澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「5・18光州民主化運動39周年記念式典」での文在寅大統領演説

5月18日、私は小雨ふる光州にいた。1980年5月の光州は夏の暑さだったと聞かされたが、あの事件以後、光州の5月18日には雨がふさわしい。国立5・18民主墓地での「5・18光州民主化運動39周年記念式典」に参加して、文在寅大統領のかなり長い演説を聴いた。有能な通訳のおかげでほぼ内容は把握でき、立派なものだと感心した。

通訳を通じての言葉として印象に残ったのは、「光州の5月はけっして悲劇の5月に終わらせない。これからは希望の5月にしよう」という呼びかけだった。

ハンギョレ新聞によると、「大統領の演説は、メッセージ自体よりも、演説途中に20秒間近く続いた“言葉の空白”が話題になった」とされている。その沈黙は、「人権弁護士であると同時に民主化運動家として、光州に対して持ち続けた負債意識の表れであり、国政責任者として光州が再び侮辱される状況を目にしなければならない惨憺たる思いの表現だ」という。

「負債意識」とは、こなれない日本語だが、「負い目」「疚しさ」「呵責」ということなのだろう。ともに闘うべくして闘わず、友人を見殺しにしてしまった、という後ろめたさ。文在寅は、自分の立場が、常に民主主義や自由のために闘った人々の側にあるということを明確にしている。そして、野蛮な暴力と虐殺とで民主主義や自由を蹂躙した公権力の非道を、今や全国民を代表して謝罪しているのだ。

ハンギョレ紙は、こう続けている。
「沈黙の末に再開された記念演説は『1980年、光州が血を流して死んで行く時に、光州と共に(行動)できず、その時代を共に生きた市民の一人として、本当に申し訳なく思っている。公権力が光州で行った野蛮な暴力と虐殺に、大統領として国民を代表し、もう一度深くお詫び申し上げる』という、より具体的な謝罪につながった。」

この演説の日本語訳をネットで探してようやく見つけた。青瓦台から配布されたテキストを、ソウル在住のジャーナリスト・徐台教氏が翻訳したもの。以下は、飽くまでも私流の、抜粋・要約である。

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「5.18民主化運動 39周年記念式典式辞」

尊敬する国民の皆さま、光州市民と全羅南道道民の皆さま。今年もまた五月がやってきました。悲しみが勇気として咲きほこる五月です。

決して忘れることができない五月の民主の英霊たちを悼むとともに、厳しい歳月を生き抜いてこられた負傷者と遺家族の皆様の御苦労に心からのお見舞いを申し上げます。

来年は5.18民主化運動40周年になります。そのため、大統領がその時に記念式に参加する方がよいという意見がありました。しかし、私は今年の記念式に必ず参加したかったのです。光州の市民たちに対する、あまりに申し訳なく恥ずかしいという私の思いを、皆さまに訴えたかったのです。

80年5月、光州が血を流し死んでいくその時を私は光州と共にすることができませんでした。そのことが、その時代を生きた市民の一人として、本当に申し訳ない気持でいっぱいなのです。…… あの時、公権力が光州で行った野蛮な暴力と虐殺に対し、大統領として国民を代表する立場で、もう一度深く謝罪いたします。

今も5.18民主化運動を否定し侮辱する妄言が、はばかりなく大きな声で叫ばれている現実を、国民の一人としてあまりにも恥ずかしく思います。個人的には、憲法前文に5.18精神を書き込むとした約束を今日までに果たすことができていないことをお詫びいたします。

国民の皆さま、1980年5月、私たちは光州を見ていました。民主主義を叫ぶ光州を見、徹底して孤立した光州を見、孤独に死んでいく光州を見ました。全南道庁を死守した市民軍の最後の悲鳴と共に光州の五月は私たちに深い負い目を残しました。五月の光州と共に行動できなかったこと、虐殺される光州を放置したという事実が同じ時代を生きた私たちに消せない痛みを残しました。そうして私たちは光州の痛みを共に経験しました。

その負い目と痛みが1980年代民主化運動の根となり、光州市民の叫びがついに1987年6月抗争につながりました。大韓民国の民主主義は光州にあまりにも大きな恩恵を受けました。大韓民国の国民として同じ時代、同じ痛みを経験した者であれば、そして民主化の熱望を共に抱いて生きてきた者ならば、誰一人としてその事実を否定することはできないでしょう。

光州が守ろうとした価値こそがまさに「自由」であり「民主主義」でした。独裁者の後裔でない限り、5.18を別の目で見ることはできません。「光州事態」と侮蔑的に呼ばれた5.18が、「光州民主化運動」として公式に呼称されるようになったのは1988年の盧泰愚政府の時でした。金泳三政府は1995年、特別法により5.18を「光州民主化運動」と規定し、ついに1997年に5.18を「国家記念日」に制定しました。大法院もやはり新軍部の12.12クーデターから5.18民主化運動に対する鎮圧過程を、軍事反乱と内乱罪と判決し、光州虐殺の主犯を司法的に断罪しました。

国民の皆さま、こうして私たちはすでに20年も前に光州5.18の歴史的意味と性格について国民的な合意を成し遂げ、法律的な整理まで終えました。もうこの問題についてこれ以上の議論は必要ではありません。私たちがすべきことは民主主義の発展に寄与した光州5.18を感謝しながら私たちの民主主義をより良い民主主義に発展させていくことです。
そうしてこそ私たちはより良い大韓民国に向けて互いに競争しながらも統合する社会に近づいていけるでしょう。

しかし、虐殺の責任者、秘密埋葬と性暴力の問題、ヘリからの射撃など明かすべき真実は依然として多くあり、この真実を明らかにすることが今、私たちに求められています。そのようにして、光州が担った重い歴史の荷を下ろし、悲劇の五月を希望の五月に変えていきましょう。

私たちは五月が守った民主主義の土台の上で共に歩んで行かなければなりません。光州に受けた恩義を大韓民国の発展で返さなければなりません。

わが政府は国防部独自の5.18特別調査委員会の活動を通じ戒厳軍によるヘリ射撃と性暴力、性的暴行、性拷問など女性の人権への侵害行為を確認し、国防部長官が公式に謝罪しました。政府は特別法による真相調査究明委員会が発足すればその役割を果たせるように全ての資料を提供し、積極的に支援することを約束します。

光州市民と全羅南道の皆さん、5.18民主化運動39周年の今日、光州は平穏な人生と平穏な幸福を夢見ています。

その年に生まれて39回の五月を過ごした光州の子どもたちは中年の大人になりました。結婚もしたでしょうし、親になってもいるでしょう。真実が常識になる世の中で光州の子どもたちが共に良く暮らすことを私は心から望みます。

民主主義を守った光州は今や経済民主主義と共生を導く都市になりました。労使政それぞれが譲歩し分け合うことで社会的な大妥協を成し遂げ「光州型雇用」という名前で社会統合型の雇用を作り出しました。すべての地方自治体が、第2、第3の「光州型雇用」を模索しています。

五月はこれ以上、怒りと悲しみの五月になってはいけません。私たちの五月は希望の始まり、統合の土台にならなければなりません。

光州が担った歴史の荷はあまりにも重いものでした。その年の五月、光州を見て経験した国民が共に担うべき荷です。

光州により蒔かれた民主主義の種を共に育て大きくしていく事は、全国民の幸せにつながるものとなるでしょう。私たちの五月が毎年かがやき、すべての国民に未来に進む力となることを望みます。

ありがとうございました。

(2019年5月22日)

「韓国の歴史と民主主義を学ぶ旅」最終日 帰国へ

本日はツアー最終日。午前中は釜山の街を見学する観光客となった。まずは港町を一望する竜頭山公園に。

公園の広場に、巨大な李舜臣将軍像が建てられている。将軍が見はるかす先に、影島(ユンド)という島がある。ここが、豊臣政権軍先鋒の朝鮮侵略上陸地なのだという。

小西行長の軍勢が朝鮮に奇襲を掛けたとき、侵略者側は長い戦国時代を経て戦争の技術を磨き抜いた血生臭い武装集団。対する被侵略側は、李朝200年の平和を満喫していた文化国家であった。

1592年5月24日(旧暦4月13日)、早朝6時小西行長麾下の宗義智は影島から釜山の城壁に攻め寄せた。迎え撃った、朝鮮側の将軍は鄭撥。味方の軍船を自ら沈め、兵民とともに城に籠った。

いくさ経験豊富な日本兵は朝鮮側の防衛を圧倒し、鄭撥は果敢に反撃したが被弾して戦死。翌25日午前8時頃には城が落ちたという。

この戦いに参加していた吉野甚五左衛門の従軍記『吉野日記』には、朝鮮側の軍民はほとんど全て撫で斬り、隠れていた兵士も探し出し、ひれ伏した兵士も踏み殺し、「女男も犬猫もみなきりすて、きりくびは3萬ほど」と書かれており、吉野自身が「今思えば武士とは『鬼おそろしや』」と回想しているという。これが、近世における日本と朝鮮の原風景とも言うべき場面。

悪夢は300年の後に繰り返される。1894年日清戦争開戦直前の日本軍による朝鮮宮廷占領、そして95年終戦後の皇后暗殺。その後の植民地化と創氏改名、さらに日本のアジア太平洋戦争への加担の強制…。

本日最後の訪問先は、日本領事館裏の「少女像」。そして、その近くに、新設された徴用工像。朝鮮民族の日本に対する「恨」の思いを受けとめねばならないとする一日。14時発の日航機で帰途に。

5日の旅を終えて、すこしだけでも見聞は拡がった。これまでの韓国への旅では、毎回韓国に好意を積み重ねてきた。今回もそうなった。

私は、かつて中国には何度も足を運んだ。しかし、その都度、中国への好感度は薄れていったと言わざるをえない。中国旅行は漢字の世界、漢字なら読めるし、私はほんの少しだが中国語も分からないではない。それに較べて、まったく読めないハングルの世界は、勝手が違って戸惑うばかり。それでも、韓国の町と人々が作り出している雰囲気は好もしい。

中国の物質的繁栄のテンポの凄まじさには驚嘆するが、最近は韓国の方により強い親しみを感じる。韓国の民主化運動の成果には脱帽して敬意を表するしかない。中国にはそれがないのだ。

今回の旅は、「日本との関係での韓国の歴史」と「現代韓国の民主主義を学ぶ」ものだった。これは、日本の民主主義運動に携わる者にとっての、必須のテーマであるように思う。恐ろしく、多くのことを見聞したように思う。これから、整理をしなければならない。

(2019年5月20日)

「韓国の歴史と民主主義を学ぶ旅」4日目 - 順天で自然と文化を満喫

本日(5月19日)は、気持が楽だ。陸路、南部の海辺に広がる広大な干潟で有名な順天へ。「順天湾自然生態公園」で干潟の自然を満喫し、その後「楽安邑城民族村」と古寺を見学の予定。その後、再び長駆釜山へ戻って、釜山市内に。2度目になるが、江戸期の日本との交流を伝える 「朝鮮通信使博物館」を見学する。

ところで、順天楽安邑城(スンチョンナガヌプソン)」とは、李王朝時代の城と村落、市場などが原形そのままに保存された史跡だという。
 朝鮮太祖6年(1397年)に倭寇の侵入を受けるや、この地出身の襄惠公金贇吉(キム・ビンギル)将軍が土城を築き、その300年後の仁祖4年(1626年)に忠愍公 林慶業(イム・ギョンオプ)将軍が楽安郡守として赴任し、現在の石城を築いた。他の地域の城郭と異なり、広い平野地帯に1~2メートルの大きさの正方形の石を利用して高さ4メートル、幅3~4メートル、全長1,410メートル、東内、南内、西内など135,537平方メートルに及ぶ3つの村を囲み、400年以上経つ現在も途切れるところなく原形そのままに残されている。今も85世帯がこの中で生活しており、民俗学術資料としてはもちろん、歴史教育の場としても価値が認められている。

ここでも「倭寇」だ。朝鮮と倭とは、切っても切れない宿命の歴史をもっている。

なお、今回の旅も、吉田博徳さんからのお誘いを受けてのもの。2名一室での同宿相手が吉田さん。吉田さんは、先年まで日朝協会都連会長の任にあった人。韓国訪問は、50数回にも及ぶという。韓国語も達者だ。こんな便利な同宿者はほかにない。

吉田さんは、1921年6月23日生まれで、現在97才。もうすぐ98才になる。が、年齢を感じさせないその矍鑠ぶりは人間離れしている。身体も達者だし、好奇心が旺盛。4泊5日の同宿で、長寿と健康の秘密を教えていただきたいところだが、「そんなものは何もない」とおっしゃる。いや、何もないはずはない。この機会に探り当てたいものと思う。
(2019年5月19日)

「韓国の歴史と民主主義を学ぶ旅」3日目 - 光州事件の日に光州に

本日(5月18日)がこの旅のメインの日。「韓国の歴史」ではなく、「現代韓国の民主主義を学ぶ」日。午前中に、事件の舞台となった光州事件ゆかりの地を見学して、政府主催の「光州民主化運動記念集会」に参加。午後には、「光州事件と韓国民主主義への影響」という、現地の講師(金龍哲氏)の3時間を予定したレクチャーを受ける。

1980年5月18日からのこの事件は、当初「光州暴動」と一方的に呼ばれた。その後立場によって、「光州事態」「光州事件」「光州抗爭」「光州民衆抗爭」「光州義擧」などと呼称されたが、1988年以降、「光州民主化運動」として定着したという。

光州事件とは何であるか。韓国の民主化にどのようにつながっているのか。文在寅大統領のドイツ紙(フランクフルター・アルゲマイネ)への寄稿の抜粋から推し量っていただきたい。ぜひ格調の高いこの全文をお読みいただきたい。日本の隣国には、これだけの見識をもつリーダーがいるのだ。

https://jp.yna.co.kr/view/AJP20190505000700882

1 光州

 韓国南西部の光州は韓国の現代史を象徴する都市です。韓国人は光州に心の負い目があり、今でも多くの韓国人が光州のことを考え、絶えず自らが正義に反していないかどうかを問い返しています。

 1980年春、韓国は大学生たちの民主化運動で熱気に包まれました。朴正熙(パク・チョンヒ)政権の独裁体制、維新体制は幕を下ろしましたが、新軍部勢力が政権を掌握しつつありました。新軍部はクーデターを起こし、非常戒厳令を発動して政治家の逮捕、政治活動の禁止、大学の休校、集会・デモの禁止、報道の事前検閲、布告令違反者の令状なしでの逮捕など、過酷な独裁を始めました。

 ソウル駅に集まった大学生たちは新軍部の武力による鎮圧を懸念し、撤収を決定しました。このとき、光州の民主化要求はさらに燃え上がりました。空輸部隊を投入した新軍部は市民たちを相手に虐殺を行い、国家の暴力で数多くの市民が死亡しました。5月18日に落ち始めた光州の花びらは5月27日、空輸部隊の全羅南道庁鎮圧で最後の花びらまでも散ることになりました。

 光州の悲劇は凄絶(せいぜつ)な死とともに幕を下ろしました。しかし、韓国人に二つの自覚と一つの義務を残したのです。一つ目の自覚は、国家の暴力に立ち向かったのが最も平凡な人々だったということです。暴力の怖さに打ち勝ち、勇気を出したのは労働者や農民、運転士や従業員、高校生たちでした。死亡者の大半も、そうした人々でした。

 二つ目の自覚は、国家の暴力の前でも市民たちは強い自制力で秩序を維持したということです。抗争が続いていた間、ただの一度も略奪や盗みがなかったということは、その後の韓国の民主化過程における自負心、行動指針となりました。道徳的な行動こそ、不正な権力に対抗して平凡な人々が見せることのできる最も偉大な行動だということを、韓国人は知っています。道徳的な勝利は時間がかかるように思えますが、真実で世の中を変える一番早い方法なのです。

 残された義務は、光州の真実を伝えることでした。光州に加えられた国家の暴力を暴露し、隠された真実を明らかにすることがすなわち、韓国の民主化運動でした。私も南部の釜山で弁護士として働きながら、光州のことを積極的に伝えようとしました。多くの若者が命を捧げて絶えず光州をよみがえらせた末に、韓国の民主主義は訪れ、光州は民主化の聖地となったのです。

 孤独だった光州を一番先に世の中に伝えた人が、ドイツ第1公共放送の日本駐在の特派員だったユルゲン・ヒンツペーター記者だったという事実は非常に意義深いことです。韓国人はヒンツペーター氏に感謝しています。故人の意向により、同氏の遺品は2016年5月、光州の五・一八墓域に安置されました。

 2 ろうそく革命、再び光州

 私が1980年の光州について振り返ったのは、今の光州について話したかったためです。

 2016年、厳しい冬の寒波の中で行われた韓国のろうそく革命は、「国らしい国」とは果たして何であるかを問いながら始まりました。韓国では1997年のアジア通貨危機と2008年のリーマン・ショックを経て、経済不平等と二極化が進みました。金融と資本の力はより強くなり、非正規雇用労働者の量産で労働環境は悪化しました。そんな中、特権階層の不正・腐敗は国民に一層大きな喪失感を与えました。ついには韓国の南方沖、珍島の孟骨水道を航海していた旅客船のセウォル号でかけがえのない子どもたちが救助も受けられずに亡くなり、韓国の国民は悲しみを胸に抱いたまま、自ら新たな道を探し始めました。

 ろうそく革命は親と子が一緒に、母親とベビーカーの幼児が一緒に、生徒と先生が一緒に、労働者と企業家が一緒に広場の冷たい地面を温めながら、数カ月にわたり全国で続きました。ただの一度も暴力を振るうことなく、韓国の国民は2017年3月、憲法的価値に背いた権力を権力の座から引きずり下ろしました。最も平凡な人々が、一番平和的な方法で民主主義を守ったのです。1980年の光州が、2017年のろうそく革命で復活したのです。私は、韓国のろうそく革命について歌と公演を織り交ぜた「光の祭り」と表現し、高いレベルの民主主義意識を示したと絶賛したドイツの報道をありがたい気持ちで記憶しています。

 今の韓国政府はろうそく革命の願いによって誕生した政府です。私は「正義のある国、公正な国」を願う国民の気持ちを片時も忘れていません。平凡な人々が公正に、良い職場で働き、正義のある国の責任と保護の下で自分の夢を広げられる国が、ろうそく革命の望む国だと信じています。

 平凡な人々の日常が幸せであるとき、国の持続可能な発展も可能になります。包容国家とは、互いが互いの力になりながら国民一人一人と国全体が一緒に成長し、その成果を等しく享受する国です。

 韓国は今、「革新的包容国家」を目指し、誰もが金銭面を心配することなく好きなだけ勉強し、失敗を恐れず夢を追い、老後は安らかな生活を送れる国を築いていっています。こうした土台の上で

行われる挑戦と革新が民主主義を守り、韓国経済を革新成長に導くものと信じています。(以下略)

民主主義とは、安閑として与えられるものではない。闘い取るべきものなのだ。韓国の民主化運動は、そう教えているようだ。

(2019年5月18日)

「韓国の歴史と民主主義を学ぶ旅」2日目 ー 東学農民戦争の跡地を訪ねる

本日は、全羅南道の羅州市を訪れ、東学農民戦争の跡地を訪ね、光州で宿泊する。
東学農民戦争とは、高校時代の歴史の授業では、「東学党の乱」として教えられた。「東学党」とは「西学に対抗する民衆の新興宗教組織」で、「乱」とは腐敗した李氏朝鮮に対する叛乱。大規模な、この民衆叛乱乱の鎮圧の過程で日清戦争が起き、これに勝利した日本が朝鮮を植民地化する。こんなところが、私だけではなく、日本人の多くの認識水準ではないか。

この農民の蜂起は、いま、韓国では「甲午農民戦争」とも、「東学農民革命」とも呼ばれているという。「戦争」という規模であり、「革命」という理念をもった行動であったという評価なのだ。そして、この蜂起は近代化した日本軍の残虐な大虐殺によって鎮圧される。このときの韓国民衆の怨念が、今なお、対日感情の底流をなしている。この点については、中塚明さん(奈良女子大名誉教授)のいくつもの著書で、多少なりとも蒙を啓くことになった。

以下は、ウィキペディアからの抜粋である。
 儒学の修得が長い年月と相当の財力を必要とするのに比べて、東学において、その真理に達するための修養方法は、日常的に「侍天主 造化定 永世不忘 万事知」の13文字を唱えることであった。東学教徒たちは天主(ハヌニム、「天の神」、朝鮮における古代からのシャーマニズムに由来する概念)を仰ぎ、天主はすべての人間の内に住むと述べて、人間の尊厳と平等とを説いた。また、山中に祭壇を設けて天(ハヌル)を祭り、戦いに備えるため木剣を持って剣舞をならった。しかし、東学の教理は、革命ではなく、教化であり、東学党の上層部は常に農民(賤民層)の暴力的闘争を拒否した。

東学には、不殺生の教えが徹底していたという。戦場でなお、彼らは殺生を避けようとした。これに対する日本軍の殺戮は、仮借のないものだったという。本日は、その故地を訪ねることになる。

なお、2019年の「3・1独立運動」に、東学を再興し名称を変更した「天道教」が深く関わっていることはよく知られている。現在なお、南北の朝鮮に多数の信者を有して、一勢力をなしているという。

昨日は、近世日本の朝鮮侵略。本日は、近代日本の朝鮮民衆に対する大虐殺の歴史の探報ということだ。これは、気が重い。
(2019年5月17日)

「韓国の歴史と民主主義を学ぶ旅」に出発

私は、本日(5月16日・木)から5月20日(月)まで、5日間の日程で韓国を旅している。だから、このブログの原稿は予定記事の予約アップということになる。ご了解いただきたい。

私の韓国旅行は4回目。いずれも明確なテーマをもったものだ。
最初が、日民協の企画で韓国の憲法裁判所訪問だった。韓国の司法制度見学というよりは、日本軍「慰安婦」問題での憲法裁判所の判決に関心をもってのこと。これが、衝撃的だった。「日本は韓国に後れを取っている」という印象を強くもった。2度目はチェジュ島の「4・3事件」関連、3度目はソウルを中心に「3・1独立運動」。そして、今回は「5・18光州事件」である。併せて、東学農民戦争の故地を訪ねてこれについても学ぶ旅でもある。

この旅は、ユーラスツアーズが企画した。「東学農民戦争の跡地・光州事件ゆかりの地をめぐる ― 韓国の歴史と民主主義を学ぶ旅」と銘打っての企画。その「魅力とポイント」がこう語られている。

1 光州事件5/18に現地を訪問。映画「タクシー運転手」や光州事件ゆかりの地に
2 現地の専門家、金龍哲先生による「光州事件と韓国の民主主義への影響」についてレクチャー
3 李舜臣将軍の奮闘を偲び、「亀甲船」を見学
4 大規模な反乱のあった羅州で東学農民戦争のゆかりの地をめぐる
5 順天で有名な干潟「順天湾自然生態公園」の見学や釜山で朝鮮通信使の博物館の見学も

訪問先に、ソウル周辺はない。麗水・木浦・羅州・光州・順天・釜山などを訪問する。泊地は木浦・光州(2泊)・釜山である。飽くまで、「5月18日・光州」がメインテーマ。

さて、本日は、釜山空港からバスで長駆麗水まで移動して、その後木浦泊となる。
麗水には、「李舜臣広場」があって、李舜臣が豊臣侵略軍と闘った亀甲船の実物大復元船が展示されているという。これが本日の目玉だ。

第五福竜丸の船体を眼前にしながら、その被爆の実情に思いをめぐらせるごとく、復元船ではあっても、彼の地で亀甲船を目の前にしての説明には、趣き深いものがあるだろう。

日本は何度も朝鮮を侵略した歴史をもつ。「神功皇后の三韓征伐説話」「白村江の戦い」「豊臣政権の侵略」「江華島事件を契機とする近代天皇制政府の植民地政策」。侵略者の走狗となった人物はこれ以上はない侮蔑の対象となり、侵略者と果敢に闘った人物は、民族の英雄となる。

秀吉の侵略軍に対して、水軍を率いて戦い勝利した李舜臣は、憎むべき野蛮な敵国の毒牙から危機に瀕した国を救った「救国の英雄」である。韓国のあちこちで、その像を見ることができる。これに比すべき人物を、日本の歴史で探そうとしてもない。同様のシチュエーションが日本には乏しいからだ。侵略する側のヒーロー像はイメージしにくい。

本日は、侵略される側からの民族の記憶を、その悲劇や説話や知恵や勇気や団結のエピソードの数々に耳を傾けることにしよう。
(2019年5月16日)

金時鐘「朝鮮と日本に生きる―済州島から猪飼野へ (岩波新書)」を読む

巻を措く能わずという形容のとおり、読み始めたらやめることができず、一気に読み通した。もう4年前に出た本。その前には、岩波の『図書』に連載されていたものというから、もっと早くに読めたのにようやく今ごろ…。もっと早く、読んでおくべきだった。

一人の誠実な活動家の生き方の記録としてだけでも読むに値するが、歴史の証言としての内容は、幾重にも衝撃的である。とりわけ、「4・3事件」を生き延びた当事者としての生々しい描写に息を呑む。若い彼は、犠牲者総数3万人を超えるとも言われている事件の全体像を語る立場にはないが、弾圧された側の運動を支えた精神を最も鮮明に語りうる活動家の一人ではあった。

結局蜂起は失敗に終わり、無惨な報復的虐殺の嵐が荒れ狂うことになる。なぜ、チェジュ島でこれほどの暴虐が恣にされたのか。十分には理解しえないもどかしさは残るが、どうしても若い彼の行動と気持に感情移入して、はらはら、ドキドキせざるを得ない。敗北の苦い経験だが、傍観者の事後的評価は慎むべきだろう。「4・3蜂起」といわれる彼らの決起行動を「未熟な冒険主義」などと、傲慢に非難する気持にはなれない。

「賽は投げられる寸前でした。座して死を待つか。立って戦うか。祖国分断への単独選挙が目前に迫るなかで、ぎりぎりの選択が党員(「南労党」)全員にかかってきました。」という、回想が胸に迫る。

彼は、「4・3事件」に決起していったん逮捕され釈放の後、再度の任務を遂行して今度こそ進退窮まる。このときに、普段は飄々としている父親が奔走して、日本への密航船を手配する。父親は別れの時に、こう言ったという。
「これは最後の、最後の頼みでもある。たとえ死んでも、ワシの目の届くところだけでは死んでくれるな。お母さんも同じ思いだ」

こうして、彼は、母がつくった炒り豆の弁当と、日本の50銭紙幣の束と、イザというときのための青酸カリをしのばせて、粗末な密航船に乗り込んだ。上陸は瀬戸内の舞子の浜あたりだったという。こうして、その後の人生を在日として生きることになった。

彼は、日本統治下の済州島で、皇民化政策の申し子として育つ。心底からの、天皇崇拝の皇国少年だったと回想している。1945年の「解放」時は、数えで17才。努力して朝鮮人としての自覚を獲得する。ハングルも解放後に学んだという。

彼は、日本へ脱出の後も、アメリカとその傀儡である李承晩政権が圧政を敷く南朝鮮に深く失望し、北に強い憧憬の念を抱く。しかし、次第に北朝鮮の実情を知るに至ってこちらにも失望する。そして、終章の最後をこう締めくくっている。

「新たな戸籍と大韓民国国籍を晴れて取得しました。30年にわたって民衆が闘い続けた民主化要求が実って、民主主義政治が実現した大韓民国の国民のひとりにこの私がなれたことを、心から手を合わせて感謝しています」

2003年のこのとき著者は74才になっている。なお、これに「あとがき」が続き、次のような胸に刺さる一節がある。

「この連載を機に、…今更ながら、植民地統治の業の深さに歯がみしました。反共の大義を殺戮の暴圧で実証した中心勢力はすべて、植民地統治下で名をなし、その下で成長を遂げた親日派の人たちであり、その勢力を全的に支えたアメリカの、赫々たる民主主義でした」

金時鐘氏、1929年の生まれ。在日の詩人。今年90才になる。まぎれもなく、貴重な歴史の生き証人である。
(2019年5月13日)

「ウリハッキョ - 私たちの学校、私たちのふるさと」(CD)のお薦め。

5月3日、有明での憲法集会の中央ステージで、東京朝鮮中高級学校合唱部の皆さんが、胸に響く訴えをされ、美しい歌声を聞かせてくれた。

集会後、その生徒たちがコーラスのCDを販売していた。そのうちのお一人にサインをしてもらって、1枚買った。東京朝鮮中高級学校合唱部『ウリハッキョ - 私たちの学校、私たちのふるさと』」というタイトル。2018年12月の収録で、1800円。これが素晴らしい。1枚といわず、もっと買っておけばよかった。

「私たちは朝鮮高校にも無償化が適用されるよう、運動を行っています。このCDの売上の一部がその運動資金に充てられます。」という訴えに応えるというだけでなく、「どこまでも澄んだ泉のような美しい歌声、心洗われるハーモニー」という惹句が、そのとおりなのだ。人にも薦めたくなる。

これまでは起床して朝食までの毎朝のBGMは、古きよき時代のアメリカンポップスだった。いま、「ウリハッキョ」がこれに代わった。「米」から「朝」にである。しばらくは、毎朝これを聞き続けることになる。

収録されているのは、下記の10曲。
このうち、「4. 声よ集まれ、歌となれ」「5. アリラン~赤とんぼ」「8. 花」の3曲が、日本語の歌詞で唱われ、その他は朝鮮語で意味は分からない。訳詞を読みながら聞いている。

1. 故郷の春
2. 私の故郷
3. 子どもたちよ、これがウリハッキョだ
4. 声よ集まれ、歌となれ
5. アリラン~赤とんぼ
6. 月夜の星芒
7. アリラン
8. 花
9. あじさい
10. 私たちのふるさと - ウリハッキョ

題名からも分かるとおり、「故郷」の歌が多い。唱われているのは、しみじみと懐かしい故郷。遠い異国で懐かしむ故郷は、美しい自然の調和に恵まれ、豊かさをもたらす労働の喜びと自由に溢れた平和な里である。隣国からの侵略もなく、南北の分断も克服された、理想郷として追い求める彼らの故郷。それは同時に、人類共通の願いでもある。

なお、東京朝鮮中高級学校のホームページの閲覧をお勧めしたい。そこでの彼らの祖国の旗は、南北統一旗となっている。いうまでもなく、その南北分断には日本が大きな責任があるのだ。

http://www.t-korean.ed.jp/

このアルバムのほとんどが、しみじみとした、あるいはやるせない曲調である中で、日本語で唱われる「4. 声よ集まれ、歌となれ」だけが異色。労働歌の趣き。運動の歌、闘いの歌なのだ。「いますぐその足をどけてくれ。4・24(サ・イサ)の怒りがよみがえる。踏まれてもくりかえし立ち上がる」という歌詞の生々しさに、ギョッとさせられる。もしかして、私も足を履んでいる側にいるのではないだろうか。

声よ集まれ、歌となれ

どれだけ叫べばいいのだろう
奪われ続けた声がある
聞こえるかい? 聞いているかい?
怒りが今また声となる
声よ集まれ 歌となれ
声を合わせよう ともに歌おう

聞こえないふりに傷ついて
 かすれる叫びはあてどなく
 それでも誰かと歌いたいんだ
一人の声では届かない(だから)

ふるえる声でも 歌となる
声を合わせよう ともに歌おう

ただ当たり前に生きたいんだ
ただ当たり前を歌いたいんだ

いますぐその足をどけてくれ
4・24(サ・イサ)の怒りがよみがえる
踏まれてもくりかえし立ち上がる
君といっしょならたたかえる

声よ歌となれ 響きわたれ
声を合わせよう ともに歌おう

この歌詞の中に出て来る「4・24(サ・イサ)の怒り」とは、次のできごとを指す。

「連合軍総司令部(GHQ)の指示により、文部省(当時)は1948年1月24日、各都道府県宛に『朝鮮人設立学校の取り扱いに関する文部省学校教育局長通ちょう』(第1次閉鎖令)を通達。従わない場合は学校を閉鎖するよう指示した。
同胞らは各地で抗議活動を広げ、48年4月24日、兵庫では県知事に閉鎖令を撤回させた。
しかしその夜、GHQが『非常事態宣言』を発令し、いわゆる『朝鮮人狩り』が始まった。大阪の同胞たちは26日、府庁前で3~4万人規模の集会を行い、朝鮮人弾圧と閉鎖令の撤回を訴えた。大阪市警は放水・暴行で取り締まり、射撃まで行った。大勢の同胞らが不正に検挙されただけでなく警察が発砲した銃弾によって、当時16歳の金太一少年が犠牲となった。
民族教育を守るための同胞たちの闘いは、閉鎖令の撤回を勝ち取った4月24日の兵庫での闘いに象徴的な意味を込め『4・24教育闘争』と呼ばれるようになった」(「朝鮮新報」〈在日本朝鮮人総聯合会機関紙〉記事)

以上は、ブログ「アリの一言」(鬼原悟さん)からの引用だが、同ブログは「GHQ(実質はアメリカ)と日本による暴力的な民族(教育)弾圧に対する朝鮮人の闘いの象徴が『4・24教育闘争』です。それは日本人にとって、戦後の朝鮮人差別・弾圧の象徴的な加害の歴史なのです。しかも、決して70年前の「過去のこと」ではありません。文字通り今日的な問題です。」と続けている。まったくそのとおりなのだ。

「4・24(サ・イサ)の怒りがよみがえる」という、声よ集まれ、歌となれ」は、2013年に朝鮮大学校生によってつくられ、朝鮮高校への「無償化」適用を訴える文科省前「金曜行動」のテーマソングとなっているという。文字通り、闘いの歌として生まれ、闘いの中で唱い継がれている。私も、毎朝これを聞いて、思いを重ねることにしよう。

東京朝鮮中高級学校合唱部「ウリハッキョ – 私たちの学校、私たちのふるさと」購入希望の方は、下記にお申し込みを。

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(2019年5月7日)

「法と民主主義」4月号特集『日韓関係をめぐる諸問題を検証する』ご案内

日本民主法律家協会の機関誌・「法と民主主義」4月号【通算537号】は、来週中に発刊となる。特集の総合タイトルが、「日韓関係をめぐる諸問題を検証する」というもの。発刊に先だって、そのリードをご紹介する。

 時あたかも「3・1独立運動」から100周年といういま、日韓関係が過去最悪の事態と言われる。保守層の一部では、あろうことか、「日韓断交」の言葉さえ飛びかっているという。
 2018年10月30日、韓国大法院は新日鉄住金の上告を棄却して、元徴用工の賠償請求を認容した原判決を確定させた。この大法院判決は、韓国における三権分立が正常に作用していることを示すものである。しかし、それ以来の急激な日韓関係の軋みである。
 同年11月21日には、日韓「慰安婦」合意(2015年12月28日)によって設立された「和解・癒し財団」の解散が発表されて、同合意は事実上崩壊した。同月29日には、三菱重工に対しても、新日鉄住金と同内容の徴用工事件判決の言い渡しがあった。さらに、同年12月20日には、韓国海軍の広開土国王艦から自衛隊機に対する「レーダー照射」問題が生じ、これが外交問題となって日韓関係の悪化に拍車がかかった。
 その上、今年の2月7日には、韓国議会(一審制)の文喜相議長が、天皇に対する元慰安婦への謝罪要求発言があったとして物議を醸すに至っている。
 保守の朴槿恵大統領時代には、比較的「円満・良好」だった安倍政権との関係が、市民の「キャンドル革命」によって樹立された文在寅政権とは基本的に反りが合わないというべきか、軋轢が噴出している。
 その軋轢が、日本国民のナショナリズムの古層を刺激し、韓国に対する排外・差別感情を醸成している点で、看過しがたい。冷静に、問題を歴史の根本から見つめなければならない。
 問題の根源は、旧天皇制日本による朝鮮植民地化の歴史にある。そして、韓国の軍事独裁政権と日本の保守政権とで合意された、日韓の戦後処理の杜撰さにも大きな問題がある。また、現在進行しつつある、南北関係や米朝関係の大きな変化の反映という側面も見なければならない。
 現在の日本国内の事態は、政府に煽られた形で、メディアや世論が韓国批判の論調一色に染められていると言って過言でない。対韓世論悪化の元凶は、明らかに日本政府である。
 本特集は、法律家の任務として、かつて日本の植民地支配時代に侵害され蹂躙された朝鮮・韓国の人権回復の法理を再確認するとともに、これまでの日中・日韓の各戦後補償訴訟の到達点を踏まえて、政権のデマゴギーを許さない運動に役立てようとするものである。
 本特集の構成は以下のとおりである。

◆巻頭論文として、和田春樹氏の「日・韓・朝 関係の戦後史」(仮題)を掲載する。植民地支配を脱した韓国朝鮮が、東西対立の最前線として、朝鮮戦争を余儀なくされたところからの現代史を通覧して、軋んだ現状の原因となった日韓、日朝の戦後補償問題の経過と、米国を含む現状の国際関係までを把握するためである。
◆次に、植民支配の残滓を清算すべきでありながら不十分に終わった、「日韓の戦後処理の全体像と問題点」を、この点に精通している山本晴太弁護士の寄稿が明らかにする。
◆日韓の請求権問題は、中国の戦後補償訴訟との共通点をもつ。その訴訟実務を担当した森田大三弁護士が、「中国人強制連行・強制労働事件の解決事例」を踏まえて、韓国徴用工問題解決への展望を語っている。
◆また、「韓国徴用工裁判の経緯、判決の概要と今後の取り組みについて」は、専門実務家の立場から、川上詩朗弁護士が全体像を明確にしている。
梓澤和幸弁護士の「徴用工判決と金景錫事件」は、訴訟において和解による被害救済を実現した、貴重な実例の報告である。                 
大森典子弁護士「日韓合意の破綻──『慰安婦』問題と日韓関係」は、日本の朝鮮植民地支配時代の人権侵害を象徴する「慰安婦」問題における、2015年合意の脆弱な弱点を指摘するものである。
◆最後に、韓国側の事情を中心に、「文政権と南北宥和 ― その対日政策への影響」について、東京都市大学・李洪千准教授に解説をお願いした。

 以上のとおり、求めるところは人権尊重の原理が国境を越えた普遍性を有していることの再確認であり、日韓市民間の友誼と連帯を通じての北東アジアの平和の構築である。本特集が、その理解と運動に寄与することを強く願う。
                  (担当編集委員 弁護士 澤藤統一郎)

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「法と民主主義」は、毎月編集委員会を開き、全て会員の手で作っています。憲法、原発、司法、天皇制など、情勢に即応したテーマで、法理論と法律家運動の実践を結合した内容を発信し、法律家だけでなく、広くジャーナリストや市民の方々からもご好評をいただいています。定期購読も、1冊からのご購入も可能です(1冊1000円)。

お申し込みは、下記のURLから。

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(2019年4月21日)

ソウル特別市、熱い市政報告に驚いた。

韓国の旅の報告をしなければならない。もちろん、わずか5日間の旅では群盲象を撫でたに過ぎない。それでも、私が撫でた部分では、韓国の市民運動の強さ、民主主義の根深さに手応えがあった。学ぶべきところ多大との印象だった。中でも、革新ソウル市のあり方に驚いた。もちろん、東京都と比較してのことである。

2月19日(火)、韓国ピースツアー2日目の早朝は寒かった。しかも、相当に激しい雪だった。宿泊先のコリアナホテル22階から間近に見えるはずのソウル市庁舎が、雪に煙ってまったく見えない。寒さに震えて訪ねたソウル市庁舎で、温かい歓迎を受けた。

ソウル特別市の人口は約1000万人。24行政区を抱えて、東京都に相当する。革新市政だと聞いてはいたが、これほど緻密に理念を尊重しながら行政を行っていることは知らなかった。

市長は、朴元淳(パク・ウォンスン)。文在寅と同期の弁護士である。市長選では、野党統一候補として与党候補を破っての当選で、現在3期目。文在寅大統領の後継者だと、あちこちで聞かされた。

至るところにあったソウル市のロゴマークが、「I・SEOUL・U」。よく見ると、文字列の中央にある「O」の字の上に、小さいヒゲがついている。これが、何か意味あるものなのか、単なる視覚的デザインなのかは分からない。2015年以来のものだとのこと。「SEOUL」を動詞として読むのであれば、使う人のイメージ次第でどうとでも解することができる。市政が優しく暖かいイメージを持ってもらおうとしての、このロゴの採用なのだろう。市庁舎全体が暖かく、「どなたもおいでなさい」「どんなご意見にも耳を傾けます」という雰囲気だった。

ツアーの主催者からは事前に格別の要望はしていなかったようだが、市側は、我がツアー参加者35名のはいる部屋を用意してくれた。3名の職員が、行き届いた資料を準備して、2時間余りの時間を割いて、市政の一端をレクチャーしてくれた。市が用意したテーマは二つ。「ソウル特別市における非正規職の正規職化」と、「訪問する住民センター -公共と住民がともに作る革新-」というもの。それぞれ、担当者が日本語パワポを駆使しての説明。これがおざなりなものではない。そして、みごとな日本語通訳。正直のところ驚いた。その生真面目さと、その熱意に、である。

最初のレクチャーは、「労働民生政策官室」の担当者によるものだった。ソウルは、自らを『労働尊重特別市』と宣言して、まず自らが勤労者の利益を守る実例を示すことで、市内の企業を「模範的な使用者に導く」方針を持っているという。このことを「公共部門が模範例となり、民間部門に拡散させる」とスローガン化している。

こうして、「自治体として初めて、市政全般において労働問題を政策化した」と胸を張る。その成果として、最も顕著なものが、「非正規職の正規職化」であるという。

正規職化の取り組みは、2012年から始まった。その理念は、「社会的・経済的二極化の是正、持続可能な発展に向け、非正規職問題に市が他に先駆けて取り組む」というものだった。

市は、緻密なプロセスを策定し、業務委託の「間接雇用労働者」を、直接雇用の「期間制・準公務員」に切り替え、さらに正規職の公務員労働者に切り替えたという。2019年2月までの正規職化が実現した人数は、10,209人に上るという。

この間、平均賃金は年間180万円上昇し、休日、有給休暇、福利厚生も拡大した。今、取り組みの中心は、「所属感や自尊感情の低下など、不合理な処遇における差別」の払拭だという。

何より感心させられたのは、労働条件と福利の向上だけを問題にするのではなく、「労働尊重文化の政策化」だという。この取り組みの成果は、中央政府新政権の非正規職解決のモデルにもなり、光州市など他の自治体にも波及しているという。

資本の要請をどこまでも追認して非正規化容認の日本の労働行政とは、まさしく正反対の方向。自治体が先頭を切って正規職化し、これを民間に拡げていこうという政策に、度肝を抜かれた思い。

報告が終わるや、矢継ぎ早に質問の手が上がった。予算はどれだけ増えたのか。その財源は。労働組合はどんな役割を果たしたのか。議会の意見はどうだったか。何よりも、ソウル市の住民は納得しているのか。予算を切り詰めよ、そのために、職員の給与を抑えよ、という声をどう説得したのか…。とても、時間か足りない。

「訪問する洞住民センター -公共と住民がともに作る革新-」は、市の「訪問する洞住民センター」推進支援団長のレクチャーだった。「洞」とは、最小単位の行政機関として、洞ごとにある「住民センター」が、住民と密着しながら福祉行政を進めている。「訪問する洞住民センター」とは、待ちの姿勢ではなく、自ら福祉を必要とする現場に出向く姿勢を強調したネーミング。

しかも、住民福祉を公務員だけが担うというのではなく、「公共」と「市民」との緊密な連携のもとに、民間の力を引き出して、住民自治を基本に総合的な政策を行うという。

ここでも驚くべきは、貧困・疾病・社会的孤立などを解決するために、福祉の人手が不足として、2015年から2018年までに、福祉関係職員を2,802人増員したという。

こうして、福祉国家的理念からは「人間としての尊厳を維持するに足りる生活を権利として享受できる制度的な保障」を、市民社会的観点からは「自分の暮らしと社会環境に対する自己決定権の獲得と実行」を、目指すものだという。

この報告の最後に、パク市長の記者会見の言葉が引用されている。「『訪問する洞住民センター』の人々は、行政の効率より人間を最優先する『人権公務員』になります」というのだ。

熱く語る担当者に気圧された感があった。「どうして、そんなに熱心になれるの?」という質問に、こんな答が印象的だった。
「自分の場合は、セウォル号事件の影響が大きい。あのときの国民の問いかけが、『これが国家なの?』というものでした。この問いかけは、地方公務員である私にも向けられたものだと思いました。セウォル号事件を批判する大きな国民の声と行動に私も真剣に応えなければならない。その思いが、自分を変えたはずです」

私たちには野田市の児童虐待死事件が生々しい記憶としてあった。児童相談所の消極的な姿勢を歯がゆく思う気持ちが強く、「積極的に福祉に必要なところに訪問する人権公務員」には、大きな拍手を惜しまなかった。

この日ソウルは寒い雪の空だったが、市庁舎の中での報告には熱気がこもっていたた。今、韓国はどこも熱い。そう思わせるソウル市庁舎訪問。それにしても、嗚呼、彼我の差かくも大なる小池百合子都政を何とかしなくては。
(2019年3月6日)

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