澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

どう考えても、「国旗・国歌(日の丸・君が代)」強制は違憲だ

東京「君が代」裁判(第4次訴訟)の控訴理由書提出期限が12月18日とされて、俄然忙しくなっている。

課題として獲得すべき判決は二つ。「日の丸・君が代」強制が違憲であることの判決。あるいは、停職・減給だけでなく戒告も裁量権濫用に当たるとして処分を取消す判決。いずれもけっして低いハードルではないが、原告団も弁護団も元気だ。

違憲論の組み立ても幾つか試みられているが、「国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する敬意表明の強制は、憲法19条が保障した思想・良心の自由を侵害する」という構成が本命だと思う。どうして、司法はこのシンプルな常識的論理を認めようとしないのだろうか。

私たちの主張は、どんな内容の思想もどんな良心も、19条の効果として国家の権力作用を拒否できると考えているわけではない。国民個人に対する国家の権力発動を「思想良心を侵害するものとして拒否できる」のは、個人の人格の中核にあって、その尊厳を支えている思想や良心を侵害する場合に限定されるものではあろう。

歴史的には、近世のキリシタン弾圧や近代の天皇崇拝の強制、あるいは特高警察による思想弾圧の対象となった信仰や思想。今の世では、まさしく、「日の丸・君が代」強制を拒否する思想こそが、個人の人格の中核にある思想として国家権力の発動による侵害から守られなければならない。

いうまでもなく、憲法とは権力を統制する手段である。国家と国民個人の関係を規律して、権力の恣意的発動から個人の人権を擁護するためにある。したがって、憲法が最も関心を寄せる課題は、国家権力と国民個人の関係である。

国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する起立斉唱の命令とは、国旗・国歌が象徴する国家と個人が対峙する局面において、権力の発動によって個人に国家の優越を認めるよう強制するということなのだ。憲法の最大関心テーマであって、これを措いて思想良心侵害の場面を想定しがたい。

この強制を合憲だという最高裁の論理はかなり複雑である。シンプルには、合憲と言えないことを物語っている。
最高裁判決の論理は以下のとおり
(1) 「日の丸・君が代」への敬意表明という外部行為の強制は、個人の思想・良心を直接侵害するするものではない。
(2) しかし、間接的な制約となる面があることは否定し得ない。
(3) その制約態様が間接的なものに過ぎないから、合理性・必要性があれば間接制約は許容される。
(4) 合理性・必要性を認めるキーワードとして、国旗・国歌(日の丸・君が代)に起立して斉唱するのは、「儀式的行事における慣例上の儀礼的所作」に過ぎないことが強調されている。

ここで、「儀式的行事における慣例上の儀礼的所作」は、「起立や斉唱という身体的(外部的)行為」と「思想良心(内心)」との不可分一体性を否定するために使われている。しかし、果たして本当にそう言えるのだろうか。

「儀式」も「儀礼」も宗教で重んじられる。信仰という精神の内奥にあるものの表出としての「儀式」「儀礼」という身体的外部行為は、内心の信仰そのものと切り離すことができない不可分一体のものではないか。

いかなる宗教も、その宗教特有の儀式においてそれぞれの宗教儀礼を行う。信仰を同じくする多数人が、同一の場に集合して、同じ行動をし、同じ聖なる歌を唱う。声を合わせて信じる神を称える。そのことによって、お互いに信仰を確認し、信仰を深め合う。そのように意味づけられた行為である「儀式」「儀礼」は宗教に欠かせない本質的な要素である。

しかも、そのことは、実は宗教儀式と非宗教的な儀式において、本質的差異はないのではないか。ナチの演出による聖火行事。あるいは、国家主義的な演出としてのマスゲームなど。最高裁がいう「儀式的行事における慣例上の儀礼的所作」が思想や信仰と無縁であるということではない。

戦前の国家神道の時代。臣民に神道的な儀式や儀礼が強制された。身体的な動作の強制を以て、望ましい臣民の精神形成がはかられたのだ。その伝統はなくなったのか。まさしく国旗・国歌(日の丸・君が代)への起立・斉唱の強制として、今も生きているというべきだろう。

かつてはご真影と教育勅語を中心とした学校儀式が、今は国旗・国歌(日の丸・君が代)に置き換えられている。天皇を「玉」と呼んで、その権威利用を試みた明治政府は、国家神道を発明して、国民精神を統一する道具に使って成功を見た。

戦後の保守政権も、便利な国民統合の道具として国旗・国歌(日の丸・君が代)を使い続けているのだ。国民統合とは、部分的には企業の統合であり、各官庁や公的組織の一体感獲得の方法でもある。国旗・国歌(日の丸・君が代)に従順な国民精神の形成はこの国の支配層の要求に合致しているのだ。だから、「10・23通達」は国民世論に大きな反発を受けなかったのだ。

しかし、国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制は、明らかに。国家を個人のうえに置くものとして反憲法的といわざるを得ないし、そのような強制が拒絶する人格に向けられたときには思想良心の侵害となることは明らかではないか。

さて、12月18日までに、裁判所に受けいれられるような文体で、文章にしなければならない。
(2017年11月21日・連日更新第1696回)

学校儀式における「日の丸・君が代」の呪縛

本日(11月8日)の赤旗「学問文化」欄に、有本真紀立教大学教授の「学校儀式」に関する論文が掲載されている。連載企画「統制された文化」の一論稿。タイトルは、「権力を追認させ批判くじく」とつけられている。簡潔に学校儀式の歴史をまとめて述べた後、「集団化徹底の卓越した技術」との小見出しで次のようにまとめられている。

「儀式は、参加者に様式化された身体行為を課し、批判的な思考をくじく方法である。人びとが儀式に参集し、同じ対象に向かって一緒に同じ所作を行い、同じ言葉を発する。それ自体が権力を成立させ、追認させるのだ。さらに、儀式にはタブーが伴い、その徹底が聖性を生み出す。

人びとは、価値観や信念など共有していなくても、儀式でともに行為し、タブーを守ることによって、連帯する集団の一員と化してしまう。『一同礼』『斉唱』と声がかかれば、それに応じないという行為が、その人の人間性や能力、主義主張の現れだとみなされる。日本の学校は、儀式という卓越した集団化、国民統合の技術を駆使してきた。

儀式の時空において、ともに同じ行為をくり返すことで、子どもの身体は『ぼくたち/私たち』の身体へと束ねられた。
祝日大祭日儀式や教育勅語が廃止されて70年余り。しかし、学校は儀式の呪縛から解かれたのだろうか。人間社会から儀式が消滅することはないが、改めて現代の学校儀式を問い直す必要があるだろう。」

まったく同感であり、優れた論稿だと思う。論者の専門は、「歴史社会学」だという。論稿には、戦後の学校儀式の中心に位置している「国旗・国歌」あるいは「日の丸・君が代」への言及がない。しかし、まさしく国旗・国歌(日の丸・君が代)斉唱の強制こそが、問い直されなければならない。
私なりに再構成させてもらえば、次のようなことになろう。
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「日の丸に正対して起立し君が代を斉唱するという儀式的行為は、参加者に様式化された身体行為を課し、批判的な思考をくじく方法として有効であればこそ、全国で採用され、強制されている。人びとが卒業式という学校儀式に参集し、号令のもと一斉に起立して国家の象徴である国旗(「日の丸」)に正対し、威儀を正して一緒に声を揃えて国家の象徴である国歌を唱う。同一の集団に属する者が、同じ所作を行い同じ言葉を発すること、それ自体がその集団に属する者に対する権力を成立させ、あるいは国家主義的権力を追認させるのだ。
さらに、儀式にはタブーが伴う。仰ぎ見ることを強制される国旗(「日の丸」)は、大日本帝国の国旗でもあった。帝国が国是とした侵略戦争の象徴でもある。この旗の真紅は、戦争に倒れた無数の人々の犠牲の血を連想させるが、これを口にしてはならない。国歌(「日の丸」)は天皇への讃歌だ。神の子孫であり、自らも現人神と称したその天皇を讃える聖歌。かつての臣民が天皇を貴しとして唱った歌が、国民主権の今の世にふさわしからぬことは自明なのだが、それを口にしてはならない。そのタブーを共有し徹底することが儀式の聖性を生み出す。

生徒も父母も、校長も教員も、そして来賓も、つまりは学校を取り巻く社会が、一人ひとりは価値観や信念など共有していなくても、卒業式で、起立して一緒に君が代を唱うという行動を通じ、国家や天皇や現行社会秩序への抵抗をもたないと宣誓することによって、連帯する集団の一員と化してしまうのだ。『一同起立』『国歌斉唱』と声がかかれば、それに応じないという行為が、その人の人間性や能力、そして、国家や社会に従順ではない主義主張の現れだとみなされる。

世界に冠たる「踏み絵」という内心あぶり出しの技法を編み出した日本の権力者の末裔は、学校という場において、学校儀式という卓越した集団化、国民統合の技術を開発し駆使してきた。その儀式の時空において、ともに同じ行為をくり返すことで、子どもの身体は個性主体性を削ぎ落とされて、『ぼくたち/私たち』の身体へと束ねられた。かつては臣民の一人として。今は従順なる国家権力の僕として。
(2017年11月8日)

「中華人民共和国国歌法」性急な制定と改正の事情

人に「笑え」と強制はできない。人に「怒れ」と強制することもできない。人間の感情は、強制になじまないものなのだから。人に「人を愛するよう」強制はできない。人に「人を尊敬するよう」強制もできない。愛も尊敬も、本来的に強制し得ない。強制による愛は愛ではなく、強制による尊敬もそもそも自己矛盾なのだから。

愛国を強制することなどできるはずもない。強制された愛国など論理的に成り立ち得ない。国旗国歌に対する敬意表明の強制に至っては、強制されたとたんにニセモノの敬意となり、薄汚れた面従腹背とならざるを得ない。

愛国心とは民衆の心から湧き出る性質のもので、他から植えつけられるものではない。国旗国歌に対する敬意とは、民衆の国家との一体感ある限りのもので、強制されるものではありえない。国家による愛国心の鼓吹とは、国家権力が民衆に対して、「我を愛せよ」と命じるグロテスクな押しつけ以外のなにものでもない。

多くの国民が敬意を表するに値しない国家と思うに至ったとき、慌てた国家が、愛国を強要し、国旗国歌に対する敬意表明を強制する。あるいは、国旗国歌に対する侮辱行為を犯罪として禁止する。

思えば、大逆罪、不敬罪、国防保安法、治安維持法などの治安立法によって国民をがんじがらめに縛りつけておかねばならない強権国家とは、実は面従腹背の国民を抱えた脆弱な国家だった。

権力が国民に愛国心を説き、国旗・国歌を尊重せよと義務付けることは、既に権力の敗北である。愛国心を説き、国旗・国歌を尊重せよと義務付ける国家は、論理矛盾を抱えつつもこれを強制せざるを得ない弱点を抱えた国家なのだ。

以上の点を、これまではもっぱら日本やアメリカについて論じてきたが、中国でも事情が同じであることが話題となっている。愛国心涵養の教育政策、国歌の冒涜禁止の法律…。経済発展著しい中国のこの自信のなさはどうしたことか。とりわけ、民主化の水準が高い香港において、問題が大きくなりそうなのだ。

これまで、中国には「国旗法」があって、「国歌法」はなかった。
1949年建国とともに五星紅旗が国旗として指定され、現行の「中華人民共和国国歌法」は1990年6月の制定で全20か条。法の目的を、愛国主義精神の高揚等と明記したうえ、国旗のデザインを五星紅旗と定め、その取り扱いの詳細を規定して、第19条で「公共の場で、故意に国旗を燃やし、毀損し、汚し、踏みつけるなどの侮辱行為に及んだ場合は刑事責任を追及し、情状軽微なときは15日以内の拘留処分を科す」と定めている。

今年の10月1日に、全人代で、これまでなかった全16か条の「国歌法」が成立した。その第15条が、「公共の場で悪意に満ちた替え歌を歌ったり、歌のイメージを傷つけるような演奏をした場合に15日以内の拘留処分を科す」となっている。一見微罪であるが、犯罪であるからには、逮捕も未決勾留も可能となる。背後関係を洗うとした広範な捜索・差押えも可能となる。

この法律制定の必要性は、香港にあったようだ。民主化を求める若者が中心部を占拠した2014年のデモ「雨傘運動」以降、香港では若者が国歌斉唱の際にブーイングをしたり起立を拒否したり、あるいは替え歌を歌ったり、「嘘だ」と叫んだりして問題になるケースが相次いでいたという。香港サッカー協会は2015年、国際サッカー連盟(FIFA)から責任を問われて罰金を科されたとも報じられている。国民が、敬意を表することのできない自国への抗議として、国旗や国歌への敬意表明を拒否するのは普遍的な思想表現手段。未成熟な国家は、これを弾圧しようということになる。

国歌法は中国本土では本年10月1日に施行されたが、香港は「一国二制度」によって高度な自治が保障されている。そのため、香港政府は今後、立法会(議会)に罰則規定などを盛り込んだ関連法案を提出し、成立後に適用される予定とされていた。当然のことながら、民主派からは表現の自由が後退するとの懸念の声が高まっていた。

そのような事態で、全人代常務委員会は、11月4日香港の「憲法」にあたる香港基本法を改正し、中国の国歌に対する侮辱行為を禁止する国歌法を付属文書に盛り込んだ。国営新華社通信が伝えるところである。サッカーの試合前の国歌斉唱などの際に、ブーイングを浴びせる若者らを取り締まる狙いがあるとも報道されている。

国歌法では罰則として15日以内の拘留を定めているが、同委員会は同日、中国の刑法改正案も可決し、国歌侮辱行為への罰則を最高禁錮3年に厳罰化した。

強権国家中国ならではの立法である。人心掌握への自信のなさを表白しているに等しい。国旗国歌を刑罰をもって国民に押しつけ、見せかけの愛国心と、面従腹背の多くの国民をつくり出そうというのだ。
「人民共和国」の名が泣いているではないか。反面、「強権的国家主義」の本質が笑っている。
(2017年11月6日)

東京都教育委員諸君、そして小池百合子知事、原告教員の怒りの声に耳を傾けよ。

「日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱せよ」との強制には従えないという国民はけっして少なくない。強制でなければ起立してもよいが、強制となければ立てないという人もいる。自分は起立するが強制には賛成しがたいとするのが、ごく普通の考え方のようだ。

東京の公立校では、卒業式や入学式において式に参加する教職員には「起立・斉唱」を命じる職務命令が発せられる。それでも従うことができないとする教員が、あとを断たない。

この強制の発端となったのが、悪名高い「10・23通達」である。かつて、都立高は「都立の自由」を誇っていた。その象徴が、日の丸・君が代の強制とは無縁なことだった。自由とは、権力からの束縛を受けないこと。日の丸・君が代は、国家権力の象徴なのだから、日の丸・君が代強制の受容は、自由の放棄にほかならない。

2003年10月23日。右翼石原慎太郎が都知事2期目のこの時期に、トンデモ知事のお友だちが教育委員を乗っ取り、トンデモ教育委員会が日の丸・君が代の強制を始めた。以来、職務命令違反として懲戒処分を受けた教員は延べ480名に上る。そして、知事が交代しても、強制は続けられている。

起立できないとする教員の理由は千差万別であって一括りにはできない。それぞれの歴史観・国家観・戦争観などの思想・信条による場合もあれば、自分の信仰が日の丸・君が代への敬意表明を許さないという方もあり、教育者としての信念から教育に国家主義的統制を持ち込ませてはならないとする方もある。また、外国籍の生徒との触れあいからその生徒の民族的アイデンティティーを尊重しなければならないという立場からの不起立の例も少なくない。

懲戒処分を受けた者の多くが、処分取消の訴訟を提起して争う。今のところ、判決の趨勢は、「処分量定が戒告にとどまる限り、行政裁量の範囲内として違法とは言えない」「しかし、処分対象の教員に具体的な法的不利益が及ぶ減給・停職となれば量定過酷に過ぎて、裁量権の逸脱濫用に当たり違法となる」というもの。つまり、裁判所は減給以上は取り消すが、戒告は取り消さないのだ。

我々は、違憲判断をしない司法を強く批判している。憲法の砦としてのその職責を放棄した情けない裁判所、裁判官なのだから。しかし、その裁判所でさえ、減給・停職処分は違法として取り消していることを重視しなければならない。

東京都教育委員会は、裁判所から「違法だから取り消す」と判決されるような処分をしたことを恥じなければならない。責任を感じなければならない。なによりも違法な処分をして迷惑をかけた教員に真摯な謝罪をしなければならない。

さて、東京「君が代」4次訴訟原告団14名のうち6名が、減給・停職の処分を受けた者。その6名が求めた処分取消請求に対して、9月15日東京地裁判決は、予想されたとおり6名全員の処分取消を認容した。そして、そのうちの5名について、都教委は敗訴を認めて控訴を諦めた。残る1名についてだけ都教委は争いを続けるというが、これで5名の原告については処分取消が確定した。遡って処分はなかったものとなり、給与は再計算されてカットされた分は、年5%の遅延損害金を付して返還されることになる。

その5名が、本日(10月9日)早朝、東京都教育委員会に対して、「謝罪を求める申入書」を配達証明付きの郵便で発送した。その全文を下記に紹介する。怒りがほとばしる謝罪要求となっている。

役立たずの都教委諸君。まずは、この謝罪要求に真摯に耳を傾けたまえ。そして、あなた自身の責任だということを自覚したまえ。この教員たちは、自分の職責から逃げずに、自分の良心をつらぬいた尊敬すべき人々だ。その真剣な謝罪要求を、保身のために無視するのは、卑怯きわまる。恥を知る人間として、ものを考えたまえ。そのためには、最低限、原告らが都教委を訴えた訴訟の判決書きを読みたまえ。もし、判決内容がよく理解しかねるということなら、あなたが依頼した被告側の弁護士に解説を求めたまえ。仮に原告側弁護士の意見や解説を聞きたいということなら、いつでも応じることを約束する。

そのうえで、原告らに謝罪するかしないか、君たちの良心に従った回答をしたまえ。

もう一度委員5人全員の名を挙げておく。あなた方は飽くまで教育行政の主体なのだ。組織に隠れて逃げる無責任を決めこむことができない立場にある。にもかかわらずお飾りに過ぎないと言われることを甘受されるのか。当事者意識ゼロ。職責意識ゼロ。憲法感覚ゼロ。教育に関する見識ゼロ。それでいて、報酬だけは受け取ろうという根性を恥ずかしいとは思わないか。そう言われ続けてよいと思っているのか。
 中井敬三
 遠藤勝裕
 山口 香
 宮崎 緑
 秋山千枝

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2017年10月8日
東京都教育委員会委員長 中井敬三 殿
東京「君が代」4次訴訟原告団

               A
               B
               C
               D
               E
  東京「君が代」第4次訴訟勝訴確定にともなう謝罪を求める申し入れ書

 私たちは、2014年3月17日に東京地方裁判所に提訴してから3年を闘い、9月15日佐々木判決により、減給・停職処分を取り消された原告である。
都教委は敗訴したが、原告らを控訴することができなかった。それにより、A-減給10分の1・1ケ月、B-減給10分の1・6月、C-減給10分の1・1ケ月、D-減給10分の1・6月、E-停職6ヶ月、の各処分取り消しが確定した。
2003年10月23日に発令されたいわゆる「10・23通達」により、卒・入学式で「日の丸・君が代」を強制され、不当な懲戒処分を受けた結果、私たち原告は多大な精神的・肉体的苦痛を味わった。
都教委は、減給・停職処分は「裁量権の逸脱・濫用で違法」であると判断が下ったことを真摯に反省し、原告らに心からの謝罪をせよ。
都教委は、懲戒処分の通知の時には、原告らの自宅まで来たのであるから、原告の自宅へきて謝罪せよ。その上で、返金せよ。

都教委は、君が代1次訴訟以降、不起立行為に対する減給及び停職処分は「違法である」と断罪され続け、最高裁から、処分行政の見直しを諭されてきた。
にもかかわらず、今回処分を取り消された中で1名だけ控訴した。司法をも無視する暴挙である。即刻控訴を取り下げよ。
9月15日判決で処分を取り消され、都教委が控訴を断念せざるを得なかった2名の現職原告に対して、再処分をするな。
以上申し入れる。10月13日までに下記へ回答を求める。
〈連絡先〉東京「君が代」裁判弁護団 事務局

(2017年10月9日)

東京都の教育委員諸君、5人の教員に真摯に謝罪しなさい。

教育行政の主体は、各自治体の教育委員会だ。東京都の場合は、下記の5人が構成する東京都教育委員会。実は、これがまったくのお飾りなのだ。当事者意識ゼロ。職責意識ゼロ。憲法感覚ゼロ。報酬を受けていることを恥ずかしいと思わないのだろうか。
 中井敬三
 遠藤勝裕
 山口 香
 宮崎 緑
 秋山千枝

その諸君に申しあげる。君たちがした間違った懲戒処分が行政訴訟で争われて、処分取消の判決が確定した。君たちが間違った処分で迷惑をかけた教員に対して、真摯に謝罪しなさい。それが最低の社会道徳なのだから。

9月15日に東京地裁民事11部(佐々木宗啓裁判長)で言い渡しがあった東京「君が代」裁判・第4次訴訟判決。その一部が確定し、一部が控訴審に移行した。

地方公務員法上の懲戒処分は、重い方から、《解雇》《停職》《減給》《戒告》の4種がある。今回の原告らは、卒業式や入学式において、国歌斉唱時に起立しなかったことを理由に《停職》《減給》《戒告》の懲戒処分を科せられた教員。14名の原告らが取消を求めた19件の処分の内訳は、以下のとおりである。

《停職6月》       1名  1件
《減給10分の1・6月》 2名  2件
《減給10分の1・1月》 3名  4件
《戒告処分》       9名 12件
計          14名 19件

既報のとおり、判決は減給以上の全処分(6名についての7件)を取り消した。被告都教委は、このうちの1人・2件の減給《10分の1・1月》処分についてだけ判決を不服として控訴したが、その余の5人に対する5件の処分(停職・減給)取消については控訴しなかった。こうして各懲戒処分の取消が確定し、いま、判決確定後の処理が問題となっている。

処分取消の確定判決を得た5人の教員が都教委に求めているものは、なによりもまず真摯な謝罪である。各教育委員は、他人ごとではなく自分の責任問題として受けとめなければならない。間違って過酷な量定の処分をしたことで各教員に大きな精神的負担をかけ、名誉も毀損した、経済的負担も大きい。それだけではない、目に見えない事実上の不利益がいくつもある。このことについて、まずは一言の謝罪があってしかるべきだ。事務処理の協議は謝罪のあとに始まらねばならない。

原告ら教員の抗議を聞き入れずして都教委が強行した各処分が、司法の審査によって取り消され、確定したのだ。東京都も都教委も、このことを恥ずべき重大な汚点と受けとめて、道義的な責任を自覚しなければならない。その自覚のもと、当該の教員らに対して謝罪があってしかるべきではないか。

都教委の処分が、司法によって違法とされたのだ。周知のとおり、司法は行政に大甘である。たいていのことは行政の裁量の範囲内のこととして目をつぶる。その甘い裁判所も、本件については、とても大目に見過ごすことはできないとして、都教委の行為に違法があったと確認されたのだ。

行政が違法すれすれのことをして、司法からの違法の烙印を免れたことをもって安堵しているようでは情けない。戒告処分だって問題なしとはされていないことを肝に銘じるべきなのだ。減給以上の過酷な処分を判決手続によって取り消されたことを恥とし、きちんと反省しなくてはならない。

間違ったことをして人に迷惑をかけたらまずは心から謝らなければならない。これは、社会における最低の道徳ではないか。都教委とは、苟も教育に関わる行政機関である。各教育委員諸君、最低限の道徳の実行に頬被りしようというのか。それは余りに卑怯な態度ではないか。子どもたちに、言い訳できまい。判決確定の効果として、差額賃金分を渋々支払って済ませようというのは、権力の傲慢というほかはない。

一方、原告14名のうち13名が控訴した。高裁・最高裁で、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制ないし処分を違憲とする判決を求め、その決意をかためてのことである。

2003年秋に「10・23通達」が発出されたとき、私は、極右の知事のトンデモ通達だととらえた。いずれこんなトンデモ知事さえ交代すれば、こんなバカげた教育行政は元に戻る、そう思い込んでいた。

しかし、石原退任後も石原教育行政は続いた。石原後継を標榜しない舛添知事時代になっても、「10・23通達」体制に変化はなかった。そして、舛添失脚のあと、またまた石原並みの右翼都知事を迎えてしまった。

都民世論の力で、知事を変え、議会を変えて、教育の本質と憲法理念に理解ある教育委員会とその事務局としての教育行政機構を作ることが王道だが、その道はなかなかに遠い。しばらくは、都政と比べればよりマシな、司法に期待するしかない。

その司法が、行政の行為を違法としたのだ。あらためて、恥を知りたまえ。お飾りの教育委員諸君。
(2017年10月4日)

「日の丸・君が代」強制は違憲ー予防訴訟難波判決から11年

9月21日。あの日の感激と興奮から11年となった。2006年の9月21日。私たちは、東京地裁で、公権力による「日の丸・君が代」強制は憲法19条(思想・良心の自由の保障)に反して違憲無効、との判決を得た。

その主文第1項は、次のとおり。

「原告らが、被告都教委に対し、『入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)』(「以下本件通達」)に基づく校長の職務命令に基づき、上記原告らが勤務する学校の入学式、卒業式等の式典会場において、会場の指定された席で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する義務のないことを確認する」

いわゆる「日の丸君が代強制予防訴訟」での難波孝一裁判長判決である。

原告団・弁護団とも、手の舞い足の踏む所を知らずの歓喜の判決だった。裁判官が行政の判断を違憲とする判決を書くことは駱駝が針の穴を通るほどの難事。その実情を知る者にとって、この日の判決の意義は格別のものという思いが深かった。裁判長には、深甚の敬意を惜しむものではない。

しかし、素直に考えれてみれば、「日の丸・君が代」強制が強制される者の思想良心を侵害することは、理の当然ではないか。公務員だから、教員だから、思想良心の侵害を受忍しなければならないという筋合いはない。国旗・国歌(日の丸・君が代)に服することが教員としての資質の条件ではない。むしろ、国家の意思に従属することのない主権者を育てる任務の教員が、唯々諾々と国旗・国歌(日の丸・君が代)強制に屈してよいものだろうか。

これは、理論の問題であるよりは憲法感覚の問題といってよい。理屈はどうにでもつけられるが、結局は個人の尊厳の尊重を貫くか、それとも公権力が設定した秩序維持を優先するか。私には、秩序派の憲法感覚の鈍麻は唾棄すべきものとしか考えられない。

難波判決は、「10・23通達」関連事件の最初の判決だった。そのトップの判決が優れた裁判官らによる勇気と知性にあふれたものとなった。これこそ、日本国憲法本来の人権原理を顕現するもの。私たちは、この判決がこれから重ねられる「10・23通達」関連判決の先例となるだろうと確信した。

しかし、あれから11年。残念ながら、あのとき思い描いたようにはなっていない。難波判決直後の、いわゆるピアノ伴奏拒否事件(「10・23通達」発出以前の事件)の最高裁判決が、難波判決を否定する判断となった。以来、最高裁判決の少数意見を例外として、違憲判決は姿を消した。私たちは、懲戒権の逸脱濫用論でかろうじて、減給以上の重きに失する処分を取り消して、都教委の横暴に歯止めを掛けているにとどまっている。

しかし、この11年間、判決内容が固定されてきたのではない。最高裁判決の判断枠組みも、下級審の裁量権論も微妙に動いてきている。けっして、「国旗・国歌(日の丸・君が代)強制が合憲」と確定したものとはなっていない。

9月21日、あらためて難波判決を思い起こし、「国旗・国歌(日の丸・君が代)強制は違憲」との判決獲得への努力を決意する日としたい。

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予防訴訟の難波判決を紹介するために、岩波ブックレット「『日の丸・君が代』を強制してはならないー都教委通達違憲判決の意義」を書いた頃が懐かしい。

岩波のホームページに、次の記載がある。
「東京都教育委員会による教職員への『日の丸・君が代』強制を違憲とした東京地裁判決は,いかに書かれたか。弁護団副団長が提訴前から判決までの全過程を踏まえて,とりわけ憲法19条,教育基本法10条との関連で難波判決の意義と特質をどう見るのか,なぜ原告達の訴えが結実したかについて解明した注目の一冊。」

そして、「著者からのメッセージ」がこう書かれている。
「時代を映す訴訟があり判決がある.『日の丸・君が代強制反対・予防訴訟』と『9・21判決』は,まさしくそのようなものである.
 この事件が映す時代相はけっして明るいものではない.日本国憲法と教育基本法への悪意に満ちた勢力が支配している時代.敗戦の悲惨な反省からようやく手にした教育の自由と,思想・良心の自由とが蹂躙されつつある時代.
 歴史上,思想・良心圧殺の象徴として私たちが思い描く事件は,江戸幕府の踏み絵と明治期の内村鑑三・教育勅語拝礼拒否である.暴走する東京都教育行政は,幕府や天皇制政府の役人とまったく同じ発想で,学校行事での日の丸・君が代強制を踏み絵として,教員の良心を奪い,良心を枉げない教員を排除しようとしている.行き着く先は教育の国家統制にほかならない.
 予防訴訟は,自らの思想・良心を堅持し,生徒・子どもらの学ぶ権利を擁護するために立ちあがった教師群によって担われた.必死の思いの原告教師たちと,支援者,弁護団,研究者の総力をあげた活動によって,一審段階ではすばらしい勝利の判決に到達した.
明るい時代ではない.しかし判決は,この時代の希望を映している.

また、私のパソコンのメモリーに、当時の草稿の次の一文が残っている。
◆国家ではなく、生徒こそが主人公。◆
教育をめぐる論議の中心課題は、国家による国家のための教育か、国民による国民のための教育か、に尽きる。国民とは学校現場では、生徒であり子どもである。学校現場の主人公を国家とするのか、生徒にするのか。
生徒の卒業制作の展示を禁止して、壇上正面に国旗を掲揚する。これが、東京都教育行政のイデオロギーをあまりにもみごとに視覚的に表象している。
本件予防訴訟では、原告が教職員に限られているという事情から、すべてを教職員の権利侵害に収斂させなければならない法技術的制約があった。しかし、原告となった教員たちの共通の思いは、教え子のために自分は何ができるか、何をすべきか、ということであった。
生徒の前で、今こそ自分の職責が問われている。原告401人は、そのように自覚した教師集団である。
 教え子よ、国家に身を委ねてはならない。国家に思想を吹き込まれてはならない。自分自身でものを考える姿勢を堅持せよ。批判する力を持て。必要なときには抵抗の姿勢を示さねばならない。
 自分も教師として、悩みながらも、ささやかな抵抗の姿勢を示そう。教え子よ、その姿を見てくれ。主権者として真っ当な国を社会を作る力量を育ててくれ。
これが、401人の自覚した教師集団に通底するメッセージだと思う。
淡々と「教育という営みは、教師と生徒との人格の触れあいを本質とするものですから、生徒に恥ずかしい行動はけっして取ることができません」こういう教育者が集団として存在することに、この国の光明を見る思いがする。
その教師集団を中心として、多くの研究者、弁護士、支援者、世論。そして、これまでの多くの教育訴訟における諸活動の歴史。その総合力の結集によって得られた本判決である。
訴訟はこれから控訴審。さらに多くの支援の力を得て、本判決を守り抜きたいと思う。そのことが、教育本来の姿を学校現場に取り戻すことになるだろう。そのことの意義は、私たちの未来にとって限りなく大きい。「憲法の理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」のだから。

 原告だった人々も、いま闘っている人々も、支援者も、そして私たち弁護団も、初心を思い返すべき日。それが、今日9月21日である。
(2017年9月21日)

判決は 目出度さ・無念 相半ば ― 東京「君が代」裁判(4次訴訟)判決

本日(9月15日)13時10分、東京地裁527号法廷において、東京「君が代」裁判(4次訴訟)の判決が言い渡された。

東京「君が代」裁判は、悪名高き「10・23通達」関連訴訟のメインをなす懲戒処分取消訴訟で、今回の判決は原告14名の教職員が、延べ19件の処分取消を求める行政訴訟。係属部は民事第11部(佐々木宗啓裁判長)で、提訴は2014年3月17日のこと。

地方公務員法上の懲戒処分は、重い方から、《解雇》《停職》《減給》《戒告》の4種がある。今回の原告ら14名が取消を求める処分の内訳は、以下のとおりである。

《停職6月》       1名  1件
《減給10分の1・6月》 2名  2件
《減給10分の1・1月》 3名  4件
《戒告処分》       9名 12件
 計          14名 19件

判決は、減給以上の全処分(6名についての7件)を取り消した。これは目出度いと言わねばならない。
しかし、判決は戒告処分(9名についての12件)については、取り消さなかった。これは無念というほかない。

原告の中で最も注目されていたのがQさん。Qさんが取消を求めた懲戒処分は、以下のとおり5件ある。
   1回目不起立 戒告
   2回目不起立 戒告
   3回目不起立 戒告
   4回目不起立 減給10分1・1月
   5回目不起立 減給10分1・1月
 
公権力による教員に対する、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制が違憲であれば、懲戒の種類・量定を問うことなく、すべての処分が違法として取り消されることになる。Qさんに対する5件の処分もそのすべてが取り消されることになるが、そうはならなかった。

また、必ずしも違憲論に踏み込まずとも、戒告処分を含む全処分を処分権の逸脱濫用として取り消すことは可能であった。これが6年前の1次訴訟控訴審の東京高裁『大橋判決』だ。しかも、これまでの最高裁判決は、「戒告はノミナルな処分に過ぎず、被戒告者に実質的な不利益をもたらすものではない」ことを前提としていた。しかし、実は戒告といえども、過大な経済的不利益、実質的な種々の不利益をともなうようになってきた。とりわけ、最近になって都教委は意識的に不利益を増大させている。しかし、これも本日の判決が採用するにいたらなかった。

だから、戒告処分は維持された。Qさんの戒告3件も取り消されることなく維持された。以上が無念と言わざるを得ない側面。

しかし、Qさんの4回目不起立、5回目不起立に対する、減給10分1・1月の処分はいずれも、重きに失するとして処分裁量の逸脱濫用にあたると判断された。その結果違法として取り消された。これが、目出度い側面。

判決は「争点10」として、「本件職務命令違反を理由として減給または停職の処分を科することの裁量権の逸脱・濫用の有無」を判断している。

まず、一般論としては、次のように述べる。
「減給処分は,処分それ自体の効果として教職員の法的地位に一定の期間における本給の一部の不支給という直接の給与上の不利益が及び,停職処分も,処分それ自体によって教職員の法的地位に一定の期間における職務の停止及び給与の全額の不支給という直接の職務上及び給与上の不利益が及ぶうえ,本件通達を踏まえて卒業式等の式典のたびに懲戒処分が累積していくおそれがあることなどを勘案すると,起立斉唱命令違反に対する懲戒において減給又は停職の処分を選択することが許容されるのは,過去の非違行為による懲戒処分等の処分歴や不起立行為等の前後における態度等(以下,併せて「過去の処分歴等」という。)に鑑み,学校の規律や秩序の保持等の必要性と処分による不利益の内容との権衡の観点から当該処分を選択することの「相当性を基礎付ける具体的な事情」が認められる場合であることを要すると解すべきである。そして,……「相当性を基礎付ける具体的な事情」があるというためには,過去の処分歴に係る非違行為がその内容や頻度等において規律や秩序を害する程度の相応に大きいものであるなど,過去の処分歴等が減給又は停職処分による不利益の内容との権衡を勘案してもなお規律や秩序の保持等の必要性の高さを十分に基礎付けるものであることを要するというべきである(平成24年最高裁判決参照)。」

判決は、以上の一般論をQさんに適用すると次のようになると結論する。

「原告Qが起立斉唱命令を拒否したのは,自らの信条等に基づくものであること,各減給処分の懲戒事由となった本件職務命令違反のあった卒業式等において,原告Qの不起立により,特段の混乱等は生じていないと窺われることをも考慮すると,原告Qの前記職務命令違反について、減給処分(10分の1・1月)を選択することの「相当性を基礎づける具体的な事情」があるとまでは認めがたい。」

つまり、こういうことだ。
減給や停職処分を選択するには、この重い処分を選択するについての「相当性を基礎付ける具体的な事情」が必要であるところ、被懲戒者の行為が、
 (1)自らの信条等に基づくものであること、
 (2)卒業式や入学式等に特段の混乱等は生じていないこと、
という2要件を考慮すれば、「相当性を基礎付ける具体的な事情」は認めがたい、というのだ。

本日の判決は、教員の不起立が「自らの信条等に基づくものであること」を、裁量権の逸脱・濫用判断の積極要件とした点において、一定の評価が可能というべきである。

だから、我々にとっては、残念・無念だけでない、中くらいの目出度さもある判決なのだ。

一方、都教委から見れば、今日の判決の衝撃は大きい。
都教委は、Qさんの4回目・5回目の不起立に敢えて挑発的な減給を選択して、いずれも敗れたのだ。大いに恥じ、大いに反省しなければならない。教育行政を司る機関の行為が、違法として取り消されたことの重大性を深刻にとらえなければならない。

戒告を違法としない最高裁判決も、もけっして戒告処分を結構だとしているわけではない。「当不当の問題はともかく」として、違法とまではいえないと言っているのだ。

都教委は、思想・良心の侵害をやめよ。教育の場に、国家主義のイデオロギーを持ち込むことをやめよ。
(2017年9月15日)

東京「君が代」裁判(4次訴訟)の9月15日判決にご注目を

明後日(9月15日)13時10分、東京地裁527号法廷において、東京「君が代」裁判(4次訴訟)の判決言い渡しがある。その後14時30分からは、日比谷公園内の「日比谷図書文化会館」地下1階大ホールで「判決報告集会」が開かれる。ぜひ、多くの方々にご参加いただきたいと思う。

東京「君が代」裁判は、悪名高き「10・23通達」関連訴訟のメインをなす懲戒処分取消訴訟で、今回の判決は原告14名の教職員が、延べ19件の処分取消を求める行政訴訟。係属部は民事第11部(佐々木宗啓裁判長)で、提訴は2014年3月17日のこと。

原告ら14名が取消を求める処分は、最も軽いものが《戒告》、最も重いものが《停職6月》となっている。
内訳は、
《戒告処分》        9名 12件
《減給10分の1・1月》 3名  4件
《減給10分の1・6月》 2名  2件
《停職6月》        1名  1件
 計           14名 19件
以上の数字が合わないように見えるのは、複数件の処分を争う原告もあり、《戒告処分》と《減給10分の1・1月》の処分を重複して受けている原告も一人いるから。

私たちは、14原告に対する19件の、戒告処分を含む全処分が取り消されなければならないと確信している。それが、日本国憲法の命じるところだからである。

戦前の天皇制国家や、現代なお続く軍国主義や国家主義の国家、あるいは個人崇拝の独裁国家の真似をして、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制など滑稽の極みではないか。

そもそも、首相であろうと文科大臣であろうと、あるいは都知事であろうと都教委であろうと、国民の僕であるはずの公的機関が、教育公務員を含む国民に向かって、「国家に対して敬意を表明せよ」と強制することなどできるわけがないのだ。そんなことの強行は、価値倒錯であり背理だ。

また、憲法19条(思想・良心の自由)、20条(信教の自由)、23条(教員の専門職としての自由)、26条(教育を受ける権利の保障)が保障する原告たちの基本権の侵害は明らかに違憲である。さらに、教育基本法16条(旧法10条)が定める教育に対する公権力の不当な支配としても許されない。

これまで最高裁は頑なに違憲判断を回避してきた。私たちは、もう一歩のところまで肉薄はしてきたが、2006年9月の予防訴訟一審の『難波判決』を除いて、違憲判決を勝ち取ることができていない。

しかし、最高裁判決は変更されなければならない。今回の訴訟においても、多角的に違憲論を展開してきた。裁判所の真摯な姿勢での審理はあった。これに続く真っ当な判断に期待したい。

仮にの話だが、担当裁判所が最高裁判決の「論理」にとらわれて、違憲判決は出せないとした場合でも、全原告の全処分を処分権の逸脱濫用として取り消すことができる。これが6年前の東京高裁1次訴訟控訴審の『大橋判決』だ。しかも、これまでの最高裁判決は、「戒告はノミナルな処分に過ぎず、被戒告者に実質的な不利益をもたらすものではない」ことを前提としていた。しかし、実は戒告といえども、過大な経済的不利益、実質的な種々の不利益をともなうようになってきた。とりわけ、最近になって都教委は意識的に不利益を増大させているのだから。

さらに仮定の話として、担当裁判所が戒告処分の限りでは違憲ではなく、裁量権の逸脱濫用もないと判断したとしても、最高裁判決の論理に従えば、減給以上の過酷な懲戒処分は、すべて裁量権の逸脱濫用として違法となる。《減給》《停職》の処分すべてが取り消されなければならない。

都教委は,「国家へ敬意を表する態度」を取らなかったこと、すなわち国旗に向かって起立し国歌を斉唱しなかったことを理由として、原告ら教職員に、戒告・減給等の懲戒処分を科してきた。このような懲戒処分は毎年、卒業式・入学式のたびに繰り返され、しかも累積すれば処分は加重されることになる。こうして職務命令違反として懲戒処分された教職員は、延べ480名余にのぼる。

これまでの最高裁判決は、国歌斉唱時に起立斉唱を命じることが思想信条の自由に対する間接的な制約であることを認め、起立斉唱命令が直ちに違憲とまではいえなくとも、各原告の有する思想・良心と一定の緊張関係を持つことは否定できず相応の配慮が必要であることまでは認めている。のみならず、教職員の不起立行為は積極的に卒業式等の進行を妨害したとはいえないこと、減給など実害をともなう懲戒処分は教職員に多大な不利益をもたらすものであることから、不起立行為等を理由として原告らに減給以上の懲戒処分を科すことは、社会観念上著しく妥当を欠き重きに失することから懲戒権の範囲を逸脱・濫用したものであるとして、懲戒処分の取り消しを命じている。

その限度で、最高裁判決は積極的な意義をもつものである。石原慎太郎都政下における都教委の強権的「日の丸・君が代」強制政策に大きな頓挫をもたらした。しかし、けっして憲法の命じるところにしたがって、「日の丸・君が代」強制は違憲で無効とは言っていない。その違憲判決を勝ち取るまで、東京「君が代」裁判は続くことになる。

今回判決を迎える事件が4次訴訟である。これまでに、1次訴訟(原告数173)、2次訴訟(原告数67)、そして3次訴訟(原告数50)があった。さらに続く5次訴訟の対象処分も行われ、提訴の準備もなされている。

これは、紛れもなく、公権力に抗って思想良心の自由を擁護する歴史的な闘いであり、教育に対する権力による不当な支配を排除する抵抗運動でもある。

私は思う。司法も問われているのだ。その本来の使命を全うしているか否かを。9月15日判決にご注目いただきたい。東京地裁が、果たして憲法に定められた人権の砦としてのその本来の使命を全うしているか、あるいは権力の走狗となってはいないかを。
(2017年9月13日)

再び研修センター正門前で―「人類の自由獲得」に努力する者から、これを妨害する者たちへ

本日(9月6日)服務事故再発防止研修を命じられているBさんを代理して、弁護士の澤藤から東京都教育委員会とセンター職員の皆様に、2点を訴えます。

第1点は、思想・良心の自由とはいったい何かということです。そのことを通じて、思想・良心の自由の大切さをご理解いただきたい。

すべての国民は人として尊重されなければなりません。しかし、それだけでは足りません。十分ではないのです。すべての国民は、単に人として遇されればよいということにはなりません。それぞれが個性をもった他ならぬ自分として尊重されなければならないのです。他の人とは違ったかけがえのない自分という存在として尊重され、受け容れてもらわねばなりません。

すべての人が、自分が他の人とは区別された自分である証し、つまりはそれぞれの人の個性とは、具体的にはそれぞれの人が他の人とは違って持っている、その人のものの考え方や感じ方、価値感のあり方を意味します。

日本国憲法は、このことを、「すべて国民は個人として尊重される」と原理的に確認し、国民個人の多様な思想および良心について、「これを侵してはならない」と定めているのです。

「これを侵してはならない」。そのように、主権者が公権力に命令をしているのです。ですから、東京都教育委員会は、生徒の多様な思想・良心の自由も、教員の思想・良心の自由も、けっして「これを侵してはならない」のです。

強調すべきは、この侵してはならないという思想・良心とは、公権力が不都合ととする内容であって初めて意味を持つということです。公権力にとって好都合で、現政権を持ち上げ、東京都の方針や東京都教育委員会の政策に迎合する内容の思想・良心については、「侵してはならない」などと命じる必要はなく、なんの意味もありません。

国民の思想・良心は多様です。多様な思想・良心・価値観・倫理観が、公権力に不都合なものも含めて、むしろ公権力に不都合なものであればこそ、尊重されなければなりません。とりわけ、信仰、国家観、歴史観、教師としての教育観などについては、行政は意識してその多様性を尊重して運用されなければなりません。いやしくも、国家や自治体や、もちろん教育委員会が、特定の思想・良心を公的に認定してこれを強制したり、不都合な思想・良心を弾圧することは許されないのです。

東京都教育委員会は、国家主義の立場から、国民は国旗国歌ないし日の丸・君が代に対しては敬意を表すべきであるという考えをもっています。しかし、それは飽くまで多様な考えの一つでしかありません。しかも、日本国憲法の理念よりは大日本帝国憲法に親和性のある相当に偏った立場。こんな考え方を都内のすべての生徒やすべての教職員に押しつけることは本来できないこと、してはならないことなのです。

本日の服務事故再発防止研修において、このような考えに基づいて、Bさんに説得しようとすれば、たちまち新たな違憲違法の問題が生じます。このことが私の訴えの第2点となります。

私たちの国の歴史は、思想・良心あるいは信仰の自由という価値を重視してきませんでした。私たちの国の権力者は、他の国の権力者にも増して、思想や信仰の弾圧を続けてきました。
中でも、江戸時代初期に広範に行われた「踏み絵」と、戦前の治安維持法体制下での天皇制イデオロギー強制が、恐るべきものだったといわねばなりません。いずれも、権力が憎む思想を徹底して弾圧しました。
今東京都教育委員会が行っている日の丸・君が代強制は、幕府の踏み絵や、天皇制警察の思想弾圧と質において変わるものではありません。

そこで、センター職員の皆さん。皆さんに、ご自分の立場をよく見つめていただきたいのです。あなた方の今日の立場は、思想・良心に直接鞭打つものとして、踏み絵を実行した幕府の役人と同じ役回りなのです。特高警察と同じともいわねばなりません。そのことを、十分に自覚していただきたい。

憲法97条には、こう書かれています。
「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果である」と。この「自由獲得の努力」は、今もなお、続けられています。本日研修の対象となっているBさんは、まさしく身を挺して、自由獲得の努力をしているのです。

都教委は明らかに幕府や天皇制権力と同様に、「人類の自由獲得の努力」を妨害する側にいます。そして、センター職員の皆さん。あなた方も客観的には同じ立場なのです。あなた方は、今、この柵の向こう側にいることを恥じなければならない。せめて、その自覚に立って、自由獲得の努力を続けているBさんに敬意をもって接していただくよう、心からお願いいたします。
(2017年9月6日)

良心よ、至るところで声をあげよ。自由に羽ばたけ!

「ほっととーく」という、手作り感満載の定期刊行物が毎月郵送されてくる。
「『良心・表現の自由を!』声をあげる市民の会」の会報で、標題の上に「『日の丸・君が代』の強制に反対し、渡辺厚子さんの戒告・減給・停職処分撤回を求める」とスローガンが掲記されている。日の丸・君が代強制に反対する運動の最前線にあり続けている渡辺厚子さん支援の趣旨なのだ。

良心の自由は今は逼塞させられている。その良心を表現する自由も窮屈だ。その良心と表現の自由を市民が支えて、みんなで声をあげよう。その思いが、この「ホットトーク」の中に詰まっている。

B5版の全12ページ。2017年8月27日付の最新号が、通算で第142号。会の発足が2002年12月、会の最初の集会が2003年1月だとのこと。以来、14年8か月、「ほっととーく」の刊行は続いてきたのだ。その息の長い活動に感服するしかない。

しかも、毎号なかなかの充実ぶりだ。日の丸・君が代強制に反対する運動が、実は裾野の広い思想に支えられ、多くの対決点をもっていることを教えている。

今号の主だった記事をご紹介しておきたい。

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企画の案内が盛りだくさん。

まずは、会が主催する「壊憲NO! 戦争NO! 命輝く社会へ! 11・4集会」の案内。メインの講演者は、森川輝紀さん(埼玉大学名誉教授・教育史)、演題は「ナショナリズムと教育ー「教育勅語」「国民道徳」への道ー」。

その企画の趣旨説明はかなりの長文。さわりだけを抜き書きすれば、
「主権が天皇から国民に移って70年たつというのに,今,天皇制国家教育の精神的支柱であった教育勅語が,再び政治主導で教育にはいり込もうとするとは,いったい戦後とは何だったのかと自問する人が少なからずいるのではないでしょうか。」
「長年教育史を研究してこられた森川輝紀さんをお招きし,戦前・戦中そして戦後の教育とナショナリズム,とりわけ「教育勅語」「道徳」についてたっぷりお話を伺うことにいたしました。」
「卒業式での「日の丸・君が代」の強要は、今や3・10、3・11、そして8・15の半旗・黙祷へと拡大されています。災害を利用して、或は戦争被害者を利用して、国家や国家シンボルヘの敬愛と従属をすりこもうとしているのです。」
「安倍政治の柱は教育と安保です。着々と戦争国家化を進め、改憲を粛々と準備しているのです。」「こうした中、森川輝紀さんのお話は、きっと多くの示唆と勇気を与えてくれると思います。誠実な研究者の「知」を共有させていただきましょう。」

11月4日(土)開場13時 開会13時30分
開場は、飯田橋のセントラルプラザ10階 「ボランティアセンター会議室」

次いで、東京「君が代」第4次訴訟の東京地裁判決日が9月15日(金)であることのお知らせと支援の要請。

東京「再雇用拒否」第3次訴訟 最高裁事件の支援の要請。

学校に自由と人権を! 10・22集会のご案内

西元利子「哭する女たち」展(韓国従軍慰安婦絵画)案内

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渡辺さんご本人が、「金子文子忌」の一文を掲載している。
金子文子の91回忌にあたる7月23日、その生き方に惹かれる人々60人ほどが、故地牧丘(山梨県)の歌碑に集い、献花の後研究者からの最新の報告を聞く機会をもったとのこと。例年のことだという。それは知らなかった。

「朴烈大逆事件」は松本清張の昭和史発掘で知られている。瀬戸内晴美も小説の題材にしている。金子文子は朴烈の妻(内縁)で、朴烈とともに大逆罪で死刑判決を受けた女性。わずか23年の凄絶な生涯。

大逆罪の法定刑は死刑のみである。未遂だろうが予備陰謀だろうが死刑。しかも、管轄は大審院の一審のみ。これが天皇制を支えた恐怖の法制である。歴史上大逆罪の起訴は4件ある。幸徳秋水事件以上に、朴烈事件の起訴事実は根も葉もない完全なでっち上げだったとされている。

死刑宣告の直後に、「慈悲深い天皇」の恩赦によって無期懲役に減刑とされ、死刑の執行はなかったが、文子は間もなく監房で死んでいる。縊死(自殺)と公表されたが、当時から怪しまれ、真相の究明は妨害されたまま今日まで闇の中である。

渡辺さんは、こう述べている。
「文子に惹かれる理由は、鋭い感性と純真に煮詰める思想、だろうか。天皇制、ジェンダー、戸籍、国家と個人、朝鮮人と日本人、個人の自立と連帯、教育、格差、権力欲、求める社会。考え抜いた思想がそこにはある。文子は『私は私』と立っていた。」
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俵義文さん(子どもと教科書全国ネット21)の「教育出版小学校道徳教科書問題について」という長文の談話が掲載されている。これも、国旗・国歌(日の丸・君が代)問題に関わる。そして安倍政権の問題点があぶり出されている。

さらに、「一編集者から」という松本昌次さんの連載寄稿。今号は、№31「野党もメデイアも諦めずに」というもの。

「2020年 地方自治体非正規労働者雇用に大変動のおそれ」という、連帯労組板橋区パートからの支援要請もある。

最終ページが高根英博さんのマンガ。「『日の丸・君が代』わたなべーだ」という標題で、8コマの哲学マンガ。内容は、政権批判、天皇制批判、差別批判。これが、連載第128回だ。

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中に、「自由と平和のための京大有志の会」の声明書が転載されている。有名になったもので、私も目を通していたが、その平仮名バージョンは知らなかった。これをご紹介しよう。

  わたしの『やめて』
くにとくにのけんかをせんそうといいます
せんそうは「ぼくがころされないように さきに ころすんだ」
という だれかの いいわけで はじまります
せんそうは ひとごろしの どうぐを うる おみせを もうけさせます
せんそうは はじまると だれにも とめられません
せんそうは はじめるのは かんたんだけど おわるのは むずかしい
せんそうは へいたいさんも おとしよりも こどもも くるしめます
せんそうは てや あしを ちぎり こころも ひきさきます
わたしの こころは わたしのもの
だれかに あやつられたくない
わたしの いのちは わたしのもの
だれかの どうぐに なりたくない
うみが ひろいのは ひとをころす きちを つくるためじやない
そらが たかいのは ひとをころす ひこうきが とぶためじやない
げんこつで ひとを きずつけて えらそうに いばっているよりも
こころを はたらかせて きずつけられた ひとを はげましたい
がっこうで まなぶのは ひとごろしの どうぐを つくるためじやない
がっこうで まなぶのは おかねもうけの ためじやない
がっこうで まなぶのは だれかの いいなりに なるためじやない
じぶんや みんなの いのちを だいじにして
いつも すきなことを かんがえたり おはなししたり したい
でも せんそうは それを じやまするんだ
だから
せんそうを はじめようとする ひとたちに
わたしはおおきなこえで 「やめて」というんだ
  じゆうと へいわの ための きょうだい ゆうしの かい

この市民の運動の充実ぶりが頼もしい。良心を支え、表現の自由を実現する支えになっているではないか。このような市民運動の試みが積み重なって、よりよい社会を作ることになるのだと思う。

なお、会にはささやかながらもホームページがある。URLは下記のとおり。
http://hotmail123.web.fc2.com/
(2017年9月4日)

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