澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

神戸高専事件最高裁判決は、「日の丸・君が代」強制違法に何を教えているか。

(2021年9月16日)
 東京「君が代」裁判・5次訴訟(原告15名)の準備書面を作成中である。直接には、教員に対する国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の違憲判断を求める訴訟であるが、教育の本質や教育行政のあるべき姿を追及する訴訟でもあり、教育現場に活力を取り戻そうとする訴訟でもある。

 その違憲論争の一部としての憲法20条論(信教の自由の保障違反)の、神戸高専剣道実技受講拒否事件最高裁判決(1996年3月8日最高裁第二小法廷判決)をめぐる論争をご紹介しておきたい。
 
 原告は訴状請求原因で、「日の丸・君が代」の宗教性の有無に関して、この判決を引用した。

 よく知られているとおり、同判決は,「神戸市立高等専門学校の校長が,信仰上の理由により剣道実技の履修を拒否した学生に対し,必修である体育科目の修得認定を受けられないことを理由として2年連続して原級留置処分をし,さらに,それを前提として退学処分をしたという事案」である。
 判決は、「本件各処分は,原告においてそれらによる重大な不利益を避けるためには宗教上の教義に反する行動を採ることを余儀なくされるという性質を有するものであったこと」を認め、このことを理由の一つとして認めて、校長の退学処分を違法と認めた。

 「エホバの証人」を信仰する神戸高専の生徒が受講を強制されたのは、剣道の授業の受講である。学校の体育で行う剣道が、一般的客観的には,宗教的な意味合いをもった行為とは言いにくい。しかし,これを強制される生徒の側から見ると、原告が剣道実技への参加を拒否する理由は,信仰の核心部分と密接に関連する真摯なものであったことを認め、剣道の受講は生徒の宗教上の教義に反する行動を採ることを余儀なくさせるもので、その強制の違法を最高裁は認めた。

 「日の丸・君が代」強制も同様である。仮に「日の丸・君が代」が宗教性希薄なものであるにせよ、これを強制される教員の側から見ると、自らの宗教上の教義に反する行動を採ることを余儀なくさせ、自分の信仰に抵触する行為として,その強制は違法なのである。

 しかも、日の丸・君が代への敬意表明は、この歌と旗の出自からも来歴からも、剣道の授業受講とは比較にならない宗教性濃厚な行為というべきである。

 結局、本件においては,信仰を持つ原告らにとって,「日の丸・君が代」の宗教性は否定できず,それゆえ「日の丸・君が代」の強制が信仰に背馳する行為の強制として、20条2項及び同1項に違反する。

この最高裁判決は,
①少数者の信教の自由を保障することの重要性,
②信教の自由への制約の可否を検討する場合の代替的方法についての検討の必要性,
③信教の自由が内心における信仰の自由の保障にとどまらず,外部からの一定の働きかけに対してその信仰を保護・防衛するために防衛的・受動的に取る拒否の外的行為の保障(最高裁判決の事案では,剣道実技履修の拒否という外的行為の保障)を含むことが明らかにされていること,
などの点でも,大いに参考にされるべきものである。

「日の丸・君が代」は、なんのために生まれ、どんな役割を担ってきたのか。その宗教性の有無はどのように判断すべきか。

(2021年9月14日)
 東京「君が代」裁判・5次訴訟(原告15名)が進行している。もちろん目指すところは、教員に対する国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の違憲判断である。

 悪名高い「10・23通達」、これに基づく「国旗起立・国歌斉唱」の職務命令、そして職務命令違反を理由とするすべての懲戒処分。そのすべてが違憲・違法であって、取り消されなければならない。その違憲主張の訴状を原告側が陳述し、被告(都教委)が答弁書を提出し、いま、原告が総括的な再反論の準備書面を作成中である。

 その違憲論争の一部としての憲法20条論(信教の自由の保障違反)の部分をかいつまんで紹介したい。

 原告は訴状請求原因で、その国家神道のシンボルとしての出自と来歴に鑑みて、「日の丸・君が代」を「国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明強制は原告らの信教の自由を侵害し、憲法20条に違反する」と主張した。被告(都教委)は、これに反論を試みているが、請求原因に噛みあったものとなっていない。そもそも内容極めて貧弱で説得力に欠け「反論」たり得ていない。被告が原告側の請求原因の主張を真面目に読み込んで、これに真摯に対応する姿勢の片鱗も見ることができない。これは、「10・23通達」発出以来の被告(都教委)の思慮を欠いた、独善的な国旗国歌強制の姿勢と重なるものである。

原告は、訴状請求原因において、大要以下の主張をした。

信仰者である原告らにとっては,「日の丸」も「君が代」も,自らの信仰と厳しく背馳し抵触する宗教的シンボルとしての存在であって,信仰という精神の内面の深奥において,この両者を受容しがたく,ましてや強制に服することができない。
 このような信仰を有する者に,「日の丸・君が代」を強制することによる精神の葛藤や苦痛を与えてはならない。そのことこそが,日本国憲法が旧憲法時代の苦い反省のうえに国民に厳格な信仰の自由を保障した積極的な意義にほかならない。また,人類史が信教の自由獲得のための闘いとしての一面をもち,各国の近代憲法の基本権カタログの筆頭に信教の自由が掲げられ続けてきた普遍的意味でもある。

信仰をもつ原告らにとっても,また信仰をもたない原告らにとっても,既述のとおり現在なお,「日の丸」も「君が代」も,神なる天皇と天皇の祖先神を讃える宗教的象徴である。その宗教的象徴に対して敬意表明を強制させられることは,信仰をもつ原告らにとっては自己の信仰と直接に背馳し抵触する受け容れがたいものであり,信仰をもたない原告らにとっても信仰をもたない自由に対する侵害にあたるものである。

17世紀、江戸時代初期に,当時の我が国の公権力が発明した信仰弾圧手法として「踏み絵」があった。この手法は,公権力がキリスト教の信仰者に対して聖像を踏むという身体的な外部行為を命じているだけで,直接に内心の信仰を否定したり攻撃しているわけではない,と言えなくもない。しかし,時の権力者は,信仰者の外部行為と内心の信仰そのものとが密接に結びついていることを知悉していた。だから,踏み絵という身体的行為の強制が信仰者にとって堪えがたい苦痛として信仰告白の強制になること,また,強制された結果心ならずも聖なる像を土足にかけた信仰者の屈辱感や自責の念に苛まれることの効果を冷酷に予測し期待することができたのである。

事情は今日においてもまったく変わらない。都教委は,江戸時代のキリシタン弾圧の幕府役人とまったく同様に,「日の丸・君が代」への敬意表明の強制が,教員らの信仰や思想良心そのものを侵害し,堪えがたい精神的苦痛を与えることを知悉しているのである。

また,信仰をもたない原告らについても,事情は本質において変わらない。信仰をもつ原告においては侵害されるものが自己の信仰であるのに対して,信仰をもたない原告らにおいて侵害されるものは,特定の信仰から自由な精神そのものである。

これに対する被告の反論は、以下のとおりである。

「日の丸・君が代は、国旗・国歌法によって日本の国旗・国歌と定められたものであって、それ自体宗教的な意味合いを持つものではない。原告らが主張するように、日の丸・君が代は、「国家神道と結びついた神的・宗数的存在として天皇崇拝のシンボル」ではない。」

 これに対しては、多岐にわたる再反論が可能であるが、重要なものは、次の3点である。
ア 宗教性の有無は、個人の尊厳と緊密に結びついた、前法律的な、あるいは前憲法的な問題である。法によって「特定の事象に関して宗教性はないものとみなす」などと規定して、あるものをないことにはできない。
イ ましてや、国旗国歌法は、「日の丸・君が代」を国旗国歌とすることを定めただけの定義法に過ぎない。論理的にも、「日の丸・君が代」がもつ宗教性を捨象するものではない。
ウ 最重要の問題は、誰を基準として宗教性の有無を判断すべきかという点である。「日の丸・君が代」の宗教的性格の有無や宗教的な意味付けの内容についての判断は,特定の宗教的行為を強制される人権の被侵害者の認識を基準とすべきである。百歩譲っても,被強制者の認識を最大限尊重しなければならない。人権侵害者の側である公権力においてする意味付けは,ことの性質上まったく意味をなさない。また,一般的客観的な基準によるときには,少数者の権利としての人権保障の意味は失われることにならざるを得ない。
 とりわけ留意されるべきは,問題の次元が政教分離原則違反の有無ではなく,個人の基本的人権としての信教の自由そのものの侵害の有無であることである。公権力への禁止規定としての政教分離原則違反の有無の考察においては、宗教的色彩の存否は一般的客観的な判断になじむにせよ,基本的人権そのものである信教の自由侵害の有無を判断するに際しては,人権侵害の被害を被っている本人の認識を判断基準としなければならない。

また、被告は下記のようにも反論する。

「それまで日の丸・君が代が我が国の国旗・国歌であることが慣習法として成立していたという事実的経過があって、議会制民主主義のもと、国民の多数の意思により法律により明文化されたものである。」

しかし、歴史をひもとけば、日本民族の歴史とともに日の丸・君が代があったわけではない。近代に至って、維新権力が急拵えの中央集権国家を建設する中での小道具の一つとして、「日の丸・君が代」が慣習法的に国旗国歌として使用されるようになった。いうまでもなく、明治維新から敗戦に至るまでの日本は、神権天皇制が国民(臣民)の精神の深奥までも支配を試み、しかもそのことに半ば成功した、人権尊重や民主主義とはおよそ無縁の国家であった。

戦後、国家の根本が変わった。しかし、国家を象徴する国旗国歌は変わらなかった。ドイツやイタリアでは、当然のこととして新国家にふさわしい国旗国歌に変えられたが、日本だけは神権天皇制のシンボルであった、「日の丸・君が代」をそのまま受継した。これは奇異な現象であり、これに対する異論があって当然なのである。とりわけ、宗教的信念に基づく、「日の丸・君が代」の国旗国歌化反対の意見は尊重されなければならない。

被告のいう、「議会制民主主義のもと、国民の多数の意思により法律により明文化されたもの」は、その通りである。しかし、国旗国歌法は、国民誰にも、どんな場面においても、国旗国歌に対する敬意の表明を強制することを許容するものではない。

 また、被告は次のようにも言う。

「国旗国歌が国民統合の象徴の役割を持つことから、国旗・国歌を取り巻く政治状況や文化的環境などから、過去において、日の丸・君が代が皇国思想や軍国主義に利用されたことがあったとしても、また、日の丸・君が代が過去の一時期において、皇国思想や軍国主義の精神的支柱として利用されたことなどを理由として、日の丸・君が代に対して嫌悪の感情を抱く者がいたとしても、日本国憲法においては、平和主義、国民主義の理念が掲げられ、天皇は日本国及び日本国民統合の象徴であることが明確に定められているのであるから、日の丸・君が代が国旗・国歌として定められたということは、日の丸・君が代に対して、憲法が掲げる平和主義、国民主義の理念の象徴としての役割が期待されているということである。」

 切れ目のない長い一文だが、論理の骨格は、「日の丸・君が代に対して嫌悪の感情を抱く者がいたとしても、…日の丸・君が代に対して、憲法が掲げる平和主義、国民主義の理念の象徴としての役割が期待されている」というものである。率直に言って文意不明である。また、この一文が憲法20条の解釈とどう関わっているのかも、理解し難い。まさかとは思うが、万能な国会は国民の信仰の自由を奪うことができるとの暴論に聞こえる。
 見逃すことができないことは、「日の丸・君が代が過去の一時期において、皇国思想や軍国主義の精神的支柱として利用された」という一節。正確に歴史的事実を踏まえれば、「日の丸・君が代は、皇国思想や軍国主義の精神的支柱として創られ、その創出の時期から国民にこの上ない惨禍を強いた敗戦に至るまで、徹頭徹尾国民の精神的支配の道具として活用され、さらに、今なお戦前回帰派の運動のシンボルとして利用されている」というべきである。
 はからずも、被告都教委の「日の丸・君が代」に問題はあるにせよ、それは、過去の一時期のことに過ぎないという浅薄な認識が明瞭になった。この認識が、軽々に「10・23通達」を発し、本件各職務命令と懲戒処分とを濫発している基礎となっている。

1936年ベルリン大会の孫基禎と、TOKYO2020の張家朗(エドガー・チョン)を巡る事件 ー 歪んだ大国主義を映し出すオリンピック

(2021年8月1日)
 8月である。平和を語るべき季だが、今年はコロナ禍と五輪禍の重なった特別の8月。猛暑も一入身に沁みる。

 五輪禍とは、コロナ蔓延阻止に怠惰で、コロナ蔓延に手を貸している政権の姿勢を意味するだけではない。もっと積極的な諸悪、商業主義・国家主義・政権の便乗主義をいう。開催国日本の「五輪禍」は顕著だが、香港にも特別な形での「五輪禍」が及んでいる。

 香港の人々がテレビに映った表彰式の中国国歌にブーイングをした。これを煽ったとして一人の男性が逮捕された。このイヤなニュースに胸がふたぐ。戦前の皇国日本と、中国共産党が支配する現代中国と、どうしてこうまで似ているのだろうか。「神聖な君のため国のため」の滅私奉公と、「無謬の党が指導する偉大な中華民族のため」という精神構造が酷似しているのだ。もちろん、自然にこうなるはずはない。両者とも、念の入った教育プログラムの成果である。

 1936年のベルリン五輪のマラソンでは、朝鮮人孫基禎は日本選手としての出場登録を余儀なくされ、金メダルを獲得した。当然のことながら、孫の勝利は朝鮮民族の栄光だった。地元の「東亜日報」が表彰台に立つ孫の写真を加工しユニホームの日の丸を消して掲載したことが事件となった。記者の逮捕や新聞の発行停止の弾圧に発展した。孫自身が、民族意識が強く世界最高記録樹立時の表彰式でも「なぜ君が代が自分にとっての国歌なのか」と涙ぐんだという。天皇制日本、甘くはなかったのだ。

 時は下って、2021年香港。一昨日(7月30日)、香港当局は、ショッピングモールで東京オリンピック(五輪)の表彰式を見ていた際に中国国歌にブーイングしたとして、警察が40歳の男性を逮捕したことを発表した。天皇制日本と同様、中国も甘くはないのだ。

 この男性は、26日にショッピングモールで大勢で表彰式のライブ配信を見ていた際、中国国歌を「侮辱」した疑いが持たれているという。映像には、フェンシングの張家朗(エドガー・チョン)選手が香港で25年ぶりの金メダルを獲得した様子が映っていた。中国国歌が流れた際に「私たちは香港だ」などと抗議の大合唱が巻きおこったという。「私たちは香港だ」という大合唱は、「私たちは共産党が指導する中国(国民)ではない」という含意であったろう。逮捕されたのは、このブーイングを煽ったとされる男性。

 警察の側から見れば、ジャーナリストを名乗るこの男性は、中国国歌「義勇軍行進曲」を「侮辱」したということになる。昨年6月施行の国歌条例に違反した疑いで逮捕された。同条例に違反の逮捕第1号で、有罪となれば法定刑の最高刑は禁錮3年だという。

 あらためて思う。これこそ、「五輪禍」であろう。オリンピックの競技が、ナショナリズムを煽る舞台となつている。これは不正常な事態なのだ。国家代表ではなく、個人・個々のチーム単位の競技にあらためるべきであり、表彰式での国旗形容も国歌演奏はやめようではないか。

東京「君が代」裁判・第5次訴訟始まる ー 何が争われているのか

(2021年7月29日)
 本日、東京「君が代」裁判・第5次訴訟の第1回口頭弁論があった。

 石原慎太郎都政時代に発出された、悪名高い「10・23通達」以来18年余にもなる。以来今日までこの通達にもとづいて、都立学校の入学式、卒業式では、全教職員に対して、「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱せよ」という、文書による職務命令が発せられる。これに違反すれば懲戒処分が科せられる。

 職場の労働組合は闘わない。「国旗・国歌」ないし「日の丸・君が代」に敬意を表することはできないとする教員たちが、組合の援助なく「予防訴訟」を起こした。処分される前に「起立斉唱の義務のないことの確認」「不起立での処分の差し止め」を求める訴えである。次いで、処分の取消を求めての東京「君が代」裁判が、第1次~第4次訴訟まで取り組まれ、いま第5次訴訟が始まったのだ。

 この間、被告東京都(教育委員会)は、判決の積み重ねによって当初の弾圧プログラムの後退を余儀なくされている。しかし、原告側は当然あってしかるべき最高裁レベルでの違憲判決を得ていない。つまり完勝には至っていない。本来あってはならない教職員の処分の不利益は払拭し得ていない。大いに不満である。

 第5次訴訟の原告は15名。争われる処分件数は26件。そのうち、再処分(減給以上の処分が確定判決で取り消された後に、前処分と同じ不起立を理由としてあらためて戒告処分としたもの)が16件である。
 
 第5次訴訟の係属部は、民事第36部。かつて予防訴訟1審を担当し、2006年9月21日402名の原告が完全勝訴の判決を得た難波英雄裁判長が在籍していた部である。なんとなく幸先よい感じ。

 http://article9.jp/wordpress/?p=9213

 本日の法廷では、原告2人と代理人1人(平松慎二郎・弁護団事務局長)が、計30分弱の意見陳述を行った。その真摯さは、裁判官諸氏の胸に響いたと思う。

 この事件の訴状はほぼ200ページ。その冒頭に、「本件訴訟の意義と概要」という下記の款がある。どのような訴訟か、何が争われているのか、これでお分かりいただけると思う。

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1 本件は毀損された「個人の尊厳」の回復を求める訴えである
(1) 精神的自由の否定が個人の尊厳を毀損している
 本件は原告らに科せられた懲戒処分の取消を求める訴えであるところ,本件各懲戒処分の特質は,各原告の思想・良心・信仰の発露を制裁対象としていることにある。原告らに対する公権力の行使は,原告らの精神的自由を根底的に侵害し,そのこと故に原告らの「個人の尊厳」を毀損している。
 原告らは,いずれも,公権力によって国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する敬意表明を強制され,その強制に服しなかったとして懲戒処分という制裁を受けた。しかし,原告らは,日本国憲法下の主権者の一人として,その精神の中核に,「国旗・国歌」ないしは「日の丸・君が代」に対して敬意を表することはできない,あるいは,敬意を表してはならないという確固たる信念を有している。
 国旗・国歌(日の丸・君が代)をめぐっての原告らの国家観,歴史観,憲法観,人権観,宗教観等々は,各原告個人の精神の中核を形成しており,国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する敬意表明の強制は,原告らの精神の中核をなす信念に抵触するものとして受け容れがたい。職務命令と,懲戒処分という制裁をもっての強制は,原告らの「個人の尊厳」を毀損するものである。
(2) 国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の意味
 国旗・国歌が,国家の象徴である以上,原告らに対する国旗・国歌への敬意表明の強制は,国家と個人とを直接対峙させて,その憲法価値を衡量する場の設定とならざるを得ない。
 国家の象徴と意味付けられた旗と歌とは,被強制者の前には国家として立ち現れる。原告らはいずれも,個人の人権が,価値序列において国家に劣後してはならないとの信念を有しており,国旗・国歌への敬意表明の強制には従うことができない。
 また,国旗・国歌とされている「日の丸・君が代」は,歴史的な旧体制の象徴である以上,原告らに対する「日の丸・君が代」への敬意表明の強制は,戦前の軍国主義,侵略主義,専制支配,人権否定,思想統制,宗教統制への,容認や妥協を求める側面を否定し得ない。
 「日の丸・君が代」は,原告らの前には,日本国憲法が否定した反価値として立ち現れる。原告らはいずれも,日本国憲法の理念をこよなく大切と考える信念に照らして,日の丸・君が代への敬意表明の強制には従うことができない。
 国旗・国歌(日の丸・君が代)に敬意を表明することはできないという,原告らの思想・良心・信仰にもとづく信念と,その発露たる儀式での不起立・不斉唱の行為とは真摯性を介して分かちがたく結びついており,公権力による起立・斉唱の強制も,その強制手段としての懲戒権の行使も原告らの思想・良心・信仰を非情に鞭打ち,その個人の尊厳を毀損するものである。司法が,このような個人の内面への鞭打ちを容認し,これに手を貸すようなことがあってはならない。
(3) 教育者の良心を鞭打ってはならない
 また,本件は教育という営みの本質を問う訴訟でもある。
 原告らは,次代の主権者を育成する教育者としての良心に基づいて,真摯に教育に携わっている。その教育者が教え子に対して自らの思想や良心を語ることなくして,教育という営みは成立し得ない。また,教育者が語る思想や良心を身をもって実践しない限り教育の成果は期待しがたい。『面従腹背』こそが教育者の最も忌むべき背徳である。本件において各原告が,「国旗不起立・国歌不斉唱」というかたちで,その身をもって語った思想・良心は,教員としての矜持において譲ることのできない,「やむにやまれぬ」思想・良心の発露なのである。これを,不行跡や怠慢に基づく懲戒事例と同列に扱うことはけっして許されない。
 国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制によって,教育現場の教員としての良心を鞭打ち,その良心の放棄を強制するようなことがあってはならない。
(4) 原告らに,踏み絵を迫ってはならない
 原告らは,公権力の制裁を覚悟して不起立を貫き内なる良心に従うべきか,あるいは心ならずも保身のために良心を捨て去る痛みを甘受するか,その二律背反の苦汁の選択を迫られることとなった。原告らの人格の尊厳は,この苦汁の選択を迫られる中で傷つけられている。
 原告らの苦悩は,江戸時代初期に幕府の官僚が発明した踏み絵を余儀なくされたキリスト教徒の苦悩と同質のものである。今の世に踏み絵を正当化する理由はあり得ない。キリスト教徒が少数だから,権力の権威を認めず危険だから,という正当化理由は成り立たない。
 思想・良心・信仰の自由の保障とは,まさしく踏み絵を禁止すること,原告らの陥ったジレンマに人を陥れてはならないということにほかならない。個人の尊厳を賭けて,自ら信ずるところにしたがう真摯な選択は許容されなければならない。
 以上のとおり,本件は毀損された原告らの「個人の尊厳」の回復を求める訴えである。その切実な声に,耳を傾けていただきたい。

2 本件は公権力行使の限界を問う訴えである
 憲法訴訟における違憲論は,大別して,原告の憲法上の基本権の侵害を理由とする主張と,公権力に対する憲法上の制限規定違反主張の2方法がある。本件訴えにおいては,前者を違憲論の「主観的アプローチ」とし,後者を「客観的アプローチ」と呼称する。
 この理解は,憲法の全体系を人権保障部門と,人権保障に奉仕すべき統治機構部門とに二分する通説的理解に基づく。原告らが,公権力の行使によって憲法が至高の価値とする人権を侵害されたという構成の違憲主張が主観的アプローチであり,権力機構の一機関がその権限を踰越して無効な権力行使をしたとする違憲主張の構成が客観的アプローチである。
 本件では,憲法19条・20条・23条を根拠に主観的アプローチの違憲論を展開するのみならず,客観的アプローチの違憲主張も展開する。
 その主たるものは,公権力は国民に向かって「国家に敬意を表明せよ」と命令する権限はないということである。「そもそも国政は,国民の厳粛な信託によるものであつて,その権威は国民に由来」するのは自明の事理である。主権者国民から権限を授与された公権力には,自ずから限界がある。国民から授権された公権力が,権力の淵源である主権者国民に対して,公権力の集約点である国家に対して敬意表明を強制することはできない。論理的にパラドックスと言わざるを得ない。
 主権者から権限を授与された公権力も,国民に対する国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制は,授与された権限を踰越するものとしてなしえない。
 また,公権力が教育行政としてなしうるものは教育条件の整備であって,教育への不当な支配は禁じられている。教育現場での国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制は,判例法が積み重ねてきた教育に対する不当な支配にほかならない。
 本件は,客観的アプローチにおいて,公権力行使の限界を問う訴えでもある。

3 本件は既に決着のついた問題ではない
 詳細は後述するが,本件は東京都教育委員会が発出した「10・23通達」に基づく,東京都内公立学校での卒業式等の儀式的行事における「国歌斉唱」時の起立斉唱を強制する職務命令違反を理由とする懲戒処分の取消を求める訴えである。同種訴訟の提訴はこれまでもいくつもあり,最高裁判決に至っている事案もある。
 しかし,本件の最高裁判決は,けっして判例として確立したものとはなっていない。何よりも,国旗・国歌(日の丸・君が代)強制に関する最高裁判決の説得力不足が覆いがたいからである。この点において,アメリカ合衆国連邦最高裁判所が1943年に,公権力による国旗に対する忠誠の強制を違憲としたバーネット判決とは対照をなしている。
 本訴状の構成は,違憲違法論を,まず客観的アプローチから論じて,次いで主観的アプローチに至っている。これまでの同種事案に対する判決例は,客観的アプローチには見るべき判断をしていない。また,これまでの最高裁判例が積み上げてきた教育の本質論や教育への公権力不介入の原則についての判断も欠けている。
 さらには,近時の最高裁判決が関心を持ち始めている,国際的な条約や国際機関の日本への勧告等を論拠とする主張についてもこれまでの同種事案についての判決は無視を続けている。本件では,これらの諸点について十分な主張と挙証を尽くすことになる。とりわけ後述の最近ユネスコとILOの合同委員会であるCEARTが日本政府に対して国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制を是正するよう発出した勧告を援用しての主張は初めてのものである。
 貴裁判所には,十分に耳を傾けていただきたい。

4 人権保障の国際水準は,国旗・国歌の強制を認めない
(1) 2019年,国際機関から,国歌起立斉唱の強制の是正を求める勧告が出された。
 ILO(国際労働機関)とUNESCO(国際連合教育科学文化機関)は,式典の国歌斉唱時に,職務命令に従って起立斉唱できない教員に懲戒処分を課している日本の現状について是正を求める勧告(以下「CEART勧告」という。)を採択して,公表した。
 CEART勧告は,CEART(ILO/UNESCO教職員勧告適用合同専門家委員会)が,2018年に採択した勧告であるが,翌2019年に,ILOとUNESCOで,それぞれ正式に承認され,公表されるに至ったものである。
 日本における卒業式等における起立斉唱の強制について,国際機関から,是正を求める具体的な勧告が採択されたのは初めてのことである。
(2) CEART勧告は,起立斉唱の強制が,個人の価値観や意見を侵害するおそれがあることを指摘するが,そのことだけで是正勧告を行ったものではない。
 勧告は,式典において,教員には,職務を誠実に遂行する義務があるとし,また,式典において国歌斉唱を行うことが,教育的意義を有する可能性をも指摘する。
 しかし,強制をすることについては,一線を画す。
 CEART勧告は,愛国的な行為が肯定的なものになるのは,それが自発的に行われた場合であることを指摘し,強制は民主主義とは相容れないことを指摘する。
 そして,職務中の教員の義務や,国歌起立斉唱の教育的意義を踏まえても,起立斉唱命令を静かに拒否する「不服従の行為」が,市民的権利として認められることを明らかにした。その上で,日本政府に対し,「不服従の行為」に対する懲戒処分を避けるために,教員団体と対話することなどを求めたのである。
(3) 今回採択されたCEART勧告から,以下のことが導き出せる。
 「人権保障の国際水準,もしくは国際社会が考える民主主義社会のあるべき姿からすれば,職務中の教員が,式典で国歌の起立斉唱を命ずる職務命令を発出されても、それを静かに拒否することは,市民的権利として保障され,その『不服従の行為』に対して懲戒処分を課すことは許されない。」
 本件では,この事実を踏まえ,判断がなされなければならない。

5 貴裁判所の責務
 いうまでもなく,憲法の命じるところに従って行政の非違を糺し,憲法の理念を実現することこそが,司法本来の役割である。司法が公権力の違法な行使を看過し追認することで,結果として人権の侵害に手を貸すようなことがあってはならない。
 原告らは,その司法本来の役割に期待して,毀損された「人間としての尊厳」を回復すべく,本件提訴に及んでいる。この切実な原告らの願いに真摯に向きあった,貴裁判所の審理と判決を望むものである。

国旗・国歌の強制とは、リンゴ箱の中の籾殻が大切なリンゴを傷付けている図である

(2021年4月2日)
 憲法の全体像をどうイメージし、どんな形のものとして把握し説明するか。それは、憲法の理念をどう捉えるか、各理念の関係をどう捉えるか、つまりは体系としてどう理解するかに関わる。

 憲法の全体像をタマゴの形としてイメージすることの有用性について、当ブログに記事にしたことがある。今読み返してみると、それなりに面白い。

 http://article9.jp/wordpress/?p=13765
 憲法の構造として「卵黄と卵白」をイメージしよう。(2019年11月15日)

 この記事は、「(象徴)天皇制」をどう憲法の体系に位置づけるかを意識したものだが、天皇制を論じることは憲法の隅っこの課題でしかない。むしろ、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制問題に関連付けて「憲法の形」を再論してみたい。これは、憲法体系の最重要課題を語ることに通じる。

 憲法の基本構造を「3本の柱」で説明したのが、文部省が中学校1年生用社会科の教科書として発行した「新しい憲法のはなし」。この教科書では、「いちばん大事な考えが三っつあります」として、「民主主義」と「国際平和主義」と「主権在民主義」を挙げている。

 この憲法体系イメージのミソは、「天皇」という柱を取っ払ったことである。「主権在民」という柱は、天皇主権を否定してそびえている。「民主主義」も「国際平和主義」も、大日本帝国憲法の理念のアンチテーゼとして確立されたもの。当時の「新しい憲法」の解説としては、優れものだったろう。

 しかし、この3本柱イメージは、「人権」が欠落している点で、大きな違和感を禁じえない。近代立憲主義の視点からの整理がなされているともいいがたく、そもそも体系性に欠けるのだ。

 私の世代は、「国民主権」・「恒久平和」・「基本的人権」の3本の原理を柱として、憲法体系が成り立っているという憲法構造の把握に馴染んできた。この3本柱の構造も、天皇制の旧憲法とは異なる「新憲法の特徴」を取りあげて「重要な柱」として列記したもの。もちろん間違いではないが、各柱それぞれの位置づけや関係性には無頓着で、これも体系的なものとは言いがたい。

 私は、憲法の全体系をタマゴの形と把握したい。もう少し正確に言えば、卵の内側の構造。黄身(卵黄)と白身(卵白)の関係のイメージである。大切な黄身(卵黄)を壊さぬように、白身(卵白)が優しく包んで支えているという構造。もちろん、黄身(卵黄)が人権である。その中核に「個人の尊厳」が位置している。白身(卵白)が統治機構である。黄身(卵黄)を支え、黄身(卵黄)を保護するものとしての役割を担っている。

 本来的な憲法価値は黄身(卵黄)にある。しかし、白身(卵白)がなければ、黄身(卵黄)は保護されない。だから、白身(卵白)も黄身(卵黄)を守るためのものとして、その限りで価値を認められる。が、それ以上の価値があるわけではない。

 黄身(卵黄)は繊細で傷つきやすい。ともすると、黄身(卵黄)を守るべき白身(卵白)によって傷つけられる。白身(卵白)が肥大し、あるいは硬直化して黄身(卵黄)を押し潰す危険が大きいのだ。そこで、白身(卵白)は、黄身(卵黄)を傷つけることのないように自制しなければならず、そのためのいくつものサブシステムをもっている。それが、三権分立であり、民主主義であり、戦力の不保持であり、検閲の禁止であり、学問の自由であり、政教分離であり、教育への不当な支配の禁止であり、司法の独立であり、平和主義であり、租税法定主義…等々である。

 この至高の価値としての人権とこれを支える統治機構の関係の比喩は、卵黄と卵白でなくてもよい。ウニと棘皮でも、貝の身と貝殻でも、カンガルーの赤ちゃんと母親の袋でも、ひなと鳥の巣でも、小銭と財布でも、果実のタネと果肉でも、あるいは電力と送電線でも、コンテンツと通信手段でも、なんでもよいのだ。が、大切に黄身(卵黄)を抱く白身(卵白)のイメージがふさわしいように思われる。

 国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制に関する問題を意識して、もう一つ「リンゴ箱・憲法」論を提案したい。かつて、リンゴは木製の木箱で運搬された。木箱には、リンゴを保護するための籾殻が詰められていた。このリンゴと籾殻をイメージしていただきたい。リンゴが人権である。その芯として、個人の尊厳がある。これを傷付けてはならないとして、統治機構としての籾殻がリンゴを支えているのだ。

 統治機構の総体が国家にほかならない。国家は、個人の尊厳を擁護するための籾殻として重要な存在ではあるが、それ以上のものではない。国旗・国歌(日の丸・君が代)とは、国家の象徴である。「国旗(日の丸)に向かって正対し、国歌(君が代)を斉唱せよ」と命じるのは、籾殻がその分を弁えずにリンゴに向かって、「汝リンゴよ、籾殻たる我に敬意を表明せよ」と言っている滑稽な構図なのだ。そもそも、籾殻の役割はリンゴの保護にある。リンゴにエラそうなことを言う資格はないし、リンゴを傷付けるなどもってのほかなのである。

国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明強制とはいかなる意味をもっているのか

(2021年3月21日)
都教委の悪名高い「10・23通達」(2003年)以来、都内の全公立校に卒業式・入学式のたびに、君が代斉唱時の「起立」の職務命令が発せられている。違反者には懲戒処分である。

もうすぐ懲戒処分取消の第5次訴訟の提起となる。原告は14名となる予定。3月31日と提訴日を決めて、いま訴状の作成準備を重ねている。

その準備の中であらためて思う。憲法を守るしっかりした司法があれば、国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制などはあり得ないものを。嘆かわしきは、憲法に忠実ならざる司法の姿。

その訴状の冒頭の一部(未確定版)を引用しておきたい。裁判所にこの訴訟の概要を説明する一文、新聞ならリードに当たる部分の一部である。

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本件訴訟の概要と意義(抜粋)

☆ 本件は毀損された「個人の尊厳」の回復を求める訴えである
(1) 精神的自由の否定が個人の尊厳を毀損している
本件は原告らに科せられた懲戒処分の取消を求める訴えであるところ、本件各懲戒処分の特質は、各原告の思想・良心・信仰の発露を制裁対象としていることにある。原告らに対する公権力の行使は、原告らの精神的自由を根底的に侵害し、そのこと故に原告らの「個人の尊厳」を毀損している。
原告らは、いずれも、公権力によって国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する敬意表明を強制され、その強制に服しなかったとして懲戒処分という制裁を受けた。しかし、原告らは、日本国憲法下の主権者の一人として、その精神の中核に、「国旗・国歌」ないしは「日の丸・君が代」に対して敬意を表することはできない、あるいは、敬意を表してはならないという確固たる信念を有している。
国旗・国歌(日の丸・君が代)をめぐっての原告らの国家観、歴史観、憲法観、人権観、宗教観等々は、各原告個人の精神の中核を形成しており、国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する敬意表明の強制は、原告らの精神の中核をなす信念に抵触するものとして受け容れがたい。職務命令と、懲戒処分という制裁をもっての強制は、原告らの「個人の尊厳」を毀損するものである。

(2)国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の意味
国旗・国歌が、国家の象徴である以上、原告らに対する国旗・国歌への敬意表明の強制は、国家と個人とを直接対峙させて、その憲法価値を衡量する場の設定とならざるを得ない。
国家象徴と意味付けられた旗と歌とは、被強制者の前には国家として立ち現れる。原告らはいずれも、個人の人権が、価値序列において国家に劣後してはならないとの信念を有しており、国旗・国歌への敬意表明の強制には従うことができない。
また、国旗・国歌とされている「日の丸・君が代」は、歴史的な旧体制の象徴である以上、原告らに対する「日の丸・君が代」への敬意表明の強制は、戦前の軍国主義、侵略主義、専制支配、人権否定、思想統制、宗教統制への、容認や妥協を求める側面を否定し得ない。
「日の丸・君が代」は、原告らの前には、日本国憲法が否定した反価値として立ち現れる。原告らはいずれも、日本国憲法の理念をこよなく大切と考える信念に照らして、日の丸・君が代への敬意表明の強制には従うことができない。
国旗・国歌(日の丸・君が代)に敬意を表明することはできないという、原告らの思想・良心・信仰にもとづく信念と、その発露たる儀式での不起立・不斉唱の行為とは真摯性を介して分かちがたく結びついており、公権力による起立・斉唱の強制も、その強制手段としての懲戒権の行使も各教員の思想・良心・信仰を非情に鞭打ち、その個人の尊厳を毀損するものである。司法が、このような個人の内面への鞭打ちを容認し、これに手を貸すようなことがあってはならない。

(3) 教育者の良心を鞭打ってはならない
また、本件は教育という営みの本質を問う訴訟でもある。
原告らは、次代の主権者を育成する教育者としての良心に基づいて、真摯に教育に携わっている。その教育者が教え子に対して自らの思想や良心を語ることなくして、教育という営みは成立し得ない。また、教育者が語る思想や良心を身をもって実践しない限り教育の成果は期待しがたい。『面従腹背』こそが教育者の最も忌むべき背徳である。本件において各原告が、「国旗不起立・国歌不斉唱」というかたちで、その身をもって語った思想・良心は、教員としての矜持において譲ることのできない、「やむにやまれぬ」思想・良心の発露なのである。これを、不行跡や怠慢に基づく懲戒事例と同列に扱うことはけっして許されない。
国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制によって、教育現場の教員としての良心を鞭打ち、その良心の放棄を強制するようなことがあってはならない。

(4) 原告らに、踏み絵を迫ってはならない
原告らは、公権力の制裁を覚悟して不起立を貫き内なる良心に従うべきか、あるいは心ならずも保身のために良心を捨て去る痛みを甘受するか、その二律背反の苦汁の選択を迫られることとなった。原告らの人格の尊厳は、この苦汁の選択を迫られる中で傷つけられている。
原告らの苦悩は、江戸時代初期に幕府の官僚が発明した踏み絵を余儀なくされたキリスト教徒の苦悩と同質のものである。今の世に踏み絵を正当化する理由はあり得ない。キリスト教徒が少数だから、権力の権威を認めず危険だから、という正当化理由は成り立たない。
思想・良心・信仰の自由の保障とは、まさしく踏み絵を禁止すること、原告らの陥ったジレンマに人を陥れてはならないということにほかならない。個人の尊厳を掛けて、自ら信ずるところにしたがう真摯な選択は許容されなければならない。

以上のとおり、本件は毀損された原告らの「個人の尊厳」の回復を求める訴えである。その切実な声に、耳を傾けていただきたい。

権力者が「愛国」を口にするとき ー 民主主義は危機のさなかにある。

(2021年3月14日)
全人代が終わった。中国当局は、もっぱらコロナを抑え込んだ実績を強調し、引き続いての経済発展の喧伝にこれ努めているが、日本の各紙は香港問題に関心を寄せて報道している。

この全人代が採択した「決定」は、賛成2895票、反対0票、棄権1票であった。恐るべき、中国共産党の中央集権体制である。この国に異論の存在は許されない。ということは民主主義は存在しないのだ。

朝日は、北京からの特派員記事に、「香港の選挙制度改変採択して閉幕 民主派排除へ」と見出しを打っている。リードは、「中国の全国人民代表大会(全人代、国会に相当)は11日、香港の選挙制度改変に関する決定などを採択し閉幕した。「愛国者による香港統治」の名の下、香港民主化の柱だった選挙から民主派が排除されることで「一国二制度」の形骸化は一層深まることになる。」としている。

また、読売の報道は、「香港の選挙制度見直し採択、中国全人代閉幕…李首相「愛国者による香港統治を堅持するため」と題して、「中国の国会にあたる全国人民代表大会(全人代)は11日、香港の選挙制度の見直しなどを採択して閉幕した。習近平シージンピン政権が掲げる「愛国者による香港統治」に基づき、中国共産党・政府に批判的な民主派を香港政界から排除するのが狙いだ。香港に高度な自治を認めた「一国二制度」は空文化する。」と報じている。他紙も大同小異。

新制度では、立法会(議会)選挙など各種選挙の立候補者を「愛国者」かどうかで事前に選別する「資格審査委員会」を新たに設けるという。それだけではなく、大多数が親中派で構成されるとみられる「選挙委員会」に立法会選の立候補者指名の職権を与えるともいう。

一昨年(19年)の香港区議会(地方議会)選挙では民主派が議席の8割超を獲得して圧勝した。これを香港の民意と見るべきが常識的な態度。しかし、中央政府に不都合な民意は認められないのだ。だから「愛国者」排除となる。共産党の指導に従う者だけが「愛国者」と認められて立候補可能となり、共産党の指導に従うことに疑念を持たれれば、「非愛国者」として立候補はできないのだ。我が国敗戦前の「非国民」という言葉を思い出させる。

全人代閉幕直後、李克強首相が記者会見をした。これが、「愛国者による香港統治を堅持する」方針を語っている。以下が、その該当部分。但し、On-lineアプリを使っての翻訳で、日本語の出来は悪い。

われわれは、引き続き「一国二制度」、「香港人による香港管理」、高度な自治方針を全面的かつ正確に貫徹し、憲法と基本法に厳格に基づいて事を運び、特別行政区が国家の安全を守る法律制度と執行メカニズムをしっかりと実行し、特区政府と行政長官が法に基づいて施政することを全力で支持することを明確に提起した。

先ほど、全人代が香港の選挙制度の充実について決定を下したとお聞きになりましたが、決定は非常に明確で、「一国二制度」の制度体系を堅持し、充実させ、終始「愛国者による香港統治」を堅持することであり、「一国二制度」の長期的な安定を確保するためでもあります。

昨年、香港は多くの衝撃を受けましたが、香港各界が手を携えてできるだけ早く疫病の発生状況に打ち勝ち、経済の回復的成長を実現し、民生を改善し、香港の長期的な繁栄と安定を保つことを希望します。中央政府は引き続き全力で支援していきます。

愛国とは、おぞましくも危険な言葉だ。とりわけ、権力者が使う「愛国」は国民欺罔の手段として警戒しなければならない。李克強がいう「愛国」とは、中国共産党の指導に従順であることに過ぎない。「愛国者による香港統治」とは、「中国共産党の指導が貫徹した香港統治」というだけのことであって、民主主義とは縁もゆかりもない。

民主主義の政治過程では、国民が国家を作るのであって、その反対ではない。国民が国を作る手段が選挙であって、《全ての国民が選挙に参加して国を作る》のである。国家が国民に選挙参加の資格を選別することはあり得ない。

だから、「愛国者による香港統治を堅持する」とは、香港の民主主義を根絶やしにするという宣言なのである。《「一国二制度」、「香港人による香港管理」、高度な自治方針を全面的かつ正確に貫徹し、憲法と基本法に厳格に基づいて事を運び》とは、《「一国二制度」は形だけのものにする、「党中央による香港管理」を徹底する、「北京が支配する香港の自治」方針を全面的かつ正確に貫徹し、厳格に中華人民共和国憲法をに基づいて事を運ぶ結果として香港基本法を空文とする》ということなのだ。

ヨハン・ブレークのワクチン接種拒否を考える

(2021年3月2日)
私はスポーツの世界にはほとんど関心がない。ウサイン・ボルトの名くらいは知っていたが、ヨハン・ブレーク(ジャマイカ)は知らなかった。陸上100メートルの世界記録はボルトの9秒58、ブレークの記録はこれに次ぐ歴代2位の9秒59だという。200メートルでも、世界歴代2位の19秒26をマークしており、ボルト引退後の現役選手としては世界の最高峰に位置している。過去2回のオリンピックに出場して、金2・銀2のメダルを獲得しており、もし、今年東京五輪が開催されるようなことになれば、100・200のメダル有力選手だとか。

そのブレークが、「新型コロナウイルスのワクチンを接種するぐらいなら、むしろ東京五輪を欠場した方がまし」とワクチン拒否を宣言して話題を呼んでいる。これは、興味深い。

ジャマイカの地元紙によると、ブレークは3月27日に「固い決意は変わらない。いかなるワクチンも望まない」と述べ、五輪欠場をいとわない意思を表明した。国際オリンピック委員会(IOC)はこれまで、東京五輪参加者へのワクチン接種を強制はしないものの、推奨する姿勢で、選手団に接種させる方針を示している国もある。(時事)

彼のワクチン拒否の理由は報道では分からない。が、これを拒否する信念の固さは、伝わってくる。オリンピック出場を捨てでも、守るべき大事なものがあるということなのだ。

このブレークの信念は、著名な最高裁判決(1996年3月8日最高裁判決)に表れた高専の剣道実技受講拒否事件事件を思い起こさせる。
神戸市立工業高等専門学校に「エホバの証人」を信仰する生徒がおり、信仰上の理由から体育の剣道実技履修を拒否した。校長は、体育科目は必修であるとし、この生徒を2年連続して原級留置処分としたうえ、退学処分とした。

最高裁は、この退職処分を違法とした。その理由は、次のとおりである。
(ア) 剣道実技の履修が高等専門学校において必須のものとまでは言い難く、体育科目による教育目的の達成は、他の体育種目の履修などの代替的方法によってこれを行うことも可能である(代替的方法の存在)が、神戸高専においては原告および保護者からの代替措置を採って欲しいとの要求も拒否したこと、
(イ) 他方、この学生が剣道実技への参加を拒否する理由は、信仰の核心部分と密接に関連する真摯なものであったこと、
(ウ) 学生は、剣道実技の履修拒否の結果として、原級留置、退学という事態に追い込まれたものであり、その不利益は極めて大きく、本件各処分は、原告においてそれらによる重大な不利益を避けるためには宗教上の教義に反する行動を採ることを余儀なくされるという性質を有するものであったこと、
以上の事情からすると、本件各処分は、社会観念上著しく妥当を欠く処分をしたものとして、裁量権の範囲を超える違法なものである。

生徒が、学校がカリキュラムとして定めた剣道の授業を拒否した。校長には「生徒のワガママ」と映った。ワガママは許されないとして、遂には退学処分にまでした。この生徒の授業拒否を奇矯なものとして、処分もやむを得ないと校長側の肩を持つ意見も少なくはないだろう。「剣道の授業って真剣でやるわけじゃなかろう。竹刀を振り回していりゃいいんだから、授業拒否まですることはあるまい」という意見。

しかし最高裁は、生徒の剣道授業拒否を真摯な信仰の発露と認めた。校長に対して、剣道ではない別の体育メニューを受講させるよう配慮すべきだったと判断したのだ。最高裁も、たまには立派な判決を書く。

ブレークのワクチン拒否にも、社会には多様な意見があるだろう。「ワクチン打たないリスクをよく考えろよ」「副反応の確率は決して高くないよ」「そんなに頑なに拒否するほどのことか」「ワクチンは、自分のためだけのものではない。周りの人のためにも打つべきだ」「オリンピック出場を棒に振ってもワクチン拒絶とは理解し得ない」…。

彼のワクチン拒絶が、信仰上の理由によるものであるか否かは分からない。それでも、彼の精神の核心部分と密接に関連する真摯なものであることは、容易に理解しうる。人生をスポーツへの精進に懸けて来たアスリートが、オリンピック出場をあきらめても、ワクチンを拒絶しているのだ。その確信は、信念と言ってもよいし、思想と言ってもよい。仮に、他人の目には奇矯なものと見えても、尊重されなくてはならない。それが、多様性を尊重するということではないか。

もちろん、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制への拒否も同様である。信仰上の信念からでも、歴史観や社会観に起因するものであっても、その姿勢は尊重されるべきで、強制などあってはならない。

「国を愛する心を養うべき日」に、「国を愛する心」の危険を訴える。

(2021年2月11日)
光の春のううらかな日和。ときおり吹く風にも冷たさはない。空は青く、梅が開き、寒桜も目にこころよい。ところが、えっ交番に「日の丸」? 警察署にも消防署にも「日の丸」である。あの、右翼や暴力団とお似合いの、白地に赤い丸の旗。都バスにも「日の丸」の小旗が何とも不粋。さすがに民家に「日の丸」は一本も見なかったが、上野の料亭「伊豆栄・本店」には、この不快なデザインの旗が掲げられていた。

本日は、「建国記念の日」とされている日。祝日法では、「建国をしのび、国を愛する心を養う」べき日という位置づけ。しかし、私には「建国をしのぶ」気持も、「国を愛する心」も持ち合わせていない。愛国心の押し売りはまっぴらご免だし、愛国心を安売りする人物は軽蔑に値すると信じて疑わない。だから、本日を祝うべき日とする気分はさらさらにない。

時折、「浅薄な愛国心」を排撃して、「真の愛国者の言動ではない」などと批判する言説にお目にかかる。が、私は、「真」でも「偽」でも、愛国や愛国心を価値あるものとは認めない。実は、「真の愛国心」「本当の愛国者」ほど厄介なものはないのだ。

もちろん必要悪としての「国家」の存在は容認せざるを得ない。しかし、その国家は愛すべき対象ではなく、厳格に管理すべき警戒の対象と考えなければならない。

組織としての国家ではなく、国家を形成する「国民」もまた、個人にとって愛すべき対象ではない。個人は、常に「国家を形成する集団としての国民」の圧力との対峙を余儀なくされ、ときにはその強大な同調圧力と闘わねばならない。「愛国心とは日本の国民を愛すること」なら、愛国心は、個人の主体性を奪う邪悪なものにほかならない。

愛国心とは我が国の風土や歴史や伝統を愛すること、とも説かれる。そのような心情をもっている人、もちたい人がいることは当然だろう。そのパーセンテージがどうであっても、さしたる問題ではない。問題は、価値的に「愛国」「愛国心」が説かれることだ。

「愛国心」を美徳とするイデオロギーが諸悪の根源である。美徳であるからとして「愛国心強制」を当然とする圧力が、個人の人格の尊厳を侵し、思想・良心の自由を侵害する。このような、愛国心をダシにした強権の発動は、実は他の奸悪な意図をもってのことである。

ところで、周知のとおり、本日2月11日は旧紀元節。天皇制イデオロギーによって、何の根拠もなく初代天皇の就位があったとされた日。日本書紀における〈辛酉年春正月庚辰朔,天皇即帝位於橿原宮〉という記述だけに基づいて、2700年以前もの太古に、天皇の治世が始まり、これが万世一系連綿と続いているという神話の小道具の一つとされた。

強行された事実上の紀元節復活のこの日、つまりは天皇制始まりの日との象徴的な意味をもつこの日が、「建国をしのび」だけでなく、「国を愛する心を養う」とされていることに注目せざるを得ない。つまり、愛国心が、天皇制国家と連動しているのだ。

明治の初めに小川為治『開化問答』という書物が刊行されている。その中に、旧平という名で庶民の立場から、紀元節や「日の丸」についての率直な見解が示されていて、興味深い。

「改暦以来は五節句・盆などという大切なる物日を廃し、天長節・紀元節などというわけもわからぬ日を祝う事でござる。4月8日はお釈迦さまの誕生日、盆の16日は地獄のふたの開く日というは、犬打つ童も知りております。紀元節や天長節の由来は、この旧平のごとき牛鍋を食う老爺というも知りません。かかる世間の人の心にもなき日を祝せんとて、政府より強いて赤丸を売る看板のごとき幟や提灯を出さするは、なおなお聞こえぬ理屈でござる。元来、祝日は世間の人の祝う料簡が寄り合いて祝う日なれば、世間の人の祝う料簡もなき日を強いて祝わしむるは最も無理なる事と心得ます。」(梅田正己・「明治維新の歴史」より)

ここに、「赤丸を売る看板のごとき幟」とあるは、「日の丸」のことである。こんなものの強制は「なおなお聞こえぬ理屈」と、理不尽を述べている。

それだけでなく。「紀元節や天長節」について、「元来、祝日は世間の人の祝う料簡が寄り合いて祝う日なれば、世間の人の祝う料簡もなき日を強いて祝わしむるは最も無理なる事と心得ます」とは、まことに至言である。

「天皇制と関連付けられた愛国心」ほど、恐ろしいものはない。今日「建国記念の日」は、そのことをじっくりと考えるべき日である。

自民党議員には教育勅語ウイルスが根強く感染し続けている。

(2021年1月27日)
昨日のNHK(Web)報道に我が目を疑った。「日本の国旗損壊 刑法改正し処罰規定検討 自民 下村政調会長」というのだ。このコロナ禍の緊急事態に、不要不急極まる右翼の蠢動。もしや、本気で火事場泥棒を狙っているのだろうか。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210126/k10012834121000.html

「日本の国旗を壊したり汚したりした場合の対応として、自民党の下村政務調査会長は、刑法を改正して処罰規定を設けることを検討する考えを示しました。
 自民党の高市・前総務大臣らの議員グループは26日、下村政務調査会長と会談し、刑法には外国の国旗を壊したり汚したりした場合の処罰規定はあるものの、日本の国旗については規定がないとして法改正を訴えました。これに対し下村氏は「必要な法改正だ」と応じ、法改正を検討する考えを示しました。
 このあと高市氏は記者団に対し「日本の名誉を守るのは究極の使命の1つで、外国の国旗損壊と日本の国旗損壊を同等の刑罰でしっかりと対応することが重要だ。改正案を今の国会に提出したい」と述べました。」

いかにも唐突な「国旗損壊罪」創設という刑法改正の提案。誰が見ても不要不急の極みだが、「改正案を今国会に提出したい」とは穏やかでない。読売は、法案の内容にまで踏み込んで、こう報じている。

 「自民党は26日、日本を侮辱する目的で日の丸を傷つけたり汚したりする行為を処罰できる「国旗損壊罪」を新設する刑法改正案を今国会に議員立法で提出する方針を固めた。下村政調会長が、党の保守系有志議員でつくる「保守団結の会」による提出要請を了承した。
 改正案は刑罰として「2年以下の懲役か20万円以下の罰金」を科すとしている。自民党は、野党時代の2012年にも同様の改正案を国会提出し、廃案となっている。」

 閣法としての取り扱いではなく、法制審議会への諮問もない。連立与党間の摺り合わせもないようだ。何よりも、こんな立法を必要とする立法事実は皆無であり、世論の盛り上がりもない。自民党が本気になって、こんな法案成立の意気込みをもっているとは、とうてい考え難い。にもかかわらず、右翼議員パフォーマンスの材料として、「国旗」がもてあそばれているのだ。

はて? 「保守団結の会」? ようやく思い出した。昨年(2020年)6月自民党内右翼が選択的夫婦別姓制度への賛否で割れてスピンオフした、あの最右派集団であったか。何しろ、稲田朋美の右派姿勢の不徹底に失望したと批判して、それよりも右の議員43名が再結集したという報道だった。 昨年暮れに、新たに顧問として、安倍晋三、古屋圭司、高市早苗などという札付き右翼を入会させているという。

この「団結の会」の信条は、何よりも《伝統的家族観》。そして《皇室の尊崇と皇統の護持》だという。《伝統的家族観》と《皇室の尊崇と皇統の護持》、そして《国旗の尊厳》とが彼らの頭の中では直結している。かつての教育勅語ウィルスが絶滅を免れて、こういう宿主の脳髄中に生存を続け、この三者を強固に結びつけているのだ。このウイルスの発現症状は、発熱でも咳嗽でもない。思考能力が侵され、「忠君愛国」「富国強兵」「万世一系」「民族差別」「皇国弥栄」等々の根拠のない空っぽのスローガンのマインドコントロール下に制圧されることになる。

端的に言えば《伝統的家族観》とは【男尊女卑】【家父長制】と同義である。《皇室の尊崇と皇統の護持》とは【人間の差別の肯定と固定化】を意味する。こういう人間観・社会観をもったグループが、男尊女卑と差別を基調とする国家の象徴としての国旗を大事としてもてあそんでいるのだ。

このグループの「筆頭発起人」を名乗っているのが高鳥修一(新潟6区)。稲田朋美同様安倍晋三側近と言われた議員。彼はこう発言している。

「日本では、国家を侮辱する目的で他国の国旗を損壊すると罪になりますが、自国の国旗を踏みにじることは自由となっています。」「自国の国旗を侮辱することに対して各国で禁止する規定があるのは自然なことだと思いますが、日本ではそれも表現の自由という意見があり、他国の国旗は尊重しても自国の国旗は踏みにじって構わないことになっています。」

「いかにもアンバランスな状況を是正する為に、…今国会に法案を提出することになりました。既に平成24(2012)年に一度党内手続きを終え国会に提出されているので、下村政調会長からは、自民党として了解した(再度の党内手続きは不要)。委員長提案は難しくても各党に説明するようにとの指示がありました。早速、関係者に説明にかかっています。」

何という安直さ。何という軽薄さ。こんなに軽々しく刑法をいじられてはたまらない。しかも、ことは国民の人権と国家の権力との関係の根本に関わる。我が国の憲法体系の根幹にも関わる議論が必要な問題なのだ。

自民党は、2012年発表の改憲草案で、「第3条(国旗及び国歌)」の条文を作ろうとしている。
第1項 国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。
第2項 日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない。

この国旗国歌尊重義務こそが、旧大日本帝国で猖獗を極めた教育勅語ウィルスの所産にほかならない。後遺障害というよりは、今の世の変異株というべきであろう。

なお、現行憲法の外国国章損壊罪は次のとおりの条文で、その保護法益は「我が国(日本)の円滑な外交作用」と考えられる。当該国旗が象徴する国家の尊厳というものではない。

第92条 第1項 外国に対して侮辱を加える目的で、その国の国旗その他の国章を損壊し、除去し、又は汚損した者は、2年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処する。
同2項 前項の罪は、外国政府の請求がなければ公訴を提起することができない。

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