澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

二見伸吾(府中町議・共産党),渾身の「議場に日の丸」反対討論。

本日のブログは、やや長文だが理屈っぽくなく、読み易い。生き生きとした活動家の奮闘ぶりを紹介するもの。

広島県「(安芸)府中町」は人口5万余。県外の者には紛らわしいが、県東の「(備後)府中市」とは異なる。マツダの企業城下町として知られ、100万都市広島との合併を拒否して、広島市という海に囲まれた孤島のような存在となっている。
その町議会の議員定数は18。うち、共産党が2名、公明党が2名。残る14が無所属だが、そのうち2名が選挙公報にマツダの社員であることを明記している。

その「ふちゅう町議会だより」の今年(2019年)2月1日号に、こんな記事が掲載されている。

・府中町議会議場に国旗及び町旗掲揚に関する決議
  賛成多数可決
 町民を代表する議員の議決場所である本会議場に、国旗及び町旗を掲揚することについて、11人の議員が議案を提出しました。
 提出された議案に対し、「議会運営委員会に付託し、慎重に審議すべき」と動議がありましたが、この動議は賛成5人の少数で否決されました。
 改めて議案について反対討論と賛成討論が行われた後、採決を行い、賛成多数で原案可決となりました。

 議長と欠席者を除く議決は、賛成10・反対5だった。多数決強行の議員の中に、公明の2と、マツダの2が含まれている。共産以外にも、反対票3があったことが注目される。

この決議の経過を,ネットで詳細に報告しているのが、共産党の二見伸吾議員。その熱意と奮闘ぶりが生き生きと伝わってくる。そして、理論的にも、さすが共産党議員。自分の立場で考えた、国旗掲揚問題がよく整理されている。抜粋してなお長文ではあるが、紹介させていただく。

「国旗」に反対するものは「非国民」だと副議長
http://futamishingo.com/3792/

 「(2018年)12月議会最終日の今日、18日に「府中町議会議場に国旗及び町旗掲揚に関する決議(案)」が出されました。
 この議案に対して、山口こうじ議員(無所属)から、「全く論議のないまま決すること、拙速は避けるべき。次の定例会まで議会運営委員会に付託の上、慎重に審議を」という動議が出されました。

▼山口議員の動議

 口頭により動議を提案します。本案についてですが、議会運営委員会に付託し、慎重審議すべきです。
 
 過去の議事録を読み直したところ平成17年から19年にかけて府中町議会は議会運営委員会、全員協議会、そして本会議で論議を積み重ねてきました。全員協議会では議員一人ひとりが国旗について時間をかけて慎重に検討しました。
 その議論を踏まえ、議会運営委員会は、『府中町議会本会議場に国旗及び町旗掲揚に関する決議』を否決致しました。加島議運委員長は否決に至った経緯を平成19年3月議会で次のように報告しております。

 「全員協議会でも多くの議員から全会一致が望ましく、(その方が)いいのではないか、また申し合わせ等による方法で対応すべき問題であると、全員の理解のもとに実施すべきものとの意見がありました。よって、決議という手段、多数決で決めることには問題が少々あるんではないんかと、また決して国旗を否定するものではない、慎重的意見が大半を占める中、この件で議会運営に支障が生じることがあってはならない、現状維持が望ましい、そしてもう一点は、町民の中にも日の丸に賛成しかねる人もおられる、強引に議会が掲揚すべきではないと思う、そういったいろんなご意見があったことを報告をさせていただきます」

 本会議でも賛成、反対の討論がありましたが、採決の結果、原案に対して賛成少数で、国旗の掲揚は否決されました。

 このように平成17年から19年にかけて丁寧な論議をつみかさ、その結果、国旗の掲揚に賛成の方も含めて、慎重に検討しよう、強制にならないようにしよう、議会運営に支障が生じないようにしようという結論に至ったわけです。

 にもかかわらず、慎重審議の上否決されたものが、新たに議論する場を設けることもなく唐突に議案として出されました。論議もせず、多数決で決めようというのは、これまでの論議を大切にしてきた府中町議会の歴史と伝統の否定ではないでしょうか。
 急いで多数決でことを決することは避けるべきだと思います。次の定例会まで議会運営委員会に付託の上、慎重に審議すべきと思いますので、どうぞみなさん、よろしくご理解のほどお願いしたいと思います。

これに対して、国旗掲揚推進派の議員(副議長)が動議を出し、山口議員を誹謗中傷しました。

 「一つにまとまることはありえない。全会一致などというのはおかしい。議運には一部のメンバーしかいない。チャーチルは国民が反対してもヒットラーとたたかった」ほか、支離滅裂。

 私は「議事進行」と声を上げ、「山口議員は慎重審議をと言っているのであって、全会一致で決めなければならないとは言っていない。言っていないことで批判するのはおかしい」「議運への付託というのは全員協議会での論議も当然含まれている」と反論。論議はヒートアップしていきます。

すると副議長は「国旗を否定する者は非国民だ」と言ったのです。

 これに対しても「議事進行」で、猛烈に抗議し、取り消すよう求めました。さすがにこれはまずかったと思ったのか、言い過ぎであったと認めました。しかし、語るに落ちるとはこのこと。国旗への忠誠を求め、それを拒む者は非国民のレッテルを貼る。許しがたいことです。

 山口議員の出した動議は共産党2人、山口議員を含め無所属議員3人の計5人が賛成。残念ながら賛成少数で否決されました。

 その後、反対・賛成の討論を経て、「国旗及び町旗掲揚に関する決議(案)」は採決され、賛成多数(議長を除く出席議員15人中、賛成10人、反対5人)で可決されました。

 国旗掲揚に反対ではないが、議論なしの拙速な決め方に反対だという議員が共産党以外に3人もいたことに感激。立場をこえて、審議を尽くす民主的な議会運営になるように今後も協力・共同をすすめていきたい

以下は、私の反対討論と梶川三樹夫議員の賛成討論です。

二見伸吾 反対討論

 議員提出議案「府中町議会議場に国旗及び町旗掲揚に関する決議(案)」に反対の立場から討論します。
まず初めに、議場に府中町町旗を掲示することには異議がないことを申し上げます。問題は国旗の掲示であり、5つの問題点があります。

第一に、地方自治法に照らして問題がある。
地方自治法第1条の2は、地方自治体の役割について「住民の福祉の増進を図ることを基本として、地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担う」と述べています。
「国民」ではなく、「住民の福祉」の増進が地方自治体の役割なのです。国民と住民は同じではありません。住民には日本国籍を持たない人たちも含まれます。
ですから、決議(案)の述べている「日本国民としての自覚と誇り」を求めるのは、そもそも自治体のあり方としておかしい。

 9月19日、法務省は、日本に在留する外国人が今年6月末時点で263万7251人(速報値)で、統計を取り始めた1959年以降、最も多かったと発表しました。日本の総人口は約1億2659万人で、在留外国人数はこの約2%にあたります。府中町でも外国籍の町民は663人、町民の1.3%が外国人なのです。今後さらに町内に住む外国人は増えることになるでしょう。

 国旗=日の丸については、日本人のなかにも様々な受け止めがある。ましてや、かつて日本が戦争をしかけ、侵略した国々の人たちも日本に在留し、今後さらに増えていくわけです。このことをよく考える必要があります。

 外国人の方には選挙権・被選挙権はありませんが、住民すなわち府中町民です。私たち町議会議員は日本国民でない外国人を含めた府中町民の代表なのです。
このことを踏まえたとき、「国民として自覚と誇りを持て」と議場に国旗を掲示することは、地方自治法のめざす方向に反するものであることは明白です。

第二に、過去に国旗、日の丸が戦争で果たした役割です。
1945年に終わったアジア太平洋戦争において日の丸は戦争のシンボルでした。そのことは戦中に使われた修身の教科書に明確に述べられています。例えば国民学校3年生用の『初等科修身一』(1942年)には次のように書かれています。

 「敵軍を追ひはらって、せんりゃうしたところに、まっ先に高く立てるのは、やはり日の丸の旗です。兵士たちは、この旗の下に集まって、聲をかぎりに、『ばんざい。』をさけびます」

 侵略の先頭に日の丸があり、そのことを小学生にも教え、子どもたちを軍国主義に導く役割も果たしたわけです。日本人はアジアで2000万を超える人々を殺しました。南京大虐殺の死者は30万人と言われています。

 「虐殺は、大規模なものから1人~2人の単位まで、南京周辺のあらゆる場所で行なわれ、日本兵に見つかった婦女子は片端から強姦を受けた。最も普通の殺し方は小銃による銃殺と銃剣による刺殺である。大勢を殺すときは、まず隊列を作らせて、手近な殺人予定地まで歩かせる。着き次第、まとめて機関銃で皆殺しにする。生存者がないかどうかを銃剣で刺してテストしたのち、死体を積み上げて石油をかけ、焼いてしまう」(本多勝一『中国の村』朝日文庫)

 こういうことを中国だけでなくアジア全土でやりました。従軍慰安婦、中国人や朝鮮半島(韓半島)の人々を徴用工として賃金も払わず、暴力を振るって働かせた。日の丸はこういう戦争と一体のものです。

第三に、国旗・国歌は強制はしないというのが政府の立場です。

 「国旗及び国歌に関する法律」制定当時の内閣総理大臣は小渕恵三氏です。1999年(平成11年)6月29日の衆議院本会議において、次のように答弁しています。
「政府といたしましては、国旗・国歌の法制化に当たり、国旗の掲揚に関し義務づけなどを行うことは考えておりません。したがって、現行の運用に変更が生ずることにはならないと考えております」。
この立場は現在の政府でも引き継がれています。内閣府のホームページをみますと「内閣総理大臣の談話(平成11年8月9日)」が載っており、「今回の法制化は、国旗と国歌に関し、国民の皆様方に新たに義務を課すものではありません」とあります。
議場正面に国旗を掲示するとどうなるのか。現在、議場では、まず議長に向かって礼をし、その後、同僚議員のみなさんに向かって礼をしています。国旗を掲げると議長の後ろにある国旗に礼をすることが事実上強要されます。私は日の丸、現在の国旗が戦争中に果たした役割を考えるとき、日の丸に向かって礼をすることはできません。国旗に対して特段の感情を持たない人はいいでしょう。しかし、私は違います。議会の代表である議長に対しては失礼のないようにしたい。しかし、議長に対して礼をすると国旗・日の丸に対しても礼をすることになる。礼をしてもしなくても私は質問に立つたびに苦痛を感じます。これは憲法の定める「思想及び良心の自由」を侵すものであります。

第四に、第二次世界大戦後の日本の国のありようです。
日の丸にまつわる問題は、「過去のものとして反省したのだからもういいではないか」という意見もあります。
しかし果たしてそうでしょうか。今の日本はどうか。南京虐殺も従軍慰安婦もなかった。安倍総理は、徴用工問題は解決済みで、「今回の裁判の原告は(徴用でなく)全部『募集』に応じたため、『朝鮮半島出身労働者問題』と言いたい」と言う。過去、日本がやってきたことをなかったかのように否定する。
先ほど申しました外国からの移民、外国人労働者の扱いは酷いものであります。戦前・戦中で犯した過ちに対して反省するどころか、開き直り、同じ過ちを繰り返しています。
2015年、安倍政権のもとで、アメリカ軍が起こす戦争に自衛隊が参戦し武力を行使することを可能にした安保法制=戦争法が成立しました。そのもとで、航空母艦、空母のことを「多用途運用護衛艦」と言い換え、アメリカとともに海外で戦争する準備をすすめています。戦闘機を積むのに空母ではないとごまかす。
今年1月4日の年頭会見で安倍総理は「今年こそ、憲法のあるべき姿を国民にしっかりと提示し、国民的な議論を一層深めていく」と主張しました。実際には年内には何もできなかったわけですが、憲法を変え、戦争のできる国へ変えようとしている。
医療制度や福祉はどんどん悪くなり格差と貧困が広がっています。東京電力福島第一原発事故で避難している人たちは満足な補償も受けていない。7年も経つのに生活再建のめどの立たない人がたくさんいる。沖縄の人たちがどんなに辺野古基地建設に反対しても、平気で無視して美しい海に土砂を投入する。

 こういう日本で、「日本国民としての自覚と誇り」を持て、国旗を敬え、議場にも掲示しろ、というのでしょうか。
大切なのは「日本国民としての誇り」が持てるような日本にすることです。
戦争のないもとで、誰もが健康で文化的な暮らしができ、自由で平和な日本をつくることではないでしょうか。旗の問題ではない。

 最後に 府中町議会の歴史と伝統に対してです。
府中町はこれまで日の丸=国旗を議場に掲示してきませんでした。それで何か問題があったでしょうか。議論が深まらないとか、どうしても真剣になれないとか。そんなことはなかったはずです。

 今から10年ほど前、2005年から2007年にかけて町議会で国旗の掲示について論議がありました。当時の議事録を読み、その真摯な討論に感激しました。国旗の掲示に反対ではないが、十分に審議すべきである、いろいろな意見があるなかでそれを封じ込める形で決めるべきでない。こういう意見が多数でした。

 慎重審議という結論になった1回目の全員協議会のあと、突如本会議に、今回と同じような議案が今回と同じやり方で出されました。そのとき、お亡くなりになった加島議員が「十分お互いに意見を交わしながら検討の時間を持とう」というのが全員協議会での結論であり、議運への付託をすべきという動議を出し、議案提出者を含め議員全員がこの動議に賛成したわけであります。

 このように、重大な問題について軽々に結論を出さず、熟議するというのが府中町議会の歴史であり、よき伝統であります。今回の提案はこの歴史と伝統を踏みにじるものであります。

以上、5点を申し述べまして、本議案に対する反対討論といたします。

■梶川三樹夫議員 賛成討論

 平成11年8月9日に成立した「国旗及び国歌に関する法律」によって、これまで慣習法として定着してきた我が国の国旗「日の丸」、国家(議事録のママ)「君が代」が改めて法制化されました。

 現在、我が日本国の国旗「日の丸」は国民に親しまれ、定着しており世界各国からも、広く認められているところです。自分の国の国旗を敬愛し、誇りに思うことは、世界各国の国民にとっても共通した感情であり、日本国民もまた同様であります。

 このような認識に立ち、我が国、我が県、そして本町の永遠の繁栄と恒久の平和を切に願い、憲法に基づく民主主義実現の厳粛な議場に国旗を掲揚することは、極めて自然なことと考えます。

 本町においても、町の施設には国旗が掲揚され、小中学校の入学式、卒業式での国旗掲揚率は100%です
 広島県内の23市町の調査でも、議場に国旗、市町旗が掲揚されてないのは府中町と大崎上島町のみになりました。その大崎上島町も来年度には、議場に国旗、町旗を掲げる予定と聞いております。

 戦後73年を過ぎた現在、先に述べた理由からも、我が国の国旗を議場に掲揚してはいけないといった結論には至らず本議案については、賛成をいたします。

この反対討論と賛成討論。月とスッポン、提灯と釣り鐘の落差。それでも、数で負ければ、負けは負け。悔しいが、どうにもならない。

ところで、先の「山口議員の動議」は、民主主義における合意形成の在り方についてのお手本を見せてもらっている感がある。「これまでの国旗掲揚をめぐる府中町議会での論議の経過 2005-2007」は、下記URLに詳しい。感動的な議論の積み重ねで、これまでの国旗掲揚が阻まれてきた。ここに、保守の良識を見ることができる。しかし、いまや日本の保守は余裕を失い、良識をなげうったかに見える。公明党も同様である。
http://futamishingo.com/3846/

反対討論の中で出てきた、副議長(西友幸議員)の「非国民発言」。議事録では以下のとおり。

○12番(西友幸君) 発言ですよ、私の。ちょっと失礼ですよ、共産党。
ですから、全体の議員の中でやれば、議運というのはもう半分ぐらいの議員の中でまとめていこうというわけですよ。そんなひどいこというてありませんよ、これ。みんな一人一人思想を持って、日本国民として堂々として生きていっとるわけですから、それを上げないなんて何て非国民なことを言うんか、私は理解できんのですが。以上です。私のほうは。

○7番(二見伸吾君) 意見の異なる者に対して非国民という言い方はないと思います。これは撤回していただきたい。
 山口議員は全会一致ということは一言も言ってない。山口議員が言ってるのは、慎重審議をすべきだということを言ってるんで、全然違う。西議員が言ってることは、言ってないことで批判してるじゃないですか。こんなでたらめな話ないです。

○12番(西友幸君) 二見議員に非国民言うたのは、私が確かに言い過ぎだと思いますけど、これは議員というのは我々議会に出て、それぞれいろんな意見を言うことを与えられて権限を持っとるわけなんですよね。

西議員の発言はこのように補うことができるだろう。
「私たち議案提出の議員11人は、みんな一人一人がそれぞれの思想を持って、日本国民として堂々として生きていっとるわけですから、当然に議場には国旗を掲揚すべきだと考えている。それを国旗を掲揚しないなんて、何て非国民なことを言うんか。私には理解できんのです」

なお、私が府中町の二見議員に注目したのは、醍醐聰さんのツイートで、同議員が町議会の賀詞決議に反対したことを教えられてのこと。この点についての下記の記事も面白い。ぜひ,お目をお通しを。

国民主権をないがしろにする賀詞決議に反対しました
http://futamishingo.com/4308/

二見伸吾,全開・絶好調である。がんばれ、最前線で。
共産党の地方議員が、このように全国で生き生きと逞しく奮闘しておられることを頼もしく思う。
(2019年9月23日)

嫌いな言葉は「愛国心」。「真の愛国者」はなおさらいけない。

嫌いな言葉は山ほどある。なかでも、「愛国」「愛国者」「愛国心」はその最たるもの。憂国・国士・祖国・殉国・忠義・忠勇など、類語のすべてに虫酸が走る。「真の愛国者」は、なおいけない。生理的に受け付けない。

パトリオティズムやナショナリズムと横文字に置き換えても同じことだ。パトリオティズムは理性の香りあるものとして肯定的に、ナショナリズムは泥臭く否定的に語られることが多いが、大した変わりはない。どちらも胡散臭さに変わりはない。どちらも、個人よりも国家や民族などを優越した存在として美化するもの。まっぴらご免だ。

辟易するのは、「愛国」とは倫理的に立派な心根であると思い込んでいる多くの人びとの押し付けがましい態度である。この愛国信仰者の愛国心の押し売りほど嫌みなものはない。夫婦同姓の強制、LBGTへの非寛容などとよく似ている。要するに、過剰なお節介なのだ。

国家や社会にゆとりがあるときには、「愛国」を叫ぶ者は少なく、邪悪な思惑による愛国心の鼓吹は国民の精神に響かない。愛国心の強制や強調が蔓延する時代には、国家や社会にゆとりがなくなって、個人の尊厳が危うくなっているのだ。とりわけ、政治権力が意図してする愛国心の鼓吹は、国家や社会が軋んでいることの証左であり警告なのだ。まさしく今、そのような事態ではないか。

為政者にとって最も望ましい国民とは、その精神において為政者と同一体となった国民,それも一つの束となった国民である。為政者は国家を僭称して、国民を愛国心の紐で、ひとつの束にくくろうと試みる。それさえできれば、為政者の望む方向に国民を誘導できる。そう。戦争の準備にも。場合によっては開戦にも。

国民の「愛国心」は、易々と為政者の「国家主義」に取り込まれる。あるいは、国家主義が愛国心を作り出す。愛国心に支えられた国家主義は、容易に排外主義ともなり、軍国主義ともなる。結局は、大日本帝国のごとき対外膨張主義となるのだ。愛国心とはきわめて危険なものと考えざるを得ない。

もうすぐ東京五輪である。ナショナリズムとナショナリズムが交錯して昂揚する一大イベント。どの国の為政者も、この場を利用しようとする。国旗国歌が輻輳 する空間が生まれる。旗や歌がもつ国民統合の作用を最大限利用しない手はない。どの為政者もそう考えて実行する。

日の丸が打ち振られる。あの戦争のときのように。今度は旭日旗までがスタジアムに登場するという。形を変えた、擬似戦争であり、ミニ戦争である。

今のままでは、安倍政権下、小池百合子都政が、東京五輪の主催者となる。世が、あげて東京都五輪礼賛であることが、まことに不愉快極まりない。

山ほどある嫌いな言葉に、もう少し付け加えよう。「東京五輪」「日本選手を応援しよう」「日本チームの奮闘が素晴らしい」「日本の活躍が楽しみですね」…。
(2019年9月16日)

国旗国歌強制是正の「ILOユネスコ勧告」再論

ILOとユネスコが合同委員会(セアート)での検討を経て、日本政府に対して「日の丸・君が代」強制の是正を求める勧告を出した。このことは、8月29日の当ブログで述べたとおりである。

ILOとユネスコが、「日の丸・君が代」強制問題に是正勧告
http://article9.jp/wordpress/?p=13082

本日(9月3日)参議院会館で、その勧告の取り扱いをめぐって、文科省の担当者と当該労組である「アイム」との交渉があり、私も参加した。

私が、文科省との交渉の席に出たのはこれが2度目。本日の文科省の対応は、到底誠実なものとは言いがたいが、とにもかくにも1時間半の意見交換の場を設定するだけの良識は持ち合わせているのだ。この点、都教委とは大違いである。都教委は、逃げ回っているばかり。教育委員はもとより、教育庁の幹部も交渉の場にはけっして出て来ない。自分のしていることに、およそ自信が持てないからとしか考えられない。

まず確認しておこう。ILOとユネスコの日本政府に対する勧告は、以下の6点である。「日の丸・君が代」強制を是正するよう求めるものとなっている。

(a)愛国的な式典に関する規則に関して教員団体と対話する機会を設ける。その目的はそのような式典に関する教員の義務について合意することであり、規則は国旗掲揚や国歌斉唱に参加したくない教員にも対応できるものとする。

(b)消極的で混乱をもたらさない不服従の行為に対する懲罰を避ける目的で、懲戒のしくみについて教員団体と対話する機会を設ける。

(c)懲戒審査機関に教員の立場にある者をかかわらせることを検討する。

(d)現職教員研修は、教員の専門的発達を目的とし、懲戒や懲罰の道具として利用しないよう、方針や実践を見直し改める。

(e)障がいを持った子どもや教員、および障がいを持った子どもと関わる者のニーズに照らし、愛国的式典に関する要件を見直す。

(f)上記勧告に関する諸努力についてそのつどセアートに通知すること

この度のILO・ユネスコ勧告は、「日の丸・君が代」強制の入学式・卒業式を「愛国的な式典」と呼んでいる。最も注目すべき上記(a)は「国旗掲揚や国歌斉唱に参加したくない教員」の立場を慮るものであり、(b)では「消極的で混乱をもたらさない不服従の行為に対する懲罰を避ける」よう手段を尽くせと言う。つまり、「入学式・卒業式での国歌斉唱時における強制はやめよ。平穏な不起立に対する懲戒処分は避けよ」と言っているのだ。これが、勧告の眼目である。

もう一つ、(d)は「現職教員研修は、教員の専門的発達を目的とし、懲戒や懲罰の道具として利用しないよう、方針や実践を見直し改める。」というのも、影響が大きい。周知のとおり、都教委は被処分者に対して「嫌がらせの研修」を行う。研修センターにカンヅメにして、転向を迫るやり口。これを「懲戒や懲罰の道具として利用しないよう、方針や実践を見直し改める。」と端的な勧告となっている。

これに対する文科省の総括的な対応は、以下のとおりである。

今般ILO事務局より送付されたセアート報告書については、法的拘束力を有するものではなく、また、必ずしも我が国の実情や法制を十分に斟酌しないままに記述されているところがある。文部科学省としては、…「教員の地位に関する勧告」の精神を尊重しつつ、我が国の実情や法制に適合した方法で取り組みを進めてまいりたい。

文科省が指摘する問題は3点ある。
(1) 報告書は飽くまで「勧告」であって、法的拘束力を有するものではない。
(2) 報告書は必ずしも我が国の実情を十分に斟酌したものではない。
(3) 報告書は必ずしも我が国の法制を十分に斟酌したものではない。

(1)は論外であろう。ILO・ユネスコの参加国である日本が、その勧告を「法的拘束力を有するものではない」として無視するとすれば大問題である。当然のことながら、勧告には誠実な対応が求められる。開き直って、無頼国家、破落戸官庁の汚名を着るようなことがあってはならない。

(2) の「十分に斟酌すべき我が国の実情」が何をいうのか、私にはよく分からない。私の理解では、国旗国歌に関する我が国特有の実情とは、旧憲法時代の国旗国歌を今なお使用し続けていることである。「日の丸・君が代」は、神権天皇制時代の国旗国歌であり、富国強兵を国是とする大日本帝国の国旗国歌として侵略戦争と植民地支配の象徴であった。憲法改正によって国家の基本原理が根本的に変更された今なお、同じ旗と歌を国旗国歌とすることにはおおきな無理があるのだ。日本の国旗国歌事情は、あたかも戦後のドイツがハーケンクロイツを国旗として使用し続けているに等しい。この国旗国歌に違和感をもつ国民こそが正常な感覚といわねばならない。

(3)は、本日の文科省担当者の説明によれば、「我が国の法制」とは、教育公務員の懲戒権は各教委にあって政府にはない、というものの如くである。文科省によると、「ILO・ユネスコは、そんなことも知らずに政府に勧告を出してきた」といわんばかりなのだ。しかも、「懲戒権の行使は、国内法(地公法)に則り適切に行われている」という認識なのである。これは、ILO・ユネスコからの勧告に誠実に対応しようという姿勢ではない。「無視するぞ」と言わんばかりではないか。

日本政府は、国旗国歌の強制、しかも懲戒処分までしてする「日の丸・君が代」への敬意表明の強制は、世界標準からみて非常識なものであることを真摯に受け止めなければならない。ILO・ユネスコが言っていることの枝葉末節ではなく、基本理念を理解しなければならない。

教育の場から思想・良心の自由が失われれ、国家の統制のみが横行することとなれば、やがて民主主義は死滅することになろうからである。ちょうど、「日の丸・君が代」とご真影への敬意表明が当然とされた、あの暗黒の時代のごとくに。
(2019年9月3日)

ILOとユネスコが、「日の丸・君が代」強制問題に是正勧告

安全保障理事会と総会ばかりが国連ではない。国連はいくつもの専門機関を擁して、多様な人権課題に精力的に取り組んでいる。労働分野では、ILO(国際労働機関)が世界標準の労働者の権利を確認し、その実現に大きな実績を上げてきた。また、おなじみのユネスコ(国際教育科学文化機関)が、教育分野で旺盛な活動を展開している。

その両機関の活動領域の交わるところ、労働問題でもあり教育問題でもある分野、あるいは各国の教育労働者(教職員)に固有の問題については、ILOとユネスコの合同委員会が作られて、その権利擁護を担当している。この合同委員会が「セアート(CEART)」である。日本語に置き換えると「ILO・ユネスコ教職員勧告適用合同専門家委員会」というのだそうだ。

各国の教職員の労組が、それぞれに抱える問題をセアートに訴え、国連から各国にしかるべき勧告がなされるよう働きかけている。そのような試みのひとつとして、我が国のいくつかの教職員労組が、「日の丸・君が代」強制問題を取りあげるようセアートに申し立てた。この春、これが正式に取りあげられ、ILOとユネスコ両機関での正式決議が成立し、日本政府に対する勧告となった。このことがもつ意義は大きい。

申し立てを行って、勧告を得たのは、東京と大阪にある二つの独立系教職員組合。「アイム’89東京教育労働者組合」と「合同労組仲間ユニオン」の教職員支部である。小さな組合の大きな成果となった。

アイム’89が申し立てたのは2014年8月。その内容は、1966年のILO「教員の地位に関する勧告」を、日本政府が遵守していないことについての申立だが、その中で「日の丸・君が代」強制問題に言及してこれを是正するよう具体的な勧告を求めるというものである。

「1966年・教員の地位に関する勧告」は、にユネスコが全会一致で採択した教員にとっての「人権宣言」とも言うべきもので、全世界の教員の自由、専門職性を認め、その地位の保護と向上を各国政府に求めたもの。

日本で進行している、学校の卒業式・入学式における「日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱する」ことの強制は、公権力が教育の場に愛国心強制を持ち込み、教員に対して愛国的な教育を強制するもので、教員の思想・良心の自由、その専門職性に支えられた教職員の教育の自由を侵害するものとなっているという主張。

とりわけ、東京都教育委員会は2003年「10・23通達」を発出し、これに基づいて、全校長が管轄する全教職員を対象に、「会場の指定された席で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する」よう職務命令を発し、これに従わない教職員に対する大量の懲戒処分を重ねてきた。既に、500に近い教職員が、戒告、減給、停職処分を受け、処分者には「再発防止研修」が懲罰的に課され、すべての処分者は定年退職後の再雇用希望も拒否されつづけている。

アイム’89によると、「日の丸・君が代」処分に関連する申立の根拠たる事由は、下記の3点だという。

1 教職員は,卒業式・入学式において「日の丸・君が代」への敬愛行為を強制され,思想良心の自由を侵害されています。

2 教員は,卒業式・入学式の実施内容に関して何ら決定権を持ちません。教員は教育の自由の権利を侵害されています。侵害は,年を追うごとに領域 が拡がり,深刻になっています。

3 教職員は,自らの思想良心,教育信念にもとづいて,卒業式・入学式において「日の丸君が代」起立斉唱命令に従わないと,懲戒処分を科され,経済的不利益,精神的苦痛を被ります。そればかりか,考え方を改めるように再発防止研修という名の思想転向を強要されます。また退職時には,再雇用職員への採用が拒否され,5年間の教育的関わりの機会が剥奪されます。

この申立をセアートは受理し調査を実施した。日本政府へ問い合わせもおこない、アイム’89と日本政府の双方にそれぞれ意見と反論を述べる機会を与えたうえで、2018年10月、ILOとユネスコに対する報告・勧告を採択した。この勧告に基づいて、2019年3月ILO理事会が4月にはユネスコ執行委員会が、正式に採択して公表した。

ILOとユネスコの日本政府に対する勧告は、以下の6点である。申立を認めて、「日の丸・君が代」強制を是正するよう求めるものとなっている。

(a)愛国的な式典に関する規則に関して教員団体と対話する機会を設ける。その目的はそのような式典に関する教員の義務について合意することであり、規則は国旗掲揚や国歌斉唱に参加したくない教員にも対応できるものとする。

(b)消極的で混乱をもたらさない不服従の行為に対する懲罰を避ける目的で、懲戒のしくみについて教員団体と対話する機会を設ける。

(c)懲戒審査機関に教員の立場にある者をかかわらせることを検討する。

(d)現職教員研修は、教員の専門的発達を目的とし、懲戒や懲罰の道具として利用しないよう、方針や実践を見直し改める。

(e)障がいを持った子どもや教員、および障がいを持った子どもと関わる者のニーズに照らし、愛国的式典に関する要件を見直す。

(f)上記勧告に関する諸努力についてそのつどセアートに通知すること

ILOユネスコ勧告が、「日の丸・君が代」強制の入学式・卒業式を「愛国的な式典」と呼んでいることが興味深い。「愛国的な式典」に関する教員の義務については、都教委が一方的に命令するのではなく、教職員組合との合意で規則を制定せよという。そして、その規則は「国旗掲揚や国歌斉唱に参加したくない教員にも対応できる内容とする」というのだ。これを、世界標準と考えるべきなのだ。

この勧告を受けて、アイム’89は、次のような声明を挙げている。

・日本政府および文部科学省は、「日の丸・君が代」が強制されるべきものではないことを明確に示し、各地方自治体教育委員会に通達すること。

・各地方自治体および各地方自治体教育委員会は、直ちに「日の丸・君が代」を強制する条例や通達等を廃止・撤回すること。

・各地方自治体教育委員会は、「日の丸・君が代」強制による処分のすべてを取り消すこと。

・日本政府および文部科学省、各地方自治体教育委員会は、学校における卒業式・入学式等の実施内容・方法について、教職員団体と話し合いをする機会を設定すること。

・日本政府および文部科学省、各地方自治体教育委員会は、学校における卒業式・入学式等の実施内容・方法について、すべての教職員および子どもの自由と尊厳が尊重され、ニーズが満たされるものとなるように設定すること。

・文部科学省および各地方自治体教育委員会が設定する教員研修については、 教員の専門的発達を目的とする以外のものとしないこと。

・最高裁判所および下級裁判所は、「教員の地位に関する勧告」および「セアート勧告」に照らし、「日の丸・君が代」強制により損害・不利益を被った者の訴えに対し、正当な補償・救済をすること。

まことにもっともではないか。次に予定されている「東京・君が代裁判」においては、十分にこれを活用したいものと思う。また、大いにこれの宣伝に務め、「日の丸・君が代」強制反対の世論を喚起したい。
(2019年8月29日)

自分自身の思想と良心を守り抜いた原告の皆さまに敬意を表します。

東京「君が代裁判」4次訴訟の終了報告集会にご挨拶申し上げます。
提訴から最高裁決定で確定するまでの、事件の経過や各審級の判決内容は、平松真二郎弁護団事務局長から報告があったとおりですので、私は別の角度からのお話しをさせていただきます。

弁護士は、事件と依頼者によって、はじめてはたらく場が与えられます。事件と依頼者によって、弁護士としての生きがいを得、力量を育てられるものです。私は、育てられるにはやや手遅れですが、私を除く弁護団の皆が、この事件に真剣に取り組み、弁護士としての生き甲斐を得、大きく育てられたことをありがたく思っています。

人はパンのみにて生くるものにあらず。弁護士はルーチンの債務整理のみにて生くるものではありません。弁護士を志したときには人権擁護の理念に燃えていたはずです。そのような弁護士本来の活動の機会を得たことを好運に思い、魅力ある原告の人々と信頼関係を築いて交流することができたことをありがたいこととも、好運であったとも、思っています。

この訴訟では、君が代不起立に対する懲戒処分のうち、減給・停職の苛酷な処分はすべて取り消されて確定しました。そのうちの田中さんに対する、4回目・5回目の不起立に対する減給処分がいずれも取消されて確定したことが、特筆すべき成果として強調されています。原告の訴えをよく聞く耳を持っている、血の通った裁判官のお陰でもありますが、私は、一審14人の原告団全員の熱意と真面目さが裁判所を動かしたのだと思います。田中さん一人の成果ではなく、14人全員の成果であったと思います。また、その成果は、予防訴訟から、処分取消を求めた1次、2次、3次訴訟の積み上げの上に、大きな支援の輪の広がりの中で勝ち得られたのだと思います。

一方、残念ながら4次訴訟でも、戒告処分を取り消すことはできませんでした。最高裁の壁は厚かったというほかはありません。このことは、5次訴訟以後の課題として残されたことになります。私たちは、日本国憲法の理念から、「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱せよ」という職務命令も、その職務命令違反を理由とする懲戒処分も、本来は違憲違法なのですから、戒告処分取消の判決を得るまで、力を尽くしたいと思っています。

すこしだけ、この事件において問われているものを振り返ってみたいと思います。
最近、何度か韓国へ行く機会があります。その都度ことあるごとに、韓国では国旗国歌への敬意強制に関する問題はないのか、強制に反対の運動はないのかと聞くのですが、誰もが強制を意識することもないし、強制反対の運動もない、と言います。

よく知られているとおり、韓国の国旗は太極旗。起源は李氏朝鮮時代からと言いますが、1919年の3・1独立運動では、独立を求める行進の先頭にこの旗が立ち、独立宣言文以上に、独立を求める民衆を鼓舞する役割を果たしたと言われています。以来、抗日と民族独立運動のシンボルとなり、独立後に正式に国旗として制定されました。

韓国では、右派・左派を問わず、国旗に親近感・肯定感が強いようです。この旗に、プライドを持ち、この国旗に敬意を表することは当然のことという共通の了解があり、国旗に敬意を強制の問題も、国旗に抵抗の問題も聞いたことがない、と言うわけです。

日本では事情が違うとお話しします。日本で国旗とされている「日の丸」は、かつては富国強兵と滅私奉公をスローガンとした、天皇制軍国主義国家のシンボルでした。侵略戦争と植民地主義の象徴だったと言ってよい。敗戦後、新憲法で国の基本原則が根底から変えられたのに、「日の丸」は依然として国旗となっている。この旗を憲法理念に敵対する旧体制の残滓のシンボルと考え、敬意を表することができないという少なからぬ良質な人々がいます。私も、日の丸は嫌いだ。こう説明すると、「なるほど。分かります。そんなふうに、国旗の成り立ちや意味合いが違うのですね」ということになります。日本の事情は分かるけど、韓国は違う、というわけです。

でもね、と話は続きます。日本ではあまり知られていませんが、韓国の国歌は「愛国歌」といいます。その歌詞は、韓国の自然や国民の精神を讃え、最後がこう結ばれています。

この気性とこの心で忠誠を尽くし、辛くとも楽しくとも国を愛そう

忠誠の対象は国。愛そうという呼びかけの対象も国。私の感覚では、「国に忠誠を。国を愛そう」なんて歌は気持ちが悪くて歌えない。どんな民主的な国であろうとも、国家は権力として国民と対立する。自立した個人の尊厳を守るためには、どんな国家に対しても、批判や抵抗が必要ではないか。国旗国歌に無批判に敬意を表するということは、個人の尊厳を放棄して権力に従順であれということ。だから、「国を愛そう」などとは言うべきではないし、けっして言えない。国旗国歌に忠誠を誓ったり、敬意を表明するなんてできない。そう考えている少なからぬ良質な人々がいる。私もその一人だ。だから、「日の丸が嫌い」だけでなく「国旗」が嫌いだ。

こう言うと、韓国のたいていの人は首を捻ります。そういう理屈は分からないでもないが、現実にはそんな問題も運動も韓国にはないと思います、となる。

今年(2019年)5月18日光州民主化運動犠牲者追悼の国家式典に参加しました。この式の冒頭に韓国国歌の演奏を聴きました。ああ、韓国の国民は、国旗国歌に違和感がないのだな、と思わせられました。

日本と韓国、国旗国歌に対する国民感情がずいぶん異なります。「日の丸・君が代」強制を受け入れがたいとする私たちは、いったい何に抗い、何を求めているのだろうか、と考えます。

問われているものは、歴史観であり、国家観であり、教育観ではありますが、その根底にあるのは、個人の尊厳を擁護する課題だと思うのです。自分を大切にしたい、自分の人生の主人公は自分自身であって、自分の生き方は自分で決める。国家に余計な口出しはさせない、ということが根本にあるように思うのです。

国家の権力や、社会の多数派が求めるとおりの生き方は、波風が立たず、案外楽なのかも知れません。しかし、自分は自分である、みんながそれぞれの個性を認め合って、生きてゆける社会を作りたい、とりわけ次代の社会の主人公を育てる立場の教員であれば、そう思うのは当然です。これを蹂躙する権力の行使は、理不尽極まるものといわねばなりません。

とは言え、この理不尽に抵抗するか、妥協するか。これは、人生観の分かれ目。敢えて、覚悟の抵抗をされた方に、私は尊敬の念を禁じえません。

そこで、不起立を貫き、この訴訟を闘い抜いた意義を確認したいと思います。まず、何よりも自分を裏切らず、自分の信念を曲げることなく、自分自身のプライドを守ったことが大きな成果ではないでしょうか。憲法を武器に、堂々と正論を述べたことを誇りにしてよいと思います。

それだけではなく、国旗国歌の強制に反対の大きな運動に参加し寄与したことも、素晴らしい成果だと思ます。原告の皆さんは、はからずも、歴史を進歩の方向に動かすか、退歩の方に動かすかの岐路に遭遇したのです。あきらめて権力に膝を屈するのではなく、敢然と力を合わせて闘ったことが、歴史を進展させるベクトルに作用したのです。日の丸・君が代強制反対運動は、人権運動であり、民主主義擁護運動であり、自由な教育を目指す運動でもあります。4次訴訟原告の皆様が、この運動に力強い刺激を与え、これを支える大きな力となって来られたことに、重ねての敬意を表明して、ご挨拶とします。
(2019年6月1日)

東京「日の丸・君が代」強制拒否訴訟報告

どこの国にも国旗がある。日本には「日章旗」、韓国は「太極旗」、北朝鮮は「共和国旗」である。台湾は「青天白日旗」を国旗として、「五星紅旗」に対抗している。
国家は、その象徴として国旗を制定する。国家という抽象物は目に見えないが、国家を象徴する国旗は、国民の目の前で翻ってみせる。国民の目の前で翻る国旗は、国民のナショナリズムを刺激する。おなじ旗に集う者として国民を束ね、束ねた国民を国家に結びつけるよう作用する。
国家(より正確には国家を掌握している権力者)は、より強い国民の国家統合を求めて、国民に対して「国旗を尊重せよ」「国旗に敬意を表明せよ」と要求する。国家への忠誠を国旗に対する態度で示せということなのだ。場合によっては、国旗への敬意表明が国民の法的義務となる。わざわざ法的義務としなくても、国民多数派の社会的同調圧力が、全国民に国旗尊重を事実上強いることになる。
全国民が、無理なく受け入れられる国旗をどうデザインするかは難しい。東京朝鮮中高級学校のホームページを開くと、まず目に飛び込んでくるのは、「統一旗」である。在日の皆さんが求める国家的アイデンテティをよく表している。かつての枢軸3国の内、ドイツもイタリアも敗戦後の再出発にあたっては、国旗を変えた。国家が生まれ変わったのだから、国旗も国歌も変えるのが当然なのだ。しかし、日本だけが旧態依然である。あの神権天皇制の日本。侵略戦争と植民地支配に狂奔した軍国主義日本と、あまりにも深く一体化した旗と歌とが今なおそのまま国旗となり国歌となっている。
天皇代替わりの今、あらためて、敗戦と日本国憲法制定にもかかわらず、この国の変わり方が不徹底であったことを噛みしめざるを得ない。多くの国民が、天皇の戦争責任追及をしなかった。自らの侵略戦争や植民地支配への加害責任の自覚が足りない。旧体制を支えた天皇の権威への盲従に、反省がまことに不十分なのだ。そのことが、歴史修正主義者を跋扈させ、今日に至るも近隣諸国に対する戦後補償問題が未解決な根本原因となっている。
学校での「日の丸・君が代」強制も、主には歴史認識問題である。旧体制批判に自覚的な教員の多くが、「日の丸・君が代」強制に抵抗してきた。
「日の丸・君が代」は、あまりに深く旧体制と結びついた歴史をもつ。天皇主権・天皇の神格化・富国強兵・滅私奉公・軍国主義、そして侵略戦争と植民地支配である。「日の丸に向かって起立し、君が代を唱え」と強制することは、新憲法で否定されたはずの旧価値観を押し付けることではないか。一人ひとりの思想・良心の自由を蹂躙して、国家が良しとする秩序を優先することは受容しがたい。それが、圧倒的な教員の思いであった。
しかし、国は徐々に「日の丸・君が代」強制強化に布石を打っていった。文部省は1989年に「学習指導要領」を改訂し、従前は「指導することが望ましい」とされていた表記を、「入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする。」とあらためた。さらに1999年8月には、国旗国歌法を制定して「日の丸・君が代」を国旗・国歌とした。
こうして、制度が整うと、強制の徹底を買って出る自治体が現れる。まずは、石原慎太郎都制下の東京都教育委員会が、2003年10月に、悪名高い「10・23通達」を発出した。以来、都内の公立学校では、式のたびに全教職員への起立斉唱の職務命令が発せられ、不起立の職員には懲戒処分が強行されることになった。今日まで、戒告・減給・停職の処分が延べ480名余に強行されてきた。これに関連するいくつもの訴訟が提起され、最高裁判決も積み重ねられている。
残念ながら、教員側は、最高裁で「いかなる処分も違憲」という判決を獲得し得ていない。しかし、最高裁は、戒告を超えて減給以上の実質的な不利益を伴う重い処分量定は苛酷に過ぎ、懲戒権の逸脱濫用にあたるとして、都教委の暴走に歯止めを掛けてきた。
今回、3月28日に最高裁は、都教委の上告受理申立を不受理として、現役教員の4回目・5回目の不起立に対する各減給処分(いずれも減給10分の1・1月)を違法とする原判決を容認した。不起立回数に関わりなく、君が代・不起立の処分は戒告にとどまることになった。
「日の丸・君が代」強制反対訴訟は、まだまだ続く。この訴訟と支援の運動は、児童・生徒のために自由闊達で自主的な教育を取り戻すための闘いとともにある。本来が、教育とは、国家の強制や政権の思惑からは独立した自由なものでなくてはならない。教育への公権力の介入を象徴するこの訴訟への関心と、ご支援を心からお願いしたい。

(日朝協会機関誌「日本と朝鮮」東京版・2019年6月号掲載)

(2019年5月29日)

 

本日(4月20日)の東京新聞「こちら特報部」に、国旗国歌強制の是非を問う記事。

本日(4月20日)の東京新聞「こちら特報部」に、「進んだ愛国心強制」「日の丸・君が代 問われた平成」というタイトルの記事。都教委の「日の丸・君が代」強制と、それへの抵抗の運動と訴訟の記事がメインとなっている。もう一つのテーマが、ILOによる日本政府への国旗国歌強制改善勧告の件。

リードは、以下のとおり。

「日の丸」の掲揚と「君が代」の斉唱が学校教育で規定された1989年の学習指導要領改定から30年。平成の時代は教師らにとって、思想良心の自由に「踏み絵」を迫られた時間でもあった。卒業式などで起立せず、君が代を歌わなかったのは職務命令に反するとして、処分を受けた教師らがその違憲性を訴えた裁判は今春、終結。国際労働機関(ILO)は日本政府に改善を促した。国旗国歌の強制問題は今、どこにあるのか。

「平成の時代は教師らにとって、思想良心の自由に「踏み絵」を迫られた時間でもあった。」という、「平成『踏み絵』時代論」、あるいは「思想良心受難時代論」である。「平成」という期間の区切り方にはなんの必然性もないが、なるほど、符合している。学習指導要領の国旗国歌条項の改定が1989年だった。それまで学校行事での国旗掲揚・国歌斉唱は「望ましい」とされていたに過ぎなかったものが、「国旗を掲揚し国歌を斉唱するよう指導するものとする」と、義務条項に読める文言となった。あれから、ちょうど30年。平成と言われる時代は、愛国心教育が子どもたちに吹き込まれた時代と重なった。

おそらくは、愛国心教育というマインドコントロールの効果に染まった子どもたちが、大量のネトウヨ族に育ち、嫌韓反中本や「日本国紀」などの読者となっているのだろう。自分自身の自立した主体性をもたず、自分の頭でものを考えることなく、国家や民族に強いアイデンティティを感じて、自国・自民族の歴史を美化し、民族差別を当然のこととするその心根。それが、愛国心教育の赫々たる成果だ。

これに抵抗する教員が少数派となり、抑圧の対象となり、権力的な制裁を受けてきたのが、なるほど「平成」という元号に重なる30年の時代だった。日の丸・君が代問題は、時代の空気の象徴である。こと、思想・良心の自由、あるいは教育の自由にとって、受難の時代として振り返るしかない。しかし、単なる受難一方の時代ではない。精一杯の抵抗の時代でもあった。

特報部記事の取材先は、5回の不起立で裁判を闘った田中聡史さん、やはり訴訟の原告だった、渡辺厚子さん。そして、弁護団の私、名古屋大学の愛敬浩二さん、東大の高橋哲哉さんなど。

良心的なメディアに、真面目な姿勢で取りあげていただいたことが、まことにありがたい。

ところで、東京新聞は、3月30日に、「ILO、政府に是正勧告」の記事を出している。これについては、同日に私のブログで紹介しているのでご覧いただきたい。

「ILOが日本政府に、「日の丸・君が代」強制の是正勧告」
http://article9.jp/wordpress/?p=12331

この東京新聞記事を検索すると、この記事に対する賛否の意見を読むことかできる。これが、興味深い。まことに真っ当なILO勧告への賛成意見(「日の丸・君が代」強制反対)と、まことに乱暴で真っ当ならざる反対意見(「日の丸・君が代」強制賛成)との対比が、絵に描いたごとくに明瞭なのだ。

いくつかの典型例をピックアップしてみよう。

侵略戦争のシンボルに拒否感を抱く人の思想・良心の自由は保障されるべきであり、学校という公的な場でこそ尊重が求められる。政府も国旗国歌法の審議で「強制しない」としていた。懲戒処分を背景に強制などもってのほか。(山添拓)

学校現場での「日の丸掲揚・君が代斉唱」の強制(従わない教職員らへの懲戒処分)を巡り、ILOが初めて是正を求める勧告を出したとのこと。侵略戦争・植民地支配のアンセムとして機能した「君が代」の斉唱の強制は、内心の自由の侵害です。歌わない自由を認めるべきです。(明日の自由を守る若手弁護士の会)

「君が代」「日の丸」はただの物ではなく、天皇主権とその下での侵略戦争の歴史を背負っている。だから良心的な教員であるほど、それらに敬意を表することはできないのだ。とにかく国旗掲揚や国歌斉唱を強制する職務命令は、国際的には無効であることが示されたわけだ

これ本当は独立の近代国家である(少なくともそう自称している)我が国の裁判所が言わなきゃいかんことなのよ。ところが我が国の裁判所は正反対のことを言いそういった我が国の現状に対してまたしても海外から至極真っ当な苦言を呈されるという。いつまで続けるのこんなこと

また、「ILOは反日」と言い出す輩が現れるのだろう。国連も反日、ASEANも反日、世界中反日だらけ。自分の方がおかしいとか思わないのかね。

強制賛成派は、こんな調子だ。

は?日本人じゃないんですか?
国家(ママ)歌いたくないとか、国旗掲揚したくないとか、どこのダダっ子…(笑)
嫌なら教員辞めれば良いだけw
就業規則に従わない社員みないなものですよねw

ふざけるな!教師は国旗掲揚、国歌斉唱は義務です。それが仕事だからです。いやなら、辞めればいいだけです。

↑なに大喜びで報道してんだよ
サヨクミニコミ誌か?
ホントどこの国の新聞なんだ?

「内心の自由」が無定量に認められると面白い世の中になる。「気に入らない客」も「気に入らない上司」も皆、憲法で認められた「内心の自由」で沈黙=無視しておけばオケw  いんじゃない?

えぇ……(困惑)
教員は国家と契約して国民の血税で食ってるやんな、国家に対して従うと宣誓してるワケ
なら、その国家の歌を儀式的な場で歌うというのは、至極当然のことじゃないか?

少し誤解があるようだから、一言。訴訟での教員側の主張は、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制は受け入れがたいとしているだけ。けっして、思想・良心の自由の外部的な表出行為について、無制限な自由を主張しているわけではない。教員の職務との関係で、思想・良心にもとづく行動にも当然に限界がある。

たとえば、仮に教員が天地創造説を信じていたとしても、教室では科学的な定説として進化論を教えなければならない。記紀神話の信仰者も、神話を史実として教えてはならない。その場面では、教員の思想・良心の自由という憲法価値が、子どもの真理を学ぶべき権利に席を譲るからだ。

しかし、国家と個人の関係に関わる問題についてはそうではない。優れて価値観に関わる問題として、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制に対する態度には、科学や学問とは異なり、何が正しいかを決めることはできない。この局面では、教員は自らの思想・良心にしたがった行動をとればよく、子どもたちの教育のためとして、思想・良心を枉げる必要はない。

進化論を否定する子どもや、アマテラスの存在を史実だと信じる子どもを育ててはならない。国旗・国歌の強制を認める子どもを育てるべきか、国旗・国歌の強制を認めない子どもとなるよう教育すべきかは、一律に教育も教育行政も決することはできない。その分野では、教員は自分の信念に従ってよいのだ。
(2019年4月20日)

あやまれ つぐなえ そして なくせ『君が代強制』

弁護士の澤藤から、「君が代裁判4次訴訟」の弁護団を代表して、東京都教育委員会の情報課長に一言申し上げる。

「10・23通達」発出以来、私は毎年々々、この季節にはこの場にやってきて、歴代の情報課長にもの申してきた。いつも、情報課長の後にいる極右というべき知事や、無能な教育長やお飾りの教育委員に語りかけてきた。私は、陳情や要請をしてきたのではない。憲法を知らず人権を知らない都教委に、怒りの抗議をしてきたのだ。

私は、本件のような行儀のよい原告の事件ばかりを担当してきたわけではない。不当労働行為や争議介入をする乱暴な企業、解雇事件や、公害や、消費者被害や、労災職業病などの事件で、悪徳企業・悪徳商法と果敢に闘う事件の担当を経験してきた。いま、東京都がしていることは、悪徳企業・悪徳商法並みの反憲法的違法行為以外のなにものでもなく、嘆かわしいというほかはない。

本日の抗議と要請は、3月28日の最高裁決定を受けてのもの。都教委は、この席にいる田中教諭に「君が代」斉唱時の不起立を理由に懲戒処分を科した。一再ならず、5回にわたってのこと。処分の量定は、1回目から3回目までは戒告だった。ところが、4回目・5回目は減給(10分の1)1か月というものとなった。

戒告処分についても、その違憲違法不当について言いたいことはいくつもあるが、本日の抗議の趣旨は、田中教諭に対する減給処分についてのことだ。この件については、これまでの最高最判例を踏まえたかたちで、一審東京地裁は原告の言い分を全面的に認めて当該の処分は懲戒権の逸脱濫用にあたると判断し、違法な処分と認定して処分を取り消した。都教委は、この地裁判決を不服として東京高裁に控訴したがここでも敗訴した。都教委は、さらに最高裁に上告受理申立までして、これが不受理となって、敗訴確定に至ったのが、3月28日である。

公害や、職業病や、悪徳商法の被害回復運動の合い言葉を紹介したい。
「あやまれ つぐなえ なくせ」というのだ。今、原発事故被害回復の運動や訴訟でも、「あやまれ つぐなえ なくせ 原発」というふうに使われている。

「あやまれ つぐなえ なくせ 「君が代」処分」と言いたいところだが、本日は減給以上の処分に限って言う。まずは、「あやまれ」である。

本件4次訴訟の一審判決では、《停職6月》1名、《減給10分の1・6月》2名、《減給10分の1・1月》3名(4件)が、いずれも取り消された。これについて、都教委は、田中教諭の《減給10分の1・1月》(2件)だけを控訴して、他は確定させた。そして、このたび、6名7件についての一審判決の処分取消の全部が確定した。

ところが、東京都は、この6名7件の確定した処分取消に対して、謝罪をしていない。謝罪をしようともしていない。まずは、真摯にあやまっていただきたい。

まずは、当事者本人に。それだけではない。この教員たちに苛酷な処分をすることによって、他の多くの教員を威嚇し萎縮させたのだ。すべての教員にあやまっていただきたい。そのような見せしめで、子どもたちが一つのイデオロギーに染められてきたのだ。子どもたちにもあやまらねばならない。また、訴訟費用という無駄な税金の拠出をしたことを納税者である都民にもあやまれ。

苛酷な処分によって、当事者がどんなに苦しんだか。その身なって考えて見よ。処分は、ホームページに掲載されるのに、処分の取り消しはホームページに掲載しないというのは、まったくわけの分からぬ奇妙奇天烈。至急に名誉回復の措置をと琉べきが当然ではないか。

次が「つぐなえ」だ。減給処分取消に伴う、バックペイだけでこと足りたとしてはならない。原告となった教員たちは、都教委の違法な処分を取り消させるために、人事委員会申立・提訴を余儀なくされた。訴訟にはカネがかかるのが、常識ではないか。都教委側は税金で訴訟を維持しているが、教員側は手弁当だ。訴訟にかかった費用くらいは、償うべきが当然ではないか。

最後に、「なくせ」だ。教育長以下のお飾り教育委員、そして教育庁幹部には、再発防止研修がどうしても必要だ。憲法とはなにか。権力の行使とはどんな意味をもつことなのか。教育と教育行政とはどう違うのか、教育の本質とは何か、教育行政は何をすべきで何をしてはならないのか。思想・良心・信仰の自由とは何か。「10・23通達」関連判例は、都教委に何を求めているのか…。しっかりと研修を受けさせ、その研修の成果としての理解の程度を確認しなければならない。

場所は研修センターで、研修の担当者は、教育学や教育法学、あるいは憲法学のしかるべき研究者や法曹から選任すべきだが、原告弁護団からも講義担当者を出してもよい。都教委幹部は、真摯に、自分がまちがっていることを自覚しなければならない。

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 請 願 書

2019年4月15日

「日の丸・君が代」不当処分撤回を求める被処分者の会
東京「君が代」裁判原告団
共同代表 岩木 俊一  星野 直之

東京都教育委員会教育長 中井 敬三 殿

<請願の趣旨> 

1.最高裁第一小法廷(池上政幸裁判長)は2019年3月28日、東京「君が代」裁判四次訴訟(一審原告14名。上告人13名)において、一審原告らの上告を棄却し、戒告処分取消・損害賠償を求める上告受理申立を不受理とする一方、減給処分取消を認めた東京高裁判決を不服とした都教委の上告受理申立についても不受理とする決定をした。これにより、1名・2件(特別支援学校教員)の卒入学式での4回目・5回目の不起立に対する減給処分(減給10分の1・1月)が取り消され、都教委の敗訴が確定した。これは、従来の最高裁判決(2012年1月16日及び2013年9月6日)に沿って、不起立の回数を理由により重い処分を科す都教委の累積加重処分を断罪し、その暴走に歯止めをかけたものである。

2.卒業式・入学式等で「日の丸・君が代」を強制する東京都教育委員会の10・23通達(2003年)とそれに基づく校長の職務命令により、これまでに懲戒処分を受けた教職員は延べ483名にのぼる。

3.これらの懲戒処分について、最高裁判決(2012年1月16日及び2013年9月6日)は、起立斉唱行為が、「思想及び良心の自由」の「間接的制約」であることを認めた上で、「戒告を超えてより重い減給以上の処分を選択することについては,本件事案の性質等を踏まえた慎重な考慮が必要」「処分の選択が重きに失するものとして、社会観念上著しく妥当を欠き、…懲戒権者としての裁量権の範囲を超えるものとして違法」として減給処分・停職処分を取り消した。これらの最高裁判決には、都教委通達・職務命令を違憲として、戒告を含むすべての処分を取り消すべきとの反対意見(2012年1月宮川裁判官)を始め、都教委に対し「謙抑的な対応」を求めるなどの補足意見(2012年1月櫻井裁判官、2013年9月鬼丸裁判官)があり、教育行政による硬直的な処分に対して反省と改善を求めている。

4.最高裁判決とその後の確定した東京地裁・東京高裁判決及び今回の最高裁決定で、10・23通達関連裁判の処分取り消しの総数は合計76件・65名にのぼる。

5.ところが都教委は、裁判で敗訴したにもかかわらず、違法な処分を行ったことを原告らに謝罪しないばかりか、2013年12月、2015年3月~4月及び2018年2月、最高裁判決・東京地裁判決で減給処分が取り消された都立高校教員計18名に新たに戒告処分を科す(以下再処分という)という暴挙を行った。また、2012年4月より、被処分者に対する服務事故再発防止研修を質量共に強化して、「反省・転向」を強要している。更に、最高裁判決に反して、4回目以上の不起立に対して都立学校教員2名に減給処分を出した。今回の最高裁決定は、その内1人の減給処分が取り消されたことを意味する。残る1人の減給処分は東京都人事委員会において係争中である。これらは、最高裁判決の趣旨をねじ曲げないがしろにするもので断じて許すことはできない。

6.東京都教育委員会が、これまでの一連の10・23通達関連訴訟で司法に断罪され、「違法」とされた減給・停職処分を行ったこと、また今回も最高裁判決に反して4回目以上の不起立に対して行った減給処分が「違法」として取り消されたことは、教育行政として重大な責任が問われる行為である。今すぐ原告らに謝罪し、その責任の所在を明らかにし、再発防止策を講じるべきである。また、都民の貴重な税金を浪費して争った裁判で敗訴したことを都教委ホームページ等で公表し、都民に謝罪すべきである。

7.問題の解決のために、都教育庁の責任ある職員と被処分者の会・同弁護団との話し合いの場を早期に設定すべきである。

8.これまで私たちの請願・要請・申し入れなどについては教育委員会に報告・検討されず、教育庁総務部教育情報課長名で所管課の回答をまとめた文書が「回答」として送付されるだけだった。都民の請願権を踏みにじる対応を反省するとともに、10・23通達発出当時の教育委員がすべて退任した現在、あらためて同通達に係わる諸問題について教育委員会で真摯かつ慎重に議論し、これまでの教育行政及び10・23通達を抜本的に見直すことを強く求める。

以上の趣旨から、下記請願する。

<請願事項>

1.最高裁決定を真摯に受け止め、該当者に謝罪すること。

2.最高裁・東京高裁・東京地裁及び今回の最高裁決定等で「裁量権の逸脱・濫用で違法」とされた減給・停職処分を行ったことを反省し、原告らに謝罪し、再発防止策を講じること。

3.最高裁決定で減給処分取消が確定した教員に再処分(改めて戒告処分を発令すること)をしないこと。

4.最高裁・東京高裁・東京地裁判決及び今回の最高裁決定等で「思想及び良心の自由」を「制約する」とされた職務命令への違反を理由としていかなる懲戒処分も行わないこと。

5.職務命令違反を理由に最高裁・東京高裁・東京地裁判決及び今回の最高裁決定等で違法とされた減給・停職処分などの累積加重処分を行わないこと

6.今回減給処分取消が確定したことに鑑み、人事委員会で係争中のもう一人の減給処分を撤回すること。

7.10・23通達に基づく校長の職務命令への違反を理由とした過去の全ての懲戒処分を即時撤回すること。

8.10・23通達に基づく校長の職務命令を発出しないこと。

9.10・23通達を撤回すること。

10.10・23通達に係わって懲戒処分を受けた教職員を対象とした「服務事故再発防止研修」を行わないこと。

11.問題の解決のために都教育庁関係部署(人事部職員課、指導部指導企画課、指導部高等学校教育指導課、教職員研修センター研修部教育経営課など)の責任ある職員と被処分者の会・同弁護団との話し合いの場を早期に設定すること。

12.以上を検討するにあたり、本請願書を教育委員会で配付し、慎重に検討・議論し、回答すること。

(2019年4月15日)

東京「君が代」裁判4次訴訟 最高裁決定で「減給処分取消の一部勝訴確定」のお知らせ

弁護士の澤藤です。東京「君が代」裁判・4次訴訟について、最高裁の決定が出ましたので、お知らせの記者会見を行います。

ご承知のとおり、「10・23通達」が発出された2003年10月23日以来、都内公立校の卒業式・入学式における国歌斉唱時の起立斉唱強制は今日まで続いており、この強制に従わない者に対しては、容赦のない懲戒処分が科せられています。その懲戒処分の取り消しを求めるのが東京「君が代」裁判。4次訴訟は、一審原告14名、上告人13名(現職教員8名)が、処分の取り消しを求めている訴訟です。

東京地裁(2017年9月)・高裁(2018年4月)の各判決で、減給・停職処分計6名・7件が取り消され、一部勝訴しました。これに対して、都教委は1名・2件についてだけ上告受理申立を行いました。この教員に対する2件(不起立4回目、5回目)の減給処分取り消しを不服としたものです。また、一審原告教員らはすべての処分について、取り消し、損害賠償を求めて上告及び上告受理申立をし、事件は最高裁第1小法廷に係属して、双方が正面対決する構図になっていました。

以上のとおり、東京「君が代」裁判4次訴訟は、3件に分かれて最高裁に係属してまいりました。原告教員側からの上告事件・上告受理申立事件、そして一審被告都教委の側からの上告受理申立事件です。

これに対して、教員の側からの上告を棄却する決定と、当事者双方の上告受理申立をいずれも不受理とする旨の決定が3月28日付でなされ、その通知が同月30日に弁護団事務局に送達されました。4月1日付の原告団・弁護団声明を作成し、本日記者会見をする次第です。

懲戒処分を受けた教員が上告理由としているのは、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の憲法違反です。何ゆえに憲法違反か。上告理由書は260ページに及ぶ詳細なものですが、煎じ詰めれば、思想・良心・信仰の自由という憲法に明記されている基本的人権というもの価値が、他の諸価値に優越しているということです。

教員の一人ひとりに、それぞれの思想・良心・信仰の自由が保障されています。各々の思想や良心やあるいは信仰が、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明を許さないのです。公権力が、敢えてその強制を行うことで、一人ひとりの精神的自由の基底にある、個人の尊厳を傷つけているのです。傷ついた個人の尊厳という憲法価値を救うために、裁判所は国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明強制は違憲だと宣言し、懲戒処分を取り消さなければなりません。

原告教員の側は、個人の尊厳という憲法価値を前面に立て、これを侵害する懲戒処分を取り消すよう主張を重ねてきました。一方、都教委側が主張する憲法的価値はと言えば、それは国家です。あるいは国家の尊厳、国家の秩序。国旗・国歌(日の丸・君が代)は国家象徴ですから、すべての人に「国旗国歌に敬意を表明せよ」と強制するには、国家に、個人の尊厳を凌駕する憲法価値を認めなければできないこと。個人の尊厳と、国家と。この両者を比較検討してどちらを優越する価値と見るすべきでしょうか。

多くを語る必要はありません。個人の尊厳こそが根源的価値です。国家は便宜国民が作ったものに過ぎません。個人の尊厳が傷つけられる場合、公権力が個人に国家への敬意を強制することはできないはずです。

いま、最高裁判例は、「国旗・国歌への敬意表明の強制は、間接的に強制された人の思想・良心の自由を制約する」ことまでは認めています。しかし、その制約は「間接的」でしかないことから、強制に緩やかな必要性・合理性さえあれば制約を認めうる、と言うのです。私たちは到底納得できません。判例か変更されるまで、工夫を重ねて何度でも違憲判断を求める訴訟を繰り返します。

一審原告の上告受理申立理由の中心は、本件不起立行為を対象とする戒告処分も処分権者の裁量権を逸脱濫用した違法のものであって取り消されねばならない、というものです。仮に、本件各懲戒処分が違憲で無効とまでは言えなくても、わずか40秒間静かに坐っていただけのことが懲戒処分に値するほどのことではありえない。実際、式の進行になんの支障も生じてはいないのです。懲戒処分はやり過ぎで、懲戒権の逸脱濫用に当たる、と言うものです。現に、2011年3月10日東京高裁判決は、処分は違憲との主張こそ退けましたが、懲戒権の逸脱濫用として全戒告処分を取り消しています。

この高裁判決を受けての最高裁判決か2012年1月16日第一小法廷判決です。戒告処分違法の判断を逆転させて、「戒告は裁量権の逸脱濫用には当たらない」としたのです。しかし、さすがの最高裁も、戒告を超えた減給以上の懲戒処分は苛酷に過ぎて裁量権の逸脱濫用に当たり違法、としたのです。

つまり、不起立に対する懲戒処分は違憲とまでは言えない。しかし、懲戒処分が許されるのは戒告処分止まりで、それ以上の重い減給や停職などの懲戒処分は裁量権の逸脱濫用として違法。これが現時点での最高裁判例の立場です。

私たちは、多様性尊重のこの時代に、全校生徒と全教職員に対して、国旗・国歌(日の丸・君が代)に敬意表明を強制することはあってはならないことだと考えます。思想や良心、あるいは信仰を曲げても、国旗・国歌(日の丸・君が代)に敬意を表明せよという強制は違憲。少なくとも、起立できなかった教員に対する懲戒処分はすべて処分権の逸脱濫用として取消しとなるべきことを主張してきました。

問題は、都教委が教員の一人を相手方にして上告受理申立をした事件。相手方となった教員が過去3回の不起立・戒告処分があるから、4回目は減給でよいだろう。そして5回目も減給、というのです。都教委側の理屈は、「処分対象の非違行為を重ねることは本人の遵法精神欠如の表れであって、その矯正のためにより重い処分をなし得る」ということになります。

しかし、この教員の思想も良心も一つです。何度起立を命じられようとも、思想・良心が変わらぬ限り、結果は同じこと。処分回数の増加を根拠に、思想や良心に対する制約強化が許されるはずはないのです。思想を変えるまで処分を重くし続ける、などという企みは転向を強要するものとして、明らかに違法と言わざるを得ません。

実は憲法論と同じように法的価値の衡量が行われています。衡量されている一方の価値は、思想・良心・信仰の自由。その基底に、個人の尊厳があります。衡量されているもう一方の価値は、「学校の規律や秩序の保持等の必要性」であり、違憲論の局面で論じられた価値衡量の問題が、本質を同じくしながら公権力の行使の限界を画する懲戒処分の裁量権逸脱濫用の有無という局面で論じられているのです。

今回、最高裁(第一小法廷)が都教委の上告受理申立を不受理としたのは、最都教委の請求を認めず、特別支援学校現役教員の4回目・5回目の卒入学式での不起立に対する減給処分(減給10分の1・1月)の取り消しが確定したことになります。都教委の敗訴です。これは、不起立の回数(今回は4回目・5回目)の増加だけを理由に減給処分という累積過重処分を行った都教委の暴走に歯止めをかけたものと評価できます。これにより、東京「君が代」裁判四次訴訟は、原告らの「一部勝訴」で終結することになりました。

なお、4がつ1日付の東京「君が代」裁判4次訴訟原告団・弁護団声明は下記のとおりです。

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声         明

1 2019年3月28日,最高裁判所第一小法廷(池上政幸裁判長)は,都立学校の教職員13名(以下,「原告ら教職員」という)が「日の丸・君が代」強制にかかわる懲戒処分(戒告処分10件)の取消しと損害賠償を求めていた上告事件及び上告受理申立事件について,それぞれ上告棄却,上告申立不受理の決定をした。
  あわせて,一審原告1名に対する原審における減給10分の1・1月の処分の取消を維持して東京都の上告受理申し立てを受理しない旨の決定をし,減給処分を取り消した東京高裁判決が確定した。
  今回の最高裁の上告棄却及び上告不受理決定では,戒告処分の取消しが認められなかったものの,最高裁が,2012年1月16日判決及び2013年9月6日判決に沿って,減給以上の処分による国歌の起立斉唱の強制を続けてきた都教委の暴走に一定の歯止めをかけるものと評価できるものである。

2 本件は,東京都教育委員会(都教委)が,2003年10月23日に「入学式,卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について」との通達(10・23通達)を発令し,全ての都立学校の校長に対し,教職員に「国旗に向かって起立し国歌を斉唱すること」を命じる職務命令を出すことを強制し,さらに,国歌の起立斉唱命令に違反した教職員に対して懲戒処分を科すことで,教職員らに対して国歌の起立斉唱の義務付けを押し進める中で起きた事件である。
  一審原告らは,自己の歴史観・人生観・宗教観等や長年の教育経験などから,国歌の起立斉唱は,国家に対して敬意を表する態度を示すことであり,教育の場で画一的に国家への敬意を表す態度を強制されることは,教育の本質に反し,許されないという思いから,校長の職務命令に従って国歌を起立斉唱することが出来なかったものである。このような教職員に対し,都教委は,起立斉唱命令に従わなかったことだけを理由として戒告・減給等の懲戒処分を科してきた。
  なお,このような懲戒処分は,毎年,卒業式・入学式のたびに繰り返され,10・23通達以降,本日まで,職務命令違反として懲戒処分が科された教職員は,のべ480名余にのぼる。この国歌の起立斉唱の強制のための懲戒処分について,2012年1月16日,最高裁判所第一小法廷は,懲戒処分のうち「戒告」は裁量権の逸脱・濫用とまではいえないものの,「減給」以上の処分は相当性がなく社会観念上著しく妥当を欠き,裁量権の範囲を逸脱・濫用しており違法であるとの判断を示していた。

3 上記最高裁判決以降,都教委は3回目の不起立までを戒告とし4回目以降の不起立に対して減給処分とする取り扱いをしてきた。本判決は,4回目・5回目の不起立に対する減給処分を「減給以上の処分の相当性を基礎づける具体的な事情は認められない」として取り消した原判決に対する東京都の上告受理申立てを受理しなかったものである。
  今回の上告不受理決定は,不起立の回数が減給処分の相当性を基礎づける具体的な事情には当たらないとの判断を示した東京高裁判決を維持して,不起立の回数のみを理由とした処分の加重を否定したものである。
  これまでの最高裁判決そして原判決に引き続き,都教委の過重な処分体制を許さなかったことは,都教委による起立斉唱の強制に一定の歯止めをかける判断として評価できる。

4 しかしながら,一審原告らは,真正面から10・23通達発出の必要性を支える立法事実がないことを明らかにし,思想良心の自由と緊張関係に立つ職務命令の違憲性を主張して上告してきたところであり,さらに,これまでの最高裁判決が判断を示してこなかった,10・23通達,職務命令,懲戒処分が,憲法19条,20条,23条,26条が保障する教師の教育の自由を侵害,また,教育基本法16条が禁じる「不当な支配」に該当するものであって違憲違法であることを主張して上告してきたところである。
  すなわち,一審原告らは,これまでの最高裁判決を含む各判決に憲法解釈の誤りがあることを理由として上告したのに対して,「本件上告の理由は,違憲をいうが,その実質は事実誤認若しくは単なる法令違反をいうもの」であるとして一審原告らの上告を棄却した本件上告棄却決定自体,最高裁は正面から憲法判断をしなければならなかったにもかかわらず,必要な憲法判断を回避したものであって到底容認できるものではない。
  このような,最高裁の判断自体は,従前の最高裁判決に漫然と従って本決定に至ったものであり,十分な審理を尽くさず,事案の本質を見誤ったまま上告を棄却したものであって,憲法の番人たる責務を自ら放棄したとの批判を免れることはできない。

5 都教委は,この司法判断を踏まえて回数だけを理由として処分を加重する「国旗・国歌強制システム」を見直し,教職員に下した全ての懲戒処分を撤回するとともに,将来にわたって一切の「国旗・国歌」に関する職務命令による懲戒処分及びそれを理由とした服務事故再発防止研修を直ちにやめるべきである。
  特に,都教委は,都教委がした違法な懲戒処分が取り消された事実を重く受け止め,今回の上告不受理決定によって減給処分の取り消しが確定する一審原告に対して,同一の職務命令違反の事実について重ねての懲戒処分はやめるべきである。
  わたしたちは,本判決を機会に,都教委による「国旗・国歌」強制を撤廃させ,児童・生徒のために真に自由闊達で自主的な教育を取り戻すための闘いにまい進する決意であることを改めてここに宣言する。
  この判決を機会に,教育現場での「国旗・国歌」の強制に反対するわたしたちの訴えに対し,皆様のご支援をぜひともいただきたく,広く呼びかける次第である。

2019年4月1日
東京「君が代」裁判4次訴訟原告団・弁護団

(2019年4月2日)

ILOが日本政府に、「日の丸・君が代」強制の是正勧告

本日(3月30日)の東京新聞社会面に下記の記事。ILO(国際労働機関)が、日本政府に「教員に対して『日の丸・君が代』を強制せぬよう是正勧告を出した、という内容。いささかの感慨をもって読んだ。

「ILO、政府に是正勧告」というメインの見出し。これに、「『日の丸・君が代』教員らに強制」がやや小さい活字で、その前に並んでいる。ILOが日本政府に是正を勧告した内容が、「『日の丸・君が代』を教員らに強制していること」と読み取れる。

 学校現場での「日の丸掲揚、君が代斉唱」に従わない教職員らに対する懲戒処分を巡り、国際労働機関(ILO)が初めて是正を求める勧告を出したことが分かった。日本への通知は4月にも行われる見通し。勧告に強制力はないものの、掲揚斉唱に従わない教職員らを処分する教育行政への歯止めが期待される。

 ILO理事会は、独立系教職員組合「アイム89東京教育労働者組合」が行った申し立てを審査した、ILO・ユネスコ教職員勧告適用合同専門家委員会(セアート)の決定を認め、日本政府に対する勧告を採択。今月20日の承認を経て、文書が公表された。

 勧告は「愛国的な式典に関する規則に関して、教員団体と対話する機会を設ける。規則は国旗掲揚や国歌斉唱に参加したくない教員にも対応できるものとする」「消極的で混乱をもたらさない不服従の行為に対する懲罰を避ける目的で、懲戒の仕組みについて教員団体と対話する機会を設ける」「懲戒審査機関に教員の立場にある者をかかわらせる」ことなどと求めた。

 1989年の学習指導要領の改定で、入学式や卒業式での日の丸掲揚と君が代斉唱が義務付けられて以来、学校現場では混乱が続いていた。アイム89メンバーの元特別支援学校教諭渡辺厚子さんは「教員の思想良心の自由と教育の自由は保障されることを示した。国旗掲揚や国歌斉唱を強制する職務命令も否定された」と勧告を評価している。

 これまで教育方針や歴史教科書の扱いなどを巡る勧告の例はあったが、ILO駐日事務所の広報担当者は「『日の丸・君が代』のように内心の自由にかかわる勧告は初めてだ」と話している。

 実は、昨日(3月29日)、東京新聞記事に出て来る渡辺厚子さんから、下記の「個人声明」をいただいていた。

ILO/ユネスコ教職員勧告適用合同専門家委員会(CEART) 勧告

 国際労働機関(ILO)と国連教育科学文化機関(ユネスコ)の合同機関であるILO /ユネスコ教職員勧告適用合同専門家委員会(CEART)から、「日の丸・君が代」問題申し立てに対する報告・勧告が出され、2019 年3 月20 日付で公表されました。初めての勧告です。
 2014 年にアイム89東京教育労働者組合は、CEART に対し、10・23通達による卒業式および入学式における「日の丸・君が代」起立斉唱職務命令と教職員処分、そして卒業式・入学式の従来の実施内容変更と実施指針強制等の施策は、日本政府が1966年の教員の地位に関する勧告に違反しており、教員の地位勧告を遵守するようとの申し立てを行いました。
 この申し立ては2015年第12回セッションにおいて検討が開始され、CEART は、日本政府からの情報提供・回答を検討した結果、2018 年10 月1 日から5 日に開かれた第13回セッションにおいて報告・勧告を採択しました。そして3 月20 日、第335回ILO 理事会において、この報告書に留意し、報告書を公表することが承認されました。同時に本年6月に開かれるILO総会の基準適用委員会に討議資料として報告書を提出することが決定されました。
 勧告内容は、6項目に及びます。
① 式典における教職員の義務規則に関して、教員団体と対話し合意すること。規則は、国旗掲揚や国歌斉唱に参加したくない教職員にも対応できるものとすること。
② 懲戒の仕組みについて教員団体と対話する機会を持つこと。
③ 懲戒審査機関に教員の立場にあるものを関わらせるよう検討すること。
④ 現職教員研修(再発防止研修)を懲戒や懲罰の道具として利用しないよう見直し改めること。(カッコ内は主催者注)
⑤ 障害を持った生徒や教員、障害生徒と関わるもののニーズに照らし、愛国的式典に関する要件を見直すこと。
⑥ 上記勧告に関する諸努力について、その都度セアートに報告すること。
東京都では、10・23通達発出以後、「日の丸・君が代」起立斉唱職務命令に従わなかったとしてのべ483名が戒告、減給、停職処分されています。裁判所によって処分が取り消されても現職教員は同一案件で戒告再処分されています。
沈黙をしいられ、服従させられる子どもや教職員たちにとって、「日の丸・君が代」問題に関して初めて出されたセアート勧告は、大きな希望となります。
学習指導要領で縛り、教職員には市民的自由の保障はないとする政府・裁判所に対して、いかなる場合においても個人としての思想・良心の自由の権利は守られる、と明確に勧告した意義の大きさはあまりあります。また、ブラックボックスであった懲戒処分に関しても審査機関に当事者である教職員の意見が反映される手立てをとるよう勧告しました。加えて「日の丸・君が代」処分後に、必ず懲罰的に行われる再発防止研修についても明確に否定しました。
10・23通達以来、障がい児学校において、例外なく高いステージ使用が義務付けられ、それまでバリアーフリーのフロアーで自力で動いていた子ども達が、高い壇に阻まれて動けなくさせられてきた現実など、障害のある子ども達の実情をしっかり把握し、子どものニーズにあった卒業式・入学式をするよう勧告されたことは本当に意義深いことです
日本の教職員・教育にとって希望を沸き立たせるこの勧告は、日本にとどまらず、世界のあちこちで苦悩し呻吟する教職員達にも、権利擁護と教育の質の向上にむけ、大きな勇気を与えるものです。
子ども達自身のためにあるべき教育が、安倍政権によって、戦前教育へと引き戻されつつある今、今回勝ち取った勧告は、大きな意味があります。この勧告を生かしていく努力を重ね、どの子ものびのびと息をしていける教育、多文化共生の学校を作っていくために、共に闘っていきましょう。
   2019 年3 月29 日
 アイム89東京教育労働者組合元組合員
 元特別支援学校教員
 「良心・表現の自由を!」声をあげる市民の会
   渡 辺 厚 子

これで、事情はよくお分かりいただけたことだろう。日本の最高裁が容認した日本独自のローカルルールが、グローバルスタンダードに照らして批判を受け、是正を勧告されているのだ。

但し、当面直接に批判されているのは、国ではなく自治体である。とりわけ、東京と大阪が突出している。東京都・大阪府の教育委員諸君には、虚心に考え直していただきたい。あなた方が主導している、教員への国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明強制は、国連の機関から反省を迫られているのだ。

ところで、ILO(国際労働機関)は国連の専門機関ではあるが、その前身は「1919年に、ベルサイユ条約によって国際連盟と共に誕生しました」というから国連よりもはるかに古い。今年が創設100周年である。1944年、「フィラデルフィア宣言」と呼ばれる憲章を作成し、これが今もILOの憲章として生きている。その「国際労働機関憲章」前文の中に、次の文章を読みとることができる。

「世界の永続する平和は、社会正義を基礎としてのみ確立することができる」「いずれかの国が人道的な労働条件を採用しないことは、自国における労働条件の改善を希望する他の国の障害となる」「締約国は、正義及び人道の感情と世界の恒久平和を確保する希望とに促されて、且つ、この前文に掲げた目的を達成するために、次の国際労働機関憲章に同意する。」

我が国が、野蛮極まる國体を護持するために絶望的な兵員の生命を消耗する戦闘を続けていた1944年当時に、文明世界は、かくも格調高い理念を掲げていたわけだ。今の課題に引きつけて翻訳してみたらこうであろうか。

「日本という国が、教員に対して、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明という非人道的な労働条件を押し付けていることは、他の国の人道的な労働条件の改善の障害となる」「この労働条件改善の障害が蔓延すれば、大きな社会不安を起こす不正、困苦及び窮乏を多数の人民にもたらす」「そのことは、とりもなおさず世界の平和及び国際協調が危くされることにほかならない」
(2019年3月30日)

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