澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

再びの沖縄法廷闘争ー辺野古新基地建設工事差し止め訴訟への期待

本日(5月31日)の各紙朝刊が、沖縄県の国に対する提訴の方針が固まった旨を報じている。国は強引に名護市辺野古の新基地建設工事を強行している。これを差し止める訴訟。翁長知事は6月県議会に必要な議案を提案して予算措置を確保し、7月にも提訴の予定とのこと。県議会の議席配分は翁長知事を支える与党が多数を占めており、訴訟に必要な議案は可決される見通し。提訴した場合には併せて、判決が出るまでの工事の中断を求める仮処分も申し立てることになる。

本日の琉球新報社説は、ボルテージが高い。「『辺野古』で国提訴へ 堂々と県の立場主張せよ」というタイトル。主要部分を引用しておきたい。

「法的な疑義を残したまま、沖縄の民意に反する工事を強行する国の不当性を追及する場となる。堂々と県の立場を主張してほしい。
名護市辺野古での新基地建設工事で岩礁破砕許可を得ないまま作業を進める国に対し、県は7月にも工事差し止め訴訟を起こす。県議会6月定例会に、訴訟費用に関する議案を提出する。

翁長雄志知事は『あらゆる手段を使い、辺野古新基地建設を阻止する』と言明してきた。その一手としての国提訴であり、支持したい。

仲井真前知事が国に出した岩礁破砕許可の期限は3月末で切れている。それにもかかわらず、国は工事を強行した。沖縄側からすれば、岩礁破砕許可の免許を更新しないまま無許可で工事を強行し、辺野古の貴重な海を破壊していることになる。

辺野古新基地問題に絡んで、国は事あるごとに『法治国家』という言葉を用いて新基地建設を正当化してきた。しかし、法を逸脱する行為を繰り返してきたのは国の方だ。
法廷ではこのような国の姿勢が厳しく問われるべきだ。提訴に向け、県は論理構築を急いでほしい。さらには埋め立て承認の撤回にも踏み込むべきだ。」

同社説は法的な論点を次のように解説している。
「訴訟では名護市漁業協同組合による漁業権の一部放棄後、県に対する岩礁破砕許可の再申請が必要か否かが争点となる。
国の立場は、岩礁破砕許可の前提となる漁業権が消滅したため、再申請の必要はないというものだ。1988年の仙台高裁判決を論拠としている。しかし、正反対の判決も出ており、判例は確定したとは言い難い。
県の立場は、名護市漁協が放棄した漁業権はキャンプ・シュワブ周辺の一部であり、法的には『一部放棄による漁場の縮小』という『変更』に当たるため岩礁破砕許可の再申請は必要と主張してきた。」

馴染みのない論点で、必ずしも分かり易くはない。
辺野古新基地建設工事の是非を巡っては、公有水面埋立法に基づく県知事の承認取消の違法をめぐる訴訟が先行した。同法4条は、「其ノ埋立ガ環境保全及災害防止ニ付十分配慮セラレタルモノ」と認められない限り、知事は「埋立ノ免許ヲ為スコトヲ得ズ」と明記されている。国が埋立を申請する場合は、「免許」といわず「承認」というが(42条)同じこと。今さらながらの繰り言だが、仲井真前知事が県民を裏切って国に埋立承認をしなければ、大浦湾の埋立工事はできなかったわけだ。

仲井真承認に対する翁長取消の効力が争われたのが先行訴訟だったが、新たな提訴で解釈が問題となる法規は、沖縄県漁業調整規則である。条例ではなく、県知事が定めた規則。漁業法と水産資源保護法から授権された法の主たる趣旨は、「漁業調整」と「水産資源の保護」にある。

県漁業調整規則第39条は、「漁業権の設定されている漁場内において岩礁を破砕し、又は土砂若しくは岩石を採取しようとする者は、知事の許可を受けなければならない。」となっている。国が、新基地建設のために大浦湾の埋立工事をするためには、公有水面埋立法に基づく県知事の承認だけでなく、漁業調整規則第39条にもとづく「岩礁破砕許可」を得なければならない。仲井真前知事はこれも与えた。その許可の期限が今年の3月末まで。

県は国に対して、期限が切れた「岩礁破砕許可」の更新手続をするよう行政指導を行っているが、国(沖縄防衛局)はこれを無視している。話し合いの機会さえ持とうとしない。国は、今や知事の「岩礁破砕許可」は不要との見解なのだ。「漁業権の設定されている漁場内での岩礁破砕についてだけ許可が必要だ。しかし、漁業権の主体であつた名護市漁協が漁業補償に満足して、漁業権放棄の手続をした以上は、許可も更新手続も不要」というのだ。これに対する沖縄県の立場は前述の社説が解説しているとおり。

先行訴訟の判決の論理は、余りにも一方的に国の立場に肩入れをした、政治性の高いものとして評判悪いものだった。「政治判決」であり、「忖度判決」でもあったのだ。今度は、真っ当な法律論を展開した判決に接したいものである。

また、琉球新報の社説は、こうも述べている。
「県は仲井真弘多前知事の埋め立て承認書の規定を踏まえ、本体工事前の事前協議を求めたが、国は協議打ち切りを県に通告した。漁業権を巡る国と県の主張は対立したままだ。
漁業権放棄と岩礁破砕許可を巡る法的対立がある以上、国は少なくとも県が求める事前協議に応じるべきであった。現在の沖縄に対する国の態度は、民主主義や地方自治の精神にもとる『問答無用』というべきものだ。」

押さえながらも、国の傲慢な態度に、怒りを禁じえない県民の気持ちが伝わってくる。がんばれ沖縄。アベ政権に負けるな。
(2017年5月31日)

沖縄の民意を蹂躙するアベ政権の支持者よ、君たち恥ずかしくないか。

本日(4月25日)、全国紙の各社説の1本はいずれもフランス大統領選挙問題。そして、もう一本のテーマが、北朝鮮、万博、原発、それにカジノなど。沖縄・辺野古はテーマになっていない。沖縄2紙は違う。いずれも、辺野古の新基地建設問題を取り上げた。明確に、「護岸工事着工ノー」の立場を鮮明にしてのこと。

沖縄タイムス社説のタイトルが、「名護市辺野古の新基地建設に反対する沖縄の民意は揺るがない」。そして、琉球新報が、「辺野古護岸着工へ 埋め立て承認撤回する時だ」というもの。「建設に反対する民意」を確認した上で、「埋め立て承認撤回」と、建設阻止の具体策まで踏み込んでいるのが、沖縄のメディアなのだ。

沖縄タイムス社説
「沖縄タイムス社、朝日新聞社等が実施した県民意識調査で、新基地に『反対』する人が61%を占めた。『賛成』は23%にとどまった。これが、県民の意志である。新基地を争点にした主要選挙も流れを一にする。名護市長選、衆院選、参院選と新基地に反対する候補者が完全勝利した。民意の背景にあるのは、沖縄に米軍基地が過度に集中している現状への差別感、沖縄のことは沖縄が決めるといった自己決定権要求の高まり-などである。
安倍内閣に対し県内では『支持しない』が48%で『支持する』の31%を大きく上回った。朝日新聞社の全国世論調査では「支持」が50%で「不支持」が30%。沖縄と全国では逆の結果になった。「辺野古が唯一の解決策」と繰り返し、県との「対話」をないがしろにした対応が県民の危機感を高め、それが安倍内閣の支持率低下につながったのだろう。
翁長知事への「支持」は58%、「支持しない」は22%。自民党支持層でも支持と不支持が拮抗した。今年に入ってから宮古島市、浦添市、うるま市の市長選で翁長知事が推す候補者が3連敗するなど、知事の求心力低下を指摘する声もある。しかし、5割を超える支持率は、新基地に反対する翁長知事への期待感がなお根強いことを表している。
沖縄防衛局は25日にも護岸工事に着手する。石材などを初めて辺野古沿岸部に投入し、埋め立ての外枠を造る。意識調査では本格的な埋め立て工事を始めようとする安倍政権の姿勢について「妥当でない」が65%に上った。
基地負担の軽減について安倍内閣が沖縄の意見を『聞いていない』としたのは計70%に達している。新基地建設が民意に反するのは明らかだ。」

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沖縄県民世論調査―質問と回答〈4月22、23日実施〉
◆あなたは、翁長雄志知事を支持しますか。支持しませんか。
支持する58▽支持しない22
◆あなたは、安倍内閣を支持しますか。支持しませんか。
支持する31(50)▽支持しない48(30)
◆あなたは、今、どの政党を支持していますか。政党名でお答えください。
自民20▽民進7▽公明4▽共産4▽維新1▽自由0▽社民3▽日本のこころ0▽沖縄社大0▽そうぞう0▽その他の政党1▽支持する政党はない46▽答えない・分からない14
◆あなたは、アメリカ軍の普天間飛行場を、名護市辺野古に移設することに賛成ですか。反対ですか。
賛成23(36)▽反対61(34)
◆普天間飛行場を名護市辺野古に移設するため、安倍政権は今、辺野古沿岸部での埋め立て工事を本格的に始めようとしています。あなたは、安倍政権のこの姿勢は、妥当だと思いますか。妥当ではないと思いますか。
妥当だ23▽妥当ではない65
◆アメリカ軍基地が集中する沖縄の負担軽減について、あなたは、安倍内閣が、沖縄の意見をどの程度聞いていると思いますか。(択一)
十分聞いている3(5)
ある程度聞いている24(36)
あまり聞いていない39(40)
まったく聞いていない31(13)
(括弧内は、全国調査の数値)

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琉球新報社説
「3月末に岩礁破砕許可の期限が切れたにもかかわらず、沖縄防衛局は無許可状態で工事を強行してきた。県は護岸工事によって、土砂の投下やしゅんせつなどの行為があれば岩礁破砕行為に当たるとみている。
菅義偉官房長官は『日本は法治国家』と繰り返している。ならば違法行為に当たる護岸工事の着工を中止すべきである。一方、翁長雄志知事は、大量の石材などが海底に投じられ現状回復が困難になる護岸工事を許さず、埋め立て承認の撤回を決断する時だ。
護岸工事は石材を海中に投下し、積み上げて埋め立て区域を囲む。埋め立て区域北側の「K9」護岸の建設から着手する。一部護岸ができ次第、土砂を海中に投入する埋め立ても進める。
政府は地元漁協が漁業権放棄に同意したことをもって漁業権が消失し、岩礁破砕の更新申請は必要なくなったと主張する。これに対し県は、漁業権は公共財であり知事がその設定を決定するもので、漁業権を一部放棄する変更手続きには、地元漁協の内部決定だけでなく知事の同意が必要だとして、国の岩礁破砕許可の申請義務は消えていないと主張し、双方平行線をたどっている。
仲井真弘多前知事の埋め立て承認書に留意事項が付いている。第1項で『工事の実施設計について事前に県と協議を行うこと』を義務付けている。このため県との協議なしに本体工事を実施できないはずだが、政府は一方的に協議の打ち切りを通告した。
これが『法治国家』といえるだろうか。留意事項に違反した国に対して、知事は埋立承認権者として承認を撤回できるはずだ。
知事選で圧倒的多数の信任を得た辺野古新基地阻止の公約を実現するため、承認撤回のタイミングを逃してはならない。」
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2紙が危惧したとおり、本日(4月25日)政府(沖縄防衛局)は無許可状態での本格的護岸工事着工を強行してきた。琉球新報が示唆したように、翁長知事は、仲井眞前知事の承認を撤回するだろう。そして、その撤回の効果をめぐって、県と国とは、またまた法廷で対決することになる。

それにしても思う。民主主義とはいったい何なのだと。沖縄の民意は、明確に辺野古新基地建設を拒否して揺るがない。米軍基地は、単に騒音を撒き散らし風紀上問題の不快なものというものではなく、有事の際には真っ先に標的とされる命の危険を伴うものと認識されつつある。しかし、全国の民意は、沖縄に基地建設を押しつけている。沖縄は辺野古建設を拒否する翁長知事を支持し、全国は辺野古建設を強行するアベ政権を支持しているのだ。

だから、沖縄ではアベ内閣の支持率(31%)は、不支持率(48%)を大きく下回るという全国との逆転現象が起きている。

全体の利益のためとして一部の者に犠牲を押しつける。その犠牲の押しつけを、多数決で正当化する。こんなやり口を民主主義とはいわない。これは多数の横暴であり、差別であり、人権の侵害であり、地方自治の破壊なのだ。アベ政権を支持する者よ、恥を知るべきではないか。
(2017年4月25日)

上原公子さん「その4500万円!(+金利5%)、あなたひとりでお支払いを」

本日(4月4日)自由法曹団東京支部から、月例の「支部ニュース」が届いた。憲法問題や共謀罪への取り組み、労働事件の報告など、各法律事務所、各地域での弁護士の熱心な働きが頼もしい。こういうニュースに目を通すのは楽しいひととき。

ところが、同封されたリーフを見て驚いた。「その4500万円!(+金利5%)、上原元市長ひとりに払わせない!」というタイトル。郵便振替払込取扱票まで同封されている。えっ、何だこれは?

たった一人でも、公権力の不正を糺すことを目的に提訴できるのが住民訴訟。その制度を形骸化させることなく活用し、活性化しなければならない。市民が、権力の違法を是正すべくコントロールするためにである。その住民訴訟における首長の責任認容判決は、貴重な成果であり財産だ。多くの人権派弁護士が、住民訴訟の活用に苦労して首長の横暴と闘ってきた。政教分離など憲法理念に関わる住民訴訟の実例も多い。せっかくの住民側勝訴判決の意義を否定するこのキャンペーン。到底自由法曹団が賛同できるカンパの要請ではなかろう。冷静にみて、この運動にはネガティブな側面が大きい。少なくも、大義に欠ける。後々に禍根を残すことにもなのかねない。

言うまでまでもないことだが、景観保護運動へのカンパなら、明らかに生きたカネの使い方だ。しかし、元市長の違法行為の個人責任の肩代わり。こんなカンパは捨て金に過ぎない。大事なお金だ。もっと意義のあるカンパ先は無数にある。

このカンパの呼びかけ主体は、「上原ファンド1万人の会」と記されている。趣意書に当たる部分は、次のとおりだ。これが全文である。

「最高裁判所は、昨2016年12月13日、上原公子元国立市長が国立市から4500万円(プラス金利5%)の支払いを求められている訴訟について、上原さんの上告を不当にも棄却。これにより、司法判断としては、上原さんの支払い義務が確定してしまいました。しかし、当時、オールくにたちで大学通りの景観を守ろうとした市民として、その賠償金を上原さんひとりに払わせるわけにはいかない!と決意し、100人の呼びかけとともに「くにたち上原景観基金1万人の会」(通称:「上原ファンド1万人の会」)を立ち上げました。全国の皆さんに、4500万円の基金づくりの訴えをしています。」

訴えの趣旨は、単に「オールくにたちで大学通りの景観を守ろうとした市民として、その賠償金を上原さんひとりに払わせるわけにはいかない!と決意し」というだけのこと。なるほど、お仲間の助け合い運動なのだ。それならば、「オールくにたちで大学通りの景観を守ろうとした仲間」だけでお支払いを分担されてはいかがか、というほかはない。「お仲間」以外にまで、カンパを要請するのはすじちがい。

在任中の上原氏に市長としての違法な行為があって、有責判決となったのはご承知のとおり。私の問題意識については、下記のブログをお読みいただきたい。
http://article9.jp/wordpress/?p=7749
http://article9.jp/wordpress/?p=3589

裁判で確定した、国立市に対して「4500万円+遅延損害金」を支払うべき元市長の法的義務。これを、元市長一人に支払わせずに、みんなで負担しましょうというカンパの呼びかけ。私には、その趣旨も意義も皆目理解できない。

このリーフレットに同氏のコメントがある。私の印象としては、高飛車で乱暴なもの言い。念のために、コメントの全文を引用して、私の意見を対置しておきたい。

「本件高裁判決のいう、『法的な規制を及ぼす手続きのみをしていれば、国家賠償法上の違法といわれることはなかった』ということでは、自立した地方創生など実施することはできません。どんなに公益のためであっても、国家賠償法で個人の求償が認められることになれば、首長はもちろん、職員はさらに委縮して、一層狭い法解釈の殼の中に閉じこもり、住民の声には耳を貸さず、行政に市民自治は期待できないということにもなりかねません。
これまで、憲法で保障する第13条(幸福追求権)第25条(最低生活の保障)は、「国民のための政治」、「国民による政治」を、人の暮らしの一番身近なところで地方自治として政治がなされてきたからこそ自治体の英断で進んできたものです。
かように、住民の立場に立って、職員にはできない判断をし、交渉をするのが首長の仕事なのです。もっと言えば、法的解釈の範囲内で手続きをするのが行政の仕事であるならば、首長を選挙で選ぶ必要もないのです。民主政治は、「国民のための政治」でなけれぱならないがゆえに「国民による政治」の必要があるからこそ、あえて日本は二元代表制をとっていると私は考えています。これこそが、地方の時代における、地方自治の根本精神であり、憲法の要求する政治の在り方だと思います。」

「本件高裁判決のいう、『法的な規制を及ぼす手続きのみをしていれば、国家賠償法上の違法といわれることはなかった』」とは、「市長として法的に可能な規制だけをしていれば問題なかったのに、法的な許容範囲を越えたことをしたから国家賠償法上の違法といわれることになった」という意味で、至極当然なこと。これに文句を言う筋合いはない。

「どんなに公益のためであっても、国家賠償法で個人の求償が認められることになれば、首長はもちろん、職員はさらに委縮して、一層狭い法解釈の殼の中に閉じこもり、住民の声には耳を貸さず、行政に市民自治は期待できないということにもなりかねません。」
この文意は、「自分は公益のために働いたのに、個人としての責任を負わされた」「だから不当」と言いたいようだ。さらに、「これでは、首長や職員の萎縮をもたらし、行政に市民自治は期待できない」という。この行間には、「公益のためであれば、違法が問題とされるべきではない」という乱暴な「論理」が介在している。これが、同氏の本音のようだ。100人の呼びかけ人や応援者の人々はこんな、「論理」に本当に賛同しているのだろうか。

首長や職員が公益のために働くべきは当然のこと。元市長は、公益のために働いたから弾圧されたのではない。市長として与えられた権限の範囲を越えて、違法なことをしたから責任をとらされたのだ。主観的に公益のために働いたつもりでも、法令の遵守がなければ違法となる。いまさら、いうまでもないことだ。

「これまで、憲法で保障する第13条(幸福追求権)第25条(最低生活の保障)は、『国民のための政治』、『国民による政治』を、人の暮らしの一番身近なところで地方自治として政治がなされてきたからこそ自治体の英断で進んできたものです。」
やや文意不明瞭ではあるが、「自治体の英断で憲法理念が充実してきた」事例の指摘は可能だろう。だからといって、首長の違法が許されるという論拠とはなり得ない。また、あたかも自分に「自治体の英断」の実績があると言わんばかりの姿勢には、読む方が気恥ずかしくなる。

「かように、住民の立場に立って、職員にはできない判断をし、交渉をするのが首長の仕事なのです。もっと言えば、法的解釈の範囲内で手続きをするのが行政の仕事であるならば、首長を選挙で選ぶ必要もないのです。」
「住民の立場に立って、職員にはできない判断をし、交渉をするのが首長の仕事なのです。」は、文理としては言わずもがなのこと。ところが、続く文脈に照らし合わせると、「職員は法に従った判断しかできないが、職員にはできない法を超越した判断をし交渉をするのが首長の仕事なのです」ということのようだ。だから、「法的解釈の範囲内で手続きをするのが行政の仕事であるならば、首長を選挙で選ぶ必要もないのです。」と、首長には違法があってもよいと、乱暴で独善的な断定となっている。この高飛車なものの言い方では、確信犯的に法を無視して違法を犯したと批判されてもやむを得まい。

首長は、住民から負託された住民の意思を実現する責務を負うが、法が許容する矩を超えてはならない。現実には難しい局面もあろうが、首長には専門家としての高度の判断力を求められる。けっして、これが市民の多くの意向だからとして、法を無視した行動があってはならない。

この首長の判断が誤った場合、責任を負うべきは専門家として判断を誤った首長個人でなくてはならない。その責任にふさわしい待遇も保障されているはずではないか。その地位にはなかった第三者がこれを分担して負担することは、結局は首長の職責遂行に伴うべき厳格な遵法意識を弛緩せしめることにつながる。個人責任を徹底してこそ、コンプライアンス意識が育つ。個人責任を曖昧にすることは、モラルハザードをきたすこととなるだろう。

元市長は、法の遵守には重きを置かない姿勢である。しかし、今、われわれの課題は、法をもって強者の横暴をコントロールしようということではないか。どこの自治体も、実は保守派が圧倒している。法の遵守を軽視することは、強者である保守派の横暴を許すことになりかねない。あくまでも、法を遵守しつつ住民の利益を最大限化する努力を重ねるしかない。
だから、小なりとはいえ権力者である首長の違法行為の責任は、自分おひとり(とお身内と)でとるべきなのだ。
(2017年4月4日)

ワタシが強面のニコルソンだ。オスプレイは、今後も飛ばす。

オスプレイは、墜落したのではない。コントロールされた状態で着水したのだ。確かに機体は大破し乗員二人は脱出時に負傷した。常識的には、これは「crush」(墜落)だろう。しかし、そんなことが今問題なのではない。重要なことは機体が着水直前まで完全にコントロールされた状態にあったことだ。だから、誰がなんと言おうともこれは、「landing on the water」(着水)なのだ。

墜落か着水かを分けるものが、「under control」だ。これあればこそ、パイロットは負傷しながらも住宅や住民の被害を避け得たのだ。沖縄の住民は、重大事故から間一髪のところで、オスプレイ・パイロットの的確な判断と英雄的な行為によって救われたのだ。これは表彰に値する。だから、沖縄県は挙ってオスプレイのパイロットに感謝すべきではないか。少なくとも、負傷の米兵に見舞いの言葉があってしかるべきだ。それを、副知事お出ましの抗議とは筋違いも甚だしい。ワタシは怒りを抑えきれない。机を叩くぐらいのことはする。

貴国の総理大臣も私と同じではないか。彼は、2013年9月7日ブエノスアイレスで開催されたIOC総会の席上、福島第1原発の汚染水排出問題を「The situation is under control」と表現している。その言葉で、東京オリンピック誘致に成功したのだ。当時常識的には、事故後の原発の汚染水が外洋にダダ漏れになっていたことは世界中の人が知っていた。それでも、「under control」だ。「under control」とは、かくも使い勝手のよい便利な言葉なのだ。

もし、私の「under control」がウソだというのなら、貴国の総理大臣も大嘘つきだ。そんな大嘘つきが首相を務める国の自治体が、ワタシに抗議する資格などあるわけはない。

そもそも、米軍が日本を片務的に防衛してやっているのだ。沖縄県も日本の一部ではないか。常々、駐留米軍に対する敬意と感謝の気持ちが足りないことを不満に思ってきた。どうして、そのような不遜な態度がとれるのか。

オスプレイの騒音がうるさいとか、事故の確率が高くて不安だとか、軍人の態度が横暴だとか、遵法精神に乏しいとか、そのくらいのことは、些細なこととして我慢してもらわなければならない。沖縄が、他国から攻めてこられたら、うるさいの、危ないの、不愉快だなどというレベルの問題ではないではないか。守ってもらっていることへの感謝の気持がもっとあってもよいはずなのだ。

オスプレイが沖縄に配備されてから既に4年を経過した。その間事故がなかったことはたいへんなことだ。どうしてこのことを立派なことと言わずに、たった一度の事故らしい事故で、被害もないのに大騒ぎをするのだろうか。

安慶田副知事は、ワタシへの抗議のあとの記者会見を行い、こう記事にさせている。
「安慶田氏によると、抗議の際、在沖米軍トップで第3海兵遠征軍司令官のニコルソン四軍調整官の表情はみるみる怒気に染まっていった。ニコルソン氏は『パイロットは住宅、住民に被害を与えなかった。感謝されるべきで表彰ものだ』と述べた。安慶田氏が『オスプレイも訓練もいらないから、どうぞ撤去してください』と伝えると、『政治問題化するのか』などと話し、テーブルをたたく場面もあったという。」「会談後、安慶田氏は記者団に『植民地意識丸出しだ。私たちからすると、抗議するのは当然だ』と感想を述べた。」

ワタシは、「植民地意識丸出しだ」という副知事の記者会見発言に驚いた。副知事は、沖縄を米軍の植民地ではないと思っているようだ。もちろん、19世紀から20世紀前半の「植民地」とは違うかも知れない。しかし、米軍は大きな犠牲を払って沖縄地上戦を制したのだ。また、戦後の占領期に、日本の天皇(裕仁)はマッカーサーに、独立後も沖縄の占領を継続するよう申し出た事実もあるではないか。今の沖縄は、戦争によって、敗戦国日本から戦勝国米国に差し出された「植民地同然」の島ではないか。いまさら、「植民地意識丸出しだ」などという抗議が成立する余地はない。

確かに、沖縄がオスプレイ配備に反対だということは知っている。知事が反対派の筆頭だ。県議会は3度も反対を決議し、41市町村の全議会も同調している。2012年9月には配備反対の県民大会が開かれ、10万1千人(主催者発表)が集まった事実もある。13年1月には全市町村の首長らが参加して東京・銀座を、オール沖縄勢力がデモ行進する事態に発展した。今も、確かに反対する県民世論は強く大きい。

しかし、本来この問題の所管は日本の政府だろう。国が米軍のオスプレイ配備計画に異を唱えたことは一度もない。防衛大臣も「不時着水」と繰り返しているではないか。アベ政権は、もの分かりがよい。だから、沖縄県が何を言っても、ワタシたちは本来無視してよいはずなのだ。それを忙しい時間を割いて、面会してやっていることをよく理解していただきたい。

どんな自動車も飛行機も、所詮は人が作った機械だ。絶対安全ということはありえない。オスプレイも、「いつか落ちる」ものなのだ。それが今回であったというだけのことではないか。今回の事故でワタシ自身が問題ないと確信するまで飛行はしないが、もちろんほとぼりの冷めたころには必ず飛行を再開する。ワシントンもオスプレイは引き続き飛行すると判断している。アベ政権も容認、いや歓迎するに違いない。

それでいったい何が問題なのか、聞かせてもらいたいものだ。ワタシには理解できない。
(2016年12月15日)

最高裁がどう断じても、民意は辺野古新基地を作らせない。

本日(12月12日)沖縄タイムスと琉球新報が、ともに号外を発行した。ほぼ同じ大見出し。「辺野古 県敗訴へ」「最高裁 弁論開かず」「20日上告審判決」「高裁判決確定」というもの。

記事の内容は「名護市辺野古の新基地建設を巡り、石井啓一国土交通相が翁長雄志知事を訴えた『辺野古違法確認訴訟』で最高裁は12日までに、上告審判決を今月20日午後3時に言い渡すことを決めた。辺野古沿岸部の埋め立て承認取り消しを違法とし、知事が敗訴した福岡高裁那覇支部の判決の見直しに必要な弁論を開かないため、県側敗訴が確定する見通し。知事は今後、埋め立て承認取り消しを撤回する手続きに入る。」というもの。

もちろん、12月20日の判決で問題は解決しない。ことの性質上、国が敗訴すれば、問題は解決する。しかし、県が敗訴しても紛争が終息するはずもない。沖縄の民意が新基地建設反対である以上は、その切実な要求を掲げた闘いは続く。知事には、幾つも手段が残されている。大浦湾埋立工事は再開できるのか。恒久的な新基地建設は完成に至るのか。予断を許さない。さて、これから局面は具体的にどうなるか。

沖縄タイムスは、こう言っている。
「国は早期に埋め立て工事を再開する考え。ただ、国が工事を進めるために必要な設計概要や岩礁破砕の許可申請に対し、県は不許可とすることを検討。埋め立て承認の撤回も視野に入れている。新基地建設を巡る国と県の争いは新たな段階に突入する。」

琉球新報はこうだ。
「翁長知事は『確定判決には従う』と述べており、最高裁判決後にも埋め立て承認取り消しを“取り消す”見通しとなった。国が新基地建設工事を再開する法的根拠が復活する。一方、翁長知事は敗訴した場合でも『あらゆる手法』で辺野古新基地建設を阻止する姿勢は変わらないとしており、移設問題の行方は不透明な情勢が続く。」

最高裁の12月20日判決言い渡しが沖縄県敗訴となる公算は限りなく高い。予想されていたことながら、この局面だけを見れば残念なこと。敗訴確定して、沖縄県は「その内容に不服だから、確定判決といえども従わない」とは言えない。言うべきでないとも言えるだろう。では、確定判決によって何が確定して、争えなくなるのか。

訴訟は、国土交通相(国)が原告となって、沖縄県知事を訴えた「不作為の違法確認訴訟」である。「地方自治法251条の7第1項の規定に基づく不作為の違法確認請求事件」と事件名が付されている。弁護士にだってなじみのない事件名。その一審・福岡高裁那覇支部判決の主文は以下のとおりである。

「原告(国)が被告(県)に対して平成28年3月16日付け『公有水面埋立法に基づく埋立承認の取消処分の取消しについて(指示)』(国水政第102号)によってした地方自治法245条の7第1項に基づく是正の指示に基づいて,被告が公有水面埋立法42条1項に基づく埋立承認(平成25年12月27日付沖縄県指令土第1321号,沖縄県指令農第1721号)を取り消した処分(平成27年10月13日付沖縄県達土第233号,沖縄県道農第3189号)を取り消さないことが違法であることを確認する。」

経過についての予備知識なしに理解しうる文章ではない。なんとか分かるように、日本語を組み直してみよう。

まず「仲井眞承認」(辺野古基地建設のために国が大浦湾埋立をすることの許可)があった。これを前知事の間違った承認として翁長現知事が取り消した(「翁長取消」と呼ぶ)。原告(国)は被告(県)に対して、「『翁長取消』を取り消せ」と是正指示(地方自治法に基づくもの)をした。ところが、被告(県)はこれに従わない。そこで、「国の指示に従って、県は「翁長取消し」を取り消すべきなのにこれを取り消さない。この県の不作為は違法」と裁判所に宣告を求めたのがこの訴訟である。

今年(2016年)9月16日、福岡高裁那覇支部は、「翁長知事による前知事の承認取り消しは違法」として、同取り消しの違法の確認を求めていた国の主張を全面的に認める判決を出した。上告棄却によって、この高裁判決が確定することになる。

判決が確定すれば、遺憾ながら「『翁長取消し』を取り消さない県の不作為が違法であること」が確認され、その蒸し返しはできないことになる。「不作為の違法確認」と「作為の強制」とは異なるから、「取消の作為を命じる強制力はない」という議論もあるのだろうが、知事の採るべき選択ではなかろう。

しかし、「翁長取消し」が違法とされた結果として「仲井眞承認」が復活したとしても、工事の続行ができるかどうかは別問題である。

国が海面の埋立工事を進めるためには県の承認(許可と同義)が必要だが、一回の包括的承認で済むことにはならない。「仲井眞承認」の有効を前提としても、今後の工事続行は種々の知事の許可が必要なのだ。まずは、設計概要や岩礁破砕の許可が必要なところ、そのような国の申請に対し県は不許可を重ねることになるだろう。このことは以前から報じられていたことだ。知事側が徹底抗戦すれば、工事の続行は困難といわなければならない。さらには、仲井眞承認に瑕疵のあることを前提とした『取消』ではなく、「県の公益が国の公益を上回った場合には、『撤回』もできる」という考え方もある。

これだけの地元の反対がある中での基地の建設や維持がそもそも無理というべきなのだ。沖縄県民の反基地世論が燃え、本土の支援がこれに呼応する限り、辺野古新基地建設は至難の業というべきであろう。最高裁判決に意気阻喪する必要はない。そして、こんなことで沖縄を孤立させてはならない。
(2016年12月12日)

「国旗に一礼しない村長」に敬意を払いつつ、上原公子元国立市長擁護のご意見に異議を申し述べます。

曽我逸郎様。
長野県・中川村村長としての貴兄のご活躍に、心からの敬意を表します。
貴兄は、「国旗に一礼しない村長」として話題になったというだけでなく、日本国憲法について、民主主義のあり方について、平和について、核や原発について、そして沖縄を典型とする地方自治の問題について、あるいは人生や文明というものについて、含蓄の深いそして強者や体制におもねらない発言を続けてこられました。

10年余にわたる貴兄のご意見は、「村長からのメッセージ」として下記URLで閲覧可能で、ときおり拝読しては大いに共感してきたところです。
http://www.vill.nakagawa.nagano.jp/index.php?f=hp&ci=10685

しかし、ひとつだけ、貴兄に誤解があるのではないか。考え直していただくべきではないか、と指摘せざるを得ない「メッセージ」があります。このブログが貴兄の目に留まることになるかどうか、はなはだ心もとないのですが、一言申し述べます。

貴兄は、今年(2016年)5月6日付けで、「最高裁長官宛て 上原公子元国立市長に対する国立市の訴訟に関する意見書」を提出しておられます。中川村のホームページによれば、その全文は後掲のとおりですが、貴兄の他のご意見と異なって十分に検討し推敲した文章となっておらず、そのために誤った結論に至ったものではないかと危惧せざるをえません。

貴兄は自治体首長であって、来年(2017年)の村長選には不出馬を宣しておられます。意地の悪い見方をすれば、「元村長」となった後、上原公子氏の如く後任首長から訴追されるようなことは避けたいとする立場。その立場からの発言と見られかねないだけに、ご意見にはより慎重さが要求されたところではないでしょうか。

私の立場を端的に申しあげますと、私は住民訴訟の原告代理人を何件か努め、首長や責任ある地方公務員の違憲違法な行為を追及してきた弁護士です。その立場から地方自治法に基づく住民訴訟とは、民主主義原理(「多数決原理」といった方が正確かも知れません)の欠陥を補うための工夫として、直接に法の支配の原理を働かせる貴重な制度だと思っています。

民主的に選任された首長と議会には広い裁量の権限があります。しかし、予め法が定めた限度を超えてはならない。換言すれば違法なことはできません。これは当然のことです。しかし、通常首長は住民多数派を代表していますから、首長に違法行為があっても、議会はその責任追及には及び腰にならざるを得ません。住民からの批判も、必ずしも次の選挙で有効に働くとは言いがたい現実があります。議会も首長も圧倒的な保守地盤から成立している多くの自治体や、現在の大阪府・市の例をイメージすればお分かりいただけると思います。

これを補うのが、監査請求を経ての住民訴訟の制度です。住民たったひとりでも、首長の違法(「不当」のレベルではなく、「違法」であることが必要です)を裁判所に訴え出ることができるのです。その審理の結果として、首長の違法行為によって自治体財政に損害が生じたと認定されれば、裁判所は「自治体は首長(個人)にその損害賠償を請求せよ」という判決を出します。これは、首長に違法なことをさせず、自治体の財政を守るための貴重な制度であり、上原元市長の事例は、その貴重な制度の貴重な活用例というべきだと思います。

以上の基本的立場から、貴兄が挙げている上原元市長擁護の理由6点に、具体的にご意見を申しあげます。(なお、貴見の引用は原文のママです)

1 景観保全、マンション建設反対は、市民の強い要請に基づくものであり、けして上原氏の独断専行ではないこと。

「景観保全、マンション建設反対が、(既に国立市に居住している)市民の強い要請に基づくもの」であったことは、おそらくご指摘のとおりだと思います。先行諸判決も元市長の行為の目的を不当とは認定していません。いうまでもなく、元市長の行為の目的が正当であったとしても、それだけで行為の違法性が阻却されることにはなりません。

2 住民の要請に基づき、国立市をよくするために取り組んだのであって、上原氏の個人的利益に結びつくものではないこと。

この点も、判決が元市長の行為を「個人的利益に結びつくもの」と認定しているわけではありません。「個人的利益に結びつくものではない行為は違法ではない」と言えないことは、特に指摘するまでもありません。

3 先立つ裁判において、条例制定は有効と認められており、手続きに重大な瑕疵がないこと。

これは、お間違いではないでしょうか。「先立つ裁判において」は、「条例制定は有効と認められたにもかかわらず」、「元市長の行為には手続的に重大な瑕疵があり、違法行為があった」と事実認定されたのです。

なお、「手続きに重大な瑕疵があったか否か」、「(手続的瑕疵あることを前提として)元市長に違法行為があったか否か」は、十分な事実関係に接することのできない私の立場では断定的判断を差し控えたいと思います。

言えることは、「先立つ裁判の結論」の引用ということでしかありません。
「先立つ裁判」の一つは、明和地所から国立市に対する4件の提訴です。これを受けて国立市は最高裁まで争い、結局確定した判決にしたがって、市は明和地所に3123 万 9726円を支払ったのです。一つ目の「先立つ裁判」の結果、現実にこれだけの損害が市の財政に生じたのです。

「先立つ裁判」の二つ目は、国立市の住民が提起した住民訴訟です。国立市の3000万円余の損失は当時の市長(上原公子氏)の責任ではないか、市の損失を穴埋めせよという訴訟が提起され、その結果、元市長の行為の違法と過失と因果関係が認定されました。その結果、「国立市は上原公子氏に対して、3123 万 9726円と年5%の遅延損害金の賠償を請求せよ」という判決が確定しました。二つ目の「先立つ裁判」の結果は、現実に生じた市財政の損害を当時の市長個人の責任として負担させよ、としたのです。

これが「先の判決」の内容です。上原公子氏が任意にこの判決に従わないから、「先の確定判決」にしたがって、国立市は上原元市長に訴訟を提起しているのです。「先の判決」を前提とする限り、元市長の責任は免れません。

もっとも、国立市が上原公子元市長を被告とした訴訟はまだ確定していません。昨年(2015年)12月22日東京高裁が言い渡した国立市全面勝訴の判決を不服として、元市長は上告と上告受理申立をしています。最高裁がこの記録を受理したのが今年(2016年)4月12日だそうです。その結果の逆転が絶対にないとは言い切れません。上告理由も、上告受理申立理由も見ていない者としては、軽々な意見は差し控えたいと思います。しかし、「先立つ裁判」を前提とするならば、上原元市長の責任は認められてしかるべきだと言わざるを得ないのです。

4 上記3点に問題がないにもかかわらず、首長個人を訴えることは、住民意志・住民自治に忠実たらんとしつつ積極的・民主的な活動で住民と共に解決策を模索しようとする自治体首長を萎縮させかねないこと。

この点は、「上記3点に問題がないにもかかわらず」という前提が誤っていますので、多くを述べる必要はないと思います。「住民意志・住民自治に忠実たらんとしつつ積極的・民主的な活動で住民と共に解決策を模索しよう」とすることが非難される筋合いはありません。問題は、自治体首長の「積極的」な行為が、法に照らして許される範囲を超えていないかどうかなのです。「先立つ裁判」も、当事件の高裁判決も、元市長には法の矩を越えた違法があったことを認定したのです。

5 企業の遺失利益は数値化がたやすいのに対して、住民の、良好な住環境を求める気持ちや環境破壊への不安は、金銭換算が難しく、住民側が企業を訴えることは困難であり、この種の損害賠償裁判は、企業側に偏った不公平なものになりがちなこと。

なるほど、そのようなご指摘は、さすがに地方自治の実務に責任を持つ立場にある方のご意見として傾聴に値するものと思います。しかし、本件訴訟で問題となっているのは、企業の利益と住民の利益との比較衡量ではありません。問題は、飽くまで、被告である元市長の行為が、法的に許されるか否かの一点のみにあるのです。

6 このような訴訟で賠償を得ることが広がれば、住民が反対するような計画を敢えて立案し、住民の不安を煽って反対運動で計画を中止させ、遺失利益の請求で利益を得ようとするビジネスモデルさえ生み出しかねず、そうなると増々地方自治と民主主義を萎縮させること。

私の理解力不足の所為だとは思いますが、この「ビジネスモデル論」についてはよく分かりません。もしかして、「このような訴訟」とは、明和地所の国立市に対する訴訟を指しているのでしょうか。仮に、明和地所が国立市を被告に提訴して、損害の賠償を得たことを不当とする趣旨とすれば、あたかも公権力の行使に対しては、民間の損害賠償は認められるべきではないとするがごとき旧憲法時代の暴論に聞こえます。

あるいは、「このような訴訟」が住民訴訟を指しているとすれば、「遺失利益(逸失利益)の請求」が、「提訴した住民個人の利益になっている」との誤解がありはしないでしょうか。住民訴訟で、おっしゃるような「ビジネスモデル」が成立するとは思いもよりません。

以上各点への私見に通底しているものは、政治家としての「専門家責任」です。萎縮することなく、違法を冒すこともないよう留意しながら住民のために働くべき責任です。いま、原発事故による被害者への巨額の損害賠償を、電力料金に加算して国民にその負担を分散しようとする試みが批判にさらされています。何よりも、原因者が責任をとらねばなりません。そして専門家としての電力会社の責任は厳格に考えなければならず、安易に他への責任転嫁を認めてはなりません。同様に、専門家としての政治家の責任も厳格に考えざるをえません。結果責任に限りなく近いものを求めて差し支えないと思います。上原元市長は軽率な行為で、貴重な市の財政に穴をあけた責任をとらねばならない立場にあります。もし、市長が自らの行為で市に損失を与えながら、これを免責して市民への負担の転嫁を許すとすれば、そのことによる自治体行政荒廃の悪影響こそが看過し得ないものとなるでしょう。

いずれにせよ、貴兄の歯切れのよい明晰な他のご意見と比較して、上原元市長擁護の発言だけは、いかにも説得力に欠けています。「上原氏は、何度か中川村に来て下さり、村づくりのアドバイスを頂いたこともあり、『脱原発をめざす首長会議』の事務局長としてもお世話になっている。」という友誼の関係から、このような意見書を敢えて書かれたとすれば、なるほどその故の思いに引きずられて、結論ありきのやや的はずれのご意見になったのかと、たいへんに残念に思います。

私は、貴兄に最大限の敬意を払いつつも、「中川村も含め、広く全国の都道府県・市町村の全住民の立場から、自治体の首長や責任ある地方公務員に違法行為があってはならず、仮に違法行為あった場合には厳格にその責任の追及があってしかるべき」と考える立場から、敢えて愚見を申し述べた次第です。ご一考を願う次第です。

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最高裁長官宛て 上原公子元国立市長に対する国立市の訴訟に関する意見書

マンション建設から市の景観をいかに守るかという過去の取り組みに対して、国立市が元市長、上原公子氏に賠償を求めて訴えるという事態が生じている。東京地裁では、国立市の請求が棄却されたが、高裁では、上原氏に支払いを命じる判決が出され、現在は最高裁で係争中である。
上原氏は、何度か中川村に来て下さり、村づくりのアドバイスを頂いたこともあり、「脱原発をめざす首長会議」の事務局長としてもお世話になっている。
この訴訟は、ひとり上原氏や国立市だけのことではなく、中川村も含め、広く全国の市町村の住民自治、地方自治に良くない影響を及ぼしかねないと考えるので、最高裁判所長官宛てに以下の意見書を送った。

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2016年5月6日
最高裁判所長官
寺田逸郎様
長野県 中川村長 曽我逸郎

国立市元市長・上原公子氏に対する 国立市の訴訟に関する意見
司法の長として、三権分立の一端を担い、日本をよりよい社会にするべく献身的なご努力を重ねて頂いておりますこと、篤く感謝申し上げます。
さて、表題の件、上原公子元国立市長に対して国立市が起こした裁判については、地方自治の場に身を置く自治体首長の一人として、大きな危機感を抱かざるを得ず、思うところをお伝え致したく、ご無礼お許し下さい。

国立市では、良好な景観を守りたいという住民の思いが強く、景観保全の運動が積み重ねらてれきた伝統があると聞いています。
その歴史において、マンション建設の是非が問題となる中、上原市政が誕生する市長選が行われ、上原氏は、景観を守ることを公約にして当選し、公約どおり住民と共に景観保護に取り組みました。その中で、問題となっている明和マンションの建設計画が持ち上がり、住民は人口を優に超える署名を集め、高さ制限の条例制定を求めるなど、まさに住民自治による反対運動を展開し、上原氏も市長として公約どおり市民と連携して働き、絶対高度制限付きの地区計画をつくることができました。
これに対し、明和地所は国立市に条例撤回と損害賠償を求めて裁判を起こしましたが、高裁では、条例制定は有効と認めつつも、2500万円の損害賠償を市に命じました。直後に、明和地所は、金銭が裁判の目的ではないとして、同額を市に寄付しており、国立市の賠償は相殺されています。
上原氏の市長退任後、4人の市民が市に上原氏への損害請求をせよとの裁判を起こし、二代後の市長になって、国立市は上原氏への訴訟を起こしました。

以上の経緯を考えると、この裁判は、国立市のみならず、広く日本の住民自治と民主主義に悪影響を残すことになりかねないと、強い危惧を感じます。その理由はいくつもあります。
1 景観保全、マンション建設反対は、市民の強い要請に基づくものであり、けして上原氏の独断専行ではないこと。
2 住民の要請に基づき、国立市をよくするために取り組んだのであって、上原氏の個人的利益に結びつくものではないこと。
3 先立つ裁判において、条例制定は有効と認められており、手続きに重大な瑕疵がないこと。
4 上記3点に問題がないにもかかわらず、首長個人を訴えることは、住民意志・住民自治に忠実たらんとしつつ積極的・民主的な活動で住民と共に解決策を模索しようとする自治体首長を萎縮させかねないこと。
5 企業の遺失利益は数値化がたやすいのに対して、住民の、良好な住環境を求める気持ちや環境破壊への不安は、金銭換算が難しく、住民側が企業を訴えることは困難であり、この種の損害賠償裁判は、企業側に偏った不公平なものになりがちなこと。
6 このような訴訟で賠償を得ることが広がれば、住民が反対するような計画を敢えて立案し、住民の不安を煽って反対運動で計画を中止させ、遺失利益の請求で利益を得ようとするビジネスモデルさえ生み出しかねず、そうなると増々地方自治と民主主義を萎縮させること。

先日、関西電力は、高浜原発3,4号機について運転差し止めの仮処分を受けました。それに対して、同社の八木社長は、不服申し立て後の上級審で逆転勝訴した場合には、損害賠償請求する可能性を示唆しました。このように、損害賠償請求は、既に住民自治を牽制する手段に使われており、良好な生活環境を求め環境破壊を恐れる住民が、不安や心配を民主的に広く訴えることを押さえ込む道具になりつつあります。
既に寄付を受け実害がないにもかかわらず、基礎自治体である国立市が、このような、住民自治と自由闊達な民主主義を毀損しかねない類いの訴訟を行わねばならないどのようなどのような理由があったのか、私には想像できません。

最高裁判所におかれましては、以上の点、ご勘案頂き、何卒慎重なご判断を頂きますようお願い申し上げます。

以上

新潟知事選に市民と野党の共闘候補当選ーこれこそ新しい局面の幕開け

本日(10月16日)の21時04分、朝日新聞デジタルが、「号外」を出した。「新潟県知事選で、医師で野党系候補の米山隆一氏(47)の当選が確実になった」という。おっ、なんと見事な。欣快の至り。

勝負にならない⇒背中が見える⇒急追⇒接戦⇒大接戦⇒横一線 との変遷が報じられてはいた。
「県民世論は原発再稼働反対なのだから、この世論を票に取り込めば勝てる」「TPP問題も今や大きな追い風」とも聞かされてはきた。
それでも、相手は「自民・公明」+「経済界・電力業界・連合」である。なかなかに勝てそうな気はしない。またまた、善戦むなしく…となるのではないか。本当に「当確」なのだろうか。糠喜びではなかろうか。
 
そして21時10分に続報。「新潟県知事選は16日投票され、無所属新顔で医師の米山隆一氏(49)=共・社・由推薦=が、同県・前長岡市長の森民夫氏(67)=自・公推薦=ら無所属新顔3氏を破り、当選が確実になった」。これで、まずは間違いなかろう。

米山当選の意義は、大きくは二つ。まずは、原発再稼働否定の民意が確認されたこと。これはとてつもなく重く大きい。

世界最大規模のプラント・柏崎刈羽原発を地元に抱え、事実上その再稼働の可否を問う選挙である。「原発再稼働問題の今後を左右する天王山」「最も重要な自治体選挙」と位置づけられたこの選挙に示された民意の重さは格別である。川内原発の停止を求めている三反園訓鹿児島県知事との連携を期待したい。

そしてもう一つは、野党共闘の拡大・強化への弾みである。「市民」と野党の共闘候補が勝利した意味は大きい。野党共闘は「共産・社民・自由」の3党推薦で、民進自主投票となったが、蓮舫代表までが応援にはいった。変則ではあったが、実態としては4野党共闘に限りなく近い。また、無党派市民の応援活動も大きいと報じられていた。

解散・総選挙が近いと噂されるこの時期である。「1議席を争う選挙では、野党共闘なくして勝利はない」「1議席を争う選挙でも、野党の共闘あれば現実に勝利が可能だ」という今回選挙での実例が示した成果のインパクトが大きい。

自・公勢力が各議院で議席の多数を占めているのは、小選挙区が生み出す死票のマジックによるもの。これまで野党は、分断され、各個撃破されてきたのだ。アベ政治とは、そのような上げ底議席に支えられてのことなのである。

新しい時代、新しい局面の幕開けを予感させる。
原発再稼働・TPPなどを経済の柱に据えようというアベ政権である。自公推薦候補の敗北は、現政権の終わりの始まりという予感がする。
(2016年10月16日)

「辺野古・違法確認訴訟」ーはたして公正な裁判が行われているのか。

国が沖縄県を訴えた「辺野古・違法確認訴訟」が昨日(8月19日)第2回口頭弁論で結審した。7月22日提訴で8月5日に第1回口頭弁論。この日、判決までの日程が決まった。そして、決まった日程のとおりわずか2回の期日での結審。9月16日には判決言い渡しとなる。異例の早期結審・早期判決というだけではない。極めて問題の大きな訴訟指揮が行われている。果たして公正な裁判が行われているのだろうか。納得しうる判決が期待できるのだろうか。

問題は、やや複雑である。まずは、どんな裁判なのか確認しておきたい。

国(沖縄防衛局)は、沖縄県名護市辺野古の大浦湾を埋め立てて、広大な米軍新基地を建設しようとしている。公有水面を埋め立てるには、国といえども県知事の承認が必要となっている。そこで、国が県に対して埋立の承認を求めた。承認の是非は、主として環境保全の観点から判断される。

国の公有水面埋立承認申請に対して、
(1)仲井眞前知事が承認した。
(2) 翁長現知事が、「仲井眞前知事がした承認」を取り消した。
(3)国(国土交通大臣)が県に対して、『翁長知事が、「仲井眞前知事がした承認」を取り消した」のは違法だから、この取消を取り消すよう』是正の指示をした。
(4)県が是正の指示に従わないから、国(国交大臣)は県を被告として「是正の指示に従わない不作為が違法であることの確認を求める」という訴訟を起こした。

つまり、国にいわせれば、(1)「仲井眞前知事の埋立承認」が正しく、(2)「翁長現知事の承認取消」が違法。だから、(3)国の是正の指示にしたがって、県は「承認取消を取り消す」べきだがこれをしないから、(4)県の不作為(国の指示に従わないこと)の違法確認を求める、ということになる。

これに対して、県の側からは、(1)「仲井眞前知事の埋立承認」はいい加減な審査でなされた不適法な承認で、(2)翁長現知事の「承認取消」は環境保全問題を精査して出された適法な取り消し。だから、(3)国の県に対する是正の指示は不適法なものとして、従う必要はない。したがって、(4) 裁判では、違法確認請求の棄却を求める、ということになる。

以上の説明だと、新旧各知事の「承認」と「その取り消し」の適法違法だけが争点になりそうだが、現実の経過はより複雑になっている。それは、本件訴訟の前に、国から県に対する代執行訴訟の提起があって、その和解がなされていること、その和解に基づいて国地方係争委員会の審査があり、結論として「真摯な協議」を求められていること、である。

代執行訴訟の和解も、係争委員会の決定も、国と県との両者に真摯な協議による自主解決が望ましいとする立場を明らかにしている。しかし、この間における国の協議拒否の姿勢の頑なさは尋常ではない。

代執行訴訟の和解は今年の3月4日金曜日だった。誰もが、これから県と国との協議が始まる、と考えた。ところが、土・日をはさんで7日月曜日には、国は協議の申し入れではなく、県に対して「承認取消を取り消す」よう是正の指示を出している。国は、飽くまで辺野古新基地建設強行の姿勢を変えない。

「代執行訴訟における和解も、係争委員会の決定も、国と県との両者に真摯な協議による自主解決が望ましいとしているではないか。県は一貫して国との間に真摯な協議の継続を求めており、不作為の違法と評される謂われはない」とするのが県の立場。

衆目の一致するところ、先行した代執行訴訟での原告国の勝ち目は極めて薄かった。この訴訟での国の敗訴で国が辺野古新基地建設を終局的に断念せざるをえなくなるわけではないが、国にとっては大きな痛手になることは避けられない。裁判所(福岡高裁那覇支部・多見谷寿郎裁判長)は、強引に両当事者に和解案を呑ませて、国を窮地から救ったのではないのだろうか。

国は敗訴を免れたが、埋立工事の停止という代償を払わざるをえなかった。以来、工事は止まったままだ。国は新たな訴訟での勝訴確定を急がねばならない立場に追い込まれている。裁判所の審理促進は、このような国の立場を慮り、気脈を通じているのではないかと思わせる。

裁判所が異様な審理のあり方を見せたのは、まずは被告となった県側が答弁書を提出する前に争点整理案を提示したことである。裁判の大原則は当事者主義である。裁判所は両当事者の主張の範囲を逸脱した判決は書けない。だからまずは両者の言い分によく耳を傾けてからでなくては争点の整理はできない。答弁書提出前の争点整理など非常識で聞いたことがない。これではまるで昔のお白州並みだ。原告の審理促進の要望に肩入れしていると見られて当然なのだ。

本日(8月20日)の沖縄タイムスは、「『辺野古訴訟』結審 異様な裁判浮き彫りに」と題する社説を掲げている。そのなかに次の一文がある。

「2回の口頭弁論で見えてきたのは裁判の異様さである。
 この日も国側代理人は翁長知事に「最高裁の判断で違法だと確定した場合に是正するのは当然だという理解でいいか」と繰り返し尋ねた。多見谷裁判長も「県が負けて最高裁で確定したら取り消し処分を取り消すか」とただした。
 審理中の訴訟について、県が敗訴することを前提に最高裁における確定判決に従うかどうかを質問するのは裁判所の矩を超えている。
 多見谷裁判長と国側代理人の示し合わせたような尋問をみると、3月に成立した国と県の和解は、国への助け舟で仕組まれたものだったのではないかとの疑念が拭えない。

 多見谷裁判長は昨年10月30日付で福岡高裁那覇支部に異動している。国が代執行訴訟に向けて動き始めていた時期と重なっていたため、さまざまな臆測を呼んだ。
 同裁判長と国側代理人を務める定塚誠・法務省訟務局長は成田空港に隣接する農地の明け渡しを求めた「成田訴訟」で、それぞれ千葉地裁、東京高裁の裁判官を務めていたことがある。定塚氏は和解条項の案文や和解受け入れにも深く関わっている。」

本来、裁判所は両当事者から等距離の第三者でなければならない。国の代理人が仲間の裁判官という構図で裁判が進行しているのだ。」

また、本日(8月20日)の琉球新報は、こう述べている。
「原発問題など地方自治体の民意と国益の衝突は全国にあり、今後、地方と国の対立が司法に持ち込まれる場面は増加するとみられる。不作為の違法確認訴訟は今回が制度創設以来初めてのケースだ。多見谷寿郎裁判長が、まだ煮詰まっているとは到底言えない議論をどう整理するのか。訴訟の判決は、司法が地方自治とどう向き合うかを問う試金石となる。」

そのとおりだ。試金石の意味を敷衍すれば、こうなるだろう。
9月16日判決で沖縄県が勝訴すれば、公正な司法が地方自治と真っ当に向き合ったことの証しとなる。しかし、もし国が勝訴するようなことがあれば、裁判の公正に対する国民の信頼は地に落ちることになる。司法は真っ当に地方自治に向き合っていないと評せざるをえないということだ。

そんな裁判で、仮に沖縄県が敗訴したとしよう。知事が、確定判決に従わざるをえないことは当然としても、そのことが「辺野古新基地建設を阻止する」手立てを失うことにはならない。訴訟は、「あらゆる手段を尽くして辺野古新基地建設を阻止する」という手立のひとつに過ぎない。しかも、法的手段がまったくなくなるというわけでもない。

民意が新基地建設反対という以上は、本来国は無理なことをやっているのだ。強引になればなるほど、傷を大きくするのは国でありアベ政権とならざるを得ない。自民党だけではない。国交相を出している公明党にとっても大きな打撃となるだろう。
(2016年8月20日)

「ストップ・アベ暴走」の都政を目指してー千載一遇のチャンスを逃がすな

本日(7月14日)告示の都知事選がスタートした。投票日は7月31日、猛暑のさなかの文字通り熱い選挙戦である。

今回都知事選は、リベラル勢力にとっては千載一遇のチャンスである。この絶好のチャンスを逃してはならない。これまで、革新統一といえば「社共+市民運動」が最大幅だった。2012年選挙でも、2014年選挙でも、ようやく実現した「社共+市民」の枠組み。しかし、結果は惨敗に終わった。200万票を取らねば勝負にならないところ、この枠組みでは100万票に届かない。これでは勝てないことが手痛い教訓として身に沁みた。3度同じ愚を犯すわけにはいかない。

今回は、幅広く4野党共闘でのリベラル派統一候補の推挙が実現した。昨年の戦争法反対運動の盛り上がりの中で、デモに参加した市民の声として湧き起こった「野党は共闘」というスローガンが、参院選にも、そしてこのたびの都知事選にも結実しているのだ。

しかも、これまでの選挙とはまったく違って、リベラル派が候補者を統一し、保守の側が分裂しているのだ。まさに天の時は我が方にある。傍観者で終わることなく、この歴史的な闘いに何らかの方法で参加しようではないか。都民でなくても、選挙への協力は可能なのだから。

選挙の性格のとらえ方を統一する必要はない。私は、この都知事選を「ストップ・アベ暴走選挙」と命名したい。そして、「ストップ・アベ暴走都政」を実現させたい。美濃部革新都政第2期の選挙が、「ストップ・ザ・サトウ」選挙であった例に倣ってのことだ。ベトナム反戦の時代の空気を都知事選に持ち込んでの成功例。この選挙で美濃部は361万票を得て、保守派候補(秦野章)にダブルスコアで圧勝している。一昨日(7月12日)の鳥越俊太郎出馬会見は、意識的に改憲問題や国政批判を都知事選のテーマに持ち込むものであった。

この会見を報じた朝日の見出しは、「鳥越氏『時代の流れ、元に戻す力に』 都知事選立候補」というもの。今の時代がおかしいのだ、元の流れに戻さなければならない。そのような思いを日本の首都の選挙で訴えて広く共感を得たい。これが、朝日の理解した鳥越出馬の真意。

記事本文での当該部分の会見発言の引用は次のようになっている。
「『あえて付けくわえるなら』としたうえで、立候補を決めた理由を『参院選の結果で、憲法改正が射程に入っていることがわかった。日本の時代の流れが変わり始めた。東京都の問題でもある。国全体がそういう方向にかじを切り始めている。元に戻す力になれば。それを東京から発信したい』と語った。

読売も、朝日とよく似た見出しとなった。「鳥越氏、都知事選出馬表明『流れ元に戻す力に』」というもの。記事本文は、次のとおり。

鳥越氏は12日午後、都内のホテルで記者会見を開き、「残りの人生を『東京都を住んで良し、働いて良し、環境良し』とすることにささげたい」と語った。出馬理由については「参院選の結果を見て、平和の時代の流れが変わり始めたと感じた。国全体がかじを切る中、流れを元に戻す力になりたいと思った」と説明した。

毎日の見出しは、「野党統一鳥越氏が出馬」と無骨だが、次のように会見の内容を紹介している。これが、一番よく、鳥越の気持ちを伝えているのではないか。

「私は昭和15年、1940年の生まれです。防空壕にいたこともよく記憶しています。戦争を知る最後の世代、戦後の第1期生として、平和と民主主義の教育の中で育ってきました。憲法改正が射程に入ってきているというのが参院選の中で分かりました。『それは国政の問題で東京都政とは関係ないだろう』という方もいると思いますが、日本の首都だから大いに関係があると思う。戦争を知る世代の端くれとして、都民にそういうことも訴えて、参院選と違う結果が出るとうれしいというのが私の気持ちです。」

国政と都政が無関係なはずはない。都政は国政を補強もすれば減殺もする。また、都知事選を、多くの都民が国政に感じている危ない時代の空気を批判する機会と位置づけて悪かろうはずがない。時代の危うさとは、アベ政治の暴走にほかならない。アベ政治の暴走の中身には二つの軸がある。一つは新自由主義の経済政策であり、もう一つは軍事大国化の政治路線だ。

新自由主義の経済政策が格差と貧困をもたらし、雇用の形にも福祉の切り捨てにも、教育や保育や介護にも、都民の生活に大きく影響していることは論を待たない。経済や福祉・労働等々に関する都政は、アベ政治を批判するものとならざるを得ない。

軍事大国化とは、戦後民主主義の否定であり、集団的自衛権行使容認であり、立憲主義の否定であり、さらには9条改憲の政治路線である。鳥越は、これに抗する姿勢を明確にしている。自分を「戦争を知る最後の世代であり、戦後の第1期生として、平和と民主主義の教育の中で育ってきました」として、「憲法改正が射程に入ってきている」この恐るべき時代を看過し得ないとしているのだ。

都政は、軍事大国化路線と無関係ではない。政府に協力してこれを補強もすれば、政権に抵抗して平和を志向することもできる。鳥越会見では、横田基地へのオスプレイ導入の阻止、米軍管理下の「横田管制」の正常化。政権の意向から独立した各国首都間の友好交流が平和に大きな意味を持つなどの発言があった。首都の原発ノー政策は核軍縮と関わるものとなる。

さらに、民主主義を大切にする真っ当な教育行政は、反アベ政治の色彩を持たざるを得ない。第1次アベ政権は教育基本法の「改正」に手を付けた。第2次では、教育委員会制度の骨抜きもした。鳥越都政はこれに対抗して、地教行法が想定する真っ当な教育委員を選任して、荒廃した東京都の公教育を改善することができる。教科書採択も、現場の教員の声を反映したものにすることができる。これだけでも、アベ政治に対する大きな打撃になる。

今回の都知事選挙を、「前知事の責任追及合戦」に終始し、「新都知事のクリーン度」を競い合うだけのものとするのではもの足りない。行政の公開や監視のシステム作りという技術的なテーマは、4野党のスタッフにまかせて上手に作ってもらえばよい。

都知事は、憲法の精神を都政に活かす基本姿勢さえしっかりしておればよい。その基本姿勢さえあれば、細かい政策は、ブレーンなりスタッフなりが補ってくれる。4野党が責任もって推薦しているのだ。そのあたりの人的な援助には4野党が知恵をしぼらなければならない。
(2016年7月14日)

浜の一揆訴訟が問いかけるものー「21世紀の水産を考える会」総会での報告

「NPO法人21世紀の水産を考える会」の年次総会にお招きいただき、浜の一揆訴訟についてお話しする機会をいただいたことに感謝いたします。

この運動、この訴訟について、是非とも多くの人に知ってもらいたいのです。しかし、岩手の地元メディアは紹介に冷淡です。行政や漁連に遠慮をしているのではないかといういぶかしさを拭えません。漁民自身が、「生活を守ろう」「後継者を確保して漁業を継続しよう」と立ち上がっていることに、もっと大きな関心をもって話題にしてもらいたいところです。

私は、この漁民の運動を、幕末の三閉伊一揆と同様の理不尽な支配構造への抵抗運動だととらえています。そのことをご理解いただきたくて、別紙のようにレジメはつくってまいりました。ところが、本日の総会に配布された、貴会の機関誌「日本人とさかな」33号に、トピックス「浜一揆提訴報告(岩手県サケ漁業権裁判)」が掲載されています。目を通して見ますとこれがなかなかによくできている。無味乾燥なKレジメよりよっぽど面白い。私が今日お話ししようと思ったことは、あらかたここに書いてある。実はこれ、私のブログの転載記事なのです。

「漁業で生活できる行政を」―浜の一揆訴訟の第3回法廷
  http://article9.jp/wordpress/?p=6902

3頁にわたるかなりの長文ですが、さわりは次の文章。

「(1月14日法廷後の)報告集会では、いくつもの印象的な発言があった。
『サケがとれるかどうかは死活問題だし、今のままでは後継者が育たない。どうして、行政はわれわれの声に耳を傾けてくれないのだろうか。』『昔はわれわれもサケを獲っていた。突然とれなくなったのは平成2年からだ。』『いまでも県境を越えた宮城の漁民が目の前で、固定式刺し網でサケを獲っているではないか。どうして岩手だけが定置網に独占させ、漁民が目の前のサケを捕れないのか』『大規模に定置網をやっているのは浜の有力者と漁協だ。有力者の定置網漁は論外として、漁協ならよいとはならない。』『定置網漁自営を始めたことも、稚魚の放流事業も、漁民全体の利益のためとして始められたはず。それが、漁協存続のための自営定置となり、放流事業となってしまっている。漁民の生活や後継者問題よりも漁協の存続が大事という発想が間違っていると思う』

帰りの車内で、これはかなり根の深い問題なのではないかと思い至った。普遍性の高いイデオロギー論争のテーマと言ってよいのではなかろうか。

岩手県水産行政の一般漁民に対するサケ漁禁止の措置。岩手県側の言い分にまったく理のないはずはない。幕末の南部藩にも、天皇制政府にも、その政策には当然にそれなりの「理」(正義)があった。その「理」と、岩手県水産行政の「理」とどう違うのだろうか。あるいは同じなのだろうか。

私は現在の県政の方針を、南部藩政の御触にたとえてきた。定めし、高札にこう書いてあるのだ。

『今般領内沿岸のサケ漁の儀は、藩が格別に特許を与えた者以外には一律に禁止する』
『これまで漁民の中にはサケを獲って生計を立てる者があったと聞くが、今後漁民がサケを獲ること一切まかりならぬ』
『密漁は厳しく詮議し、禁を犯したる者の漁船漁具を取り上げ、入牢6月を申しつくるものなり』
これに対する漁民の抵抗だから、『浜の一揆』なのだ。

しかし、当時の藩政も「理」のないお触れを出すはずはない。すべてのお触れにも高札にも、それなりの「理」はあったのだ。「理」は「正義」と言い換えてもよい。まずは「藩の利益=領民全体の利益」という「公益」論の「理」(正義)が考えられる。

漁民にサケを獲らせては、貴重なサケ資源が私益にむさぼられることになるのみ。サケは公が管理してこそ、領民全体が潤うことになる。公が管理することとなればサケ漁獲の利益が直接に漁民に配分されることにはならないが、藩が潤うことはやがて下々にトリクルダウンするのだ。年貢や賦役の軽減にもつながる。これこそ、ご政道の公平というものだ、という「理」(正義)である。

天皇制政府も、個人の私益を捨てて公益のために奉仕するよう滅私奉公を説いた。その究極が、「命を捨てよ国のため、等しく神と祀られて、御代をぞ安く守るべき」という靖國の精神である。「君のため国のため」「お国のため」の滅私奉公が美徳とされ、個人の私益追求は悪徳とされた。個人にサケを獲らせるのではなく、公がサケ漁を独占することに違和感のない時代であった。

また、現状こそがあるべき秩序だという「理」(正義)があろう。『存在するものはすべて合理的である』とは、常に聞かされてきた保守派のフレーズだ。現状がこうなっているのは、それなりの合理的な理由と必然性があってのこと。軽々に現状を変えるべきではない。これは、現状の政策の矛盾を見たくない、見ようともしない者の常套句だ。もちろん、現状で利益に与っている者にとっては、その「利」を「理」の形にカムフラージュしているだけのことではあるが。

現行の岩手県水産行政は、藩政や明治憲法の時代とは違うという反論は、当然にあるだろう。一つは、漁協は民主的な漁民の自治組織なのだから漁協の漁獲独占には合理性がある、というもの。この論法、原告の漁民たちには鼻先であしらわれて、まったく通じない。よく考えると、この理屈、個人よりも家が大切。社員よりも会社が大事。住民よりも自治体が。国民よりも国家に価値あり。という論法と軌を一にするものではないか。個人の漁の権利を漁協が取り上げ、漁協存続のためのサケ漁独占となっているのが現状なのだ。漁協栄えて漁民亡ぶの本末転倒の図なのである。

また、現状こそが民主的に構成された秩序なのだという「理」(正義)もあろう。まずは行政は地方自治制度のもと民意に支えられている。その民主的に選出された知事による行政、しかも民主的な議会によるチェックも、漁業調整委員会という漁民によるチェックもある。その行政が、正当な手続で決めたことである。なんの間違いがあろうか。そういう気分が、地元メデイアの中にもあるように見受けられる。そのような社会だから、漁民が苦労を強いられることになるのだ。」

以上のことで、私が本日申しあげたいことは尽きているのですが、あらためて整理すれば以下の3点ほどのことになります。

まずは、浜の一揆訴訟では、漁民らは憲法上の権利の実現を要求しているのであって、「お代官様のお情けにおすがりして、サケをとらせていただくよう特別の許可をお願いしているのではない」ということ。

しかも、漁民らの要求は生活の維持のための切実なもので、生存と後継者維持の立場から不可欠なものとして尊重されなければならないこと。

これに対抗して、漁民のサケ漁の権利を制約してもよいとする岩手県知事の側の根拠がおよそ薄弱であること。中でも、漁協中心主義の漁業政策に納得できるような根拠は見出し難いこと。

このことをお話しするために準備したレジメは以下のとおりです。

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はじめに

三陸沿岸の漁民は、予てから沿岸で秋サケの採捕を禁じられていることの不合理を不満とし、これまで岩手県水産行政に請願や陳情を重ねてきたが、なんの進展もみませんでした。とりわけ、3・11の被災後はこの不合理を耐えがたいものと感じることとなり、2015年11月5日、100人の漁民が岩手県(知事)を被告として、盛岡地裁に行政訴訟を提起しました。原告らは、これを「浜の一揆」訴
訟と呼んでいます。

訴訟における請求の内容は、県知事の行った「サケ採捕申請不許可処分」の取消と、知事に対する「各漁民のサケ採捕申請許可」義務付けを求めるものです。
 小型漁船で零細な漁業を営む漁民に「サケを獲らせろ」という要求の実現を目指すもので、このことは、「漁民を保護して、漁業がなり立つ手立てを講じよ」という行政への批判と、「後継者が育つ漁業」をという切実な願いを背景にするものです。本件は県政の水産行政のあり方を問うとともに、地域の民主主義のあり方を問う訴訟でもあります。また、3・11被災後の沿岸漁業と地域経済の復興にも、重大な影響をもつものとも考えています。

Ⅰ 訴訟の概要
第1 経過概要
 1 県知事宛許可申請⇒小型漁船による固定式刺し網漁のサケ採捕許可申請
    2014年9月30日 第1次申請
    2014年11月4日 第2次申請
    2015年1月30日 第3次申請
 2 不許可決定(102名に対するもの)
    2015年6月12日 岩手県知事・不許可決定(277号・278号)
     *277号は、固定式刺し網漁の許可を得ている者  53名
     *278号は、固定式刺し網漁の許可を得ていない者 49名
 3 審査請求
    2015年7月29日 農水大臣宛審査請求(102名)
    2015年9月17日 県側からの弁明書提出
    2015年10月30日 審査請求の翌日から3か月を経過
 4 提訴と訴訟の経過
    2015年11月5日 岩手県知事を被告とする行政訴訟の提起(100名)
    2016年1月14日 第1回法廷 瀧澤さん意見陳述 訴状・答弁書陳述
    2016年3月11日 第2回法廷 
    2016年5月20日 第3回法廷 
    2016年8月05日 次回第4回法廷(予定)

第2 訴訟の提訴の内容
 1 当事者 原告 三陸沿岸の小型漁船漁業を営む一般漁民100名
          (すべて許可申請・不許可・審査請求の手続を経ている者)
         被告 岩手県(処分庁 岩手県知事達増拓也) 
 2 請求の内容
   *知事の不許可処分(277号・278号)を取消せ
     *277号処分原告(既に固定式刺し網漁の許可を得ている者) 51名
     *278号処分原告(固定式刺し網漁の許可を得ていない者)  49名
   *知事に対するサケ漁許可の義務づけ(全原告について)
    「年間10トンの漁獲量を上限とするサケの採捕を目的とする固定式刺網漁業許可申請について、申請のとおりの許可をせよ。」

第3 争点の概略
1 処分取消請求における、知事のした不許可処分の違法の有無
(1) 手続的違法
  行政手続法は、行政処分に理由の付記を要求している。付記すべき理由とは、形式的なもの(適用法条を示すだけ)では足りず、実質的な不許可の根拠を記載しなければならない。それを欠けば違法として取消理由となる。ましてや、本来国民の自由な行為を一般的に禁止したうえ、申請に従って個別に解除して本来の自由を回復すべき局面においては、飽くまでも許可が原則であって、不許可として自由を制約するには、合理性と必要性を備えた理由が要求される。その具体的な理由の付記を欠いた本件不許可処分はそれだけで手続的に違法である。
  本件不許可処分には、「内部の取扱方針でそう決めたから」というだけで、まったく実質的な理由が書かれていない。
(2) 実質的違法
  法は、申請あれば許可処分を原則としているが、許可障害事由ある場合には不許可処分となる。下記2点がサケ採捕の許可申請に対する障害事由として認められるか。飽くまで、主張・立証の責任は岩手県側にある。
  ①漁業調整の必要←漁業法65条1項
  ②水産資源の保護培養の必要←水産資源保護法4条1項
2 義務づけの要件の有無 上記1と表裏一体。 
3 原被告間の議論はまだ噛み合ったものとなっていない。

Ⅱ 何が争われているのか
第1 漁民のサケ採捕は憲法上の権利である。これを制限しうるのか。
1 憲法22条1項は営業の自由を保障している。
    ⇒漁民がサケの漁をすることは原則として自由(憲法上の権利)
    ⇒自由の制限には、合理性・必要性に支えられた理由がなくてはならない。
  *漁業法65条1項は、「漁業調整」の必要あれば、
   水産資源保護法4条1項は、水産資源の保護培養の必要あれば、
    「知事の許可を受けなければならないこととすることができる。」
  *岩手県漁業調整規則23条
   「知事は、「漁業調整」又は「水産資源の保護培養」のため必要があると認める場合は、漁業の認可をしない。」
   ⇒県知事が、「漁業調整」「水産資源の保護培養」の必要性について
      具体的な事由を提示し、証明しなければならない。
2 海洋の資源は原則として無主物であって、これを採捕(採取と捕獲を併せた立法上の造語)することは本来的に自由である。採捕を業として行うことは、営業の自由(憲法22条1項)に属する基本権として保障されている。
  憲法上の基本権が、無制限な自由ではなく、「公共の福祉」による内在的な制約に服すべきことは当然としても、原則が自由であることは、その制約には、首肯しうるだけの、制約の必要性と合理性を根拠づける理由がなくてはならない。
3 原告は、自らの憲法上の権利を制約する行政庁の不許可処分を特定して、これを違法と主張しているのである。権利を制約した側の被告行政庁において、その適法性の根拠を主張し挙証する責めを負うべきは当然である。
4 原告の営業の自由を制約する法律上の根拠は、漁業法65条1項にいう「漁業調整の必要」と、水産資源保護法4条1項にいう「資源の保護培養の必要」以外にはない。岩手県漁業調整規則23条1項3号は、この両者を取り込んで「知事は、漁業調整又は水産資源の保護培養のため必要があると認める場合は起業の認可をしない」としている。
5 だから、本来被告は「漁業調整又は水産資源の保護培養のための必要」に当たる具体的事実を主張しなければならない。しかも、「憲法上の権利を制約する根拠として」十分な、必要性・合理性を基礎づけるものでなくてはならない。
6 ところが、被告は自らした不許可処分の適法性の根拠について語るところはなく、もっぱら内規として取り決めた「取扱方針」によるとだけ主張して、具体的な根拠事実を主張しようとしない。原告に許可を与えれば漁業調整や水産資源の保護に不都合が生じる根拠となる具体的な事実についてはまったく主張しようとしない。「庁内で作成した「取扱方針」(2002年制定)にそう書いてあるから」というだけ。しかも、知事が適用している「取扱方針」の条項は、「固定式刺し網漁不許可」に関するもので、「サケ漁の許可」に関するものではない。51名の原告は「固定式刺し網漁不許可」は既に得ているので、被告(知事)の不許可処分の理由は、論理的に破綻している。

第2 漁協中心主義は漁民の権利を制約しうるか。
1 漁業法にいう、漁業の民主化とはなにか。
  零細の個々の漁民の権利にこそ配慮することではないか。漁協の営業のために、漁民の営業を圧迫することは「民主化」への逆行である。
2 漁民あっての漁協であって、漁協あっての漁民ではない。
  主客の店頭は、お国のための滅私奉公と同様の全体主義的発想ではないか。
3 結局は、浜の有力者に奉仕する漁業行政の「カムフラージュの理論」ではないか。
            以 上
(2016年6月25日)  

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