澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「国旗・国歌」と「日の丸・君が代」と ― 違憲論における異なる位置づけ。

東京「君が代」裁判・第4次訴訟控訴審の始まりに際して、一審原告らの代理人澤藤から、一言申しあげます。

本件は、公権力が教育者である公務員に対して、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明を強制し、これに服することができない者を懲戒処分にしたという乱暴きわまる事案です。
一審原告ら各教員は、公権力によるこのような強制も処分も、日本国憲法の許すところではないと確信して、何よりも違憲の判断を裁判所に求めてまいりました。裁判官のみなさまには、この原告らの思いを、つまりは日本国憲法と日本国憲法の砦である裁判所への信頼を裏切ることのないように、ぜひよろしくお願いします。

あまりに大きな問題を引き起こした都教委の「10・23通達」の発出が2003年10月です。この通達に基づく職務命令に従う義務のないことの確認を求める通称「予防訴訟」、国歌斉唱義務不存在確認請求訴訟と事件名を付した400人の大型無名抗告訴訟の第1陣提訴が2004年の1月でした。以来、14年にもなります。この14年間多くの教員が良心を鞭打たれる立場に立たされ、良心を貫いたことに対する苛酷な制裁を受け続けてまいりました。この14年間の法廷で、教員らは何を主張し何を争ってきたのか、その概要をご理解いただきたいと思います。

いうまでもなく国旗・国歌は、国家の象徴です。ですから、国民は国旗国歌を通して実は国家と向きあうのです。国旗国歌への敬意表明の強制とは、とりもなおさず、国民と国家が向きあう関係において、国家が国民に対して、国家の価値的優越を認めよと強制している構図なのです。近代立憲主義に則って制定されている日本国憲法の大原則は、個人主義・自由主義にほかなりません。個人の尊厳こそが、国家に優越する根源的価値であることは自明ではありませんか。そもそも、公権力には、いかなる国民に対しても、国家に敬意を払えと命令し強制する権限などないのです。

また、「日の丸・君が代」とは、戦前の神権天皇制の国家体制とあまりに深く結びついた歴史を背負っている旗と歌です。この否定しえない歴史的事実の記憶はまだ生々しくこの社会に生きています。世代を超えた、その記憶承継の努力も続けられています。そして日本国憲法は、「日の丸・君が代」が象徴する旧体制に対する深刻な反省から、その理念における対立物として生まれました。
 「日の丸・君が代」が深く結びついていた国家体制の理念とは、国家至上主義・天皇主権・皇統の神聖・天皇崇敬・軍国主義・侵略主義・植民地主義・人権の軽視・差別主義・全体主義・家制度と女性差別・中央集権…等々であって、いわば日本国憲法の価値的対立物の象徴と見うるものと言わざるを得ません。さらに、「日の丸・君が代」は、国家神道の宗教的シンボルでもありました。「日の丸」とは天皇の祖先神アマテラスの象形であり、「君が代」とは神なる皇統の永遠を願う祝祭歌でした。ですから、日本国憲法をこよなく大切に思う立場から、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制には応じがたいとする原告ら教員の思想・信条・信仰・良心には、大いに理解すべきところがあるといわねばなりません。憲法19条・20条がこのような精神的自由を保障していることは明らかではありませんか。

にもかかわらず、処分の違憲性を認めなかった原判決と一連の最高裁判決にどうしても納得できません。とりわけ、なんの根拠を示すこともなく、卒業式等の儀式における国歌の起立斉唱行為について「一般的,客観的に見て,これらの式典における慣例上の儀礼的所作としての性質を有する」と断定して、それゆえに、「かかる行為を強制することが思想良心の自由を直ちに制約するものではない」という非論理的な結論には、なんの説得力もありません。
儀式的行事における儀礼的所作とは、宗教にその典型を見ることができるものです。また、戦前の国家神道と密接に結びついた天皇崇敬行事もこれにあたるものなのです。さらに、宗教的にはまったく無色でも、集団的な儀式的行事における儀礼的所作の強制が、特定の思想を成員に刷り込む効果をもつことはよく知られているところです。国民精神の統一のために、集団的な儀式や儀礼を意図的に活用したのは、第三帝国のナチスだったではありませんか。

このことについて、一審原告らは宗教学界の第一人者というべき島薗進氏(東大名誉教授)の意見書(甲A374)を提出し、さらにその人証の申し出をしています。現在行われている卒業式等での「国歌斉唱」の強制が、いかなる政治的宗教的意味をもっているのか、また、教員と生徒たちの精神の自由をいかに蝕んでいるのか。是非とも、証人として採用のうえ、その説示に耳を傾けていただくよう、是非よろしくお願いいたします。
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本日午前10時の高裁824号法廷。この事件の係属裁判所は、東京高等裁判所第12民事部。先日、自衛官の安保法制違憲訴訟(出動命令服従義務不存在確認請求訴訟)で、原告敗訴判決を取り消して地裁に差し戻した杉原則彦裁判長の裁判体。

当事者(現職教員)2名と代理人弁護士2名の意見陳述はなかなかに聞かせる内容だった。裁判官は3名とも、熱心に真面目に耳を傾けている風だった。ところが、思いがけないことが起こった。島薗進氏の人証申請に関しては、「意見書はよく読ましていただきました。人証の採用までの必要はないと考え申請は却下します」「これで結審…」。

「それはなかろう」「納得できる裁判をお願いしたい。納得とは、判決内容だけではない。当事者にとって、裁判所がよく耳を傾けてくれたという手続的な納得が必要だ」「もっと、主張挙証の機会をいただきたい」と意見は言ったが、裁判長は「合議します」といったん退廷。再開廷して「やはり、これで結審し、判決言い渡しは4月18日午後1時15分」とだけ言って退廷した。

それ以来、今日はモヤモヤの気分のままだ。
(2018年2月7日)

「日の丸・君が代」強制拒否訴訟から見える憲法状況

なんともお寒い晩ですが、こんな日に雪の残る悪路を踏み分けて「『日の丸・君が代』強制に反対!板橋のつどい・18」に足を運んでいただき、まことにありがとうございます。本日は、「日の丸・君が代」強制拒否訴訟から見える憲法状況というタイトルで、1時間余のお話しをさせていただきます。

はじめに、「日本国憲法が危ない」ということについて認識を共有していただき、次いで「日の丸・君が代」強制拒否訴訟の到達点と現在の課題を確認し、そこから見えてくる自民党改憲案(「日本国憲法改正草案」)の問題点や、天皇退位と「明治150年」問題、そして最後に「アベ9条改憲問題」との関わりについて触れたいと思います。

まず申しあげなければならないのは、いま憲法は危機にあると言うことです。とりわけ、9条が、つまりは平和主義が危ないということです。

これまでも、度々憲法は危機にあると言われてまいりました。自民党は、立党以来自主憲法制定を党是とする改憲指向政党です。政権与党が改憲指向政党なのですから、これまでも憲法は、恒常的に危機にあったとはいえるでしょう。しかし、今日のように具体的な改憲スケジュールが提示されたことは、かつてなかったことです。

今、国民投票法があり、それに伴う国会法も整備され、憲法改正案を作成し国民投票を発議する手続は調っています。しかも、衆参両院とも、改憲勢力が議席数の3分の2を超えています。改憲勢力は今がチャンスと意気込んでいるのです。

いま、アベ晋三は9条改憲案を提示しています。憲法の遵守に、最も忠実でなくてはならない人物が、憲法の攻撃に最も前のめりになっています。2017年5月3日、アベは右翼の改憲集会にビデオ・メッセージを送り、9条改憲を提案しました。9条の1項と2項はそのままとして、第3項を加えることで「憲法に自衛隊を明記する」という、「加憲的9条改憲案」です。

12月22日には、自民党は正式に改憲案の整理を行いました。そのとりまとめでは4項目についての改憲案が提示され、そのうち9条改正については2案が併記されています。2案の違いは、9条2項を残すか削除するかの点。2項を残すアベ9条改憲案は、対案と比較してマイルドに見える仕掛けとなっています。

この提案には、種本があります。右翼のシンクタンク日本政策研究センターの機関誌「明日への選択」16年9月号の伊藤哲夫論文。この日本会議常任理事という肩書を持つ人物が、加憲的9条改憲案の発案者です。

彼は、「加憲」を「あくまでも現在の国民世論の現実を踏まえた苦肉の提案でもある」「まずはかかる道で『普通の国家』になることをめざし、その上でいつの日か、真の『日本』にもなっていくということだ」と、現実主義の見地からの妥協案であるとしていますが、実はそれだけではない。彼は、その狙いが「護憲派の分断」にあると明言しています。

自衛隊違憲論者と、専守防衛に徹する限り自衛隊は合憲であると考える勢力の間に楔を打って分断するのだというのです。アベは、これに乗ったわけです。この点の警戒が重要だと思います。

本年1月4日、アベは伊勢神宮での記者会見の年頭所感で改憲に意欲を見せ、1月22日の施政方針演説でも、改憲の論議を活発にと言っています。3月25日の自民党大会には両案併記だった9条改憲案を党内で一本化し、改憲諸政党(公・維・希)と摺り合わせて、今国会中に改正原案を作成し、国会に改正原案発議をすることになります。

衆院には100人の賛成を付すことで、『改正原案』が発議されます。本会議で趣旨説明のあと、衆院の憲法審査会の審議に付され、過半数の賛成で本会議に報告となり、本会議で3分の2以上の賛成で衆院を通過し、参院に送られます。同じ手続を経て参院も3分の2以上の賛成で通過すると、改正原案は国会の『憲法改正案』となって発議されて、国民投票にかけられることになります。国民投票運動期間として、60日~180日が設定されて、国民投票での過半数の賛成で憲法改正が成立することになります。

しかし、実はこのスケジュールは極めてタイトだと言わざるを得ません。2019年の後半には、重要な政治日程が立て込んでいます。元号・退位・即位の礼・大嘗祭・参院選・消費税値上げなど。とすれば、勝負は今年ということになります。改憲勢力としては、来年4月頃までに国民投票の実施に漕ぎつけたいところ。

今、超党派で提起されている「9条改憲阻止の3000万署名」の成否が鍵となります。改憲にこだわっていたのでは、参院選には勝てないという空気を作り出さねばなりません。

そして、来年の参院選では、改憲反対を掲げる野党の共闘によって改憲勢力を3分の2以下に落とすことは、前回参院選の結果から見て十分に可能だと思われます。

そのような憲法情勢を念頭に、「日の丸・君が代」強制問題から見えてくるものをお話ししたいと思います。

第1は、「日の丸・君が代」強制拒否訴訟の到達点と課題です。
私は、次のように、訴訟の時期の区分ができると思っています。
1 高揚期(予防訴訟の提訴~難波判決)
※再発防止研修執行停止申立⇒須藤決定(04年7月)研修内容に歯止め
※予防訴訟一審判決(難波判決)の全面勝訴(06年9月)
2 受難期(最高裁ピアノ判決~)
※ピアノ伴奏強制事件の最高裁合憲判決(07年2月)
⇒これに続く下級裁判所のヒラメ判決・コピペ判決
難波判決 高裁逆転敗訴(11年1月)まで。
3 回復・安定期(大橋判決~)
※取り消し訴訟(第1次訴訟)に東京高裁大橋判決(11年3月)
全原告(162名)について裁量権濫用として違法・処分取消
※君が代裁判1次訴訟最高裁判決(12年1月)
君が代裁判2次訴訟最高裁判決(13年9月)
君が代裁判3次訴訟最高裁判決(16年7月)
間接制約論(その積極面と消極面)
*「間接」にもせよ、思想・良心に対する制約と認めたこと
*2名の裁判官の反対意見(違憲判断) とりわけ宮川意見の存在
*多数裁判官の補足意見における都教委批判

残念ながら、「10・23通達」や懲戒処分の違憲判断は回避され、戒告処分の違法性は否定されました。他方、 減給・停職は裁量権濫用として違法とされ、裁判による取消が定着しています。これによって、当初石原教育行政がたくらんだ累積加重システムは破綻し、教員の抵抗は続いています。

訴訟が抱えている現在の課題について一言します。
第4次訴訟では、17年9月に一審判決があり、間もなく18年2月に控訴審第1回期日を迎えようとしています。
そこで、違憲判決を勝ち取る努力を続けています。
間接強制論は、国旗国歌への起立斉唱を、「儀式的行事における儀礼的所作」に過ぎないから、「思想良心への直接制約に該らない」といいます。しかし、果たしてそうでしょうか。今、権威ある宗教学者の助力を得て、「儀式的行事における儀礼的所作」が思想・良心の自由をいかに傷つけることになるかの意見書をまとめていただきました。近々、裁判所に提出し、これを基軸に判例を批判し違憲論を展開したいと考えています。

違憲論以外にも課題は山積しています。最高裁判例の枠の中で可能な限り憲法に忠実な判断を求めなければなりませんし、国際人権論からのアプローチも必要です。

そして、石原や小池のような右翼に都政を任せるのではなく、都政を都民の手に取り戻して、憲法の生きる都政を実現する運動が不可欠だと痛感しています。

第2 自民党改憲案(「日本国憲法改正草案」)との関わり

2012年4月の自民党改憲案は、かなりの程度にまで、自民党のホンネを語るものとなっています。その自民党改憲案第3条は、「(国旗及び国歌)とされ、
第1項 国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。
第2項 日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない。と明記されています。

自民党の公式解説(Q&A)では、さらに次のようになっています。
「我が国の国旗及び国歌については、既に「国旗及び国歌に関する法律」によって規定されていますが、国旗・国歌は一般に国家を表象的に示すいわば「シンボル」であり、また、国旗・国歌をめぐって教育現場で混乱が起きていることを踏まえ、3条に明文の規定を置くこととしました。
当初案は、国旗及び国歌を「日本国の表象」とし、具体的には法律の規定に委ねることとしていました。しかし、我々がいつも「日の丸」と呼んでいる「日章旗」と「君が代」は不変のものであり、具体的に固有名詞で規定しても良いとの意見が大勢を占めました
また、3条2項に、国民は国旗及び国歌を尊重しなければならないとの規定を置きましたが、国旗及び国歌を国民が尊重すべきであることは当然のことであり、これによって国民に新たな義務が生ずるものとは考えていません。

国旗国歌法には盛りこむことができなかった国旗国歌(日の丸君が代)尊重の義務を憲法に書き込もうというのが、自民党のホンネなのです。
ここに見えるものは、「国権」と「人権」の相克における、国権至上主義にほかなりません。

そもそも、日本国憲法否定の「自主憲法の制定」が自民党本来の党是であり使命とされています。これを正直に述べた改憲草案こそがアベ自民のホンネ。石原・小池ら右翼のホンネでもあります。自民党の人権なし崩し策動に、一歩の譲歩も許してはならないと思っています。「日の丸・君が代」強制に対するたたかいは、そのような改憲勢力のホンネとの切り結ぶ局面だと思っています。

 

第3 天皇退位と明治150年
「日の丸」も「君が代」も、天皇制とあまりに深く結びついた歴史をもっています。否定されたはずの、天皇の権力や権威が再び利用されようとしている今、「日の丸・君が代」強制への闘いは新たな意味を持つに至っています。
※天皇の生前退位表明は、明らかに越権。
※明治150年のイデオロギー攻勢
※自民党改憲草案前文冒頭
「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
※草案第1条 「天皇は、日本国の元首であり…」
※草案第4条(元号について)
「元号は、法律の定めるところにより、皇位の継承があったときに制定する。
解説(Q&A) 4条に元号の規定を設けました。この規定については、自民党内でも特に異論がありませんでしたが、現在の「元号法」の規定をほぼそのまま採用したものであり、一世一元の制を明定したものです。」

第4 アベ9条改憲問題との関わり
教育における国旗・国歌の強制とは、国家と国民の対峙の場において、国家の存在が国民の人権に優越するという全体主義思想の表れです。また、「日の丸・君が代」の強制とは、歴史的に國體思想(天皇崇敬)に無反省な公権力の行使として許されることではありません。

戦前の「日の丸・君が代」強制は、とりわけ戦時色が強くなって以来、学校と軍隊とで忠君愛国が強調され、「日の丸・君が代」は愛国のシンボルとなりました。

愛国心教育や民族差別教育とは、戦争をしようという国の常套手段です。「戦争は教場から始まる」という名言を今再度噛みしめなければなりません。戦争の歴史とあまりに深く結びついたこの旗と歌、その押しつけを許さないという抵抗は、アベ9条改憲への反対と通底するものがあるはずだと思います。

(2018年1月27日)

またまた極右教育機関に、「ただ同然の国有地払い下げ」

一昨日(1月8日)の毎日新聞朝刊一面トップが、「山梨の国有地 日本航空学園に格安売却 評価の8分の1 財務省」という大見出しの記事。森友事件とよく似てはいるが、安倍政権との関係や、特定の政治家の介入は記事になっていない。格別に重要な記事とは思わなかった。印象は、「毎日のスクープだから扱いが大きいのだろう」「政権側からすれば、森友への国有地売却が特異な事例ではない、と言い訳に使うのだろうな」という程度。

毎日の視点も、政治との関わりではなかった。財務省(理財局)による国有地管理の杜撰さを問題にする内容だった。

「山梨県内の国有地を地元の学校法人が約50年無断で使い続け、管理する財務省関東財務局が把握しながら放置した末、2016年5月に評価額の8分の1で売却していたことが明らかになった。国は学校法人「森友学園」への国有地売却問題を機に国有財産の処分の適正化に着手したが、ずさんな管理と不透明な取引の実態が改めて浮かんだ」「日本航空学園に売られた土地は評価額の8分の1にまで割り引かれ、値引き幅は森友学園にも匹敵する。同省の幅広い裁量権を背景に、国民共有の財産が第三者のチェックを受けることなく、価格の妥当性を担保されないまま売り払われている実態が明らかになった」

ところが、その日(1月8日)の内に、リテラが追っかけ記事をアップした。これで、問題の風景がガラリと変わった。いつもながらのリテラの嗅覚の鋭さと筆の速さには脱帽するしかない。
http://lite-ra.com/2018/01/post-3725_2.html
リテラの記事のタイトルは、「何から何まで森友そっくり! 国有地疑惑の『日本航空学園』極右教育と安倍政権との関係」というもの。

小見出しに、「愛国心と国家防衛教育を謳う日本航空学園の極右ぶり」「日本航空学園と政治家の関係、安倍首相の盟友が理事、文科政務官が校長」など。これはただごとではない。

リテラの記事の一部を引用させていただく。
「じつはこの日本航空学園と森友学園にはもうひとつ共通点がある。それは、日本航空学園の理事長・梅沢重雄氏がゴリゴリの極右であるという点だ。たとえば、梅沢理事長は「日本文化チャンネル桜」の設立発起人に名を連ね、『日本航空学園アワー』なる番組が放送されていた。
さらに、『南京虐殺はなかった』などと主張する歴史修正本が国際的に問題となった元谷外志雄・アパグループ代表が塾長・最高顧問を務める『勝兵塾』にも、元文科大臣の馳浩議員や元航空幕僚長の田母神俊雄氏らとともに参加。…梅沢理事長はそこで『憲法についてのくだらない議論よりも教育勅語を教えることが必要』『我が国の伝統文化を教えれば10年後にはスムーズに憲法改正ができる』『国体をしっかり守りさえすれば憲法なんてどうでもいい』と話したという。」
「また、日本航空学園では、毎日の朝礼時には『君が代』とともに日の丸を掲揚、17時になると国旗降下をおこなうといい、梅沢理事長は〈この国旗掲揚と国旗降下のときは、学校中、教師も生徒も直立不動の姿勢で国旗に敬礼します。教師が会議中であっても、生徒がクラブ活動中であっても、そのときはいったん中断し、国旗に敬意を表するのです〉と胸を張っている。」「問題の国有地は、日本航空高等学校のキャンパス内だ。」「初代の義三氏による『航空教育を通して愛国の精神を培う』という建学の精神を、3代目の重雄理事長も継承しているというわけだ。」

もっとも、リテラも、米田建三・元内閣府副大臣や赤池誠章議員ら政治家の名前を挙げてはいるが、その廉価払い下げの具体的手口や、安倍政権との関わりを具体的に示し得てはいない。その記事の締め方は、「日本最大の極右団体のイベントにメッセージを寄せ、改憲をぶち上げるという前代未聞の総理大臣。その影響によって、安倍首相と同じ極右思想を掲げる団体は手厚い待遇が受けられる──。これはこの国が全体主義に近づいている証拠なのだろう。昭恵夫人の関与が決定的となっている森友問題と同じように、この日本航空学園への不当な取引にかんしても、背後関係の究明が待たれる。」となっているに過ぎない。

まさしく、背後関係に切り込むジャーナリズムの成果を今後に期待したいが、それにしても、この「学校」の異様さはただごとでない。

ゴリゴリの極右だという理事長・梅沢重雄が、日本航空学園のホームページにやたらに右翼思想を露わにしている。これが、たいへんな代物。安倍晋三の「云々(でんでん)」並みのレベルで、文章の修飾の技術に欠けるから、分かり易い点ではこの上ない。

「教育の淵源」という記事が、最もまとまっているもののようだが、かなり字数が多いので敬遠し、ブログとして31回にわたって連載された「教育勅語」解説を紹介したい。

ゴリゴリ極右・梅沢重雄が教育勅語を論じる基本姿勢は、以下の文章によくあらわれている。100年前の官製道徳を、今の世に語ることが恥だという感覚を欠如しているのだ。

「『教育勅語』は、今では時代遅れの教えであるなどという人がありますが、決してそうではなく、『教育勅語』で明治天皇がさとされた国民の本分は、昔も、今も、そして将来も変らず、永久に受けついて行かなければならない美しい道徳であり、国民の義務である、と仰せられているのであります。」

天皇の臣民などというと、時代遅れのように考える人があるかも知れませんが、日本の国体(くにがら)は万世一系の天皇をいただいていますから、天皇と国家とは一体でありますので、国民が天皇に忠実であることは、国家に対しても忠実な国民であるということです。だから立派な国民となるためには、皇室にも忠実でなければなりません。『教育勅語』は、忠孝の道からはじまって、国民の踏み行わねばならない本分を、いろいろとおさとしになったものでありますから、その教えを実行することが、立派な国民になることであります」

「前にも述べましたが、西洋や中国の歴史は、国民の皇帝に対する「反逆」の連続でありますが、日本の歴史は、このように天皇と、国民とが常に手をつなぎ合ってきた『君民一体』の伝統にかがやいています。戦前の『大日本帝国憲法』では、我が国は『万世一系の天皇が統治する』と定められていましたし、戦後の『日本国憲法』においても、『天皇は国民統合の象徴である』とされているのですから、わたくしたちは永久に天皇を中心とした、立派な国体を護持しなければなりません。

「『我カ臣民』というのは、『わが国民』と同じことで、天皇を中心とした日本の国体においては、君(天皇)と、臣(国民)とが一体であります。『克ク忠ニ』という『克ク』は『能ク』と同じ意味です。また『忠』というのは、天皇と国民が一体である美しい国がらにおいて、国民が天皇につくす道を『忠』というのですが、天皇は国民をわが子としてかわいがられ、また国民は天皇をわが親として尊敬するのですから『我カ臣民克ク忠ニ』というのは、『わが国民は立派に忠義をつくしてくれた』という、明治天皇の慈愛に満ちたお言葉であります。」

「外国の歴史を見ますと、皇帝は国民を苦しめ、国民は皇帝に反逆するという争いの連続でありますが、日本においては、天皇は日本民族の本家本元であり、国民はその分家という、切っても切れない深い血のつながりの中に、うるわしい天皇中心の日本の歴史と伝統があるのであります。

昔から日本国民は、ひとたび天皇の御命令が発せられると、みんなが一つ心になって仲良くとけ合ったり、力を合わせて団結したりして、日本の国を守ってきました。例えば、蒙古が中国を攻め取り、朝鮮半島の高麗国の軍隊をしたがえ、十数万の大軍をもって九州の博多湾に二度まで押し寄せましたが、その時の亀山上皇は、伊勢神宮にお参りになって、『身をもって困難に替えさせ給え』と天照大神の霊前にお祈りになり、また、国民もあらゆる困難に耐えて、敵軍を完全に追い払ってしまったことなどは、そのよい一例といえましょう。」

国民が常に、天皇のもとに一つ心になり、忠孝の道を、わが国の美風として守り、育ててきたのは、他の国々では見られない、日本の美点であることを、お述べになったのであります。
 そして、わたくしたち国民は、『万世一系』の天皇を、国の中心と仰いできたのでありまして、外国の歴史で見るように、国民が血を流して、力ずくで、皇帝の座を奪い取るようなみにくい争いは、二千六百年の長い日本の歴史において、今日までいちどもありません。これはほんとうに、世界に誇ることのできる、日本の美風であります。」

「国民は国に対しては、忠実に義務を守り、また親に対しては、孝行をつくし、国民全体が心を合わせて、美しい日本の伝統を、いつまでも受け継いで行くように心がけねばならないということを、国民に教え守らせるようにすることが、教育の根本でなければならない、と明治天皇はおさとしになっているのです。
ちかごろは、日本国民としての本文を守らず、国に対する責任もわきまえず、子としての親への孝養をつくさず、また、国民同士が互いに争いあっているのは、戦後の教育の根本方針が、間違っているからです。

「『国憲』というのは『国の根本の定め』の意味ですから『憲法』のことであるともいえます。また「国法」というのは、いろいろな「法律や規則」などのことです。
憲法は、国のあり方の根本の原則だけを定めたものでありまして、くわしい規則は、それぞれの法律や規則によって定められております。だからこの一句の意味は『国民は平時においてはもとより国のおきてを尊重し、法律の定めにしたがわなければならない』と、お示しになっているのです。
現在の憲法では、国民の個人の権利が非常に尊重されておりますが、しかし自分の権利を通すために、社会公共の福祉に反してはいけない、とも定められています。つまり他人に迷惑をかけても、自分の権利だけを押し通すのはいけないことなのでありまして、そういう無法者は、日本国民の恥さらしといわなければなりません。

「一旦緩急アレハ  義勇公ニ奉シ
「一旦」は「ある日」とか「ひとたび」とかいう意味。「緩急」は「重大事変」のことです。だから「一旦緩急アレハ」というのは、前文の「常ニ」という言葉、すなわち「平時」における心得に対し、「もしもひとたび戦争などの非常時になったならば」という意味です。「義勇」というのは「正義と勇気」のこと。「公ニ奉シ」とは「お国のため、社会のために、国民としての義務をつくす」ということです。国民がお国を守ることは当然のことですから、決して「軍国主義」ではありません。
大東亜戦争までは、国民には兵役の義務が憲法で定められていましたから、戦争の時には軍人は勇敢に戦いましたし、また軍人でなくても、国民はみな一致団結して、国のために国民の義務を果たしてまいりました。」
「 以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
「天壌無窮」という言葉は、天照大神が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を「日向の国」におくだしになった時の神勅において、「宝祚の栄えまさんこと天壌と共に窮りなかるべし」と、おおせられたことをいうのであります。
日本は大東亜戦争に失敗して、みじめな目にあいましたが、「万世のために太平を開け」という天皇のお言葉にしたがって、一億国民が努力したために、今日では世界の人々がおどろくほどに立派な経済大国となったのであります。
これからも、われわれ国民は、力を合わせて日本を立派な国にしようではありませんか。」

「『教育勅語』は、戦前・戦後の教育のあり方の変遷のなかで誤解を受けてきました。でも、あらためて現在の私たちの生き方に照らし合わせてみると、人間の生き方の根本に関わる答えが、そこに見えてきます」

で、この「学校」の校訓5か条の最後は次のとおりである。
『敬神崇祖以て伝統を承継し祖国を興隆すべし』

これはもはや教育でも学校でもない。正確には「カルト集団」と呼ぶべきだろう。あるいは、「天皇崇拝精神鍛錬場」だ。いかにも、安倍晋三の気に入りそうな場ではないか。森友同様、このような極右集団に国有地が極めて廉価に払い下げられているというのは、単なる偶然にしては奇っ怪千万。リテラ同様、背後関係の究明を待ちたい。
(2018年1月10日)

「10・23通達」は、国際自由権規約18条に違反する。

本日(12月26日)が東京「君が代裁判」第4次訴訟弁護団の今年最後の会議。
12月18日に控訴理由書は提出済みで、控訴審の第1回口頭弁論期日に向けて、都教委側の控訴理由書への反論と、控訴審進行の構成についての意見交換。

その中で、国際人権論からの新たなアプローチが話題となった。
国連の自由権規約(正確には、「市民的及び政治的権利に関する国際規約」。社会権規約(A規約)に対して「自由権B規約」とも略称される)の第18条は、外務省訳で以下のとおりである。

第18条
1 すべての者は、思想、良心及び宗教の自由についての権利を有する。この権利には、自ら選択する宗教又は信念を受け入れ又は有する自由並びに、単独で又は他の者と共同して及び公に又は私的に、礼拝、儀式、行事及び教導によってその宗教又は信念を表明する自由を含む。
2 何人も、自ら選択する宗教又は信念を受け入れ又は有する自由を侵害するおそれのある強制を受けない。
(3項・4項は略)

ここに掲げられているのは、「思想、良心及び宗教の自由」である。日本国憲法の19条(思想・良心の自由)と、20条(信教の自由)の両条を包括する規定となっている。国旗国歌への起立斉唱を強制する「10・23通達」は、日本国憲法19条・20条に違反するだけでなく、日本が批准した条約として裁判規範性をもつ「自由権規約」第18条違反でもある。かねてから、私たちはそう主張してきた。

とりわけ、同条第2項が、「何人も、自ら選択する宗教又は信念を受け入れ又は有する自由を侵害するおそれのある強制を受けない。」としていることは、都教委の国旗国歌強制を違法とすることに、分かり易い根拠を与えている。

明らかに、「都教委による教員や生徒への国旗国歌(日の丸君が代)への敬意表明の強制は、教員や生徒自らが選択した信仰あるいは思想的信念を受け入れる自由を侵害するおそれがある」からである。

最高裁は、「神戸高専剣道実技受講拒否事件」(1996年3月8日)判決において、「エホバの証人」を信仰する神戸高専生徒に対する剣道の授業受講強制を違法と認めた。剣道の授業が宗教的な意味合いをもつかどうかを問題にせず、「剣道の受講を強制することは、この生徒が真摯に自ら選択した信仰に抵触し、生徒の信仰を選択する自由を侵害した」と認定したのだ。

憲法20条2項は「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」としているが、この最高裁判決以降この条項は「何人も、自己の信ずる宗教的信念において受容しがたい祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」と読み替えねばならない。

さらに、自由権規約18条は、禁止される強制の範囲を、「宗教(信仰)」と抵触するものだけでなく、宗教(信仰)とは区別された思想・良心の分野における「信念」の領域にまで拡げた。

「『10・23通達』は自由権規約18条に違反する」とは、「10・23通達」に苦しめられた教員たちの年来の主張で、弁護団は法廷ではそのような主張を繰り返してきた。しかし、頑迷固陋な最高裁の壁はこの主張を受け付けず、はね返され続けてきた。

いっこうに進展しない法廷のありさまに業を煮やした原告団の人々が、法廷を離れた場での行動に立ち上がった。一つは、国連への直接の訴えである。そして、もう一つが、国に対する申し出である。たいへんな行動力だ。そして今、成果をあげつつある。

本日の弁護団会議で話題となったのは、「LOI」である。はて?
「ILO」(国際労働機関)ならなじみが深いが、「LOI」とは? 「リスト・オブ・イシュー」の頭文字だという。問題項目一覧表という意味だ。もっぱら「質問項目」と訳されている。そのリストのなかに、「10・23通達」がはいったという報告なのだ。

「2003年に東京都教育委員会によって発出された「10・23通達」を教員や生徒に対して実施するためにとられた措置の自由権規約との適合性に関して、儀式において生徒を起立させるために物理的な力が用いられており、また教員に対しては経済的制裁が加えられているという申し立てを含めて、ご説明願いたい。」という質問の形式。日本の政府は、国連の規約委員会に責任をもった回答をしなければならない。

よく知られているとおり、国連の活動は「平和と安全の維持」を目的とするものだけでなく、人権の擁護にも重きをおいている。国連憲章第1条3項の中に、「人種、性、言語または宗教による差別なく、すべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励することについて、国際協力を達成すること」と書き込まれている。

この国連憲章の目的条項に基づいて制定された、自由権規約の締約国は、規約の実施状況や国内における人権状況について定期的に国連に報告し、国連が設置する自由権規約委員会の審査を受けなければならない。

同委員会の審査手順は、事前審査と本審査からなる。
事前審査の段階で、委員会は各国NGOからのレポートに目を通して、リストオブイシュー(質問項目)を作成し、これを各国政府に提示する。この全項目について、各国政府は国家レポートを作成して委員会に提出する。また、各国NGOは、これに対抗したカウンターレポートを提出する。委員会は、本審査において両レポートを精査して総括所見を採択する。そして、これを各国政府に勧告するのだ。

事前審査の段階で作成されるのが「LOI」。数多ある人権諸問題と肩を並べて、「10・23通達」問題が、そのリストに掲載された。日本政府は、これに対する国家レポートを提出することになる。私たちは、これを徹底して批判するカウンターレポートを国連人権委員会に提出して、国際良識の判断を仰ぐことになる。もしかすると、ステキなことになるかも知れない。私たちにとってのステキなこととは、安倍晋三や小池百合子には、イヤ~なことに決まっている。

たとえば、国連人権委員会から日本国政府に対して、次のような勧告がなされるかも知れないのだ。
☆日本国政府は、公権力の行使によって、国民の思想・良心・信仰を侵害することのないよう、以下のことを遵守するよう勧告します。
*東京都教育委員会の「10・23通達」に基づいて、東京都内で行われてきた公立学校の教員や生徒に対する国旗国歌(日の丸君が代)への起立斉唱の強制について、今後一切くりかえすことがないよう禁止するとともに、これまでに国旗国歌(日の丸君が代)への起立斉唱の強制への不服従によって制裁を受けたすべての人に対する完全な損害回復の措置をとるよう指導すること。
*東京都に限らず、日本におけるすべての公立学校において、入学式や卒業式等の学校儀式における国旗国歌(日の丸君が代)への起立斉唱の強制を禁止することによって、学校内におけるすべての成員の思想・良心・信仰の自由を保障すること。
*すべての地方公共団体の知事、議会議員、教育委員会委員、ならびに教育委員会職員に対して、以下の各事項について周知を徹底するよう、十分な研修の機会を設けること。

1 日本国の国旗である「日の丸」は、その歴史的経緯から、これに接する人によっては、ナチスドイツの「ハーケンクロイツ」が戦後民主化されたドイツの国旗としてふさわしくないのと同様に、平和や民主主義・人権を基本理念とする日本国憲法下の現代日本にふさわしいものではなく、それゆえ国旗(日の丸)に対する敬意表明の強制には服しがたいとする主張があるところ、その主張には十分な理由があるものとして尊重しなければならないこと。

2 日本国の国歌である「君が代」は、その歴史的経緯から、これに接する人によっては、天皇を神とする国家神道のシンボルとして、宗教上の色彩が濃厚で、それゆえ自らが選択した宗教の信仰にもとづいて国歌(君が代)を斉唱せよとする強制には服しがたいとする主張があるところ、その主張には十分な理由があるものとして尊重しなければならないこと。

3 文明国においては、教育の内容に公権力の介入は抑制的であるべきが市民革命以来の確立された理念であって、それゆえ国家主義の鼓吹に基づく国旗国歌(日の丸君が代)への敬意表明の強制には服しがたいとする主張があるところ、その主張には十分な理由があるものとして尊重しなければならないこと。

**************************************************************************
以下は、被処分者の会からの報告の抜粋である。なお、「日の丸・君が代の強制に反対し、渡辺厚子さんの戒告・減給・停職処分撤回を求めるー『ホットトーク』(144号)」にも、詳細な解説が掲載されている。

東京・教育の自由裁判をすすめる会国際人権プロジェクトチームは、2008年の第5回審査以来、日本における人権侵害として東京都の「日の丸・君が代」強制問題に関し日本政府報告に対するカウンターレポートを提出してきました。

第6回審査(2014年)では、「国旗・国歌」強制問題がはじめて委員会から日本政府への質問事項(リスト・オブ・イシュー)で取り上げられ、審査後の最終見解では、「思想・良心および表現の自由の制約は、規約に規定された厳しい条件を満たさない限り課してはならない」という主旨の勧告を得ました。しかし、都や各省庁はこれを一般的な勧告であるとして、私たちの要請に真摯に向きおうとはしません。

国連自由権規約委員会が「10・23通達」と明記して日本政府に回答を求める!~今回の画期的成果

あれから3年。第7回審査に向けての動きが始まっています。私たちは更に具体的な文言を含む勧告の獲得を目指して、7月にレポートを提出しました。そして、11月24日に発表されたリスト・オブ・イシューでは、第6回よりもはっきりした形で再びこの問題が取り上げられたのです。

第6回では一つのパラグラフで「公共の福祉」概念による人権制約と私たちの問題が一緒に取り上げられたました。しかし、今回はそれぞれ独立したパラグラフで取り上げられており、パラ26は「10・23通達」という言葉を明記しての質問となっています。これは画期的なことです。

政府は1年以内にこれに回答しなければなりません。私たちはその回答に対してまたカウンターレポートを提出し、具体的な勧告を獲得するまで取り組みを続けます。

<東京・教育の自由裁判をすすめる会、国際人権プロジェクトチームによる仮訳>

List of Issues Prior to submission of the seventh periodic report of Japan
(第7回日本定期報告に対する事前優先課題リスト)  未編集版・2017年11月24日

思想、良心および宗教的信念の自由、および表現の自由(規約第2、18、19、および25条)

《パラ23》 前回の総括所見(パラ22)に関連して、「公共の福祉」というあいまいで無制限な概念を明確化し、自由権規約18条および19条それぞれの第3項が許容する限定的な制約を超えて、思想、良心、および宗教の自由、または表現の自由への権利を制約することがない事を確保するために講じられた対策について、ご報告願いたい。

《パラ26》 2003年に東京都教育委員会によって発出された「10・23通達」を教員や生徒に対して実施するためにとられた措置の自由権規約との適合性に関して、儀式において生徒を起立させるために物理的な力が用いられており、また教員に対しては経済的制裁が加えられているという申し立てを含めて、ご説明願いたい。

原文
Freedom of thought, conscience and religious belief and freedom of expression (a
rts. 2, 18,19 and 25 )

23.  In reference to the previous concluding observations (para. 22), please rep
ort on steps taken to clarify the vague and open-ended concept of “public welfa
re” and to ensure that it does not lead to restrictions on the rights to freed
om of thought, conscience and religion or freedom of expression beyond the narr
ow restrictions permitted in paragraph 3 of articles 18 and 19 of the Covenant.

26.  Please explain the compatibility with the Covenant of measures taken to enf
orce against teachers and students Directive 10.23 issued by the Tokyo Board of
Education in 2003, including alleged application of force to compel students to
stand in ceremonies and financial sanctions against teachers.

文書は以下のサイト ↓
http://tbinternet.ohchr.org/Treaties/CCPR/Shared%20Documents/JPN/INT_CCPR_LIP_JP
N_29588_E.pdf

ここまで事態を動かしてきた原告の皆さんの行動力に惜しみない敬意を払いつつ、ぜひともの成果を期待したい。最高裁のハードルよりも、国連人権委員会の方が低いかも知れないのだから。
(2017年12月26日)

東京「君が代」裁判(第4次訴訟)控訴理由書完成

弁護団を組んでの大型訴訟は、学ぶところが多いし面白い。弁護士の経験の伝承の場でもある。しかし、弁護団には特有のマネージメントの負担が大きい。これだけで一苦労だ。この苦労を一身に背負うのが弁護団事務局長。誰かが引き受けなければことが進まないが、「車輪の下」で雑務の山の重荷を支えることには、覚悟が必要だ。

そもそも大半の者の弁護士志望の動機が、マネージメントは不得手、やりたくない、というものだ。不得手でも、やりたくなくても、必要だから誰かがやらざるを得ない。心ならずも私もそんな役回りをいくつも引き受けてきた。が、もうこの齢では務まらない。

「10・23通達」関連訴訟の中核に位置づけられる東京「君が代」裁判(第4次訴訟)。9月15日に東京地裁民事第11部(佐々木宗啓裁判長)で、一審判決の言い渡しがあり、今日(12月18日)が控訴理由書の提出期限だった。

先ほど、弁護団事務局長の平松真二郎弁護士から、「皆さまお疲れ様でした。控訴理由書無事提出しました。」との報告があった。ご苦労様、という以外に言葉がない。

議論して構成を考え、手分けして執筆し、執筆したものを持ち寄って討論してまた加筆し、ようやく完成した控訴理由書が、397ページの大冊となった。事務局長は、弁護団の校閲担当者とともに最後の調整を担当している。

東京地裁の原判決は、減給以上の全処分を取り消したが、戒告(9名についての12件)については処分取り消し請求を棄却した。不当であり無念というほかない。私たちはこの点を逆転したい。

本控訴理由書は何よりも違憲論を重視している。その違憲の根拠を、「客観違憲論」と「主観違憲論」に大別した。立憲主義に基づく憲法の構造上、そもそも公権力が国民に対して、「国に敬意を表明せよ」などと命令できるはずはない。また、憲法26条や23条は教育の場での価値多様性を重視しており、公権力が過剰に教育の内容に介入することは許容されず、本件はその教育に対する公権力の過剰介入の典型事例である。というのが、客観違憲論。誰に対する関係でも都教委の一連の行為は違憲で、違法となる。

そして、主観的違憲論(思想・良心の自由保障、信教の自由保障違反)では、宗教学の島薗進教授の説示を援用して、新たな主張を展開している。同教授には、宗教学の立場から鑑定意見書を作成していただく予定である。

控訴理由書は、以下の全10章からなる。
序 章 原判決の基本的な問題点
第1章 事実関係に関する問題
第2章 本件通達及び職務命令による国歌の起立斉唱の義務付けが公権力行使の権限の限界を踰越していること
第3章 通達及び職務命令による国歌の起立斉唱の義務付けが教基法16条1項の禁じる「不当な支配」に当たること
第4章 国歌の起立斉唱の義務付けが憲法19条に違反すること
第5章 国歌の起立斉唱の強制は憲法20条2項,20条1項に違反すること
第6章 本件通達及び職務命令による国歌の起立斉唱の義務付けが憲法23条,26条,13条が保障する教師の教育の自由を侵害すること
第7章 卒業式等における国歌の起立斉唱の義務付けが国際条約に違反すること 
第8章 本件各処分は裁量権の逸脱・濫用にあたる
第9章 国賠法1条1項に基づく慰謝料等請求が認められるべきこと

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本控訴理由書の目次を掲載しておく。この目次をよく読み込めば、控訴理由の大意が把握できるはず。

序章 原判決の基本的な問題点 9
第1 原判決の事実認定の問題点 9
第2 原判決の法的判断の問題点 11
第3 貴裁判所に望むこと 13

第1章 事実関係に関する問題 15
第1 原判決の事実認定の問題点 15
1 原判決の事実認定 15
2 10・23通達発出の真の目的を見極めるために必要な事実の認定が欠落している 15
3 職務命令と10・23通達の関連性についての認定が欠落している 17
4 卒業式等において教師に創意工夫や裁量の余地がなく画一的な儀式を押し付けられたことに関する認定が欠落している 18
5 小括 19
第2 1989年学習指導要領改訂と学校における「日の丸・君が代」の取り扱い 19
1 はじめに 19
2 学習指導要領改訂前の学校の日の丸・君が代実施の状況 19
3 学習指導要領改訂時の議論 22
4 学習指導要領改訂後の運用状況 24
第3 10・23通達発出に至る経過 25
1 学習指導要領改訂後の都教委の指導 25
2 国旗国歌法制定とその立法趣旨 27
3 1999(平成11)年通達 39
4 都教委の方針転換 43
5 教育委員や教育長らの考え 55
6 都議会議員らとの迎合的関係 61
7 対策本部の議論 66
第4 10・23通達から職務命令発出に至る経過 69
1 10・23通達につき校長の独自の権限はなかった 69
2 管理職への事前指導による「職務命令発出」の徹底 70
4 卒業式当日の異常な監視体制 83
5 服務事故報告書,校長への事情聴取 84
6 都教委による10・23通達完全実施体制 85
第5 10・23通達下の卒業式等の実施 89
1 教職員に対する強制 89
2 生徒への強制 94
3 障害児学校での卒業式の変容 107
4 通常学校における卒入学式への影響 121
第6 教育現場の変容 124
1 上意下達の結果~破壊された教育現場 124
2 かつての教育現場~教師集団による闊達な議論 125
3 都教委が10・23通達前後に行った「教育現場改革」と教育現場への介入 126
4 上意下達体制の貫徹による「沈黙の教育現場」 131
5 「お上が望む教育へ」~教育内容への介入 133
第7 小括 139

第2章 本件通達及び職務命令による国歌の起立斉唱の義務付けが公権力行使の権限の限界を踰越していること 140
第1 「職務命令」と「信念等」との対比では抜け落ちてしまう重要な側面 140
1 原判決では控訴人らの主張が理解されなかったこと 140
2 職務命令と「歴史観・世界観・教育観」との対比 140
3 何が捨象されてしまうのか 141
4 等閑視された「求めること」と「強制」との隔絶した違い 143
第2 「公権力行使の権限踰越」の意味と判例上の位置づけ 145
1 公権力行使の権限踰越が本章の主題 145
2 職務命令が違憲という従前の主張とは異なる 145
3 南九州税理士会事件最高裁判決とそれが依拠した大法廷判決 146
4 アメリカ連邦最高裁のBarnette(バーネット)事件判決 149
5 憲法判断の客観的アプローチ 150
6 「権限がない」の意味についての補足説明 153
7 「権限の限界の踰越」の意味についての補足説明 153
第3 原判決に対する批判 154
1 「公権力行使の権限踰越」の主張に対する原判決の判示 154
2 判示①について 154
3 判示②について 155
第4 「国家シンボルと個人」から画される「公権力行使の限界」 157
1 国家と対峙する個人 157
2 国家シンボルに対する敬意表明の強制は権限を踰越した公権力の行使 157
3 公務員に対しても強制はできない 160
4 根拠とする憲法の条項 162
第5 「生徒の精神的自由」と「教職員の職務」から画される「公権力行使の限界」 163
1 精神的自由の内在的制約 163
2 単に法律に根拠があるだけでは人権の制約はできない 164
3 一連の最高裁判決による制約の正当化 164
4 調整すべき生徒の人権は抽象的で希薄な「学習権」だけではない 166
5 生徒と教職員は別という議論 166
6 「不利益処分の制裁をもって」が重要なのではない 167
7 現に起立斉唱できないという思いをもつ生徒の存在 169
8 教職員による起立斉唱の率先垂範は生徒の自律的な思考と判断を損なう 172
9 教育的配慮として生徒の気持ちに寄り添うことは教職員の職責 173
10 教職員の職責と矛盾する行為を教職員に強制をする権限は行政にない 174
第6 結語 175

第3章 通達及び職務命令による国歌の起立斉唱の義務付けが教基法16条1項の禁じる「不当な支配」に当たること 176
第1 教育委員会が教育内容に関する具体的な命令の発出が許されるとした原判決は,旭川学テ事件最高裁判決の判断に反していること 176
1 原判決の判示 176
2 旭川学テ事件最高裁判決の判断枠組み 177
3 原判決は旭川学テ事件最高裁判決を誤読していること 185
第2 教育委員会は「必要性,合理性が認められる場合には,適正かつ許容される目的のために必要かつ合理的と認められる範囲内において,具体的な命令を発することもできる」と判断した誤り 186
1 原判決の判示 186
2 旭川学テ事件最高裁判決が示した教育委員会の権限行使の限界 187
3 具体的な命令を発しうる「特に必要な場合」はどのような場合か 189
第3 国歌の起立斉唱の義務付けが「適正かつ許容される目的のために必要かつ合理的であると認められるとした原判決の誤り 193
1 原判決の判示 193
2 具体的な命令を発する「必要」性を認めた原判決の誤り 194
3 起立斉唱命令の「合理性」を認めた原判決が判断を誤っていること 199

第4章 国歌の起立斉唱の義務付けが憲法19条に違反すること 205
第1 原判決は事案類型の把握が誤っていること 205
1 原判決の概要 205
2 控訴人らの主張 205
3 控訴人ら「教職員としての職責意識に基づく信条」の内容 207
第2 原判決は,「憲法が宗教儀式ならびにこれに準ずる世俗的儀式等への参加強制を禁じている」ことを看過している 211
1 原判決の違憲判断回避の構造 211
2 「間接制約」論の誤謬 214
3 儀式・儀礼による集団規律と宗教及び全体主義との関わり 216
第3 起立斉唱行為の義務付けの必要性及び合理性がないこと 221
1 原判決の判断 221
2 控訴人らの主張 221
3 そもそも10・23通達発出の必要性及び合理性はなかった 222

第5章 国歌の起立斉唱の強制は憲法20条2項,20条1項に違反すること 227
第1 憲法20条に関する原判決の判断 227
第2 「日の丸・君が代」の宗教性 234
1 「日の丸・君が代」の宗教性 234
2 国旗・国歌(日の丸・君が代)の儀式における役割 236
第3 憲法20条2項違反について 237
1 憲法20条の構造 237
2 強制の契機 238
第4 憲法20条1項違反について 240
1 内心に限定された自由ではない 240
2 「間接制約」論の誤謬 241
3 剣道実技拒否事件最高裁判決の射程 242
第5 教員の信教の自由とその限界 244
1 人権制約における厳格な審査基準 244
2 日の丸・君が代強制と厳格審査基準 245

第6章 本件通達及び職務命令による国歌の起立斉唱の義務付けが憲法23条,26条,13条が保障する教師の教育の自由を侵害すること 246
第1 原判決は教師の教育の自由に関する旭川学テ事件最高裁判決に反していること 246
1 原判決の判断 246
2 普通教育における教師の教育の自由に関する旭川学テ事件最高裁判決 247
3 小括 252
第2 教職員に対する起立斉唱の義務付けが国旗国歌条項の趣旨に沿うとした原判決の判断は誤っていること 252
1 原判決の判示 252
2 教職員全員の起立斉唱が国旗国歌条項の趣旨にかなうものではないこと 253
3 教職員全員の起立斉唱を命じることはできないこと 258
4 教職員全員の起立斉唱は子どもの学習権を侵害すること 262
5 小括 263
第3 本件通達及び本件職務命令は,教育の自由を侵害すること 263
1 原判決の判示 263
2 原判決の判示は事実誤認に基づくこと 264
3 小括 原判決は事実を誤認したものであること 270

第7章 卒業式等における国歌の起立斉唱の義務付けが国際条約に違反すること 272
第1 原判決の判断内容とその基本的問題点 272
1 原判決の判断内容 272
2 原審判断の特徴と問題点 273
第2 原判決が自由権規約18条の解釈を誤ったこと 275
1 自由権規約,児童の権利に関する条約の裁判規範性 275
2 国際条約における一般的意見,総括所見の持つ意味 277
3 条約法条約による解釈規則 277
4 規約人権委員会の人権規約18条に対する一般意見 278
第3 原判決は,自由権規約委員会の日本政府の第6回報告に対する総括所見について誤った位置づけをしたこと 282
1 自由権規約委員会の日本政府の第6回報告に対する総括所見 282
2 第6回総括所見に至るまでの経過とその内容 283
3 第6回総括所見の意義 287
第4 原判決の自由権規約18条の解釈・適用の誤り 289
1 自由権規約18条の解釈の誤り 289
2 第6回総括所見の持つ意味 291
3 原判決の自由権規約18条の適用の誤り 292
第5 児童権利条約違反 301
1 原判決の内容とその問題点 301
2 控訴人らは,児童(子ども)の権利に関する条約違反の主張ができること 302
3 児童権利条約で保障された具体的権利の内容 304
4 10・23通達とそれに基づく卒業式等の実施が児童権利条約違反となること 309

第8章 本件各処分は裁量権の逸脱・濫用にあたる 312
第1 はじめに 312
第2 2012年1月16日最高裁判決は戒告処分の無条件容認ではない 312
第3 戒告処分が取り消されない限り,問題の解決は図られない 315
1 思想・信条,教職員としての職責意識を捨てない限り起立はできない 315
2 都教委は,教育現場で校長が教職員の思想・信条に配慮することを認めない 318
3 不起立による実害はない 320
4 懲戒処分を科すことにより発生する教育現場への弊害 321
5 まとめ 328
第4 本件の各戒告処分は取り消されなければならない 328
1 はじめに 328
2 本件職務命令は不当な動機・目的でなされたものであり違法である 328
3 戒告処分の裁量権の逸脱濫用を認めなかった原判決の誤り 333
4 都教委自身も認める戒告処分に付随する様々な不利益 349
5 標準的な処分量定との比較 364
6 国旗国歌をめぐる全国の懲戒処分の状況と東京都の突出 365
第5 結論 367

第9章 国賠法1条1項に基づく慰謝料等請求が認められるべきこと 368
第1 本件各懲戒処分に行った都教委には国賠法上の過失が認められること 368
1 原判決の判示 368
2 本件通達及び職務命令による起立斉唱の義務付けは違憲・違法であること 369
3 懲戒処分を行ったことにつき都教委に国賠法上の過失が認められること 370
第2 控訴人らに損害が生じていること 383
1 原判決の判示 383
2 処分の取消によっても慰謝されない精神的苦痛が残されること 384
3 懲戒処分による経済的不利益 389
4 結論 391   (付 別表)
(2017/12/18)

多様な宗教が共存し、あらゆる信仰が、無宗教とともに平等に尊重されるべき社会でなくてはならない。

「10・23通達」関連訴訟の中核に位置づけられる東京「君が代」裁判(第4次訴訟)。9月15日に東京地裁民事第11部(佐々木宗啓裁判長)の判決があり、今12月18日を提出期限と定められた控訴理由書を鋭意作成中である。

以下は、私の担当部分(憲法20条(信教の自由)違反)の原審での主張の一部の要約である。あらためて読み直して、紹介するに値するものと思う。原判決は、基本的にこれを反駁する説得力をもたない。
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☆公務員にも教員にも信教の自由が保障されなければならない
原告らは、訴状請求原因において、違憲判断手法における客観的アプローチと主観的アプローチを意識的に区分したうえ、主観的アプローチの典型として、原告らの信教の自由侵害(憲法20条1項・2項違反)を主張した。

その主張の根底にあるものは、個人の尊厳が尊重されるべきことであり、そのための個人の精神生活における自由が保障されなければならないとするものである。国民のすべてに、それぞれの生き方を自分で選び取る自由が保障され、選び取った生き方に従って生きることを最大限可能とすることの保障の必要でもある。そのため、公権力は、国民の精神生活の分野に立ち入り、これを侵害してはならない。
そのような、保障されるべき精神生活の典型分野として信仰がある。人格の中核をなすものとしての信仰の選択が保障されなければならず、いかなる形においても、公権力がこれを侵害することは許されない。

社会には多様な宗教が存在し、多くの人が信仰を自己の人格の基礎ないし中核として精神生活を送っている。多様な宗教が共存し、あらゆる信仰が、無宗教とともに平等に尊重されるべきことが、社会の正常なありかたであり、憲法上の理念でもある。信仰を持つものが、あらゆる社会階層において、あらゆる職業に従事していることがきわめて自然な社会のありかたであり、公務員にも、教員にも、当然に多様な信仰を持つ者が存在することが想定されている。公権力は、これを受容し、公務員や教員に対して、その信仰にもとづく精神生活を送ることができるよう相応の配慮をすべきであり、これを侵害することは許されない。

ところが、このような原告の主張に対する被告(都教委)の反論に接して、公権力がかくも憲法理念に無理解であるばかりか、挑戦的ですらあることに一驚を禁じ得ない。
被告の主張は、公務員も国民の一員として信教の自由を持つことに理解なく、公務員に対しても可及的に信教の自由を保障しようという観点はない。信教の自由に抵触する虞のある職務命令を控えなければならないとする配慮は皆無である。むしろ、国家主義を受容し得ない信仰を持つ者は公務員である資格がない、教員として不適格である、と言っているに等しい。

信仰を持つ者が信仰にしたがいつつ公務員や教員として社会生活を送ることができるのか、それとも自分の信仰を殺して公権力に迎合せざるを得ないのか。400年前に踏み絵の前に立たされたキリスト教徒と同じ深刻な問題が、信仰を持つ教員に突きつけられている。

☆原告らの信仰とその侵害
原告らの内、すくなとも2名は、自分が信仰を持つ者であり、信仰ゆえに起立・斉唱をすることができないことを表明している。
ことの性質上、以下のとおり、事情はきわめて個別性が高い。

その内の一人は、自分にとって、信仰者(クリスチャン)であることの信念は、あるべき教員としての理念と一致し、教育活動のあり方の指針をなすものと認識している。信仰者としての信念とは、「隣人愛」「少数者・弱者への愛」「神の愛」ということである。その信念が、教育者として、生徒一人ひとりを大切にすること、とりわけ少数者や弱者を尊重する姿勢で生徒と接し、人格的な信頼関係を形成すべきこと、愛情溢れる教育活動をなすべきことの基底をなしている、との自覚である。

同原告にとっては、現在の教育行政は、到底クリスチャンとしても教員としても受け容れがたい。「日の丸・君が代」強制は、その顕著な具体例である。同原告にとっては、「日の丸」に向かって起立させ、一律に「君が代」を歌わせる行為は、国家神道と「神なる天皇」への賛美を強制するものであり、服従を強いるものでもある。それは、クリスチャンにとって禁忌とされている偶像崇拝に通じる行為として従うことができない。しかも、「神の子イエス・キリストが身を呈して私達の罪を償って下さったことを思えば、例え処分されようとも、いかなる不利益を受けようとも、最高裁がどのように判断しようとも、自分の信仰に照らして、私は従えない、従ってはならない」という強固な信念なのである。

もうひとりの原告は、カトリック信者として、偶像崇拝を避けるために、神道の象徴である「日の丸」の前で「君が代」とともに起立することはできない、との信念を有している。この信念は、かつての戦争で、「日の丸」「君が代」が多くの人を死に至らしめた役割を演じたことからの、平和を希求する思いと一体をなすものとの認識である。

また、同原告は、信仰を捨てなかったために火あぶりの刑に処せられた聖人の名を洗礼名として持っている。にもかかわらず、たった一度だけ、卒業式前の予行の際に、精神の不調から起立してしまった経験がある。このとき、激しい自責の念に駆られ、通院を余儀なくされるほど精神的に傷ついている。

以上のとおり、真摯な信仰者にとっては、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制は、深刻な信仰への侵害であり、耐えがたい精神的苦痛をもたらすものである。憲法は公権力に対して、このような信仰に対する侵害を禁止し、信仰を持つ者の権利を保障している。

☆ 憲法20条2項違反
「憲法は、『信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。』(20条1項前段)とし、また『何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。』(同条2項)として、いわゆる狭義の信教の自由を保障する規定を設けている。

注目すべきは、同条2項が、判例上明確に狭義の信教の自由を保障する規定に、つまりは政教分離という制度的保障とは区別された、人権保障規定そのものとされていることである。
この規定は、同条1項前段の「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」の一部ではあるが、戦前に神社参拝や宮城遙拝などの宗教上の行為や、国家神道上の諸儀式に国民が強制動員されたことの苦い経験から、信教の自由侵害の典型事例として特別の規定を置いたものと解されている。

信仰をもつ原告らは,自己の信仰にしたがって「日の丸・君が代」を位置づけ,自己の信仰に背馳し抵触するものとして「日の丸・君が代」を受け容れがたいと主張しているのであって,それで20条2項の該当要件は充足されている。したがって,信仰をもつ原告に関する限りにおいて,被告が「日の丸・君が代」は一般的,客観的に宗教的意味合いがない,と反論することはまったく無意味である。問題は,「日の丸・君が代」が一般的客観的に宗教的意味合いを持つか否かではない。飽くまで,強制される信仰者にとって,自らの信仰ゆえに強制を受容しがたいと言えるか否かなのである。

☆神戸高専剣道実技受講拒否事件最高裁判決
この理は,基本的に剣道実技受講拒否事件最高裁判決(1996年3月8日最高裁第二小法廷判決)において最高裁がとるところと言ってよい。
「エホバの証人」を信仰する神戸高専の生徒が受講を強制された『剣道の授業受講』は,一般的客観的には,宗教的な意味合いをもった行為ではない。しかし,当該の生徒の信仰に抵触する行為として,その強制の違法を最高裁は認めた。本件でも同様の関係があり,しかも「日の丸・君が代」への敬意表明という強制される行為は,剣道の授業受講とは比較にならない宗教性濃厚な行為というべきである。

内心における信教の自由は,特定の宗教を信仰する自由,あるいは信仰をもたない自由として,絶対的に保障される。しかし,権力が国民の内心を直接に改変することはそもそも不可能であることから,純粋に内心に押し込められた信教の自由は,人権保障としての意味をもたない。憲法が実定的な人権保障規定として意味あるものであるからには,信仰の保障範囲を厳格に内心の自由として押し込めてはならない。

☆「日の丸・君が代」強制と「踏み絵」
江戸時代初期に,当時の我が国の公権力が発明した信仰弾圧手法として「踏み絵」があった。この手法は,公権力が信仰者に対して聖像を踏むという身体的な外部行為を命じているだけで,直接に内心の信仰を否定したり攻撃しているわけではない,と言えなくもない。しかし,時の権力者は,信仰者の外部行為と内心の信仰そのものとが密接に結びついていることを知悉していた。だから,踏み絵の強制が信仰者にとって堪えがたい苦痛として信仰告白の強制になること,また,強制された結果心ならずも聖なる像を土足にかけた信仰者の屈辱感や自責の念に苛まれることの効果を冷酷に予測し期待することができたのである。

事情は今日においてもまったく変わらない。都教委は,江戸時代のキリシタン弾圧の幕府役人とまったく同様に,「日の丸・君が代」への敬意表明の強制が,教員らの信仰や思想良心そのものを侵害し,堪えがたい精神的苦痛を与えることを知悉しているのである。

☆ 信教の自由の限界
もっとも、信教の自由と言えども絶対不可侵ではない。必要不可欠な制約には服さざるを得ない。問題は、いったい何をもって必要不可欠な制約というかである。

教員であることが信仰上の信念と抵触することはあり得ないことではない。もっとも考え得るのは、自己の信ずる信仰上の教説が科学的検証に堪えるものではない場合である。飽くまで、次世代への真理の伝達をもって公教育の本質と考えるべきであって、教員の主たる任務である教科指導において教授すべきは検証された真理でなければならず、信仰上の教説であってはならない。真理性の検証を欠いた主観的な価値的教説の教育は許容されない。

ことは公教育の本質把握如何に関わるが、憲法的には「子どもの教育を受ける権利」を基礎として立論されることになる。

学校とは、その基本において、人類が真理として確認した知の体系を伝える場である。子どもには、そのような意味での知の体系、すなわち真理を学ぶ権利が保障されており、教員の基本的責務は、この子どもの知的要求を充足させることにある。

したがって、いかなる信仰信念を持とうとも、真理とされている知識、情報、思想を子どもに教授する義務を全うしなければならず、このことは、必要不可欠なこととして、教員の信教の自由を制約する。

☆ 「日の丸・君が代」強制は許容されない
このことは、真理教育を中核とする教科指導とは別異の学校生活の場では、自ずから別の基準が必要とされることを意味する。教科指導と離れれば真理性教授の問題はなく、教科以外の学校生活の場では、教員の信教の自由は最大限保障されなければならない。

卒業式等の国旗国歌強制、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制は、公教育における不可欠の要素ではない。当該各原告らの信仰を侵害することを合理化するいささかの根拠ともなり得ず、公権力による強制は憲法上許容される余地がない。

「多様な宗教が共存し、あらゆる信仰が、無宗教とともに平等に尊重され、信仰を持つ者も持たない者も、あらゆる社会階層において、あらゆる職業に従事していることが正常な社会のありかたであり、憲法上の理念でもある」ことを都教委は受容し、公務員や教員に対して、その信仰にもとづく精神生活を送ることができるよう相応の配慮をしなければならない。
(2017年12月13日)

「儀式的行事における儀礼的所作の強制」だから、「思想・良心の自由侵害と不可分に結びつくものとはいえない」は明らかな誤謬である。

東京都教育委員会の「10・23通達」とこれに基づく職務命令が、全都の教職員に対して国旗・国歌(日の丸・君が代)への起立斉唱を強制している。しかも、これが毎年繰り返されている。

これを違憲と主張する教員らの多数の訴訟において、最高裁は、違憲の主張を斥けてきた。学校行事において教員に国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制をしても、強制された教師の思想・良心の自由を直接に侵害するものではないというのだ。

その論理の骨格は、「国旗としての日の丸の掲揚及び国歌としての君が代の斉唱が広く行われていたことは周知の事実」という、明らかに誤った事実認識の前提から出発して、以下のように論じている。

「学校の儀式的行事である卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は、一般的、客観的に見て、これらの式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり、かつ、そのような所作としての性質を有するものであり、かつ、そのような所作として外部からも認識されるものというべきである」。

だから、起立斉唱を行わせることが「上告人(教員)らの有する歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結びつくものとはいえない」という。

大要、「儀式的行事における儀礼的所作」の強制は、「歴史観ないし世界観(すなわち、思想・良心)を否定することと不可分に結びつくものではない」という論旨である。

この最高裁判決の説示は、近時の下級審判決が挙って模倣ないし追従するところとなっている。教員たちの憲法19条違反の主張を否定する論拠としているだけでなく、東京「君が代」裁判・第4次訴訟判決では、憲法20条違反を否定する論拠としても明示されている。

同判決は次のように判示する。
「卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為の性質については,これらの式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであって,それを超えて宗教的意味合いを持つものではなく,他宗教の信仰の強制などと評価することはできない。

原告らの中には、信仰ゆえに起立できないとする者がいるが、原告らは都立学校の教職員であって,地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性等に鑑み,学習指導要領の国旗・国歌条項を含む法令及び校長の職務命令に従うべき立場にあることを踏まえると,同原告らの信仰の自由の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるものである。

したがって,卒業式等における起立斉唱行為が,原告らの信仰との関係で著しい精神的苦痛をもたらすものであることなどを理由として,本件職務命令等が憲法20条に違反することをいう原告らの主張を採用することはできない。」

しかし、この説示は、決定的に間違っていると指摘せざるをえない。
ある個人が自発的には行えないとする身体的な行為を権力的に強制することは、原則としてその人の精神の自由を直接に侵害すると考えざるを得ない。当該の個人が「自らの歴史観ないし世界観(すなわち、思想・良心)を否定することになるから従えない」と表明する局面においての強制であれば、その強制は当該の思想・良心を否定することになる。「自らの信仰に抵触するから従えない」と表明する局面においての強制であれば、その強制は当該の信仰を侵害することになる。極めて常識的な論理の帰結である。

これを「儀式的行事における慣例上の儀礼的な所作」の強制であれば、「思想・良心の否定と不可分に結びつくものではない」と切断する「論理」の根拠は示されておらず、強弁というほかはない。

当該の最高裁判決は、「儀式的行事における儀礼的所作」を、「宗教性のない、もっぱら世俗的な性格に徹したもの」の意味で使っているごとくであるが、本当に世俗的なものに過ぎないのか。そして、宗教性を欠いた世俗的なものであれば「思想・良心の否定と不可分に結びつくものではないのか」が問われなければなない。

実のところ、儀式的行事への参加や儀礼的所作の強制は、最高裁判決の説示にかかわらず、むしろ信教の自由や、思想及び良心の自由を侵害する典型的な類型といわねばならない。また、「儀式的行事における儀礼的所作」が宗教性を持たないものであるにせよ、「儀式的行事における儀礼的所作の強制」は、それ自体が集団への同化強制の圧力となるもので、特定の思想に関連する儀式的行事における、特定の思想に関連する儀礼的所作の強制は、宗教の強制に準じて、これを受け容れがたいとする個人に対して、その思想・良心の自由の侵害をもたらすものとなる。

弁護団は、著名な宗教学者の教示を得て、以下のとおり、控訴理由の主張を準備している。

儀式・儀礼は宗教の不可欠な要素の一つであって、固有の儀式・儀礼をもたない宗教を見出すことは困難である。したがって、「儀式的行事における儀礼的所作」が宗教性と無縁であるとの認識は根本的な誤謬である。「宗教的な儀式や宗教的な行事における宗教儀礼や宗教的的所作」は、至るところに存在する。

しかも、宗教性をまったく捨象した「儀式的行事における儀礼的所作」である場合にも、思想・良心の自由侵害と無縁であることにはならない。儀式・儀礼が政治的機能をもつときに抑圧的機能を果たすことは、宗教学・政治学・社会学で共有されている通説的認識である。特定宗教の枠を超えた世俗国家の儀式・儀礼においても同様である。

とりわけ日本の場合、世俗国家の儀式・儀礼と国家神道由来の儀式・儀礼との境界は分明でなく、この点がしばしば法的争点となる。儀式・儀礼が宗教的あるいは全体主義的な過去を背負っており、そのことが基本的人権を脅かす基礎をなしている。現に日本国憲法を否定し、天皇崇敬や神権的国体論の復活を目指す政治勢力も存在しており、政府や国会で一定の影響力を保持している。

国家が儀式・儀礼を通じて神聖化され、生活の諸方面に及ぶ規制力を発揮することがある。儒教や神道の影響が濃い文化では、このことが起こりやすい。世俗的な儀式・儀礼と、宗教的な儀式・儀礼とが連続的であるのは、儒教の影響を受けた地域には広く見られることである。日本の国家神道、とくにその近代的形態は儒教的な思想の影響を大きく受けている。このような文化的環境と歴史的背景の下で、細かな規定によって身体の画一的統御が課されるとき、精神の自由が著しく脅かされると感じることには相当の理由がある。

以上のとおり、儀式・儀礼は宗教の本質的な要素なのであって、儀式における儀礼的所作だから、その性格がもっぱら世俗的になって宗教性がないなどとというのは明らかな誤りである。しかも、「儀式・儀礼は強い政治的機能をもちうる」のである。儀式・儀礼が宗教の本質的な要素とされるのは、信仰を同じくする者の集団による共通の身体的動作が、相互に信仰と信仰に基づく連帯感の確認行為となるからである。

このことは、世俗的な集団における世俗的な行事においても本質的に変わらない。「起立」「礼」「注目」「斉唱」「唱和」などの身体的行為を集団が同時に画一的に行うことは、その集団の価値観や目的を再確認して、何らかの理念の共有を深化させる機能をもつものである。従って、その集団の価値観に同調しない者にとっては、明らかに思想・良心の侵害とならざるを得ない。

このような、学校行事における宗教的所作の強制は戦前にしばしば起こったことである。憲法第20条の信教の自由の規定は、こうした戦前戦中の経験を踏まえたものであり、『特定の宗教的行為を強制されない自由』だけでなく、『宗教に準ずる信条と関連する行為を強制されない自由』も含まれていると理解しなくてはならない。憲法第19条の『思想・良心の自由』から見れば、特定の信念体系に基づく行為を強制されない自由も含まれるということである。

以上のとおり、「儀式的行事における儀礼的所作」は、典型的な宗教行為そのものであることもあり、宗教的色彩を帯びる宗教に準ずる行為であることもある。「儀式的行事における儀礼的所作」だから、宗教性は払拭されているわけではない。

のみならず、「儀式的行事における儀礼的所作」が純粋に世俗的なものであったとしても、これを強制する場合には、その集団に特有の思想や価値観を個人に押しつけるものとして、「思想・良心の否定と不可分に結びつく」ものとならざるを得ない。

したがって、「10・23通達」関連の最高裁判決の論理は、「憲法が宗教に準ずる一定の思想に基づく儀式等への参加強制を禁じている」ことを看過したものであって、これに無批判に追随した下級審判決も、憲法19条および20条についての憲法の解釈を誤ったものである。
(2017年12月10日)

東京「君が代」裁判(第4次訴訟)、控訴理由書作成中。

「10・23通達」関連訴訟の中核に位置づけられる東京「君が代」裁判(第4次訴訟)。9月15日に東京地裁民事第11部(佐々木宗啓裁判長)の判決があり、今12月18日を提出期限と定められた控訴理由書を鋭意作成中である。

同判決は、減給以上の全処分(原告6名についての7件)を取り消した。この点については評価しうるのだが、戒告処分(9名についての12件)については取り消し請求を棄却した。不当であり無念というほかない。

原告団・弁護団は、何よりも違憲論を重視している。
《「10・23通達」⇒起立斉唱を命じる校長の職務命令⇒職務命令違反を理由とする懲戒処分》という、行政の一連の行為が違憲だという主張。違憲の根拠を、「客観違憲論」と「主観違憲論」に大別した。

立憲主義に基づく憲法の構造上、そもそも公権力が国民に対して、「国に敬意を表明せよ」などと命令できるはずはない。また、憲法26条や23条は教育の場での価値多様性を重視しており、公権力が過剰に教育の内容に介入することは許容されず、本件はその教育に対する公権力の過剰介入の典型事例である。というのが、客観違憲論。誰に対する関係でも都教委の一連の行為は違憲で、違法となる。

憲法で規定され保障された、思想・良心の自由(憲法19条)、信仰の自由(20条)、教育者の自由(23条)などを根拠に、各原告の基本権が侵害されたことを理由とする違憲の主張が主観的違憲論。特定の思想・良心・信仰を持つ人との関係でのみ違憲となる。

また、必ずしも違憲判断に踏み込まずとも、戒告処分を含む全処分を処分権の逸脱濫用として取り消すことが可能である。これが6年前の1次訴訟控訴審の東京高裁『大橋判決』だ。しかも、これまでの最高裁判決は、「戒告はノミナルな処分に過ぎず、被戒告者に実質的な不利益をもたらすものではない」ことを前提としていた。しかし、実は戒告といえども、過大な経済的不利益、実質的な種々の不利益をともなうようになってきた。とりわけ、最近になって都教委は意識的に不利益を増大させている。しかし、この不利益も同判決が採用するにはいたらなかった。

事案の全体像のとらえ方を示している同判決の一部をご紹介しておきたい。      *******************************************************************

☆ 事案の要旨
(1) 被告(東京都)の設置する高等学校又は特別支援学校の教職員である原告らが,その所属校において行われた卒業式又は入学式において,国歌斉唱時には指定された席で国旗に向かって起立し,国歌を斉唱することを求める校長の職務命令に違反して起立しなかったところ,東京都教育委員会は,かかる不起立は地方公務員法32条及び33条に違反するものであるとしたうえ,同法29条1項1号ないし3号に基づき,原告らに対し,戒告,減給又は停職の懲戒処分を行った。
(2) 本件は,原告らが,起立斉唱命令,その前提とな’った都教委の通達ないしそれらによる原告らに対する起立斉唱の義務付けは,原告らの思想・良心の自由,信教の自由,教育の自由を保障した憲法及び国際条約の規定に違反し,公権力行使の権限を踰越するものであり,「不当な支配」を禁じた教育基本法の規定にも抵触するから,原告らに対する起立斉唱命令は重大かつ明白な瑕疵を帯びるものとして無効であり,その違反を理由とする懲戒処分も違法であることに帰するし,仮に起立斉唱命令が有効であるとしても,その違反に対して戒告,減給又は停職の処分を科したことについては手続的瑕疵及び裁量権の逸脱・濫用があるから違法であるなどと主張して,被告に対し,各処分の取消しを求めるとともに,国家賠償法1条1項に基づく損害賠償(懲戒処分1件につき55万円)及びこれに対する訴状送達日(平成26年4月14日)の翌日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める事案である。

☆ 争点
(1)原告Xに対する起立斉唱命令(本件職務命令)の有無
(2)本件職務命令等の憲法19条違反(思想・良心の自由の侵害)の有無
(3)本件職務命令等の憲法20条違反(信教の自由の侵害)の有無
(4)本件職務命令等の憲法26条,13条及び23条違反(教師の教育の自由の侵害)の有無
(5)本件職務命令等の国際条約違反の有無
(6)本件職務命令等の公権力行使の権限踰越ゆえの違憲・違法の有無
(7)本件職務命令等の教基法16条1項(不当な支配の禁止)違反の有無
(8)本件処分の手続的瑕疵の有無
(9)本件職務命令違反を理由として少なくとも戒告処分を科することの裁量権の逸脱・濫用の有無
(10)本件職務命令違反を理由として減給又は停職の処分を科することの裁量権の逸脱・濫用の有無
(11)国賠法1条1項に基づく損害賠償請求の当否

今進めている作業は、上記の(1)~(11)までの原判決の判断に対する反論である。
上記(10)に関する裁判所の判断だけが納得しうるもので、その余の判断は全て納得しがたい。

憲法は、国家と国民の関係を規律する。国家象徴(国旗・国歌)と国民個人の価値的な優劣の関係は、憲法の最大関心事のはず。主権者国民の僕に過ぎない国家が、その主人である主権者国民に向かって、「吾に敬意を表明せよ」と命じることなどできるはずがない。これは憲法価値の序列における倒錯であり、背理でもある。真っ当な憲法判断を獲得すべく弁護団・原告団は努力を重ねている。
(2017年12月6日)

天皇代替わりに、国民意識操作への警戒を

昨日(12月1日)開催の皇室会議なるもので、天皇代替わりの日程がほぼ決まったようだ。2019年4月30日に現職が退任し、同年5月1日に後任が就任することになる模様。

2019年4月30日から5月1日へ日付が変って…、なにが起こるわけでもない。当事者の父子や、その家族には大きなできごとではあろうが、国政に関する権能を有しない公務員職の交代が、政治にも行政にも何の意味も持つはずはない。というよりは、意味をもってはならないのだ。せいぜいのところ、国民にとって切実に意味を持つのは、皇室予算がどれだけ増えるかである。このことには、大いに関心をもたざるを得ない。

天皇の代替わり自体に格別の意味はない。御名御璽の、ギョメイが、「明仁」から「徳仁」に変更されるだけ。これを大事件と騒ぎたてて国民意識を操作し、代替わりを意味あるものとしたい。それが、伝統右翼の目論むところであり保守政権の立場でもある。自立した主権者の側としては、この大騒ぎを警戒しなければならない。ところが、メディアが、右翼のお先棒かつぎに一役買っているのが気になるところ。

代替わりに際して、幾つかの留意点ないし警戒すべき点がある。
☆祝意の強制を許してはならない。
☆厳格に政教分離の原則を貫かなければならない。
☆「平成」の終焉を機に日常生活から元号使用をなくしたい。
☆「日の丸・君が代」、元号、祝日などの小道具を使っての天皇制刷り込みに注意。
☆これを好機とした天皇制ナショナリズム鼓吹を警戒しよう。

ところで、本日の各紙が社説に天皇代替わり問題を取り上げている(朝日の社説は、この話題に触れていない)。概してお先棒担ぎの提灯社説。とりわけ、案の定というべきではあろうが産経がひどい。読むだに恥ずかしくなる。

見出しだけ並べてみよう。
産経 「譲位日程固まる 国民はこぞって寿ぎたい」
読売 「天皇退位日 代替わりへ遺漏のない準備を」
日経 「退位・改元の準備を滞りなく進めよう」
毎日 「天皇陛下の退位日決まる 国民本位を貫く姿勢こそ」
東京 「天皇の退位と即位 国民の理解とともに」

リベラルなはずの毎日や東京も、天皇を論じるとなるとまことに歯切れが悪くなる。歯の浮くようなお追従もあちこちに見える。それだけ、社会的な圧力が強いということなのだ。読売が本文はともかく見出しでは「天皇退位」と「陛下」を抜きにしているのに、毎日が「天皇陛下の退位日」とは情けない。

産経は、見出しで「国民はこぞって寿ぎたい」という。おかしな日本語ではあるが、意味の忖度は可能だ。しかし、私は「寿ぎたくない」し、「けっして寿がない」。そして、今どき「国民こぞって」なんてこの上なく薄気味悪い。祝意の強制はまっぴらご免だ。

私は、北朝鮮指導者の事実上の世襲体制を唾棄すべき遅れた社会のあり方と思う。その代替わりのイベントも、祝意を国民に押しつけるものとして醜悪な印象をもった。しかし、あれは、天皇制の亜流なのだ。ルーツは明らかに日本にある。戦前の天皇制が、植民地に押しつけたものなのだ。宮城遙拝、ご真影への敬礼、教育勅語奉戴などによって叩き込まれた天皇への敬意や祝意の強制の残滓が、いま北朝鮮では金正恩への讃辞となり、日本では産経の社説におどっているのだ。

産経社説はいう。「立憲君主である天皇の譲位は、日本にとっての重要事である。一連の日程が固まったことを喜びたい。いよいよ譲位や即位、大嘗祭、改元の準備が本格化する。」「安倍晋三首相が「国民の皆さまの祝福の中でつつがなく行われるよう全力を尽くしてまいります」と表明したことは重い。」「譲位の日取りは、…200年ぶりとなる、譲位による御代替わりを、国民こぞって寿ぐことにもふさわしい。」「国の始まりから日本の君主であり、国民統合の象徴である天皇にふさわしい代替わりを実現することが大切である。」

ムチャクチャだが、いったい、なぜ、何が、寿ぐべきことなののだろうか。時代錯誤も甚だしい産経のことだ。もしかしたら、「金甌無欠なる我が國體が連綿として天壌無窮なること」などと言い出しかねない。

産経社説の一節が別な意味で興味を惹く。
「陛下は平成31年4月30日に皇位を退かれる。5月1日に皇太子殿下が第126代の天皇に即位され、改元が行われる。」

ここでの、「5月1日」は、もはや平成ではない。だから、「同年5月1日」とは言えないことになる。平成31年4月30日の次の日である5月1日は、新元号を冠した日付の初日になるはずだが、新元号は未定であるから、日付の表記ができない。

だから、産経を除く他の全ての社説が、元号が替わる予定の年を「2019年」と西暦で表記している。たとえば、読売でさえ次のように。

「2019年4月30日に天皇陛下が退位される。5月1日に皇太子さまが天皇に即位され、この日から新元号となる。」

この読売調なら論理的に不自然さはない。産経のように元号使用にこだわるから、滑稽なことになる。いや、はからずも、産経社説は元号使用にこだわることによって、将来の歴年を表記できない元号の致命的欠陥を露わにしているのだ。

日経の社説は、締まりのないおざなりなものだが、看過しがたい一文がある。
「政府や企業は今後、退位と改元に向けたさまざまな準備を遅滞なく進める必要がある。」というのだ。唐突に出てきた「企業」の2文字。代替わりイベントで儲けようというのなら資本主義的合理性に支えられた健全さかも知れない。ここでは、官民一体となった、祝賀ムード作りが「企業」に求められているのだ。そのような役割が企業に求められ、企業を介して、国民全体に社会的同調圧力が及ぶことになるのだ。

天皇制とは、面従腹背の文化にほかならない。腹の中ではどう思っていようとも、天皇を語るときは、「国民をいたわってくださるありがたい存在」「常に、国の平安を祈っておられる立派な方」と言わなければならない。皇室の話題は、常に「おめでたい」「心が明るくなります」なのだ。弔事には、「おいたわしい」「国民全体の不幸」が決まり文句。この点、戦前とも北朝鮮とも同様なのだ。

そのような社会的同調圧力の空気を醸成しているのが、毎日や東京も含むメディアであることを強く意識せざるを得ない。厳格な政教分離の要請など、出てこないではないか。各社・各紙、これでよいのか。猛省を促したい。
(2017年12月2日)

共産党都議団、いやがらせ都教委に「日の丸・君が代強制」反対の申し入れ

都内の公立校では、卒業式や入学式の直前に、全教職員の一人ひとりに対して「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する」よう、文書による職務命令が発せられる。2003年の「10・23通達」以来繰り返されている異様な風景だ。

「職務命令があろうとなかろうと、起立できない」とする教員がいる。「命令なければ起立も斉唱もするが、教育の場にあってはならない命令には従えない」という教員もいる。こうして、毎年起立できないとする教員に、懲戒処分が繰り返され、処分取消の訴訟も繰り返されている。

9月15日の「東京君が代裁判・第4次訴訟判決」では、原告6名についての7件の減給・停職処分が違法な処分として取り消された。都教委は、その内5名・5件の処分については控訴を断念し処分取り消しは確定した。ところが、これで話しは終わらない。なにしろ相手は、執念深い都教委だ。裁判に負けて、司法から「都教委の処分は違法。だから取り消す」と言われても、恥ずかしいとはおもわない。絶対に謝罪も反省もしない。できるいやがらせは最大限やろうという根性。その具体化が、まだ退職せずに在籍している教員にたいする「再処分」である。

再処分とは、減給が重すぎるとして取り消されたから、もう一度同じ「職務命令違反」に対して戒告の処分をし直そうということなのだ。せっかく裁判に勝った教員は、もう一度フルコースで、行政手続と訴訟手続をやり直すことになる。

その行政手続の最初が、バカバカしい2度目の事情聴取となる。本日(11月30日)午前、一人の教員に対する、再処分・事情聴取が行われたが、これに先立ち、日本共産党東京都議会議員団(18名)は、都教委(中井教育長)に対して「『日の丸・君が代』にかかわる再処分を行わず自由闊達な教育を求める申し入れ」を行った。都教委側は江藤人事部長が対応し申し入れ書を受け取ったという。

本日夕刻、たまたま文京区出身の都議を永く務め、このほど勇退された小竹紘子さんの「ご苦労様パーティー」があった。小竹さんは、今回都議改選まで都議会文教委員会委員長を務めた方。今は、小竹さんに代わって、やはり共産党の里吉ゆみさんが文教委員長となっている。

パーティーで里吉さんと言葉を交わした。「君が代裁判の原告団も弁護団も、決してあきらめません。闘い抜く覚悟ですからご支援を」と言ったところ、里吉さんも、「私たちも決してあきらめません。本日もその問題で都教委に党の議員団として申し入れを行いました。明日の赤旗をご覧ください」。打てば響くような、力強いご返答。

その申入書は、日本共産党東京都議会議員団HPで見ることができる。

「日の丸・君が代」にかかわる再処分を行わず自由闊達な教育を求める申し入れ
https://www.jcptogidan.gr.jp/category01/2017/1130_784

その全文が以下のとおり。
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2017年11月30日
東京都教育長 中井 敬三 殿
日本共産党東京都議会議員団
「日の丸・君が代」にかかわる再処分を行わず自由闊達な教育を求める申し入れ
東京地方裁判所は9月15日、教職員が入学式や卒業式で「君が代」斉唱時の起立斉唱を命じた職務命令の拒否を理由とする、懲戒処分の取り消しを求めた裁判の判決を出しました。6名、7件の減給・停職は相当性を基礎づける具体的事情がなく、社会通念上著しく妥当性を欠き、懲戒権の範囲を逸脱・濫用しており違法であるとの判断を示すと同時に、不起立の回数のみを理由とする加重処分を断罪しています。
この間の訴訟では63名、73件にのぼる処分を違法とする判決が出ています。今、教育委員会としてなすべきは、教職員への謝罪と名誉回復・権利回復です。
ところが教育委員会は、5名については控訴を断念し処分取り消しは確定しましたが、1名については控訴しました。処分取り消しが確定した原告からは、中井教育長あてに謝罪を求める申し入れもされていますが、何の回答もしていません。
さらに、処分取り消しが確定した原告のうち、現職の都立高校教員2名について、減額分の給料も支払わないまま事情聴取を行おうとしており、新たに戒告処分という「再処分」をする意図があると推測せざるを得ません。
教育委員会の対応は、国旗に向かって起立し斉唱することなどを命じた職務命令が、思想および良心の自由について間接的な制約となり得ることを認め、自由で闊達な教育のために、すべての関係者の真摯で速やかな努力を求めた最高裁判決にも反し、教育行政としてもふさわしくありません。
よって日本共産党都議団は、以下の4点について申し入れます。

1、今回の東京地裁判決で処分が取り消された教職員に対し、再処分のための事情聴取および再処分を行わないこと。1名の控訴を取り下げること。

2、処分取り消しが確定した5名の原告に謝罪し、直ちに名誉回復・権利回復措置を行うこと。処分が取り消された旨を、都教育委員会ホームページで公表すること。

3、原告らが強く求めている話し合いに応じるとともに、学校現場で自由闊達な教育が実施できるよう、教育行政のあり方を改善すること。

4、10・23通達を撤回し、校長の職務命令、累積加重処分、再発防止研修などの「日の丸・君が代」を強制するための一連のやり方を抜本的に改めること。
以上

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「国旗・国歌(日の丸・君が代)」強制問題は、多面性をもっている。立憲主義にも関わる、国家観・歴史観にも関わる。ナショナリズムの問題でもあり、人権の問題でもある。そして、教育の本質に関わる問題でもある。なによりも、国民の価値感の多様性の保障に関わる問題と思う。別の言い方をすれば、社会の寛容度に関わる問題なのだ。日本共産党が、社会の寛容度を最大限化することにもっとも、熱心であることが興味深い。

今日も、「第4次訴訟」控訴理由書作成のための弁護団会議だった。その中で、一人の弁護士が呟いた。「結局は外的な圧力で集団的な統制を徹底したいというのが、都教委や保守派のホンネなんだ。その統制徹底の姿が、北朝鮮や中国の議会や集会じゃないか。あれを理想だとするのが、都教委であり10・23通達の思想なんだ」。

石原慎太郎や小池百合子、そして自民党も、実は北朝鮮流の一糸乱れぬ集団的統制が大好きで憧れているのではないだろうか。私は、人間をコマと扱うああいう集団統制は、虫酸が走るほど大きらいだ。天皇制日本やその亜流である北朝鮮の集団的統制を許容する世の風潮はまっぴらごめん。だから闘い続けようと思い定めている。
(2017年11月30日・連日更新第1705回)

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