澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

ワタシが強面のニコルソンだ。オスプレイは、今後も飛ばす。

オスプレイは、墜落したのではない。コントロールされた状態で着水したのだ。確かに機体は大破し乗員二人は脱出時に負傷した。常識的には、これは「crush」(墜落)だろう。しかし、そんなことが今問題なのではない。重要なことは機体が着水直前まで完全にコントロールされた状態にあったことだ。だから、誰がなんと言おうともこれは、「landing on the water」(着水)なのだ。

墜落か着水かを分けるものが、「under control」だ。これあればこそ、パイロットは負傷しながらも住宅や住民の被害を避け得たのだ。沖縄の住民は、重大事故から間一髪のところで、オスプレイ・パイロットの的確な判断と英雄的な行為によって救われたのだ。これは表彰に値する。だから、沖縄県は挙ってオスプレイのパイロットに感謝すべきではないか。少なくとも、負傷の米兵に見舞いの言葉があってしかるべきだ。それを、副知事お出ましの抗議とは筋違いも甚だしい。ワタシは怒りを抑えきれない。机を叩くぐらいのことはする。

貴国の総理大臣も私と同じではないか。彼は、2013年9月7日ブエノスアイレスで開催されたIOC総会の席上、福島第1原発の汚染水排出問題を「The situation is under control」と表現している。その言葉で、東京オリンピック誘致に成功したのだ。当時常識的には、事故後の原発の汚染水が外洋にダダ漏れになっていたことは世界中の人が知っていた。それでも、「under control」だ。「under control」とは、かくも使い勝手のよい便利な言葉なのだ。

もし、私の「under control」がウソだというのなら、貴国の総理大臣も大嘘つきだ。そんな大嘘つきが首相を務める国の自治体が、ワタシに抗議する資格などあるわけはない。

そもそも、米軍が日本を片務的に防衛してやっているのだ。沖縄県も日本の一部ではないか。常々、駐留米軍に対する敬意と感謝の気持ちが足りないことを不満に思ってきた。どうして、そのような不遜な態度がとれるのか。

オスプレイの騒音がうるさいとか、事故の確率が高くて不安だとか、軍人の態度が横暴だとか、遵法精神に乏しいとか、そのくらいのことは、些細なこととして我慢してもらわなければならない。沖縄が、他国から攻めてこられたら、うるさいの、危ないの、不愉快だなどというレベルの問題ではないではないか。守ってもらっていることへの感謝の気持がもっとあってもよいはずなのだ。

オスプレイが沖縄に配備されてから既に4年を経過した。その間事故がなかったことはたいへんなことだ。どうしてこのことを立派なことと言わずに、たった一度の事故らしい事故で、被害もないのに大騒ぎをするのだろうか。

安慶田副知事は、ワタシへの抗議のあとの記者会見を行い、こう記事にさせている。
「安慶田氏によると、抗議の際、在沖米軍トップで第3海兵遠征軍司令官のニコルソン四軍調整官の表情はみるみる怒気に染まっていった。ニコルソン氏は『パイロットは住宅、住民に被害を与えなかった。感謝されるべきで表彰ものだ』と述べた。安慶田氏が『オスプレイも訓練もいらないから、どうぞ撤去してください』と伝えると、『政治問題化するのか』などと話し、テーブルをたたく場面もあったという。」「会談後、安慶田氏は記者団に『植民地意識丸出しだ。私たちからすると、抗議するのは当然だ』と感想を述べた。」

ワタシは、「植民地意識丸出しだ」という副知事の記者会見発言に驚いた。副知事は、沖縄を米軍の植民地ではないと思っているようだ。もちろん、19世紀から20世紀前半の「植民地」とは違うかも知れない。しかし、米軍は大きな犠牲を払って沖縄地上戦を制したのだ。また、戦後の占領期に、日本の天皇(裕仁)はマッカーサーに、独立後も沖縄の占領を継続するよう申し出た事実もあるではないか。今の沖縄は、戦争によって、敗戦国日本から戦勝国米国に差し出された「植民地同然」の島ではないか。いまさら、「植民地意識丸出しだ」などという抗議が成立する余地はない。

確かに、沖縄がオスプレイ配備に反対だということは知っている。知事が反対派の筆頭だ。県議会は3度も反対を決議し、41市町村の全議会も同調している。2012年9月には配備反対の県民大会が開かれ、10万1千人(主催者発表)が集まった事実もある。13年1月には全市町村の首長らが参加して東京・銀座を、オール沖縄勢力がデモ行進する事態に発展した。今も、確かに反対する県民世論は強く大きい。

しかし、本来この問題の所管は日本の政府だろう。国が米軍のオスプレイ配備計画に異を唱えたことは一度もない。防衛大臣も「不時着水」と繰り返しているではないか。アベ政権は、もの分かりがよい。だから、沖縄県が何を言っても、ワタシたちは本来無視してよいはずなのだ。それを忙しい時間を割いて、面会してやっていることをよく理解していただきたい。

どんな自動車も飛行機も、所詮は人が作った機械だ。絶対安全ということはありえない。オスプレイも、「いつか落ちる」ものなのだ。それが今回であったというだけのことではないか。今回の事故でワタシ自身が問題ないと確信するまで飛行はしないが、もちろんほとぼりの冷めたころには必ず飛行を再開する。ワシントンもオスプレイは引き続き飛行すると判断している。アベ政権も容認、いや歓迎するに違いない。

それでいったい何が問題なのか、聞かせてもらいたいものだ。ワタシには理解できない。
(2016年12月15日)

最高裁がどう断じても、民意は辺野古新基地を作らせない。

本日(12月12日)沖縄タイムスと琉球新報が、ともに号外を発行した。ほぼ同じ大見出し。「辺野古 県敗訴へ」「最高裁 弁論開かず」「20日上告審判決」「高裁判決確定」というもの。

記事の内容は「名護市辺野古の新基地建設を巡り、石井啓一国土交通相が翁長雄志知事を訴えた『辺野古違法確認訴訟』で最高裁は12日までに、上告審判決を今月20日午後3時に言い渡すことを決めた。辺野古沿岸部の埋め立て承認取り消しを違法とし、知事が敗訴した福岡高裁那覇支部の判決の見直しに必要な弁論を開かないため、県側敗訴が確定する見通し。知事は今後、埋め立て承認取り消しを撤回する手続きに入る。」というもの。

もちろん、12月20日の判決で問題は解決しない。ことの性質上、国が敗訴すれば、問題は解決する。しかし、県が敗訴しても紛争が終息するはずもない。沖縄の民意が新基地建設反対である以上は、その切実な要求を掲げた闘いは続く。知事には、幾つも手段が残されている。大浦湾埋立工事は再開できるのか。恒久的な新基地建設は完成に至るのか。予断を許さない。さて、これから局面は具体的にどうなるか。

沖縄タイムスは、こう言っている。
「国は早期に埋め立て工事を再開する考え。ただ、国が工事を進めるために必要な設計概要や岩礁破砕の許可申請に対し、県は不許可とすることを検討。埋め立て承認の撤回も視野に入れている。新基地建設を巡る国と県の争いは新たな段階に突入する。」

琉球新報はこうだ。
「翁長知事は『確定判決には従う』と述べており、最高裁判決後にも埋め立て承認取り消しを“取り消す”見通しとなった。国が新基地建設工事を再開する法的根拠が復活する。一方、翁長知事は敗訴した場合でも『あらゆる手法』で辺野古新基地建設を阻止する姿勢は変わらないとしており、移設問題の行方は不透明な情勢が続く。」

最高裁の12月20日判決言い渡しが沖縄県敗訴となる公算は限りなく高い。予想されていたことながら、この局面だけを見れば残念なこと。敗訴確定して、沖縄県は「その内容に不服だから、確定判決といえども従わない」とは言えない。言うべきでないとも言えるだろう。では、確定判決によって何が確定して、争えなくなるのか。

訴訟は、国土交通相(国)が原告となって、沖縄県知事を訴えた「不作為の違法確認訴訟」である。「地方自治法251条の7第1項の規定に基づく不作為の違法確認請求事件」と事件名が付されている。弁護士にだってなじみのない事件名。その一審・福岡高裁那覇支部判決の主文は以下のとおりである。

「原告(国)が被告(県)に対して平成28年3月16日付け『公有水面埋立法に基づく埋立承認の取消処分の取消しについて(指示)』(国水政第102号)によってした地方自治法245条の7第1項に基づく是正の指示に基づいて,被告が公有水面埋立法42条1項に基づく埋立承認(平成25年12月27日付沖縄県指令土第1321号,沖縄県指令農第1721号)を取り消した処分(平成27年10月13日付沖縄県達土第233号,沖縄県道農第3189号)を取り消さないことが違法であることを確認する。」

経過についての予備知識なしに理解しうる文章ではない。なんとか分かるように、日本語を組み直してみよう。

まず「仲井眞承認」(辺野古基地建設のために国が大浦湾埋立をすることの許可)があった。これを前知事の間違った承認として翁長現知事が取り消した(「翁長取消」と呼ぶ)。原告(国)は被告(県)に対して、「『翁長取消』を取り消せ」と是正指示(地方自治法に基づくもの)をした。ところが、被告(県)はこれに従わない。そこで、「国の指示に従って、県は「翁長取消し」を取り消すべきなのにこれを取り消さない。この県の不作為は違法」と裁判所に宣告を求めたのがこの訴訟である。

今年(2016年)9月16日、福岡高裁那覇支部は、「翁長知事による前知事の承認取り消しは違法」として、同取り消しの違法の確認を求めていた国の主張を全面的に認める判決を出した。上告棄却によって、この高裁判決が確定することになる。

判決が確定すれば、遺憾ながら「『翁長取消し』を取り消さない県の不作為が違法であること」が確認され、その蒸し返しはできないことになる。「不作為の違法確認」と「作為の強制」とは異なるから、「取消の作為を命じる強制力はない」という議論もあるのだろうが、知事の採るべき選択ではなかろう。

しかし、「翁長取消し」が違法とされた結果として「仲井眞承認」が復活したとしても、工事の続行ができるかどうかは別問題である。

国が海面の埋立工事を進めるためには県の承認(許可と同義)が必要だが、一回の包括的承認で済むことにはならない。「仲井眞承認」の有効を前提としても、今後の工事続行は種々の知事の許可が必要なのだ。まずは、設計概要や岩礁破砕の許可が必要なところ、そのような国の申請に対し県は不許可を重ねることになるだろう。このことは以前から報じられていたことだ。知事側が徹底抗戦すれば、工事の続行は困難といわなければならない。さらには、仲井眞承認に瑕疵のあることを前提とした『取消』ではなく、「県の公益が国の公益を上回った場合には、『撤回』もできる」という考え方もある。

これだけの地元の反対がある中での基地の建設や維持がそもそも無理というべきなのだ。沖縄県民の反基地世論が燃え、本土の支援がこれに呼応する限り、辺野古新基地建設は至難の業というべきであろう。最高裁判決に意気阻喪する必要はない。そして、こんなことで沖縄を孤立させてはならない。
(2016年12月12日)

「国旗に一礼しない村長」に敬意を払いつつ、上原公子元国立市長擁護のご意見に異議を申し述べます。

曽我逸郎様。
長野県・中川村村長としての貴兄のご活躍に、心からの敬意を表します。
貴兄は、「国旗に一礼しない村長」として話題になったというだけでなく、日本国憲法について、民主主義のあり方について、平和について、核や原発について、そして沖縄を典型とする地方自治の問題について、あるいは人生や文明というものについて、含蓄の深いそして強者や体制におもねらない発言を続けてこられました。

10年余にわたる貴兄のご意見は、「村長からのメッセージ」として下記URLで閲覧可能で、ときおり拝読しては大いに共感してきたところです。
http://www.vill.nakagawa.nagano.jp/index.php?f=hp&ci=10685

しかし、ひとつだけ、貴兄に誤解があるのではないか。考え直していただくべきではないか、と指摘せざるを得ない「メッセージ」があります。このブログが貴兄の目に留まることになるかどうか、はなはだ心もとないのですが、一言申し述べます。

貴兄は、今年(2016年)5月6日付けで、「最高裁長官宛て 上原公子元国立市長に対する国立市の訴訟に関する意見書」を提出しておられます。中川村のホームページによれば、その全文は後掲のとおりですが、貴兄の他のご意見と異なって十分に検討し推敲した文章となっておらず、そのために誤った結論に至ったものではないかと危惧せざるをえません。

貴兄は自治体首長であって、来年(2017年)の村長選には不出馬を宣しておられます。意地の悪い見方をすれば、「元村長」となった後、上原公子氏の如く後任首長から訴追されるようなことは避けたいとする立場。その立場からの発言と見られかねないだけに、ご意見にはより慎重さが要求されたところではないでしょうか。

私の立場を端的に申しあげますと、私は住民訴訟の原告代理人を何件か努め、首長や責任ある地方公務員の違憲違法な行為を追及してきた弁護士です。その立場から地方自治法に基づく住民訴訟とは、民主主義原理(「多数決原理」といった方が正確かも知れません)の欠陥を補うための工夫として、直接に法の支配の原理を働かせる貴重な制度だと思っています。

民主的に選任された首長と議会には広い裁量の権限があります。しかし、予め法が定めた限度を超えてはならない。換言すれば違法なことはできません。これは当然のことです。しかし、通常首長は住民多数派を代表していますから、首長に違法行為があっても、議会はその責任追及には及び腰にならざるを得ません。住民からの批判も、必ずしも次の選挙で有効に働くとは言いがたい現実があります。議会も首長も圧倒的な保守地盤から成立している多くの自治体や、現在の大阪府・市の例をイメージすればお分かりいただけると思います。

これを補うのが、監査請求を経ての住民訴訟の制度です。住民たったひとりでも、首長の違法(「不当」のレベルではなく、「違法」であることが必要です)を裁判所に訴え出ることができるのです。その審理の結果として、首長の違法行為によって自治体財政に損害が生じたと認定されれば、裁判所は「自治体は首長(個人)にその損害賠償を請求せよ」という判決を出します。これは、首長に違法なことをさせず、自治体の財政を守るための貴重な制度であり、上原元市長の事例は、その貴重な制度の貴重な活用例というべきだと思います。

以上の基本的立場から、貴兄が挙げている上原元市長擁護の理由6点に、具体的にご意見を申しあげます。(なお、貴見の引用は原文のママです)

1 景観保全、マンション建設反対は、市民の強い要請に基づくものであり、けして上原氏の独断専行ではないこと。

「景観保全、マンション建設反対が、(既に国立市に居住している)市民の強い要請に基づくもの」であったことは、おそらくご指摘のとおりだと思います。先行諸判決も元市長の行為の目的を不当とは認定していません。いうまでもなく、元市長の行為の目的が正当であったとしても、それだけで行為の違法性が阻却されることにはなりません。

2 住民の要請に基づき、国立市をよくするために取り組んだのであって、上原氏の個人的利益に結びつくものではないこと。

この点も、判決が元市長の行為を「個人的利益に結びつくもの」と認定しているわけではありません。「個人的利益に結びつくものではない行為は違法ではない」と言えないことは、特に指摘するまでもありません。

3 先立つ裁判において、条例制定は有効と認められており、手続きに重大な瑕疵がないこと。

これは、お間違いではないでしょうか。「先立つ裁判において」は、「条例制定は有効と認められたにもかかわらず」、「元市長の行為には手続的に重大な瑕疵があり、違法行為があった」と事実認定されたのです。

なお、「手続きに重大な瑕疵があったか否か」、「(手続的瑕疵あることを前提として)元市長に違法行為があったか否か」は、十分な事実関係に接することのできない私の立場では断定的判断を差し控えたいと思います。

言えることは、「先立つ裁判の結論」の引用ということでしかありません。
「先立つ裁判」の一つは、明和地所から国立市に対する4件の提訴です。これを受けて国立市は最高裁まで争い、結局確定した判決にしたがって、市は明和地所に3123 万 9726円を支払ったのです。一つ目の「先立つ裁判」の結果、現実にこれだけの損害が市の財政に生じたのです。

「先立つ裁判」の二つ目は、国立市の住民が提起した住民訴訟です。国立市の3000万円余の損失は当時の市長(上原公子氏)の責任ではないか、市の損失を穴埋めせよという訴訟が提起され、その結果、元市長の行為の違法と過失と因果関係が認定されました。その結果、「国立市は上原公子氏に対して、3123 万 9726円と年5%の遅延損害金の賠償を請求せよ」という判決が確定しました。二つ目の「先立つ裁判」の結果は、現実に生じた市財政の損害を当時の市長個人の責任として負担させよ、としたのです。

これが「先の判決」の内容です。上原公子氏が任意にこの判決に従わないから、「先の確定判決」にしたがって、国立市は上原元市長に訴訟を提起しているのです。「先の判決」を前提とする限り、元市長の責任は免れません。

もっとも、国立市が上原公子元市長を被告とした訴訟はまだ確定していません。昨年(2015年)12月22日東京高裁が言い渡した国立市全面勝訴の判決を不服として、元市長は上告と上告受理申立をしています。最高裁がこの記録を受理したのが今年(2016年)4月12日だそうです。その結果の逆転が絶対にないとは言い切れません。上告理由も、上告受理申立理由も見ていない者としては、軽々な意見は差し控えたいと思います。しかし、「先立つ裁判」を前提とするならば、上原元市長の責任は認められてしかるべきだと言わざるを得ないのです。

4 上記3点に問題がないにもかかわらず、首長個人を訴えることは、住民意志・住民自治に忠実たらんとしつつ積極的・民主的な活動で住民と共に解決策を模索しようとする自治体首長を萎縮させかねないこと。

この点は、「上記3点に問題がないにもかかわらず」という前提が誤っていますので、多くを述べる必要はないと思います。「住民意志・住民自治に忠実たらんとしつつ積極的・民主的な活動で住民と共に解決策を模索しよう」とすることが非難される筋合いはありません。問題は、自治体首長の「積極的」な行為が、法に照らして許される範囲を超えていないかどうかなのです。「先立つ裁判」も、当事件の高裁判決も、元市長には法の矩を越えた違法があったことを認定したのです。

5 企業の遺失利益は数値化がたやすいのに対して、住民の、良好な住環境を求める気持ちや環境破壊への不安は、金銭換算が難しく、住民側が企業を訴えることは困難であり、この種の損害賠償裁判は、企業側に偏った不公平なものになりがちなこと。

なるほど、そのようなご指摘は、さすがに地方自治の実務に責任を持つ立場にある方のご意見として傾聴に値するものと思います。しかし、本件訴訟で問題となっているのは、企業の利益と住民の利益との比較衡量ではありません。問題は、飽くまで、被告である元市長の行為が、法的に許されるか否かの一点のみにあるのです。

6 このような訴訟で賠償を得ることが広がれば、住民が反対するような計画を敢えて立案し、住民の不安を煽って反対運動で計画を中止させ、遺失利益の請求で利益を得ようとするビジネスモデルさえ生み出しかねず、そうなると増々地方自治と民主主義を萎縮させること。

私の理解力不足の所為だとは思いますが、この「ビジネスモデル論」についてはよく分かりません。もしかして、「このような訴訟」とは、明和地所の国立市に対する訴訟を指しているのでしょうか。仮に、明和地所が国立市を被告に提訴して、損害の賠償を得たことを不当とする趣旨とすれば、あたかも公権力の行使に対しては、民間の損害賠償は認められるべきではないとするがごとき旧憲法時代の暴論に聞こえます。

あるいは、「このような訴訟」が住民訴訟を指しているとすれば、「遺失利益(逸失利益)の請求」が、「提訴した住民個人の利益になっている」との誤解がありはしないでしょうか。住民訴訟で、おっしゃるような「ビジネスモデル」が成立するとは思いもよりません。

以上各点への私見に通底しているものは、政治家としての「専門家責任」です。萎縮することなく、違法を冒すこともないよう留意しながら住民のために働くべき責任です。いま、原発事故による被害者への巨額の損害賠償を、電力料金に加算して国民にその負担を分散しようとする試みが批判にさらされています。何よりも、原因者が責任をとらねばなりません。そして専門家としての電力会社の責任は厳格に考えなければならず、安易に他への責任転嫁を認めてはなりません。同様に、専門家としての政治家の責任も厳格に考えざるをえません。結果責任に限りなく近いものを求めて差し支えないと思います。上原元市長は軽率な行為で、貴重な市の財政に穴をあけた責任をとらねばならない立場にあります。もし、市長が自らの行為で市に損失を与えながら、これを免責して市民への負担の転嫁を許すとすれば、そのことによる自治体行政荒廃の悪影響こそが看過し得ないものとなるでしょう。

いずれにせよ、貴兄の歯切れのよい明晰な他のご意見と比較して、上原元市長擁護の発言だけは、いかにも説得力に欠けています。「上原氏は、何度か中川村に来て下さり、村づくりのアドバイスを頂いたこともあり、『脱原発をめざす首長会議』の事務局長としてもお世話になっている。」という友誼の関係から、このような意見書を敢えて書かれたとすれば、なるほどその故の思いに引きずられて、結論ありきのやや的はずれのご意見になったのかと、たいへんに残念に思います。

私は、貴兄に最大限の敬意を払いつつも、「中川村も含め、広く全国の都道府県・市町村の全住民の立場から、自治体の首長や責任ある地方公務員に違法行為があってはならず、仮に違法行為あった場合には厳格にその責任の追及があってしかるべき」と考える立場から、敢えて愚見を申し述べた次第です。ご一考を願う次第です。

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最高裁長官宛て 上原公子元国立市長に対する国立市の訴訟に関する意見書

マンション建設から市の景観をいかに守るかという過去の取り組みに対して、国立市が元市長、上原公子氏に賠償を求めて訴えるという事態が生じている。東京地裁では、国立市の請求が棄却されたが、高裁では、上原氏に支払いを命じる判決が出され、現在は最高裁で係争中である。
上原氏は、何度か中川村に来て下さり、村づくりのアドバイスを頂いたこともあり、「脱原発をめざす首長会議」の事務局長としてもお世話になっている。
この訴訟は、ひとり上原氏や国立市だけのことではなく、中川村も含め、広く全国の市町村の住民自治、地方自治に良くない影響を及ぼしかねないと考えるので、最高裁判所長官宛てに以下の意見書を送った。

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2016年5月6日
最高裁判所長官
寺田逸郎様
長野県 中川村長 曽我逸郎

国立市元市長・上原公子氏に対する 国立市の訴訟に関する意見
司法の長として、三権分立の一端を担い、日本をよりよい社会にするべく献身的なご努力を重ねて頂いておりますこと、篤く感謝申し上げます。
さて、表題の件、上原公子元国立市長に対して国立市が起こした裁判については、地方自治の場に身を置く自治体首長の一人として、大きな危機感を抱かざるを得ず、思うところをお伝え致したく、ご無礼お許し下さい。

国立市では、良好な景観を守りたいという住民の思いが強く、景観保全の運動が積み重ねらてれきた伝統があると聞いています。
その歴史において、マンション建設の是非が問題となる中、上原市政が誕生する市長選が行われ、上原氏は、景観を守ることを公約にして当選し、公約どおり住民と共に景観保護に取り組みました。その中で、問題となっている明和マンションの建設計画が持ち上がり、住民は人口を優に超える署名を集め、高さ制限の条例制定を求めるなど、まさに住民自治による反対運動を展開し、上原氏も市長として公約どおり市民と連携して働き、絶対高度制限付きの地区計画をつくることができました。
これに対し、明和地所は国立市に条例撤回と損害賠償を求めて裁判を起こしましたが、高裁では、条例制定は有効と認めつつも、2500万円の損害賠償を市に命じました。直後に、明和地所は、金銭が裁判の目的ではないとして、同額を市に寄付しており、国立市の賠償は相殺されています。
上原氏の市長退任後、4人の市民が市に上原氏への損害請求をせよとの裁判を起こし、二代後の市長になって、国立市は上原氏への訴訟を起こしました。

以上の経緯を考えると、この裁判は、国立市のみならず、広く日本の住民自治と民主主義に悪影響を残すことになりかねないと、強い危惧を感じます。その理由はいくつもあります。
1 景観保全、マンション建設反対は、市民の強い要請に基づくものであり、けして上原氏の独断専行ではないこと。
2 住民の要請に基づき、国立市をよくするために取り組んだのであって、上原氏の個人的利益に結びつくものではないこと。
3 先立つ裁判において、条例制定は有効と認められており、手続きに重大な瑕疵がないこと。
4 上記3点に問題がないにもかかわらず、首長個人を訴えることは、住民意志・住民自治に忠実たらんとしつつ積極的・民主的な活動で住民と共に解決策を模索しようとする自治体首長を萎縮させかねないこと。
5 企業の遺失利益は数値化がたやすいのに対して、住民の、良好な住環境を求める気持ちや環境破壊への不安は、金銭換算が難しく、住民側が企業を訴えることは困難であり、この種の損害賠償裁判は、企業側に偏った不公平なものになりがちなこと。
6 このような訴訟で賠償を得ることが広がれば、住民が反対するような計画を敢えて立案し、住民の不安を煽って反対運動で計画を中止させ、遺失利益の請求で利益を得ようとするビジネスモデルさえ生み出しかねず、そうなると増々地方自治と民主主義を萎縮させること。

先日、関西電力は、高浜原発3,4号機について運転差し止めの仮処分を受けました。それに対して、同社の八木社長は、不服申し立て後の上級審で逆転勝訴した場合には、損害賠償請求する可能性を示唆しました。このように、損害賠償請求は、既に住民自治を牽制する手段に使われており、良好な生活環境を求め環境破壊を恐れる住民が、不安や心配を民主的に広く訴えることを押さえ込む道具になりつつあります。
既に寄付を受け実害がないにもかかわらず、基礎自治体である国立市が、このような、住民自治と自由闊達な民主主義を毀損しかねない類いの訴訟を行わねばならないどのようなどのような理由があったのか、私には想像できません。

最高裁判所におかれましては、以上の点、ご勘案頂き、何卒慎重なご判断を頂きますようお願い申し上げます。

以上

新潟知事選に市民と野党の共闘候補当選ーこれこそ新しい局面の幕開け

本日(10月16日)の21時04分、朝日新聞デジタルが、「号外」を出した。「新潟県知事選で、医師で野党系候補の米山隆一氏(47)の当選が確実になった」という。おっ、なんと見事な。欣快の至り。

勝負にならない⇒背中が見える⇒急追⇒接戦⇒大接戦⇒横一線 との変遷が報じられてはいた。
「県民世論は原発再稼働反対なのだから、この世論を票に取り込めば勝てる」「TPP問題も今や大きな追い風」とも聞かされてはきた。
それでも、相手は「自民・公明」+「経済界・電力業界・連合」である。なかなかに勝てそうな気はしない。またまた、善戦むなしく…となるのではないか。本当に「当確」なのだろうか。糠喜びではなかろうか。
 
そして21時10分に続報。「新潟県知事選は16日投票され、無所属新顔で医師の米山隆一氏(49)=共・社・由推薦=が、同県・前長岡市長の森民夫氏(67)=自・公推薦=ら無所属新顔3氏を破り、当選が確実になった」。これで、まずは間違いなかろう。

米山当選の意義は、大きくは二つ。まずは、原発再稼働否定の民意が確認されたこと。これはとてつもなく重く大きい。

世界最大規模のプラント・柏崎刈羽原発を地元に抱え、事実上その再稼働の可否を問う選挙である。「原発再稼働問題の今後を左右する天王山」「最も重要な自治体選挙」と位置づけられたこの選挙に示された民意の重さは格別である。川内原発の停止を求めている三反園訓鹿児島県知事との連携を期待したい。

そしてもう一つは、野党共闘の拡大・強化への弾みである。「市民」と野党の共闘候補が勝利した意味は大きい。野党共闘は「共産・社民・自由」の3党推薦で、民進自主投票となったが、蓮舫代表までが応援にはいった。変則ではあったが、実態としては4野党共闘に限りなく近い。また、無党派市民の応援活動も大きいと報じられていた。

解散・総選挙が近いと噂されるこの時期である。「1議席を争う選挙では、野党共闘なくして勝利はない」「1議席を争う選挙でも、野党の共闘あれば現実に勝利が可能だ」という今回選挙での実例が示した成果のインパクトが大きい。

自・公勢力が各議院で議席の多数を占めているのは、小選挙区が生み出す死票のマジックによるもの。これまで野党は、分断され、各個撃破されてきたのだ。アベ政治とは、そのような上げ底議席に支えられてのことなのである。

新しい時代、新しい局面の幕開けを予感させる。
原発再稼働・TPPなどを経済の柱に据えようというアベ政権である。自公推薦候補の敗北は、現政権の終わりの始まりという予感がする。
(2016年10月16日)

「辺野古・違法確認訴訟」ーはたして公正な裁判が行われているのか。

国が沖縄県を訴えた「辺野古・違法確認訴訟」が昨日(8月19日)第2回口頭弁論で結審した。7月22日提訴で8月5日に第1回口頭弁論。この日、判決までの日程が決まった。そして、決まった日程のとおりわずか2回の期日での結審。9月16日には判決言い渡しとなる。異例の早期結審・早期判決というだけではない。極めて問題の大きな訴訟指揮が行われている。果たして公正な裁判が行われているのだろうか。納得しうる判決が期待できるのだろうか。

問題は、やや複雑である。まずは、どんな裁判なのか確認しておきたい。

国(沖縄防衛局)は、沖縄県名護市辺野古の大浦湾を埋め立てて、広大な米軍新基地を建設しようとしている。公有水面を埋め立てるには、国といえども県知事の承認が必要となっている。そこで、国が県に対して埋立の承認を求めた。承認の是非は、主として環境保全の観点から判断される。

国の公有水面埋立承認申請に対して、
(1)仲井眞前知事が承認した。
(2) 翁長現知事が、「仲井眞前知事がした承認」を取り消した。
(3)国(国土交通大臣)が県に対して、『翁長知事が、「仲井眞前知事がした承認」を取り消した」のは違法だから、この取消を取り消すよう』是正の指示をした。
(4)県が是正の指示に従わないから、国(国交大臣)は県を被告として「是正の指示に従わない不作為が違法であることの確認を求める」という訴訟を起こした。

つまり、国にいわせれば、(1)「仲井眞前知事の埋立承認」が正しく、(2)「翁長現知事の承認取消」が違法。だから、(3)国の是正の指示にしたがって、県は「承認取消を取り消す」べきだがこれをしないから、(4)県の不作為(国の指示に従わないこと)の違法確認を求める、ということになる。

これに対して、県の側からは、(1)「仲井眞前知事の埋立承認」はいい加減な審査でなされた不適法な承認で、(2)翁長現知事の「承認取消」は環境保全問題を精査して出された適法な取り消し。だから、(3)国の県に対する是正の指示は不適法なものとして、従う必要はない。したがって、(4) 裁判では、違法確認請求の棄却を求める、ということになる。

以上の説明だと、新旧各知事の「承認」と「その取り消し」の適法違法だけが争点になりそうだが、現実の経過はより複雑になっている。それは、本件訴訟の前に、国から県に対する代執行訴訟の提起があって、その和解がなされていること、その和解に基づいて国地方係争委員会の審査があり、結論として「真摯な協議」を求められていること、である。

代執行訴訟の和解も、係争委員会の決定も、国と県との両者に真摯な協議による自主解決が望ましいとする立場を明らかにしている。しかし、この間における国の協議拒否の姿勢の頑なさは尋常ではない。

代執行訴訟の和解は今年の3月4日金曜日だった。誰もが、これから県と国との協議が始まる、と考えた。ところが、土・日をはさんで7日月曜日には、国は協議の申し入れではなく、県に対して「承認取消を取り消す」よう是正の指示を出している。国は、飽くまで辺野古新基地建設強行の姿勢を変えない。

「代執行訴訟における和解も、係争委員会の決定も、国と県との両者に真摯な協議による自主解決が望ましいとしているではないか。県は一貫して国との間に真摯な協議の継続を求めており、不作為の違法と評される謂われはない」とするのが県の立場。

衆目の一致するところ、先行した代執行訴訟での原告国の勝ち目は極めて薄かった。この訴訟での国の敗訴で国が辺野古新基地建設を終局的に断念せざるをえなくなるわけではないが、国にとっては大きな痛手になることは避けられない。裁判所(福岡高裁那覇支部・多見谷寿郎裁判長)は、強引に両当事者に和解案を呑ませて、国を窮地から救ったのではないのだろうか。

国は敗訴を免れたが、埋立工事の停止という代償を払わざるをえなかった。以来、工事は止まったままだ。国は新たな訴訟での勝訴確定を急がねばならない立場に追い込まれている。裁判所の審理促進は、このような国の立場を慮り、気脈を通じているのではないかと思わせる。

裁判所が異様な審理のあり方を見せたのは、まずは被告となった県側が答弁書を提出する前に争点整理案を提示したことである。裁判の大原則は当事者主義である。裁判所は両当事者の主張の範囲を逸脱した判決は書けない。だからまずは両者の言い分によく耳を傾けてからでなくては争点の整理はできない。答弁書提出前の争点整理など非常識で聞いたことがない。これではまるで昔のお白州並みだ。原告の審理促進の要望に肩入れしていると見られて当然なのだ。

本日(8月20日)の沖縄タイムスは、「『辺野古訴訟』結審 異様な裁判浮き彫りに」と題する社説を掲げている。そのなかに次の一文がある。

「2回の口頭弁論で見えてきたのは裁判の異様さである。
 この日も国側代理人は翁長知事に「最高裁の判断で違法だと確定した場合に是正するのは当然だという理解でいいか」と繰り返し尋ねた。多見谷裁判長も「県が負けて最高裁で確定したら取り消し処分を取り消すか」とただした。
 審理中の訴訟について、県が敗訴することを前提に最高裁における確定判決に従うかどうかを質問するのは裁判所の矩を超えている。
 多見谷裁判長と国側代理人の示し合わせたような尋問をみると、3月に成立した国と県の和解は、国への助け舟で仕組まれたものだったのではないかとの疑念が拭えない。

 多見谷裁判長は昨年10月30日付で福岡高裁那覇支部に異動している。国が代執行訴訟に向けて動き始めていた時期と重なっていたため、さまざまな臆測を呼んだ。
 同裁判長と国側代理人を務める定塚誠・法務省訟務局長は成田空港に隣接する農地の明け渡しを求めた「成田訴訟」で、それぞれ千葉地裁、東京高裁の裁判官を務めていたことがある。定塚氏は和解条項の案文や和解受け入れにも深く関わっている。」

本来、裁判所は両当事者から等距離の第三者でなければならない。国の代理人が仲間の裁判官という構図で裁判が進行しているのだ。」

また、本日(8月20日)の琉球新報は、こう述べている。
「原発問題など地方自治体の民意と国益の衝突は全国にあり、今後、地方と国の対立が司法に持ち込まれる場面は増加するとみられる。不作為の違法確認訴訟は今回が制度創設以来初めてのケースだ。多見谷寿郎裁判長が、まだ煮詰まっているとは到底言えない議論をどう整理するのか。訴訟の判決は、司法が地方自治とどう向き合うかを問う試金石となる。」

そのとおりだ。試金石の意味を敷衍すれば、こうなるだろう。
9月16日判決で沖縄県が勝訴すれば、公正な司法が地方自治と真っ当に向き合ったことの証しとなる。しかし、もし国が勝訴するようなことがあれば、裁判の公正に対する国民の信頼は地に落ちることになる。司法は真っ当に地方自治に向き合っていないと評せざるをえないということだ。

そんな裁判で、仮に沖縄県が敗訴したとしよう。知事が、確定判決に従わざるをえないことは当然としても、そのことが「辺野古新基地建設を阻止する」手立てを失うことにはならない。訴訟は、「あらゆる手段を尽くして辺野古新基地建設を阻止する」という手立のひとつに過ぎない。しかも、法的手段がまったくなくなるというわけでもない。

民意が新基地建設反対という以上は、本来国は無理なことをやっているのだ。強引になればなるほど、傷を大きくするのは国でありアベ政権とならざるを得ない。自民党だけではない。国交相を出している公明党にとっても大きな打撃となるだろう。
(2016年8月20日)

「ストップ・アベ暴走」の都政を目指してー千載一遇のチャンスを逃がすな

本日(7月14日)告示の都知事選がスタートした。投票日は7月31日、猛暑のさなかの文字通り熱い選挙戦である。

今回都知事選は、リベラル勢力にとっては千載一遇のチャンスである。この絶好のチャンスを逃してはならない。これまで、革新統一といえば「社共+市民運動」が最大幅だった。2012年選挙でも、2014年選挙でも、ようやく実現した「社共+市民」の枠組み。しかし、結果は惨敗に終わった。200万票を取らねば勝負にならないところ、この枠組みでは100万票に届かない。これでは勝てないことが手痛い教訓として身に沁みた。3度同じ愚を犯すわけにはいかない。

今回は、幅広く4野党共闘でのリベラル派統一候補の推挙が実現した。昨年の戦争法反対運動の盛り上がりの中で、デモに参加した市民の声として湧き起こった「野党は共闘」というスローガンが、参院選にも、そしてこのたびの都知事選にも結実しているのだ。

しかも、これまでの選挙とはまったく違って、リベラル派が候補者を統一し、保守の側が分裂しているのだ。まさに天の時は我が方にある。傍観者で終わることなく、この歴史的な闘いに何らかの方法で参加しようではないか。都民でなくても、選挙への協力は可能なのだから。

選挙の性格のとらえ方を統一する必要はない。私は、この都知事選を「ストップ・アベ暴走選挙」と命名したい。そして、「ストップ・アベ暴走都政」を実現させたい。美濃部革新都政第2期の選挙が、「ストップ・ザ・サトウ」選挙であった例に倣ってのことだ。ベトナム反戦の時代の空気を都知事選に持ち込んでの成功例。この選挙で美濃部は361万票を得て、保守派候補(秦野章)にダブルスコアで圧勝している。一昨日(7月12日)の鳥越俊太郎出馬会見は、意識的に改憲問題や国政批判を都知事選のテーマに持ち込むものであった。

この会見を報じた朝日の見出しは、「鳥越氏『時代の流れ、元に戻す力に』 都知事選立候補」というもの。今の時代がおかしいのだ、元の流れに戻さなければならない。そのような思いを日本の首都の選挙で訴えて広く共感を得たい。これが、朝日の理解した鳥越出馬の真意。

記事本文での当該部分の会見発言の引用は次のようになっている。
「『あえて付けくわえるなら』としたうえで、立候補を決めた理由を『参院選の結果で、憲法改正が射程に入っていることがわかった。日本の時代の流れが変わり始めた。東京都の問題でもある。国全体がそういう方向にかじを切り始めている。元に戻す力になれば。それを東京から発信したい』と語った。

読売も、朝日とよく似た見出しとなった。「鳥越氏、都知事選出馬表明『流れ元に戻す力に』」というもの。記事本文は、次のとおり。

鳥越氏は12日午後、都内のホテルで記者会見を開き、「残りの人生を『東京都を住んで良し、働いて良し、環境良し』とすることにささげたい」と語った。出馬理由については「参院選の結果を見て、平和の時代の流れが変わり始めたと感じた。国全体がかじを切る中、流れを元に戻す力になりたいと思った」と説明した。

毎日の見出しは、「野党統一鳥越氏が出馬」と無骨だが、次のように会見の内容を紹介している。これが、一番よく、鳥越の気持ちを伝えているのではないか。

「私は昭和15年、1940年の生まれです。防空壕にいたこともよく記憶しています。戦争を知る最後の世代、戦後の第1期生として、平和と民主主義の教育の中で育ってきました。憲法改正が射程に入ってきているというのが参院選の中で分かりました。『それは国政の問題で東京都政とは関係ないだろう』という方もいると思いますが、日本の首都だから大いに関係があると思う。戦争を知る世代の端くれとして、都民にそういうことも訴えて、参院選と違う結果が出るとうれしいというのが私の気持ちです。」

国政と都政が無関係なはずはない。都政は国政を補強もすれば減殺もする。また、都知事選を、多くの都民が国政に感じている危ない時代の空気を批判する機会と位置づけて悪かろうはずがない。時代の危うさとは、アベ政治の暴走にほかならない。アベ政治の暴走の中身には二つの軸がある。一つは新自由主義の経済政策であり、もう一つは軍事大国化の政治路線だ。

新自由主義の経済政策が格差と貧困をもたらし、雇用の形にも福祉の切り捨てにも、教育や保育や介護にも、都民の生活に大きく影響していることは論を待たない。経済や福祉・労働等々に関する都政は、アベ政治を批判するものとならざるを得ない。

軍事大国化とは、戦後民主主義の否定であり、集団的自衛権行使容認であり、立憲主義の否定であり、さらには9条改憲の政治路線である。鳥越は、これに抗する姿勢を明確にしている。自分を「戦争を知る最後の世代であり、戦後の第1期生として、平和と民主主義の教育の中で育ってきました」として、「憲法改正が射程に入ってきている」この恐るべき時代を看過し得ないとしているのだ。

都政は、軍事大国化路線と無関係ではない。政府に協力してこれを補強もすれば、政権に抵抗して平和を志向することもできる。鳥越会見では、横田基地へのオスプレイ導入の阻止、米軍管理下の「横田管制」の正常化。政権の意向から独立した各国首都間の友好交流が平和に大きな意味を持つなどの発言があった。首都の原発ノー政策は核軍縮と関わるものとなる。

さらに、民主主義を大切にする真っ当な教育行政は、反アベ政治の色彩を持たざるを得ない。第1次アベ政権は教育基本法の「改正」に手を付けた。第2次では、教育委員会制度の骨抜きもした。鳥越都政はこれに対抗して、地教行法が想定する真っ当な教育委員を選任して、荒廃した東京都の公教育を改善することができる。教科書採択も、現場の教員の声を反映したものにすることができる。これだけでも、アベ政治に対する大きな打撃になる。

今回の都知事選挙を、「前知事の責任追及合戦」に終始し、「新都知事のクリーン度」を競い合うだけのものとするのではもの足りない。行政の公開や監視のシステム作りという技術的なテーマは、4野党のスタッフにまかせて上手に作ってもらえばよい。

都知事は、憲法の精神を都政に活かす基本姿勢さえしっかりしておればよい。その基本姿勢さえあれば、細かい政策は、ブレーンなりスタッフなりが補ってくれる。4野党が責任もって推薦しているのだ。そのあたりの人的な援助には4野党が知恵をしぼらなければならない。
(2016年7月14日)

浜の一揆訴訟が問いかけるものー「21世紀の水産を考える会」総会での報告

「NPO法人21世紀の水産を考える会」の年次総会にお招きいただき、浜の一揆訴訟についてお話しする機会をいただいたことに感謝いたします。

この運動、この訴訟について、是非とも多くの人に知ってもらいたいのです。しかし、岩手の地元メディアは紹介に冷淡です。行政や漁連に遠慮をしているのではないかといういぶかしさを拭えません。漁民自身が、「生活を守ろう」「後継者を確保して漁業を継続しよう」と立ち上がっていることに、もっと大きな関心をもって話題にしてもらいたいところです。

私は、この漁民の運動を、幕末の三閉伊一揆と同様の理不尽な支配構造への抵抗運動だととらえています。そのことをご理解いただきたくて、別紙のようにレジメはつくってまいりました。ところが、本日の総会に配布された、貴会の機関誌「日本人とさかな」33号に、トピックス「浜一揆提訴報告(岩手県サケ漁業権裁判)」が掲載されています。目を通して見ますとこれがなかなかによくできている。無味乾燥なKレジメよりよっぽど面白い。私が今日お話ししようと思ったことは、あらかたここに書いてある。実はこれ、私のブログの転載記事なのです。

「漁業で生活できる行政を」―浜の一揆訴訟の第3回法廷
  http://article9.jp/wordpress/?p=6902

3頁にわたるかなりの長文ですが、さわりは次の文章。

「(1月14日法廷後の)報告集会では、いくつもの印象的な発言があった。
『サケがとれるかどうかは死活問題だし、今のままでは後継者が育たない。どうして、行政はわれわれの声に耳を傾けてくれないのだろうか。』『昔はわれわれもサケを獲っていた。突然とれなくなったのは平成2年からだ。』『いまでも県境を越えた宮城の漁民が目の前で、固定式刺し網でサケを獲っているではないか。どうして岩手だけが定置網に独占させ、漁民が目の前のサケを捕れないのか』『大規模に定置網をやっているのは浜の有力者と漁協だ。有力者の定置網漁は論外として、漁協ならよいとはならない。』『定置網漁自営を始めたことも、稚魚の放流事業も、漁民全体の利益のためとして始められたはず。それが、漁協存続のための自営定置となり、放流事業となってしまっている。漁民の生活や後継者問題よりも漁協の存続が大事という発想が間違っていると思う』

帰りの車内で、これはかなり根の深い問題なのではないかと思い至った。普遍性の高いイデオロギー論争のテーマと言ってよいのではなかろうか。

岩手県水産行政の一般漁民に対するサケ漁禁止の措置。岩手県側の言い分にまったく理のないはずはない。幕末の南部藩にも、天皇制政府にも、その政策には当然にそれなりの「理」(正義)があった。その「理」と、岩手県水産行政の「理」とどう違うのだろうか。あるいは同じなのだろうか。

私は現在の県政の方針を、南部藩政の御触にたとえてきた。定めし、高札にこう書いてあるのだ。

『今般領内沿岸のサケ漁の儀は、藩が格別に特許を与えた者以外には一律に禁止する』
『これまで漁民の中にはサケを獲って生計を立てる者があったと聞くが、今後漁民がサケを獲ること一切まかりならぬ』
『密漁は厳しく詮議し、禁を犯したる者の漁船漁具を取り上げ、入牢6月を申しつくるものなり』
これに対する漁民の抵抗だから、『浜の一揆』なのだ。

しかし、当時の藩政も「理」のないお触れを出すはずはない。すべてのお触れにも高札にも、それなりの「理」はあったのだ。「理」は「正義」と言い換えてもよい。まずは「藩の利益=領民全体の利益」という「公益」論の「理」(正義)が考えられる。

漁民にサケを獲らせては、貴重なサケ資源が私益にむさぼられることになるのみ。サケは公が管理してこそ、領民全体が潤うことになる。公が管理することとなればサケ漁獲の利益が直接に漁民に配分されることにはならないが、藩が潤うことはやがて下々にトリクルダウンするのだ。年貢や賦役の軽減にもつながる。これこそ、ご政道の公平というものだ、という「理」(正義)である。

天皇制政府も、個人の私益を捨てて公益のために奉仕するよう滅私奉公を説いた。その究極が、「命を捨てよ国のため、等しく神と祀られて、御代をぞ安く守るべき」という靖國の精神である。「君のため国のため」「お国のため」の滅私奉公が美徳とされ、個人の私益追求は悪徳とされた。個人にサケを獲らせるのではなく、公がサケ漁を独占することに違和感のない時代であった。

また、現状こそがあるべき秩序だという「理」(正義)があろう。『存在するものはすべて合理的である』とは、常に聞かされてきた保守派のフレーズだ。現状がこうなっているのは、それなりの合理的な理由と必然性があってのこと。軽々に現状を変えるべきではない。これは、現状の政策の矛盾を見たくない、見ようともしない者の常套句だ。もちろん、現状で利益に与っている者にとっては、その「利」を「理」の形にカムフラージュしているだけのことではあるが。

現行の岩手県水産行政は、藩政や明治憲法の時代とは違うという反論は、当然にあるだろう。一つは、漁協は民主的な漁民の自治組織なのだから漁協の漁獲独占には合理性がある、というもの。この論法、原告の漁民たちには鼻先であしらわれて、まったく通じない。よく考えると、この理屈、個人よりも家が大切。社員よりも会社が大事。住民よりも自治体が。国民よりも国家に価値あり。という論法と軌を一にするものではないか。個人の漁の権利を漁協が取り上げ、漁協存続のためのサケ漁独占となっているのが現状なのだ。漁協栄えて漁民亡ぶの本末転倒の図なのである。

また、現状こそが民主的に構成された秩序なのだという「理」(正義)もあろう。まずは行政は地方自治制度のもと民意に支えられている。その民主的に選出された知事による行政、しかも民主的な議会によるチェックも、漁業調整委員会という漁民によるチェックもある。その行政が、正当な手続で決めたことである。なんの間違いがあろうか。そういう気分が、地元メデイアの中にもあるように見受けられる。そのような社会だから、漁民が苦労を強いられることになるのだ。」

以上のことで、私が本日申しあげたいことは尽きているのですが、あらためて整理すれば以下の3点ほどのことになります。

まずは、浜の一揆訴訟では、漁民らは憲法上の権利の実現を要求しているのであって、「お代官様のお情けにおすがりして、サケをとらせていただくよう特別の許可をお願いしているのではない」ということ。

しかも、漁民らの要求は生活の維持のための切実なもので、生存と後継者維持の立場から不可欠なものとして尊重されなければならないこと。

これに対抗して、漁民のサケ漁の権利を制約してもよいとする岩手県知事の側の根拠がおよそ薄弱であること。中でも、漁協中心主義の漁業政策に納得できるような根拠は見出し難いこと。

このことをお話しするために準備したレジメは以下のとおりです。

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はじめに

三陸沿岸の漁民は、予てから沿岸で秋サケの採捕を禁じられていることの不合理を不満とし、これまで岩手県水産行政に請願や陳情を重ねてきたが、なんの進展もみませんでした。とりわけ、3・11の被災後はこの不合理を耐えがたいものと感じることとなり、2015年11月5日、100人の漁民が岩手県(知事)を被告として、盛岡地裁に行政訴訟を提起しました。原告らは、これを「浜の一揆」訴
訟と呼んでいます。

訴訟における請求の内容は、県知事の行った「サケ採捕申請不許可処分」の取消と、知事に対する「各漁民のサケ採捕申請許可」義務付けを求めるものです。
 小型漁船で零細な漁業を営む漁民に「サケを獲らせろ」という要求の実現を目指すもので、このことは、「漁民を保護して、漁業がなり立つ手立てを講じよ」という行政への批判と、「後継者が育つ漁業」をという切実な願いを背景にするものです。本件は県政の水産行政のあり方を問うとともに、地域の民主主義のあり方を問う訴訟でもあります。また、3・11被災後の沿岸漁業と地域経済の復興にも、重大な影響をもつものとも考えています。

Ⅰ 訴訟の概要
第1 経過概要
 1 県知事宛許可申請⇒小型漁船による固定式刺し網漁のサケ採捕許可申請
    2014年9月30日 第1次申請
    2014年11月4日 第2次申請
    2015年1月30日 第3次申請
 2 不許可決定(102名に対するもの)
    2015年6月12日 岩手県知事・不許可決定(277号・278号)
     *277号は、固定式刺し網漁の許可を得ている者  53名
     *278号は、固定式刺し網漁の許可を得ていない者 49名
 3 審査請求
    2015年7月29日 農水大臣宛審査請求(102名)
    2015年9月17日 県側からの弁明書提出
    2015年10月30日 審査請求の翌日から3か月を経過
 4 提訴と訴訟の経過
    2015年11月5日 岩手県知事を被告とする行政訴訟の提起(100名)
    2016年1月14日 第1回法廷 瀧澤さん意見陳述 訴状・答弁書陳述
    2016年3月11日 第2回法廷 
    2016年5月20日 第3回法廷 
    2016年8月05日 次回第4回法廷(予定)

第2 訴訟の提訴の内容
 1 当事者 原告 三陸沿岸の小型漁船漁業を営む一般漁民100名
          (すべて許可申請・不許可・審査請求の手続を経ている者)
         被告 岩手県(処分庁 岩手県知事達増拓也) 
 2 請求の内容
   *知事の不許可処分(277号・278号)を取消せ
     *277号処分原告(既に固定式刺し網漁の許可を得ている者) 51名
     *278号処分原告(固定式刺し網漁の許可を得ていない者)  49名
   *知事に対するサケ漁許可の義務づけ(全原告について)
    「年間10トンの漁獲量を上限とするサケの採捕を目的とする固定式刺網漁業許可申請について、申請のとおりの許可をせよ。」

第3 争点の概略
1 処分取消請求における、知事のした不許可処分の違法の有無
(1) 手続的違法
  行政手続法は、行政処分に理由の付記を要求している。付記すべき理由とは、形式的なもの(適用法条を示すだけ)では足りず、実質的な不許可の根拠を記載しなければならない。それを欠けば違法として取消理由となる。ましてや、本来国民の自由な行為を一般的に禁止したうえ、申請に従って個別に解除して本来の自由を回復すべき局面においては、飽くまでも許可が原則であって、不許可として自由を制約するには、合理性と必要性を備えた理由が要求される。その具体的な理由の付記を欠いた本件不許可処分はそれだけで手続的に違法である。
  本件不許可処分には、「内部の取扱方針でそう決めたから」というだけで、まったく実質的な理由が書かれていない。
(2) 実質的違法
  法は、申請あれば許可処分を原則としているが、許可障害事由ある場合には不許可処分となる。下記2点がサケ採捕の許可申請に対する障害事由として認められるか。飽くまで、主張・立証の責任は岩手県側にある。
  ①漁業調整の必要←漁業法65条1項
  ②水産資源の保護培養の必要←水産資源保護法4条1項
2 義務づけの要件の有無 上記1と表裏一体。 
3 原被告間の議論はまだ噛み合ったものとなっていない。

Ⅱ 何が争われているのか
第1 漁民のサケ採捕は憲法上の権利である。これを制限しうるのか。
1 憲法22条1項は営業の自由を保障している。
    ⇒漁民がサケの漁をすることは原則として自由(憲法上の権利)
    ⇒自由の制限には、合理性・必要性に支えられた理由がなくてはならない。
  *漁業法65条1項は、「漁業調整」の必要あれば、
   水産資源保護法4条1項は、水産資源の保護培養の必要あれば、
    「知事の許可を受けなければならないこととすることができる。」
  *岩手県漁業調整規則23条
   「知事は、「漁業調整」又は「水産資源の保護培養」のため必要があると認める場合は、漁業の認可をしない。」
   ⇒県知事が、「漁業調整」「水産資源の保護培養」の必要性について
      具体的な事由を提示し、証明しなければならない。
2 海洋の資源は原則として無主物であって、これを採捕(採取と捕獲を併せた立法上の造語)することは本来的に自由である。採捕を業として行うことは、営業の自由(憲法22条1項)に属する基本権として保障されている。
  憲法上の基本権が、無制限な自由ではなく、「公共の福祉」による内在的な制約に服すべきことは当然としても、原則が自由であることは、その制約には、首肯しうるだけの、制約の必要性と合理性を根拠づける理由がなくてはならない。
3 原告は、自らの憲法上の権利を制約する行政庁の不許可処分を特定して、これを違法と主張しているのである。権利を制約した側の被告行政庁において、その適法性の根拠を主張し挙証する責めを負うべきは当然である。
4 原告の営業の自由を制約する法律上の根拠は、漁業法65条1項にいう「漁業調整の必要」と、水産資源保護法4条1項にいう「資源の保護培養の必要」以外にはない。岩手県漁業調整規則23条1項3号は、この両者を取り込んで「知事は、漁業調整又は水産資源の保護培養のため必要があると認める場合は起業の認可をしない」としている。
5 だから、本来被告は「漁業調整又は水産資源の保護培養のための必要」に当たる具体的事実を主張しなければならない。しかも、「憲法上の権利を制約する根拠として」十分な、必要性・合理性を基礎づけるものでなくてはならない。
6 ところが、被告は自らした不許可処分の適法性の根拠について語るところはなく、もっぱら内規として取り決めた「取扱方針」によるとだけ主張して、具体的な根拠事実を主張しようとしない。原告に許可を与えれば漁業調整や水産資源の保護に不都合が生じる根拠となる具体的な事実についてはまったく主張しようとしない。「庁内で作成した「取扱方針」(2002年制定)にそう書いてあるから」というだけ。しかも、知事が適用している「取扱方針」の条項は、「固定式刺し網漁不許可」に関するもので、「サケ漁の許可」に関するものではない。51名の原告は「固定式刺し網漁不許可」は既に得ているので、被告(知事)の不許可処分の理由は、論理的に破綻している。

第2 漁協中心主義は漁民の権利を制約しうるか。
1 漁業法にいう、漁業の民主化とはなにか。
  零細の個々の漁民の権利にこそ配慮することではないか。漁協の営業のために、漁民の営業を圧迫することは「民主化」への逆行である。
2 漁民あっての漁協であって、漁協あっての漁民ではない。
  主客の店頭は、お国のための滅私奉公と同様の全体主義的発想ではないか。
3 結局は、浜の有力者に奉仕する漁業行政の「カムフラージュの理論」ではないか。
            以 上
(2016年6月25日)  

人権侵害アンケート実施の張本人橋下徹の個人責任追及を

下記は、本日(3月26日)「赤旗」1面の記事。
「大阪高裁 大阪市に賠償命じる
橋下徹前大阪市長による市職員への憲法違反の「思想調査アンケート」(市職員への労使関係アンケート調査)で「精神的苦痛をうけた」として、職員とOB計59人が市に1900万円余りの賠償を求めた訴訟の控訴審判決が25日、大阪高裁でありました。田中敦裁判長は、一審大阪地裁に続いて、アンケートの一部を違憲と断定。大阪市に賠償を命じました。賠償額は一審判決の1人6000円を変更し5000円としました。
 田中裁判長は、アンケートの四つの設問について、団結権(憲法28条)やプライバシー権(同13条)を違法に侵害したと断罪。一審で団結権侵害が認められた組合費の使い道の設問については侵害にあたらないと判断しました。橋下前市長には、アンケートが職員の権利を侵害しないよう確認する注意義務があったのに違反したとして損害賠償を認めました。
 判決後の記者会見で、弁護団の西晃事務局長は「アンケートが憲法に抵触する内容を含む違法な公権力の行使であったと明確に判断された勝利判決だ。市は上告することなくこの判決を受け入れてほしい」と話しました。
 原告団長の永谷孝代さん(60)は「みなさんの励ましの中でたたかってきて本当によかった。職員が働きがいが持てない職場の状況、市民が苦しむ市政が続くなか、みなさんとともに大阪市が良くなるように運動していきたい」とのべ、大阪市役所労働組合(市労組・全労連加盟)の田所賢治委員長は「憲法守る市役所づくりのために引き続き奮闘する」と話しました。」

他紙の報道では、「アンケートは組合の「政治活動」を問題視した橋下市長(当時)が、職務命令で回答を義務づけて実施。」「昨年12月に組合5団体と市職員29人が原告となった同様の訴訟で、大阪市におよそ80万円の賠償を命じる市側敗訴の大阪高裁判決が確定している。」「今回の判決も上告なく確定する模様」とのこと。

同業者として恥ずかしい限りだが、この件には弁護士が深く関わっている。この違法アンケートを強制した責任者である当時市長の橋下徹が弁護士。そして橋下からの依頼で「特別顧問」となり違法アンケート実施の実務を担当したのが野村修也、やはり弁護士である。権力に対峙して人権を擁護すべき弁護士が人権侵害の側にまわっているのだ。

事件は2012年2月のこと。大阪市は、職員およそ3万人を対象に労働組合の活動への参加や、特定の政治家を応援する活動経験について記名式のアンケート調査を行った。しかも、「このアンケートは任意の調査ではありません。市長の業務命令として、全職員に、真実を正確に回答していただくことを求めます。」「正確に回答がなされない場合は処分の対象となりえます。」と述べて、従わない場合は処分もあり得ることが明示されていた。公権力による思想表白強制といわざるを得ない。常軌を逸しているというほかはない。

当時、この橋下流の乱暴に世論の批判は高く、「このような被告職員の人権を著しく侵害する本件思想調査に対して、労働組合や法律家団体、広範な市民から激しい抗議がなされた。その結果、本件思想調査回答期限後の2月17日、野村修也は、データ開封作業や集計などを「凍結」することを表明せざるを得なくなった。また、同月22日には、大阪府労働委員会が、大阪市労働組合連合会らの実効確保の措置申立てに対して、市の責任において、本件思想調査を中止するよう異例の勧告を出した」(訴状)

そのため、結局は集めたアンケートの回答は未開封のまま廃棄されたが、これで納得しない職員の2グループが、訴訟を提起した。2件の訴訟ともに、職員らが原告となってアンケートの回答強制が人権侵害の憲法違反だとするもの。特定の公務員の故意または過失にもとづく違法な公権力の行使があって、その結果損害が生じたとする国家賠償請求訴訟である。両事件とも、1・2審を通じて、大阪市の敗訴となった。

2件の訴訟はこれで確定する。大阪市は原告らに損害を賠償することになる。ということは、市長の違法行為によって、市が損害を被るということだ。実はその損害の範囲は、必ずしも判決で命じられた賠償額にとどまらない。違法なアンケート調査にかかった費用、たとえば特別顧問野村修也への報酬など、が因果関係ある損害たりうる。余計な紛争の処理に要した費用も同様である。市が不当労働行為救済申し立てや、損害賠償請求訴訟に対応するために出費したものについても、市長の違法行為による損害となり得る。

判決を読む機会に恵まれていないが、判決では、大阪市の公権力行使が違法というだけでなく、市長の故意または過失が明確になったはず。ならば、市長の責任が問われなければならない。具体的な手段は、監査請求前置の住民訴訟である。

国立市に好個の参考事例がある。マンション事業者の明和地所が、国立市の違法な公権力行使によって損害を被ったとして国家賠償訴訟を提起し、2500万円の請求を認容する判決が確定した。市は明和地所に対して遅延損害金を含む賠償金を支払ったが、市民のなかから「市長の違法行為によって、市に損害が生じたのだから、市は当然に元市長に損害分を求償すべきだ。市長は市の損害分を個人で負担すべきだ」というグループが現れて、監査請求を経て原告となり東京地裁に「国立市は、明和地所に支払った損害賠償金と同額を元市長個人(上原公子)に対して請求せよ」との判決を求める住民訴訟を提起した。住民が原告となり、被告は元市長という訴訟である。

東京地裁はこの請求を認容する判決を言い渡し確定した。国立市は、判決にしたがって、元市長に請求したが、拒絶されて元市長に対する損害賠償請求訴訟を提起した。今度は、原告が市、被告は元市長という訴訟である。

その一審判決直前に国立市議会は元市長に対する賠償請求権を放棄することを議決している。一審判決はこれを踏まえて、「国立市議会が上原公子元市長に対する賠償請求権の放棄を議決しているにもかかわらず、現市長がそれに異議を申し立てることもせず、そのまま請求を続けたことが『信義則に反する』」として、国立市の請求を棄却するものとなった。市の債権がなくなったとしたのではなく、議会の債権放棄の議決によっても債権が存続することを前提として、請求を信義則違反としたのだ。なかなか分かりにくいところ。

ところが、控訴審継続中に議会の構成が逆転して、求償権の行使を求める議決が可決される事態となった。これを受けて、控訴審判決は一審とは逆に請求を全部認容するものとなっている。

国立市の事例と同様に、違法なアンケート調査によって大阪市に損害を与えた橋下徹の責任追及は、元市長橋下徹に対しても可能ではないか。大阪市の住民であれば、誰でも原告となれるのが住民訴訟だ。大阪在住のどなたかに、具体化していただきたいものと思う。

なお、大阪市議会の定数は86。与党である「大阪維新の会」の議員数は37である。幸いに半数に達していない。しかし、あと7人を語らえば、債権放棄決議が可能となる。議会の決議で、違法な市長の責任を免じることの不当は明らかというべきではないか。
(2016年3月26日)

自治会・町内会ーこの身近にして問題多き難しきもの

朝日が、2月8日から12日まで5回のシリーズで「自治会は今 フォーラム面の現場から」という特集を連載した。各回のタイトルは以下のとおり。

 1 断れない「寄付」って変 2月8日
 2 神社維持、全員で負担? 2月9日
 3 選挙協力、まるで後援会 2月10日
 4 退会者に「ごみ出すな」 2月11日
 5 「地域の要望」誰の声? 2月12日

自治会・町内会は日本全国に遍く組織されている。多くの人にとって、最も身近な組織と言えよう。自治会・町内会との付き合いにおいて、プリミティブに組織と個人の関わりの基本問題が表れる。したがって、自治会・町内会の運用のあり方は、日本社会全体の構造の縮図として深く関心を寄せざるを得ない。民主主義や個人の自立の問題が見えてくるはずなのだ。いま、その切り口となるキーワードは「社会的同調圧力の組織化」ではないか。

「寄付」や「神社維持」への協力の強制、「選挙」や「地域の要望」への動員は、典型的な社会的同調圧力といえよう。「退会者に『ごみ出すな』」はその強制の手段としての深刻な問題。全体的傾向として、個人の自立が社会的同調圧力に組み敷かれている構図が描かれている。地方行政の末端組織として組み入れられた自治会・町内会のあり方の再考が求められてもいる。

言うまでもなく、自治会・町内会に入会するもしないも自由。なんの理由も不要でいつだって退会可能だ。とは言うものの、ひとり入会せずに非協力を貫くことには相当のプレッシャーがかかってくる。敢えて、退会するのはなおさらのことだ。これが、社会的同調圧力。

非権力的組織であるから、住民の合意だけで組織され運営される。親睦のみならず、地域の環境保全や治安や災害対策に有用であることは言うまでもない。地域と行政とのパイプ役としても、その存在意義は否定し得ない。しかし、現実には民主的な運営の確保が難しく、社会的同調圧力を合理化し実行する組織になる危険を常にはらんでいる。

連載第1回に掲載の、佐倉市の自治会の例が示唆に富む。14年前、役員会での討議を経て、日本赤十字社などへの寄付という事実上の強制をやめたという。もちろん、建前としては寄付は強制ではない。しかし、衆人環視の中で寄付を断ることは難しい。これが、社会的同調圧力のなせる業。そこで、任意制が徹底するよう集め方を変えた。「大判の封筒を使う方法だ。誰がいくら入れたか分からないように封筒のお金を入れるところだけ開けておき、隣の家に回す。封筒の表には寄付するかどうかも、金額も自由と書いた。」

任意のはずの寄付が事実上の強制となる不合理を不合理として確認し、任意制を徹底する具体的な方法まで考えて実行した、最も身近な場における民主主義の実践に、敬意を表せざるを得ない。

朝日の記事は、次の点でさらに示唆に富む。
当時自治会長だった内野光子さんは、封筒方式を実現できたのは当時、役員10人のうち女性が6、7人を占めていたからだと思っている。「リタイア男性中心の『オヤジ自治会』や、同じ人が長く居座る『ボス自治会』では改革が難しい。役員に主婦がもっと入らないと変わらない。

なるほど、言われてみればそのとおり。男性中心の『オヤジ自治会』や『ボス自治会』の問題性は、ひろがりを持っている。自治会が日本社会の構造の一部であり縮図である以上は、地方政界の『オヤジ議会』や『ボス自治体』の問題でもあり、さらには『オヤジ国会』や『ボス内閣』という日本の政治構造にもつながっている。

オヤジやボスは、今この社会の多数派を取り仕切っている。オヤジやボスの常識は、「地域共同体の日常の懇親や親睦による出る杭のない、穏やかな秩序が何より」「行政に貸しを作り、いざというときには行政に口利きのパイプをつなげておくことが肝要」「みんなが文句を言わずに労力と経済的負担をして自治会を支えるべきが常識」「地域の結束のためではないか。自治会が神社への奉賛をすることになんの問題があろうか」「役員は多大な労力を費やしているのだから、会費で多少の飲み食いしたくらいで、細かいことをうるさく言うな」というもの。

このオヤジ感覚ボス体質が保守政党の末端組織とつながる。自治会・町内会を通じて、オヤジやボスの体制派的常識が組織化され保守勢力に吸い上げられる。平時は、天皇制と結びついた神社を支え、行政や警察機構の末端として働き、また保守政党を地域で支える。そして、一旦緩急あらば、大政翼賛会か国防婦人会の末端組織に、あるいは関東大震災後の自警団に早変わりしかねない危うさを持っている。

朝日記事の第2回が、神社の費用負担問題を取り上げている。
この中に、ある自治会長(男性・72)の「神社は地域の守り神、文化のようなもの。特定の宗教という感覚はない」との見解が紹介されている。おそらくホンネなのだろうし、これが社会の多数派の意見なのかも知れない。しかし、少数派のなかには、潔癖な信仰者もいようし、無神論者として特定宗教への寄金に抵抗感をもつ者もいる。このような少数者の意見が無視されてよかろうはずはない。

もっとも、なかなかに少数者の発言は難しい。黙っていれば、多数派の横暴がまかりとおる。自治会・町内会の意見が、地域全体の意見にすり替えられる。かくて、自治会・町内会は、保守政権支配の末端組織として機能することになる。

地元の自治会・町内会の活動に積極的に関わって、原則を曲げずに辛抱強く民主的な運営を実践している方を尊敬する。マンションの管理組合もPTAも同様だ。私には、上手にやり遂げる自信がない。ならば、次善の策として自治会に加入しないのも一つの意思表示。

これまで、居を構えてから幾十年、地域自治会や町内会に加入したことがない。回覧板も寄付の要請も、私の家だけは通り過ぎる。

ずいぶん以前のことだが、ある町会長さんに呼ばれて、親切に加入を勧められたことがある。そのとき、町内会の規約や会計報告、そして立派な会の歴史をまとめた冊子を見せていただいた。ずいぶん整った自治会だと一面好感をもったが、ご多分にもれない問題が2点。自動的に近くの著名な神社の氏子となって自治会からの奉納金の支出が行われていた。そして、もう1点、私の大嫌いな自民党の有力政治家との友好関係が見えていた。自治会の大きな行事はその政治家の「会館」で行われ、会史にその政治家が登場してくる。これは、生理的に受け容れがたい。

中にはいって改革すべきなのだが、私にできそうもない。私にできることは、自治会に加入しない選択肢もあるのだと身をもって示す程度のこと。私は未熟であり、この先も成熟の可能性はない。もしかしたら、この程度のことも都会だから出来ることなのかも知れない。

佐倉市内の住民自治会で、果敢に民主主義を実践してこられた内野光子さんのブログを参照していただきたい。
  http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/cat7752986/index.html

(2016年2月15日)

自治体はヘイト集会への施設使用を拒否しなければならないー東京弁護士会バンフレットの普及と活用を

昨日(1月10日)の毎日新聞に、「ヘイト集会拒否できる」「東京弁護士会がパンフ 自治体向け」の記事が掲載されている。ヘイトスピーチの集会に公共施設が利用される事態を防ごうと、東京弁護士会が利用申請を拒否する法的根拠をまとめたパンフレット「地方公共団体とヘイトスピーチ」を作製し自治体向けに配布している、との内容。

このパンフの内容となっている「地方公共団体に対して人種差別を目的とする公共施設の利用許可申請に対する適切な措置を講ずることを求める意見書」の発表は、昨年(2015年)9月7日のこと。以来4か月、東京弁護士会は、東京都内の全自治体や議会事務局、全国の弁護士会に配布してきたという。東京以外からも「参考にしたい」との問い合わせが相次ぎ、これまでに全国の25団体に送付。具体的な取り組みについて、東京弁護士会の担当弁護士と話し合いを始めた自治体もあるとのこと。

パンフの内容となっている意見書の全文は、東京弁護士会の下記URLで読むことができる。表現は慎重で穏やかだが、ヘイトスピーチの撲滅が国際条約上の国の義務となっているにもかかわらず政府は無為無策、これを放置している人権後進国日本の現状がよく分かる。
  http://www.toben.or.jp/message/ikensyo/post-412.html

国がなんの施策も行おうとしない現状で、自治体がヘイト集会への会館使用を拒否することは、ヘイト対策として実効性のある手段の提供としてその着眼がすばらしい。しかも、このパンフは、実によくできている。表現の自由にも慎重な目配りをしたうえでの具体的な提言である。説得力がある。今後の課題は、これを全国の自治体に普及して啓発し、遵守してもらうよう粘り強く働きかけること、さらにはその実現のための実効的措置を追求すること、だと思う。

東京弁護士会は、日本が締結し批准もしている人種差別撤廃条約を根拠に、「自治体は差別行為に関与しない義務を負って」おり、「公共施設が人種差別に利用されると判断される場合には会館等の利用を拒否できる」だけではなく、「会館等の利用を拒否しなければならない」と指摘している。

もちろん、要件は厳格でなければならないが、昨今問題となっているヘイトスピーチの集会に、会館等使用を許可すれば違法となり、当該自治体の住民の誰もが、自治体の財産管理における違法を主張して、住民監査請求から住民訴訟を提起することができることになる。

また、この東京弁護士会の「反ヘイト・バンフ」が普及してくれば、自治体の首長や責任者がヘイト集会に会館使用を許可したことは、違法というだけでなく、過失の認定も容易になる。集会と、それに引き続くデモなどで精神的被害を受けたという被害者にとって国家賠償請求が容易になると考えられる。このような事後的な法的支援についても、具体的な方策が考えられてしかるべきではないか。

東京弁護士会意見書の意見の趣旨は以下のとおりである。読み易いように、カギ括弧などを入れてみた。

地方公共団体は,「市民的及び政治的権利に関する国際規約」及び「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」に基づき,人種差別を撤廃するために,人種的憎悪や人種差別を扇動又は助長する言動など,人種差別行為を行うことを目的とする公共施設の利用申請に対して,「条件付許可」,「利用不許可」等の〈利用制限その他の適切な措置〉を講ずるべきである。」

この意見書の下記の言及は、襟を正して読まねばならない。

ヘイトスピーチなどの人種差別行為の放置は,社会に深刻な悪影響を与える。差別や憎悪を社会に増大させ,暴力や脅迫等を拡大させる。国連人種差別撤廃委員会が2013年の一般的勧告「人種主義的ヘイトスピーチと闘う」で強調しているように,それらの放置は,「その後の大規模人権侵害およびジェノサイドにつながっていく」。ナチスによるホロコーストやルワンダにおける民族大虐殺等だけでなく,日本においても,1923年に発生した関東大震災で,朝鮮人が暴動を起こしているとの流言飛語が広まり,日本軍や,民間の自警団によって少なくとも数千人の朝鮮人が虐殺された。これは,1910年に朝鮮半島を植民地とした後,被支配民族としての朝鮮人に対する蔑視と,植民地化に対する朝鮮人の抵抗運動に対する恐れから,日本国内で朝鮮人に対するヘイトスピーチが蔓延した結果であった。日本にもこのような過去があることが想起されなければならない(2003年8月25日付け日弁連「関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺人権救済申立事件」勧告書参照)。

人種や民族間の差別意識は、人為的に創られ煽られて生じる。植民地支配や戦争の準備と重なる。アベ政権の好戦的な憲法改正の策動と切り離せない問題といわざるを得ない。

ナチスはユダヤ人をホロコーストの対象とした。その数、500万人を超す。一般のドイツ人がそのことを知らなかったわけではない。ある日ユダヤ人が消える。その財産は、ドイツ人に分け与えられる。あるいは消えたユダヤ人が占めていた地位をドイツ人が襲うことになる。こうして、ホロコーストは、ドイツ人に現実的な利益をもたらしたのだ。

社会の中の特定の集団を敵として、多数派が寄ってたかっていじめるとはそういう実利に結びつくことなのだ。恥ずべき泥棒根性といわざるを得ない。いま、ヨーロッパでもアメリカでも、そしてもちろん日本でも、弱い立場の人種や民族に対しての非寛容な空気の醸成がおぞましい。ヘイトスピーチの抑制は、平和に通じるのだ。東京弁護士会の試みを、成功を念じつつ見守りたい。

なお、紹介されている具体例を挙げておく。
公共施設の利用拒否が可能になり得る具体的な例。
・人種差別集会を繰り返している団体や個人から申請があった
・施設の利用申請書に特定の民族を侮辱する表現が含まれていた
・集会の案内状に人種差別をあおる内容が書かれていた

施設の利用拒否が可能な人種差別行為の具体例
・「○○人は犯罪者の子孫」などの発言を繰り返す
・「○○人を殺せ」などのプラカードを掲げる
・「○○人のゆすり・たかりを粉砕せよ」などと告知して集会を開く

ここを出発点に、ヘイトスピーチ撲滅の動きを作り出せそうな気がする。
(2016年1月11日)

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