腰を鍛えて、色々な技を兼ね備えて、せめて土俵の中央までは押し返していかなければいけない。憲法改正を皆さんと一緒に考えて、いつかはわが国が強くて優しい、世界の中で真の勇者だといわれるような国になってほしいと願っている。

言っていることが余りにせこくて情けない。論理が無茶苦茶なのは責めてもしょうがないだろう。なんでも日本国憲法のせいにするのも、右翼集会に出てきてのリップサービスとして目をつぶろう。しかし、外国人力士に対する差別には目をつぶれない。魅力ある相撲には拍手を惜しまない一般の相撲ファンにも失礼ではないか。

「日本の力士はとても正直に相撲をとる」とは、「外国人力士は正々堂々とした相撲を取らない」との中傷である。「相手は色々な戦略をしたたかに考えている」の「相手」とは文脈上外国人力士のことである。「外国人力士は立ち会いからいきなり顔を張ってきたり、肘で相手の顎をめがけてノックダウンを奪いに来たり…」とは、問題発言だ。こんなことを集会でおしゃべりする輩は相撲解説者として不適格と言わねばならない。

舞の海の発言は、明らかに民族的な差別意識からの発想である。力士を、「日本人力士」と「日本人以外=外国人力士」に分類して、「日本人力士」を「正々堂々と相撲をとる力士グループ」、「外国人力士」を「いきなり顔を張ってきたり、肘で相手の顎をめがけてノックダウンを奪いに来たりする」力士グループというのだ。力士個人に着目するのではなく、カテゴリーでレッテルを貼る。これが差別の手法である。

なお、相撲ファンの一人としての異論も言っておきたい。舞の海は、「今の日本の力士は相手を信じすぎて勝てない」「相手を疑わなければ勝てないのではないか」というが、勝負よりも相撲の美学に惹かれるファンは多いはずだ。「相手を疑っても、相撲の品格を落としても勝て」と聞こえる舞の海説の言は相撲の美学を否定するものとして愚か極まる。右翼とは、伝統の美学を重んじる立場のはず。この集会参加者で苦々しく聞いた人も多かったのではないか。

また、日本人力士が外国人力士の席巻を許している理由を「相手を信じすぎて勝てない」などと言っているのは見当違いも甚だしい。「相手を疑ってかかれば互角の勝負が可能」などと負け惜しみを言っているのではお話にならない。番付通りの歴然たる実力差を潔く認めなければならない。その上で、日本人力士の活躍を期待するのであれば、この実力差のよって来たるところを見極め、克服する努力をする以外にない。大相撲関係者が、憲法の悪口でお茶を濁している限り、日本人力士の巻き返しは難しそうだ。

なお、彼の考える憲法改正とは、「諸国民の公正と信義に信頼することは愚かだ。諸国民の公正と信義を疑え」という一点。それが、「強くて優しい、世界の中で真の勇者」であろうか。堂々たる正直相撲の美学を否定して、「ともかく勝つ方法を考えよ」という相撲解説者に、国際的な「真の勇者」を語る資格などない。

迷解説者の妄言を吹き飛ばして、国籍や民族にこだわりのない、夏場所にふさわしいさわやかな土俵を期待したい。
(2015年5月10日)

毎日新聞社もスラップ訴訟の被告になったー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第41弾

私自身が被告にされ、6000万円の賠償を請求されているDHCスラップ訴訟の次回期日は明後日4月22日(水)13時15分に迫っている。舞台は東京地裁6階の631号法廷。誰でも、事前の手続不要で傍聴できる。また、閉廷後の報告集会は、東京弁護士会507号会議室(弁護士会館5階)でおこなわれる。集会では、関連テーマでのミニ講演も予定されている。どなたでも歓迎なので、ぜひご参加をお願いしたい。

さて、私は、DHC・吉田から私に対する訴訟を「スラップ訴訟」と位置づけている。この場合のスラップ訴訟とは、権力者や経済的な強者が自分に対する批判の言論を嫌って、言論封殺を目的とする提訴のこと。DHC・吉田は渡辺喜美に対して「届出のない8億円を拠出していた」ことを自ら曝露した。多くの論者がこれを批判したが、DHC・吉田はその内10人を選んでスラップ訴訟をかけている。私もそのひとり。トンデモナイ高額請求で、うるさい人物を黙らせようということなのだ。

このようなスラップ訴訟の被害は、フリーランスのジャーナリストや個人ブロガーなど恫喝に弱い立場の者に集中してきた。ところが、大手新聞社もスラップの対象となっている。これは、ジャーナリズム全体に由々しき事態ではないか。既に報道の自由そのものが被害者となっているのだから。

以下は、毎日新聞4月17日夕刊(社会面・第14面)の記事である。多くの読者には目にとまらなかったであろう、小さな扱いのベタ記事。しかし、記事の内容は見過ごせない。

見出しは「サンデー毎日記事巡り稲田氏が本社提訴」というもの。
「サンデー毎日の記事で名誉を傷付けられたとして、自民党の稲田朋美政調会長が発行元の毎日新聞社を相手取り、550万円の損害賠償などを求める訴えを大阪地裁に起こした。17日の第1回口頭弁論で毎日新聞社は請求棄却を求めた。
 訴状によると、サンデー毎日は2014年10月5日号で、稲田氏の資金管理団体が10〜12年、『在日特権を許さない市民の会』(在特会)の幹部と行動する8人から計21万2000円の寄付を受けたと指摘。稲田氏について『在特会との近い距離が際立つ』とする記事を載せた。
 稲田氏側は『寄付を受けることは寄付者の信条に共鳴していることを意味しない』と主張。記事によって『在特会を支持していると読者に受け取られ、(稲田氏の)社会的評価を低下させる』と訴えている。
 ▽毎日新聞社社長室広報担当の話 記事は十分な取材に基づいて掲載しています。当方の主張は法廷で明らかにします。」

原告は自民党の政調会長である。安倍晋三にきわめて近い立場にあると見られている人物。このような政権与党の中枢に位置する人物のメディアに対する提訴は、被告が大手新聞社であっても、記事の内容が意図的な事実の捏造でもない限り、言論封殺を目的としたスラップ訴訟とみるべきであろう。また、現時点における複数の報道による限り、提訴の内容はまさしく、「権力者が自分に対する批判の言論を嫌って、言論封殺を目的とする」ものと考えてよいと思われる。

問題の「サンデー毎日」2014年10月5日号記事は、『安倍とシンパ議員が紡ぐ極右在特会との蜜月』というメインタイトル。大きな反響を呼んだ記事だ。サブタイトルは、「スクープ 国連が激怒」「自民党がヘイトスピーチ規制に後ろ向きな噴飯ホンネ」「山谷えり子との『親密写真』公開!」「お友達議員にバラ撒かれるカネ」「高市早苗とネオナチ団体」などと賑やかだ。しかし、サブタイトルに稲田の名がないことに注目いただきたい。

使われている写真は、「山谷氏を囲む在特会関係者」「ネオナチと高市氏(左)、稲田氏(右)の写真を報じる海外メディア」と、これは文句のつけようがない。

記事全体としては、「安倍自民と在特会」との蜜月関係を洗い出して、「今さら簡単に断ち切れないほど関係を深めている」「ナショナリズムを政権浮揚に使ってきたツケが回ってきた」と、政権の右翼化を批判したもの。

この記事に出て来る「シンパ議員」の名を挙げておきたい。
安倍晋三・山田賢司・高市早苗・下村博文・山谷えり子・有村治子・古屋圭司・衛藤 晟一、そして稲田朋美だ。稲田の名は最後に出て来る。扱いも、高市や山谷に較べて遙かに小さい。

稲田に関する主要な記事を抜粋してみよう。
「一方で在持会関係者が直接、自民党国会議員ににカネをバラ撒いているケースもある。稲田政調会長の資金管理団体『ともみ組』10〜12年、在特会で顧問に近いポジションにいる有力会員M氏ら、在特会幹部とともに活動している8人から計21万2000円の寄付を受けた。稲田氏の事務所は『稲田の政治理念と活動に賛同してくださる個人を対象に、広く浅く浄財を頂いている。事務手続きに必要な事項、法令で定められた事項、政治資金収支報告書に記載された事項以外の情報は確認していない』というが、在特会との近い距離が際立つ。稲田氏といえば、高市総務相とともにネオナチ団体の代表と撮影したツーショット写真が流出し、2人とも『相手の素性や思想は知らなかった』と弁明した。」

この記事にクレームがつけられて、今年の2月13日提訴となっていたことは、4月17日毎日夕刊の記事が出るまで知らなかった。それにしても、疑問が湧いてくる。なぜ、稲田だけが提訴したのだろうか。他の安倍・高市・下村・山谷らは、なぜダンマリなのだろう。

資金管理団体『ともみ組』の政治資金報告書は誰でもネットで閲覧可能である(下記URL参照)が、サンデー毎日記者は、事前に稲田の事務所を取材している。そのコメントも丁寧に記事にしている。手続的に問題はない。
http://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seijishikin/reports/SS2020131129.html

毎日新聞の記事による限りだが、原告稲田側は「在特会との近い距離が際立つ」とする記事が怪しからん、ということのようだ。「寄付を受けることは寄付者の信条に共鳴していることを意味しない」にもかかわらず、同記事によって『在特会を支持していると読者に受け取られ、(稲田氏の)社会的評価を低下させた」との主張のようだ。稲田も、在特会と近しいとされることは迷惑なのだ。せっかく「稲田の政治信条と活動に共鳴して政治資金を寄付した」在特会側は、この稲田事務所の連れない言辞をどう受け止めるだろうか。

朝日の報道はやや異なる。
「『在日特権を許さない市民の会』(在特会)と近い関係にあるかのような記事で名誉を傷つけられたとして、稲田朋美・自民党政調会長(56)が週刊誌『サンデー毎日』の発行元だった毎日新聞社に慰謝料など550万円の損害賠償と判決が確定した場合の判決文の掲載を求め、大阪地裁に提訴した。」
「稲田氏側は、在特会の会員と確認できるのは8人のうち1人だけと主張。さらに『寄付を受けることは、必ずしも寄付者の思想信条に共鳴していることを意味しない』と訴えた。」

稲田の提訴目的は、いつまでも「在特会と近い関係」と言われることを嫌っての縁切り宣言にあったのかも知れない。それでも、「寄付を受けることは、必ずしも寄付者の思想信条に共鳴していることを意味しない」は、記事を批判し得ていない。サンデー毎日の記事は、「在特会との近い距離が際立つ」というものである。寄付を受ける者と寄付者との関係を「距離が近い」と言って少しも不都合なところはない。これは典型的な記事の「意見・論評」の部分である。意見・論評には幅の大きな表現の自由が保障される。これでは稲田側の主張が裁判所で認められる余地はない。

「在特会の会員と確認できるのは8人のうち1人だけ」との稲田側の主張の真偽は第三者には分からない。しかし、サンデー毎日の記事は、「在特会で顧問に近いポジションにいる有力会員M氏ら、在特会幹部とともに活動している8人」となっている。「8人がすべて在特会の会員」と言ってはいない。立証のハードルはきわめて低い。

摘示された事実には真実性が求められるが、「主要な点において真実であればよい」ので、必ずしも完璧な立証が求められるわけではない。また、真実であると信じたことに相当な根拠があれば毎日側の過失は否定される。こうして、表現の自由は保護され、国民の知る権利が保障される。

どう見ても、稲田側の勝訴の見込みはあり得ないが、「自分を批判すると面倒だぞ」とメディアを萎縮させる効果は計算しての提訴ではあろう。それゆえのスラップ訴訟である。

私は、DHC・吉田に対してだけでなく、社会に「スラップ訴訟は許されない」と発言し続けている。是非、毎日も同じように声を揃えていただきたい。
(2015年4月20日)

すべてのハラスメントを一掃して、個人の尊厳が確立された社会を

個人の尊厳は尊重されねばならない。しかし、現実の社会生活においては、強者があり弱者がある。富める者があり貧しき者がある。生まれながらにして貴しとされる一群があり、人種・民族・門地により差別される人々がある。時として、強者は横暴になり、弱者の尊厳が踏みにじられる。

憲法は「すべて国民は個人として尊重される」(13条)と宣言し、「法の下の平等」(14条)を説く。これは社会に蔓延する、個人の尊厳への蹂躙や差別の言動を許さないとする法の理念の表明というだけではない。その理念を実現するための実効性ある法体系整備の保障をも意味している。個人の尊厳と平等が確立された社会を実現するには、憲法13条や14条をツールとして使いこなさねばならない。

その具体的な手法の一つとして、社会は「ハラスメント(Harassment)」という概念をつくり出した。弱い立場にある者、差別される側からの、人間の尊厳を侵害する行為の告発を正当化し勇気づけるための用語である。言葉が人を励まし行動を促すのだ。

ハラスメントの元祖は、「セクハラ」(セクシャル・ハラスメント)である。弱い立場にある女性の尊厳を傷つける心ない男性側の言動を意味する。ジェンダー・ハラスメントと言ってもよい。強者の弱者に対する不当な人権侵害は糾弾されなければならないとする基本構造がここに示されている。

同じく、職場の上司がその立場を笠に着て、部下に対してする不当な言動は「パワハラ」(パワーハラスメント)となる。企業こそは人間関係の強弱が最もくっきりと表れるところ。取引先ハラスメントも、下請けハラスメントもあるだろうし、古典的には労組活動家ハラスメントも、権利主張にうるさい社員ハラスメントもある。

強者の不当な言動が被害者を精神的に痛めつける側面に着目するときは、「モラハラ」(モラルハラスメント)とされる。セクハラも、パワハラも、モラハラの要素を抜きにはなりたたない。

強者が弱者に対してその尊厳を蹂躙する不当な言動という基本構造から、個別のテーマで無数のハラスメント類型が生じる。

学校を舞台にした校長や管理職から教職員に対する陰湿なイヤガラセは、スクールハラスメント、あるいはキャンパス・ハラスメントとして把握される。部活やクラスのイジメやシゴキも、これに当たる。大学の場でのこととなれば、「アカハラ」(アカデミック・ハラスメント)である。

職場や学園で、「俺の注いだ酒が飲めないと言うのか」「さあ呑め。イッキ、イッキ」という、「アルハラ」(アルコール・ハラスメント)。周囲の迷惑を顧みず、煙を撒き散らす「スモハラ」(スモーク・ハラスメント)。

もっと深刻なのが、「結婚を機に退職するんだろう」「戦力落ちるんだから、職場に迷惑」という「マリッジ・ハラスメント」。そして、最高裁が「妊娠を理由にした降格は男女雇用機会均等法に違反する」と判決してにわかに脚光を浴びることになった「マタニティ・ハラスメント」(マタハラ)である。差別は職場だけでなく家庭生活にもある。DVにまで至らなくとも「ドメステック・ハラスメント」があり、「家事労働ハラスメント」も指摘されている。

それ以外でも、人間関係の強弱あるところにハラスメントは付きものである。医師の患者に対する「ドクハラ」(ドクター・ハラスメント)、弁護士のハラスメントも大いにありうる。聖職者の信者に対する「レリジャス・ハラスメント」もあるだろう。ヘイトスピーチとされているものは、「民族(差別)ハラスメント」「人種(差別)ハラスメント」にほかならない。

安倍政権の福祉切り捨てや労働者使い捨て政策は、国民に対する「アベノハラスメント」(アベハラ)である。本土の沖縄県民に対する居丈高な接し方は、「沖縄ハラスメント」(オキハラ)ではないか。

東京都教育委員会が管轄下の教職員に「ひのきみハラスメント」を継続中なのはよく知られているところ。これとは別に、「テンハラ」という分野がある。「天皇制ハラスメント」である。「畏れ多くも天皇に対する敬意を欠く輩には、断固たる対応をしなければならない」とする公安警察の常軌を逸したやり口をいう。ハラスメントの主体は警察、強者としてこれ以上のものはない。テーマは天皇の神聖性の擁護、民主主義社会にこれほど危険なものはない。典型的には次のような例である。

市民団体「立川自衛隊監視テント村」のメンバーであるAさんは、半年以上にわたって公安刑事の執拗な尾行・嫌がらせを受けた経験がある。その尾行の発端となったのは天皇来訪に対する抗議の意思表示だった。
国民体育大会の競技観戦のためにAさんの近所に天皇夫妻がやって来た。市は広報で市民に「奉送迎」を呼びかけ、大量の日の丸小旗を配布した。このときAさんは、「全ての市民が天皇を歓迎しているわけではない」ことを示そうと、日の丸を振る市民の傍らで、天皇の車に向けて「もう来るな」と書いた小さな布を掲げた。それだけのこと。「憲法で保障された最低限ともいえる意思表示でした」というのがAさんの言。

その数日後から公安刑事の尾行が始まった。尾行は、決まって天皇が皇居を離れてどこかに出かける日に行われた。自宅付近・職場・テント村の活動現場などAさんは行く先々で複数の公安刑事につきまとわれた。刑事は隠れることもなく、Aさんに数メートルまで接近したり、職場のドア越しに大声を出すといった嫌がらせまでしたという。そして、極めつけが「あんなことしたんだからずっとつきまとってやる」というAさんに対する暴言。これが、テンハラだ。

Aさんを支援する立川自衛隊監視テント村や三多摩労働者法律センターは、次のように言っている。
「これまでも、天皇の行く先々で同様のことが行われてきました。国体や全国植樹祭といった天皇行事が行われるたびに、公安警察による嫌がらせや、微罪をでっち上げて逮捕する予防弾圧が繰り返されてきました。『不敬罪』の時代ではありません。天皇制に批判的な表現は、天皇の前でも当然保障されるべきです」

すべてのハラスメントを一掃して、個々人の尊厳と平等が擁護される社会でありたいものだと思う。
(2015年3月29日)

愚かなり 自民党女性局長

八紘一宇とは、かつての天皇制日本による全世界に向けた侵略宣言にほかならない。しかも、単なる戦時スローガンではなく、閣議決定文書に出て来る。1940年7月26日第2次近衛内閣の「基本国策要綱」である。その「根本方針」の冒頭に次の一文がある。

「皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ」

紘とは紐あるいは綱のこと。八紘とは大地の八方にはりわたされた綱の意。そこから転じて全世界を表す。全世界を一宇(一つの家)にすることが、皇国の国是(基本方針)というのだ。一宇には家長がいる。当然のこととして、天皇が世界をひとまとめにした家の家長に納まることを想定している。「皇国を中核とする大東亜の新秩序を建設する」というのはとりあえずのこと、究極には世界全体を天皇の支配下に置こうというのだ。

「満蒙は日本の生命線」「暴支膺懲」「不逞鮮人」「鬼畜米英」「興亜奉国」「五族共和」「大東亜共栄圏」「大東亜新秩序」等々と同じく、侵略戦争や植民地支配を正当化しようとした造語として、今は死語であり禁句である。他国の主権を蹂躙し、他国民の人権をないがしろにして省みるところのない、恥ずべきスローガンなのだ。到底公の場で口にできる言葉ではない。

ところが、この言葉が国会の質疑の中で飛び出した。3月16日の参院予算委員会の質問でのこと、国会議員の口からである。恐るべき時代錯誤と言わねばならない。

私は世の中のことをよく知らない。三原じゅん子という参議院議員の存在を知らなかった。この議員が元は女優で不良少女の役柄で売り出した人であったこと、役柄さながらに記者に暴行を加えて逮捕された経歴の持ち主であることなど、今回の「八紘一宇」発言で初めて知ったことだ。

この人が「ご紹介したいのが、日本が建国以来、大切にしてきた価値観、八紘一宇であります」と述べている。こんな者が議員となっている。これが自民党の議員のレベルなのだ。しかも党の女性局長だそうだ。安倍政権と、八紘一宇と、愚かで浅はかな女性局長。実はよくお似合いなのかもしれない。

この人には、八紘一宇のなんたるかについての自覚がない。ものを知らないにもほどかある。いま、こんなことを言って、安倍政権や自民党にだけではなく、日本が近隣諸国からどのように見られることになるのか。そのことの認識はまったくなさそうなのだ。

自分の存在を目立たせたいと思っても、哀しいかな本格的な政策論議などなしうる能力がない。ならば、セリフの暗記は役者の心得。世間を驚かせる「危険な言葉」をシナリオのとおりに発することで、天下の耳目を集めたい。そんなところだろう。この発言には誰だって驚く。「八紘一宇」発言は確かに世間を驚かせたが、世間は何よりも発言者の愚かさと不見識に驚ろいたのだ。

発言内容を確認しておきたい。八紘一宇が出てきた発言は、麻生財務相に対する質問と、安倍首相に対する質問とにおいてのものである。質問は、租税回避問題についてであった。歴史認識や教育や教科書採択や、あるいは戦争や植民地支配の問題ではない。八紘一宇が出て来るのが、あまりに唐突なのだ。その(ほぼ)全文を引用しておきたい。

「三原参院議員:私はそもそもこの租税回避問題というのは、その背景にあるグローバル資本主義の光と影の、影の部分に、もう、私たちが目を背け続けるのはできないのではないかと、そこまで来ているのではないかと思えてなりません。そこで、皆様方にご紹介したいのがですね、日本が建国以来大切にしてきた価値観、八紘一宇であります。八紘一宇というのは、初代神武天皇が即位の折に、「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)になさむ」とおっしゃったことに由来する言葉です。今日皆様方のお手元には資料を配布させていただいておりますが、改めてご紹介させていただきたいと思います。これは昭和13年に書かれた『建国』という書物でございます。

『八紘一宇とは、世界が一家族のように睦(むつ)み合うこと。一宇、即ち一家の秩序は一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない。一番強いものが弱いもののために働いてやる制度が家である。これは国際秩序の根本原理をお示しになったものであろうか。現在までの国際秩序は弱肉強食である。強い国が弱い国を搾取する。力によって無理を通す。強い国はびこって弱い民族をしいたげている。世界中で一番強い国が、弱い国、弱い民族のために働いてやる制度が出来た時、初めて世界は平和になる』

ということでございます。これは戦前に書かれたものでありますけれども、この八紘一宇という根本原理の中にですね、現在のグローバル資本主義の中で、日本がどう立ち振る舞うべきかというのが示されているのだと、私は思えてならないんです。麻生大臣、いかが、この考えに対して、いかがお考えになられますでしょうか。」

「三原参院議員:これは現在ではですね、BEPS(税源浸食と利益移転)と呼ばれる行動計画が、何とか税の抜け道を防ごうという検討がなされていることも存じ上げておりますけれども、ここからが問題なんですが、ある国が抜けがけをすることによってですね、今大臣がおっしゃったとおりなんで、せっかくの国際協調を台なしにしてしまう、つまり99の国がですね、せっかく足並みを揃えて同じ税率にしたとしても、たったひとつの国が抜けがけをして税率を低くしてしまえば、またそこが税の抜け道になってしまう、こういった懸念が述べられております。

総理、ここで、私は八紘一宇の理念というものが大事ではないかと思います。税の歪みは国家の歪みどころか、世界の歪みにつながっております。この八紘一宇の理念の下にですね、世界がひとつの家族のように睦み合い、助け合えるように、そんな経済、および税の仕組みを運用していくことを確認する崇高な政治的合意文書のようなものをですね、安部総理こそがイニシアティブをとって提案すべき、世界中に提案していくべきだと思うのですが、いかがでしょうか?」

三原議員は、麻生財務相に対する質問の中で、清水芳太郎『建国』の抜粋をパネルに用意し、これを読み上げた。こんなものを礼賛する感性が恐ろしい。こんな批判精神に乏しい人物を育てたことにおいて、戦後教育は反省を迫られている。この『建国』からの抜粋の部分について、批判をしておきたい。

『八紘一宇とは、世界が一家族のように睦み合うこと。一宇、即ち一家の秩序は一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない。一番強いものが弱いもののために働いてやる制度が家である。』

そんな馬鹿な。国際関係を戦前の「家」になぞらえる、あまりのばかばかしさ。世界のどこにも通用し得ない議論。聞くことすら恥ずかしい。「世界が一家族のように睦み合うべき」とするのは、「一番強い家長を核とする秩序」を想定している偏頗なイデオロギーにほかならない。他国を侵略して、天皇の支配を貫徹することによって新しい世界秩序をつくり出そうという無茶苦茶な話でもある。「一番強いものが弱いもののために働いてやる制度」とは、「強い」「弱い」「働いてやる」の3語が、差別意識丸出しというだけでなく、「3・1事件」や関東大震災時の朝鮮人虐殺などの歴史に鑑み、虚妄も極まれりといわざるを得ない。こんな妄言を素晴らしいと思う歪んだ感性は、相手国や国民に対する根拠のない選民思想の上にしかなり立たない。

『これは国際秩序の根本原理をお示しになったものであろうか。現在までの国際秩序は弱肉強食である。強い国が弱い国を搾取する。力によって無理を通す。強い国はびこって弱い民族をしいたげている。』

日本こそが、近隣諸国に対して、弱肉強食策をとり、弱い国を搾取し、力によって無理を通して、弱い民族をしいたげてきた。八紘一宇の思想は、その帝国主義的侵略主義、他国民に際する差別意識の上になり立っているのだ。その差別意識は完膚なきまでにたたきのめされて、我が国は徹底して反省したのだ。今にして、八紘一宇礼賛とは、歴史を知らないにもほどがある。

『世界中で一番強い国が、弱い国、弱い民族のために働いてやる制度が出来た時、初めて世界は平和になる』

あからさまに日本を「世界中で一番強い国」として、自国が世界を支配するときに、世界平和が実現するという「論理」である。中国にも、朝鮮にも、ロシアにも欧米にも、「世界中で一番強い国」となる資格を認めない。日本だけが強い国であり神の国という、嗤うべき選民意識と言わざるを得ない。

いかに愚かな自民党議員といえども、一昔前なら、「八紘一宇」を口にすることはできなかったであろう。露呈された安倍政権を支える議員のレベルを嗤い飛ばす気持ちにはなれない。時代の空気はここまで回帰してしまったのか。民主主義はここまで衰退してしまったのか。自民党安倍政権の危うさの一面を見るようで気持が重い。

もしかしたら、日本の国力が衰退して国際的地位が低下しつつあることへの危機感の歪んだ表れなのかも知れない。それにしても、歴史と現実を踏まえた、もう少しマシな議論をしてもらいたい。
(2015年3月19日)

「分離」こそが「差別」なのだ

曾野綾子という作家。普段は読んで不愉快にならぬよう避けて遠ざけている存在。しかし、今回は産経への彼女の寄稿が人種差別だとして批判が高まっている。無視してすますわけには行かないようだ。しかも、批判の先鞭をつけたのが南アの大使だというから、関心を持たざるを得ない。

曾野は、批判に反論している様子だが、その反論の仕方にも興味津々である。この代表的右派をもってしても、「差別して何が悪い」とは開き直れない。「私が人種差別主義者とは誤解だ」と弁明に努めざるを得ないのだ。

遅ればせながら、2月11日産経の話題のコラムを読んでみた。「曾野綾子の透明な歳月の光」と題する連載のコラムのようだ。この回の標題は「労働力不足と移民」。「『適度な距離』保ち受け入れを」という副題が付けられている。

一読して、「えっ? こりゃなんじゃ?」「これはひどい」という感想。およそ作家の文章としての香りも品格もエスプリもない。ただただ、内に秘めた差別意識を丸出しに表にしただけの代物。さすがに、産経の紙面に相応しいというべきか。

コラム前半の内容をこうまとめて、大きくは間違ってない。
「今、日本は若い世代の人口が減少し、若年労働力補充のために労働移民を受け入れざるをえない」「特に高齢者の介護のために、近隣国の若い女性たちに来てもらう必要がある」「その移民には、法的規制を守ってもらわなければならない」

この人の文章は、ひねりのない平板な内容なのに文意をつかみにくい。「移民としての法的身分は厳重に守るように制度を作らなければならない」という一文がある。うっかり、「日本人の雇い主に対して移民労働者の権利を守らせるよう制度を作れ」というのだと誤解してははならない。「条件を納得の上で出稼ぎに来た人たちに、その契約を守らせることは、何ら非人道的なことではないのである」と文章が続くのだ。「厳重に守るべき移民としての法的身分」とは、移民者の権利ではなく義務を指している。「法的身分を弁えてこれを守れ」と主張するのは、移民を受け入れる日本人の側なのだ。出稼ぎ労働者の虐待が問題になっているこの時代にナショナリストの面目躍如である。

さて、ここまでを前提として「外国人を理解するために、居住をともにするということは至難の業だ」と、話はいったんまとめられる。意味上は、これが結論。要するに、日本の老人の介護のために、近隣諸国の若い女性労働力を移民として受け入れざるを得ないが、「職は与えても、居住をともにして交流することはごめんだ」というのだ。これを差別という。

コラムの記事はこれで終わらない。唐突に、話題は南アに移る。「職は与えても、居住をともにして交流することはごめんだ」という結論の根拠を補充するためにである。

彼女は、ヨハネスブルグの一軒のマンションについて語る。アパルトヘイト政策の時代には白人だけが住んでいたマンションに黒人が住むようになった。彼らは買ったマンションにどんどん一族を呼び寄せた。マンションの水の使用量が増えて水栓から水が出なくなり、白人は逃げ出して住み続けているのは黒人だけになった、

これをもって、曾野は結論を繰り返す。
「爾来、私は言っている。『人間は事業も仕事も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がよい』」

曾野の、嘘か真か検証のしようもないこの話に頷いた人があれば恥じるがよい。あなたも立派な差別主義者なのだから。

曾野が語っているのは、移民受け入れに伴う制度についてである。「労働力としての移民は受け入れざるをえないが居住は分離する」という制度についてなのだ。その制度の合理性の例証に、アパルトヘイト後の南アの「実例」を語って、居住を分離する必要を説いているのだ。

曾野のこの文章を読んで、なお曾野を差別主義者と言わないのは差別を容認する共犯者と言わねばならない。

曾野の主張はアパルトヘイトそのものである。本来、アパルトヘイトとは、差別という意味ではなく、「分離」という意味に過ぎない。「それぞれが多様な伝統や文化、言語を持っている。それぞれのグループが独自に寄り集まって発展するべきだ」「アパルトヘイトは差別ではなく、分離発展である」とされた。公民権運動が主敵とした「セパレート・バット・イコール」の思想と通底している。「けっして差別はしませんよ。あなた方にも同等の権利を与える。ただ、一緒には暮らさない。コミュニティは別にするだけ」という。この「分離」自体が「差別」なのだ。これでは永遠に宥和は訪れない。紛争と不安の火種が永続するだけ。

アパルトヘイトでは居住区を分離したうえで出稼ぎを認めた。曾野の発想とまったく同じである。曾野は明らかに出稼ぎ移民者の宗主国意識でものを語っている。近隣諸国が怒って当然。ダシににされた南アが怒って当然。日本人である私も、不愉快で腹が立つ。
(2015年3月6日)

「ニッキョーソ!」は、罵り言葉たりうるか

「罵り言葉(ののしりことば)」というものがある。憎むべき相手に、最大限の打撃を与えようとして投げつけられる言葉。「悪口」・「雑言」・「悪罵」と言い替えてもよいが、「罵り言葉」が陰湿な語感をもっともよく表しているのではないか。

罵り言葉には、相手を貶め、最も深く突き刺さる言葉が選ばれる。差別用語がその典型。また、相手の身体的なコンプレックスを衝く言葉も罵り言葉の定番。しかし、罵り言葉の使い方は難しい。その鋭利な切れ味は、相手だけでなく自らをも切り裂くことになるからだ。

身体の障がいや容貌、身体的特徴についての罵りは、言葉を発したその瞬間、相手に届く以前に、自らを大きく傷つける。銃なら暴発である。既にこの種の用語は使えない時代となっているのだ。国籍・人種・民族・信仰・出自・性差等についても同様のはずだが、その理解ない人はまだ根絶に至ってはおらず、ときに物議を醸すことになる。

問題は、思想的政治的立場や発言を封じようとして投げつけられる罵り言葉である。適切に使うことは難しい。何よりも言語である以上は、その言葉が人を傷つける意味を持つことについての共通の理解がなければならない。それがなければ、発言者の悪意が相手に通じることはなく、なんの打撃を与えることもできない。

多くの場合、ある属性をもっていることの指摘が悪罵となる。しかし、指摘される内容が、恥ずべきことであり、非難にも当たるかは自明ではない。しかも、このような罵り言葉には、鮮度がある。陳腐なものは切れ味が落ちる。さりとて斬新を狙うと意味不明となってしまう。

かつての日本社会では、弑逆・不敬・謀反・不忠・不孝は、最高の罵り言葉であったろう。しかし、今や死語と言ってよかろう。惰弱・卑怯・未練なども同様ではないか。また、かつてのナショナリズムの高揚とともに、漢奸・売国奴・国賊・非国民などの語彙が生まれ、育ち、猛威を振るった。これが、今は死語になったと思っていたところ、ネットの世界でゾンビのごとく甦っている様子だ。ネットは文化の飛び地に過ぎないのか、リアル世界での排外主義復活の反映なのだろうか。「反日」という、罵り言葉としてはネット特有の未熟な用語の氾濫とともに不気味さは拭えない。

罵り言葉を適切に選んで、上手に罵ることは、意外に難しいのだ。罵る側の知性も品性もはかられることになるのだから。そんなことを考えていたときに、「事件」が起きた。「安倍晋三・トンデモ罵り事件」である。

事件は、昨日(2月19日)の衆議院予算委員会でのこと。民主党玉木雄一郎議員の質問の最中、あろうことか、安倍首相が唐突に「日教組!」などとヤジを飛ばし委員長からたしなめられる一幕となった。議員の質問は西川農水相が砂糖業界から受けた寄付金を巡ってのものだったという。

以下が、安倍首相らの発言内容。

安倍首相 「日教組!」
玉木議員 「総理、ヤジを飛ばさないでください」
玉木議員 「いま私、話してますから総理」
玉木議員 「ヤジを飛ばさないでください、総理」
玉木議員 「これマジメな話ですよ。政治に対する信頼をどう確保するかの話をしてるんですよ」
安倍首相 「日教組どうすんだ!日教組!」
大島委員長「いやいや、総理、総理……ちょっと静かに」
安倍首相 「日教組どうすんだ!」
大島委員長「いや、総理、ちょ…」
玉木議員 「日教組のことなんか私話してないじゃないですか!?」
大島委員長「あのー野次同士のやり取りしないで。総理もちょっと…」
玉木議員 「いやとにかく私が、申し上げたいのは…」
玉木議員 「もう総理、興奮しないでください」
.
この応酬に、「関係ないヤジじゃないか」などのヤジで一時議場騒然だったという。なお、玉木議員は、財務省の出で日教組出身者ではないそうだ。

安倍首相に限らず、右翼の連中は総じて日教組批判が持論。「あれもこれも、教育が悪いからだ」「日本の教育を悪くしたのは日教組だ」「だから、あれもこれもみんな日教組の責任だ」というみごとな三段論法が展開される。

持論としてのこのような信念は愚論あるいは暴論というだけのこと。ところが、安倍晋三という人物の頭の構造では、「日教組!」が罵り言葉として成立すると信じ込んでいるのだ。玉木議員にこの言葉を投げつけることが、何らかの打撃になるものと信じ込んでの発言なのだ。これは、彼がものごとを客観的に見ることができないことを示している。

「日教組どうすんだ!日教組!」という彼のヤジは軽くない。まさしく、罵る側である安倍晋三の知性も品性もさらけ出す発言なのだから。飲み屋で、どこかのオヤジが騒いでいるのではない。これが一国の首相の発言なのだ。

私たちの国の首相に対しての「罵り言葉」を探す必要はない。彼の言動を正確に再現するだけで足りるのだ。その言動の確認自体が、彼への最大限の打撃になるのだから。
(2015年2月20日)

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