澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

ソウル特別市、熱い市政報告に驚いた。

韓国の旅の報告をしなければならない。もちろん、わずか5日間の旅では群盲象を撫でたに過ぎない。それでも、私が撫でた部分では、韓国の市民運動の強さ、民主主義の根深さに手応えがあった。学ぶべきところ多大との印象だった。中でも、革新ソウル市のあり方に驚いた。もちろん、東京都と比較してのことである。

2月19日(火)、韓国ピースツアー2日目の早朝は寒かった。しかも、相当に激しい雪だった。宿泊先のコリアナホテル22階から間近に見えるはずのソウル市庁舎が、雪に煙ってまったく見えない。寒さに震えて訪ねたソウル市庁舎で、温かい歓迎を受けた。

ソウル特別市の人口は約1000万人。24行政区を抱えて、東京都に相当する。革新市政だと聞いてはいたが、これほど緻密に理念を尊重しながら行政を行っていることは知らなかった。

市長は、朴元淳(パク・ウォンスン)。文在寅と同期の弁護士である。市長選では、野党統一候補として与党候補を破っての当選で、現在3期目。文在寅大統領の後継者だと、あちこちで聞かされた。

至るところにあったソウル市のロゴマークが、「I・SEOUL・U」。よく見ると、文字列の中央にある「O」の字の上に、小さいヒゲがついている。これが、何か意味あるものなのか、単なる視覚的デザインなのかは分からない。2015年以来のものだとのこと。「SEOUL」を動詞として読むのであれば、使う人のイメージ次第でどうとでも解することができる。市政が優しく暖かいイメージを持ってもらおうとしての、このロゴの採用なのだろう。市庁舎全体が暖かく、「どなたもおいでなさい」「どんなご意見にも耳を傾けます」という雰囲気だった。

ツアーの主催者からは事前に格別の要望はしていなかったようだが、市側は、我がツアー参加者35名のはいる部屋を用意してくれた。3名の職員が、行き届いた資料を準備して、2時間余りの時間を割いて、市政の一端をレクチャーしてくれた。市が用意したテーマは二つ。「ソウル特別市における非正規職の正規職化」と、「訪問する住民センター -公共と住民がともに作る革新-」というもの。それぞれ、担当者が日本語パワポを駆使しての説明。これがおざなりなものではない。そして、みごとな日本語通訳。正直のところ驚いた。その生真面目さと、その熱意に、である。

最初のレクチャーは、「労働民生政策官室」の担当者によるものだった。ソウルは、自らを『労働尊重特別市』と宣言して、まず自らが勤労者の利益を守る実例を示すことで、市内の企業を「模範的な使用者に導く」方針を持っているという。このことを「公共部門が模範例となり、民間部門に拡散させる」とスローガン化している。

こうして、「自治体として初めて、市政全般において労働問題を政策化した」と胸を張る。その成果として、最も顕著なものが、「非正規職の正規職化」であるという。

正規職化の取り組みは、2012年から始まった。その理念は、「社会的・経済的二極化の是正、持続可能な発展に向け、非正規職問題に市が他に先駆けて取り組む」というものだった。

市は、緻密なプロセスを策定し、業務委託の「間接雇用労働者」を、直接雇用の「期間制・準公務員」に切り替え、さらに正規職の公務員労働者に切り替えたという。2019年2月までの正規職化が実現した人数は、10,209人に上るという。

この間、平均賃金は年間180万円上昇し、休日、有給休暇、福利厚生も拡大した。今、取り組みの中心は、「所属感や自尊感情の低下など、不合理な処遇における差別」の払拭だという。

何より感心させられたのは、労働条件と福利の向上だけを問題にするのではなく、「労働尊重文化の政策化」だという。この取り組みの成果は、中央政府新政権の非正規職解決のモデルにもなり、光州市など他の自治体にも波及しているという。

資本の要請をどこまでも追認して非正規化容認の日本の労働行政とは、まさしく正反対の方向。自治体が先頭を切って正規職化し、これを民間に拡げていこうという政策に、度肝を抜かれた思い。

報告が終わるや、矢継ぎ早に質問の手が上がった。予算はどれだけ増えたのか。その財源は。労働組合はどんな役割を果たしたのか。議会の意見はどうだったか。何よりも、ソウル市の住民は納得しているのか。予算を切り詰めよ、そのために、職員の給与を抑えよ、という声をどう説得したのか…。とても、時間か足りない。

「訪問する洞住民センター -公共と住民がともに作る革新-」は、市の「訪問する洞住民センター」推進支援団長のレクチャーだった。「洞」とは、最小単位の行政機関として、洞ごとにある「住民センター」が、住民と密着しながら福祉行政を進めている。「訪問する洞住民センター」とは、待ちの姿勢ではなく、自ら福祉を必要とする現場に出向く姿勢を強調したネーミング。

しかも、住民福祉を公務員だけが担うというのではなく、「公共」と「市民」との緊密な連携のもとに、民間の力を引き出して、住民自治を基本に総合的な政策を行うという。

ここでも驚くべきは、貧困・疾病・社会的孤立などを解決するために、福祉の人手が不足として、2015年から2018年までに、福祉関係職員を2,802人増員したという。

こうして、福祉国家的理念からは「人間としての尊厳を維持するに足りる生活を権利として享受できる制度的な保障」を、市民社会的観点からは「自分の暮らしと社会環境に対する自己決定権の獲得と実行」を、目指すものだという。

この報告の最後に、パク市長の記者会見の言葉が引用されている。「『訪問する洞住民センター』の人々は、行政の効率より人間を最優先する『人権公務員』になります」というのだ。

熱く語る担当者に気圧された感があった。「どうして、そんなに熱心になれるの?」という質問に、こんな答が印象的だった。
「自分の場合は、セウォル号事件の影響が大きい。あのときの国民の問いかけが、『これが国家なの?』というものでした。この問いかけは、地方公務員である私にも向けられたものだと思いました。セウォル号事件を批判する大きな国民の声と行動に私も真剣に応えなければならない。その思いが、自分を変えたはずです」

私たちには野田市の児童虐待死事件が生々しい記憶としてあった。児童相談所の消極的な姿勢を歯がゆく思う気持ちが強く、「積極的に福祉に必要なところに訪問する人権公務員」には、大きな拍手を惜しまなかった。

この日ソウルは寒い雪の空だったが、市庁舎の中での報告には熱気がこもっていたた。今、韓国はどこも熱い。そう思わせるソウル市庁舎訪問。それにしても、嗚呼、彼我の差かくも大なる小池百合子都政を何とかしなくては。
(2019年3月6日)

朝鮮人を殺そうとした日本人と、身を呈して救った日本人と

昨日(3月1日)、石川逸子さんをご自宅に訪ねた。石川さんは知られた詩人であるが、花鳥風月や雪月花を詠む人ではない。被爆者・戦争犠牲者・日本軍「慰安婦」・徴用工など、常に虐げられた人・苦しい境遇の人、そしてひっそりと忘れられた人々に思いを寄せての詩作をされる。3月1日にお目にかかるに、まことにふさわしい方。そのインタビュー記事は、間もなく「法と民主主義」に掲載となる。

石川さんから、「最近はこんなとをしています」と、小冊子をいただいた。「風のたより」と題する不定期刊行物で第16号とある。32頁の縦書きパンフだが、帰宅後に目を通してその内容の充実ぶりに驚いた。

南京事件の証言、台湾人「慰安婦」の証言、中国人強制連行事件、朝鮮人強制連行犠牲者への追悼。戦場の父からの手紙、翁長知事への追悼・日米地位協定、三井三池炭坑炭塵爆発事故、フクシマの事故、核兵器禁止条約…。書き下ろしと、詩と証言と手紙と運動体の通信からの転載など、いずれも読むに値するものばかり。石川さんのところに、読むに値するものが集まってくるのだ。

なかで、興味を引く一文を紹介させていただく。関東大震災後の朝鮮人虐殺事例は数多く報告されているが、このようなかたちで虐殺から救った日本人がいたことは知らなかった。特筆に値する事例だと思う。

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大きな愛
関東大震災時朝鮮人虐殺に抗して

 京都在住の詩人、片桐ユズル氏から、お手紙をいただいた。
 お手紙によると、日中戦争がはじまる前は、大人が集まると話題は関東大震災のことだったという。そのとき、幼いユズル少年がチラと耳にはさんだのは、白分のひいばあちゃん、片桐けいが、朝鮮人を肋けて警視庁から表彰されたとのこと。それ以上、知らないままでいたところ、当時18歳だった父、片桐大一氏が、そのことをのちに英文で記していたのである。
 そして、大一氏(享年90)の葬儀のとき、ユズル氏の弟、中尾ハジメ氏が日本語訳し、コピーして会葬者に配ったのだという。
 以下、その文章を載せさせていただく。

 25万5000の家屋を倒壊させ、さらに44万7000棟を焼失させた関東大震災で、首都東京は平地と化してしまった。一週間ほどで私たちは、めちゃめちゃにひっくり返ってしまったものをもう一度たてなおそうと、気を取りなおし始めていた。私たちのつぶれかけた家は、引きたおし、建てなおさねばならなかった。その日の午後、荻窪駅の近くで建築業者と材木商との打ちあわせを終えて、私は家へ帰るところだった。
 未曾有の破壊は東京周辺のいくつかの地域でどうにも手のつけがたい無秩序をもたらしていた。大異変が人びとの理性の平衡を失わせたのだ。最も野蛮な不法行為まで起こっていた。
 もっともらしく歪められ拡大された恐ろしい噂が、またたくまに、広く走り、朝鮮人たちが反乱を企んでいる、あちこちの井戸に毒を役げこんだ、そして何人かはその場で捕えられ殺されたというのだ。家にむかいつつあった私は、近所の大地主の一人飯田さんの畑で一人を斬首刑にすると、通りがかりの人たちが話しているのを耳にした。好奇心で私はその私刑の場へと急いだ。
 数分で私はそこにいた。たくさんの人が集まっている。異常に張りつめた空気を感じとることができる。たぶん何も悪いことをしていない一人の朝鮮人に行われようとしている非法な斬首刑をはっきり見ようと、私は厚い人垣をかきわけて、最前列にまで無理やり進んだ。この男が捕らわれたのは、ただ彼が朝鮮人だったからだ。
 この白昼、これほど多くの目撃者のまえで一人の人間が殺されるのを見る。なんという衝撃か。どうして、これほど多くの者がこの光景を傍観できるのか。法治社会でこんな刑罰が許されるのか。
 犠牲者は地面にはだしで坐らされている。若く見える。が、私には、その背中しか見えない。彼は動かず、じっと静かにしている。逃げることは不可能だ。逃げようとはしていない。運命をあきらめているのか。取りかこんで立つ男たちの手にする、にぶく光る刀が触れる瞬間、血がほとばしるのを知っているのか。やがて永遠の瞬間がきて、刀がひらめき、無抵抗の肉と骨に落ちていくのを知っているのか。私の心臓は、のどにまで上がり、息がつまる。周りのだれも動かなかった。この逃れがたい死の場面はいつ終わるのか。何という瞬間だ!
 反対がわに立っている群集のなかにざわめきがあがった。何だろう。厚い人垣をかきかけて一人の女が出てきて、自警団の輪のまんなかに身を投げだした。大地に自分をたたきつけるようにして、その朝鮮人のまぢかに、その背中によりかからんばかりに坐った。
 何と! なぜ! どうして! この新た闖入者は私白身の祖母に他ならなかった。私のおばあちゃん、年老いてひ弱な。おばあちゃんは、何をしようというのか。
「さあ、まず私を殺しなさい。先にこの老いぼれた私を殺しなさい。この罪もない若者を殺すまえに、私を殺しなさい。」わめいたのではなかったがその声はみんなに聞こえた。だれもしゃべらず、だれも動かなかった。おばあちゃんは同じ言葉を数回くりかえし、くりかえすごとに、ますます毅然と決意が見えてきた。あの威厳はどこからくるのか。
 ほっとしたことに、この危機的な瞬間は長くはつづかなかった。引き抜かれた刀は、血を流すことなく元の鞘に収められた。死刑執行者たちは、この二人の坐ったままの老人と若者に背をむけると、一人また一人と去っていった。何という変わりようだ、ほんのわずかの間にこんなに従順でおとなしくなってしまうとは。ほっとした様子を見せたものさえいたし、負け犬のように立ち去ったものもいた。
 群集は去り、私はおばあちゃんを連れて家に帰った、というか、おばあちゃんが帰ろうといったのだろうか? 彼女は、もはや決意も威厳も見えず、普通の年寄りになっていて、私のわきをとぼとぼと歩くのだった。
 その若い朝鮮人は、後で大工だということがわかった。私たちの近所を回り修理仕事をしていたのだ。彼の名はダル・ホヨンで、日本名をサカイといった。
 何日も何週間もたち、私たちはあの事件には何も触れずにいた。というのも、あの恐ろしい私刑の場面を思い出すのが怖かったからだ。何か月かたって、おばあちゃんは警視庁に出頭せよといわれた。彼女はそこで人命救助により「警視総監賞」を受けた。

 友のために自分の命をあたえるばど人きな愛はない。…それにしても、なんと大きな勇気をもち、断固として、非道な行為に、武器をかざした一団に立ち向かわれたことであろうか。(以下略)

(2019年3月2日)

「3・1独立運動」 100周年記念式典の文在寅演説紹介

本日、韓国は「三一節」。「3・1独立運動」を記念する日として祝日になっている。100年前の今日、1919年3月1日ソウルのパゴダ公園(現タプコル公園)で、独立宣言文が読み上げられ、「独立万歳」を叫ぶ大きなデモ隊がここから出発した。これを端緒に「独立万歳」の声が、全国にとどろいて日本の支配を揺るがせた。1910年の日韓併合から9年目の大事件であった。

日本の総督府は、苛酷な武力の行使をもってこれを弾圧した。この運動に参加し、官憲に殺害された人の数は、7500名余に及ぶとされている。

一週間前の金曜日(2月22日)、私たち韓国ピースツアーの一行は、タプコル公園を訪れた。おそらく3月1日には、ここでも記念式典が予定されているのだろう。公園はよく清掃されていた。1762文字でつづられた独立宣言全文を彫った大きな銘板が足場を組んで、拭われていた。独立宣言文の署名者は、33名の「朝鮮民族代表」とされているが、その筆頭が天道教(元・東学)のソン・ビョンヒ。その立像が建立されている。

そして、朝鮮全土に展開された「3・1独立運動」の模様を描いた銅板のレリーフが多数並んでいた。その中の1枚が、「韓国のジャンヌダルク」といわれる柳寛順(ユ・グァンスン)の姿を描いたもの。さながら、群衆を率いる「自由の女神」のごときポーズ。官憲に恐れず立ち向かう彼女が手にしているのは太極旗なのだろう。

柳寛順は17歳の学生で、デモを組織し指揮し、両親は日本憲兵の発砲で殺され、自身は逮捕される。デモでの受傷と拷問で獄死するが、死の直前まで「独立万歳」と叫び続けたという。このレリーフと彼女の写真が、学び舎の中学歴史教科書「ともに学ぶ人間の歴史」212頁に掲載されている。

それから100年目の3月1日。光化門広場(東京なら、さしずめ皇居前広場に当たる)に、1万人余の参加者を得ての政府主催の記念式典が行われた。文在寅(ムン・ジェイン)大統領の格調高い演説は、最後に柳寛順(ユ・グァンスン)に触れた。その長文の演説(全文ではない)を引用しておきたい。3・1独立運動が今日に持つ意義をみごとに描いている。

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尊敬する国民の皆さん、海外同胞の皆さん。100年前のきょう、われわれはひとつでした。3月1日正午、学生たちは独立宣言書を配布しました。午後2時、民族代表たちは泰和館で独立宣言式を行い、タプコル公園では約5000人が一緒に独立宣言書を朗読しました。

たばこをやめて貯蓄し、かんざしと指輪を差し出し、さらには切った髪を売って国債報償運動に加わっていた労働者や農民、婦女子、軍人、車夫、妓生、と畜業者、作男、零細商人、学生、僧侶など平凡な人々が三・一独立運動の主役でした。

その日、われわれは王朝と植民地の百姓から、共和国の国民へと生まれ変わりました。独立と(植民地支配からの)解放を超え、民主共和国のための偉大な旅路を歩み始めました。

100年前のきょう、南も北もありませんでした。ソウルと平壌、鎮南浦と安州、宣川と義州、元山まで、同じ日に万歳の声がわき上がり、全国あちこちに野火のように広がっていきました。

3月1日から2カ月間、南北韓を分かたず全国220の市・郡のうち211の市・郡で万歳デモが起こりました。万歳の声は5月まで続きました。当時、朝鮮半島の人口の10%にもなる約202万人が万歳デモに参加しました。約7500人の朝鮮人が殺害され、約1万6000人が負傷しました。逮捕・拘禁された人は実に4万6000人ほどに達しました。

最大の惨劇は平安南道の孟山で起きました。3月10日、逮捕・拘禁された教師の釈放を要求しに行った住民54人を日帝は憲兵分遣所内で虐殺しました。

京畿道・華城の提岩里でも教会に住民を閉じ込めて火を放ち、幼い子どもも含めて29人を虐殺するという蛮行が起きました。

しかし、それとは対照的に朝鮮人の攻撃で死亡した日本の民間人はただの一人もいませんでした。

民族の一員として誰でもデモを組織し、参加しました。われわれはともに独立を熱望し、国民主権を夢見ていました。三・一独立運動の声を胸に収めた人々は、自分と同じ平凡な人々が独立運動の主体であり、国の主人だという事実に気付き始めました。そのことが、より多くの人の参加を呼び込み、毎日のように万歳を叫ぶ力になりました。

歴史を正しくすることこそが、子孫が堂々とできる道です。親日残滓の清算も、外交も未来志向的に行われなければなりません。「親日残滓の清算」とは、親日は反省すべき、独立運動は礼遇を受けるべきという最も単純な価値を立て直すことです。この単純な真実が正義であり、正義がまっすぐあることが公正な国の始まりです。

日帝は独立軍を「匪賊」、独立運動家を「思想犯」と見なして弾圧しました。このときに「アカ」という言葉もできました。思想犯とアカは本当の共産主義者だけに使われたのではありません。民族主義者からアナーキストまで、全ての独立運動家にレッテルを張る言葉でした。左右の敵対、理念の烙印(らくいん)は日帝が民族を引き裂くために用いた手段でした。解放後も親日清算を阻む道具になりました。

良民虐殺、スパイでっち上げ、学生たちの民主化運動にも、国民を敵と追い込む烙印として使用されました。解放された祖国で日帝警察の出身者が独立運動家をアカとして追及し、拷問することもありました。多くの人々が「アカ」と規定されて犠牲になり、家族と遺族は社会的烙印の中で不幸な人生を送らねばなりませんでした。

今もわれわれの社会で政治的な闘争勢力をそしり、攻撃する道具としてアカという言葉が使われており、変形した「イデオロギー論」が猛威をふるっています。われわれが一日も早く清算すべき代表的な親日残滓です。

われわれの心に引かれた「38度線」は、われわれを引き裂いた理念の敵対をなくすとき、一緒に消えるでしょう。互いに対する嫌悪と憎悪を捨てるとき、われわれ内面の光復(植民地支配からの解放)は完成するでしょう。新たな100年はその時になって初めて本当に始まります。

尊敬する国民の皆さん、過去100年、われわれは公正で正義のある国、人類全ての平和と自由を夢見る国に向けて歩んできました。植民地と戦争、貧しさと独裁を乗り越え、奇跡のような経済成長を遂げました。

四・一九革命と釜馬民主抗争、五・一八民主化運動、六・一〇民主抗争、そしてろうそく革命を通じ、平凡な人々が各自の力と方法でわれわれ皆の民主共和国を築いてきました。三・一独立運動の精神が民主主義の危機のたびによみがえりました。

新たな100年は真の国民の国を完成させる100年です。過去の理念に引きずられることなく、新たな思いと気持ちで統合していく100年です。われわれは平和の朝鮮半島という勇気ある挑戦に乗り出しました。変化を恐れず、新たな道に踏み込みました。

2017年7月、ドイツ・ベルリンで「朝鮮半島平和構想」を発表した時、平和はとても遠くにあり、手に入れることができないように思えました。しかし私たちはチャンスが訪れた時に飛び出し、平和をつかみました。

平昌の寒さの中、ついに平和の春は訪れました。昨年、金正恩委員長と板門店で初めて会い、8000万の民族の心を一つに、朝鮮半島に平和の時代が開かれたことを世界の前で宣言しました。9月には綾羅島競技場で15万の平壌市民の前に立ちました。大韓民国の大統領として平壌市民に朝鮮半島の完全な非核化と平和、繁栄を約束しました。

朝鮮半島の空と地、海から銃声が消えました。非武装地帯で13柱の遺骨と共に、和解の心も発掘しました。南北の鉄道と道路、民族の血脈がつながっています。黄海5島の漁場が広がり、漁民たちの満船の夢が膨らみました。

虹のように思われた構想が、われわれの目の前で一つ一つ実現しつつあります。もうすぐ非武装地帯は国民のものになるでしょう。世界で最もよく保存された自然がわれわれへの祝福となります。

朝鮮半島の恒久的な平和は、多くの峠を越えることで確固たるものとなります。ベトナム・ハノイでの2回目朝米(米朝)首脳会談も、長時間の対話を交わし相互理解と信頼を高めただけでも意味ある進展でした。とりわけ両首脳の間で連絡事務所の設置まで議論がなされたことは、両国関係の正常化に向けた重要な成果でした。トランプ大統領が示した持続的な対話の意志と楽観的な展望を高く評価します。より高い合意へ進む過程だと考えます。

 ここで、われわれの役割が重要になってきました。わが政府は米国、北と緊密に意思疎通しながら協力し、両国間の対話の完全な妥結を必ず実現させてみせます。

 これからの新たな100年は、過去とは質的に異なる100年になるでしょう。「新朝鮮半島体制」へと大胆に転換し、統一を準備していきます。「新朝鮮半島体制」はわれわれが主導する100年の秩序です。国民と共に、南北が共に、新たな平和協力の秩序を生み出していくのです。

朝鮮半島の「平和経済」時代を開いてまいります。
金剛山観光と開城工業団地の再開案も米国と協議します。南北は昨年、軍事的な敵対行為の終息を宣言し、「軍事共同委員会」の運営に合意しました。非核化が進展すれば、南北間で「経済共同委員会」を構成し、南北双方が恩恵を享受する経済的な成果を生み出すことができるでしょう。

南北関係の発展が朝米関係の正常化と朝日(日朝)関係の正常化につながり、北東アジアの新たな平和安保秩序も拡張されます。三・一独立運動の精神と国民統合を礎に、「新朝鮮半島体制」を築いていきます。どうか全国民が力を合わせてください。

朝鮮半島の平和は南と北を超え、北東アジアと東南アジア、ユーラシアを包括する新たな経済成長の原動力となるでしょう。100年前、植民地になったか植民地転落の危機に直面したアジアの民族と国々は、三・一独立運動を積極的に支持してくれました。

 当時、北京大学の教授として新文化運動を導いた陳独秀は「朝鮮の独立運動は偉大で悲壮であると同時に明瞭で、民意をもってしながらも武力を用いなかったことで世界の革命史に新紀元を開いた」と語りました。

 朝鮮半島の縦断鉄道が完成すれば、昨年の光復節(日本による植民地支配からの解放記念日)に提案した「東アジア鉄道共同体」の実現が早まるでしょう。それはエネルギー共同体と経済共同体に発展し、米国を含め多国間平和安保体制を固めることになります。

 朝鮮半島平和のために日本との協力も強化します。「己未(三・一)独立宣言書」は三・一独立運動が排他的感情ではなく全人類の共存共生のためのものであり、東洋平和と世界平和に向かう道であることを明確に宣言しました。

 過去は変えられませんが、未来は変えることができます。

 歴史を鑑として韓国と日本が固く手を握る時、平和の時代がわれわれに近付くでしょう。力を合わせて被害者の苦痛を実質的に癒やす時、韓国と日本は心が通じ合う真の友人になるでしょう。

尊敬する国民の皆さん、海外同胞の皆さん、過去の100年、われわれが共に大韓民国を耕してきたように、新しい100年、われわれは共に豊かに暮らさなければなりません。

 世界は今、両極化と経済不平等、差別と排除、国家間の格差と気候変動という地球レベルの問題解決のために新たな道を模索しています。われわれは変化を恐れず、むしろ能動的に利用する国民です。
 われわれは最も平和で文化的な方法で世界民主主義の歴史に美しい花を咲かせます。

 われわれの新たな100年は平和が包容の力につながり、包容が共に豊かに暮らす国を作り出す100年になるでしょう。包容国家としての変化をわれわれが先導することができ、われわれが成し遂げた包容国家が世界包容国家のモデルになり得ると信じています。

 三・一独立運動は今もわれわれを未来に向かって進ませてくれています。われわれが今日(三・一運動の象徴である独立運動家)柳寛順(ユ・グァンスン)烈士の功績を見直し、独立有功者の勲格を高めて新たに褒賞するのも、三・一独立運動が現在進行形だからです。

柳寛順烈士は(忠清南道・天安の)アウネ市場で万歳デモを主導しました。
(ソウルの)西大門刑務所に閉じ込められても死を恐れず、三・一独立運動1周年万歳運動を行いました。しかし、何より大きな功績は「柳寛順」という名前だけで三・一独立運動を忘れられないようにしたことです。

 過去100年の歴史はわれわれが向かい合う現実がどれだけ困難でも、希望を諦めなければ変化と革新を成し遂げることができると証明しました。今後の100年は、国民の成長がすなわち国家の成長になるでしょう。

 国内では理念の対立を越えて統合を成し遂げ、国外では平和と繁栄を成し遂げる時、独立は真に完成されるでしょう。

 ありがとうございました。

(2019年3月1日)

「3・1独立運動」は、現代の韓国民主化にどうつながっているだろうか。

昨日(2月22日)の夜、韓国から帰国。日本平和委員会が企画した「韓国ピースツアー・2019」に参加して、4泊5日の旅程が有意義に終了した。

この企画に初参加した昨年は、大きなカルチャーショックを禁じえなかった。韓国はすごい。韓国民衆の意識の高さと、市民運動のパワーに圧倒される思いだった。そして、市民運動に携わる人々の若さと明るさを羨ましいと思った。学ぶべき点が数多くある。今年の企画に参加した個人的な問題意識は、その市民のパワーの源流を確認したいということ。

「3・1独立運動」から100年である。日本の側から見れば、侵略と植民地支配の負の歴史をどう総括するのか。朝鮮(韓国)の人々は、植民地支配への抵抗の歴史が今にどうつながっていると見ているのか。そして今、両国の民衆はどのような共通認識のもと、連帯の行動が可能なのだろうか。

「3・1独立運動」は、華々しく独立を勝ち得た運動ではない。大規模な非武装の平和的民衆蜂起ではあったが、苛酷に弾圧され、押さえ込まれた民衆運動だった。果敢に運動の先頭に立った良心と勇気を兼ね備えた多くの人々が殺害されている。独立宣言文に署名した「民族代表」33名のほとんどが有罪とされてもいる。この抵抗と弾圧の記憶と怨念が、どのように継承され持続されたのであろうか。

現行大韓民国憲法(第六共和国憲法・1987年採択)の前文冒頭に、「悠久な歴史と伝統に輝く我々大韓国民は、3・1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統と、不義に抗拒した4・19民主理念を継承し、祖国の民主改革と平和的統一の使命に立脚して、正義・人道と同胞愛で民族の団結を強固にし」と書かれているという。「3・1独立運動」こそが、「正義人道と同胞愛で民族の団結を強固にする」という国民運動の源流であり、87年民主化にもつながる「祖国の民主改革」の原点という国民的確認ということなのだろう。

ツアー最終日の昨日(2月22日)、安重根記念館タプコル公園を見学した。安重根は1909年に初代韓国統監伊藤博文を射殺した民族的英雄。そして、タプコル公園は1919年の「3・1独立運動」の発火点となった場所。この2事件は、日本の植民地支配への抵抗の形として、武力闘争と非武力の平和的大衆闘争の典型例。結局は両者とも、独立を勝ち取ることには成功せず、抵抗を示すことで終わった。しかし、その両者の精神が、朝鮮民族の中に脈々と流れてきたということになる。

自分の確信として、「安重根の伊藤射殺と韓国の現代」「『3・1独立運動』とキャンドル革命」とがしっくりと重ね合わされたわけではない。ツアーの続きのノリで、本日(2月23日)東新宿の高麗博物館を訪ねてみた。

同博物館のホームページによれば、高麗博物館とは、「市民がつくる日本とコリア交流の歴史博物館」だとある。「高麗」とは世界の共通語「コリア」の意味、つまり韓国と朝鮮をひとつにとらえた言葉。日本とコリアとの関係はこう語られている。

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有史以前から、朝鮮半島と日本列島の人々は豊かな交流があり、先進文化は朝鮮半島を通じて日本に伝えられ、日本は発展してきました。ところが日本は近代以降コリアを侵略し植民地にしました。しかし戦後、私たちの国はこの事実にしっかり向き合ってはきませんでした。在日コリアンが日本にいるということ、今も差別が続いているということは、過酷な植民地支配の歴史を象徴しています。日本人の多くは、このような歴史も、コリアンの心の内も、ほとんど理解しないで過ごしてきました。
私たちはこのような歴史の事実に向き合い、学び理解することを心がけたいと思います。これは日本とコリアの信頼関係の土台になり、東アジアの平和につながるものです。そして在日コリアの人たちと共に良き隣人となる道を歩んで行きたいと思います。

高麗博物館の目的

1、高麗博物館は、日本とコリア(韓国・朝鮮)の間の長い豊かな交流の歴史を、見える形であらわし、相互の歴史・文化を 学び、理解して、友好を深めることを目指します。
2、高麗博物館は、秀吉の2度の侵略と近代の植民地支配の罪責を反省し、歴史の事実に真向かい、日本とコリアの和解を目指します。
3、高麗博物館は、在日韓国朝鮮人の生活と権利の確立を願いながら、在日韓国朝鮮人の固有の歴史と文化を伝え、民族差別のない共生社会の実現を目指します。

その高麗博物館の2019年企画展「3・1独立運動100年~東アジアの平和と私たち~」が開催中なので訪ねてみた。企画展は以下のとおり。

2019年2月6日(水)~6月23日(日)
開館時間: 12:00 ~17:00
会場:高麗博物館展示室
休館日:月曜・火曜
入館料 400円    

この企画展の趣旨が次のように語られている。

1919年3月1日、日本の植民地支配に抗し、朝鮮で大規模な独立運動が起きました。各地で「独立宣言書」を読み上げ、「独立万歳」をさけび、あらゆる階層の人たちが参加して、運動は全国各地に広がっていきました。

日本の憲兵警察はこの 「3・1独立運動」を弾圧し、日本は敗戦まで植民地支配を続け、ほとんどの日本人は政府を支持しました。
100年が経過した今日、多くの人が「3・1独立運動」ばかりか、かつて日本が朝鮮半島を植民地にしていたことを知りません。
朝鮮半島の情勢は今大きく変化し、非核化と朝鮮戦争の終結へと向かっています。「3・1独立運動」100周年に当たり、高麗博物館では韓国の独立記念館、堤岩里の教会などを訪ね、3・1運動について学んできました。当時の報道や女性の活動、堤岩里の虐殺事件、在朝日本人の動き、そしてこの運動が今日の民主化運動、キャンドル革命へ連動していくことなどを展示して東アジアの平和について考えたいと思います。

韓国では、歴史を学ぶ場に若者が多い。どの運動体も、若者とりわけ女性に支えられているという印象が強い。比較して、日本の原状を嘆くのがパターンなのだが、今日はちょっぴり嬉しかった。たまたまなのかも知れないが、この博物館で高校生のグループと一緒に説明員の解説に耳を傾けた。その生徒たちの熱心さが好もしかった。ソウルの日本大使館前で「少女像」を囲んでの水曜集会に高校生や中学生がたくさん集まっているという話を、興味深そうに聞いてくれた。

日本の若者もけっして捨てたものではない。ただ、事実を知る機会がない。考える材料に接する機会がないだけなのだ。
(2019年2月23日)

韓国ピースツアー 最終日 ー テーマは「独立運動の歴史」

午前:*3.1独立運動ゆかりの地を見学
   *植民地歴史博物館の見学

植民地歴史博物館は、「植民地主義の清算と東アジアの平和をめざす」として昨年8月に開館したばかり。3階に入居しているNGOの民族問題研究所が事業主体となっている。

展覧は、下記の4ゾーンからなっているという。
第1ゾーン 日帝はなぜ朝鮮を侵略したのか
第2ゾーン 日帝の侵略戦争、朝鮮人に何が起こったか
第3ゾーン 同じ時代、違う人生ー親日と抗日
第4ゾーン 過去を乗り越える力、いま、私たちは何をするべきか

なるほど。良くできている。これも楽しみだ。

維新以来今日まで150年間。その半分の期間は、日本は朝鮮への侵略を一貫して続けた。朝鮮を足場にロシアと闘い、さらに満州を手にして、中国にまで侵略した。なぜ? 非人道的な侵略行為と差別・排外主義は国に満ちた。なぜ? その侵略は朝鮮人に何をもたらしたのか。そして今、私たち日本人は、過去にどのように向き合い、過去を乗り越えるために、何をするべきか。考えなければならない。

韓国ピースツアーを終えるに当たって、昨年と同じことを書き付けるしかない。
いま、韓国の自立した市民運動には、学ぶべきところが多々ある。この5日間で、多くのことを吸収しようと思ってソウルまでやってきた。

その旅も、今日で終わる。さて、5日間で少しは見聞を広め得ているだろうか。少しは賢くなっているだろうか。足を踏まれた側の人々の気持ちをより深く分かるようになっているだろうか。

夕刻仁川空港を発って成田に到着の予定。明日からは、仕事が待っている。リアルタイムでのブログの掲載も再開しよう。
(2019年2月22日)

韓国ピースツアー4日目 ― テーマは「現地で見る軍事境界線」

 終日:南北朝鮮の軍事境界線「板門店」の見学予定である。
※しかし、南北会談以降、「板門店」への訪問規制があるため、出発の時点まで「板門店」へ行けるかは未定。行けない場合は、北朝鮮を展望できる「統一展望台」に行くことになる。私は、「板門店」には行ったことがない。統一展望台は見学している。「板門店」見学が実現できるか。運試し。

ツアーのリーフレットには、南北を分断している軍事境界線(見学予定先:板門店あるいは統一展望台)について、次のように記載されている。

●2018年4月27日、板門店で南北首脳会談が聞かれ、終戦をめざす「板門店宣言」が発表された。
 第二次大戦後、35年に及ぶ日本の植民地支配から解放され、「朝鮮人民共和国」を予定したが、米ソの対立が朝鮮に持ち込まれ、民族分断国家が成立してしまった。ソ連が満州から越境、アメリカが仁川に上陸、1945年の米英ソ外相会議で5年間の「信託統治」合意が成立したが、これを大国の横暴と民衆が反発~済州島4.3事件を経て、1948年8月15日に「大韓民国」が成立。北が対抗して9月9日に朝鮮民主主義人民共和国成立となった。
 その後、1950年6月に朝鮮戦争が勃発して3年にも及び朝鮮半島全土を戦場とした。1953年7月27日に休戦協定がなされ、北緯38度線付近の休戦時の前線が軍事境界線として認定~南北2国に分断される。
 ※注意 南北会談以降、板門店への規制が厳しくなっていることから見学・訪問先として「板門店」には行けないこともあります。そのときは、「統―展望台」に。

第2次大戦後の終戦処理が終わっていないのが南北朝鮮の分断。これに伴って、日朝関係も同様となっている。今日、国境に立てば、陽は暖かく射すだろうか。風はさわやかに吹くだろうか。
(2019年2月21日)

韓国ピースツアー3日目 ― テーマは「日本軍『慰安婦』問題」と「在韓米軍」

午前:日本軍「慰安婦問題」の解決に向けての交流
   *歴史認識と慰安婦の問題について
   韓国挺身隊問題対策協議会を訪問
昼頃:日本領事館前での「水曜集会」に参加
午後:平沢米軍基地近辺で、平沢米軍基地反対行動の市民団体と交流
   在韓米軍基地の現状について懇談
夕刻:現地団体との懇談・交流   

●日本軍「慰安婦」問題の解決へ向けての交流
 交流予定先:韓国挺身隊問題対策協議会
 女性と人権博物館の見学とともに、日本軍「慰安婦」問題の解決へ向けて交流。1990年11月に37の女性団体と個人が集まり結成。日本軍「慰安婦」犯罪の認定・真相究明・国会決議による謝罪と法的賠償、そして歴史教科書への記録など7大要求を掲げて活動。1992年1月に在韓日本領事館前での抗議行動「水曜集会」を開始してから、毎週実施している。抗議行動には多くの団体・人が参加し、特に若い層の参加が目立つ。

●在韓米軍基地の現状と問題について交流
 交流予定先:平沢米軍基地拡張阻止対策委員会
 ソウル都心にあった龍山米軍基地の移転等にともない平沢市郊外の農村地帯ペンソン邑テチュ里の農地が強制収用された。2018年6月29日に在韓米軍は、司令部をソウ南方の京畿道平沢市にある米軍基地キャンプ・ハンフリーズに移転した。1957年7月にソウル市内の龍山基地に創設されて以来、在韓米軍司令部の移転は初めて。それによる防衛態勢強化の取り組みなどが問題となっている。

いや、盛り沢山。午前中からお昼までが、日本軍「慰安婦」問題。午後が、在韓米軍問題。日本領事館前の「少女像」は以前にも見学したことはあるが、水曜行動参加は初めて。若い層の参加が目立つという、その運動の雰囲気を感じ取りたい。
(2019年2月20日)

韓国ピースツアー2日目 ― テーマは「南北分断の克服」と「キャンドル革命」

午前:南北分断の克服と平和・繁栄の新しい動きに関する交流
・キョレハナ平和研究センター(イ・ジュンキュ氏)訪問
・史上初となる「南北共同連絡事務所」訪問
・「板門店宣言」の履行について関係各所を訪問・交流

午後:ソウル市市民民主主義とキャンドル革命について交流
・参与連帯を訪問
・ソウル市長との懇談(あるいは市長のブレーンや学者)
・ソウル市の市民民主主義について
・キャンドル市民革命がもたらした変化について

●米朝・南北会談と今後についてのレクチャー
担当講師は、イ・ジュンキュ氏
 長年対立してきた米国と北朝鮮が歴史上初めての首脳会談を行い「新しい米朝関係の確立」を約束。平和体制の構築と完全な非核化で合意。また、南北首脳会談では「朝鮮戦争の終結と平和協定締結をめざす」ことに合意。今後の展望を活動家イ・ジュンキュ氏より説明。

●南北分断の克服と平和非核化の新しい勤き
交流予定先キョレハナ平和研究センター
2004年に発足した「キョレハナ」は、韓国に8箇所の支部を持ち、北朝鮮への人道支援などを中心に活勤している。「キョレ=民族・同胞」、「ハナ=1つ」という韓国語であり、「民族・同胞は1つ」という意味の団体。支援事業だけでも11の事業本部を持っている。南北首脳会談の『板門店宣言』にもとづく南北間の緊張緩和一相互交流の進展状況などについて懇談・交流を予定。

●ソウル市民民主主義とキャンドル革命
 交流予定先:参与連帯平和軍縮センター
 「市民が主役であり、その市民の力を引き出させるのが『中央』『地方』政府だという朴元淳ソウル市長(元参与連帯役員)。韓国社会を大きく変化させた「キャンドル革命」について、参与連帯を訪問します。当団体は、原水爆禁止世界大会や平和大会にも参加する韓国の中心的市民運動団体。民主主義の基盤を固め、人間らしく生きられる社会実現をめざし、朝鮮半島と北東アジアの平和実現でも積極的に提言している。

予定は、飽くまで予定。本日(19日・火)の現実の行動がどうなったか、今日米朝会談や南北融和の動きについて、現地の意見や空気はどうであったか、帰国後に追々ご報告いたしたい。
(2019年2月19日)

「韓国ピース・ツアー」初日

2019年2月18日・月曜日。京成上野から、早朝5時58分のスカイライナー001号で、旅が始まる。成田発のアシアナ航空便で仁川へ。本日から22日までの4泊5日。月曜の朝から金曜の夕刻まで、一衣帯水の国の首都の周辺の旅。

昨年に続いて、日本平和委員会が企画した「韓国ピースツアー」に参加している。総勢35人の大所帯。一人旅では経験できない、現地の平和運動や市民団体との交流が盛り沢山。観光スケジュールは一切ない。

ツアー名にサブタイトルが付いている。「日本の植民地支配から解放されて73年。南北に分断された朝鮮半島の平和と非核化をめざす民衆の運動が躍進する国へ!」という。

旅のセールスポイントは、以下のとおり。
1 キャンドル革命・ソウル市民民主主義がもたらした変化を市民との交流で学ぶ。
2 南北会談以降の軍事境界線を訪問
3 日本軍「慰安婦」問題解決へ向けた連帯と在韓日本領事館前での「水曜集会」デモに参加
4 在韓米軍基地の実態と被害、基地強化の反対を掲げる平和団体との交流
5 韓国の歴史と文化にもふれる

昨年同様、今週の月曜から金曜日までの5日間、憲法日記を書く暇はない。手許にパソコンもない。そこで、今日から5日間は、全て事前に書きためた「予定記事」の掲載である。

今回も、親しい吉田博徳さんからのお誘いに応じての参加。吉田さん、97歳にして矍鑠そのものである。今回のツアーの副団長を務める。

ところで、本日(2月18日)の見学地の一つに、閔妃暗殺の現場」がある。景福宮の一角。1895年10月8日、日清戦争終了後間もなく、ここで閔妃が殺害されている。李氏朝鮮の第26代王・高宗の正妃である。明成皇后との尊号をもつ人物が、日本公使と軍の策謀によって、暗殺された。これが、乙未事変である。

高宗は「心やさしく温和だが性格が弱く人の言いなり」「意志薄弱」(イザベラ・バードの評)と評される人。高宗の父・大院君が親日派、閔妃が親露派の頭目として、両派が激しい抗争を繰り広げた。閔妃の親露派が優勢となるや、日本公使三浦梧楼(大使はいない)や軍事顧問岡本柳之助らが、親露派の閔妃を排除するための実力行使に出た。これに、大院君派などの朝鮮人が加わった暴徒が王宮内に乱入し、閔妃は景福宮・乾清宮内で斬殺され、遺体は焼却された。この狼藉も、結局親日派の大院君を復権させることには成功しなかった。

なお、三浦梧楼ら48名は謀殺罪等で起訴され、また軍人8人が軍法会議にかけられたが、証拠不十分で免訴となり釈放されたという。

喩えて言えば、日本に軍隊を置く某国大使が画策して、その国の在日軍隊が暴徒とともに皇居に乱入して皇后を殺害した、というこの上ない狼藉。朝鮮の民衆が怒ったのは当然だろう。

かつての日本が、朝鮮に何をしたかの、歴史的事実の一コマ。日本人はこの事件をどれだけ深刻な問題として認識しているだろうか。
(2019年2月18日)

ある日の待合室で話題となった、天皇の責任。

えらく、待たせられますな。いつものことですがね。

きちんと予約制にしてもらいたいものですね。

でも、毎回、ここで結構知らない人とのお話しが弾んで、楽しいこともあるんですよ。

最近、楽しい話題なんて思い当たらないじゃないですか。

児童虐待だの、イジメ自殺だの、統計偽装だの…。

そうなんですよ。私は去年、定年になったんですが、それまではテレビの国会中継なんて観る暇もなかった。今は、よく観るんですが、政府のいい加減さには、ほとほと呆れて腹が立ちますね。

安倍さんの政治は確かにひどい。でも、安倍さんに限らず、アメリカも中国も、イギリスもみんなひどい。韓国もひどいじゃないですか。

韓国の何がひどいんですか。

韓国の国会の議長が、天皇陛下に謝罪を要求したでしょう。天皇陛下に謝罪を、ですよ。怪しからん話じゃないですか。

天皇への謝罪要求はどうして怪しからんのでしょうか。安倍首相は12日の衆院予算委員会で、「甚だしく不適切な内容を含み、極めて遺憾である旨、厳しく申し入れた。強く抗議するとともに、謝罪と撤回を求めた」と怒って見せています。河野太郎外相も同委員会で、「極めて無礼な発言だ」とは言うのですが、何がどうして無礼で、甚だしく不適切なんでしょうかね。

国会議長の発言の中に、天皇を指して『戦争犯罪の主犯の息子ではないのか』という言葉がありましたね。あれが、日本の国民を刺激したのではないでしょうか。

そう、天皇陛下を「戦争犯罪の主犯」、今上陛下を「戦犯の息子」なんて、日本人なら許せないと思うのが当たり前。

そうでしょうかね。天皇が戦争を始め、天皇の軍隊が近隣諸国に攻め入って人々を殺し、天皇の役人が徴用工を募集し、天皇の軍人が強制力を用いて慰安婦を募集して管理した。天皇が、侵略戦争と植民地支配の最高責任者であることは、ごまかしも言い逃れもできない事実でしょう。その戦争や植民地支配に伴う数々の戦争犯罪について、天皇を「戦争犯罪の主犯」と言って、ちっともおかしくないと思いますが。

東京裁判でも、天皇陛下は裁けなかった。陛下に責任はなかったからですよ。

当時、GHQは天皇を占領統治に使おうとしていました。日本を反共の防波堤にしたいという思惑もあった。だから、かなり無理をして、訴追を避けたのではないのでしょうか。

それでも、少なくとも現在の天皇陛下には何の責任もないはず。その陛下に謝罪要求の根拠はあり得ません。

ここに、新聞記事がありますが、こんな風に報道されていますね。
 「文喜相氏は『日本を代表する(安倍)首相から(謝罪の)一言でいい。近く退位されるのだから、天皇がそれを行うことを願う』とし、陛下は『戦争犯罪の主犯の息子ではないのか』と指摘。『そのような人が、高齢の元慰安婦の手を握り本当に申し訳なかったと言えば、これを最後に問題は解決する』と語った」(10日付各紙=共同配信)
 朝日新聞は、「文氏は(天皇に関し)『戦争犯罪』という表現は使っておらず、『戦争当時の天皇の息子』と述べたと思う」と共同配信の記事の一部を否定したとしています

正確に言えば、ストレートな「謝罪要求」ではないのですね。でも、親のしたことを子に謝らせる、という発想に違和感がありますね。

敗戦後の日本国民自らが戦争責任追求をしてこなかったことが諸悪の根源となっているように思います。韓国など被害国の側から見れば、あの被害や屈辱を与えた日本が、本心から謝罪したことはない。だから、問題が片付かないまま、現在に至っている。
 今できる解決のための謝罪の仕方として考えられるのは、首相か天皇かのどちらかだろう。安倍首相は、人格的に大いに問題のある人物だから、この人に謝られたところで真摯の謝罪だとは受け取りにくい。ならば、天皇の謝罪を、ということではないでしようか。気持ちはよく分かる。

しかし、安倍さんも、国会で言っていましたよね。「今回の(文・韓国国会議長の)発言に多くの国民が驚きかつ怒りを感じたと思う」と。多くを言う必要はないんじゃないでしょうか。私もそう思いますよ。

実は、それこそが一番深い、根本にある問題ではないでしょうか。あの戦争は、天皇の命令で行われた戦争でした。神である天皇が神国日本を防衛するためとして、臣民に命じて他国を侵略した奇妙な戦争。その敗戦の責任を天皇自らがとろうとはせずに生き延びた。その天皇を日本国民が責任追及することなく、天皇制を残してもいる。ナショナリズムの中心に、常に天皇が位置し続けている。

たしかに、韓国との問題となると、排外的なナショナリズムを感じますね。天皇が絡むと一段とその色が濃くなる。安倍さんや河野さんの立場としては、天皇の神聖を傷つける無礼は許せないと言うわけなのでしょうね。

右翼がそう言うのは度しがたいところですが、政権が右翼と同じことを言ってはならんと思います。

でも、今上陛下は、追悼と鎮魂の旅を続けこられた。戦争を反省する立場でも一貫しておられる。国民からの支持は当然ではありませんか。

ああ、現天皇の追悼と鎮魂は、皇軍の将兵に対する限りですね。けっして、侵略された側、敵とされた側の将兵に対する追悼と鎮魂はない。それから、現天皇が昭和天皇の戦争責任に言及したこともありません。

もちろん天皇(明仁)が、これまで朝鮮の元「慰安婦」にも、元徴用工にも、創氏改名を強制された多くの人々にも、謝罪したことはありません。

では、退位を目前にした天皇が、いま、元「慰安婦」や元徴用工に謝罪すべきだとお考えですか。

わたしは、それは明らかに天皇の政治利用だと思います。象徴天皇とは、存在するだけのもので、機能すべきものではない。役に立ってはいけないと思うのです。

ほう、ずいぶんお堅い。私は、日韓関係改善の役に立つのなら、内閣の責任できちんと謝罪させればよいと思いますがね。

韓国議長の発言は、大きな問題を投げかけています。私たちは、過去の朝鮮侵略の歴史をきちんと想起することで、これを受けとめなければならないと思います。重要なことは、今にして未解決な慰安婦問題や徴用工問題や天皇の責任問題を考えることであって、天皇の謝罪の是非ではないと思うのです。

おや、呼出がありました。お先に失礼。
(2019年2月16日)

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