澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

池田まき(野党・市民共闘)候補に声援を送る。アベ自民に負けるな。

選挙は戦争によく似ている。昨日(4月12日)開戦の、北海道5区の「選挙戦」について、本日の朝日トップは、「衆院2補選告示 参院選前哨戦」と見出しを打った。天下分け目の総力戦の前哨戦。しかも、アベ自民と野党・市民連合の一騎打ちである。

続いて、「アベノミクスの評価 焦点」という大見出し。関連の記事は以下のとおり。
「安倍首相はこれまで、経済が好調であることを前面に掲げて国政選挙を連勝してきた。ただ、今年に入り世界経済の減速を受けた円高・株安の影響で、政権が掲げる「経済の好循環」の実現が見通せなくなっており、アベノミクスの評価が改めて問われる。安全保障関連法が昨年9月に成立してから初めての国政選挙でもあり、同法の是非をめぐる論戦も焦点だ。環太平洋経済連携協定(TPP)への賛否も争われる。」

結局対立軸となる争点は、「アベノミクス」「安全保障関連法」「TPP」の3本というわけ。3本ともアベ側が放った矢だが、色褪せ、折れている。「アベノミクスの失敗」「戦争法の違憲性」「TPPの秘密主義と地域経済切り捨て」の3本の矢が、返り討ちの矢となっている。

谷垣幹事長の街頭演説が紹介されている。
「野党統一候補を『何党に所属して政治をやるのかも分からない』と批判。一方で『アベノミクスを力の限りやってきた。あと一歩のために、政治の安定が何よりも大事だ』と訴えた。」という。この人、性格上大言壮語は似合わない。結局、これくらいのことしか言えないのだ。

アベ側候補の出陣式で読み上げられた安倍晋三自身のメッセージは次のとおり。
「国民に責任を持つ自民党、公明党の連立政権か、批判だけの(旧)民主党、共産党勢力かの選択を問う極めて重要な戦いだ」。
防戦一方のメッセージ、積極的な武器も戦略も戦術もなんにもない。迫力ないことこの上ない。総大将がこれでは、士気は上がらない。

戦は、勢いだ。いま自公側に勢いはなく、野党・市民側には勢いがある。緒戦の戦況、我が軍に大いに有望ではないか。

ところで、野党連合軍に新兵器はないのか。敵の放った矢を的外れとし、あらためて射返すだけでも大いに意気が上がってはいるが、さて、果たしてこれで十分だろうか。

常々、不思議に思っていたのは、アベ自民の評判はよくない。よくないどころではなく、悪いと言いきってよい。アベの性格もよくない。政策もよくない。個別の政策では明らかに世論の支持を得ていない。ところが、内閣支持率はなかなか落ちない。落ちそうになりながらも、落ちきらない。その理由が実感しにくい。

本日の東京新聞「本音のコラム」欄に、斉藤美奈子が「一発逆転の秘策」という記事を書いている。中身は、松尾匡『この経済政策が民主主義を救うー安倍政権に勝てる対案』(大月書店)の紹介。斎藤美奈子をして、「安倍自民党に勝つための起死回生ともいうべき本を見つけた。」と言わしめている。

大筋ははこんなことだ。「安保法制も改憲も問題だけど、人々が求めているのは景気と福祉だ。対抗勢力はそこがわかってない。個別の案件では反対者が多いのに安倍政権の支持率が落ちないのはなぜか。人々が不況に戻るのを恐れているからだ」というのが、この書の基本視点。確かにそうだと頷かざるを得ない。

自民党は長期低落傾向にあって、国民から見放された。国民の輿望を担って、民主党政権ができたが、国民の意識としては大きな失敗をしたのだ。この失敗の失望が大きい。

自民党の方がまだマシだった。アベ自民に戻って、なにか民主党政権よりはマシなことをやっているようだ。自分の生活は少しも楽にはならないが、いつかはよくなることを期待できそうだ。自民以外の政権に委ねるのは冒険ではないか。そんな気分が、安倍の評判の悪さにもかかわらず、内閣支持率を支えているのだろう。

「英労働党の党首選でコービン氏が勝ったのも、米大統領選の民主党候補者指名争いでサンダース氏が躍進したのも、庶民に手厚い政策ゆえだった。」ことから学べ、というのが松尾書のコンセプト。

「よって野党が勝つには『こんなものでは足りない』『もっと好景気を実現します』『日銀マネーを福祉・医療・教育・子育て支援にどんどんつぎこみます』というスローガンを掲げる以外に方法はない!」というのだ。なるほど。それは基本的に正しいと思う。

アベノミクスは、「パイを大きくしましょう。そうすれば、貧者にも分け前が期待できる」とした。しかし、パイもさして大きくはならず、むしろいびつな形に変形した。何よりも3年待っても分け前は来ない。ならば、アベノミクスとはおさらばして、徹底してパイの分け前優先に切り替えよう。国民1%の利益にではなく、99%の利益のために。ここから、社会は活性化する。経済の好循環が始まる第一歩ともなる。

いま、野党・市民連合の池田まき候補が、「誰一人置いてきぼりにしない政治をつくる」としているのは、結局はその路線だ。一人ひとりの人間を大切にする政治の実現こそが、社会全体の経済を活性化し、パイの拡大にも繋がるということなのだ。

池田まき候補の公式ウェブサイトを何度も開いて宣伝に努めたい。
http://ikemaki.jp/mypolicy

同候補はこう言っている。
「飢餓、貧困、格差、紛争、難民、テロ。立憲主義、民主主義の危機。
 世界の、そして日本の大きな課題です。

 強い者による強い者たちのための政治が、
 こうした問題を深刻化させています。
 権力の暴走を止めなければなりません。
 声なき声をもよく聞き、政治に反映させなくてはいけません。
 『誰一人、置いてきぼりにしない』
 『誰もが安心して暮らせる社会をつくる』
 私、池田まきはそれをモットーに、福祉の現場で、
 既成概念にとらわれず、行動を起こしてきました。

 さらに、環境、経済、政治など広い分野で
 社会的な危機の解決に取り組んでいくために。
 ここ北海道から、より良い日本をつくりたい。
 池田まきは、皆さんと共に、
 平和、いのち、暮らしを守る戦いに挑みます。」

がんばれ。野党市民共闘候補。安倍の「強い者による強い者たちのための政治」に負けるな。
(2016年4月13日)

浜矩子講演会「アホノミクスとは、戦争目的の富国強兵策」

本日、天気晴朗なれども、空気が重い。
2016年3月29日零時。戦争法が施行となった。その第一日目の今日、昨日とは違う日本である。これまでは、「専守防衛の立場からの個別的自衛権発動は例外としても」、戦争を政策の選択肢に入れてはならないとする日本であった。今日からは、政権による「存立危機事態」の判断さえあれば、世界中のどこででも戦争を行うことができることになったのだ。駆けつけ警護も、他国軍への武器運搬等の支援もできることになった。日本に敵対をしていない第三国への開戦は、当然のことながら、当該国からの反撃を覚悟の上でのことになる。その場合、日本国内のどこもが標的目標となる。

この戦争法は明らかに平和憲法に違反している。しかし、最高裁がこれを違憲と判断しうるだろうか。心もとないといわざるを得ない。よもや合憲と宣言することはありえないが、敢えて判断を避けることになる公算が高い。もっともらしい理由を付けながらも責任を放棄して判断を回避する、結局は逃げるのだ。

できることなら、違憲の法律を国民の意思の表明として廃止したい。国会は唯一の立法機関だが、「立法」とは、法律の制定だけでなく、改正も廃止も含むことになる。国民世論が選挙結果に結実して、「戦争法違憲派」が国会の過半数を制すれば、戦争法の廃止が可能となる。来たるべき参院選をそのような選挙にしなければならないと思う。

その戦争法施行第一日目に、文京区革新懇が中心となって企画した浜矩子講演会があった。演題が、「グローバル時代の救世主、それが日本国憲法」というもの。

冒頭に、日本国憲法前文の「諸国民との協和による成果を確保し」というフレーズを引用して、「これこそ、21世紀のグローバル時代を見通した」名言であって、今や「誰もが世界とつながり、だれもがひとりでは生きてゆけない時代となっている」ことが強調された。

安倍首相が唱える「戦後レジームからの脱却」「日本を取り戻す」のスローガンは、「大日本帝国」時代への復古にほかならない。当時の経済政策は強兵のための富国であり、植民地侵略の経済戦略としての大東亜共栄圏構想であって、グローバル時代のものではあり得ない。

昨年4月、安倍首相は笹川平和財団アメリカ支部での講演で「アベノミクスと私の外交政策は表裏一体」と語っている。経済政策の目的を外交安全保障と一体と位置づけることの危険は国際的に確認されていること。本来の経済政策の目的とは、経済の均衡が破綻したときの回復と、経済的弱者救済の二つに限定されなければならない。経済の均衡破綻とは、極端なデフレとハイパーインフレを典型とし、これによって傷つくのはまさしく弱者だ。アベノミクスは、弱者の救済ではなく、「富国強兵」を目的とするものなのだ。

今回、新3本の矢で、GDP2割増の600兆円にするというのも、国防費を増やすことが目的。TPPも防衛戦略が目的とされている。アメリカ議会での安倍演説では「その経済効果には、戦略的価値がある」と言っている。これは、TPPではなく、TYP(とっても、やばいパートナーシップ)と呼ぶべきだろう。

強調されたことは、「アベノミクスを政権維持のための民心収攬手段」と考えるのは大きな間違いで、「危険な富国強兵策そのもの」ととらえなければならない、ということ。

経済の講演を期待したものの、むしろ憲法の話しとなった。印象的だったのは、やや年齢層の高い聴衆の真剣さである。戦争法施行第一日目にふさわしい講演会となった。
(2016年3月29日)

自由民主党の変遷ー60年前の「党の性格」と現状

昨日(11月15日)が、自由民主党の誕生日。1955年11月15日、自由党と民主党が保守合同して、自民党が誕生した。以来60年、自民党は還暦を迎えた。自民党とて、議会制民主主義を是とする政党である。悪役ではあるが、民主主義社会の主要なアクターの一つ。小選挙区制実施以後、とりわけ安倍総裁時代の最近は、すこぶる姿勢がよくないが、必ずしも以前からこうだったわけではない。還暦とは、干支が一巡りして元に戻るということ。安倍自民党を脱皮して。60年前の初心に戻ってもらいたいと思う。

昨日(11月15日)の中央各紙のうち、毎日、読売、東京の3紙が社説で自民党を論じていた。毎日と、東京の社説は読み応え十分。読売は、歯ごたえがないスカスカの社説。東京社説の一節を引用しておきたい。

「昨年の衆院選で全有権者数に占める自民党の得票数、いわゆる絶対得票率は小選挙区で24%、比例代表では17%にすぎない。投票率低下があるにせよ、全有権者の2割程度の支持では、幅広く支持を集める国民政党とは言い難い。
 自民党が安倍政権下での重圧感から脱するには、立党の原点に返る必要がある。党内の多様性を尊重し、よりよい政策決定に向けて衆知を集める。国民の間に存する多様な意見に謙虚に耳を傾ける。それこそが自民党が国民政党として再生するための王道である。」

ところで、60年前の結党時に採択されたいくつかの文書の中に、初心を示す「党の性格」がある。その6項目の自己規定が興味を惹く。結党時のありようと、60年後の現実とを対比してみよう。(一~六が結党時の「党の性格」、1~6が澤藤の見た現状)

一、わが党は、国民政党である
 わが党は、特定の階級、階層のみの利益を代表し、国内分裂を招く階級政党ではなく、信義と同胞愛に立って、国民全般の利益と幸福のために奉仕し、国民大衆とともに民族の繁栄をもたらそうとする政党である。

1. わが党は大企業本位政党である。
 わが党は、国際的グローバル資本と、金融・製造・流通の国内大企業との利益を代表し、その他の階級・階層にはトリクルダウン効果を期待せしめる政党である。すべての部門で市場原理を貫徹し、農林水産業は積極的に切り捨てる。このことこそが、国民全般の利益と幸福のために奉仕する所以であり、民族の繁栄をもたらすものと確信する。なお、我が党の政策には、「三本の矢」「新三本の矢」「一億総活躍」など、検証不可能な曖昧模糊たるスローガンを並べ、国民の目を眩ます努力を惜しまない。

二、わが党は、平和主義政党である
 わが党は、国際連合憲章の精神に則り、国民の熱願である世界の平和と正義の確保及び人類の進歩発展に最善の努力を傾けようとする政党である。

2. わが党は、抑止力至上主義政党である
 わが党は、近隣諸国との信頼関係の構築という生温い手段ではなく、戦争辞せずの覚悟をもって抑止力の整備に全力を尽くすことで国民の安全をはかる。アメリカの核の傘のもと軍備を整え、集団的自衛権行使を容認して、積極的平和主義の名による武力の行使を躊躇しない方針を堅持する。

三、わが党は、真の民主主義政党である
 わが党は、個人の自由、人格の尊厳及び基本的人権の確保が人類進歩の原動力たることを確信して、これをあくまでも尊重擁護し、階級独裁により国民の自由を奪い、人権を抑圧する共産主義、階級社会主義勢力を排撃する。

3. わが党は、非立憲主義政党である
 わが党は、立憲主義を排撃する。内閣の意によって何時にても憲法解釈を自由に変更することを認める。何となれば、政権こそが直近の民意を反映するものだからであり、その民意の反映を活かすことこそが民主主義だからである。
 経済活動の自由こそが国民の豊さの根源であることから、人類進歩の原動力たる経済活動の自由を神聖なものとして、これを掣肘する労働運動や共産主義、社会主義勢力を強く排撃する。

四、わが党は、議会主義政党である
 わが党は、主権者たる国民の自由な意思の表明による議会政治を身をもって堅持し発展せしめ、反対党の存在を否定して一国一党の永久政治体制を目ざす極左、極右の全体主義と対決する。

4. わが党は、小選挙区制依存主義政党である
 わが党は、民意を正確に議席に反映しない小選挙区制のマジックに依存して政権を維持していることを深く自覚し、小選挙区制を奉戴してその改正を許さない。また、小選挙区制こそが党内を統制して政権の求心力を高める唯一の制度的源泉である。これを最有効に活用して党内反対勢力を一掃し、現執行部の永久支配体制を目ざすものである。そのような多様性排除のプロセスを経て、わが党は、既に極右の全体主義政党になりつつある。

五、わが党は、進歩的政党である。
 わが党は、闘争や破壊を事とする政治理念を排し、協同と建設の精神に基づき、正しい伝統と秩序はこれを保持しつつ常に時代の要求に即応して前進し、現状を改革して悪を除去するに積極的な進歩的政党である。

5. わが党は、小児的精神年齢政党である。
 わが党は、「ニッキョウソどうすんだ!ニッキョウソ」「早く質問しろよ」などと、答弁席から野次を飛ばす総理を総裁と仰ぐ、小児的精神年齢政党である。ナチスの手口を学びつつ、右翼的ファシズムの伝統と政治資金タカリの構造はこれを保持し、常にアメリカと財界の要求に即応して前進する。農家・漁民・小規模商店・中小零細企業、福祉・教育・文化などの、非効率不採算部門を除去するに積極的な進歩的政党である。

六、わが党は、福祉国家の実現をはかる政党である
 わが党は、土地及び生産手段の国有国営と官僚統制を主体とする社会主義経済を否定するとともに、独占資本主義をも排し、自由企業の基本として、個人の創意と責任を重んじ、これに総合計画性を付与して生産を増強するとともに、社会保障政策を強力に実施し、完全雇用と福祉国家の実現をはかる。

6. わが党は、福祉国家理念を放擲した新自由主義政党である
 わが党は、新自由企業と新保守主義の担い手であることを宣言して、企業活動の完全な自由を擁護することを宣言する。福祉国家理念とは、怠け者再生産主義でしかないことが、この60年で明瞭になった。徹底した競争こそが進歩と豊かさの原動力である。競争には敗者がつきもので、勝者と敗者のコントラストの強調こそがよりよい社会を作る。そのゆえ、社会保障政策や完全雇用、さらには福祉国家などの時代遅れの理念や政策は敢然とこれを放棄し、労働者は非正規をもって旨とする。
(2015年11月16日・連続第961回)

野球賭博はよくない。しかし、カジノ・IRは比較にならない規模の害悪をもたらす。

本日(10月22日)、プロ野球ドラフト会議。私の関心外のイベントだが、たまたま本日各紙の朝刊が、大きく「巨人選手の野球賭博問題」を報じている。賭博に関与していたと報告された3選手も、何年か前にはドラフトの対象だった。その一人松本竜也は、2011年の巨人1位指名選手。その長身と剛速球から「甲子園のランディ・ジョンソン」と異名をとった有望選手だったという。賭博問題の根を残しておいたのでは、今日のドラフト対象選手も、数年後には賭博に引き込まれかねない。あるいは、もっと積極的に人を犯罪に巻き込みかねない。

組織的に賭博を運営している暴力団の存在が疑われ、これとプロ野球選手との交際の疑惑がある。原辰徳巨人軍監督の1億円恐喝被害問題が記憶に生々しい。巨人だけとは言わない。いや、プロ野球だけでもなく、興行一般と暴力団とのしがらみの根は深く根絶し難い。この社会の健全さの保持のために徹底して膿を出し切ってもらいたい。

この問題で私が意を強くしているのは、案に相違して世間の目は賭博に厳しいということ。大相撲でもプロ野球でも、これを賭博の種にすることに世の批判は厳しいのだ。社会は、なかなかに健全である。

「案に相違して」と言ったのは、世に賭博が溢れているからだ。競馬・競輪・競艇・パチンコ・スロット…。もちろん、宝くじも、先物取引もFXも、立派な賭博である。この賭博が堂々とコマーシャルを打つ時代である。世人の賭博を見る目が甘くなっていると思わざるを得ないのだ。

賭博とは何か。私の定義では、「複数の者が財貨を拠出しあい、お互いに何らかのルールでこの拠出された財貨を取り合うこと」である。賭場に金を積んで、積まれた金を、サイコロの目でも巨人阪神戦の勝敗でも日経平均の上下でも、何かを基準に勝ち負けを決めて取り合うのだ。何のために賭博に参加するのか。当然のことながら、人の金を我が物としたいから。他人の懐に手を突っ込んで取ってくれば、窃盗か強盗になる。お互いの了解で、ルールを決めて、他人の懐の金の取り合いをするのが賭博である。賭博は、財貨の所在を変えるが、何の経済価値も産みださない。

賭博は窃盗や強盗にはならないが、やはり犯罪である。国家が刑罰権を発動して制裁を科する必要があるとされている違法性の高い行為なのだ。その本質において、互いに相手の財産を奪い合う醜い行為であり、社会の健全さを失わしめ、やがては賭博参加者自らをも滅ぼす看過し得ない違法な行為でもある。単純賭博罪(刑法185条)、常習賭博罪(同186条1貢)、賭博場開張図利罪(同186条2項)。博徒結合図利罪(同)と類型化され、富くじの発売も、発売の取次も、授受も犯罪(同187条)とされている。

ダンテの「神曲」では、賭博を行う者が堕ちて行くべき地獄はことのほか深い。「他人の不幸を自己の幸福とする」その心根の卑しさの罪が深いのだ。最高裁判例は、「国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損い、国民経済に悪影響を及ぼす」ことを処罰の根拠と説明している。

ところが、「賭博はお互い負ければ取られることを了解での大人のゲームだ。許された娯楽と考えるべきで、刑罰をもって禁圧するほどのことはあるまい」という意見は昔からあった。最近この声は大きい。安倍政権になってからはことさらのこと。経済政策の目玉のひとつになろうとしているからだ。賭博を開帳してテラ銭を稼ごうという、有力企業は政治と結託してこの論調を高めている。プロ野球と暴力団の醜い関係などとは比較にならない、政治家と胴元企業の大規模の醜悪な関係があるのだ。

この醜悪な連中は、博打とか、賭博という言葉を敢えて避ける。推進議員の集まりは「カジノ議連」で、賭博場は「IR」(インテグレイテド・リゾート)という。しかし、なんと言葉を言い換えても本質が醜悪な賭博であることに変わりはない。

以下は、本年1月3日の産経新聞記事「カジノ解禁はいつか…巨大プロジェクト『IR』始動、経済効果は計り知れず」の抜粋である。小見出しとして、『これは成長戦略の目玉になる』とタイトルが付されている。醜悪な政治と醜悪な企業の醜悪な連携についての、醜悪なメディアの報道である。

「平成26年5月、シンガポールを訪れた安倍晋三首相は、カジノを中心とした統合型リゾート(IR)『マリーナ・ベイ・サンズ』などを視察して、こう期待感をにじませた。
 カジノのフロアには1500台のスロットマシンや600台のゲームテーブルが並び、地上200メートルの屋上プールや会議場、水族館、遊園地も併設されている。実際にIRがシンガポールにもたらした経済効果はすさまじく、2013年の観光客数は09年から6割増の1560万人に達した。IR設置に伴う雇用も約2万3000人に上るという。

 シンガポールに追随しようとしているのが日本だ。政府は観光立国を掲げ、訪日外国人旅行者を20年までに2000万人、30年に3000万人超に増やす計画だが、この起爆剤としてIRを位置づけている。

 IR誘致の最大のメリットは、その経済効果。みずほ総合研究所がまとめたリポートでは、東京地区にカジノを含むIRを開設した場合、約3兆7000億円の経済効果が期待できるとしている。同様に香港の投資銀行CLSAは経済効果を年間400億ドル(約4兆7000億円)、大阪商業大の佐和良作教授は最大約7兆7000億円と見積もる。」

産経は、「巨大な経済効果を取り込もうと、自治体の誘致合戦も激しくなっている。すでに全国で20カ所以上の自治体がIR誘致に名乗りを上げている。」「とりわけ熱心なのが大阪…」「IR整備推進法案の通過が、日本におけるIRの第一歩となる。」と報じている。幸い、まだIR整備推進法案の成立には至っていない。

賭博の繁栄がもたらす経済効果を当てにしてのアベノミクス。「おかしいだろ、これ。」としか言いようがないではないか。

ところで、野球賭博。本日の読売が、社説を書いている。「巨人野球賭博 ファンを裏切った罪は重い」というのだ。

「伝統ある球団で、あってはならない不祥事が起きたことは、極めて残念である。」なんだかよく分からない。巨人が特別なんてことはあるまい。「プロ野球界は、選手が賭博に関わらないよう厳しく指導してきた。暴力団排除の取り組みも強化した。3選手の愚行は、球界の努力を無にしかねない。」これもおかしい。3選手だけが悪者か。「プロ野球選手は、子供たちにとって、あこがれの的だ。発言や行動は常に注目される。ユニホームを着ていない時も、身を律することが求められる。」。なんだ、結局は選手個人の自覚の問題にされているのか。

野球賭博も罪深い。しかし、カジノ議連や「IR整備推進法」の罪は、格段に大きく深いのだ。一国の首相が、他国のカジノを見学して目を輝かせているこの時代状況がおかしいのではないか。安倍晋三自身は共産党の追求でカジノ議連最高顧問の座を退いたが、その側近たちが虎視眈々とIR整備推進法案の成立を狙っている。「社会の健全化よりも経済振興の方が大切だ」「アベノミクスの3本目の矢の中に賭博もはいっているのだ」「カジノなんてしゃれた大人のムード」「客寄せには賭博が一番」「これこそ経済復興の目玉」…。

何のための経済振興か。経済とは何なのか。哲学が問われている。野球賭博追放の心意気で、カジノ・IRをも追放しなければならない。アベノミクスもカジノ議連も一掃してはじめて健全な社会を取り戻すことができるのだ。
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「公表された議事録作成の経緯の検証と当該議事録の撤回を求める申し入れ」への賛同署名のお願い

そもそも存在しない安保関連法案の「採決」「可決」を後付けの議事録で存在したかのように偽るのは到底許されません。私たちは、このような姑息なやり方に強く抗議するとともに、当該議事録の撤回を求める申し入れを提出します。ついては多くの皆様に賛同の署名を呼びかけます。

ネット署名:次の署名フォームの所定欄に記入の上、発信下さい。
     http://goo.gl/forms/B44OgjR2f2

賛同者の住所とメッセージを専用サイトに公開します。
     https://bit.ly/1X82GIB

第一次集約日 :10月27日(火)22時とします。なお、詳細は、下記ブログをご覧ください。
       http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-fb1b.html
       http://article9.jp/wordpress/?p=5768

(2015年10月22日・連続935回)

しばらくは、「強兵」から「富国」へー安倍の独り言

富国・強兵、強兵・富国。
キョウヘイ・フコク、フコク・キョウヘイ。
なんとすばらしいハーモニー。

富国と強兵とは、表と裏、一体にして不二。
強兵のための富国であり、富国のための強兵ではないか。

アベノミクスは、実は民生のための経済政策ではない。
「格差が広がった。貧困が深刻化した」
それでよいのだ。強兵のための富国政策なのだから。
そして、富国のための強兵策が、積極的平和主義。

富国と強兵とが相支え相補いあって、
戦後レジームからの脱却を可能とする。
昔日の強い軍国日本を取り戻すことができる。
それこそ、ワタクシ安倍晋三と仲間たちの目論むところ。

第二次安倍内閣成立当初は、はじめは処女のごとくの喩えそのままの経済政策優先。これがアベノミクスの表向きの姿だ。2015年選挙がない年には戦争法のごり押し。そして、戦争法の無理が一段落した今、また経済政策に逆戻り。新アベノミクスだ。富国から強兵、強兵からまた富国へ。

富国も強兵も、すべてはお国のため。国民はお国のために子を産み、子を育て、子を国家に役立てることになる。当たり前の話ではないか。国の子は、「強兵」に育つか、産業戦士に育てるのか、二つに一つだ。どちらもいやだという、利己的な若者の跋扈には、追々箍をはめていかねばならない。

戦争は必ずしも起きなくてもよい。しかし、戦争ができるような国の秩序はどうしても作っておかねばならない。強兵あっての有利な外交であり、強兵こそ富国の支えではないか。

強兵策の最大のハードルは、私が最も忌むところの日本国憲法だ。憲法9条こそ私の天敵。一刻も早くこの天敵を成敗して、戦争のできる憲法に作り替えたいのだが、急いては事をし損じるの喩え。やむなく、急がば回れの解釈改憲。そして、もっぱら違憲と評判の安保関連2法だ。

戦争ができる国の秩序には、法整備が不可欠だが、しばらくはこれでよかろう。この法律と、特定秘密保護法の組み合わせで、相当のことまではできるようになった。また、いつか、「我が国を取り巻く防衛環境が変わった」という魔法の杖をもう一振りすれば、戦前並の国防保安法や国家総動員法、そして治安維持法の制定も夢じゃない。

今回は、公明党によく働いていただいた。しかし、このように働いてくれる政党は、公明党ばかりではない。いつの世にも、政権与党につながって甘い汁を吸いたい政党や政治家がすり寄って来るものなのだ。それと組んで、もう一押しの強兵策。

しかし、強面ばかりでは民意が離れる。民意を掌握する要諦は、期待を長く引っ張ることだ。今は豊かにならないが、我慢すればそのうちに豊かになれるという幻想を与え続けることなのだ。3本の矢がうまくいかなければ、新しい別の矢を3本放てばよい。それも的に当たらなければ、目先を変えてもう4、5本射てばよい。下手な鉄砲も数の喩え、何本も射ることによって、まぐれでもいくつか当たればよいのだ。いや、当たる可能性があると信じさせればよいだけのこと。

えっ、なに? それは詐欺の手口ではないかだと? 教えていただきたい。政治と詐欺の違いを。政治家と詐欺師の言に、いったいどんな違いがあると言うのか。
(2015年10月4日・連続917回)

ピケティ読了ー格差拡大理論は納得・格差解消策には疑問符

ヤットと言おうか、トウトウと言うべきか。とにもかくにもピケティの「21世紀の資本」を読了した。文京区立図書館から200番を越える予約順番待ちで借り出した貴重な書籍。私のあとには400人を超える人が順番を待ちかねている。日本人の知的欲求はたいしたもの。すくなくとも文京区には、反知主義のはびこりはない。

この書を借りて手許に置ける期間は2週間。その間モクモク、コツコツ、エンエン、いったりきたり、ページをめくり続けた。正確な理解はおぼつかないが、「ひとのするものをわれもしてみんとて」の野次馬根性を支えに読破を成し遂げた。600ページ分の滓みたいなものがついた感はある。新聞に掲載された関連書物の「書評」がスラスラ読めるようになった。これだけでも大変な進歩。

私の理解した限りでの「21世紀の資本」の内容は次のとおり。

日本についての記述はほんの少ししかない。フランス革命以来の資料がそろっているフランスとイギリス、そして新世界アメリカの分析が中心。予想に反して、フランス革命は富の格差解消にはたいして役に立たなかった。第一次・第二次の両世界大戦が、大なたを振るって貧富の格差を大いに縮小した。日本ではGHQが断行した農地解放や財閥解体で地主や富裕階級が没落したが、イギリス、フランスなどの戦勝国でも同様だったという。財産を爆撃された富裕層がタケノコ生活に落ちぶれていったというわけだ。戦争は勝っても負けても、経済社会の格差にガラガラポンの平準化がもたらされるようだ。格差社会に絶望した若者たちが戦争を恐れないということには一理ある。人々を経済格差の絶望に追い込むことは、戦争を誘発する危険があるということでもあるのだ。

戦争によって格差が縮まって、戦後は貧富の差の少ない社会が到来するかと思いきや、21世紀を迎える今、格差は戦前の状態にもどりつつある。富が生む配当や利子や賃料などの利潤が増える割合(資本収益率)の方が、経済成長による所得の増える率(経済成長率)より高いからだという。金持ちはどんどん持ち金を増やせるが、給料の増え具合はたかがしれているというわけだ。

「働けど働けどなおわが暮らし楽にならざりじっと手を見る」の啄木がピケティを読めば、「俺はそんなことは前から知っていた」と言うに違いない。ピケティも、自分の本を「『経済学については何も知らない』と言いつつも所得や富の格差についてきわめて強い関心を持っている人々に読んで欲しい。産業革命以来、格差を減らすことができる力というのは世界大戦以外にはなかったことがわかる」と書いている。

格差が近年ますます大きくなってきていることについて、ピケティはスーパー経営者(CEO)の莫大な報酬について、販売員があくせく働いているそばから「レジに手を突っ込んでいるようだと」と評し、「2050年や2100年の世界はトレーダーや企業トップや大金持ちに所有されているだろうか、それとも産油国や中国銀行に所有されているだろうか?あるいはこうしたアクターの多くが逃げ場にしているタックス・ヘイブンに所有されているかもしれない。」と書いている。

では、どうしたら、格差を埋めていくことができるのか。ピケティは「民主主義が資本主義に対する支配力を回復し、全体の利益が私的な利益より確実に優先されるように」すべきだと提案する。具体的には累進富裕税、それもタックス・ヘイブンに逃げることができないように、IT技術を駆使したグローバル課税制度の構築である。これを選挙で実現しようというものだ。

しかし、言うは易く実現は困難な提案ではないか。偏った富の分配で潤っている人々は、社会の強者であり、政治的な支配者でもある。政治的民主主義は、はたしてこの富の偏在の是正という難事をなし得るだろうか。

もしかしたら、大富豪のバフェットは賛成するかもしれない。が、それ以外には任意の賛成者を思い浮かべることはできない。ユニクロの柳井やソフトバンクの孫も反発するだろう。法人税を下げ、「富者からのトリクルダウンを待て」という安倍は指一本動かそうとはしないだろう。オバマは資本主義大国アメリカで全く動きがとれない。ロシアのプーチンや中国の習も黙り込むだろう。EU諸国ならいくらか可能性があるのだろうか。はたして、資本家や企業の抵抗を押さえ込んで、彼らの富を剥ぎ取ってこれを再分配の原資にできるだろうか。

おそらくは、「万国の労働者団結せよ」と階級闘争を呼びかけたマルクスの方が、「現代世界の政治担当者を説得せよ」と言うピケティよりも、遙かに現実を深く見つめ、正論を言っている。あるいは、民主主義的手続でやれるところまでやって、限界を見極めることが必要ということなのだろうか。

読了したピケティ。その富の集中と格差拡大の「実証的論証」については大いに説得力がある。しかし、格差解消策の政策提言についての説得力には疑問符の印象。600ページ読んで疲れて、いささか頭痛がしてきた。
(2015年5月11日)

ピケティ再論ー「初期分配」か「再分配」か

昨日(2月7日)の毎日・「経済観測」という小さな連載コラムに、宮本太郎中央大教授が「『ピケティ・ブーム』に求められる視点」と題して寄稿している。

「最後のカリスマ」宮本顕治の息子は政治学者だが、さすがに経済学にも詳しい。短い文章だが、教えられるし考えさせられる。

「各国の格差拡大を歴史的かつ理論的に論じたピケティ・パリ経済学校教授の『21世紀の資本』が世界的ベストセラーとなり、先ごろ来日した教授は、あちこちでひっぱりだこだったようである。輸出企業などの高収益が、格差や貧困の是正につながらない日本の現実が背景にある。」というのが前置きでもあり、現状認識と現状批判でもある。

続けて、ピケティの提言がこう簡潔にまとめられている。
「資本課税を含めた累進的税制による再分配強化、これがピケティ教授の処方箋である。」

ここからが本論で、ピケティとは別の角度からのものの見方と、格差是正の対応策に言及している。
「ただし忘れてはならないのは、日本がこれまで格差を相対的に抑えてきた仕組みは、再分配による福祉給付ではなかった、ということである。終身雇用や公共事業、業界保護などで、皆が仕事に就いて一定の所得を得ることができたことが、この国の安定を支えてきた。だがこうした仕組みは、成長を阻害する既得権益として、否定的に評価され解体されてきた。」

宮本の指摘は、かつて日本が「格差を相対的に抑えてきた仕組み」は、資産や所得の再分配ではなく、再分配以前の所得獲得における相対的平等性だったという。この平等性確保の中核にあった雇用創出と雇用安定の仕組みが、新自由主義的潮流の席巻とともに「否定的に評価され解体されてきた」のは周知のとおり。

ここで指摘されていることは、格差や貧困を抑える仕組みは2種類あるということ。資産や所得の事後的再分配による格差是正だけでなく、その前段の不平等の源泉である所得格差そのものの是正への留意が語られている。前者は、政治あるいは行政のレベルでおこなわれるが、後者は企業の労働現場が舞台となる。

宮本は、次のように紹介している。
「米エール大のハッカー教授は、こうした仕組みを『当初分配』(プレ・ディストリビューション)と呼び、格差の拡大を防ぐ上では、むしろ再分配より重要と主張する。皆が働ける条件が確保されず、社会が二極分解しているなら、再分配への合意も生まれないと言う。」

私は、ハッカー教授をまったく知らない。「当初分配」(プレ・ディストリビューション)という用語も初めて教えられた。だが、取り立てて目新しい考え方ではあるまい。むしろ、「社会をさまざまに解釈するだけなく、大切なのは社会を変革すること」という立場に魅力を感じてマルクス経済学を(表面なりとも)学んだ立場からは、資本と労働との「当初分配」の現場こそが格差や貧困を生み出す根源である。ここで格差が是正できるなら、それこそが本筋。

「当初分配」における不平等こそが格差や貧困の根源である。ここで、労働者の所得を増やし、しかも労働者全体の雇用創出を目指すことは、むしろ古典的な課題で、当初配分を所与のものとして、所得や資産の「再分配」という事後的弥縫策の方が、「目新しい」施策ということではないか。

宮本は日本の「当初分配」のあり方として、以下のように言う。
「もちろん、日本の旧来の仕組みでよいということではない。これからの当初分配は、男性稼ぎ主だけではなく老若男女が対象でなければならない。政治家による保護ではなく、地域で真に必要な公共事業や介護・医療での雇用などが確保される必要がある。こうした雇用機会を広げることを一定のコストがかかる『分配』ととらえるところが、当初分配論の特徴だ。地方創生とも直接に関わる提起である。」

ここらあたりは宮顕の息子の言ではない。経済合理性では生まれない雇用を政策的にコストをかけても創出することが「当初分配」のごとくである。「当初」といいつつも、実はそのコストは、事後の「再分配」としてのものなのだ。

宮本の結論はこうだ。
「ピケティ教授とハッカー教授の主張は対立するものではなく、日本に再分配の拡充は必要だ。けれども、まず当初分配をという提起は傾聴に値する。」

「まず当初分配における格差是正と公平を」という主張に異論のあろうはずはない。この点の強調のないピケティ批判には賛成だ。

だが、「当初分配」の概念を「政策的な雇用創出や安定」に閉じ込めてはならない。何よりも、労働者自身の闘いによる労働所得の増額が必要である。労働組合運動の昂揚による賃金の増額が何よりも重要であり、これを支える諸制度の充実や運用の適正も必要だ。

整備されるべきは、まともな最低賃金制度の創設であり、不当労働行為制度の厳格な活用であり、労働基本行政の厳格な実践であり、行政だけでなくマスメディアや教育機関も連携したブラック企業の追放であり、労働基本権についての実践的教育の徹底であり、フェアトレード運動の実践等々である。

そのような「初期分配」の不公正是正の実践の上に、ピケティのいう所得や資産の再分配が実施されるべきだろう。いずれにせよ、このような格差や貧困是正の論議を巻き起こしたことにおいて、ピケティの業績は極めて大きいと思う。
(2015年2月8日)

小気味よいピケティの叙勲辞退

ピケティ「21世紀の資本」をパラパラめくっている。文京区立図書館への借入申込み予約順位は、現在357人中の72番である。この浩瀚な書物の予約の順番を待っていたのでは、今年中に読むことは絶対に無理。来年中も危うい。

手許にあるこの本は、知人が貸してくれたもの。とても読んだなどとはいえないが、ページをめくって、なんとなく「まあ、こんなものか」とつぶやいている。

この本を手にとると袴に「r>g」と大書されている。rとは資本の収益率、gとは所得の成長率を表す。一握りの者の私的所有となっている「資本」の増加と、社会全体の「所得」の増加との比較がテーマだ。だから、「r>gという法則がある」というのなら、分かり易い。資本の所有者が社会全体の成長に抜きん出て富を増やしていくことになり、格差は拡がることになる。

ところが、この不等式の下に、「資本収益率が産出と所得の成長率を上回るとき、資本主義は自動的に、恣意的で持続可能な格差を生み出す」と書かれている。ピケティの頭が悪いのか翻訳が下手なのか、この命題は意味をとりにくい。というか、こんな不完全な日本語では読み手が理解できるはずはない。「r>g」は、結論ではなく仮定条件とされている。この仮定が真ならば、「資本主義は格差を生み出す」というのが結論のようだ。しかし、「自動的に」も、「恣意的で持続可能な格差」も何を言っているのか、さっぱりわからない。

本文28ページに次の記載がある。
「もし資本収益率が長期的に成長率を大きく上回っていれば、富の分配で格差が増大するリスクは大いに高まる」

「この根本的な不等式をr>gと書こう(rは資本の平均年間収益率で、利潤、配当、利子、賃料などの資本からの収入を、その資本の総価値で割ったものだ。gはその経済の成長率、つまり所得や産出の年間増加率だ)。…この不等式が私の結論全体の論理を総括しているのだ」
こうして、この書物はこの命題の証明のためのものという体裁なのだ。

わかりにくいのは、r>gを、資本主義が固有に持つ法則とはしていないことだ。
「私が提案するモデルでは、格差拡大は永続的ではないし、富の配分の将来の方向性としてあり得るいくつかの可能性のひとつでしかない」と言っているのだから。

r>gは、資本主義生成以来今日までのありとあらゆる時代と地域の「現象」として語られる。r>gは、統計的に語られ、その差は大きくも小さくもなってきたが、歴史的には常になり立つものであったという。しかし、その必然性や法則性が語られることはない。

マルクスが、資本主義の「本質」として剰余価値を語り、これを資本主義社会における格差・貧困の源泉とした鮮やかさはない。ピケティ流を実証主義あるいは統計学的手法というのだろうか。天体運航の観察からニュートンが到達したごとき、原理や法則の提示はない。「傾向」が語られるだけなのだ。

脚気の原因についての陸海軍論争を彷彿とさせる。吉村昭が「白い航跡」で描くところの海軍軍医高木兼寛は、英国留学中にヨーロッパに脚気がないことを見聞する。そのことをヒントに、日本海軍将兵の脚気対策ととして、強い反対を押し切って艦内の兵食を白米から麦飯に切り替えて脚気を撲滅した。機序や学理についてはわからないままに、「現象」を「統計的に」把握しての対処に成功したのだ。一方、当時世界に冠たるドイツ医学を修めた陸軍軍医総監森林太郎(鴎外)は、海軍の方策を「学理の伴わない謬論」と斥け、結局日露戦争の陸戦では脚気の兵の大量死をもたらす。

おそらくピケティ流は、海軍高木兼寛派に親和的なのだ。マルクスやニュートンの切れ味はなくとも、陸軍森林太郎派の間違いは犯していないのだろう。パラパラとめくった限りでのピケティ論である。

なお、既に旧聞に属するが、ピケティはフランス政府からの叙勲を辞退した。私には、それだけで好感をもつに十分である。

仏政府は勲章レジオン・ドヌールの授章を今月1日付の官報で発表した。しかし、ピケティは受章辞退を表明して、フランスで大きな話題となった。「だれが名誉に値するかを決めるのは政府の役割ではない」というのが辞退の弁。オランド政権の経済政策への批判も込められているという。

我が国では、天皇制の残滓として、国事行為・公的行為・皇室外交・宮中祭祀などが重要であるが、国民生活への浸透においては、「日の丸・君が代」、元号、休日、国体などとならんで、叙勲や褒賞が大きな意味を持つ。どういうわけか、勲章を欲しい人たちはたくさんいるのだ。そのさもしさが、天皇制の付け入る隙となる。

富の格差の拡大を語るピケティが喜んで勲章を受けていたのでは、学者としての姿勢のホンモノ度が疑われることになるだろう。皇帝や国王のいない共和国でのことだが、批判の対象とする政府からの叙勲を辞退したとは小気味がよい。もう少し時間の余裕ができたら読み通して、ピケティの姿勢も学んでみたいものと思う。
(2015年1月24日)

アベノミクスへの期待の切れ目が、安倍内閣の命の切れ目

最新の世論調査結果を報じた、本日(1月19日)「毎日」朝刊2面の見出しは、大きな衝撃である。
「アベノミクス地方に浸透 6%」「格差拡大 70%」というもの。

アベノミクスこそは、安倍政権の唯一の看板である。「看板」は、不正確なのかも知れない。「撒き餌」「誘蛾灯」「漁り火」というべきであろうか。いずれにせよ、これが有権者に対する唯一のアピール・ポイントである。

安倍内閣はアベノミクス以外に、アピールポイントをもたない。憲法改悪志向、立憲主義に反する集団的自衛権行使容認、強引な特定秘密保護法の制定、民意無視の原発再稼働、近隣諸国のみならずアメリカをも失望させた靖国神社参拝、福祉の切り捨て、労働法制の改悪、庶民大増税と財界への優遇税制、教科書問題に象徴される後ろ向き教育、TPP、NHK人事、格差の拡大、貧困の蔓延‥‥。安倍政権の不人気政策は、枚挙に暇がない。

それでも、安倍内閣がここまでもってきたのは、ひとえにアベノミクスの「成果」なのだ。ところが、世論調査が、アベノミクスに見切りをつけ始めたとなれば、安倍内閣の末路が見えてきたというもの。

記事の概要は以下のとおりである。
「毎日新聞の17、18日の世論調査で、安倍政権の経済政策「アベノミクス」の効果が地方に十分「浸透している」との回答は6%にとどまり、「浸透していない」が86%に上った。内閣不支持層では96%が「浸透していない」と答え、支持層でも79%が「浸透していない」とみている。」

「安倍晋三首相は5日の年頭記者会見で「全国津々浦々、一人でも多くアベノミクスの果実を味わっていただきたい」と強調した。アベノミクスの地方への波及が課題であることは政権も認めており、統一地方選を控え、地方の不満にどう応えていくかが問われる。」

「これに関連して、日本社会の格差は広がっていると感じるかとの問いには70%が「感じる」と答え、「感じない」は23%だった。」

同調査では、「戦後70年の談話の内容」「集団的自衛権の行使の是非」「川内原発再稼働の可否」「改憲への賛否」等々の具体的な質問項目において、何一つ安倍内閣の方針は国民に支持されていない。明らかに安倍反対の声のほうが大きいのだ。

唯一、アベノミクスだけが、安倍内閣に対する国民の期待をつないできた。「今は、我慢をしても、だんだんよくなるのではないか」「ほかの道は見えていない以上、この道で仕方がない」とのつなぎ方だった。それが、「地方に浸透6%」「格差拡大70%」とは、そろそろ「我慢をしたところでちっともよくならないのではないか」「ほかの道に早めに切り替えた方かよいのではないか」と変わりつつあるのではないか。ようやくにして、アベマジックの呪文が解けつつあるように見える。

毎日だけではない。朝日の世論調査も同様の結果となっている。
「朝日新聞社は17、18日、全国世論調査(電話)を行った。安倍晋三首相の経済政策が、地方の景気回復に「つながる」と答えた人は25%にとどまり、「つながらない」は53%にのぼった。首相は今年の年頭の記者会見で「全国津々浦々、アベノミクスの果実を味わっていただきたい」と述べたが、有権者の期待感は高まっていないことが浮き彫りになった」

テレビ朝日の調査結果は、次のとおり。
「あなたは、安倍総理が進めている経済政策によって、景気回復を実際に感じていますか、感じていませんか?
感じている14% 感じていない77% わからない答えない9%」

読売の調査結果も同様である。
「安倍内閣の経済政策については、「評価する」43%、「評価しない」46%が拮抗きっこうした。安倍内閣が景気の回復を実現できるかどうかについては、「実現できる」は38%で、「そうは思わない」の47%を下回った。また、景気の回復を「実感している」は14%で、「実感していない」は81%に達している。アベノミクスの成果を実感している人は少ないようだ」

いったい、どうしてこれで安倍自民は暮れの総選挙に勝てたのだろうか。明らかに、その答は、小選挙区制のマジックにある。50%の投票率で、自民党はようやくその半分の得票を得た。絶対得票率4分の1で290議席の絶対多数がとれたのは、ひとえに小選挙区制のおかげなのだ。虚構の絶対多数。上げ底の議席数である。

しかし、どの調査でも、安倍内閣の支持率はまだ高い。これはどうしてなのだろうか。おそらくは、ライバル不在の状況の反映なのだろう。
自民党支持率は長期低落の過程を経て2009年総選挙で大敗北に至った。民意は自民を離れて民主党に移行し、劇的な民主党政権誕生を実現させた。民意は民主党に夢と希望を託した。しかしわずか3年で夢はしぼんだ。いったんは民主党政権を誕生させた民意が、今必ずしも自民に復帰したわけではない。しかし、民主党を支持して手ひどく裏切られた思いが、「安倍政権を積極支持はしないが、民主や第三極よりはマシではないか」となってあらわれているのではないだろうか。ライバル不在故の消極的支持の継続であろう。

しかし、それもアベノミクスこそが安倍内閣の命の綱。アホノミクスの正体見たりと、民意がアベノミクスを見限れば、それまでのこと。世論調査の結果は、民意がアベマジックの呪文を解いて覚醒しつつあることを示しているように思える。呪文が解け、覚醒した目で見つめれば、「アベノミクス」は「アホノミクス」に過ぎないのだ。
(2015年1月19日)

核兵器廃絶への、消費者運動とSRI(社会的責任投資)

今年は、戦後70年。ということは、広島・長崎の被爆から70周年の節目の年でもある。被爆体験を風化させることなく、核廃絶の運動を大きくしていきたいものと思う。

昨年暮れの共同配信記事が、新しい形の核廃絶運動を紹介している。オランダの国際平和団体「PAX」(「平和」)は、核兵器の開発や製造に携わる「核兵器関連企業」28社を抽出し、これと取引のある企業を調べあげて、411社のリストを公表した。核兵器が「絶対悪」である以上は、「核兵器関連企業」28社は、「絶対悪」を業務とする「絶対悪企業」である。核爆弾とその運搬手段の開発・製造・管理に直接携わる企業である。ロッキード・マーチン、バブコック&ウィルコックス、ボーイング、ベクテル…など名だたる軍産複合体の中核企業の名がならぶ。死の産業の死の商人たち。これは分かり易い。

しかし、この核兵器関連企業に融資をしたり、関連企業の株式を保有する形で、これを支えている企業となると外からは見えにくい。PAXの調査による提携411社のリスト公表はこれを見える形にしたものとしてインパクトが大きい。

この公開されたリスト411社の中に、日本企業が6社ある。
  三菱UFJフィナンシャル・グループ
  三井住友フィナンシャル・グループ
  みずほフィナンシャル・グループ
  オリックス
  三井住友トラスト・ホールディングス
  千葉銀行

これは、貴重な情報だ。市民は直接の接触の可能性あるこの6社に対して、何らかの形で、核廃絶のメッセージを送りうるからだ。核廃絶運動が、消費者運動や市場を通じてのSRI(社会的責任投資)運動と交錯する分野が生まれた。

核廃絶運動と消費者運動との交錯とはこんなイメージだ。
あなたが、この6社のどこかに預金口座をもっていたとする。その預金の運用先としてロッキード社があるということは、あなたの預金が、銀行口座を通じて核ミサイル製造に使われているということなのだ。あなたの預金先がこの6社のどこかに限られる理由がなければ、このような銀行との取引は避けるに越したことはない。住宅ローンやら消費者ローンなど融資を受けるのも似たようなもの。利息を支払ってこのような銀行を太らせれば、核兵器企業に回す金が増えることになるだろう。

賢い消費者行動とは、安価に商品やサービスの提供を受けることだけを求めるものではない。環境やフェアトレードや労働基準や、種々のコンプライアンスに配慮した企業との取引を意識的に選択することによって、企業活動を適切にコントロールし、社会の健全化をはかることなのだ。核兵器関連企業と提携する企業6社との取引をボイコットすることは、消費者としての積極行動を通じての核廃絶運動へ寄与することになる。

核廃絶運動とSRI(社会的責任投資:Socially responsible investment)との交錯とはこんなことだ。
どの上場企業も、証券市場から資金を集めるために株主の意向を尊重しなければならない。大衆投資家やその資金を束ねたファンドが、株式の収益性だけでなく、企業倫理や企業の社会的責任のあり方を基準に投資活動をするようになれば…、企業は環境や資源保護や福祉や人権や平和などに配慮の姿勢を採らざるを得なくなる。SRIとは投資を通じて企業倫理(CE)や企業の社会的責任(SCR)を追求する運動である。投票行動とは別次元での市民による社会参加であり、企業統制でもある。

核兵器に関与する会社の株などは買うまい、買っていたら引き上げよう。あるいは株主として会社に、核兵器企業とは縁を切るよう働きかけよう、というのがSRI活用の核兵器廃絶運動形態である。(もう少し用語を整理して、使いやすくならないものか)

ところで、共同通信は、国内6社に直接取材をしているようだ。どの社も、けっして開き直りの態度はない。核兵器関連企業と取引あることの公開を好ましからざることと受け止めてはいるようだ。

三井住友トラストは報告書について「個別取引については答えられない」としている。千葉銀は「核兵器関連企業と認識しての融資ではない。いまは融資していない」という。また、オリックスは「当社が90%の株式を保有するオランダの資産運用会社の金融商品に、指摘された会社が入っていると思われる」(広報担当者)と説明。資金を直接提供しているわけではないと話している、などの反応だ。このような社会的雰囲気がある限り、「核兵器廃絶を目指す消費者運動とSRI」は成功しうる土壌をもっている。

また、共同はSRIの実践者として筑紫みずえ氏のコメントを紹介している。
「大変意義がある情報だ。マララ・ユスフザイさんがノーベル平和賞受賞のスピーチで『戦車を造るのは易しいのに、なぜ学校を建てるのは難しいのか』と問いかけたが、それは私たちのお金が学校より戦車や核兵器に使われているからだ。企業も個人もこうした情報を生かして、それぞれの価値観に沿った投資をするべきだろう。」

このコメントは舌足らずで、どうしても補っておかなければならない。

問題は、「なぜ、私たちのお金が学校より戦車や核兵器に使われているか」であり、「企業も個人も、それぞれの価値観に沿った投資をするべきだ」が当たり前のことととされる資本主義社会で、投資の方向をどうしたら「核兵器から、学校へ」切り替えることができるだろうか、ということにある。

「なぜ、私たちのお金が学校より戦車や核兵器に使われているか」
その問に対する答は簡単である。その方が儲かるからなのだ。資本の論理が貫徹する社会では、集積された資金は最大利潤を求めてうごめくのだ。

だから、「企業も個人も、それぞれの価値観に沿った投資をするべきだ」と傍観していたのでは、けっして問題解決には至らない。どうすれば「核兵器から学校へ」と投資のトレンドを変えていくことができるのか、と問題を立てなければならない。個人もファンドも、そして企業も、利潤追求の価値観が支配する資本主義原則とは別の次元で、投資先を選択する文化を創っていかねばならない。どんなに効率よく儲けることができても、兵器や麻薬への投資は社会の恐怖や病理として結実することにしかならない。

消費者運動もSRIも資本主義の枠内での運動である。しかも、民主主義的政治過程を利用しての権力的規制ではなく、市場原理に基づいた取引ルールを使っての企業統制の試みである。いまは、消費者運動もSRIも、経済社会のメイントレンドではなく、核兵器を廃絶する力をもたない。しかし、将来は未知数である。三菱や三井の企業グループが、「これまでは兵器産業は儲けが大きいと考えていたが、グループ内に軍事企業を抱えているとイメージが極端に悪くなる。消費者は商品を買ってくれないし、個人投資家やファンドは株も社債も買ってくれない。核関連産業と手を切らないと、商品は売れないし株は下がりっぱなしだし…。結局儲からない」と思わせられるところまで社会の成熟があれば、企業を核兵器関連事業から離脱させることができることになる。欧米では、これを夢物語とは言わせない運動があるという。

消費者運動とSRI。市民による資本主義的経済合理性を逆手にとっての企業統制の手法である。体制内運動として、その限界を論じることはたやすい。しかし、その可能性を追求すること、その可能性を核廃絶に結びつけること、すこぶるロマンに満ちているではないか。
(2015年1月8日)

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