澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

都教委は、懲戒処分に先立つ事情聴取に弁護士の立ち会いを認めよ

(2020年7月28日)

申  入  書

2020(令和2)年7月22日

東京都教育委員会
教育長  藤  田  裕  司  殿
委員   遠  藤  勝  裕  殿
委員   山  口     香  殿
委員   宮  崎     緑  殿
委員   秋  山  千  枝  子  殿
委員   北  村  友  人  殿

弁護士 澤 藤 統一郎
外弁護士6名連名

 私たちは、東京都立I特別支援学校に勤務するT教諭から依頼を受けた弁護士として、連名で貴委員会に下記の申し入れをいたします。

 東京都教育庁人事部から所属校の学校長を通じてT教諭に対して、口頭での「事情聴取」の通告がありました。同時に、「事情聴取」実施日について同教諭の日程問い合わせがなされているところです。
おそらくは、この「事情聴取」は貴委員会が、T教諭に対する懲戒処分発令する手続きの一環としてなされるもので、当該の「事情聴取」とは、行政手続法13条1項2号にいう、「弁明の機会の付与」であるものと理解いたします。
 いうまでもなく、懲戒処分発令はこれを受ける公務員にとっては重大な不利益処分となります。しかも、T教諭には、教育公務員としての職責の遂行に何の落ち度もなく、むしろ貴委員会が発令しようとしている懲戒処分にこそ憲法違反、ないしは数々の法令違反が窺われるところです。
 しかし、T教諭には貴委員会による処分決定に向けた教育庁人事部による「事情聴取」を拒絶する意思は豪もなく、むしろ、与えられたこの機会に、予想される懲戒処分の違憲・違法・不当について十分な弁明を尽くしたいと考えています。そして、その弁明に遺憾なきを期するために弁護士の立ち会いを希望しています。私どもは、同教諭の依頼に応えて、私たちのうちの日程の都合のつく者が「事情聴取」に立ち会い、法律専門家の立場から、弁明に必要なアドバイスを行う所存です。
 ご存じのとおり、行政手続法は「聴聞」と「弁明の機会の付与」とを分け、前者の手続には代理人選任を被聴聞者の権利として認めており、後者の場合には認めていません。しかし、もとより「弁明の機会の付与」に、代理人の選任を禁ずる規程はなく、ましてや弁護士の立ち会いを不都合とするものではあり得ません。
本件は、優れて法的に複雑な問題を伏在している事案として、弁明者の権利の保護という観点からも、なされるべき弁明が全うされて法が要求する手続に瑕疵なきを期するという視点からも、弁護士の立ち会いを認めて然るべき事案だと思料せざるを得ません。
 弁護士という職能は国民の基本的人権を擁護するために、法治国家としてのわが国の法が認めた法律事務専門職であります。国民の誰もが、法的な助言を得たいと希望するときに、これに応えることが弁護士の職責であることをご理解いただきたいと存じます。
 なお、教育行政を司る貴委員会の在り方としても、教師としての職責を有する公務員の立場を尊重され、是非とも弁護士立ち会いを認めていただくよう申し入れする次第です。

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T先生は、特別支援学校で美術を教えている。穏やかな人だ。京都で育ち、身近に在日差別や部落差別に接して心を痛めてきた。そして、自分が教師になって差別をを許さない教育実践をしようと思ったという。そのT先生にとって、学校での「日の丸・君が代」は、かつての皇民教育の象徴であり、民族差別・身分差別の象徴でもあった。自分が教員を志した原点に関わる問題として起立・斉唱の強制に服することはできない。それは、教え子に対する裏切りである、と言う。

T先生は、東京君が代裁判・4次訴訟の原告のお一人。訴訟では、次の5件の懲戒処分の取消を求めた。
第1回不起立 戒告
第2回不起立 戒告
第3回不起立 戒告
第4回不起立 減給10分の1・1か月
第5回不起立 減給10分の1・1か月

一審・東京地裁判決は、残念ながら戒告処分の取消を認めなかったが、2件の減給処分をいずれも違法として取り消した。都教委は、これを不服として東京高裁に控訴したが控訴棄却の判決となった。都教委は、さらに上告受理申立までしたが最高裁は申立を不受理として、一審判決が確定した。これが、2019年3月28日のことである。

なお、4次訴訟の一審判決では、《停職6月》1名、《減給10分の1・6月》2名、《減給10分の1・1月》3名(4件)が、いずれも取り消された。これについて、都教委は、T先生の《減給10分の1・1月》(2件)だけを控訴して、他は確定させている。東京都も都教委も、この6名7件の確定した処分取消に対して、謝罪をしていない。謝罪をしようともしていない。まずは、真摯に謝罪すべきが当然であろう。

謝罪するどころか、都教委は「減給が認められないのであれば、改めて戒告処分としなければならない」ということなのだ。これが通るのなら、T先生としては、ひとつの不起立行為に2度の制裁手続を強いられ、再度の救済手続を強いられることにもなる。これは、過重な負担となる。

それにしても、昨年3月28日から既に1年4か月である。これまで、再処分手続に着手しようとしなかったことに、都教委の自信のなさを窺うことができよう。

都教委は弁護士の立ち会いを認めて、T先生に十分な弁明の機会を保障しなければならない。それが、教育行政に携わる者に要求される最低限の誠実さではないか。

この申し入れに、教育委員会からの返答はまだない。

ILO/ユネスコ勧告実施市民会議、文科省交渉の場で

(2020年7月21日)
弁護士の澤藤と申します。「日の丸・君が代」強制問題に関わるようになってから、20年余になります。

先程来、文科省の担当者から、セアート(ILO/ユネスコ合同勧告委員会)の報告書に関して、「我が国の実情や法制を十分斟酌しないままに記述されている」と繰り返されています。だからこの報告書はわが国が尊重するに値するものではないとのご意見のようですが、世界の良識は、その傲慢な態度を批判しているのだと知らねばなりません。

セアート勧告は、「国旗掲揚と国歌斉唱に参加したくない教員への配慮ができるように、愛国的な式典に関する規則について教員団体と対話する場を設定すること。」「不服従という無抵抗で混乱を招かない行為に対する懲罰を回避する目的で、懲戒処分のメカニズムについて教員組合と協議すること」を求めています。これを、「我が国の実情や法制を十分斟酌しない記述」と排斥してはなりません。

どこの国にも、それぞれの「実情」があり、それぞれの「法制」があります。それぞれの国の「実情」や「法制」に従っていればこと足れりで、国連が何を言おうと知らぬ顔というわけには行かないのです。「わが国にはわが国なりの人権の在り方がある。他国の批判は受けない」という国を、人権後進国といいます。今回の文科省の姿勢は、日本を人権後進国として印象づけるものというほかはありません。

実のところ、「我が国の実情」こそが問題なのです。教育の場に日の丸・君が代の強制が持ち込まれています。あまりに深く大日本帝国と結びつき、侵略戦争の歴史とも一体となったこの旗と歌。新しい憲法下の今の時代に、この歌を歌え、この旗に敬意を表せと言われても、それには従いかねます、というのが真っ当な主権者というものではありませんか。

また「我が国の法制」も問題なのです。立派な憲法をもちながら、これが活かされていない。むしろ憲法の下位にあるべき法令や、さらにその下位にあるはずの学習指導要領などに侵蝕されて、憲法は半分枯死してしまっている。法の下克上という現象です。最高裁は、毅然としてこれを正すことをしない。行政の暴走にブレーキを掛けるべきところを決して止めようとしない。暴走に任せてしまっている。

このような「我が国の実情や法制」こそが、国連という世界の良識から批判されていることを自覚しなければなりません。人権も、民主主義も、教育の権力からの独立も、文明社会の共通価値ではありませんか。「わが国には、わが国流の、人権や民主主義がある」という主張は、今や通じるものではないことを知らねばなりません。

時の首相がウルトラナショナリストだから、また文科大臣もその内閣の一人だから、という理由で身をすくめていてはなりません。人権も、教育の政権からの独立も、文明社会の共通の理念だとお考えになって、是非ともこのセアートの勧告を十分に活用していただくよう、お願いいたします。

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2020年7月9日

萩生田 光一 文部科学大臣殿

「日の丸・君が代」ILO/ユネスコ勧告実施市民会議
共同代表 金井 知明・寺中 誠・山本 紘太郎

「ILO/ユネスコ合同専門家委員会 第13回会期最終報告」に関する7・9質問書

本年2月、「日の丸・君が代」ILO/ユネスコ勧告実施市民会議は、貴職に対してILO・ユネスコ合同専門家委員会第13回会期最終報告に関して質問書を提出し、4月10日に回答を受領した。
回答を受けても猶不明な点や、回答によって新たに生じた疑問について、5月に再質問書を提出し、6月29日に回答を受領した。
2回にわたる回答に感謝するとともに、貴職の見解をより正確に理解するために、新たに質問をまとめた。以下について再度貴職の見解を伺う。

質問1
文科省は、CEART第13回会合報告書(勧告)の日本語訳を求める当方に対して、「和訳を作成する予定はない」と繰り返すのみで、なぜ日本語訳をしないのか理由を一切説明しない。当方は「質問1(6)及びその回答に対する再質問」で、文部科学省が第10回会期最終報告書を日本語訳(仮訳)したことを指摘しているが、貴省はそれを否定していない。
全日本教職員組合の申し立てに対して、2009年11月、ILO理事会法務基準委員会は「政府はCEART報告を、コメントをつけて各県教育委員会に伝達すること。政府および全ての教員団体の代表は前進や解決できていない困難についてCEARTに情報を提供し続けること。」と勧告し、2009年9月にCEARTは「上記の所見と勧告を日本政府、県教委、関係する教員団体に伝達し、政府と代表的な教員団体全てにたいし、これらの事項についての進展や継続する困難にかんする情報を共同専門家委員会に引き続き提供すること。」と勧告している。これはCEARTの一貫した基本姿勢である。
直ちに、CEART第13回最終報告書を日本語訳し、地方自治体へ送るよう求める。

質問2
(1) 文部科学省は<質問4(10)~(12)の回答に対する再質問に対する回答>で、「我が国の実情や法制を十分斟酌しないままに記述されていると考えております。」と回答した。パラグラフ103・105で日本の実情を斟酌しないままに記述されているのはどの部分か、日本の法制を十分斟酌しないまま記述されてるのはどの部分か。具体的に指摘されたい。
(2)(1)に記載した文科省回答で、文科省は、パラグラフ103・105の見解に同意しないことを言明した。同意しないという見解である、という理解で間違いないか。
(3)CEART第13回会合報告書(日本政府への勧告を含む)、及び、後にILOならびにユネスコで承認された最終報告書(日本政府への勧告を含む)が、法的拘束力を有するものではないことは周知の事実である。しかし、法的拘束力を有しないから尊重する必要性がないということではない、ことも周知の事実である。
2015年1月、市民団体の質問に対して、文部科学省自身が(勧告は)「法的拘束力を有するものではないが、政府として適切に対処していきたいというのが我が国政府の考え方である」と答弁している。勧告についての貴省の見解は、現在も同じだと考えて間違いないか。
(4)CEART第13回会合報告書の中に書かれているように、CEARTは「教員の地位に関する勧告」(1966年)に照らして、申し立てを判断している。「教員の地位に関する勧告」パラグラフ80、自由権規約第18条、世界人権宣言など、人権保障の国際基準に基づいて出されたパラグラフ103並びに105の見解が、文部科学省が拠り所とする2011年6月6日の最高裁判決と相違する場合、貴省は「我が国の実情や法制に適合した方法で取組を進めてまいりたい」(「質問4(10)~(12)の回答に対する再質問」への回答)として、CEART第13回会合報告書は日本には妥当しないものとして処理するのか。
(5)「我が国の実情や法制に適合した方法で取組を進めてまいりたいと考えており、自由権規約委員会により日本の第7回政府報告に関する事前質問票への回答についても、従来の見解を回答しているところです。」とする回答は、CEART第13回会合報告書パラグラフ103・105の見解を退け、日本には妥当しないものとして処理した、ということか。
(6)CEART第13回会合報告書パラグラフ93から110の中で、文部科学省が尊重し、受け入れられる箇所はどこか、示されたい。

質問3
(1)2011年6月6日の最高裁判決は、2011年5月30日から7月14日にかけて出された10件の判決群の中の1つである。これらの判決に関わった第1、2、3小法廷の裁判官のうち、7人から補足意見が、2人から反対意見が出された。
文部科学省が回答で取り上げている6月6日第1小法廷判決でも5人(金築、桜井、白木、宮川、横田)の裁判官のうち、金築裁判官から補足意見、宮川裁判官から反対意見が出され、後に、桜井裁判官(2012年「君が代」訴訟判決・予防訴訟判決)、横田裁判官(2012年予防訴訟判決)からも補足意見が出された。
これほどの数の反対意見、補足意見が出されたのは、多数意見を述べるだけでは根本的問題が解決し得ないと裁判官自身が感じていたからに他ならない。
補足意見には「このような職務命令によって、実は一定の歴史観等を有する者の思想を抑圧することを狙っているというのであるならば、公権力が特定の思想を禁止するものであって、憲法19条に直接反するものとして許されない」(須藤正彦裁判官)、「この問題の最終解決としては、国旗及び国歌が、強制的にではなく、自発的な敬愛の対象となるような環境を整えることが何よりも重要である」(千葉勝美裁判官)、「教育の現場でこのような職務命令違反行為と懲戒処分がいたずらに繰り返されることは決して望ましいことではない。教育行政の責任者として、現場の教育担当者として、それぞれがこの問題に真摯に向かい合い、何が子供たちの教育にとって、また子供たちの将来にとって必要かつ適切なことかという視点に立ち、現実に即した解決策を追求していく柔軟かつ建設的な対応が期待されるところである。」(桜井龍子裁判官)などと書かれている。
これらはセアート第13回会合報告書の内容と通底する。
危惧や異口同音に指摘された解決のため対話の重要性が記されている一連の最高裁判決は、補足意見や反対意見も含めて判決文全体が尊重されるべきであると考えるが、文部科学省の見解を問う。
(2)2011年の最高裁判決は、国歌斉唱の際の起立斉唱行為は、一般的客観的に見ても、国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為であり、「日の丸」や「君が代」に対して敬意を表明することには応じ難いと考える者が、起立斉唱を求められることは、その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があると判示している。起立斉唱命令は思想良心の自由への「間接的制約」となる面があるという最高裁の判示についての文部科学省の見解を問う。
(3)文部科学省が回答した「国旗国歌に係る懲戒処分等の状況」によれば、2001年度・2002年度の東京都の懲戒処分件数はゼロだった。2003年10月23日に東京都教育長が発出した「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)」以後、2003年度は179人、2004年度は114人(他に訓告1人)と急増した。貴省は急増の原因を何だと考えるか。

質問4
2003年10月23日、東京都は「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)」を発出するとともに、別紙「入学式・卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱に関する実施指針」を示した。実施指針は「3 会場設営について 入学式、卒業式等における会場設営等は、次のとおりとする。(1)卒業式を体育館で実施する場合には、舞台壇上に演台を置き、卒業証書を授与する。(以下略)」と定め、都内公立養護学校(現特別支援学校)では、それまでは一般的だった舞台を使用しないフロア形式の卒業式が一律禁止されることになった。
松葉杖や車椅子を使用する生徒も自力で演台の前に進み、卒業証書を受け取ることができるフロア形式は、障がいを持つ児童生徒、障がい児教育の専門家である教職員、子どもの成長を見守り励ましてきた保護者など、当事者・関係者のニーズに応えて考え出された卒業式の形だった。児童生徒や学校の実情を考慮することなく、一律に禁止するのは、障害者差別禁止法が行政機関に義務づけている合理的配慮を欠いた措置である。文部科学省は、都内公立の特別支援学校全校の卒業式で、フロア形式を禁じられ、壇上を使用させられている事実を把握しているか。合理的配慮を欠くこの事実に対する貴省の見解を問う。

質問5
文部科学省は、地方公務員法55条を理由に教員団体との対話を拒むが、地方公務員法55条3項は、管理運営は交渉の対象としないというもので、交渉に限定したものであり、教育行政を円滑に進めていくための相互理解をはかる対話までも拒否しているものではない。
そもそも、CEARTが推奨する対話は「教員の地位に関する勧告」の適用促進を目的とする、説得的で相互理解促進型の対話である。地方公務員法上の交渉を指しているものではない。CEART第13回会合報告書の中に記載される懲戒処分に関する話し合いを、積極的に誠実に行うよう求める。

都教委の卑劣な「思想転向強要システム」の破綻について

(2020年7月12日)
本日(7月12日)の東京新聞「こちら特報部」に、おや、見覚えのある方のお顔。もと、国立二小の教員だった佐藤美和子さん。「日の丸・君が代強制に反対」の思いを込めたブルーリボンを手にしての一枚。

「こちら特報部」の記事は、「黒川氏『訓告』甘すぎる」「「日の丸・君が代」で「懲戒」も」「思想の自由教えただけなのに」と見出しを付けられたもの。そのリードは、以下のとおり。

コロナ禍の真っただ中に新聞記者と賭けマージャンをした前東京高検検事長・黒川弘務氏の訓告処分が「甘過ぎる」と、批判を強めている人たちがいる。かつて「日の丸・君が代」の問題で処分された学校関係者だ。式典での国歌斉唱などの際、思想や信仰の自由を貫いただけで、減給や停職とされた人もいる。「犯罪行為の賭博が、なぜこんなに軽いのか」と、国や東京都に説明を求めている。

佐藤さんは、「たったこれだけ。私はこれ(ブルーリボン)を胸に着けていただけなのに、職務に専念していないと見なされて訓告処分を受けました」という。佐藤さんが、「日の丸・君が代」強制を受け入れがたいとする理由の根幹には、信仰と歴史観の問題がある。

佐藤さんは父親と母方の祖父が牧師。戦時中、キリストではなく天皇を神としてあがめるよう強制された話を聞かされた。朝鮮、台湾といった植民地での皇民化教育にも使われ、軍国主義の歴史が色濃い日の丸・君が代は受け入れられなかった。

それだけではない。教員として、子どもたちに思想の自由を教えながら、「日の丸・君が代」の強制を受け入れてはならないという思いも強かった。

式の一週間ほど前には、6年生の授業で君が代を扱ったばかり。歌詞の意味や賛否両方の意見を教えつつ「世の中には歌いたい人も、歌いたくない人もいる。その選択はみんなの自由で、憲法で保障されている。決して強制されるようなものではない」と伝えていた。

信仰と歴史観、そして教員としての良心に従った佐藤さん。佐藤さんは、教員としてあるべき姿を貫いたのではないか。しかし「訓告」。一方、常習賭博にも当たる、賭けマージャンの黒川が同じく「訓告」。誰が考えてもおかしくはないか。

念のために申し上げれば、00年3月の国立二小の卒業式の式次第には、国歌斉唱のプログラムも、起立斉唱の号令もない。式場に日の丸もなかった。「日の丸・君が代」なしに、創意工夫をこらした感動的なフロア対面形式の卒業式が行われている。ただ、それまで、「日の丸」とも「君が代」ともまったく無縁だった国立二小校舎の屋上に、校長が独断で「日の丸」を立てたのだ。佐藤さんのブルーリボンは、そのことへの抗議だった。

その後03年10月23日に、悪名高き「10・23通達」が発出されて、事態は昏迷することになる。あの石原慎太郎2期目の都政でのことである。この年の4月13日都知事選で、石原は308万票(得票率70%)を獲得した。ここから、石原の暴走が始まる。この右翼政治家に308万票を献じた都民の責任は大きい。

いつもながら、東京新聞「こちら特報部」は、立派な記事を書いてくれた。だが、一点気になるところがある。「10・23通達」後の、国歌斉唱時の不起立による処分の問題。記事には、こう書いてある。

都教委は2000年代から統制を強め、卒業式や入学式の国歌斉唱時に起立しないことなどへの処分が続出した。03年度以降、訓告は数人、より重い懲戒処分は延べ約480人に上る。不起立1回目は戒告で、1回増えるたびに減給1、3、6ヵ月、停職1、3、6ヵ月と重くなる。

都教委の意図は「特報部」記事のとおりであった。現実に、都教委は最高裁判決が出るまで、この累積加重の処分を重ねてきた。卒入学式での国歌斉唱時における不起立1回目は戒告。2回目は減給(10分の1・1か月)、3回目目は減給(10分の1・6か月)、4回目は停職(1か月)、5回目は停職(3か月)、6回目は停職(6か月)…というもの。このあとは、懲戒解雇しかなくなる。

不起立の回数が増える度に、懲戒処分の量定を重くし、自らの思想・良心・信仰を曲げなければ教壇を追われることになるという二律背反。この深刻な事態に、良心的な教員を追い込もうという卑劣なやり口。これをわれわれは、「思想転向強要システム」と呼んだ。

さすがに、最高裁もこの邪悪なたくらみを許さなかった。不起立と、それによる処分が累積しても、認められる懲戒処分の量定は戒告限り。減給も、停職も認められないというのが現在の最高裁の態度である。都教委がたくらんだ、思想転向強要システムは破綻している。このことは、もっと広く知られねばならない。

「日の丸・君が代」強制問題 文部科学省交渉&記者会見のご案内

(2020年7月10日)

日の丸・君が代」ILO・ユネスコ勧告実施

文部科学省交渉&記者会見にご参加を!(要予約)

日時2020721日(火)

会場:参議院議員会館 B109会議室(地下1F)

*文科省交渉 13時~14時30分

*記者会見  14時40分~15時20分

*発  言

●前田朗さん(東京造形大学)
●中村雅子さん(桜美林大学)
●寺中誠さん(東京経済大学)
●澤藤統一郎さん(弁護士)
●金井知明さん(弁護士)
●山本紘太朗さん(弁護士)

東京では2003年から、大阪では2011年から「国歌・君が代」の強制が続き、卒業式や入学式で起立できない教職員に対する懲戒処分が行われています。2014年に2つの労働組合がILO/ユネスコ教職員勧告適用合同専門家委員会(セアート)に、「日の丸・君が代」強制は「教員の地位に関する勧告」(1966年のユネスコの特別政府間会議で採択)に違反していると申し立て、ILO/ユネスコから2019年3、4月日本政府に対して、強制の是正を求める勧告が出されました。

2020年3月1日に「日の丸・君が代」ILO/ユネスコ勧告実施市民会議が発足し、日本政府に勧告の実施を求めていくことを決意しました。その第一歩として、来る7月21日に文科省交渉を行います。その後、交渉内容とセアート勧告について記者会見も行います。ぜひ、ご参加下さい。

主催 「日の丸・君が代」ILO/ユネスコ勧告実施市民会議

共同事務局長 金井知明・寺中誠・山本紘太朗

連絡先:澤藤統一郎弁護士事務所

*定員30名程度。要予約。

市民会議メールアドレス<cciu@teramako.jp>へお申し込みください。

※通行証を参議院議員会館入り口で 12時30分~14時30分 お渡しします。

※コビット19(新型コロナウイルス)感染症対策のため、参加者数を30人程度とします。

議員会館入り口での手指消毒、マスク等を着用してください。

体調のよくない方、発熱の     ある方は参加をご遠慮ください。

※会場入り口で参加票ご記入下さい。    *資料代300円

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ボーっと生きてんじゃねーよ。

日本政府が、 国歌斉唱の強制で、国連機関に叱られる。

Qどうして叱られたの?
東京や大阪の公立学校では、国歌斉唱時に起立できない先生に対して懲戒処分が行われています。
これが、市民的権利を侵害しているとして、是正を求める勧告が出されました。

Q誰に叱られたの?
ILO(国際労働機関)とユネスコ(国連教育科学文化機関)です。いずれも国連の機関です。
日本は、ILOの常任理事国で、ユネスコの執行委員国になっています。

Q先生だから歌わなければいけないんじゃないの?
ILOとユネスコは、仕事中の先生であっても、国歌斉唱時に起立斉唱を静かに拒否することは、市民的権利として保障されるとしました。
国歌の強制は、民主主義社会にそぐわないと指摘しています。

Q国際機関から叱られて、日本政府はどうしたの?
市民的権利の保障が国際基準に達していないと叱られたのに、「勧告には法的拘束力がない」などと言って、勧告をスルーしています。

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たいていの国には、国歌がある。日本の国歌は、「君が代」。1999年に法律で決められた。
国歌は様々な場所で演奏される。スポーツの国際試合の前に演奏されることもあるし、日本では、卒業式や入学式で国歌斉唱が行われる。
国歌を「歌う」・「歌わない」ということが、時々ニュースになる。
例えば、アルゼンチンのサッカー代表選手メッシは、長らく国歌を斉唱しなかった選手として話題になった。また、アメリカでは、アメリカンフットボールの選手が、国歌斉唱時に、今の自分の国は敬えないといって、片膝をつく行為をしたことが、社会問題となった。
日本でも、総理大臣だった人がオリンピック開催前に「国歌を歌えないような選手は日本代表ではない」と言ったことがニュースとなった。
また、卒業式や入学式で国歌を起立斉唱できない先生が懲戒処分を受けている。
国歌を歌わない人に対し、自分の国の国歌ぐらい歌ってはどうかと言う人がいる。色々な意見があるのは当然だし、その思いも理解できる。
でも、歌うことを強制されるのは、ちょっと違うと思う。
国歌を歌わなかったら罰則があるような社会は窮屈だ。サッカーの代表選手が懲罰を恐れて国歌を熱唱していたとしたら、その姿に感動する人はいないだろう。
メッシが、愛国心はあるけど、歌う必要はないと言っていたように、国歌を熱唱するひとだけが愛国者ではない。また、そもそも、国を敬う、愛するかどうかは、国が決めることではない。自分を愛せ、敬えと強制するような人はちょっとあやしいし、そのような国はもっとあやしい。
歌いたければ熱唱してもよし、歌わなくとも咎められない。そんな自由のある国なら、多くの人が国歌を自然に歌うようになるかも。

「日の丸・君が代」ILO/ユネスコ勧告実施市民会議
共同事務局長:金井知明(弁護士)・寺中 誠(東京経済大学)・山本紘太郎(弁護士)
連絡先:澤藤統一郎法律事務所

ナショナリズムに惑わされてはならない(東京「君が代」訴訟から)

(2020年6月19日)

国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制を違憲違法と主張する、東京「君が代」訴訟の憲法論を見直している。憲法論で、何とか勝ちたいと思うからだ。その見直し作業の中で、短かくまとまった紹介に値する文章をいくつか見つけた。以下はその内の一つ。

教育も、行政も、司法もナショナリズムに惑わされてはならない

ア 本件は、個人と国家との憲法価値の対抗をめぐる憲法訴訟である。

憲法訴訟においては、対抗する複数の憲法価値相互の衡量が行われる。本件において衡量の対象とするものは、端的に「個人」と「国家」の憲法価値である。個人とは自然人としての「人権主体」である。これは分かりやすい。一方国家の方は分かりにくい。「統合された国民の集合体」であり、これが「権力主体」となっている。つまりは、「基本的人権としての個人の尊厳」と、「国家の権力作用」ないしは「統合された国民全体」との各憲法価値の衡量である。

言うまでもなく個人の尊厳は、最も基底的な憲法価値である。他方、国家は与えられた権力を行使して憲法が想定する法的・政治的・社会的な秩序を形成して国民の福利に寄与すべき立場にある。両者ともに、憲法的価値を持つと言ってもよいが、両者の憲法価値としてのレベルは、明らかに異なる。個人の尊厳が究極の目的的価値であるのに対して、国家の権力作用はそれに奉仕すべき手段的価値でしかない。

従って立憲主義国家において、その両者の衡量の帰趨は自ずから明らかである。にもかかわらず、この正確な衡量を妨げ、あるいは狂わせるものがある。それがナショナリズムである。

イ 本件訴えは、「原告らに対して、国旗・国歌への敬意表明を強制しうるか」というシンプルな問に回答を求めている。

強制される敬意表明の対象としての国旗・国歌とは、ともに国家の象徴として、国家と等価の関係にあるものと意味づけられている旗と歌である。
原告らは、国家を象徴するものであるがゆえに、国旗・国歌への敬意表明の強制を受容しがたいとする。自らの精神の核をなす思想・良心・信仰との抵触を理由とするものである。

この局面は、国旗・国歌という国家象徴を介して、国家と個人が対峙している構図である。公権力が、原告らに対して、「個人の思想・良心・信仰の如何に拘わらず、国旗・国歌を介して国家への敬意を表明せよ」と命じている。この構図のもとで、「個人」ないしは「個人の思想・良心・信仰」と、「国家」が対抗関係を形成して、その憲法価値の優劣についての衡量が求められている。

衡量の一方の秤に載せるものは、国旗国歌への敬意表明の強制を受け容れがたいとする個人の思想・良心・信仰の自由という基本的人権としての憲法価値である。もう一つの秤に載せられるものは、国家そのものの憲法価値である。「国民の国家に対する敬意という価値」と言ってもよい。

一方に「国家」を、他方に「個人」をおいた衡量の帰趨は、法的判断のレベルでは、自ずから明らかである。近代立憲主義の大原則においては、個人が前国家的な存在であり、国家が後個人的存在であることは自明の理だからである。

ウ ところが、学校現場の現実はそうなっていない。行政もそのようには考えない。さらには、裁判所も、そのようにシンプルに考察することに躊躇を隠さない。国家と個人との憲法価値の正確な衡量を妨げる要因があるからである。それが強力なナショナリズムの作用にほかならない。

日本国憲法を制定した戦後民主主義は、戦前の排外的ナショナリズムを払拭したはずだった。ところが今、日本の社会には過剰なナショナリズム復興の過程にある。学校現場において、天皇制国家とまったく同じデザイン、まったく同じ歌詞・曲の「国旗・国歌(日の丸・君が代)」への敬意表明が強制されていることがその象徴的なできごとである。

ナショナリズムは政治学的ないしは社会心理学的な概念であるから、その正確な定義があるわけではない。しかし、ナショナリズムは、確実に少なからぬ国民の精神をとらえ、国家への統合に国民の情念を動員するエネルギーを有している。個人と国家との関係を醒めた理性で見つめる人に対して、愛国的な行動に同調を求める強力な圧力の源泉となっている。ナショナリズムは、国家を特別に重要で敬意を表すべき存在であるとし、信仰にも似た尊崇の対象と考える。その結果、国家を象徴する国旗・国歌についても、同様にこれを特別に重大で神聖なものと考えるのみならず、当然にすべての国民がこれに敬意を表明すべきものと考え、国旗国歌に敬意を表することを潔しとしない国民の態度を強く非難する。

エ ナショナリズムに基づく国旗国歌への敬意表明要求は、社会的同調圧力として存在するにとどまらず、多数決原理の下、容易に政治権力に転化する。こうして、政治権力がナショナリズムを鼓吹する悪循環が生じる。石原慎太郎知事の時代に、東京都教育委員会が発した悪名高い10・23通達は、その最悪の事例である。

愛国心とは普遍的な道徳で、国旗国歌の尊重は全ての人に望まれる態度であるという、信仰にも似た社会心理がこの世を覆っている。ナショナリズム鼓吹派は常に多数派で、ナショナリズムに同調しない人々は常に少数派とならざるを得ない。その結果、すべての国民が国旗国歌に敬意を表明すべきことは当然と考える人々が政治的多数派で、不起立不斉唱でこれに抵抗する人々は政治的に少数派となる。国旗国歌への敬意表明の強制は、民主主義の問題として放置をしておく限り、解決することはない。

多数派の社会的同調圧力は多数決原理の介在によって、強制力をもつ公権力の命令に転化する。本件の10・23通達と、同通達にもとづく「起立・斉唱」の職務命令はそのようにして、原告らの人権を侵害している。

オ 本件訴訟は、そのような社会的背景の中で生じ、そのような背景の中で権利回復を求める訴訟である。
言うまでもなく、人権の擁護は、少数派の人権の擁護であることに実質的な意味がある。多数派が思想弾圧を受けることはない以上、思想良心の自由とは常に「権力(=多数派)が憎悪の対象とする少数派の思想の自由」である。

以上のとおり、本件において司法の役割が根底的に問われている。司法がナショナリズムという「権力(=多数派)の意思」に迎合し動揺して、少数者の人権侵害をいささかも容認してはならない。司法は、飽くまで人権の砦としての役割を果たさなくてはならず、無批判に多数決原理に追随してはならない。多数派の少数者に対する同調圧力の不当を看過して、これを容認するようなことがあってはならない。まさしく、司法の存在意義が問われているのだから。

まったくその通りではないか ー 「人種差別がまかり通る国に敬意は払えない」

(2020年6月7日)
久しぶりに、アメリカ発のニュースで、コリン・キャパニックの名を耳にした。この度の白人警官による黒人殺害事件で、全米に拡がった抗議運動の報道の中でのこと。彼は、元NFL所属の49ersでQBだったスーパースター。日本語では「片膝付き」と訳されている、プロテストポーズ「テイク・ア・ニー」の元祖である。

特定の身体ポーズが、政治的・宗教的主張と結びつくことがある。かつては、ヒトラーの崇拝者たちが、一斉に右手を伸ばすナチス式敬礼のうえ、「ハイルヒトラー」と叫んだ。以来、あのポーズは全体主義の印として周りの者をぞっとさせる。

また、アメリカ公民権運動を担った黒人活動家たちは、「ブラック・パワー・サリュート」という、拳を高く掲げる抗議のポーズをとった。1968年メキシコオリンピック表彰台における、トミー・スミスやジョン・カーロスの星条旗に対して拳を突き上げたあの抗議の姿が感動的だった。

2016年8月26日、NFLプレシーズンマッチでの試合前の国歌斉唱時に、キャパニックは起立を拒み、テイク・ア・ニーの姿勢を貫いた。その年の7月5日に南部ルイジアナ州で黒人男性が警官に射殺され、7月6日にも米中西部ミネソタ州で、黒人男性が警官に射殺される事件が続いた。全米に抗議行動が巻きおこっているさ中に、キャパニックは抗議の意思を表明したのだ。彼の日抗議の先は、毅然とした対策をとらない国家に向けられた。「黒人や有色人種への差別がまかり通る国に敬意は払えない」と明言している。

この行動に、多くの選手が賛同して国歌斉唱時のテイク・ア・ニーは大きな運動となった。当然のこととして、その賛否にアメリカの世論は大きく割れた。キャパニック批判の先頭に立ったのが、新大統領となったトランプだった。

17年9月22日における彼の支援者集会での演説のえげつなさが衝撃である。これが、超大国大統領の品性の程度である。

 「我々の国旗に不敬な態度をとる奴に、NFLチームのオーナーが『あのクソ野郎をすぐにグラウンドからつまみだせ。出てけ。クビだ』と言ったら最高じゃないか」(クソ野郎の原語は、「son of a bitch」)「そのうちどこかのオーナーがきっとこう言うに違いない。『あいつは国旗を侮辱した。クビだ』とね。彼らは知らないのだ。私にはオーナーの友人がたくさんいる。」

 得意になって、激した言葉で聴衆に語りかけるトランプ。これにヤンヤの喝采で応える支持者たち。煽る側、煽られる側の相互作用。節度も知性のかけらもない、これがアメリカの一面の現実なのだ。

このトランプ発言に、選手たちが反発してテイク・ア・ニーはさらに拡がった。この事態に、NFLコミッショナーのロジャー・グッデルは「大統領による無神経な発言を受け、彼ら(選手たち)はフラストレーションや失望を平和的な形で表明したのだ」とし、国歌斉唱中に平和的抗議運動を展開するNFL全体の動きを「誇りに思う」とまで語った。

当初は、キャパニックの所属チームは「宗教や表現の自由をうたう米国の精神に基づき、個人が国歌演奏に参加するかしないか選択する権利を認める」と同選手の決断を尊重するとの声明を発表した。また、NFLは声明で、「国歌の演奏中に選手たちが起立することを奨励するが強制ではない」と選手を擁護した。

しかし、このNFLのグッデルも、この姿勢を堅持できなかった。翌2018年にはNFLは方針を変え、選手たちの抗議活動を支持せず、国歌斉唱の際にひざまずくことを禁止。違反した場合には処罰を課すとした。これが、NFLの公式姿勢として今日まで続いた。キャパニックと49ersとの契約が切れたあと、彼を迎え入れるチームはなく、いまだに彼は失職状態にある。

しかし、捨てる神ばかりではなく、大手スポーツ用品メーカーのナイキが登場して拾う神となる。キャパニックを同社のイメージキャラクターとして採用した。同社のスローガン「Just Do It」の30周年を記念する広告にキャパニックを起用した。広告では、キャパニックの顔に「何かを信じろ。たとえすべてを犠牲にするとしても」という言葉を重ね合わせている。キャパニックがアメリカの自由を象徴する人物とすれば、トランプがアメリカの不寛容を象徴する存在であり、ナイキはアメリカの懐の深さを象徴したというべきであろう。

もちろん、トランプは、ナイキも執拗に攻撃した。18年9月5日の彼のツイッターは、ナイキを指して「間違いなく殺される」と述べた。「テレビ視聴率が下がったNFLと同じように、ナイキは間違いなく、怒りと購買拒否によって殺される。ナイキはそうなることを分かってやっているのか」とした。

そして、白人警官の黒人に対する絞殺事件という衝撃の新事態を迎える。全米に激しい抗議の行動が巻きおこっている。その矛先は、今、間違いなくトランプに突きつけられている。NFLの選手たちも声を上げ始めた。「人種差別や黒人への組織的弾圧を糾弾し、選手たちの平和的抗議を禁じた過ちを認め、黒人の命の大切さを尊重してほしい」との動画を投稿することでNFLに呼びかけた。

 これに、NFLコミッショナーのロジャー・グッデルが呼応した。現地6月5日(金)、NFLが「以前にNFL選手の声に耳を傾けなかった」ことは間違いだったと認め、NFLのソーシャルメディアプラットフォームを通じて投稿した動画で「すべての人が意見を述べ、平和的に抗議」することを奨励すると語ったのだ。具体的には下記のとおりである。

「われわれナショナル・フットボール・リーグは、人種差別や黒人の方々に対する組織的弾圧を糾弾します。われわれナショナル・フットボール・リーグは、以前にNFL選手の声に耳を傾けなかったのは間違いだったと認め、すべての人が意見を述べ、平和的に抗議することを奨励します。われわれ、ナショナル・フットボール・リーグは、黒人の命の大切さを尊重します。個人的には皆さんと共に抗議しており、この国の切望される変化に携わりたいと思っています。黒人選手なくして、ナショナル・フットボール・リーグは存在しません。国内で行われている抗議活動は黒人の選手、コーチ、ファン、スタッフに対する何世紀にもわたる沈黙、不平等、弾圧を象徴しています。私たちは耳を傾けています。私は耳を傾けています。声を上げてくれた選手たちに連絡し、改善方法やNFLファミリーがさらに一致団結して前進できる方法を伝えていくつもりです」

 直接にはキャパニックの名は出て来ない。国歌斉唱時のテイク・ア・ニーに言及されてもいないが、「以前にNFL選手の声に耳を傾けなかった間違い」と言えば、このことしかない。結局は、国歌斉唱時における選手たちのテイク・ア・ニー行動を容認するということなのだ。

「黒人や有色人種への差別がまかり通る国に敬意は払えない」と言ったキャパニックから見れば、差別主義者トランプを大統領とする米国の国旗にも国歌にも敬意を払うことはとうていできまい。黒人を差別し、黒人に敵意を持つ国は、黒人にとって自らの国ではあり得ないのだ。

もっとも、キャパニックは、国家を本来的に性悪なものとして、原理的に国旗や国歌への敬意表明を拒絶していたわけではない。Black Lives Matterをスローガンとする運動が今度こそ成功をおさめ、トランプが大統領選で大敗した後には、キャパニックも国歌を歌えるようになるだろう。

卒業式は、日の丸掲揚・君が代斉唱儀式ではない。

本日(3月31日)は、「日の丸・君が代」強制に抵抗する諸運動体による、恒例の「卒業式総括集会」だった。

悪名高い「10・23通達」が発せられて以来、17度目の憂鬱な春である。本来胸おどる卒業式・入学式の希望の季節が、日の丸・君が代強制と思想弾圧の季節と化して17星霜を数える。

当初は、極右の知事石原慎太郎の特異なキャラクター故の暴走と考え、この知事さえ交替すればと思っていたのが甘かった。石原後継の知事も、保守の中では良識派と見えたその次の知事も、そして、ダイバーシティを口にする自分ファースト現知事もこの異様な事態をなんとも考えてはいないのだ。精神の自由についても、教育が権力の支配に服してはならないとする基本理念にも、なんの関心もない。歴代の凡庸なお飾り教育委員たちも同様なのだ。

そうこうしているうちに、安倍晋三が国政に君臨するようになった。こういう歴史修正主義者であり復古主義者でもあり、憲法に敵意を剥き出しにする輩を国政のトップに押し上げる勢力が幅を利かせる時代なのだ。次第に、日の丸・君が代を強制している、われわれが闘う相手の大きさが見えてきた。

日の丸・君が代強制勢力にとっは、大きな抵抗にぶつかって、思うようにはその思惑の進捗はない。しかし抵抗するわれわれも、日の丸・君が代強制を阻止し得ていない。事態が膠着した状況で17年目の春を迎えている。

本日の集会での現場からの報告によれば、今年の都立校の卒業式はコロナ対応に追われたものだったという。それでも、知事と教委は、「国歌斉唱」の実行にこだわった。

2月26日に、各校長に対して、「新型コロナウィルス感染症に関する学校における対応について(通知)」が教育長名で出された。以下のとおり、卒業式に関しては、「参列者の制限及び時間短縮」が述べられている。

1 令和元年度卒業式の実施
(1)参列者の制限及び時間短縮
 ア 参列者の制限
   附属中学校、中等教育学校及び高等学校においては、保護者及び来賓は参加せず、教職員、卒業生及び式に関係する在校生とする。
   特別支援学校においては、来賓は参加せず、教職員、卒業生及び関係する在校生並びに介助を必要とする児童生徒等の保護者とする。
 イ 時間の短
   知事メッセージと都教育委員会挨拶は校内に掲示するとともに、卒業生に配布する。なお、卒業式の挨拶業務に係る都教育委員会からの派遣は行わない。
   祝電は掲示のみとし、祝電の披露は行わない。

翌27日には、都教委から各校に卒業式の式次第からカットする項目の例示がメールで送信され、各校では都教委からの指示に基づき、式次第の手直しがされた。

更に28日、都教委は「更なる感染防止拡大」のため卒業式は「参列者の制限や時間の短縮により実施」とする「新型コロナウイルスに関する都内公立学校における今後の対応(第49報)」を発表するとともに、「卒業式における国旗・国歌に関する調査の実施」に関わって、同日立て続けに二つの事務連絡を各学校長宛に出した。

この経過と「二つの事務連絡」については、下記の当ブログを参照されたい。

生徒たちへのコロナ感染防御よりも、「日の丸・君が代」強行が大切なのか。
http://article9.jp/wordpress/?p=14522(2020年3月19日)

国旗を「式典会場内掲揚せず」や国歌「斉唱せずメロディも流さず」を不適切な状況として取り扱わない」とした「事務連絡①」と、「都立高校における国旗国歌の取り扱いについては『国旗掲揚の下に、体育館で実施する。』『国歌斉唱を行う。』という方針に変更ありません。」という「事務連絡②」は明らかに矛盾している。コロナ対応に追われる中で、都教委の職員の間に認識の違いや混乱があったことは間違いない。

このような都教委の指示によって、都立高校では様々な式次第で卒業式が実施された。
保護者代表謝辞、都教委挨拶、祝電披露は全ての学校でカットされた。
校歌斉唱、卒業生代表答辞、在校生代表送辞、式歌(卒業の歌)斉唱については、各学校の判断に任された。
結局、①国歌斉唱、②校長式辞、③卒業証書授与だけは、カットを許されず、この3点のみに縮小して式を実施した学校が多くあった。中には、卒業証書授与の際の呼名までカットした学校もあった。

 コロナ対策としての飛沫感染防止を目的に校歌や式歌をカットしながら、国歌だけは斉唱するという異様な式が行われた。今年の卒業式は、生徒や教職員の命や健康よりも国旗掲揚や国歌斉唱を優先する都教委の異常さを浮き彫りにした。

卒業式は、国旗を掲揚したり国歌を斉唱したりするために行われるわけではない。生徒のための卒業式を取り戻すために、「10・23通達」を撤回させる取り組みを今後もあきらめず続けていかなければならない。そのような決意を新たにした集会だった。
(2020年3月31日)

東京高裁「君が代不起立」処分取り消しの逆転判決

一昨日(3月25日)、東京高裁(第9民事部・小川秀樹裁判長)で「河原井・根津09年停職事件」の控訴審判決言い渡しがあった。同判決は、東京地裁判決を主要な部分で変更し、根津公子さんに対する停職6月の懲戒処分を取り消す旨の「逆転勝訴」となった。

2009年3月、都立学校の教員だった河原井さん・根津さんは、ともに卒業式での「君が代・不起立」を理由に、東京都教育委員会から停職6月の懲戒処分を受け、その処分取り消しを求めて人事委員会審査を経て、提訴していた。原審東京地裁判決は河原井さんの処分を取り消したが、根津さんの処分取消請求を棄却した。これを不服とした根津さんの控訴審で、小川秀樹判決は処分を取り消したもの。河原井純子さんの一審判決勝訴の部分は既に確定済みで、河原井さん・根津さん揃っての勝訴がほぼ確実となった。もっとも、まだ都教委側の上告受理申立はあり得ないではない。

なんとなく、安倍政権の天が下どこもかしこも忖度だらけとの印象が強いが、まだマシな裁判官も健在なのだ。まずは、めでたい。
とは言え、小川秀樹裁判長がリベラルで憲法の理念に親和的な立派な裁判官かと言えば、そうとも言いがたい。ちょうど1か月前の2月26日、夫婦同姓の強制は違憲との主張を斥けて、現行制度を合憲とした判決を言い渡したのが、同じ小川秀樹コートなのだ。

この根津さんの事件は、東京「君が代」弁護団の受任事件ではなく、私は関与していない。河原井さん・根津さんは、信頼する弁護士・弁護団を選んで、訴訟を追行し成果を上げた。根津さんを支える運動体によれば、根津さんの最近の「君が代」不起立に対する処分と判決は以下のとおりだという。
・2006年3月卒業式の不起立に、3か月の停職処分
   ➾処分取消請求棄却の敗訴
・2007年3月卒業式の不起立に、6か月の停職処分
   ➾処分取消請求に一審は棄却、東京高裁で逆転勝訴(須藤判決)
   ➾最高裁で確定
・2008年3月の卒業式不起立に、6か月の停職処分
   ➾ゼッケン着用などを理由に取り消されず
・2009年3月の卒業式不起立に、6か月の停職処分(本件処分)
   ➾地裁は、処分取消請求を棄却(敗訴)

同判決主文の主要部分は、以下のとおりである。

1 原判決主文第2項のうち,控訴人根津の請求に係る部分を次のとおり変更する。
(1) 東京都教育委員会が平成21年3月31日付けで控訴人根津に対してした懲戒処分を取り消す。
(2) 控訴人根津のその余の請求を棄却する。

 根津さんが求めたのは、停職6か月の懲戒処分の取消しと、慰謝料の支払いとである。慰謝料の支払いは棄却されたが、この判決で懲戒処分の取消支払い認められた。最高裁が、これを覆すことは考え難い。

同判決理由の主要部分は、以下のとおり。

 原審(東京地裁判決)は,控訴人ら(河原井・根津)の憲法及び教育基本法違反の主張を排斥する一方で,本件河原井懲戒処分については,懲戒権者の裁量権の範囲を逸脱してされた違法なものであるとして,同処分を取り消し,本件根津懲戒処分については,社会観念上著しく妥当を欠くものとはいえず,停職期間も裁量権の範囲内ということができ,適法であるとして,同処分の取消しの請求を棄却し,損害賠償請求については,本件根津懲戒処分は違法とはいえず,本件河原井懲戒処分については国賠法上の過失は認められないなどとして,控訴人らの請求をいずれも棄却する旨の判決をした。

しかし、「本件根津懲戒処分」については控訴審判決の判断は地裁判決とは違った。

…停職期間を6月とする停職処分を科すことは十分な根拠をもって慎重に行わなければならないものというべきであるところ,控訴人根津の過去の懲戒処分等の対象となったいくつかの行為は平成18年(06年)の懲戒処分において考慮され,その後同種の非違行為が繰り返されて懲戒処分を受けてはいないこと,本件根津不起立は,それ以前のような積極的な式典の妨害行為ではなく,控訴人河原井と同様の国歌斉唱時に起立しなかったという消極的行為であること,平成20年の停職6月の懲戒処分がされた後は,本件トレーナー着用行為のような行為はしていないこと等によれば,都教委の判断は,具体的に行われた非違行為の内容や影響の程度等に鑑み,社会通念上,行為と処分との均衡を著しく失していて妥当性を欠き,裁量権の、合理的範囲を逸脱してされたものといわざるを得ず,違法なものというべきである。したがって,控訴人根津の本件根津懲戒処分の取消請求は理由がある。

問題は、「積極的な式典の妨害行為」か、「国歌斉唱時に起立しなかったという消極的行為」かの分類にある。判決の認定するところでは、「平成17年5月の懲戒処分の後に実施された再発防止研修において,日の丸,君が代強制反対と書かれたゼッケンの着用を巡る抗議等を行ったこと」「平成19年3月の停職6月の懲戒処分を受けた後には、勤務時間中に『強制反対日の丸君が代』等と印刷されたトレーナー着用」などが「積極的な式典の妨害行為」にあたる。

一審は、この過去の「積極的式典妨害行為」を今につながる重大事と見たが、控訴審は「本件は、単に起立しなかったという消極的行為。過去の行為は既に相当な処分を受けており、本件で斟酌すべきではない」と判断した。これだけの判断を獲得するために、多大な努力が必要だったのだ。

なお、君が代不起立は、基本権としての思想・良心・信仰を防衛するためには最低限必要不可欠な受動的行為である。「式典を妨害しない単なる不起立という消極的行為」であれば、何度繰り返しても戒告どまりで、減給以上の懲戒処分とはならない。これが、強権的な都教委と、思想・良心を擁護しようという教員集団とのせめぎ合いの膠着線。

都教委は、累積加重の懲戒処分を重ねることによって教員の転向をたくらみ、非転向の教員を追い払おうとしたが、失敗した。徒然に現状に不服である。教員の側は、戒告とは言え懲戒処分を容認しえない。本来、戒告処分も違憲違法のはずと不満を募らせての、膠着状態である。

この判決が現状の打開をもたらすものとは考えにくいが、闘いを継続する姿勢を学びたいと思う。
(2020年3月27日)

生徒たちへのコロナ感染防御よりも、「日の丸・君が代」強行が大切なのか。

本日(3月19日)、「卒業式処分をするな!都教委要請行動」。32名の要請団に私も交じって、いくつもの課題について要請と質問を重ねた。

いくつもの課題の根底に、民主主義国家の教育の場にふさわしからぬ「国旗・国歌(日の丸・君が代)」への敬意表明の強制がある。この強制に服さぬ教員に対して、東京都教育委員会が懲戒処分を科し、処分に伴う諸不利益を押し付け続けて事態を混乱させている。

国旗と国歌の学校行事を、ILO・ユネスコ勧告は「愛国的儀式」と呼称している。本来教育とは個人の人格の完成を目指すものだが、世界の良識には日本の教育は「愛国的儀式」に彩られたものと映っているのだ。この点、天皇制政府が国家主義を子どもたちに注入した戦前教育と基本的に変わるところがない。

そして「勧告」は、教員に対して愛国的儀式への参加を強制せぬよう配慮が必要という。これを受け容れがたいとする教員の「不服従の権利」を容認している。

消極的な不服従である限り思想良心に基づく行為への制裁があってはならない。これが「市民的不服従の権利」であって、国連の指し示す世界標準なのだ。不服従の権利を認めず、懲戒処分をもって愛国的行為を強制する我が国は、後進・野蛮の誹りを免れない。

都教委は、いったい何ゆえに、このような野蛮な国旗・国歌(日の丸・君が代)強制にこだわるのであろうか。不可解というしかない。

この度のコロナ禍に伴う措置は、不可解にさらに輪をかけるものとなった。本日の要請行動で、最も話題となったのが、「被処分者の会」からの次の指摘。

 東京都教育委員会は2月28日、「新型コロナウイルスに間する都内公立学校における今後の対応(第49報)」を発表し、「1 都立学校の基本方針」として「更なる感染防止拡大」のため卒業式は「参列者の制限や時間の短縮により実施」とした。
 そして、指導部指導企画課長名で都立高等学校長・都立特別支援学校長・都立高等学校付属中学校長・都立中等学校長宛「卒業式における国旗・国歌に関する調査の実施について」という事務連絡(以下、事務連絡①という)を発出し、記の2で「本年度に限り…『10.23通達』に示す取り扱いと異なる方法で卒業式を実施する場合は…」として回答例・例1では「…国旗を掲揚できなかった場合‥」、例2では「国歌を含め…斉唱や合唱を行わなかった場合」を挙げ、「※ 本年度に限り、上記回答を不適切な状況として取り扱わない」とした。
 ところが、同日、指導部指導企画課長名で都立高等学校長宛に「事務連絡②」を発出し、「現時点で、都立学校における卒業式の国旗国歌の取り扱いについては、『国旗掲揚の下に、体育館で実施する。』『国歌斉唱を行う』という方針に変更ありません。」と指示し、「説明不足であったことをお詫び」した。
 事務連絡①で「感染防止」のための「緊急対策」として「連絡」した内容が事務連絡②では「国旗掲揚…、体育館で実施…」「国歌斉唱を行う。」に変えられたのである。
 その結果、これまでの式次第にあった校歌斉唱、保護者代表式辞、卒業生代表答辞、在校生代表送辞、式歌(卒業の歌)斉唱、などをカットし、①国歌斉唱、②校長式辞、③卒業証書授与、などに縮小して実施した学校も多い。「感染防止」と言いながら何が何でも「君が代」だけは歌わせるという都教委の異常さが際立っている。

納得できる説明を求めるという質問書の提出に続いて、出席者から声が上がった。

「朝令暮改も甚だしい。常識的な事務連絡①を出したあとに、いったい何があって、非常識な事務連絡②を出すことになったのか」「コロナは、接触感染と飛沫感染で広まっている。接触感染を防ごうというのが、体育館ではなく各教室で行おうという配慮。飛沫感染を防ごうというのが斉唱をやめようという配慮。どちらもまかりならんとはどういうことなのか」「性との命や健康よりも、日の丸・君が代が大切ということなのか」

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事務連絡①

事 務 連 絡
令和2年2月28日

都立高等学校長
都立特別支援学校長
都立高等学校付属中学校長
都立中等学校長     殿
教育庁指導部指導企画課長 小寺 康裕

卒業式における国旗・国歌に関する調査の実施について

 例年実施している標記の調査について、複数の学校や自治体から、「新型コロナウイルス感染防止のため例年と異なる方法で卒業式を実施するため、どのように回答すればよいか。」
などの問い合わせを受けています。
つきましては、下記のとおり御対応ください。

1.例年と同様の様式で回答する。
2.新型コロナウイルスへの緊急対策に伴い、本年度に限り、いわゆる「10・23通達」に示す取り扱いと異なる方法で卒業式を実施する場合は、以下の例を参考に回答する。

◆例1 各教室で放送等を活用して式を実施したため、国旗を掲揚できなか った場合
→「オ 式典会場内掲揚せず」
「ノ 演台を設置せずに実施」と回答
◆例2 飛沫感染を防ぐため、国歌を含め全ての式歌の斉唱や合唱を行わなかった場合
→「ス 斉唱せずメロディも流さず」と回答
「(7)教職員の状況」は空欄
本年度に限り、上記回答を不適切な状況として取り扱わない。
なお、体育館で実施しながら国旗掲揚を行わない事例や、校歌や他の式歌を斉唱(合唱)しながら国歌斉唱を行わない事例等は、不適切な事例に該当します。

【担 当】
教育庁指導部 主任指導主事 ○ ○
指導企画課統括指導主事 ○ ○
指導企画課指導主事 ○ ○
電話 03-53××-68××

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事務連絡②

事 務 連 絡
令和2年2月28日

都立高等学校長殿
教育庁指導部指導企画課長 小寺 康裕

「卒業式における国旗・国歌に関する調査の実施について」の趣旨等について

 先ほど、当課からの事務連絡「卒業式における国旗・国歌に関する調査の実施について」により、本年度の調査の回答例等を示したところですが、この例は、今年度の新型コロナウイルスの感染拡大等の状況によっては、卒業式の実施方法について、様々な変更が想定されることから、変更があった際の回答の仕方を示したものです。

現時点で、都立学校における卒業式の国旗国歌の取り扱いについては、「国旗掲揚の下に、体育館で実施する。」「国歌斉唱を行う。」という方針に変更ありません。

説明不足であったことをお詫び申し上げます。
ご理解を賜りますようお願い申し上げます。

【担 当】
指導部主任指導主事(安全教育担当) ○ ○
統括指導主事 ○ ○
電話 03-53××-68××

(2020年3月19日)

 

都教委よ。なによりも大事なものが「日の丸・君が代」だというのか

いつもながらの安倍晋三「やってる感」演出の印象操作。この度のパフォーマンスは国民生活への影響多大な全国一律休校要請。そのテンヤワンヤの影響が、全国各校の卒業式にも及んでいる。しかし、この期に及んでなお、東京都内での「日の丸・君が代」強制へのこだわりぶりが恐ろしい。

東京都教育委員会は、先月(2月)28日、「新型コロナウイルスに関する都内公立学校における今後の対応」を公表した。

これによると、「1 都立学校の基本方針」を次のように言う。

「先般、都としては、今後、3週間程度を集中対策期間とし、更なる感染防止拡大に向け、時差通学の実施や春季休業期間の前倒しなどに取り組むこととしたところである。
 この度、国が方針を変更し、全国一斉の休校を行うこととしたため、都としても、これを踏まえ、原則として3月2日から春休みまでの間、休校とする。」

まったく自主性に欠けた、情けない中央追随主義。そして、その故に安倍の場当たり方針変更に振り回されるみじめな実態というほかはない。その基本方針のもと、「2 休校に伴う課題への対応」が記されているが、卒業式については以下の2行のみである。

「(2)卒業式
 参列者の制限や時間の短縮により実施」

可及的に感染の機会を低減しようとするなら、授業だけでなく卒業式も取りやめればよい。そうすれば、政権への忖度の姿勢を見せるメリットもある。とは言うものの、教育の役割や児童・生徒の心情に思いをいたせば、卒業式をやめるとまでは言いにくい。それ故の「参列者の制限や時間の短縮による卒業式実施」なのであろう。それはそれで、理解できなくもない。問題はその具体化だ。

「参列者の制限」としては、議員や地域の名誉職を呼ぶのはやめよう。教育委員会事務局からの指導主事など「日の丸・君が代」実施の監視要員も不要だ。「時間の短縮」のためには、まずは君が代斉唱をやめよう。紋切り型の式辞の類も一切不要だ。生徒が学窓の想い出と将来への決意を語り、教員がそれを励ます、生徒と教員を中心とした簡素な集いでよい。3年間の教育の成果を確認する感動的な卒業式は、「参列者の制限と時間の短縮」でより濃密になるだろう。

ところが、現実にはそうなっていない。公表の限りでは、「休業中の卒業式は『31教総務第2347号』に基づいて実施する」とされているが、この通達は見あたらない。

複数の友人からの報告によれば、以下のとおり東京都教育委員会は、「式次第から校歌、卒業生の歌、保護者式辞などを省いても『君が代』斉唱だけはやる」との方針であるという。生徒のための式ではなく、国家のための卒業式の色彩が濃くなっている。本末転倒も甚だしい。

報告その1
卒業式は時間短縮で、保護者、在校生、来賓は感染防止のため出席させないにもかかわらず、式次第に『国歌斉唱』だけはある。校長も、通達があるからどうしようもないと言っている。都民の声として挙げてもらえたら。

報告その2
卒業式の件ですが、私の勤務校では「短縮化」と言いながら、「国歌斉唱」のみ従来通り強行という内容です。何だかんだで「君が代」だけやればいいという教委の目的が浮き彫りになった感じです。
管理職はセンターの担当に「証書の授与だけではよくないのか?」と質問したそうだが、「(国歌斉唱は)必ずやってください」と言われたとのこと。
式の進行概要は以下の通りで、前日の予行は中止です。
① 卆業生入場、②「君が代」斉唱、③証書授与(呼名+代表生徒への授与)、④校長式辞、⑤卒業生退場

報告その3
以下の内容で、都民の声にメールしました。
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都立高校の卒業式は、新型コロナウイルス対策のために、校歌斉唱や式の歌を省略して実施することになりましたが、君が代の斉唱は行うことになっています。感染防止のために斉唱を取り止めたのなら、君が代の斉唱も取り止めるべきではないでしょうか。卒業生の健康や命より、君が代の方が大事にされるのはどう考えても間違いだと思います。
なぜ君が代斉唱を行わなければならないか、理由を教えてください。説明を求めます。

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(2020年3月7日)

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