澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

都教委よ、裁判官よ、教員の良心の叫びを聞け。

3月15日の東京地裁527号法廷で、東京「君が代」裁判第4次訴訟の第15回口頭弁論。この日の法廷で弁論は終結し、判決言い渡しは9月15日午後1時10分と指定された。この日、一審最後の法廷で、二人の原告が結審にあたっての思いの丈を、裁判官に語った。

今月15日の当ブロクで、渡辺厚子さんの陳述はご紹介した。
http://article9.jp/wordpress/?p=8281
本日は、もうひとりの原告である現役教員の意見陳述をご紹介する。

その陳述内容は、教師として徹頭徹尾生徒の立場を慮ったものである。教員の良心において生徒の思想信条の自由を擁護しなければならないという真摯さに貫かれたもの。私たちの社会は、このような良心的で良質の教員を受容し得ない狭量なものに変質してしまっているのだろうか。国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の可否は、社会の寛容の程度である。表現を変えれば、社会の柔らかさ、生き易さのバロメータではないか。

そのような目で、この陳述書をお読みいただきたい。そして、そのような思いで、東京地裁民事11部の9月15日判決を注視していただきたい。
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  東京「君が代」裁判四次訴訟  最終意見陳述  2017.3.15

原告のKSです。第1回口頭弁論でも意見陳述しました。今回は現職の都立高校の教員として、原告らを代表して、10.23通達による生徒の被害について陳述します。

10.23通達のターゲットが生徒であるということがはっきりわかる出来事が今年ありました。都立高校では卒業式の3週間前までに卒業式の実施要項や式の進行表を都教委に提出しなければなりません。2008年から多くの学校で、進行表に「不起立の生徒がいたら司会が起立を促す」という文言が入れられるようになったのですが、これまではその文言がなくても都教委は受け取っていました。しかし今年から、進行表に生徒の不起立に対する対応が書かれていないと「司会は、生徒の不起立者多数の場合『ご起立ください』という」との文言を入れるよう、都教委から強い指導を受けるようになったのです。これは生徒への強制以外の何物でもありません。

10.23通達以前は、開式前に「内心の自由の説明」がありました。「内心の自由の説明を聞いて、安心して座ることができた」と喜んでいる生徒もいました。しかし、10.23通達以降は、内心の自由の説明をすることはできなくなりました。さらに都教委は2006年に「3.13通達」を出し、「適正に児童・生徒を指導することを、教職員に徹底するよう」通達しました。この通達は、教員が生徒に内心の自由の説明をすることを禁じたものです。

2005年の卒業式の前に、こんなことを作文に書いた生徒がいました。「間違っていることを『間違っている』と言えずに、従わざるを得ない先生たちは、どれだけ辛いだろうと思う。しかも間違っていると思うことを指導しなければならないのは、とても苦しいことだと思う。自分が通っている学校で、そんな風に間違ったことが行われ、そしてそれによって辛い思いをしている先生がいることが、私はとても悲しい。」
10.23通達発出当時、多くの生徒が教員に出された命令を「間違っている」と感じ、様々な形でその意思を表明しました。教員が苦しんでいる姿に接して、生徒たちも辛い思いをしていたのです。

「『君が代』を聞くと苦しくなる」と私に訴えてきた生徒がいました。彼は在日韓国人で、差別されているという思いを強く持っていました。私は彼の担任でもなく、特に私になついていたわけでもないのに、どうしてそんなことを私に訴えてきたのかわかりませんが、その気持ちには重いものがあると感じました。職員会議で、校長に「内心の自由の説明をしてほしい」と頼んだ時、この生徒のことも話しました。校長は「辛い思いをする生徒も実際にいるでしょう。けれど我慢してもらうしかないですね。」と答えました。生徒の入学や卒業を祝う喜ばしいはずの式で、その主人公の生徒が、どうして、何のために、苦しまなければならないのでしょうか。かけがえのない存在である一人一人の生徒を大切にし、一人一人の心の痛みに寄り添い、切り捨てないことが教育、特に公教育では重要です。毎年卒業式・入学式のたびに内心の自由を踏みにじられる生徒が確実にいるということを私たちは忘れてはならないと思います。

10.23通達は教職員に起立斉唱を命じるものですが、教職員が全員起立することは、生徒への圧力になります。先日、ある保護者が「子どもの入学式に参列し、国歌斉唱の時座ったが、周りは教員も含めてみんな立っていた。先生の中の一人でも座っている人がいたら、これからの学校生活にどれだけ希望が持てただろう」と話しているのを聞きました。内心の自由の説明もなく、会場にいる人全員が起立する中で立たないでいるのはとても難しいことです。それでもどうしても立てずに座っている生徒に対して司会が「ご起立ください」と言ったとしたら、その生徒は自分自身の思想信条の自由を守れなくなってしまうのではないでしょうか。起立するにしても座っているにしても、とても苦しい思いをするに違いありません。卒業式の進行表の問題は、生徒への強制がエスカレートしていること、10.23通達の目的が、教員に強制することを通して、生徒に強制することだということを示しているのです。

都立高校の生徒は自分たちの卒業式をとても大切にしています。10.23通達前は生徒たちは卒業式対策委員会を組織して、自分達の卒業式をどのように行うのか話し合って決めていました。卒業生と保護者が向かい合って座る「フロア形式」の式が行われたり、思い出のビデオを上映したり、5、6人の生徒が次々に自分たちの思いを語ったりと、生徒は自分たちの一生に一度の高校の卒業式を思い出深いものにしたいと一生懸命に考えて企画していました。けれど、10.23通達後は、こうした自由で創造的な卒業式は実施できなくなりました。画一的な卒業式しか許されなくなり、生徒が自分たちで決められることといったら、式歌を何にするかぐらいになったのです。

数年前に、式の最後にクラス代表の生徒たちで卒業式を感動的なものにするための企画を実施したいと生徒が言い出したことがありました。生徒の願いを叶えたいと思った担任は何度も何度も校長に交渉しましたが、校長は「厳粛な式にはふさわしくない」の一点張りで、生徒の願いをかなえることはできませんでした。一体卒業式は誰のためのものなのでしょう。10.23通達によって、画一的な式が押し付けられ、卒業式は卒業生のためのものではなくなったのです。

私は2007年卒業式の代表生徒の言葉が忘れられません。彼は「何かを大切に思う気持ち、愛する気持ちは自然にわき上がってくるものです。誰かにこれを大切にしなさい愛しなさいと強制されても心から大切にしたり愛したりすることはできません。」と語りました。愛する気持ちや敬意は自然にわき上がってくるもので、他から押しつけられるものではありません。

昨年アメリカではNFLのコリン・キャパニック選手が「人種差別がまかり通る国に敬意は払えない」として、試合前の国歌斉唱時に起立を拒否して話題になりました。オバマ大統領は、キャパニック選手は憲法で保障する意見表明の自由を行使しただけだと擁護し、「脇でただ座って何も気にかけないでいるよりも、若い人がもっと民主的手続きに則り議論に参加した方がいい」と述べました。

何かに対する敬意は強制すべきものではありません。敬意を表明したいと思えば表明すればいいし、敬意を表明できないと思えば表明しなくていい、それが許されるのが民主的な国家だと思います。有無を言わせず強制することよりも、生徒が自分の頭で考え、議論し、自分で判断すること、様々な考え方があることを知ること、異なる意見を認め合い尊重することを学ぶことの方が、教育の場では必要なのです。

国旗国歌に対する敬意は、生徒に対して強制できないのはもちろんですが、教員に対しても強制することは間違っています。都立高校の教員は公務員であり全体の奉仕者だから、上司の命令には従わなければならないと、再発防止研修では講義されましたが、私は全体の奉仕者だからこそ、間違った命令には従ってはいけないと考えています。教員には生徒の内心の自由を守る義務があるのです。また私は、生徒が主人公だったかつての都立高校の卒業式を取り戻すことも、教員の責務だと感じています。

10.23通達は、教育の自由や生徒の権利を守ろうとする教員を学校現場から排除するためのものです。物言わぬ教員を作るため、思考停止した教員を作るためのものです。物言わぬ教員、思考停止した教員は、物言わぬ生徒、思考停止した生徒を作り出します。10.23通達のターゲットは生徒なのです。10.23通達は、自分の頭で考えない、権力の言うなりになる生徒を作るためのものなのです。

裁判所におかれましては、どうか、10.23通達が生徒を苦しめていること、10.23通達を撤回することが日本のより良い未来につながっていることをご理解ください。そして、公正な判断をお願いします。
(2017年3月23日)

都教委よ、裁判官よ、憲法の叫びに耳を傾けよ

昨日(3月15日)、東京「君が代」裁判第4次訴訟の最終弁論。
2014年3月17日に提訴し、以来3年間15回の口頭弁論を経て、本日弁論終結した。判決言い渡しの指定日は9月15日である。

私は、この裁判の弁護団の一員として多くのことを考えさせられ、また学んだ。乱暴に教育を破壊しようとする権力の潮流が一方にあり、真摯に生徒の立場を思いやり真っ当な教育を取り戻そうとする多くの教員の抵抗がある。怒らねばならない場面にも遭遇し、また心温まる多くの経験もした。

国旗・国歌(日の丸・君が代)にまつわる憲法論を考え続けて、今確信していることがある。日本国憲法は、国家と国民(個人)との対峙の関係を規律することを最大の使命としている。国民は国旗国歌を通じて国家と対峙するのだから、公権力による国旗国歌への敬意表明強制の是非こそは、憲法が最も関心をもつべきテーマなのだ。

また、「日の丸・君が代」は、戦前の旧天皇制のシンボルであった。「日の丸・君が代」への敬意表明強制の是非は、旧体制を徹底して否定して成立した現行憲法の価値観を尊重するか否かの試金石だ。

私は、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制が許されるか否か、それは日本国憲法の理念を生かすか、殺すかの分水嶺だと確信する。憲法を殺してはならない、是非とも生かしていただきたい。そのような思いで、東京地裁民事11部の9月15日判決に期待したい。

結審の法廷で、お二人の原告が堂々たる意見陳述をした。まさしく、呻吟する憲法が叫んでいるの感があった。そのうちのお一人、渡辺厚子さんの陳述をご紹介する。もうひとかたの陳述も、ご了解を得たうえで、近々紹介することにしたい。

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私は昨年7月27日第11回口頭弁論の際、原告本人の陳述をさせていただきました。今回は、結審に当たり、原告を代表して、障がい児への人権侵害について陳述いたします。

学習指導要領の片隅に国旗国歌条項が入れられて以来、どこの学校でも、保護者や子どもたちのなかにある多様な価値観を、「指導」と云う名で、否定するようなことはしてはならないと、心を砕いてきました。

小平養護学校では、毎年卒業式に向けて、学校として保護者に手紙を出してきました。「日の丸・君が代」に対してどのような態度を選択するかは子ども自身や保護者の権利であると告げてきたのです。そうやって子どもたちの多様性、思想良心の自由の権利、思想良心形成の自由の権利を守ろうとしました。教員が個人的に「日の丸・君が代」をどう思うのかとは別次元の、学校や教員の職務責任であると考えてきたからです。

しかし通達はそれを一変させました。

教職員に起立するよう職務命令を出す。全教職員の起立という圧力で子どもたちを起立させる。通達は私達に、全員の子どもを起立させる道具、加害者になるよう命じました。

通達後、子どもたちは教員起立がもたらす同調圧力によって起立させられています。そればかりか学校は、不起立を表明する子どもに圧力を加えています。

町田特別支援学校では、母親と相談して不起立を決めた生徒に、本当に家庭で話したのか、と校長は家庭への思想調査をしようとしました。生徒は一緒に話し合って不起立を決めた母親が悪いのか、と泣いて訴えました。白鷺特別支援学校など様々な学校で、全員の子どもを起立させるために、お尻を持ち上げたり、手を引っぱったりして起立させています。教員起立に同調できない子どもには、文字通り力づくで起立をさせているのです。

昨年10月、卒業生の人工呼吸器が緊急音を発し職員が対応したところ、跳んで来た管理職はあろうことか起立を命じた、ということを証言いたしました。これに対し都教委は、“結果的には何ごともなかったのですね?”と言われました。私は愕然としました。生命軽視の事実があったことを知りながら「何事もなかったから問題ない」とでも言うのだろうか。たまたま無事だっただけで、「教員の起立を優先させるあまり子どもの生命を軽んじている事態が起きている」ということに、都教委は戦慄しないのだろうか。反省しないのだろうか。我が耳を疑いました。

城北特別支援学校では、身体の痛みに苦しむ子どもを抱きあげて座った教員を、不起立だと校長がとがめました。そして、介助をしないで起立をしろ、さもなくば子どもを式に参加させないという選択肢もある、と言い放っています。多摩特別支援学校の校長は「儀式では体に負担がかかるものだということを、車椅子にのせたままで教えていく必要がある」と発言し、床におろすことを許しませんでした。様々な学校で、子どもが泣き叫んでも斉唱中は連れ出すな、子ども同士が喧嘩をしても斉唱中は放置しろ、トイレ介助のために式場をでるな、子どもにおむつをつけろ、などと言われ、教員は怒り、悔しさ、悲しみに血の涙の出る思いでした。

都教委は、子どもに「決して苦痛を与えていない」と主張します。しかし実際は教員を起立させようとして、子どもの生命や安全や人権を様々に侵害しているのです。

現在の職務命令書には、緊急事態には校長に指示を仰ぎ対処すること、と記されています。校長がとなりの席ならば指示を仰ぐのも可能です。ですが遠くはなれた体育館の端からは、緊急事態の子どもを放置して、指示を仰ぎに走っては行けません。君が代斉唱中に、緊急事態です!と大声で叫ぶこともできません。結局は「指示を仰げず」ネグレクトするか、処分覚悟で命令に違反するか、教員個人が即断を迫られているのです。子どもたちの危機は回避されていません。

起立職務命令は、本来は第1義であるべき急を要する子どもへの関わりを、「管理職に許可をもらって初めて可能になる」第2義的なことにしてしまいました。

起立斉唱命令の本質は、ここにこそ現れていると私は思います。「日の丸・君が代」強制は命をないがしろにする。国家や国家シンボルへの敬愛強制は、個人を支配し、果ては命まで支配する、ということです。

職務命令による教員起立によって、子どもの思想良心の自由は侵害され、のみならず、生命や安全までもが実際に脅かされているという現実をどうか直視して下さい。

10・23通達と同時に出された実施指針は、フロアー会場の使用を禁じ、全員の子どもに壇上に上がるよう命じました。

04年3月光明特別支援学校では、卒業生の保護者全員がこれに反対し、式をボイコットするとして紛糾しました。04年当時、強弱はあるものの、すべての障がい児学校で、壇上しか認めないことに反対の声が上がっています。教職員も保護者も、どのような会場形式にするのかは、学校で決めさせてほしい、と都教委に訴えました。各学校では卒業生の特徴により、壇上にしたりフロアーにしたり、その年々の会場形式を決めてきたからです。殆どの子どもが車椅子を使用する肢体不自由学校ではフロアー会場をずっと選んできました。

しかし都教委は、学校が会場形式を決めることを許さず、壇上を使用しろ、壇上で証書を受け取れ、の一点張りでした。

この13年間、障がい児学校のなかで、ステージの下で渡すことを許されたのはたった1例のみです。これは、祐成八王子東特別支援学校元校長が自分で証言しているように、あまりに大きい寝台タイプの車椅子のためステージ上で向きをかえられなかったからです。子どもへの「配慮」ではなく「不可能」だったからです。

たどたどしくとも自分で電動車椅子を操作して証書をもらいたいと涙ながらに訴える子ども・保護者・教員の懇願を、都教委は一切聞き入れませんでした。これが最後の姿になるかもしれない夭折の危険の中でいきている子どもたちの、痛切な願いを無碍に却下しました。

本来自分の力で動きたいというのは許可を受けることではなく、権利なのではないでしょうか。都教委には保障すべき義務があるのではないでしょうか。

ところが都教委は“バリアーフリーの考えとは、「通常の学校」で行われている壇上儀式と同様の経験ができること”なのだと言うのです。“フロアー式は最初から壇上が無理と決めつけて一律に特別扱いしていること”だと言うのです。

障害のない子どもが「通常」であって、障害のある子どもはその「通常」をめざして奮闘すべき存在だ、とでもいうのでしょうか?子どもの様々な有り様、ニーズに応じたあり方を保障することが「特別扱い」だというのでしょうか?子どもたちは1人1人の個性に応じた支援を受ける権利があります。都教委の特異なバリアーフリー論には根本的に、障がい児が、ありのままの姿でありのままに存在することを認めようとしない差別がある、と感じます。津久井やまゆり園障がい者殺傷事件は、 “ありのままの姿”の尊厳を否定した行き着く先のことであったのではないでしょうか。

私は、子どもへの加害行為を黙認してはならない、加担してはならない。教員として、子どもと教育に誠実でありたい。誠実であろうとしてきたこれまでの自分自身を否定してはならない、とギリギリの思いで命令に従いませんでした。

14名の原告たちは皆、一人ひとり、教員としての自分はどうあるべきか真剣に悩んだ末に不起立に至りました。これは教育と言う職務に忠実であろうとした結果です。決して個人的なわがままではありません。裁判官のみなさまにはこの私達の思いをぜひとも分かっていただきたい。

私達の不起立は、教育の変質、子どもの人権無視、に対する止むに止まれぬ良心的不服従なのだ、ということを強く申し上げます。

私達原告全員の処分を取り消してください。そして私達の処分の取り消しが、子どもたちの権利回復にどうか良い影響を与えるものになりますよう、心から願っています。
(2017年3月16日)

日の丸・君が代の強制は、憲法20条(信教の自由)違反である。

「君が代裁判・4次訴訟」で、今月末を期限とした最終準備書面の作成に忙しい。私の分担部分の憲法20条(信教の自由)侵害論の一節(第3部 第2章 第2)を要約してご紹介したい。もちろん、違憲の根拠として主張しているものは、20条だけではない。19条もあれば、23条も、26条も、13条も、そして99条もある。20条は論点としては隠れがちだが、決しておろそかにしてはならない。以前にも申しあげたが、多くの人に、何を問題にしているかを知っていただきたい。その一端である。

※原告らの中には、自らの信仰ゆえに「日の丸・君が代」に対する敬意表明の強制に服しがたいとする複数の者がいる。
当該信仰をもつ原告らに対して、国旗に向かって起立し国歌を斉唱することを強制する10・23通達、同通達に基づく職務命令、そして当該原告に対する本件各処分は、いずれも当該原告の信教の自由を侵害するものとして、憲法20条に違反する。
また、その余の信仰をもたない原告らについても、国旗に向かって起立し、国歌を斉唱せよとの強制は消極的な信教の自由(信仰をもたず、信仰を強制されず、一切の宗教的関わりからの自由)を侵害するものとして、同じく憲法20条に違反する。

※ 信教の自由は、憲法史において、常に基本権カタログの先頭に位置するものであった。近代憲法における精神的自由はなによりも信教の自由を意味し、王権や為政者に対して被治者の信教の自由を認めさせるために近代憲法が成立したとさえ語られる歴史的事実の積み重ねがある。
しかし、我が国においては、20世紀の中葉まで信教の自由はなかった。1889年制定の大日本帝国憲法28条は「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背サル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」とし、天皇制を支える国家神道に抵触しない範囲でしか信教の自由は認められなかった。
その結果、国体思想に抵触する信仰は、天皇の神聖性を毀損することから「安寧秩序ヲ妨ケ」るものとして苛酷な宗教弾圧の対象となった。また、すべての国民に対して、明らかな宗教行事である神社参拝や宮城遙拝が「臣民タルノ義務」の範疇の行為として強制された。
日本国憲法は、旧憲法体制が国民の信教の自由を蹂躙した過去の反省から、憲法20条1項前段に、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」と厳格な信教の自由保障の規定をおき、その2項で「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」と明記した。

※ 「日の丸・君が代」は、大日本帝国の慣習法上の国旗国歌であった。大日本帝国が国家神道という特殊な宗教教義に基づく宗教国家であった以上、「日の丸・君が代」は、国家の象徴であるだけでなく国家神道という宗教上のシンボルでもあった。「日の丸・君が代」は、天皇の祖先神と現人神としての現天皇の弥栄を祈念する宗教儀式に必須の存在としての宗教的性格を持つ旗であり歌とされた。
日の丸は、太陽神を象形した宗教的デザインである。その象形が国家神道のシンボルとされたのは、天皇の祖先神(皇祖)であるアマテラスが太陽信仰に由来するところからとされる。また、君が代の歌詞は、神なる天皇の治世が代々継承して永久に続くように、という宗教的な祝祭歌である。
20世紀中葉まで、そのような意味付けをされていた「日の丸・君が代」は、象徴天皇制の日本国憲法下、かつての「日の丸・君が代」の宗教的性格を払拭し得ていない。とりわけ、自らの信仰を持つ者にとっては、「日の丸・君が代」が公的に宗教と結びついていた時代の記憶はいまだに生々しい。のみならず、現在なお天皇とその祖先を神と祀る宮中の皇室祭祀が連綿と継承され、これに追随する全国の神社神道が社会に根を下ろしている今日、「日の丸・君が代」をアマテラス信仰やアラヒトガミ信仰と切り離して考えることのできない現実的な社会基盤がある。

※ 信仰者である原告らにとっては、「日の丸」も「君が代」も、自らの信仰と厳しく背馳し抵触する存在であって、信仰という精神の内面の深奥において、この両者を受容しがたく、強制に服することができない。
このような信仰を有する者に、「日の丸・君が代」を強制することによる精神の葛藤や苦痛を与えてはならない。それこそが、日本国憲法が旧憲法時代の苦い反省のうえに国民に厳格な信仰の自由を保障した積極的な意味である。また、人類史が信教の自由獲得のための闘いとしての一面をもち、各国の近代憲法の基本権カタログの筆頭に信教の自由が掲げられ続けてきた普遍的意味でもある。

※ また、信仰者ではない原告らにとっても、宗教的性格を払拭し得ていない「日の丸・君が代」を強制されることは、信仰を有するものとは違った形で、自己の消極的な信仰の自由の侵害にあたるものである。

※ 「日の丸・君が代」の宗教的性格の有無や宗教的な意味付けの判断は、特定の宗教的行為を強制される側、すなわち被人権侵害者の認識を基準とすべきである。百歩譲っても、被侵害者の認識を最大限尊重しなければならない。人権侵害者の側である公権力においてする意味付けは、ことの性質上まったく意味をなさない。また、一般的客観的な基準によるときには、少数者の権利としての人権保障の意味は失われることにならざるを得ない。
とりわけ留意されるべきは、問題の次元が政教分離原則違反の有無ではなく、個人の基本的人権としての信教の自由そのものの侵害の有無であることである。公権力への禁止規定としての政教分離原則違反に関しては一般的客観的な判断になじむにせよ、基本的人権そのものである信教の自由侵害の有無を判断するに際しては、人権侵害の被害を被っている本人の認識を判断基準としなければならない。

※ 公権力の行使によって、原告らに対して「日の丸・君が代」への敬意表明を強制することが憲法20条に保障された信教の自由の侵害に該当するか否かの判断の過程では、憲法19条についての判断の枠組みと同様、一応は、原告らに対する起立や斉唱という外部行為の強制が、原告らの内面における宗教的信条を侵害すると言えるかが検討の対象となる。
しかし、信仰をもつ原告らについては、その判断の帰趨は自明というべきである。当該原告らにとっては、「他宗の神への礼拝の強制」にほかならず、「日の丸・君が代」に敬意を表明するよう強制されることは、信仰する教義と深く結びついた自己の人格そのものを否定されることであり、精神の深奥にあるものへの受け容れがたい破壊的攻撃以外のなにものでもない。

※ 江戸時代初期に、当時の我が国の公権力が発明した信仰弾圧手法として「踏み絵」があった。この狡猾な弾圧手法は、公権力が信仰者に対して聖像を踏むという身体的な外部行為を命じているだけで、直接に内心の信仰を否定したり攻撃しているわけではない、と言えなくもない。しかし、時の権力者は、信仰者の外部行為と内心の信仰そのものとが密接に結びついていることを知悉していた。だから、踏み絵の強制が信仰者にとって堪えがたい苦痛として信仰告白の強制になること、また、強制された結果心ならずも聖なる像を土足にかけた信仰者の屈辱感や自責の念に苛まれることの効果を冷酷に予測し期待することができたのである。
事情は今日においてもまったく変わらない。都教委は、江戸時代のキリシタン弾圧の幕府役人とまったく同様に、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制が、教員らの信仰や思想良心そのものを侵害し、堪えがたい精神的苦痛を与えることを知悉しているのである。
また、信仰をもたない原告らについても、事情は本質において変わらない。信仰をもつ原告においては侵害されるものが自己の信仰であるのに対して、信仰をもたない原告らにおいて侵害されるものは、特定の信仰の強制や干渉から自由であることである。
踏み絵の強制は、信仰をもたない一般人に対しても精神の静謐に対する被害を及ぼしうる。本来すべての人が、いかなる宗教とも、いかなる態様においても、関わりのなく精神生活を送ることについての自由を有する。「日の丸・君が代」の宗教性が払拭されていない以上は、これに対する敬意表明を強制される原告らは、宗教から完全に自由であるべきとする精神への侵害となるものである。

※ 以上の理は、基本的に「エホバの証人」剣道実技受講拒否事件最高裁判決(1996(平成)8年3月8日最高裁第二小法廷判決民集50巻3号469頁)において最高裁がとるところと言ってよい。
「エホバの証人」を信仰する神戸市立工業高等専門学校の生徒が受講を強制された剣道の授業受講は、一般的客観的には、宗教的な意味合いをもった行為とは言いがたい。しかし、当該の生徒の信仰に抵触する行為として、その強制の違法を最高裁は認めた。宗教性の認定に一般的客観的基準ではなく、被人権侵害者本人基準を採用したものというべきである。

本件でも、事情は同様であり、しかも「日の丸・君が代」への敬意表明という強制される行為は、剣道の授業受講とは比較にならない宗教性濃厚な行為である。(以下略)
(2017年2月26日)

公権力は主権者国民に、国旗国歌への敬意表明を強制する権限をもたない

「君が代裁判・4次訴訟」は、次回3月15日期日に結審して判決を迎える。
弁護団と原告団は、今月末を期限とした最終準備書面の作成に忙しい。本日も、各自の分担原稿を持ち寄っての検討会議がほぼ3時間。私の分担もなんとか間に合いそうで、胸をなで下ろしているところ。

とはいえ、書面を書いているとあらためて腹が立ってくる。どうして国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明強制などという馬鹿げたことがまかり通るのだろうか。人権の砦であるはずの最高裁が、どうしてしっかりと違憲判断をしないのか。教育は、現場の教員のはつらつたる力量と連帯感あってのものだ。真面目な教師ほど悩まざるをえない環境の中、教育が公権力に絡めとられ、教師の連帯が切断されていく。明日の主権者を育成する教育の力が著しく低下しているではないか。

腹を立てつつも、裁判に絶望するわけにはいかない。弁護団も原告団も懸命だ。私の分担部分の一節を要約してご紹介したい。多くの人に、何を問題にしているかを知っていただきたいのだ。その一端である。

※公権力行使における権限の踰越
そもそも公権力は、国旗国歌に対する敬意表明を、公務員を含む国民に強制する権限をもたない。
(1) 国旗に対して起立し国歌を斉唱することは、国旗国歌に対して敬意を表明する行為である。少なくとも、主として敬意表明の行為としての側面(ないし要素)を主とする行為である。
起立斉唱の強制に関する一連の最高裁判決は、「一般的、客観的に見ても、国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為であるということができる」と述べている。職務命令を発して国旗起立・国歌斉唱を命じ、その違反に懲戒処分を科することは、その処分軽重の程度にかかわらず、「国旗国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為」を義務付けて懲戒処分によりこれを強制することにほかならない。

(2) 一連の最高裁判決は、前述のとおり「国旗国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為」であることを認めながら、いわゆる間接的制約論を展開して、制約可能性の拡大に途を開いてしまった。しかし、そもそも「敬意」という価値観ないし道徳的評価を公権力が個人に強制することは許されない。このことは、間接的制約論のかげに隠れてしまって、最高裁でも論じられないままになってしまっているが、本来は、司法が真正面から答えなければならない問題である。

(3) 国旗国歌に対する敬意表明の要素を含む行為の強制が、「式典における慣例上の儀礼的な所作として」おこなわれるからといって、許容されるということはできない。儀礼的所作の面があるとしても、それと当時に、敬意表明の要素を含む行為であることは、最高裁判決も認めるとおり、否定しがたいところである。
最高裁愛媛玉串料大法廷判決(最大判平成9年4月2日民集51巻4号1673頁)は、「本件の玉串料等の奉納に儀礼的な意味合いがあることも否定できない」としつつ、「そのことゆえに、地方公共団体と特定の宗教とのかかわり合いが、相当とされる限度を超えないものとして憲法上許されることになるとはいえない」と判断している。同じ法理が本件にも妥当しなければならない。

(4) 国旗国歌に対する敬意表明は国家に対する敬意表明にほかならない。
国旗国歌は、国旗国歌法によって定められた国家制度としての国家シンボルである。シンボルとは、形のない抽象的存在を形のある物体に具象化したものである。国旗国歌は、国家という抽象的存在を、旗や歌という感覚で把握可能なものに具象化して表現したものである。
旗と歌という国家のシンボルに対して敬意を表明する行為は、それが象徴する国家そのものに敬意を表明する行為にほかならない。

(5) 国旗国歌に対する敬意表明の強制は憲法的秩序に違背する背理である。
ア 憲法はその前文で、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基づくものである。われらはこれに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」と宣明している。国家の権威は国民に由来する。けっしてアプリオリに存在するものではない。神から与えられるものでもなく、あくまでも国民に由来する。
国家の権威は、国民から強権的に調達しうるものではないく、国民の任意の意思に依拠する権威であってこそ、国家の権威は正当化されるのである。
さらに、憲法は第1条で国民主権を、第13条で個人の尊厳を宣明する。国家の主人は国民であって、国家が国民の主人ではない。個人の尊厳の尊重と人権擁護こそが国家の存立意義であって、国家のために個人があるのではない。これらが憲法の予定する憲法的秩序である。この憲法的秩序は、公権力を規制する憲法の根本原理によって保たれる。憲法の条項としては、憲法前文とともに第99条(公務員の憲法尊重擁護義務)がそのことを明定する。

イ 敬意を表明するとは、対象の権威を承認するという意味である。したがって、国家シンボルである国旗国歌に敬意を表明する行為は、国家それ自体の権威を承認してその受容を確認する行為としての意味を持つ。
国旗国歌に対する起立斉唱によって国家に対する敬意を表明し、その都度、個人が国家の権威を承認してその受容を自発的に行う限りは、個人の自由であり問題が生じる余地はない。
ところが、これを公権力が「強制」するとなれば、様相が一変する。それは、国家が国民に対して、国家の権威を承認しこれを受容することを強制することになるからで、近代立憲主義を標榜する国家のなし得ることではない。国家の権威を受容せよと個人に「強制」することは、権威の源泉である国民に対して、権威の受容を「強制」する倒錯といわねばならない。このような国家の権威の由来をめぐる倒錯は、憲法的秩序に明確に反する背理である。

ウ 国民こそが主権者であつて、国家の権威を受容することも、受容しないこともできる地位にある。断じて、国民は、国家の権威の受容を強制される立場にはない。これを認めれば、立憲主義が崩壊する。したがって、その強制は国家の権威の正当性を否定する論理とならざるをえず、その意味でも背理となる。

エ したがって、公権力が、国旗国歌への敬意表明を呼びかけることはよいとして、その行為を行わない者に不利益処分を科してこれを「強制」することは、立憲主義からの逸脱として、公権力が本来なしうる限界を超えるものである。

(6) 公務員に対しても強制はできない
ア 一連の最高裁判決は、前記間接的制約が「許容し得る程度の必要性及び合理性が認められる」と判示するなかで、「住民全体の奉仕者として法令等及び上司の命令に従って職務を遂行すべきこととされる地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性に鑑み」と述べている。
公権力が強制しうる権限の限界を超えるという前述の原告らの主張に対しても、市民・国民一般と公務員(地方公務員・教育公務員)とを峻別し、「住民全体の奉仕者」「地方公務員の地位の性質及び職務の公共性」が主張されると思われる。すなわち、一般に国民・市民に対しては国旗国歌に敬意を表明することを強制できないとしても、公務員(地方公務員・教育公務員)は話が別で、住民全体の奉仕者であり権力機構内部の一員なのであるから、公務員に対しては、国旗国歌に対する敬意表明を強制することができる、という主張である。
しかし、これに対する反論としては、次の4点で足りる。

イ 第1に、原告らの主張は、立憲主義からの逸脱ゆえに公権力が本来なしうる限度を踰越しているとするものであって、これは、特定の名宛人との関係についてではなく、当該の公権力行使を一般的に違憲とするものである。言い換えれば、だれに対しても、そのような公権力の行使は憲法適合的にはなしえない。
そもそも、公務員としての身分を有しない一般国民に対する関係では、国旗国歌への敬意表明の「強制」はあり得ない。これは、ただ単に根拠法規がないというレベルの問題ではなく、国家の権威の由来に関する倒錯であり、立憲主義の論理に悖る背理であるからこそ、憲法がその「強制」を許容しないのである。学校儀式においては、参列の生徒や保護者、来賓への起立・斉唱の強制は当然に違憲である。
それでは、教育公務員である教職員に対してならば、公務員法等を根拠として職務命令という形での強制が可能になるのであろうか。
そのようなことはありえない。立憲主義の原則を逸脱した公権力の行使は、名宛人の属性如何に関わらず違憲であり権限を欠くものであるから、当然に不可能と言わなければならない。

ウ 第2に、公務員だからといって国家に対する敬意表明を強制できるとする考え方は、憲法的秩序にそぐわないというべきである。
くり返しになるが、国家シンボルである国旗国歌に対する敬意表明は、そのシンボルが象徴する国家に対する敬意表明にほかならない。そして、国家に対する敬意を表明する行為は、国家の権威を承認することである。
しかし、日本国憲法は、国家の権威を承認することを公務員に対して当然に要求しているわけではない。憲法が公務員に対して求めていることは、この憲法を尊重し擁護することである(憲法99条)。
憲法が公務員に義務づけているのは、あくまでも憲法を尊重し擁護することに限られるのであって、憲法は、国家の権威の承認の義務付けを認めてはいない。
したがって、公務員だからといって、国家に対する敬意表明を義務付けてもよいと考えることは、憲法的秩序から逸脱するものといわねばならない。

エ 第3に、「住民全体の奉仕者」であることは、公務員からその「国民」性を奪い去ってしまうものではない。
前述のとおり、国家の権威は国民に由来するのであり、国家の権威を受容せよと国民に「強制」することは、権威の源泉に対して権威の受容を「強制」する倒錯となる。そのような「国民」であることは、公務員になったからといって、消えてなくなるわけではない。
公務員であっても、国家の権威がそれに由来する「国民」であることに変わりはないのであって、公権力が公務員である個人に対して国家シンボルに対する敬意表明を強制すれば、それは、権威の源泉に対して権威の受容を強制する倒錯であり、公権力がおこなってはならない背理であることに変わりはない。

オ 第4に、公務員たる教職員への「強制」を合憲適法と認めれば、強制された教職員の行為を介在して生徒やその保護者にも、つまりは一般市民に対して国旗国歌への敬意表明「強制」の効果が及ぶ。国民への強制ではないと言いつつも、教員である公務員への「国家への敬意表明の指導の強制」は、卒業式での国旗国歌尊重儀式を通じて、国民全体に強制していることと変わるところはない。
すなわち、教職員に対する「強制」の効果は、生徒や父母、一般市民にまで及ぶのである。このような効果を容認する解釈は、とうてい憲法が許容するところではない。
(2017年2月24日)

卒業式直前・五者(原告団・元原告団)総決起集会で

弁護団の澤藤です。お集まりの皆さまに、冒頭のご挨拶を申しあげます。
本日はやや冷えておりますが、確実に春が近づいています。春は万物にとっての希望の季節。とりわけ学校にとっては、若者たちの巣立ちを祝い、また新しい生徒たちを迎え入れる、慶事の季節。

しかし、石原慎太郎第2期都政下で、「10・23通達」が発出されて以来、希望の春は憂鬱な春に変わってしまいました。それから年を重ねて今年は14度目の憂鬱な春。

この間、梅が咲けば重苦しい卒業式が間近となり、桜が咲けばまた重苦しい入学式。これは、きっと短い悪夢だ。いつまでもこんなことが続くはずはないと念じつつ闘いを続けながら、時を過ごしてまいりました。

この間、屈することなく闘い続けて来られた皆さまに心からの敬意を表明いたします。

この恐るべき事態がこんなにも続くとは、当初は思ってもみないことでした。これは、極右の知事が選挙で思いがけなくも308万票もとって舞い上がり、教育委員会を側近で固めてやってのけた、突出したできごとだと思っていたものです。知事が代わるまで教育委員が交替するまでの我慢…。ところが、今その知事の権勢は地に落ち、3代目の後継知事となっています。「10・23通達」発出当時の教育委員は、一人も残っていません。それでも、日の丸・君が代強制の「10・23通達」と卒業式入学式の「実施指針」は生き延びています。

じつは、私たちは「トンデモ知事」や、「トンデモ都教委」と闘ってきたのではなく、安倍政権の基本性格に見られるような、この時代の趨勢と切り結び闘ってきたのではないかと思うのです。

安倍政権は、明らかにこれまでの保守政権とは違います。従前の自民党の改憲案とは明確に質を異にする「自民党改憲草案」を掲げて、戦後レジームからの脱却を呼号する右翼政権。特定秘密保護法を成立させ、内閣法制局長官の更迭までして集団的自衛権行使容認の解釈改憲を強行し、戦争法成立を強行採決した暴走内閣。

このような国民主権や平和主義に背を向けて暴走する政治勢力が必要とするのが、ナショナリズムにほかなりません。ナショナリズムがもたらす、自国の優越意識と、他国への差別感情と排外主義。これらがなくては、改憲も軍事大国化もできることではありません。

ナショナリズムの第一歩。それこそが、日の丸・君が代の強制なのです。今は、そのようなナショナリズム鼓吹の時代なのではないでしょうか。

東京都に限らず、全国にナショナリズム鼓吹の風が吹いています。国旗国歌は小中学校高校だけでなく、保育園・幼稚園から国立大学にまで、事実上の強制が行われています。国家主義横行の時代には、平和も人権も蹂躙されていく。「国権栄えて民権亡ぶ」の図となるのです。

私たちの、日の丸・君が代強制との闘いは、そのような国家意思と切り結ぶ重大事なのだと考えざるをえません。

この間、法廷の闘いでは、まず予防訴訟があり、再発防止研修執行停止申立があり、人事委員会審理を経て4次にわたる取消訴訟があり、再雇用拒否を違法とする一連の訴訟がありました。難波判決や大橋判決があり、いくつかの最高裁判決が積み重ねられて、今日に至っています。

法廷闘争は一定の成果をあげてきました。都教委が設計した累積過重の思想転向強要システムは不発に終わり、原則として戒告を超える懲戒処分はできなくなっています。しかし、法廷闘争の成果は一定のもの以上ではありません。起立・斉唱・伴奏命令自体が違憲であるとの私たちの主張は判決に結実してはいません。戒告に限れば、懲戒処分は判決で認められてしまっています。

また、何度かの都知事選で、知事を変え都政を変えることが教育行政も変えることになるという意気込みで選挙戦に取り組みましたが、この試みも高いハードルを実感するばかりで実現にはいたっていません。

しかし、闘いは終わりません。都教委の違憲違法、教育への不当な支配が続く限り、現場での闘いは続き、現場での闘いが続く限り法廷闘争も終わることはありません。今、判決はやや膠着した状況にありますが、弁護団はこれを打破するための飽くなき試みを続けているところです。

時あたかも、第4次処分取消訴訟の東京地裁審理が結審を迎えます。来たる3月15日が結審の法廷となります。2月末〆切で、今弁護団は最終準備書面を作成中です。

その事件の判決が目ざすところは、これまでの最高裁の思想良心の自由保障に関する判断枠組みを転換して、憲法学界が積み上げてきた厳格な違憲審査基準を適用して、明確な違憲判断を勝ち取ることです。まだ、1件も大法廷判決はないのですから、事件を大法廷で審理して、あらたな判例を作ることはけっして不可能ではありません。

また、憲法19条違反だけでなく、子どもの教育を受ける権利を規定した26条や教員の教授の自由を掲げた23条を根拠にした違憲・違法の判決も目ざしています。国民に対する国旗国歌への敬意表明強制はそもそも立憲主義に違反しているという主張についても裁判所の理解を得たい、そう考えています。

国旗国歌は、国家と等値できる存在です。国旗国歌への敬意表明とは国家に対する敬意表明にほかなりません。ですから、公権力が国民に国旗国歌への敬意表明を強制することは、国家が主権者である国民に対して「オレを尊敬しろ」と強制していることなのです。主権者国民によって作られた国家が国民に向かって「オレを尊敬しろ」と強制することなどできるはずがない。それは、憲法的には背理であり倒錯だというのが、私たちの主張です。

現在の最高裁判決の水準は、意に沿わない外的行為の強制が内心の思想・良心を傷つけることを認め、起立斉唱の強制は思想良心の間接的な制約にはなることを認めています。最高裁は、「間接的な制約に過ぎないのだから、厳格な違憲判断の必要はない」というのですが、「間接的にもせよ思想良心の制約に当たるのだから、軽々に合憲と認めてはならない」と言うべきなのです。卒業式や入学式に「日の丸・君が代」を持ち出す合理性や必要性の不存在をもう一度丁寧に証明したいと思います。

第4次訴訟では、ほぼ全員の原告が法廷で意見陳述をし、原告本人として証言しました。毎回の法廷が感動的なもので、裁判官も真面目によく聞いてくれたという印象でした。原告のみなさんが、悩みながらも、生徒の前で教師としての生き方が問われているとの思いから、不当な職務命令には従えないとした心情をよく理解してもらえたのではないかと思っています。

闘うことを恐れ、安穏を求めて、長いものに巻かれるままに声をひそめれば、権力が思うような教育を許してしまうことになってしまいます。苦しくとも、不当と闘うことが、誠実に生きようとする者の努めであり、教育に関わる立場にある人の矜持でもあろうと思います。

私たち弁護団も、法律家として同様の気持で、皆さまと意義のある闘いをご一緒いたします。今年の卒業式・入学式にも、できるだけの法的なご支援をする弁護団の意思を表明してご挨拶といたします。
(2017年2月18日)

3歳児に日の丸・君が代を刷り込め

「三つ子の魂百まで」というじゃないか。国民をマインドコントロールする遠大な計画は3歳児の教育から始めなければならない。そう。マインドコントロールとは、ナショナリズムを国民に吹き込むことだ。マインドコントロールという言葉の響きが嫌いなら、「思想の善導」と言い換えておこう。国旗・国歌(日の丸・君が代)とは、善良な思想の象徴だ。日の丸・君が代を抵抗なく受容することは、権力に従順な証しなんだ。だから、今回の「3歳児からの日の丸・君が代」、素晴らしいことじゃないか。さすがは、アベ政権。さすがに極右に支えられた政権。よくぞ、その役割を果たしているじゃないか。

教え込まなければ、国家の価値など分かるわけがない。ナショナリズムとは、自然に育つものではなく刷り込まねばならないことなのだ。先人がそのために、いかに真剣に国民を欺す努力を重ね、硬軟さまざまなその技を磨いてきたか。国家のためには命を捨てるとまでの国民精神を鍛え上げた、その成功の過程をもう一度よく振り返って、貴重な教訓を噛みしめなければならない。

とりわけ、今は基本的人権などという余計なことを学校が教える。国際化の時代と言われたり、コミュニティが大切だと言われたり。企業が国家を凌駕したり。国家を単位とするナショナリズムは旗色が悪い。誰かが先導し鼓吹しなければ、愛国心も国家ファースト主義も自然に育つものではないのだ。国民の側からのナショナリズム煽動の動きが弱ければ、国家自身がナショナリズムを鼓吹する以外にない。それが、日の丸・君が代強制のホンネでないか。そのどこが悪い。どこに問題があるというのだ。なんと言っても、国家あっての国民じゃないか。

ナショナリズムを叩き込むのは、余計な知恵の付かないうちがよい。生まれ落ちた瞬間から、日の丸であやされ、君が代を子守歌にする環境が最も望ましい。それが無理でも3歳からは、日の丸・君が代に親しむ環境を作るのだ。親しむというよりは、叩き込むというべきだろう。子どもに知恵が付いて、「国家よりは、個人の尊厳」とか、「主権者としての自覚」などと言いだしたらもうおしまいだ。3歳ならまだ間に合う。まだ、国家の何たる、民族の何たるかも分からない。日の丸・君が代と天皇制や戦争との結びつきも、何も知らない。知らないことが重要なのだ。ものの分からないうちがナショナリズム煽動と刷り込みのチャンスだ。勝負のときは短いのだ。

3歳児の公的な預け先は3系統ある。
文科省管轄の幼稚園。厚労省管轄の保育園。そして幼稚園と保育所の機能を併せ持つ内閣府管轄の「認定こども園」。その全てが、3歳児から「国旗・国歌に親しむ」教育を受けさせることになる。これは、われらナショナリストにとって欣快の慶事ではないか。

これまで、幼稚園と認定保育園とは国旗についてだけ「親しむ」とされていたが国歌については定めがなかった。保育園に至っては、国旗・国歌の両方について、何の定めもなかった。これは、どう考えてもおかしい。保育園とはまるで、若い両親が自分の仕事を優先して子どもを施設に預けさえすればよいかのごときではないか。保育園には、国家や自治体が金の補助をしているのだ。それなら、見返りに国家が望む子どもに育つよう、ナショナリズムを刷り込む。「預けた子どもに余計な思想教育などもってのほか」などという輩は、保育園からも幼稚園からも閉め出せばよいのだ。

塚本幼稚園を見よ。毎朝、感心にも君が代を唱い教育勅語を暗唱しているというではないか。だから、アベの妻が名誉校長になるのだ。それだけではない。国有地をただ同然で払い下げてもらえるのだ。国家のための教育を行っているところに、国家が報いるのは当然だろう。

キミ、人間が上手に生きていくために一番大切な資質って何だと思う?
それは、従順ということだ。あるいは順応能力と言ってもよい。国家に、体制に、社会に、企業に、無理なく逆らわずに生きていくことのできる資質。善導されたとおりに善良な思想を形成し、柔軟に自分を体制に合わせて生きていく能力だ。なまじ自主性だのプライドなど持ち合わせているとこの世は生きにくくなる。付け焼き刃でない、体制ベッタリの順応能力、その資質を育むには3歳児からだ。そこまで見越しての、3歳児からの日の丸・君が代教育なのだ。

アベ内閣の遠大な、愚民化教育政策に万歳三歳。いや万歳三唱!!
(2017年2月17日)

大統領令拒否のイェーツの良心と、「日の丸・君が代強制」を拒否する教師の良心と。

サリー・クイリアン・イェーツ。オバマが任命し、トランプが解任したアメリカの司法副長官である。一昨日までは、まったく知らなかったその人が、昨日から今日(1月31日)にかけて、世界の注目を浴びる存在となった。

この人は、弁護士から検察官となり、連邦検事からオバマ政権で司法副長官に指名され連邦上院で承認を受けた。2015年5月のこと。その票決は84対12であったという。その1年半後に政権が交代したが、トランプ任命の司法長官に対する議会の承認が遅れる事態において、その空位を埋めるために、トランプの要請を受けて司法長官代行を引き受けた。暫定措置ではあるが、司法省のトップとなったわけだ。

こともあろうに、ならず者トランプは、イスラム教徒の多い中東・アフリカ7カ国(シリア・イラク・イラン・リビア・ソマリア・イエメン・スーダン)からの難民・移民の入国を一律制限する大統領令を発して、世界を混乱におとしいれた。米国内にもこの無謀な措置を違憲とする動きが澎湃として湧き起こった。違憲訴訟が起こされたら、政権側の法律家がこれに対応する。イェーツは、その元締めの立場に立たされた。

世界に衝撃が走った。「イェーツ米司法長官代行は30日、『大統領令は、合法であるとの確信が持てない』として、司法省は政権を擁護しないとの見解を明らかにした」というのだ。「この大統領令を法廷で弁護しないよう省内に指示した」「大統領令の合法性や政策としての有効性に疑問があると述べた」という表現の報道もある。

イェーツの決意は徹底していた。同省の弁護士らに、こう述べたという「大統領令が『常に正義を追求し真実を支持するという司法省の厳粛な義務と合致している』とは考えない」。

トランプ政権はただちに長官代行を解任し、後任を任命した。この間、わずか1時間であった。ホワイトハウスの声明は、イェーツ氏が「米国の市民を守るために作られた法律命令の執行を拒否し、司法省を裏切った」と言っている。

イェーツは、政権の上級法律顧問への書簡でこう言っているそうだ。
「(司法長官代行としての)私の責任は、司法省の立場が法的に正当化できると同時に、法律の最も正しい解釈に裏付けられいるよう、保障することです」、「私たちが法廷でとる立場は、常に正義を追求し、正しいことを支持するというこの機関の、厳粛な責務に常に一致していなければならない。」

本来、行政は上命下服の関係が貫かれた一体性を保持しなくてはならない。大統領令に公然と叛旗を翻したイェーツの行為には、当然に批判の立場もあろう。しかし、彼女の職責に関わる良心からは、やむにやまれぬ行為であったことが推察される。

行政の一体性だけでなく、そもそも政権の存立自体も、結局は国民の福利のために憲法が定めた制度である。違憲の大統領令の執行が国民の福利に反するこのときに、無難に大統領令に従うべきか、それとも、憲法の理念を遵守すべしという法律家の良心が命じるところに従うべきか。

彼女の立場や気持は、日の丸に正対して起立し君が代を斉唱するよう命じられた教員によく似ている。公務員としては職務命令に従うべきとされても、教育者の良心が命じるところにおいては起立してはならないのだ。国家は、国民に価値観を強制してはならない。ましてや教育の場で、国家主義を子どもたちに刷り込むことは許されない。教師として、そのような行為に加担してはならないとして不起立を貫いた延べ500人に近い教師が懲戒処分を受けているのだ。

どう考えても、人種・国籍・民族・宗教による差別意識丸出しの、違憲明白な大統領令が間違っている。多くの抗議によるその撤回あるいは是正が望まれる。日の丸・君が代も同様だ。石原慎太郎アンシャンレジーム都政が作りあげた、国家主義丸出しの「日の丸・君が代強制」が間違っているのだ。そして、その強制を支持しているアベ政権の歴史修正主義が間違っているのだ。

いま、世界の世論は、トランプを責めてイェーツを称賛している。これこそが歴史の求める健全な状況だ。日の丸・君が代強制も同じこと。良心に基づく不起立の教員を責めてはならない。強制と処分を繰り返している都教委をこそ、そしてその背後にあるアベ政権をこそ批判し責めるべきなのだ。
(2017年1月31日)

「国旗国歌(日の丸・君が代)とは何か」

東京都(教育委員会)を被告とする、第4次・東京「君が代」裁判(「君が代」斉唱職務命令違反による懲戒処分取消訴訟)は、証拠調べが終了し次回が結審となる。「第13準備書面」となる最終準備書面を弁護団で分担して執筆中だが、さて何を書くべきか。これまでの繰りかえしではなく、裁判官に説得力をもつ論旨をどう組み立てるべきか。

私が分担する幾つかのパートの中に、「国旗・国歌(日の丸・君が代)とは何か」という標題の章がある。国旗・国歌についても、また「日の丸・君が代」についても、これまでも幾度となく書面を作成してきた。とりわけ、戦前と戦後における日の丸・君が代の歴史について。これまでとは違った切り口で、「国旗・国歌(日の丸・君が代)とは何か」を、どう描くことができるだろうか。

これまでは、国旗国歌への敬意表明の強制が、思想・良心の自由や信仰の自由という基本的人権を侵害するという枠組みの主張を主としてきた。「国旗・国歌(日の丸・君が代)とは何か」の内容も、それに整合する叙述となっていた。

第4次訴訟では、これを「主観的アプローチ」として、「客観的アプローチ」と名付けたもう一つの枠組みをも重視する方針としている。主観的アプローチが、特定の人の人権に対する関係で違憲違法の問題を生じるのに対し、客観的アプローチは権力の発動自体を違憲違法とするもので、だれに対する関係でも許容されないことになる。

「客観的アプローチ」の一つは、国家と国民の関係についての原理論的な立論である。国旗国歌が国家象徴であることから、主権者である国民と国家との関係が、国旗国歌の取り扱いに投影されることになる。そのことから、国旗国歌の取り扱いに関する公権力の発動には自ずから限界が画されることになる。

「客観的アプローチ」のもう一つは、問題の起きているのが教育の場であることからの教育法理による権力への制約である。公権力は、原則として教育内容に介入することはできない。

また、教員は、その職責において、生徒にあるべき教育を受けさせなければならない。多様な価値観が併存することがノーマルな社会で、多様な価値観に寛容でなければならない。国家と個人との関わりを、国家主義的な立ち場のみを是として、国旗国歌(日の丸・君が代)尊重だけが唯一の正しい立場だとしてはならず、そのような職責全うのための行為は許容されなければならない。

以上のような立場からの論述なのだが、さて具体的にはどうなるだろうか。

そもそも国家とは国民の被造物にすぎない。国民によってつくられた被造物である国家が、造物主である国民に向かって、「我を敬せよ」と強制することは、背理であり倒錯である。国旗国歌への敬意表明の強制とは、このようなものとして公権力が原理的になしうるものではない。

国旗国歌は、国家象徴として国家と等価である。国民に国旗国歌への敬意表明を強制できるとすることは、国家に国民を凌駕する価値を認めるということにほかならない。近代憲法をもつ国において、本来なし得ることではない。

国旗国歌は、原理的な意味づけをもつだけではない。歴史的な意味を付与されることになる。ハーケンクロイツは、ナチスの全体主義、民族的排外主義、優生思想等々との結びつきによって戦後廃された。「日の丸・君が代」はどうだ。天皇主権、軍国主義・植民地主義・人権弾圧の大日本帝国とあまりに深く結びついたが、この旗と歌は、日本国憲法下に生き延びた。

「日の丸・君が代」を、日本国憲法尊重の立場から、反価値の象徴と考えることには合理的根拠があり、反憲法価値の象徴への敬意表明の強制は、思想良心の自由の侵害(憲法19条)として許されない。

それだけでなく、「日の丸・君が代」は、天皇を神とし祭司ともする天皇教(国家神道)とあまりに深く結びついた、宗教国家の象徴であった。天皇教以外の信仰をもつ者にとって、「日の丸・君が代」の強制は異教の神への崇拝を強制するものとして受け入れがたく、憲法20条(信仰の自由)に抵触する。

原告らは、教員として、日本国憲法が想定する国家からの自由と自主性を確立した明日の主権者を育成する任務を有している。子どもに寄り添う立場から、国旗国歌・「日の丸君が代」尊重が唯一の「正しい」考え方であるとの一方的な押しつけを容認し得ない。

憲法とは、究極的には国家と国民の関係の規律である。国家と国民の関係については、憲法が最大の関心をもつところである。国旗国歌が国家象徴である以上は、国旗国歌の取り扱いは、憲法の最大関心事と言ってよい。

国家が、すべての国民にとって親和的であろうはずはない。国家にまつろわぬマイノリティーとしての国民は必ず存在する。すべての国民に、国家象徴への敬意表明を強制することは、必然的に少なからぬ国民にとって、自らの内面に反する行為を強制されることになる。そして、真面目な教員ほど、国家主義による生徒への思想動員に加担できないのだ。

私たちは、戦前をどのように反省したのだろうか。

集団の象徴として意味づけられた「旗」(デザイン)や「歌」(歌詞+メロディ)は、対外的には他の集団との識別機能をもち、対内的には集団の成員を統合する機能をもつとされる。国家あるいは国民の象徴と位置づけられた国旗・国歌も同様に、対外的には他国との識別機能をもち、対内的には国民の統合作用を発揮する。

そのことは、国旗国歌がナショナリズムと結合し、ナショナリズムの鼓吹の道具にされていると言うことにほかならない。国旗国歌が歴史的にもつ理念とその理念に基づく統合機能は結局はマジョリティの支配の道具にほかならない。

そのマジョリティの要望を教育の場に持ち込んではならない。教育とは、多様性を重んじつつ、それぞれの選択による人格の完成を目指すものではないか。「みんな違って、みんないい」のだ。型にはめ、同じ価値観で、同じ行動をとらせるように訓練することは、教育の場には馴染まないのだ。
(2017年1月12日)

アメリカ国民には、星条旗を焼却する「表現の自由」の保障がある。

一昨日(11月30日)の、【ワシントン=時事】配信記事が目を引く。
「トランプ次期米大統領は29日、国旗を燃やす抗議行動に対し、市民権剥奪か禁錮を刑罰として科すべきだという考えを示した。米国では党派を問わず、憲法で保障された言論の自由を軽視していると批判が広がっている。」という内容。

この2文の前半。反知性・差別主義のトランプが、「国旗を燃やす抗議行動に対し、市民権剥奪か禁錮を刑罰として科すべきだという考えを示した」では、犬が人に噛みついた程度のニュースで、目を引くほどのものではない。しかし、後半の「米国では党派を問わず、憲法で保障された言論の自由を軽視していると批判が広がっている」というのは、人が犬に噛みついたほどのニュースバリューのある記事ではないか。

「トランプ氏は29日朝、ツイッターに『国旗を燃やす行為は、許されるべきではない』と投稿。『燃やした場合は結果が伴わなければならない。市民権剥奪か刑務所行きだ』と書き込んだ。トランプ氏の大統領選勝利に抗議して国旗が燃やされたというニュースに、触発されたとみられている。」
こここまでが、「犬が人に噛みついた」ニュースバリューのない記事。

しかし、ここからが「人が犬に噛みついた」ニュースバリュー満点の記事となっている。
「米メディアによれば、連邦最高裁は過去の判決で市民権を奪う刑罰を禁じている上、国旗を燃やす行為を憲法上の権利と認めている。
 アーネスト大統領報道官は、記者会見で『国民の多くが国旗を燃やすのは不快だと感じるが、私たちには権利を守る責任がある』とトランプ氏を批判。共和党のマコネル上院院内総務も『米国には不快な言論を尊重する長い伝統がある』と異論を唱えた。
 米メディアの間では『トランプ氏が反対論をどのように弾圧するかを示す恐ろしい証拠』などと非難する声が強まっており、トランプ氏を支えてきたギングリッチ元下院議長は『誰からもチェックを受けず(ツイッターで)つぶやくべきではない』とたしなめた。」

トランプは、刺激的なポピュリズムの言動で大統領選に勝利した。ナショナリズムこそは、古典的にポピュリズムの典型テーマ。調子に乗って「国旗を燃やす奴は刑務所行きだ」と愛国者ぶりを発揮して見せたのだ。ところが、この発言は良識派から強くたしなめられての失点になったという構図だ。アメリカはポピュリズム一辺倒ではない。共和党内からの批判も出ているというのが心強い。

ところで、国旗(星条旗)の焼却は犯罪となるだろうか。トランプ政権は、国旗(星条旗)の焼却者を「刑務所行き」にできるだろうか。

アメリカ合衆国は、さまざまな人種・民族の集合体である。強固なナショナリズムの統合作用なくして国民の一体感形成は困難だという事情がある。当然に、国旗や国歌についての国民の思い入れが強い。が、それだけに、国家に対する抵抗思想の表現として、国旗(星条旗)を焼却する事件が絶えない。合衆国は1968年に国旗を「切断、毀棄、汚損、踏みにじる行為」を処罰対象とする国旗冒涜処罰法を制定した。だからといって、国旗焼却事件がなくなるはずはない。とりわけ、ベトナム戦争への反戦運動において国旗焼却が続発し、合衆国全土の2州を除く各州において国旗焼却を処罰する州法が制定された。その法の適用において、いくつかの連邦最高裁判決が国論を二分する論争を引きおこした。

著名な事件としてあげられるものは、ストリート事件(1969年)、ジョンソン事件(1989年)、そしてアイクマン事件(同年)である。いずれも被告人の名をとった刑事事件であって、どれもが無罪になっている。なお、いずれも国旗焼却が起訴事実であるが、ストリート事件はニューヨーク州法違反、ジョンソン事件はテキサス州法違反、そしてアイクマン事件だけが連邦法(「国旗保護法」)違反である。

連邦法は、68年「国旗冒涜処罰」法では足りないとして、89年「国旗保護」法では、アメリカ国旗を「毀損し、汚損し、冒涜し、焼却し、床や地面におき、踏みつける」行為までを構成要件に取り入れた。しかし、アイクマンはこの立法を知りつつ、敢えて、国会議事堂前の階段で星条旗に火を付けた。そして、無罪の判決を獲得した。

アイクマン事件判決の一節である。
「国旗冒涜が多くの者をひどく不愉快にさせるものであることを、われわれは知っている。しかし、政府は、社会が不愉快だとかまたは賛同できないとか思うだけで、ある考えの表現を禁止することはできない」「国旗冒涜を処罰することは、国旗を尊重させている自由、そして尊重に値するようにさせているまさにその自由それ自体を弱めることになる」
なんと含蓄に富む言葉だろうか。(以上の出典は、「日の丸・君が代」強制拒否訴訟における土屋英雄筑波大学大学院教授の意見書から)

わが国の刑法には、外国国旗損壊罪(92条)はあっても、自国の国旗(日の丸)損壊罪はない。この点、アメリカよりはわが国の文明度が高いと誇ることができよう。しかし、これも現行憲法が健全なうちのこと。自民党の改憲草案には、国民の国旗国歌尊重義務が明記されている(3条2項)。こんな憲法になれば国旗(日の丸)損壊罪や国旗侮辱罪が成立するだろう。全国民が一糸乱れず国旗を仰ぎ見る、これは全体主義の悪夢ではないか。

トランプを当選させたアメリカだが、けっして全体主義化しているのではないと知って、やや安堵の思いである。
(2016年12月2日)

あらためて「薄皮まんじゅう理論」にご理解を

2003年10月、東京都の石原教育行政が、悪名高い「10・23通達」を発令して以来、予防訴訟を皮切りに、都(教委)を被告とする数多くの訴訟が提起されました。その訴訟の支援を軸として、日の丸・君が代への起立斉唱の強制に象徴される「教育の自由剥奪」に反対する運動が組み立てられています。

多くの「10・23通達」関係訴訟支援運動を糾合する組織として結成されたものが、「教育の自由裁判をすすめる会」。その<共同代表>が、下記の9人です。
  市川須美子(獨協大学、日本教育法学会会長)
  大田 尭(東京大学名誉教授)          
  尾山 宏(東京・教育の自由裁判弁護団長)    
  小森陽一(東京大学大学院教授)         
  斎藤貴男(ジャーナリスト)           
  醍醐 聰(東京大学名誉教授)          
  俵 義文(子どもと教科書全国ネット21事務局長)
  野田正彰(関西学院大学教授)          
  堀尾輝久(東京大学名誉教授)    

訴訟を担当する者の一人として、物心両面において訴訟を支えていただいていることに厚く感謝申しあげます。

その「会」の定期総会も回を重ねて今年は第12回。下記の要領で開催されます。
 日 時 12 月3 日(土) 13:30 ~
 会 場 東京・渋谷区立勤労福祉会館
(渋谷駅下車徒歩7 分)
 第1部 総会行事
  弁護団挨拶 加藤 文也弁護士
  原告団報告
  すすめる会活動報告・方針 人事等
 第2部 記念講演
   講 師 木村 草太(首都大学東京教授)
       「君が代不起立問題の視点―なぜ式典で国歌を斉唱するのか?」

会は、「どなたでもご参加いただけます。」「会員以外の方も大歓迎です!」と呼びかけています。是非、木村草太さんの記念講演に耳を傾けてください。

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ところで、共同代表のお一人である醍醐聰さんが、定期総会にメッセージを送られ、これをご自分のブログに掲載されています。タイトルが、「『国家の干渉からの自由』を超えて『国家への干渉の自由』を」というもの。いつもながら、示唆に富む内容だと思います。
  http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d56e.html正確には、ブログで醍醐さんのメッセージの全文をお読みいただくとして、タイトルと3本の小見出しをつなぐことで、大意と問題提起の把握は可能です。

☆『国家の干渉からの自由』を超えて『国家への干渉の自由』を
☆「内心の自由」は個人の尊厳を守る最後の砦
☆意見の違いは「認め合う」だけでよいのか?
☆「日の丸・君が代」強制に対する「攻めの運動」を

今、運動のスローガンとなっている「思想・良心の自由」擁護とは、外的な行為とは切り離された「内心レベルの自由」を権力の侵害から護ること。これは、個人の尊厳を守る最後の砦ではあるが、いま、これだけではなくもっと能動的な「攻めの運動」の必要があるのではないか。社会や権力に、各個人の意見の相違を認めさせるだけにとどまらず、活発に表明された意見の交換を通じて、公権力の政策を変更するよう働きかける権利を確立することを目的とすべきではないだろうか。つまり、獲得すべき目標は、『国家の干渉からの自由』を超えて『国家への干渉の自由』であるべきと問題提起したい。

弁護団の一員として訴訟実務を担っている立場から、この問題を受け止めて、以下のとおり、多少の釈明を申しあげます。

13年前この事件に取り組んで以来、「教育の自由」と「精神的自由」の二つの分野の問題として考え続けてきました。「教育の自由」は制度の問題です。憲法26条(国民の教育を受ける権利)に支えられ、教育基本法に明記されている、教育行政は教育の内容に不当な支配を及ぼしてはならない、とする大原則。そして「精神的自由」は、19条(思想・良心の自由)、20条(信仰の自由)、そして21条(表現の自由)の内心のあり方とその表現の人権問題です。

「君が代」不起立を、19条違反の問題として構成するか。21条問題として把握するか。実務的な感覚からすれば、ハードル低い19条問題とすることは当然でした。19条で保障された各人の思想・良心が外部に表出したものが表現ですから、21条で保障された表現行為は必ず他者と関わりを持ちます。それだけに、19条よりは21条の保障の意味が大きく、要件のハードルが高くなります。

憲法の標準的な教科書には、19条の権利保障は絶対的なもので制約はできないとするものが多いのですが、これは19条の権利性を厳格に内心に限定していささかの外部的行為も伴わないことを前提としてのことです。「君が代」不起立は、受動的なものではありますが、「不起立」という不作為の外部的行為を伴います。しかし、これは21条の表現の自由の問題ではない。19条の思想・良心の保障に不可避的に付随する態様のもので、これも19条の絶対的な権利保障の範疇に入るものとして考えるべきだと主張したのです。これが、アンコをごく薄い皮一重で包み込んだ「薄皮まんじゅう」をイメージしての「薄皮まんじゅう理論」。アンコが「(内面の)思想・良心」、その自由を護るために不可欠の薄皮一枚が「不起立」という受動的な身体的所作。薄皮一枚を被せたところで、アンコはアンコ。これを被せた途端に19条の権利性が失われるのは不合理きわまるという理屈です。

不起立を、積極的に思想や良心を外部に表出する表現行為と構成すれば、たちまちに他の法的な価値、生徒やその父母や行政裁量などとの調整の問題が生じてきます。憲法の用語で言えば「公共の福祉」による制約の問題です。

「内心の自由」とそれを表現する「外的行為の自由」は、ご指摘のとおり、本来切断のしようがありません。11月11日のブログで紹介した、クリスチャンである原告のお一人が、こう言っています。
「人の心と身体は一体のものです。信仰者にとって、踏み絵を踏むことは、心が張り裂けることです。心と切り離して体だけが聖像を踏んでいるなどと割り切ることはできません。身体が聖像を踏めば、心が血を流し、心が病気になってしまうのです。」「「君が代」を唱うために、「日の丸」に向かって起立することも、踏み絵と同じことなのです。」

人の心と身体を切り離して、「『起立・斉唱・ピアノ伴奏』という『外部的行為』は、どのような思想・良心をもとうとも、その内容とは関わりなく、誰にもできるはず」というのが、都教委の「理屈」となっています。「起立して斉唱する」という、日の丸・君が代への敬意表明の身体的動作は、挨拶や会釈と同じ程度のものという感覚なのです。

醍醐さんのメッセージの中に、「『沈黙する自由』は人間としての尊厳を守る最後の砦」という一文があります。まことにそのとおりなのですが、今、教育公務員について問題にされているのは、「不起立の自由」の有無です。積極的に抗議する自由ではなく、意見を述べる自由ですらなく、権力の作為命令に人間としての尊厳をかけての抵抗が権利として認められるか否かのぎりぎりの瀬戸際。

これが教育の場での現実です。明日の主権者を育てる教育現場のうそ寒いこの実態をご理解いただき、まずは「公権力の干渉からの自由」を確立することに集中し、その成果の上に、さらなる「国家への干渉の自由」獲得を展望したいと思います。そのための息の長い運動に引き続いてのご支援をよろしくお願いします。
(2016年11月13日)

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