澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明強制とはいかなる意味をもっているのか

(2021年3月21日)
都教委の悪名高い「10・23通達」(2003年)以来、都内の全公立校に卒業式・入学式のたびに、君が代斉唱時の「起立」の職務命令が発せられている。違反者には懲戒処分である。

もうすぐ懲戒処分取消の第5次訴訟の提起となる。原告は14名となる予定。3月31日と提訴日を決めて、いま訴状の作成準備を重ねている。

その準備の中であらためて思う。憲法を守るしっかりした司法があれば、国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制などはあり得ないものを。嘆かわしきは、憲法に忠実ならざる司法の姿。

その訴状の冒頭の一部(未確定版)を引用しておきたい。裁判所にこの訴訟の概要を説明する一文、新聞ならリードに当たる部分の一部である。

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本件訴訟の概要と意義(抜粋)

☆ 本件は毀損された「個人の尊厳」の回復を求める訴えである
(1) 精神的自由の否定が個人の尊厳を毀損している
本件は原告らに科せられた懲戒処分の取消を求める訴えであるところ、本件各懲戒処分の特質は、各原告の思想・良心・信仰の発露を制裁対象としていることにある。原告らに対する公権力の行使は、原告らの精神的自由を根底的に侵害し、そのこと故に原告らの「個人の尊厳」を毀損している。
原告らは、いずれも、公権力によって国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する敬意表明を強制され、その強制に服しなかったとして懲戒処分という制裁を受けた。しかし、原告らは、日本国憲法下の主権者の一人として、その精神の中核に、「国旗・国歌」ないしは「日の丸・君が代」に対して敬意を表することはできない、あるいは、敬意を表してはならないという確固たる信念を有している。
国旗・国歌(日の丸・君が代)をめぐっての原告らの国家観、歴史観、憲法観、人権観、宗教観等々は、各原告個人の精神の中核を形成しており、国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する敬意表明の強制は、原告らの精神の中核をなす信念に抵触するものとして受け容れがたい。職務命令と、懲戒処分という制裁をもっての強制は、原告らの「個人の尊厳」を毀損するものである。

(2)国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の意味
国旗・国歌が、国家の象徴である以上、原告らに対する国旗・国歌への敬意表明の強制は、国家と個人とを直接対峙させて、その憲法価値を衡量する場の設定とならざるを得ない。
国家象徴と意味付けられた旗と歌とは、被強制者の前には国家として立ち現れる。原告らはいずれも、個人の人権が、価値序列において国家に劣後してはならないとの信念を有しており、国旗・国歌への敬意表明の強制には従うことができない。
また、国旗・国歌とされている「日の丸・君が代」は、歴史的な旧体制の象徴である以上、原告らに対する「日の丸・君が代」への敬意表明の強制は、戦前の軍国主義、侵略主義、専制支配、人権否定、思想統制、宗教統制への、容認や妥協を求める側面を否定し得ない。
「日の丸・君が代」は、原告らの前には、日本国憲法が否定した反価値として立ち現れる。原告らはいずれも、日本国憲法の理念をこよなく大切と考える信念に照らして、日の丸・君が代への敬意表明の強制には従うことができない。
国旗・国歌(日の丸・君が代)に敬意を表明することはできないという、原告らの思想・良心・信仰にもとづく信念と、その発露たる儀式での不起立・不斉唱の行為とは真摯性を介して分かちがたく結びついており、公権力による起立・斉唱の強制も、その強制手段としての懲戒権の行使も各教員の思想・良心・信仰を非情に鞭打ち、その個人の尊厳を毀損するものである。司法が、このような個人の内面への鞭打ちを容認し、これに手を貸すようなことがあってはならない。

(3) 教育者の良心を鞭打ってはならない
また、本件は教育という営みの本質を問う訴訟でもある。
原告らは、次代の主権者を育成する教育者としての良心に基づいて、真摯に教育に携わっている。その教育者が教え子に対して自らの思想や良心を語ることなくして、教育という営みは成立し得ない。また、教育者が語る思想や良心を身をもって実践しない限り教育の成果は期待しがたい。『面従腹背』こそが教育者の最も忌むべき背徳である。本件において各原告が、「国旗不起立・国歌不斉唱」というかたちで、その身をもって語った思想・良心は、教員としての矜持において譲ることのできない、「やむにやまれぬ」思想・良心の発露なのである。これを、不行跡や怠慢に基づく懲戒事例と同列に扱うことはけっして許されない。
国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制によって、教育現場の教員としての良心を鞭打ち、その良心の放棄を強制するようなことがあってはならない。

(4) 原告らに、踏み絵を迫ってはならない
原告らは、公権力の制裁を覚悟して不起立を貫き内なる良心に従うべきか、あるいは心ならずも保身のために良心を捨て去る痛みを甘受するか、その二律背反の苦汁の選択を迫られることとなった。原告らの人格の尊厳は、この苦汁の選択を迫られる中で傷つけられている。
原告らの苦悩は、江戸時代初期に幕府の官僚が発明した踏み絵を余儀なくされたキリスト教徒の苦悩と同質のものである。今の世に踏み絵を正当化する理由はあり得ない。キリスト教徒が少数だから、権力の権威を認めず危険だから、という正当化理由は成り立たない。
思想・良心・信仰の自由の保障とは、まさしく踏み絵を禁止すること、原告らの陥ったジレンマに人を陥れてはならないということにほかならない。個人の尊厳を掛けて、自ら信ずるところにしたがう真摯な選択は許容されなければならない。

以上のとおり、本件は毀損された原告らの「個人の尊厳」の回復を求める訴えである。その切実な声に、耳を傾けていただきたい。

権力者が「愛国」を口にするとき ー 民主主義は危機のさなかにある。

(2021年3月14日)
全人代が終わった。中国当局は、もっぱらコロナを抑え込んだ実績を強調し、引き続いての経済発展の喧伝にこれ努めているが、日本の各紙は香港問題に関心を寄せて報道している。

この全人代が採択した「決定」は、賛成2895票、反対0票、棄権1票であった。恐るべき、中国共産党の中央集権体制である。この国に異論の存在は許されない。ということは民主主義は存在しないのだ。

朝日は、北京からの特派員記事に、「香港の選挙制度改変採択して閉幕 民主派排除へ」と見出しを打っている。リードは、「中国の全国人民代表大会(全人代、国会に相当)は11日、香港の選挙制度改変に関する決定などを採択し閉幕した。「愛国者による香港統治」の名の下、香港民主化の柱だった選挙から民主派が排除されることで「一国二制度」の形骸化は一層深まることになる。」としている。

また、読売の報道は、「香港の選挙制度見直し採択、中国全人代閉幕…李首相「愛国者による香港統治を堅持するため」と題して、「中国の国会にあたる全国人民代表大会(全人代)は11日、香港の選挙制度の見直しなどを採択して閉幕した。習近平シージンピン政権が掲げる「愛国者による香港統治」に基づき、中国共産党・政府に批判的な民主派を香港政界から排除するのが狙いだ。香港に高度な自治を認めた「一国二制度」は空文化する。」と報じている。他紙も大同小異。

新制度では、立法会(議会)選挙など各種選挙の立候補者を「愛国者」かどうかで事前に選別する「資格審査委員会」を新たに設けるという。それだけではなく、大多数が親中派で構成されるとみられる「選挙委員会」に立法会選の立候補者指名の職権を与えるともいう。

一昨年(19年)の香港区議会(地方議会)選挙では民主派が議席の8割超を獲得して圧勝した。これを香港の民意と見るべきが常識的な態度。しかし、中央政府に不都合な民意は認められないのだ。だから「愛国者」排除となる。共産党の指導に従う者だけが「愛国者」と認められて立候補可能となり、共産党の指導に従うことに疑念を持たれれば、「非愛国者」として立候補はできないのだ。我が国敗戦前の「非国民」という言葉を思い出させる。

全人代閉幕直後、李克強首相が記者会見をした。これが、「愛国者による香港統治を堅持する」方針を語っている。以下が、その該当部分。但し、On-lineアプリを使っての翻訳で、日本語の出来は悪い。

われわれは、引き続き「一国二制度」、「香港人による香港管理」、高度な自治方針を全面的かつ正確に貫徹し、憲法と基本法に厳格に基づいて事を運び、特別行政区が国家の安全を守る法律制度と執行メカニズムをしっかりと実行し、特区政府と行政長官が法に基づいて施政することを全力で支持することを明確に提起した。

先ほど、全人代が香港の選挙制度の充実について決定を下したとお聞きになりましたが、決定は非常に明確で、「一国二制度」の制度体系を堅持し、充実させ、終始「愛国者による香港統治」を堅持することであり、「一国二制度」の長期的な安定を確保するためでもあります。

昨年、香港は多くの衝撃を受けましたが、香港各界が手を携えてできるだけ早く疫病の発生状況に打ち勝ち、経済の回復的成長を実現し、民生を改善し、香港の長期的な繁栄と安定を保つことを希望します。中央政府は引き続き全力で支援していきます。

愛国とは、おぞましくも危険な言葉だ。とりわけ、権力者が使う「愛国」は国民欺罔の手段として警戒しなければならない。李克強がいう「愛国」とは、中国共産党の指導に従順であることに過ぎない。「愛国者による香港統治」とは、「中国共産党の指導が貫徹した香港統治」というだけのことであって、民主主義とは縁もゆかりもない。

民主主義の政治過程では、国民が国家を作るのであって、その反対ではない。国民が国を作る手段が選挙であって、《全ての国民が選挙に参加して国を作る》のである。国家が国民に選挙参加の資格を選別することはあり得ない。

だから、「愛国者による香港統治を堅持する」とは、香港の民主主義を根絶やしにするという宣言なのである。《「一国二制度」、「香港人による香港管理」、高度な自治方針を全面的かつ正確に貫徹し、憲法と基本法に厳格に基づいて事を運び》とは、《「一国二制度」は形だけのものにする、「党中央による香港管理」を徹底する、「北京が支配する香港の自治」方針を全面的かつ正確に貫徹し、厳格に中華人民共和国憲法をに基づいて事を運ぶ結果として香港基本法を空文とする》ということなのだ。

ヨハン・ブレークのワクチン接種拒否を考える

(2021年3月2日)
私はスポーツの世界にはほとんど関心がない。ウサイン・ボルトの名くらいは知っていたが、ヨハン・ブレーク(ジャマイカ)は知らなかった。陸上100メートルの世界記録はボルトの9秒58、ブレークの記録はこれに次ぐ歴代2位の9秒59だという。200メートルでも、世界歴代2位の19秒26をマークしており、ボルト引退後の現役選手としては世界の最高峰に位置している。過去2回のオリンピックに出場して、金2・銀2のメダルを獲得しており、もし、今年東京五輪が開催されるようなことになれば、100・200のメダル有力選手だとか。

そのブレークが、「新型コロナウイルスのワクチンを接種するぐらいなら、むしろ東京五輪を欠場した方がまし」とワクチン拒否を宣言して話題を呼んでいる。これは、興味深い。

ジャマイカの地元紙によると、ブレークは3月27日に「固い決意は変わらない。いかなるワクチンも望まない」と述べ、五輪欠場をいとわない意思を表明した。国際オリンピック委員会(IOC)はこれまで、東京五輪参加者へのワクチン接種を強制はしないものの、推奨する姿勢で、選手団に接種させる方針を示している国もある。(時事)

彼のワクチン拒否の理由は報道では分からない。が、これを拒否する信念の固さは、伝わってくる。オリンピック出場を捨てでも、守るべき大事なものがあるということなのだ。

このブレークの信念は、著名な最高裁判決(1996年3月8日最高裁判決)に表れた高専の剣道実技受講拒否事件事件を思い起こさせる。
神戸市立工業高等専門学校に「エホバの証人」を信仰する生徒がおり、信仰上の理由から体育の剣道実技履修を拒否した。校長は、体育科目は必修であるとし、この生徒を2年連続して原級留置処分としたうえ、退学処分とした。

最高裁は、この退職処分を違法とした。その理由は、次のとおりである。
(ア) 剣道実技の履修が高等専門学校において必須のものとまでは言い難く、体育科目による教育目的の達成は、他の体育種目の履修などの代替的方法によってこれを行うことも可能である(代替的方法の存在)が、神戸高専においては原告および保護者からの代替措置を採って欲しいとの要求も拒否したこと、
(イ) 他方、この学生が剣道実技への参加を拒否する理由は、信仰の核心部分と密接に関連する真摯なものであったこと、
(ウ) 学生は、剣道実技の履修拒否の結果として、原級留置、退学という事態に追い込まれたものであり、その不利益は極めて大きく、本件各処分は、原告においてそれらによる重大な不利益を避けるためには宗教上の教義に反する行動を採ることを余儀なくされるという性質を有するものであったこと、
以上の事情からすると、本件各処分は、社会観念上著しく妥当を欠く処分をしたものとして、裁量権の範囲を超える違法なものである。

生徒が、学校がカリキュラムとして定めた剣道の授業を拒否した。校長には「生徒のワガママ」と映った。ワガママは許されないとして、遂には退学処分にまでした。この生徒の授業拒否を奇矯なものとして、処分もやむを得ないと校長側の肩を持つ意見も少なくはないだろう。「剣道の授業って真剣でやるわけじゃなかろう。竹刀を振り回していりゃいいんだから、授業拒否まですることはあるまい」という意見。

しかし最高裁は、生徒の剣道授業拒否を真摯な信仰の発露と認めた。校長に対して、剣道ではない別の体育メニューを受講させるよう配慮すべきだったと判断したのだ。最高裁も、たまには立派な判決を書く。

ブレークのワクチン拒否にも、社会には多様な意見があるだろう。「ワクチン打たないリスクをよく考えろよ」「副反応の確率は決して高くないよ」「そんなに頑なに拒否するほどのことか」「ワクチンは、自分のためだけのものではない。周りの人のためにも打つべきだ」「オリンピック出場を棒に振ってもワクチン拒絶とは理解し得ない」…。

彼のワクチン拒絶が、信仰上の理由によるものであるか否かは分からない。それでも、彼の精神の核心部分と密接に関連する真摯なものであることは、容易に理解しうる。人生をスポーツへの精進に懸けて来たアスリートが、オリンピック出場をあきらめても、ワクチンを拒絶しているのだ。その確信は、信念と言ってもよいし、思想と言ってもよい。仮に、他人の目には奇矯なものと見えても、尊重されなくてはならない。それが、多様性を尊重するということではないか。

もちろん、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制への拒否も同様である。信仰上の信念からでも、歴史観や社会観に起因するものであっても、その姿勢は尊重されるべきで、強制などあってはならない。

「国を愛する心を養うべき日」に、「国を愛する心」の危険を訴える。

(2021年2月11日)
光の春のううらかな日和。ときおり吹く風にも冷たさはない。空は青く、梅が開き、寒桜も目にこころよい。ところが、えっ交番に「日の丸」? 警察署にも消防署にも「日の丸」である。あの、右翼や暴力団とお似合いの、白地に赤い丸の旗。都バスにも「日の丸」の小旗が何とも不粋。さすがに民家に「日の丸」は一本も見なかったが、上野の料亭「伊豆栄・本店」には、この不快なデザインの旗が掲げられていた。

本日は、「建国記念の日」とされている日。祝日法では、「建国をしのび、国を愛する心を養う」べき日という位置づけ。しかし、私には「建国をしのぶ」気持も、「国を愛する心」も持ち合わせていない。愛国心の押し売りはまっぴらご免だし、愛国心を安売りする人物は軽蔑に値すると信じて疑わない。だから、本日を祝うべき日とする気分はさらさらにない。

時折、「浅薄な愛国心」を排撃して、「真の愛国者の言動ではない」などと批判する言説にお目にかかる。が、私は、「真」でも「偽」でも、愛国や愛国心を価値あるものとは認めない。実は、「真の愛国心」「本当の愛国者」ほど厄介なものはないのだ。

もちろん必要悪としての「国家」の存在は容認せざるを得ない。しかし、その国家は愛すべき対象ではなく、厳格に管理すべき警戒の対象と考えなければならない。

組織としての国家ではなく、国家を形成する「国民」もまた、個人にとって愛すべき対象ではない。個人は、常に「国家を形成する集団としての国民」の圧力との対峙を余儀なくされ、ときにはその強大な同調圧力と闘わねばならない。「愛国心とは日本の国民を愛すること」なら、愛国心は、個人の主体性を奪う邪悪なものにほかならない。

愛国心とは我が国の風土や歴史や伝統を愛すること、とも説かれる。そのような心情をもっている人、もちたい人がいることは当然だろう。そのパーセンテージがどうであっても、さしたる問題ではない。問題は、価値的に「愛国」「愛国心」が説かれることだ。

「愛国心」を美徳とするイデオロギーが諸悪の根源である。美徳であるからとして「愛国心強制」を当然とする圧力が、個人の人格の尊厳を侵し、思想・良心の自由を侵害する。このような、愛国心をダシにした強権の発動は、実は他の奸悪な意図をもってのことである。

ところで、周知のとおり、本日2月11日は旧紀元節。天皇制イデオロギーによって、何の根拠もなく初代天皇の就位があったとされた日。日本書紀における〈辛酉年春正月庚辰朔,天皇即帝位於橿原宮〉という記述だけに基づいて、2700年以前もの太古に、天皇の治世が始まり、これが万世一系連綿と続いているという神話の小道具の一つとされた。

強行された事実上の紀元節復活のこの日、つまりは天皇制始まりの日との象徴的な意味をもつこの日が、「建国をしのび」だけでなく、「国を愛する心を養う」とされていることに注目せざるを得ない。つまり、愛国心が、天皇制国家と連動しているのだ。

明治の初めに小川為治『開化問答』という書物が刊行されている。その中に、旧平という名で庶民の立場から、紀元節や「日の丸」についての率直な見解が示されていて、興味深い。

「改暦以来は五節句・盆などという大切なる物日を廃し、天長節・紀元節などというわけもわからぬ日を祝う事でござる。4月8日はお釈迦さまの誕生日、盆の16日は地獄のふたの開く日というは、犬打つ童も知りております。紀元節や天長節の由来は、この旧平のごとき牛鍋を食う老爺というも知りません。かかる世間の人の心にもなき日を祝せんとて、政府より強いて赤丸を売る看板のごとき幟や提灯を出さするは、なおなお聞こえぬ理屈でござる。元来、祝日は世間の人の祝う料簡が寄り合いて祝う日なれば、世間の人の祝う料簡もなき日を強いて祝わしむるは最も無理なる事と心得ます。」(梅田正己・「明治維新の歴史」より)

ここに、「赤丸を売る看板のごとき幟」とあるは、「日の丸」のことである。こんなものの強制は「なおなお聞こえぬ理屈」と、理不尽を述べている。

それだけでなく。「紀元節や天長節」について、「元来、祝日は世間の人の祝う料簡が寄り合いて祝う日なれば、世間の人の祝う料簡もなき日を強いて祝わしむるは最も無理なる事と心得ます」とは、まことに至言である。

「天皇制と関連付けられた愛国心」ほど、恐ろしいものはない。今日「建国記念の日」は、そのことをじっくりと考えるべき日である。

自民党議員には教育勅語ウイルスが根強く感染し続けている。

(2021年1月27日)
昨日のNHK(Web)報道に我が目を疑った。「日本の国旗損壊 刑法改正し処罰規定検討 自民 下村政調会長」というのだ。このコロナ禍の緊急事態に、不要不急極まる右翼の蠢動。もしや、本気で火事場泥棒を狙っているのだろうか。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210126/k10012834121000.html

「日本の国旗を壊したり汚したりした場合の対応として、自民党の下村政務調査会長は、刑法を改正して処罰規定を設けることを検討する考えを示しました。
 自民党の高市・前総務大臣らの議員グループは26日、下村政務調査会長と会談し、刑法には外国の国旗を壊したり汚したりした場合の処罰規定はあるものの、日本の国旗については規定がないとして法改正を訴えました。これに対し下村氏は「必要な法改正だ」と応じ、法改正を検討する考えを示しました。
 このあと高市氏は記者団に対し「日本の名誉を守るのは究極の使命の1つで、外国の国旗損壊と日本の国旗損壊を同等の刑罰でしっかりと対応することが重要だ。改正案を今の国会に提出したい」と述べました。」

いかにも唐突な「国旗損壊罪」創設という刑法改正の提案。誰が見ても不要不急の極みだが、「改正案を今国会に提出したい」とは穏やかでない。読売は、法案の内容にまで踏み込んで、こう報じている。

 「自民党は26日、日本を侮辱する目的で日の丸を傷つけたり汚したりする行為を処罰できる「国旗損壊罪」を新設する刑法改正案を今国会に議員立法で提出する方針を固めた。下村政調会長が、党の保守系有志議員でつくる「保守団結の会」による提出要請を了承した。
 改正案は刑罰として「2年以下の懲役か20万円以下の罰金」を科すとしている。自民党は、野党時代の2012年にも同様の改正案を国会提出し、廃案となっている。」

 閣法としての取り扱いではなく、法制審議会への諮問もない。連立与党間の摺り合わせもないようだ。何よりも、こんな立法を必要とする立法事実は皆無であり、世論の盛り上がりもない。自民党が本気になって、こんな法案成立の意気込みをもっているとは、とうてい考え難い。にもかかわらず、右翼議員パフォーマンスの材料として、「国旗」がもてあそばれているのだ。

はて? 「保守団結の会」? ようやく思い出した。昨年(2020年)6月自民党内右翼が選択的夫婦別姓制度への賛否で割れてスピンオフした、あの最右派集団であったか。何しろ、稲田朋美の右派姿勢の不徹底に失望したと批判して、それよりも右の議員43名が再結集したという報道だった。 昨年暮れに、新たに顧問として、安倍晋三、古屋圭司、高市早苗などという札付き右翼を入会させているという。

この「団結の会」の信条は、何よりも《伝統的家族観》。そして《皇室の尊崇と皇統の護持》だという。《伝統的家族観》と《皇室の尊崇と皇統の護持》、そして《国旗の尊厳》とが彼らの頭の中では直結している。かつての教育勅語ウィルスが絶滅を免れて、こういう宿主の脳髄中に生存を続け、この三者を強固に結びつけているのだ。このウイルスの発現症状は、発熱でも咳嗽でもない。思考能力が侵され、「忠君愛国」「富国強兵」「万世一系」「民族差別」「皇国弥栄」等々の根拠のない空っぽのスローガンのマインドコントロール下に制圧されることになる。

端的に言えば《伝統的家族観》とは【男尊女卑】【家父長制】と同義である。《皇室の尊崇と皇統の護持》とは【人間の差別の肯定と固定化】を意味する。こういう人間観・社会観をもったグループが、男尊女卑と差別を基調とする国家の象徴としての国旗を大事としてもてあそんでいるのだ。

このグループの「筆頭発起人」を名乗っているのが高鳥修一(新潟6区)。稲田朋美同様安倍晋三側近と言われた議員。彼はこう発言している。

「日本では、国家を侮辱する目的で他国の国旗を損壊すると罪になりますが、自国の国旗を踏みにじることは自由となっています。」「自国の国旗を侮辱することに対して各国で禁止する規定があるのは自然なことだと思いますが、日本ではそれも表現の自由という意見があり、他国の国旗は尊重しても自国の国旗は踏みにじって構わないことになっています。」

「いかにもアンバランスな状況を是正する為に、…今国会に法案を提出することになりました。既に平成24(2012)年に一度党内手続きを終え国会に提出されているので、下村政調会長からは、自民党として了解した(再度の党内手続きは不要)。委員長提案は難しくても各党に説明するようにとの指示がありました。早速、関係者に説明にかかっています。」

何という安直さ。何という軽薄さ。こんなに軽々しく刑法をいじられてはたまらない。しかも、ことは国民の人権と国家の権力との関係の根本に関わる。我が国の憲法体系の根幹にも関わる議論が必要な問題なのだ。

自民党は、2012年発表の改憲草案で、「第3条(国旗及び国歌)」の条文を作ろうとしている。
第1項 国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。
第2項 日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない。

この国旗国歌尊重義務こそが、旧大日本帝国で猖獗を極めた教育勅語ウィルスの所産にほかならない。後遺障害というよりは、今の世の変異株というべきであろう。

なお、現行憲法の外国国章損壊罪は次のとおりの条文で、その保護法益は「我が国(日本)の円滑な外交作用」と考えられる。当該国旗が象徴する国家の尊厳というものではない。

第92条 第1項 外国に対して侮辱を加える目的で、その国の国旗その他の国章を損壊し、除去し、又は汚損した者は、2年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処する。
同2項 前項の罪は、外国政府の請求がなければ公訴を提起することができない。

「君が代」不起立の教職員こそが、『身をていして教育を守ろうとする先生』なのだ。

(2021年1月25日)
本日の東京新聞「こちら特報部」が、都教委の「日の丸・君が代」強制問題を取りあげている。新たなニュースは以下のとおり。

 「新型コロナウイルスの感染拡大を受け東京都教育委員会は、今春の都立学校の卒業式で参加者に君が代を歌うよう求めない。「日の丸・君が代」について定めた「10・23通達」を2003年10月に出して以降、教職員に「歌え」という職務命令が出ない卒業式は初めて。ただ、歌唱入りのCDを流し、起立は求めるといい、通達にこだわる都教委のかたくなな姿勢が浮かび上がった。」

 2004年春以来、「10・23通達」に基づいて、都下の公立校の卒業式・入学式には、校長から全教職員に対して式中の国歌斉唱の際には、「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱すること」という職務命令を発し続けてきた。「(国旗)起立」と「(国歌)斉唱」の命令である。

コロナ禍の今年は、「(国歌)斉唱」は命令しない。「(国旗)起立」だけの命令を求めるというが、これがむしろ、「都教委のかたくなな姿勢を浮かび上がらせている」という報道。

ところで、常に東京に対するライバル意識を絶やさないのが大阪。大阪の府教委も、その権威主義的で権力的な姿勢において東京に負けじと、競争心を燃やしている。両教育委員会、その非教育的姿勢において、また人権尊重の後進性において、兄たりがたく弟たりがたし。いや、目くそと鼻くそ、タヌキとムジナの関係。

その大阪府教育委員会は、1月21日付の通達で、「国歌静聴」という珍妙な命令を発した。その通達の全文が下記のとおり。

関係府立学校 教職員 様

教  育  長

令和2年度卒業式における国歌清聴について(通達)

 国旗掲揚及び国歌斉唱は、児童・生徒に国際社会に生きる日本人としての自覚を養い、国を愛する心を育てるとともに、国旗及び国歌を尊重する態度を育てる観点から学習指導要領に規定されているものである。
 また、平成23年6月13日、大阪府の施設における国旗の掲揚及び教職員による国歌の斉唱に関する条例が公布・施行された。本条例では、府立学校の行事において行われる国歌の斉唱の際に、教職員は起立により斉唱を行うことが定められている。
 令和2年度卒業式については、新型コロナウイルス感染症対策を徹底する観点から、平成24年1月17日付け教委高第3869号教育長通達にかかわらず、式場内のすべての教職員は、国歌は起立して清聴すること。

まことに見識に欠け、「非教育的な」両教育委員会の姿勢に比して、「こちら特報部」の報道は見識が高く、充実している。そのうちの2点を引用しておきたい。

都教委の発想は、国際的な基準から逸脱している。国際労働機関(ILO)と国連教育科学文化機関(ユネスコ)は19年、「起立斉唱の強制は、個人の価値観や意見を侵害する」などと都教委を批判。起立斉唱したくない教員も対応できる式典のルール作りのほか、懲戒処分を回避するため教員側と対話するよう求める勧告を出している。これに対し、都教委に加え文部科学省も一切、取り合わず、耳を傾けるそぶりがない。

「日の丸・君が代」問題に詳しい東京大の高橋哲哉教授(哲学)は「都教委は自己矛盾に陥っている」と指摘する。都教委が起立斉唱を求める根拠として持ち出す「高等学校学習指導要領解説・特別活動編」には、その目的として「(生徒が将来)国際社会において尊敬され、信頼される日本人」に成長するためとうたわれている。高橋氏は「労働と教育、両国際機関の勧告を無視し、生徒の目の前で強制を繰り広げることは、国際社会から尊敬される人への成長につながらない。自ら構築した論理と相反している」と指摘し、こう続ける。「世界のあちこちで台頭している『命令にはとにかく従え』という権威主義が、戦後日本にも根強く残る。不起立で抵抗してきた教職員を懲らしめようと、コロナで歌えなくても起立を強制する都教委の手法に『権威主義の地金』がくっきり見える。昨年来、批判が続く日本学術会議の任命拒否問題とも通底している」。

まったくそのとおりと言うほかはない。そして、もう一点。

「何があっても、(日の丸・君が代)強制をやめようとしない。都教委の粘着気質は病的と感じる。起立強制問題は、今の教育現場を重苦しくしている元凶と言っても過言ではない」。08年以降、不起立で懲戒処分を受けた教職員にインタビューするなど、「日の丸・君が代」問題を取材してきたルポライターの永尾俊彦氏は、今回の都教委の方針を批判する。永尾氏は教職員らが起こした複数の訴訟の記録を読み込み、たくさんの原告に会って話を聞いた。「教師というのは生徒の心を聞く仕事だ」との元校長の言葉が印象深く記憶に残る。命令と服従は、子どもがそれぞれ備えている唯一無二の個性を伸ばす教育になじまない。

それなのに、「日の丸・君が代」の強制は教育現場に上意下達の思想を植え付ける。「教職員に命令し、服従を強い、『上には何を言っても変わらない』という雰囲気をつくる。教職員も『子どもも命令に従って当然』という意識を形成する。権力側に都合のいい人間を育てる戦前の教育と似ている」

懲戒処分を受けると、人事や昇給で不利になる。過酷な研修も科される。定年後の再任用も他の人より早く打ち切られる。「それでも何度も職務命令に従わない教職員がいるのは、子どもを上意下達型の人間にしたくないからだ」と永尾氏は語る。不起立に対し「歌わないのはけしからん」「政治的に偏っている」といった批判があるのも事実。永尾氏は、ある弁護士が語った「やりたくないことをやらなかったのではなく、子どものためにやってはならないことをやれと言われて悩み苦しみ、できなかった人たち」との言葉に共感するという。永尾氏はこれまでの取材の成果を新著「ルポ『日の丸・君が代』強制」にまとめた。取材に応じてくれた教職員は、子どもと誠実に向き合ってきた人ばかりだった。「自分もそういう先生に教えてもらいたかった。もし今度の卒業式で不起立の教職員を見かけたら、『身をていして教育を守ろうとする先生だ』という目で見てほしい」

山口香さん。国旗・国歌(日の丸・君が代)強制についても、議論を避けないで。

(2021年1月20日)
1月13日、ほかならぬNHKが世論調査の結果をこう報道した。

ことし(2021年)に延期された東京オリンピック・パラリンピックについて、NHKの世論調査では、「開催すべき」は16%で先月より11ポイント減りました。一方、「中止すべき」と「さらに延期すべき」をあわせるとおよそ80%になりました。

 この調査結果は、市民の感覚に合っている。NHK以外の他の調査の結果も大同小異。常識的には、どう考えても今年の7月に東京五輪などできっこない。日本が無理なだけでなく、世界全体がオリンピックどころではない。この調査に何らかの意味があるとすれば、できっこないことを承知で何が何でも東京五輪をやらねばならぬと思い込んでいる恐るべき硬直化した人々が16%もいるということ。

そのような雰囲気の中で、JOC理事である山口香が毎日新聞のインビューに応じて一石を投じた。昨年も同じようなことがあったが、おそらくはこの人の個人的見解ではなかろう。個人的見解であったとしても、主催者側の相当な賛同を確認しての発言と思われる。

昨日(1月19日)の毎日インタビューは、「五輪意義、議論避けるな 山口香JOC理事、一問一答」とのタイトル。その山口香発言を抜き書きしてみる。

◆五輪は…いつできるようになるかも見通せない。できるのかというと難しいと、客観的に見て思う。

◆今回は中止か延期かの議論でなく、やるかやらないか。どういうプロセスで誰がいつまでに判断するのか、早く示すべきだと思う。

◆(五輪で)世界の人が入ってくることが、(感染状況の)逆戻りにつながる不安がある。国の説明が足りない。五輪が勇気を与えるというのは簡単だが、経済状況がどん底の人がたくさんいる中で、「五輪をやってくれれば、ご飯を食べなくても元気になれる」とは思えない。

◆日本の組織の体質がある。議論すること自体が「負け」であり、弱気と受け止められるので避ける雰囲気がある。…この国難の中で実施する五輪とは社会にとってどんな意義があるのか。オープンな議論が求められる。

取り立てて、格別の見識が示されたわけではない。誰が考えてもできっこない東京五輪だが、主催者側は、やるかやらないかその常識的な議論さえ始まっていないと嘆いているのだ。

東京五輪、その実行は無理だと世論は結論を出している。可及的速やかに中止の結論を出した方がよい。くずぐずしていると、敗戦時の二の舞となる。敗戦の決断が遅れたことによって、どれだけの命を犠牲とし、国土を焼き、戦費を費やすことになったか。

今は、オリンピックを断念して、コロナ対策に専念すべきだ。さしあたり、空いているオリンピック選手村は、軽症患者の収容施設として活用すべきである。

山口の最後の質問と回答の全文を掲記しておきたい。

問 ――大会関係者は「開催する」としか公式には言わない。

答 ◆日本の組織の体質がある。議論すること自体が「負け」であり、弱気と受け止められるので避ける雰囲気がある。
 国民はスポーツ自体を否定しているのではない。昨年12月の柔道男子66キロ級五輪代表決定戦の阿部一二三選手対丸山城志郎選手、今月の卓球全日本選手権女子シングルス決勝の石川佳純選手と伊藤美誠選手の試合はコロナ禍だからこそ、胸を打たれた。この国難の中で実施する五輪とは社会にとってどんな意義があるのか。オープンな議論が求められる。

 よく読むと何を言っているのか分からぬところもあるが、「早急にオープンな議論が求められる」という趣旨には異論がなかろう。

ところで、山口香は、東京都教育委員6名の一人である。周知のとおり、東京都教育委員会は、悪名高い「10・23通達」を発して、君が代に不起立の教職員を懲戒処分にし続けてきた。その懲戒処分の量定が重きに過ぎるといくつも裁判で敗訴もしている。処分を違憲とした下級審判決もあり、最も軽い戒告処分も懲戒権の濫用として違法とした東京高裁判決もある。多くの最高裁裁判官が、教育現場での処分強行を憂いて、教育現場にふさわしく十分に話し合うべきだという意見を述べている。しかし、その話し合いは、何度申し込んでも実現しない。東京都教育委員会の問答無用の頑なな姿勢は、石原都政時代以来まったく変わらない。山口香も、その責任を一端を担っている。

山口さん、二枚舌ではなかろうか。せめてこう言ってもらえないだろうか。

◆東京都教育委員会の体質の問題がある。議論するとか、話し合いの場をもつこと自体が「負け」であり、弱気と受け止められるので避ける雰囲気がある。
 君が代に不起立の教員が、真面目な教育を否定しているわけではない。むしろ、真面目な教員ほど、国旗・国歌(日の丸・君が代)に関わる歴史や教育効果を真剣に考え、あるべき教育像や教師像を持っているからこそ、その信念に基づいて敢えて起立することができないということは私にもよく分かっている。それでも、教育現場においてなぜ国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する敬意の表明が必要なのか、社会にとって、民主主義国家においてどんな意義があるのか。また、教員や生徒一人ひとりの思想・良心の保障とどう折り合いを付けるべきか、訴訟の場とは別に、教育あるいは教育行政の場におけるオープンな議論が早急に求められる。

仏教者としての信念から、死刑執行をしなかった法務大臣がいた。

(2021年1月12日)
左藤恵さんが亡くなった。享年96と報じられている。保守の政治家ではあったが、私にとっては気になる人だった。

この人、もとは郵政官僚だったが、1969年に中選挙区時代の旧大阪6区から自民党公認で立候補して当選。以来10期連続して当選を続けた。地盤が、私に土地勘のある天王寺・阿倍野・住吉という大阪市南部であったことから、手強い保守陣営の敵という思い込みだった。が、この人が法務大臣となって印象が変わった。

周知のとおり法務大臣は死刑執行を命じる。法務大臣の執行命令なしには、死刑執行はない。ところが、この人は真宗大谷派の僧侶でもあった。仏の戒め給ふ殺生戒という戒律を守るべき宗教者なのだ。山川草木悉皆仏性、この世に生を受けたもの全ての命は尊ばれるべきが当然で、その命を奪ってはならない。ましてや死刑という名の殺人は、仏教者としての戒律に反する。

言わば、ここに義務の衝突が生じた。法務大臣としての職務上の死刑執行義務と、自らが信じる宗教的信念が命じる不殺生の戒律との葛藤である。

この人が、第2次海部改造内閣で法相を務めたのが、1990年12月~91年11月のおよそ1年間。その在任期間中に死刑執行命令書への署名をせず、この間死刑は行われなかった。「人が人の命を絶つことは許されない」との宗教的信念によるものと報じられていた。

「そのような信念を持つ者に、法務大臣の任はふさわしくない。辞令を受けるべきではなかった」という意見は、当然にあるだろう。しかし、この人は死刑制度存続の是非を問いたいと、問題提起の意図をもって敢えて法務大臣職を拝命したのだ。そして、自らの宗教的信念を貫いた。

この人の信仰を理由とする死刑不執行は、神戸高専剣道実技拒否事件を想起させる。エホバの証人信者であった高専生は、宗教上の信念から剣道実技の授業を拒否し、遂には退学処分となった。最高裁は、真摯な宗教的動機による剣道実技授業の拒否を理由とする退学処分を違法と判断した。一定の条件あることは当然として、信仰の自由という人格的利益を擁護した。

また、この法務大臣の信仰を理由とする死刑不執行は、ピアノ伴奏命令拒否事件を想起させる。戦前の歴史において、軍国主義教育に「日の丸・君が代」が果たした役割に鑑み、自分の思想と良心に懸けて「君が代」伴奏はできないとした音楽科教員がいた。この思想・良心に基づいた君が代斉唱の伴奏命令拒否を理由とする戒告処分の違憲・違法が争われた事件で、この教員は敗訴している。これは、大きな憲法課題である。

思想・良心・信仰を理由とする義務不履行の制裁を甘受せざるを得ない立場の者には、かつて、宗教上の信念からその期間中死刑不執行を貫いた法務大臣がいたことを心に留めておきたい。

左藤恵は、法務大臣退任後は「死刑廃止を推進する議員連盟」の会長を務めるなどして、死刑廃止を訴えた。政界引退後は、大阪弁護士会に登録した弁護士だったが、年が明けた1月9日、慢性心不全のため逝去。合掌。

永尾俊彦『ルポ「日の丸・君が代」強制』(緑風出版)をお薦めする

(2020年12月13日)
本日、永尾俊彦さんから、その著書『ルポ「日の丸・君が代」強制』の献本を受けた。12年間にわたる法廷闘争と教育現場の取材をまとめた詳細なルポで、400ページに近い大著になっている。さすがに記者による読みやすい文章で、東京編だけでなく大阪編もあり、私も知らないことがたくさんある。何よりも、問題の全体像把握のための記録として貴重なものである。

あらためて、このルポに登場してくる多くの人々の真摯さに打たれざるを得ない。ぜひとも多くの人に、この著作をお読みいただきたいと思う。「籠池泰典元理事長インタビュー~「天皇国日本」というモノサシをつくる学校」なども、たいへん面白い。

http://www.ryokufu.com/isbn978-4-8461-2022-1n.html
永尾俊彦[著]ルポ「日の丸・君が代」強制(緑風出版)
四六判上製/392頁/2700円

■内容構成
まえがき~「口パク」すればいいのだろうか
第一部 少国民たちの道徳
第一章 東の少国民「うんこするのも天皇のため」~山中恒さんインタビュー
第二章 西の少国民「上があるから下ができる」~黒田伊彦さんの語り
第三章 「君が代」の道徳 「生と性の賛歌」から天皇の讃美歌へ~川口和也さんの研究
第二部 東京篇
第一章 東京の「狂妄派」~教職員の牙を折りたい狂おしい欲望
第二章 東京の教師、子どもたちと「日の丸・君が代」強制
一 「君が代」は誇り高く歌いたい~近藤光男さん(体育)の場合
二 「お前のこと、用いるから」~岡田明さん(日本史/現代社会)の場合
三 音楽が息づく学校を~竹内修さん(音楽)の場合
四 「自分の可能性をあきらめないで」~大能清子さん(国語)の場合
五 子どもたちの「障がい」が消えた日~渡辺厚子さん(特別支援学校)の場合
六 「俺は先生の生徒でよかった」~加藤良雄さん(英語)の場合
七 表現を行動として生きる~田中聡史さん(特別支援学校/美術・図工など)の場合
第三章 「生徒の心を聞く仕事」であるために
第三部 大阪編
第一章 大阪の「狂妄派」~ビシッと「モノサシ一本」の快感
一 法的にも復活した「非国民」
二 「教育事件」としての森友問題
籠池泰典元理事長インタビュー~「天皇国日本」というモノサシをつくる学校
第二章 大阪の教師、子どもたちと「日の丸・君が代」強制
一 「歴史が歴史をたしかめる」~増田俊道さん(社会)の場合
二 「真の愛国者は自由を保障することで育つ」~梅原聡さん(理科)の場合
三 「先生に何ができるの」への答えを探して~井前弘幸さん(数学)の場合
四 「事実さえ教えられれば」~松田幹雄さん(中学・理科)の場合
五 「背骨」は曲げられない~志水博子さん(国語)の場合
性的少数者と思想的少数者~南和行弁護士インタビュー
六 子どもたちを「無我の人」にするな~奥野泰孝さん(美術)の場合
「陽気な地獄破り」を~遠藤比呂通弁護士インタビュー
第三章 「自己を持つ」子どもたちを育てるために
あとがき~ニッポンの良心
引用文献
資料 国旗国歌に係る懲戒処分等の状況(文部科学省調査)
「日の丸・君が代」強制問題関連年表

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本日は、たまたま国旗・国歌(日の丸・君が代)強制問題での原稿を書いていた。その草稿の一部を掲載しておきたい。

第1次懲戒処分取消訴訟の控訴審判決は、2011年3月10日に言い渡され、東京高裁第2民事部(大橋寛明裁判長)は、戒告(166名)・減給(1名)の全員について、懲戒権の逸脱濫用を認めて違法とし全処分を取り消した。

戒告といえども懲戒権の濫用に当たるとした大橋寛明判事は、元最高裁上席調査官である。教員の不起立・不斉唱を、「やむにやまれぬ真摯な動機に基づくもの」とした「実質違憲判決」には、大きな励ましを受けた。

この大橋判決に対する上告審では、最高裁で弁論が開かれた。以下は、「教員の良心を鞭打ってはならない」とする、澤藤が担当した法廷弁論の一部である。

 「本件各懲戒処分の特質は、各被上告人(教員)の思想・良心・信仰の発露としての行為を制裁対象としていることにある。各人の内面における思想・良心・信仰と、その発露たる不起立・不斉唱の行為とは真摯性を介して分かちがたく結びついており、公権力による起立・斉唱の強制も、その強制手段としての懲戒権の行使も各教員の思想・良心・信仰を非情に鞭打っている。司法が、このような良心への鞭打ちを容認し、結果としてこれに手を貸すようなことがあってはならない。」

 「被上告人らは、内なる良心に従うことによって公権力の制裁を甘受するか、あるいは心ならずも保身のために良心を捨て去る痛みを甘受するか、その二律背反の苦汁の選択を迫られることとなった。思想・良心・信仰の自由の保障とは、こういうジレンマに人を陥れてはならないということではなかったか。人としての尊厳を掛けて、自ら信ずるところにしたがう真摯な選択は許容されなければならない。」

 「教育者が教え子に対して自らの思想や良心を語ることなくして、教育という営みは成立し得ない。また、教育者が語る思想や良心を身をもって実践しない限り教育の成果は期待しがたい。『面従腹背』こそが教育者の最も忌むべき背徳である。本件において各教員が身をもって語った思想・良心は、教員としての矜持において譲ることのできない、「やむにやまれぬ」思想・良心の発露なのである。」

 「不行跡や怠慢に基づく懲戒事例とは決定的に異なり、上告人(都教委)が非違行為と難じる行為について、被上告人らがこれを反省することはあり得ない。したがって、職務命令違反は当然に反復することになる。反復の都度、処分は累積して加重される。その過程は、心ならずも不当な要求に屈して教員としての良心を放棄し、思想においては「転向」、信仰においては「改宗」「棄教」に至らない限り終わることはない。」

 「本件は、精神的自由権の根幹をなす思想・良心の自由侵害を許容するのか、これに歯止めをかけるのかを真正面から問う事案である。憲法の根幹に関わる判断において、最高裁の存在意義が問われてもいる。人間の尊厳を擁護すべきことも、教育という営みに公権力が謙抑的であるべきことも、多数決支配とは異なった事件の憲法価値として、人類の叡智が確認したところである。」

 「これを顕現するものは、憲法の砦としての最高裁であり、最高裁裁判官諸氏である。歴史の審判に耐え得る貴裁判所の判決を求める。」

ドイツ語クラスの学生が唱った「国歌」

(2020年11月1日)
私は時代の子である。戦後民主主義という時代の嫡子であったと思う。特定の誰かから思想的な影響を受けた覚えはなく、ごく自然に、自由や平等、反権力・反権威の姿勢を身につけた。そういう自分を意識したのは学生時代、昔々の駒場のキャンパスにおいてのことだった。

1963年に私は東京大学に入学した。1・2年生は、全員が駒場の教養学部キャンパスで授業を受ける。文科はⅠ(法学部進学コース)類・Ⅱ(経済学部)類・Ⅲ(文学部・教育学部)類に分かれ、さらに第2外国語の科目でクラス編成をされた。

語学のクラスは、A(ドイツ語既習)、B(ドイツ語未習)、C(フランス語既修)、D(フランス語未修)、E(中国語)に分類されていた。当時、スペイン語もロシア語もなかった。当然のことながら、圧倒的にBとDのクラスか多人数で各類毎に複数のクラスが編成された。これに対して、A、C、Eは少数で、Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ類をまたぐ形で各1クラス編成となっていた。私は、中国語のEクラスに属して、たいへん居心地がよかった。

授業が始まって間もない頃、誰が企画したか、A、C、Eの少数派で合同の懇親会をもったことがある。A(ドイツ語)、C(フランス語)、E(中国語)、各語学を選んだそれぞれの学生の個性が見えて面白かったという記憶がある。

そのとき、各グループで何か演し物をという話になり、まずEクラスの私たちが、中国語で「中国国歌」を歌った。あの、勇壮な「立て、奴隷となるな人民」という歌い出しの「義勇軍進行曲」である。抗日戦争のさなかにできた抵抗の歌。

Eクラスは、伝統的に、各年次の連携が密だった。授業が始まる前に、キャンパス内の同窓会館で2年生の世話でオリエンテーション合宿があり、この歌の歌詞や曲はその合宿で覚えたものだった。当時、国交のない中国だったが、その国の国歌を歌うことに何の抵抗感もなかった。

続いて、C(フランス語)クラスが、フランス国歌「ラマルセイエーズ」をフランス語で歌った。これも、義勇軍の歌だ。この歌を口にすることに、何の抵抗もあろうはずもない。

最後に、A(ドイツ語)クラスが、多少の協議の時間があって「ボクたちも国歌を歌います」と、立ち上がった。ドイツといえば西ドイツのことだろうが、その国歌は知らない。いったいどんな曲かと聞き耳を立てたら…、彼らは厳かに「キミガァーヨォワ…」と唱い始めた。真面目くさっての君が代斉唱の一くさり。満場大爆笑で、これが当日のハイライト。一番ウケた演し物となった。

随分昔のことだが、なぜ、みんなあんなに笑ったろう。あんなにウケたろう。当時の学生にとって、君が代は、大学や学生生活に、あまりにも不釣り合いで、表に出てくるものではなかったのだ。そんなものが突然出てきた意外性が、洒落にもなり、ユーモアとも感じられたのだ。少しでも、君が代を神聖な歌とする雰囲気があれば、爆笑にはならなかっただろう。何の存在感もない、何の肯定的評価もありえない「君が代」であればこそ、真面目くさって唱ってみせることが、その落差ゆえに爆笑を誘った。

中国国歌、フランス国歌は、真面目に歌い聞く雰囲気。「君が代」は不真面目にしか唱いようがなかったということなのだ。それが、当たり前の時代だった。

さて、今、あの頃の気持ちで「起来! 不愿做奴隶的人们!」「前进! 前进! 进!」と唱う気持には到底なれない。あの頃の仲間が集まっても唱うことはないだろう。洒落にもならない。もちろん、「君が代」も同様である。

いま、国旗・国歌(日の丸・君が代)を強制される都立校の教員の訴訟を担当して、17年に及ぶ。唱いたくない歌を、むりやりに唱えと命令される不条理をあらためて噛みしめる。

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