澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

今年1年「憲法日記」をお読みいただいたことに感謝いたします

たまたま目にした神奈川新聞に次の句があった。

   余白なきページを重ね日記果つ(増田幸子)

日記は一年単位のもの。その日記の各ページを、年初からこつこつと余白なく埋めてきて、その繰りかえしがとうとう全ページを最後まで埋めつくしたという感慨が詠まれている。日記の記載は確実に自分の人生の一部である。年の終わりに、一年という時の経過と、その間の自分の人生のあゆみとを、余白のなくなった日記を読み返しての一入の感慨。今年1年、何ごとかを成し遂げたという充実感も読み取ることができよう。

私のブログも、本日大晦日の掲載で、今年365日は余白なきページを埋めつくした。一日の休載もなく、書き連ねたことにいささかの充実感がある。

私のブログは「憲法日記」と標題する。日々書き連ねていることにおいて日記ではあるが、我が国の伝統的な「日記」とはやや異なる。「日記」とは、通常他人の目に触れることを想定していない。あるいは、目に触れないことを前提とする体裁で書かれることが多い。自分だけの読み直しのために、自分の考えをまとめ、忘れてはならないできごとの私的な記録といってよい。

永井荷風の「断腸亭日乗」は、その典型であろうか。荷風37歳の1917年9月16日を第1日目として死ぬ前日まで42年間書き続けられたものだが、戦前には筆禍を怖れて誰にも見せなかった。見せなかったというだけでなく、懸命に隠していたともいう。隠さねばならないと思いつつも、書き残しておこうとするところが文人の文人たる本性なのだろう。「日乗」の戦後分の評価は高くない。晩年は殆どが一日一行という程度にもなっている。隠さねばならないと思いつつ、よほどの覚悟で書いた日々の文章が貴重であり、関心を呼んでいるのだ。

似た例では、神坂次郎が紹介する「元禄御畳奉行の日記」(中公新書)が実に面白い。荷風が漢学と西洋の教養を兼ね備えた風流人(相当に偏狭で自堕落ではあるが)であるのに比較して、こちらは一介の尾張藩士の日記である。取り立てて取り柄のない下級藩士朝日文左衛門は、恐るべき根気で筆まめに日記を書き続けた。その日記の名を「鸚鵡籠中記(オウムろうちゅうき)」と気取ってつけている。彼が18歳であった元禄4年6月13日から延々26年8か月、日数にして8863日間連綿と書き続けた。神坂の紹介による、ままならぬ人生模様を描いたその内容が実に面白く、「日記を書くためだけに生まれてきたような」生涯と評されている。その鸚鵡籠中記の8864日目のページには、知人の筆で「終焉」の2文字が書き加えられているという。この日記も、藩主の浪費やその生母の淫乱などについてまで書き留め、到底人に見せるつもりがあったとは考えられない。文左衛門も、自分の日記が後世こんなに多くの人に読まれる貴重な記録になろうとは夢にも思わなかったことだろう。

これに対して、ブログは社会への発信ツールである。自分だけの備忘録ではなく、後の自分ひとりを読者に想定するものではない。多くの人に知ってもらいたい情報を伝達し、意見を共有してもらいたいとする積極的な表現である。だから読んでいただくために文章を綴っている。

とりわけ、私の「憲法日記」は安倍晋三という右翼が政治家となり首相にまでなったことによる改憲への危機感を出発点としている。現在の憲法の危機を世に伝え、憲法の危機は人権の危機であり平和の危機であること、さらには多くの庶民にとっての生活の危機でもあることをうったえ、憲法を攻撃する勢力にともに対峙することを呼びかけることを本旨としている。

だから、独りよがりの文章は意味がない。「長すぎる」、「分かりにくい」という批判には耳を傾けなくてはならない。常々そうは思っているのだ。能力の不足のせいでこれが難しいのだが。

そしてブログの継続に意味があると考えている。毎日覗いていただけば、必ず何かしらの新しい情報や意見を提供できるように心掛けている。拙いブログも、継続することで私の真摯さをアピールすることもできるし、社会への発信力を獲得することができるのではないだろうか。

本日のブログ掲載で今年全日の更新をしたことになった。2013年4月1日から通算して640日連続更新ともなっている。しばらくは連続更新を続けたい。とりあえずの目標は1000回の大台である。それまでに、安倍政権が崩壊して頑張る必要がなくなることを祈りながら。

今年1年、「憲法日記」に少しでもお付き合いいただき、一部なりともお読みいただいた方に心から感謝を申しあげて、年を閉じるご挨拶といたします。
(2014年12月31日)

2014年の最重要事件は「集団的自衛権行使容認の7月1日閣議決定」

年の瀬である。2014年を振り返って見なければならない。良い年ではなかったが、そのトップニュースは何だっただろうか。

上野千鶴子が「壊憲記念日」と名付けた7月1日の、集団的自衛権行使容認閣議決定をおいてほかにないだろう。この日憲法がないがしろにされ、政権が国の運命変更に舵を切った日。とりわけ「立憲主義に大きな傷がついた日」であり、「専守防衛の方針が打ち捨てられた日」と記憶されなければならない。

各メディアが、「今年の十大ニュース」を報じている。12月15日に、新聞之新聞社が主宰する「社会部長が選ぶ今年の十大ニュース」が発表された。在京の新聞・通信8社の社会部長らが出席しての選考会でトップになったのは、予想のとおり「集団的自衛権の行使容認を閣議決定」であった。ちなみに2位以下は次のとおりである。
(2)御嶽山噴火や広島の豪雨など自然災害相次ぐ
(3)消費税8%スタート、景気足踏みで再引き上げは延期
(4)衆院選で自公大勝、解散前に「政治とカネ」で女性2閣僚辞任も
(5)袴田事件で再審開始決定、48年ぶり釈放
(6)青色LEDで日本人3氏がノーベル物理学賞
(7)STAP細胞論文に改ざんなど不正
(8)朝日新聞が「吉田調書」、慰安婦記事の一部取り消し、社長が辞任
(9)危険ドラッグの事件事故が激増、規制強化
(10)朴槿恵韓国大統領めぐる報道で産経新聞の前ソウル支局長起訴

このほど共同通信社と加盟各社が選んだ今年の国内十大ニュースが発表になったが、やはりトップは「集団的自衛権の行使容認を閣議決定」であった。2位以下は大同小異だが、10位に「普天間飛行場の辺野古移設で国調査反対の知事が当選」がはいっている。

当然のことながらニュースの重大性の比重は各社・各紙で異なる。読売の十大ニュースには「集団的自衛権行使容認の閣議決定」はランクインされていない。12位である。しかも、「集団的自衛権を限定容認、政府が新見解」とネーミングが微妙に異なる。

共同通信加盟紙による閣議決定ニュースの解説をそのまま引用すれば、「政府は7月1日、従来の憲法解釈を変更し、自国が攻撃を受けていなくても他国への攻撃を実力で阻止する集団的自衛権の行使容認を閣議決定した。『国民の権利が根底から覆される明白な危険がある』などに限定する『武力行使3要件』を設けたが、行使できる範囲をめぐり自民、公明両党で意見が分かれる。歴代内閣は憲法9条の許す範囲を超えるとしてきただけに、専守防衛の理念を逸脱しかねない戦後安全保障政策の大転換だ」というもの。
このような「専守防衛の理念を逸脱しかねない」「大問題」「大転換」「最大級のニュース」であることが常識的な理解。

この閣議決定は、安倍政権によるこれからの改憲路線への布石である。自衛隊を海外に派兵して戦闘させるには閣議決定では足りず、具体的な法的根拠が不可欠である。閣議で憲法原則を壊しておいて、次には立法改憲の手続きにはいることになるわけだ。来年は、閣議決定に基づく具体的な安全保障法制のせめぎ合いの元年となる。その手はじめが、既に予告されている「自衛隊の後方支援恒久法」である。

「安倍政権は、来年の通常国会に、自衛隊による米軍など他国軍への後方支援をいつでも可能にする新法(恒久法)を提出する検討に入った。首相周辺や政府関係者が明らかにした。これまで自衛隊を海外派遣するたびに特別措置法を作ってきたが、新法を作ることで、自衛隊を素早く派遣できるようにする狙いがある。自衛隊の海外活動が拡大するため、活動内容や国会承認のあり方でどこまで制約をかけるかが焦点になる」(朝日)

自公政権が、国会内での議席数に驕って、数の力で憲法を無視した立法を強行できると思ったら大まちがいだ。まず、国会での自公政権の議席の数は、小選挙区制のマジックによって嵩上げ上げされた虚構の多数でしかない。しかも、「アベノミクス選挙だ」「経済再建この道しかない」と、争点をずらして掠めとった議席であって、憲法問題や安全保障政策についての国民の信任を得たものではない。

国民の目は醒めている。安倍の暴走がこれ以上になればあっさりと民意は離れることになるだろう。しかも、国民の現政権支持はアベノミクスへの期待が持続する限りにおいてのもの。安倍政権はいよいよキナ臭いが、民意を恐れてもいる。後方支援恒久法案の国会審議入りは来春の統一地方選への影響に配慮して、その後になるだろうと言われている。すべては民意にかかっているのだ。

今年のせめぎ合いは新年にもちこされる。まずは、来春の統一地方選挙が大きな政治戦として自公政権への信任の可否を問うことになる。新たな年は、新たな決意が必要な年となるのだろう。
(2014年12月30日)

「我が国の極端な司法消極主義」と「韓国の余りに果敢な積極主義」とー日韓憲法裁判事情の落差

12月19日、韓国憲法裁判所が「統合進歩党」(統進党、あるいは進歩党と略称)の解散を命じる決定を下した。裁判官は9名、うち認容8対棄却1の圧倒的多数での政党解散命令であった。

意外にも、韓国のメディアはこの憲政史上初の判決に好意的なようだ。「中道や進歩的と言われる裁判官まで統進党の目的と活動が民主的な基本秩序を深刻に害していると判断した」「自由民主体制を揺るがす憲法破壊政党に寛容ではないという峻厳な憲法守護の審判」などと報道されている。

私は、これまで韓国憲法裁判所を高く評価してきた。日本の極端な司法消極主義に比較して、果敢に体制に切り込むその積極姿勢を好もしいとし、羨望まで感じていたいたものだ。しかし、この度の政党解散命令には大いに戸惑うばかり。このような権力行使の権限を司法に与えてよいのだろうか。「日本国憲法を改正して、わが国にも憲法裁判所の創設を」という提唱は古くからある。一面魅力的な提案にも見えるが、韓国憲法裁判所のこの事態に接した以上は、「憲法裁判所設置には反対」と姿勢を明確にせざるを得ない。

一昨年(2012年)の5月、日民協は「韓国司法制度調査団」をつくって、韓国憲法裁判所を訪問した。きっかけは、前年(2011年)8月30日の「政府の不作為が違憲であることを確認する」という憲法裁判所の認容決定報道。その事件の請求人(原告)は「元日本軍慰安婦として被害を受けた女性たち」、事件名は「韓日請求権協定第3条不作為違憲確認請求訴訟」という。

請求人ら元日本軍慰安婦とされた女性の日本に対する損害賠償請求権が存続しているのか、それとも1965年「日韓請求権協定」に基づいて消滅してしまったかの解釈上の紛争に関して、憲法裁判所は「韓国政府は解釈上の疑義を条約に定められた手続きに従って解決すべき義務を負っている」と認定した上、その不作為を違憲と判断したというのだ。

高邁な憲法理念と高邁ならざる最高裁判決との落差に臍を噛んでばかりの日本の弁護士には、韓国憲法裁判所の判決は驚嘆の内容。行政に対する厳格なこの姿勢はいったいどこから生まれてきたのだろう。どのようにしてこのような「裁判所」が実現したのだろうか。その疑問ゆえの韓国憲法裁判所訪問であった。

韓国憲法裁判所では、見学者に対する応接の親切さと説明の熱意に驚いた。まずは15分ほどの憲法裁判所のプロモーションビデオを見た。みごとな日本語版であったが、英語、中国語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ロシア語版まであるという。そのタイトルが「社会を変える素晴らしい瞬間のために」というもの。憲法裁判所の、国民一人ひとりの幸福に直接つながる活動をしているのだという強い自負が伝わってくる。
 
その後、われわれの手許には、案内のリーフレットだけでなく、大韓民国憲法と憲法裁判所法の全文(英文)の小冊子が配布され、最高裁調査官にあたる憲法研究員から憲法裁判所の理念や仕組みそして、その運用の実態や社会的評価について2時間にわたって懇切な説明と充実した質疑応答があった。研究員のお一人は、日本に留学(東北大学)の経験ある方で、完璧な日本語での説明だった。その気取らない応対の姿勢にいたく感心し、わが国の最高裁のあの権威主義的な横柄な対応との懸隔を嘆いたものだった。

その憲法裁判所による政党解散の強権発動である。一院制の韓国国会の議席数は300のところ、統進党は国会議員5名をもつ。地方議員は37名だそうだ。選挙によって、これだけの国民の支持を得ている政党が強制的に解散させられた。

伝えられる決定の内容は、「統進党の真の目的と活動は、一次的に暴力によって進歩的民主主義を実現し、最終的に北朝鮮式の社会主義を実現するためのもの」「北朝鮮の対南革命戦略に追従し、自由民主主義体制を転覆しようとする統進党の隠れた意図が李石基議員内乱事件で現実のものとなった」「民主的な基本秩序に実質的な害悪を及ぼす恐れがある具体的な危険を招いた」というもので、さらに「北朝鮮という反国家団体と対立している大韓民国の特殊な状況も考慮しなければならない」と強調されているという。

日本国憲法に政党についての定めはないが、韓国憲法第8条は、政党について下記の定めをしているという。

第8条
① 政党の設立は自由であり、複数政党制は保障される。
② 政党は、その目的、組織及び活動が民主的でなければならず、国民の政治的意思形成に参与するのに必要な組織を有しなければならない。
③ 政党は、法律が定めるところにより、国の保護を受け、国は、法律が定めるところにより、政党運営に必要な資金を補助することができる。
④ 政党の目的又は活動が、民主的基本秩序に違背するときは、政府は、憲法裁判所にその解散を提訴することができ、政党は、憲法裁判所の審判により解散される。

日本国憲法に馴染んだ感覚からは、1項は当然として、2項はなくもがな、3項は異様、4項は恐るべき規定である。政党に対する強権的解散命令の制度と憲法裁判所の存在とがセットになっていることが注目される。

政党は議会制民主主義の展開過程において、民意と議会をつなぐ不可欠の組織である。民主主義の基礎をなす組織と言ってよい。反憲法的スローガンをもつ政党と言えども、選挙によって淘汰されるのが本来のあり方で、解散命令には原理的に馴染まないと思えるのだ。憲法裁判所としては、もっと抑制的な対応の仕方があったのではないだろうか。

たとえば、ここでは日本の最高裁に倣って、悪評さくさくの司法消極主義採用の智恵を働かせてもよかったのではないだろうか。
「民主主義的基盤を持たない憲法裁判所が、有権者の一定の支持を得ている政党に解散を命じるに当たっては、有権者の意思を尊重して可及的に抑制的であるべきで、当該政党の基本理念とその基本理念が表出された外形的行為の両面において、違憲性が一見明白と言えない限りは解散命令を避けるべきである」
というふうに。

以下は、衆議院の憲法調査会での議論のまとめ(2005年)の一部として紹介された見解である。傾聴に値するのではないだろうか。
「憲法裁判所による抽象的審査には、『裁判所が政治的判断を迫られる』、『人権保護より秩序維持に走りやすい』などの問題点があるのに対し、付随的違憲審査制は、具体的事件において深い議論の下で司法審査が行われる、立法作業の抽象的側面を補完するなど優れた制度と考える」
「憲法裁判所を導入しても司法が積極主義に転ずる保証はなく、また、憲法裁判所は政治的に利用されやすいため人権保護の点からも好ましくない」
「抽象的違憲判断の効力が当該法令の改変にまで及ぶとすれば、正に立法権を裁判所が行使することになる」

要は三権分立のバランスの問題としてある。人権の擁護のために、国家機関の権限を分立しなければならないとする自由主義的要請を貫徹するには、どのようなバランスが望ましいのだろうか。民主主義的な基盤を持たない司法(憲法裁判所も含むと理解する)が、過度に積極的に立法や行政の一部の権限を侵蝕することはけっして望ましいものではない。ましてや、政党活動の自由・結社の自由という重要な基本権を否定する方向での積極性の発揮であればなおさらのことである。

私は、ネオナチや極右に対する批判の言論は極めて重要だと思う。しかし、ネオナチ政党だから、あるいは極右だから極左だからという理由で、その主張を理念とする政党の存在が否定されるようなことがあってはならないと思う。日本国憲法の用語で表現すれば、結社の自由を否定してはならない。その政党や政党の主張への批判の言論の保障は、批判対象の政党の存立否定を意味するものではない。司法は、いかなる政党についてであるにせよ、その結社の自由侵害に手を貸すようなことがあってはならない。

なお、韓国憲法裁判所のこの度の統進党解散決定理由の中に、「合法的な政党を装い、税金である政党補助金を受け取って活動した。民主的基本秩序を破壊しようとする危険性を除去するには解散決定のほかに代案はない」との一節があるという。前記の韓国憲法8条3項の「政党に対する国の保護」「政党運営に必要な資金の補助」に絡む問題である。「政党に対する保護」「政党運営への資金補助」は、明らかに国の政党介入の根拠を確保するための制度である。「カネを出すからには口も出す」ことが了解されているのだ。この度の韓国憲法裁判所の決定は、そのことを露骨に語っている。

我が国においても、政党助成金は、国家による政党統制の根拠とされる恐れが濃厚というべきであろう。国家から独立した健全な政党政党政治の発展のため、政党助成金制度はできるだけ早期になくするに越したことはない。
(2014年12月29日)

お薦めの書「原発と大津波 警告を葬った人々」

月に群雲、花に風。原発には地震と津波である。誰もがそう連想し、原発の設計や管理には地震と津波への十分な対策がなされてきたのだろうと考える。

ところが、1966年福島第1原発の設置申請時の設計思想は、そのようなものではなかった。耐震性についてはともかく、こと津波については、これに対応しようとの設計上の配慮はおよそなきに等しかったのだと教えられて愕然とする。それだけではない。その後の大津波来襲の危険は、実は東電には想定内のものであった。しかし、想定しながらもなんの対策もとられないまま、あの3・11の悲劇を迎えたのだという。

サイエンスライター添田孝史の話題の書「原発と大津波 警告を葬った人々」(岩波新書 2014年11月20日発行)を読んで、あらためて「知らないことは恐ろしい」と思い、「知らされないことはさらに恐ろしい」とも思う。国会事故調の協力調査員として津波分を担当した著者が、このような形で有益な情報を提供してくれたことに感謝するとともに、この情報を後世に向けて使いこなすにはどうすればよいのか、考え込まざるをえない。

福島第1原発設計上想定された最大の津波の高さは「3.1m」であった。驚くべきは、その数値自身ではなく、その決め方である。当時は、「既往最大」が想定する津波の規模を決める基本思想であった。「過去に起きたレベル以上に危険な現象は将来も起きるまい」という安易な考え方。仮にこの考え方に合理性があることを認めたとしても、「既往」のスパンをどれほどに斟酌するかで具体的な内容は大きく変わってくる。地球史の中でのできごとである津波について、どれほどの「既往」の期間を考慮すべきか、悩ましいところではある。

福島第1原発の場合、設計時から遡って「過去12年!」の津波の記録から割り出されたものがこの想定最大津波高だというから驚かざるを得ない。これは、原発立地近くの小名浜港におけるチリ津波(1960年)時の津波の高さで、正確には「3.122m」だという。これ以上の津波はあるまいという想定で、危険な原発が作られたのだ。そして、建設後40年目の2011年3月11日、福島第1原を遡上高14メートルを超す津波が襲った。発電所は全電源を喪失し、原子炉冷却が不能となって、1号炉・2号炉・3号炉でメルトダウンが発生。水素爆発を伴う重大な放射能被曝事故となった。

この書の標題が示すとおり、著者は「警告を葬った人々」の責任を浮き彫りにしようとしている。この書に、「脱原発」「原発ゼロ」「再稼働反対」というスローガンは出てこない。その時代の科学的知見に照らして、津波に対していかなる対応をすべきであったかを検証する姿勢に徹している。

著者の基本的な考えは「バックチェック」という言葉に集約されている。福島第1原発設計時には、地震学は未熟であり津波のメカニズムや既往の津波の規模についても知見は乏しかった。だから、想定津波高3.1mという設計思想でもやむを得なかったかも知れない。しかし、その後急速に地震学は進歩し、津波についても歴史的地質学的知見が著しく豊富になった。問題は、その都度の最新の科学的知見が生かされなかったことだ。「新しい知見に基づいて基準を改定し、それに照らして安全かどうかチェックする仕組み」(バックチェック)が働いた形跡はない。むしろ、最新の科学的知見による警告は意識的に「葬られた」のだという。「葬った人々」とは、東電の幹部であり、土木学会の研究者であり、保安院の官僚たちである。

本書が解説する「地震と津波に関する新たな科学的知見」とは、プレートテクトニクス理論であり、過去の津波の周期と規模を特定する地質学的調査手法であり、「地震津波」(特別に大きな津波を生ずるタイプの地震。3・11はこのタイプ)の理解であり、コンピュータ解析に基づくシミュレーション解析等々である。

この書の18頁に、「福島第1原発と津波に関する年表」が掲載されている。常にこの表を見ながら読み進めることになるが、この表の中に「東電による津波想定」の変化が記されている。学界や行政からの警告によって、東電自身がどのように「対応をすべき津波高」を想定したのかという変化の後付けである。これを抜き書きしてみよう。
 1966年 設置許可申請時               3.1m
 1993年 資源エネルギー庁の津波の想定見直し指示時  3.5m
 1997年 津波の想定方法についての7省庁手引き発出時 4.8m
 2000年 福島第1の余裕不足を指摘の電事連報告時   5 m
 2002年 土木学会が津波評価技術を発表        5.7m
 2008年 東電が「津波地震」の津波高を計算     15.7m

間違ってはならない。「このような認識が可能だったはずの数値」ではなく、「東電自身が現実に認識していた想定値」である。しかし、この認識が対策として生かされることはなかった。40年間に津波対策として実行されたのは、2002年3月に土木学会手法に従って、想定される津波の高さを5.7mと見直した際に、6号機の非常用海水ポンプ電動機をわずか20センチかさ上げしただけなのだ。「たった一回の20センチ」、しかもこれとて余裕はわずかに3センチ。想定に誤差があれば、ポンプの機能が失われる恐れがあった、という(40頁)。

この書は、原発政策についての理念的な問題提起であるよりは、法的責任追及根拠の資料のまとめとして有益である。

適用の有無と範囲について争われることになる原賠法上の民事無過失責任は別として、刑事責任にせよ民事責任にせよ、責任追及には過失の存在が要求される。過失は注意義務違反として設定されるが、法が不可能なことを人に要求はできないことから、注意義務は予見可能性の存在を前提とする。したがって、責任追及する側と防御する側において、予見可能性の有無が激しく争われることになる。そのときには、問題の性質によって予見可能性のレベルも決せられる。そして、原発のような最大限に安全でなくてはならない危険物の製造や管理には、事故の発生を防止し、人に対する危害を防止すべき最高レベルの作為義務が設定されることになる。

本件の責任追及では、現実に3・11で福島第1原発を襲った規模の津波が想定可能であったか否かがまず問題となる。ところが、添田新書が具体的に明らかとしているのは、東電はこの規模の津波の可能性を現実に想定していたのだということだ。であるからには予見可能性の有無は問題にならない。謂わば、「想定外の津波がきた」は設計時にはともかく、その後には通用しないのだ。作為・不作為の結果回避義務は当然に認められてしかるべきである。

この書に一貫している太い筋は、以上のとおり「原発の危険性に鑑みて、これを管理するには、科学的知見の進展に沿った真摯な対応が必要ななのだ。ところが、検証してみれば、東電はまったく必要な対応をしてこなかった」というものである。

しかし、この書に表れているディテールは、以上を訴えるにとどまらない。政治や社会の機構は、真摯に人間の安全を第一義とすることを困難にしている。結局は、権力や資本の論理が優先し、これと癒着した学界や巨大組織内で保身を優先する人々が、人間の安全をないがしろにする。そのような実態が暴かれている。

この点について、この書のエピローグに次のような詠嘆がある。
「規制当局や東電の実態を知るにつれ、彼らに原発の運転を任せるのはとても怖いことを実感した。間違えば、国土の半分が使い物にならなくなるような技術を、慎重に謙虚に使う能力がない。しかも経済優先のため再稼働を主張し、科学者の懸念を無視して『リスクは低い』と強弁する電力会社や規制当局の姿は、事故後も変わっていない」

今後とも、原発というこのとてつもない危険物を、この社会が安全に設計し管理できるとは到底考えがたい。やはり、原発をなくし、原発ゼロの社会を目指すしかない。そう思わせる読後感である。
(2014年12月28日)

北星学園への卑劣な攻撃を許さないー「電凸・告発」の顛末

各紙に既報のとおり、昨日(12月26日)北星学園関連の第2弾告発状が札幌地検に提出された。告発人は348名(道内154名・道外194名)、告発人代理人の弁護士は438名(道内165名・道外273名)である。第1弾と同じ5名の弁護士が告発人代理人代表として名前を出している。私もその一人だ。

被告発人は「たかすぎしんさく」と名乗る人物。2度にわたって北星学園に架電し、通話の内容を録音したうえ字幕や静止画像を交えて、ユーチューブに投稿するという手口。業務妨害を意図しての「電話突撃」という手法が右翼に定着しているという。これを略して「電凸」(でんとつ)。この用語もネットの世界で定着していると初めて知った。たかすぎしんさくの手口は「電凸」と「ユーチューブ投稿」とを組み合わせたものだ。

たかすぎしんさくのユーチューブ投稿画像は、犯罪行為そのものであるだけでなく、そのまま犯罪の証拠でもある。告訴・告発、あるいは損害賠償請求をするに際して完璧な証拠を入手できるのだから、告発側にはこの上なく好都合なのだ。それだけではなく、捜査機関にとっては、プロバイダーとIPアドレスをたどることによって、被告発人を割り出すことも容易なはず。

われわれが、たかすぎしんさく告発の予定を公にした途端に、問題のユーチューブ画像は閲覧できなくなった。たかすぎしんさくも、これはやばいと思って引っ込めたのだろう。もちろん、録画してあるから今さら撤回しても時既に遅しなのだ。もっとも、早期に自発的に画像の公開を撤回したことは情状において酌むべきことにはなるはずだ。

刑法第233条(業務妨害)は、「虚偽の風説を流布し、又は偽計を用いて、人の信用を毀損し、又はその業務を妨害した者は、3年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。」と定める。
行為態様は「虚偽の風説の流布」「偽計」の2通り、法益侵害態様は「信用を毀損」「業務を妨害」の2通りである。その組み合わせによるバリエーションは4通りとなってどれでも可罰性があることになるが、われわれは、最初からユーチューブ投稿を目論んでの電凸は、「虚偽の風説の流布による業務妨害」にぴったりだと考えた。

北星学園に対する電話での業務妨害の典型としても、また右翼の常套手段となった電凸に対する制圧策としても、たかすぎしんさく電凸は、一罰百戒の効果をも期待しうるものとして恰好の告発対象なのだ。

虚偽の風説とは、ユーチューブ画像の中で、たかすぎしんさくが繰りかえし口にしている、「国賊大学」「嘘つき大学」「犯罪者を採用」「爆破予告電話は自作自演」等の表現をいう。これをユーチューブに流して不特定多数の誰もが閲覧できるようにしたことが「流布」に当たるのだ。
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12月26日午後2時45分、告発人代理人弁護士8名が、札幌地検を訪れ、渡邉特別刑事部長立会いのもと、特別刑事部志村康之検事に、告発状・告発人目録・告発人代理人目録・各資料・委任状を提出した。

席上、告発人代理人から担当検事に、告発の趣旨を説明し、たかすぎしんさくの人物特定のための情報を提供した。この間、志村検事はきちんとメモを取っていたと報告されている。

また、渡邉部長から、「今回の告発人は弁護士以外の人なのですね」との確認の発言があり、さらに「3回目の告発もあるのですか」と、和やかな雰囲気だったという。

その後、3時10分から札幌弁護士会館で記者会見が行われた。

会見席の横断幕には、
「言論への批判は堂々と言論で」
「教員を解雇させるため根拠のない事実を広めることは犯罪だ!!」
と大書されていた。なお、記者会見の主体は、「国賊大学等虚偽の風説を流布する行為を告発する全国告発人・弁護士有志」である。

テレビを含む会見参加のメデイアに対して、告発代理人を代表して郷路征記弁護士から約30分にわたって、告発の経過、犯罪事実の説明、犯情の悪さ等の説明があった。記者の関心は高く、質疑は活発だったと報告されている。

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第1弾・第2弾と、果敢に告発を重ねたこと、しかも告発の動きを隠密理にするのではなく公然と目に見える形で行ったことが、右翼の卑劣な攻撃を掣肘する効果に結実していると思う。このことは味方をも励まし、植村隆さんの雇用継続に一定の貢献もしたのではないかと思っている。

朝日バッシングの理不尽な蠢動に対しては、しばらくは有効な反撃がなかった。右翼勢力のなすがままに、やられっぱなしだったのではないか。これを見て図に乗った有象無象の輩がこれくらいのことはやってもよいと、勘違いしてしまったのだ。なにしろ、歴史修正主義の大立者が内閣総理大臣となっているこの時代の空気なのだから。

それでも、犯罪は犯罪、そして犯罪には刑罰である。手をゆるめずに刑事告発の目を光らせることは、不当な業務妨害を制圧するための効果は大きい。扇動する者と乗せられる者があり、とりあえずは着実に乗せられた者を摘発するしかないが、メディアや評論家など煽った者たちの責任は大きい。

ところで、告発代理人となった弁護士たちは相当の時間も労力も使った。東京での作戦会議に、札幌や大阪からの参加は身銭を切ってのものだ。しかし、これは誰に依頼されての仕事でもない。強いて言えば、今危うくなっている、日本の民主義が依頼者である。哀しいかな、この依頼者は弁護士報酬を支払う意欲も能力もない。もちろん、民主主義以外に弁護士たちに指示や指令をする者はなく、400名を超す弁護士内部の誰にも他に対する命令権限などあろうはずもない。すべての告発人代理人となった弁護士たちは、まったく自発的に弁護士法に基づく弁護士としての使命を実践したのだ。

この告発準備において意見を交換したメーリングリストの最後に、次のような投稿があった。

日本の民主主義になり代わってお礼を申しあげます。
何ごとかを成し遂げたという、この充実感こそが仕事への唯一の報酬。
一番苦労した人が、一番その充実感を味わうことになる。だから、一番多くの報酬を受けることにもなる。

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                 告  発  状

                    2014年(平成26年)12月26日
 札幌地方検察庁検察官殿
      告  発  人  別紙告発人目録に記載  (計348名)

      告発人代理人共同代表 弁護士 阪口徳雄  (大阪弁護士会)
      告発人代理人共同代表 弁護士 中山武敏(第二東京弁護士会)
      告発人代理人共同代表 弁護士 澤藤統一郎 (東京弁護士会)
      告発人代理人共同代表 弁護士 梓澤和幸  (東京弁護士会)
      告発人代理人共同代表 弁護士 郷路征記  (札幌弁護士会)
      上記代表を含む別紙告発人代理人目録記載の弁護士(438名)

      被告発人  たかすぎしんさく こと 住所氏名不詳者
             (以下、本告発状では「被告発人たかすぎ」という)

第一 告発の趣旨
 被告発人たかすぎの下記各行為は、刑法233条(虚偽の風説の流布による業務妨害罪・以下、「業務妨害罪」という。)に該当することが明らかである。
 しかも、同被告発人の行為態様は、虚偽の風説をインターネットの動画サイトを利用することによって流布するものであるため、これまでには考えられない規模の多数人に対する伝播が行われ、しかも日々その規模は増大しつつある。その結果、業務妨害の法益侵害は規模が大きいというだけでなく、それが現に累積増加しつつあり、直接間接に影響が深刻化している。
 貴職におかれては、本件の上記特徴を的確に把握のうえ、早急に被告発人たかすぎに対する捜査を遂げ、厳正な処罰をされたく、告発する。

第二 告発事実
第1 2014年(平成26年)8月7日インターネット動画掲載に関わる件
   被告発人たかすぎは、2014年(平成26年)8月上旬、元朝日新聞記者である植村隆氏が非常勤講師として勤務する学校法人北星学園(理事長 大山綱夫)が運営する北星学園大学(学長 田村信一。札幌市厚別区大谷地西2丁目3番1号所在。以下、「同大学」という)の代表電話に架電し(以下、「本件電話1」という。)、対応した同大学事務局学生支援課のかわもと某(以下、「かわもと」という。)に対して、「植村さんは国賊に近い方なんですよ。・・・そういう問題があって神戸の松蔭学院大学も、これ採用を止めたんですよ。不適格やて。そういう方をおたくはね、そういう事実をわかっとって採用されてるんですよ。ね、北星学園大学はね、国賊大学いうことなるんですよ。こういうことやっとったら。」(以下、「虚偽事項1」という。)と虚偽を申し向け、さらに、本件電話1によるかわもととのやり取りを自ら録音し、その音声ファイルに同大学の校舎を写した静止画像と字幕をつけて動画ファイルとし、同年8月7日、インターネットの動画共有サイトであるYouTubeにこれをアップロードし、上記虚偽事項1を含む本件電話1を誰もが聴取可能なものとして公開し、もって虚偽の風説を流布して同大学の業務を妨害した。

第2 2014年(平成26年)10月2日インターネット動画掲載に関わる件
   被告発人たかすぎは、同年10月2日、再び同大学の代表電話に架電(以下、「本件電話2」という。)し、対応した同大学事務局の氏名不詳某に対して、「もう9月以降のカリキュラムに植村さんの名前が入っとった言うてるやんか、調べたら。北星学園大学は嘘つきの大学なんですか、これ。そういうことになりますよ。」(以下、「虚偽事項2」という。)と語気鋭く申し向け、又、「北星学園大学ゆうところは、国賊の人間を採用しているゆうことでよろしいんですか」、「北星学園大学の、これ大変なことになりますよ。こういうことやられとったら。犯罪者をね、採用するなんてふざけたことをしなさんな!これ。違いますか、これ。犯罪以上のもんですよ、この方は。」(以下、「虚偽事項3」という。)と語気鋭く申し向け、さらに本件電話2による氏名不詳従業員某とのやりとりを自ら録音し、その音声ファイルに同大学の校舎を写した静止画像と、「『脅迫文』や『爆破予告電話』などは国賊、植村隆を擁護し、雇用している同大学への批判をかわす為の『自作自演』の可能性があると思います。」(以下、「虚偽事項4」という。)との文言を含む字幕をつけて動画ファイルとし、同日、インターネットの動画共有サイトであるYouTubeにこれをアップロードし、上記虚偽事項2、3を含む本件電話2と虚偽事項4を含む字幕を誰もが閲覧・聴取可能なものとして公開し、もって虚偽の風説を流布して同大学の業務を妨害した。

第三 構成要件該当性について
1 「業務妨害罪」における虚偽の風説の流布とは、真実と異なった内容の事項を不特定又は多数の人に伝播させることをいう(「条解刑法 第3版」691頁 9~10行目)。
  以下、同書に従って個々の構成要件要素について検討する。
2 客観的構成要件要素  
(1) 虚偽とは「客観的真実に反すること」(客観説)とするのが、一貫した判例(大判明治44年12月25日)の立場である。
   本件における「国賊大学」「嘘つき大学」「犯罪者を採用」「爆破予告電話は自作自演」等の表現は、その表現が表す事実自体が真実に反するという意味において明らかな虚偽である。
のみならず、憲法23条は学問の自由を保障し、大学は高度の自治を保障されている。大学教員の人事はその自治の重要な一環であって、外部からの大学の人事への介入こそが違法な行為である。大学の人事に不当な攻撃を加えて「国賊」「嘘つき」などとその社会的評価をおとしめようとする論難自体が「業務妨害罪」における「虚偽の風説」に該当するものである。
以上のとおり、同大学は「国賊」でも「嘘つき」でもなく、また「犯罪者を採用した」「爆破予告電話を自作自演した」事実もない。
   これに対して、被告発人側から「当該表現は侮蔑的ではあっても意見・論評に過ぎなく、真偽の判断に馴染まない」との弁明のあることが考えられる。しかし、意見・論評であっても後記のとおり、業務妨害罪の構成要件たる「風説」に該当するものとしてこの弁明はなりたたない。また、当該意見ないし論評の根拠たる事実が一見明白に真実に反することにおいてもそのような弁明のなり立つ余地はない。
   なお、虚偽はある事項の全部について真実に反することを要せず、一部で足りるものと解されている。
(2) 風説とは一般には噂のことであるが、噂という形で流布されることが必要でなく、行為者自身の判断・評価として一定の事項を流布させる場合であっても良いとされている。したがって、「国賊大学」とは被告発人たかすぎの同大学に対する判断・評価と解されるが、それそのものが、業務妨害罪の構成要件たる「風説」に該当するのである。
なお、虚偽の風説は、具体的事実を適示する必要はなく(大判 明治45年7月23日)、悪事醜業の内容を含んでいることも必要ではない(大判 明治44年2月9日)とされている(同書 691頁 下から5~1行目)。
(3) 流布とは不特定、または多数の人に伝播させることを言うが、必ずしも行為者自身、自らが直接に不特定又は多数の人に告知する必要はないとされ、他人を通じて順次それが不特定又は多数の人に伝播されることを認識して行い、その結果、不特定又は多数の人に伝播された場合も含むとされている(同書 692頁 1行目~4行目)
   本件電話1および同2をインターネット動画共有サイトであるYouTubeにアップロードした被告発人たかすぎの行為は、極めて強力な不特定多数者への伝播手段の利用であって、法の想定をはるかに超えた態様としての「風説の流布」に該当するものというべきである。
(4) 以上のとおり、被告発人たかすぎは、客観的真実に反する本件各虚偽事項を風説として不特定かつ多数の人に伝播したものであるから、その行為の構成要件該当性に疑問の余地はない。
(5)もっとも、虚偽とは「行為者が確実な資料・根拠を有しないで述べていた事実である」という主観説の立場がある。主観説に基づく判例としては、東京地方裁判所昭和49年4月25日判決(判例時報744号 37頁)が指摘されている。
   本件の場合には、被告発人たかすぎが確実な証明に必要な資料・根拠を何ら有することなく各虚偽事項を述べたことは明らかと言うべく、主観説の立場からも、虚偽の事項を述べたものとして構成要件該当性に問題がない。
3 故意
(1) 客観説の故意の内容については、行為当時に知られていた当該事実に関して真実とされる客観的知見を基準にして、これと齟齬する認識があることである。
   また、主観説によれば、自己の言説が確実な根拠・資料に基づかないことの認識が故意とされる。
(2) 本件における「国賊大学」「嘘つき大学」「犯罪者を採用」「爆破予告電話は自作自演」等の表現は、当時知られた客観的な事実に照らして大きく齟齬していることが明白であることから客観説における故意の存在が推認されるべきは自明と考えられる。
   また、被告発人たかすぎが、上記各虚偽事項の真実性を確実とする根拠・資料を有していることはあり得ないと考えられることから、主観説を採用するとしても、故意の存在は明らかである。
 (3) なお、本件各虚偽事項における「国賊」「嘘つき」などの表現が侮蔑的な評価ないし意見であるとしても、当該の表現を含む言説が風説として流布されれることによって同大学の業務を妨害する危険があることを認識していれば、故意の成立を妨げない。また、その評価の根拠たる事実が真実でないことについて被告発人たかすぎは認識していたものというべきであり、その立証にたりる確実な資料を有していないことも明らかであるから、この点についての故意の存在も疑問の余地がない。
4 結論
   以上のとおり、被告発人たかすぎの本件各架電とインターネットサイトへの各掲載によって同大学の業務を妨害したものとして、業務妨害罪の外形的構成要件要素の充足に疑問の余地なく、かつ故意の存在も当然に推認される。また、本罪は抽象的危険犯とされ、具体的な業務への支障の発生を要件とするものではない。したがって、被告発人たかすぎの同大学に対する業務妨害罪の構成要件該当性は明らかである。
5  なお、同じ罰条(刑法233条)には、「虚偽の風説の流布」と並んで、「偽計による」業務妨害の構成要件が規定されている。
   「虚偽の風説の流布」と「偽計」との関係については、虚偽の風説の流布も偽計の一態様であるとし、偽計の概念の中に虚偽の風説の流布が含まれるとする見解が妥当であるとされており、(同書 693頁 18~20行目)本件を「偽計による業務妨害」として把握することも可能と思われる。
   しかし、本件の場合には、虚偽の風説の流布に該当することが明らかな事例であるから、偽計による業務妨害罪によらずして、典型性の高い虚偽の風説の流布による業務妨害罪として立件すべきが相当と考えられる。

第四 本件犯行の背景と告発の動機
1 同大学の非常勤講師である植村氏が元朝日新聞の記者としていわゆる従軍慰安婦問題の記事を書いたのは1991年(平成3年)8月11日付の朝日新聞大阪本社版朝刊であるが、それが捏造記事であるとして植村氏を糾弾、社会的に抹殺せんとする動きが2014年(平成26年)2月6日付週刊文春(同年1月末発行)の「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」と題する記事以降急速に強まった。
植村氏の解職を求める電話等が植村氏本人にではなく、その雇用主になる予定の神戸松蔭女子学院大学に対して1週間で250通集中するという事態が発生し、それによって同大学は植村氏に対し、教授に迎え入れられる状況ではない、学生募集に支障がでるとの判断を示し、同大学内に何の繋がりも持たなかった植村氏は、教授就任を諦めざるを得なかった。植村氏は同大学教授への就任のため朝日新聞社を退社する手続をとっており、同年3月末、同社を退社となった。
2 その後、植村氏が北星学園大学の非常勤講師として勤務していることが知られるところとなり、同氏の解職を求める電話、メール、手紙が同大学に集中することになった。
  それらの中でも電話によるものは特に業務への妨害性が高いが、ネットでは抗議や要求等をする電話のことは「電凸」(電話突撃の略で、「でんとつ」と読む)と称されており、本人ではなく雇用主や広告主などの第3者に対して電凸することが、意図的に煽られている。その方が圧倒的に高い効果を得られるからと言われている。
被告発人たかすぎの本件2回の電凸行為は、同大学への架電して大学側の対応を自ら録音しておいて、それをYouTubeにアップロードして社会に公開し、誰もが閲覧、聴取可能なようにしたというところに極めて大きな特徴がある。
  本件電話1のYouTube閲覧者数は12月8日現在で42,135名、本件電話2のYouTubeに関しては7,922名であって、個人が他の手段では到底達することができない多数への伝播となっている。そればかりではない。YouTubeにアップされた被告発人たかすぎの電凸ファイルは、
  保守速報(http://hosyusokuhou.jp/archives/39576639.html)
  嫌韓ちゃんねる(http://ken-ch.vqpv.biz/no/1206.html)等
 のブログにダウンロードされて、そこで閲覧可能となり、そこでも電凸が煽られて電凸が更に広まっていくという事態が進行している。
  以上のとおり、被告発人たかすぎの本件各電凸は、同大学に対する電凸攻撃を煽り、そそのかす役割を果たしているものである。そして、その役割は現時点でも日々継続している。
3 被告発人たかすぎの本件犯行の動機は、偏に植村氏の言論が自分の主義主張に反していたからということだけを理由に、植村氏に私的なリンチを加えて、社会的抹殺することを企て、そのための手段として同大学から失職させることを目的として、本件各電凸行為をおこなっているのである。
  植村氏は、現在実質的に生計の道を断たれた状態にあり、それに加えて同大学の非常勤講師としての職をも失わせようという被告発人たかすぎの本件犯行は、非人道的なものとして犯状極めて悪質と言わなければならない。
  また、被告発人たかすぎの本件各行為は、植村氏の言論とは全く関係のない雇用主である同大学の業務を妨害するという極めて卑劣なものである。本件「電凸行為」は同大学の新入生勧誘等の業務を具体的に妨害することなど、業務の支障は大きくこの点でも不当卑劣、犯状悪質と言わざるを得ない。
被告発人たかすぎの本件行為等の結果、同大学に対する抗議電話やメールは累計2000件以上だという。同大学が被告発人たかすぎの行為によって、多大な業務上の妨害を受けていることは明らかである。雇用主に電凸しそれをインターネットで伝播することによって被告発人たかすぎは、その不当な目的達成のため、信じられないほど大きな効果を獲得しているのである。
この日本の社会の平穏を確立し、自由に語り自由に書ける安心な国として維持してゆくために、本件のごとき犯罪の防遏に対する捜査機関の果敢な決断が、今、求められていると我々は考える。
本件犯行に対して、可及的速やかに厳正な捜査を遂げて、被告発人たかすぎの処罰を求めるものである。

第五 立証方法(略)

(2014年12月27日)

右翼が褒めてくれたから だから12月26日はヤスクニ記念日

ずいぶん迷ったんだけど、去年の今日、思いきって靖国に参拝して本当によかった。もちろん風当たりは覚悟していた。中国も韓国もそりゃ怒るさ。あたりまえのはなしだ。けど、そんなことは想定の範囲。日中・日韓の外交関係が冷え込めば、憲法改正だってやりやすくなる。「わが国をめぐる安全保障環境は、近年ますます厳しくなって…」というあのフレーズが使いやすくなる。そうすれば、明文改憲ができなくても、憲法解釈を変えて集団的自衛権の行使容認に踏み切ることだってできるんじゃないかと思っていた。いや、我ながらみごとな戦略、ズバリうまく行った。

去年のこの日は、第2次安倍政権が発足してからちょうど1年目だったんだ。第1次安倍政権のときは、結局任期中に一度も参拝できなかった。もちろん、できることならやりたかったんだ。だって私を政権の座に押し上げてくれたのは、保守の皆さんではない。明らかに右翼の皆さんだからね。そのお礼の気持ちを表すのには、靖国参拝が一番じゃないか。なんたって「右翼には靖国」だよ。しかし、第1次政権では一度も靖国参拝ができずじまいで、「痛恨の極み」と言ったままだ。第2次政権になって1年たっても参拝できなきゃ、「安倍晋三は口だけの右翼政治家だ」と言われちゃうじゃないか。そんなことになったら、もっと右の誰かに支持を奪われてしまうかも。だから、頑張って参拝をやっちゃったんだ。

いや、右翼の皆さん心から喜んでくれた。あんなに喜んでもらって私も嬉しかった。右翼冥利に尽きたし、政治家冥利にもだね。だから、その嬉しさを日記に書き留めておいたんだ。
 「ボクの決断が右翼にウケたから だから12月26日はヤスクニ記念日」
出来がよくない? お粗末様。

でも、皆さん覚えておいででしょう。「もし私を右翼の軍国主義者と呼びたいのであれば、どうぞそう呼んでいただきたい」という私の発言。そのとおり、掛け値なしに私は正真正銘の「右翼の軍国主義者」なんですよ。右翼のための右翼首相の靖国参拝。どうしたって一度はやらなくちゃ。去年あのときにやっておいてよかった。

去年の12月26日午前11時半、私は靖国神社に昇殿参拝したんだ。「内閣総理大臣 安倍晋三」と札をかけた花を奉納して、肩書も記帳した。官房長官は私的参拝と言っていたけど、それじゃ右翼の皆さんが納得しない。やっぱり、公的資格における参拝でいいんじゃないの。

参拝後、記者に囲まれてね、こう言ったんだ。
「国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊に対し、哀悼の誠を捧げるとともに、尊崇の念を表し、御霊やすらかなれとご冥福をお祈りした」「日本は二度と戦争を起こしてはならない。私は過去への痛切な反省の上に立ってそう考えている。戦争犠牲者の方々のみ霊を前に、今後とも不戦の誓いを堅持していく決意を新たにしてきた。」とね。
これ、苦心の作なんだ。これなら右翼の期待をあんまり裏切ることなく、一般人の感情からもさしたる反発を招かないだろう。キーワードは「不戦の誓い」だ。ボクだって、けっこう考えているんだよ。

もっとも、ボクだって政治家だ。言ってることと思っていることが同じであるわけがない。IOC総会のときだってそうだ。本当は、福島第1から海に放射能がダダ漏れなのは分かっていたさ。でも、それを言っちゃおしまいだろう。「アンダーコントロール」と「完全にブロック」って言ったから、オリンピック誘致に成功したんじゃないか。このコツが大切なんだ。真実を言うことじゃない。

「中国、韓国の人々の気持ちを傷つけるつもりは全くない。…中国、韓国に対して敬意を持って友好関係を築いていきたいと願っている」とも言ったけど、本当にそんな気持をもっていたら、靖国神社に参拝などできるものか。思い切り人をぶん殴っておいて、「あなたを傷つけるつもりなど毛頭ありません。今後とも、敬意を持ってあなたとの友好関係を築いていきたいと願っています」と言っているようなものだからね。

そういえば、もう一つ苦心があった。こう言ったんだ。「また戦争で亡くなられ、靖国神社に合祀されない国内、及び諸外国の人々を慰霊する鎮霊社にも参拝した」と。鎮霊社を持ち出したのは、なかなかの工夫だ。あんまり、皆さん鎮霊社って知らないでしょう。「靖国神社の構内には、天皇への忠死者以外の人たちみんなを祀る施設があるんだ」と納得してくれそうじゃない。

鎮霊社とは、靖国神社にもともとあったもんじゃない。靖国神社のパンフレットには、「戦争や事変で亡くなられ、靖国神社に合祀されない国内、及び諸外国の人々を慰霊するために、昭和40年(1965)に建てられました。」とある。

私も、このときはじめてしげしげと鎮霊社を見て、正直のところちょっと驚いた。あんまり規模が小さいし、みすぼらしかったから。鳥居も付いてない。手入れも悪そう。本殿の立派さと比べて鎮霊社のみすぼらしさと粗末な扱われ方は極端だね。靖国における「魂の差別」「死者の差別」と言えば言えなくもない。そうとは思うけど、そうはけっして口に出したりしない。私だって政治家だもん。

本当に私が言いたかったことは、「不戦の誓い」なんかじゃない。「鎮霊社にも参拝した」は、言い訳のためのカムフラージュ。誰だって分かっていることだ。

そもそも、靖国で平和を語ることは不似合いだ。富士には月見草がよく似合う。鳩にはオリーブの葉。軍国神社靖国には軍服を着たおじさんの進軍ラッパがよく似合う。とうてい「不戦の誓い」が似合うところではない。それくらいのことは長州出身の私はよく心得ている。

ホンネはこんなところだな。
「英霊の皆様、とりわけA級戦犯として無念の死を遂げられた14柱の皆様。ようやく、臣安倍晋三が、皆様のご無念をお晴らし申し上げるときがやってこようとしています。国家が、富国強兵の目的のもと、版図を拡大するための戦争を行うのは、当然のことではありませんか。すべての独立国には戦争する権利がある。しかも、皆様がご苦労された戦争は我が国の自存・自衛のために敵国に攻め入って敵国で闘ったもの。反省すべきは、果敢に闘ったにもかかわらず戦争に敗れたこと。兵力の不足と、鍛錬の不足、そして武装のための経済力の不足でした。これからは、一意専念、アベノミクス効果で国力を増強し、武器産業を拡充し、国民には愛国心を叩き込み、軍事費拡大による軍備の増強と軍事法制の充実をはかります。幸いに、特定秘密保護法は国会を通過し、新たな大本営であるNSCもできました。集団的自衛権行使容認ももうすぐ。憲法改正だって夢ではありません。大っぴらに戦争を語ることのできない異常な時代はもうすぐ終わります。戦後のレジームを克服し、天皇をいただいた大日本帝国時代の日本を取り戻す計画が着々と進行しております。ですから英霊の皆様、とりわけA級戦犯の皆様、安らかに我が国の再びの軍国化の将来をお見守りください。」

あれから1年経った。私の靖国参拝が、中国・韓国・北朝鮮等の近隣諸国に対する挑発行為と受けとられたことは、事実だからやむを得ない。保守本流や財界からは、国益を損なう外交の拙劣とかいう批判もあるけど、たいしたことはないさ。もっとも、アメリカ政府までが、「失望した」なんて言い始めたのが想定外だったけど。

近隣諸国との緊張関係は確実に高まった。それが功を奏して7月1日に集団的自衛権行使容認の閣議決定まで漕ぎつけることができた。そして、評判の悪い第2次安倍政権だったが、なんとか乗り切ってきた。今回の総選挙も小選挙区制様々で、結果オーライだ。ボクには、持って生まれた何かがあるんだな。

今後とも、隙あらば、国民の批判がかわせるとの読みができれば、靖国参拝を重ねたい。その実績が、「靖国派」とか、「歴史修正主義派」とか言われている人々を励ますことになるからね。

そして、英霊やA級戦犯の皆様にこう誓うんだ。
「必ずや軍備を増強して日本を強い国にします。再び戦争に負けるような国にはしません。そのために、憲法を改正し憲法9条をなくして精強な国防軍をつくり、戦前の軍事大国日本を取り戻します」
この度の選挙で勝てたし、英霊との約束を果たすことができそうだ。

第1回目の「ヤスクニ記念日」バンザイだ。
(2014年12月26日)

アンハッピー・クリスマス粗閣ー「大惨事やべえ内閣」に警戒

昨日(12月24日)特別国会が招集されて、クリスマス組閣となった。第3次安倍内閣の発足は、大多数の国民にとって心躍るプレゼントではありえない。到底「メリー」とも「ハッピー」とも口にする気分ではない。

一昨日(23日)の東京新聞「本音のコラム」で鎌田慧が、「クリスマス粗閣」「第惨次内閣」と、嘆いていた。まことに「惨々たる粗末な内閣」の継続である。

続いて、本日(25日)の東京朝刊「こちら特報部」では、いくつかのネーミングが紹介されている。
「(絶対得票率)4分1内閣」「公約違反不誠実内閣」「(長く続かぬ)ショート景気内閣」「(原発)強制再起動[リセット]内閣」「失敗隠蔽内閣」「プチ整形内閣」「話を聞か内閣」そして「妖怪のしわざ内閣」などなど。総じて評判はすこぶる悪い。

評判の悪さの原因は2点に集約される。
第1点は、与党の議席は上げ底であることだ。民意の支持の実体を遙かに上回る議席数を掠めとっているのだ。小選挙区マジックによる虚構の絶対多数。それをわきまえた謙虚さを欠くことが悪評の原因。

以下のような計算をしてライバル共産党と比較してみると、小選挙区制の不公平さ加減が感覚的に理解できるのではないか。

共産党は小選挙区で全国合計704万の票を得ている。この票数で獲得議席はわずかに1。1議席あたり704万票である。沖縄1区を除いてことごとくが死票となっている。一方、自民党は2546万票で222議席。1議席あたり11万5000票である。704万票集めてわずか1議席の政党と、11万5000集めて1議席獲得の政党とがある。その不公平較差なんと61倍である。この不公平に目をつぶれるだろうか。

東京都内だけを抽出すると、この較差はさらに甚だしい。
自民党が全25選挙区に候補者を立ててはいないので比例区の得票数で比較することにしよう。得票数は自民180万、共産89万で、その比率はほぼ2対1。公平な選挙制度であれば、獲得議席数も2対1であってよい。これが現実には、22対0である。自民党は約8万2000人の得票で1議席を獲得しているのに、共産党は89万票で一議席もとれない。不公平の極みというほかはない。

第2点は、解散時から選挙期間中は、「アベノミクスを問う」「アベノミクス選挙だ」と言っておきながら、開票が済むや一転して、「信任を受けた」「憲法改正もやらねばならぬ」と言い出す、悪徳商法並みの二枚舌にある。下駄を履かせられた「虚構の3分の2」である。これで、「国民の信任を得た」などとして強権を発揮されたのではたまらない。

なお、東京新聞は前回2012年選挙後にも、同様の企画を掲載している。「ネトウヨ内閣」「国防軍オタク内閣」「極右はしゃぎすぎ内閣」「逆戻り内閣」などのネーミングが紹介された。どれもこれも、まさしくピタリだったわけだ。この度のネーミングも当たるとなれば、「大惨事やべえ内閣」と警戒しなければならない。

それにしてもである。議席を減らしたとはいえ、自民党が第一党として最大の得票を得た。比例票は、共産党票に比較して全国で2.9倍、東京で2.0倍である。これだけ多くの人が、「アベノミクス」に期待して投票したことは否定し得ない。

経済が疲弊している状況でなぜだろうか。この点について、先のコラムで鎌田慧が、大意次のように語っている。

戦後の読売新聞社争議の立役者だった鈴木東民の妻、ゲルトルートのヒトラーが政権をとる直前ベルリンでの思い出。公園のベンチに座っていた失業者が、仲間の一人にこういっていた。
『俺はヒトラーに賛成していない。けれども、もしヒトラーが政権をとるようなことがあったら、失業ってのはなくなるだろう』
彼女に会ったのは、もう30年も昔のことだ。ベンチに座った失業者の話を聞いたわけではない。それでも妙に情景が心に残っている。いま、日本は非正規労働者が約40%。安倍さんが景気を回復させる、というのに期待せざるを得ないほどに、生活が苦しい。…いくばくかの賃金が上がれば、武器輸出、原発再稼働、憲法改悪、戦争経済の一本道も気にかけないほど疲弊している。」

本日の東京新聞の一面政治欄「第3次安倍内閣発足」に、「安保加速」「経済継続」「原発維持」の語が重ねられ、「反対論の中『信任を得た』」と見出しが付けられている。その記事の最後は、次の言葉で締めくくられている。

「首相は24日夜の記者会見で『賛否は大きく分かれるが(衆院選で)引き続きこの道を進んでいけという信任を得て、有言実行、まい進していく決意だ』と安倍政治を進めると宣言した。しかし、これらの政策は個別にみると反対論の方が多いことが世論調査結果で表れている。安倍政治が全面的に支持されたわけではない。」

悪評高く、大惨事を起こしかねない、やべい内閣。年明けから国会の内外の波乱は必至である。国会の中では十分な論戦を期待したい。国会の外でも「公約違反不誠実内閣」「失敗隠蔽内閣」「話を聞か内閣」批判の声を大きくしなければと思う。
「俺は安倍には賛成していなかったんだ。けれども、あのとき生活がマシになるかと思ってアベノミクスに期待の一票を入れたんだ。それが悔やまれる」と後年臍を噛むことがないように。
(2014年12月25日)

8億円授受への批判の自由は最大限保障されねばならない ー 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第32弾

本日は、DHCスラップ訴訟の第5回(第1回は被告欠席なので、実質第4回)口頭弁論期日。多数の被告弁護団やご支援の皆様に法廷に詰めかけていただき、心強いことこのうえない。私への応援ではなく、言論の自由や民主主義へのご支援であることは重々心得つつも、まことにありがたいと思う。

次回第6回期日は、来年の2月25日(水)午前10時30分(631号法廷)と指定された。今度も、満席の傍聴をぜひともお願いしたい。僭越ながら、言論の自由や民主主義に成り代わってのお願いを申しあげる。

次回の法廷では原告が準備書面を提出する番となる。おそらくは、これで原被告双方の主張が基本的に出尽くすことになるだろう。しかも、DHC吉田が原告となっている、別件の「8億円授受事件」批判記事についての名誉毀損損害賠償請求訴訟についての第1号判決が1月15日に出ることになっている。当事者双方も裁判所も、これを参考にしながら審理を急ぐことになるだろうと思われる。

もっとも、今のところ裁判所の審理の進め方はこまかな技術面にこだわるものとなって、やむを得ないかと思いつつも、私にはやや不満の残るところ。この事件は、政治的言論の自由の問題として、そのシチュエーションの理解がもっとも大切なところではないか。私のブログのDHC・吉田への批判の記事は、「政治とカネの問題」に関する典型的な政治的言論なのだ。その政治的言論において批判の対象とした人物は、単なる「私人」ではない。まずは一企業のオーナーで大金持ちという社会的な強者である。サプリメントや化粧品という人の健康に関わる商品の製造販売に携わる事業者として社会が関心をもたざるを得ない立場にもある。さらに、公党の党首に巨額の政治資金を注ぎこむという態様で政治や行政に強く深くコミットした「公人」なのである。しかも、自らの事業が厚生行政の監督下にあることを意識して、行政規制の厳しさに不平を募らせている人物。それだけではない。手記を発表して、みんなの党・渡辺喜美への巨額の金員提供を自ら曝露した人物なのだ。その人物が、政治資金規正法に基づく届出のない巨額の金員を、人に知られることなく有力政治家に提供していたというのだ。カネを出す方も受けとる方も、政治理念は「規制緩和」「官僚勢力打倒」で一致していたという。批判を甘受せざるを得ないとするこれだけの舞台装置が整うことも珍しいのではないだろうか。

このように整えられた舞台に立って、私はDHC吉田の渡辺喜美への8億円の提供を批判したのだ。「金の力で政治を歪めるもの」「より大きく儲けるためのもの」との表現はすこぶる真っ当な批判の表現ではないか。何らの論理の飛躍もなく、経験則に違反するところもない。むしろ、民主主義社会の主権者がなすべき適切で必要な言論と言ってよい。当然のこととしてDHC吉田は、この批判を甘受しなければならない。

裁判所には大局を見ての判断を求めたい。政治にまつわるカネの動きを批判する典型的な政治的言論が問題になっていることを十分に認識のうえ、憲法21条の趣旨に立脚した審理を願いたい。

今回の法廷では被告準備書面(4)が提出され、光前弁護団長から要旨が陳述された。今回に限らず、毎回の被告準備書面がとても充実している。言論の自由の問題にしても、政治とカネの問題にしても、被告準備書面はよく書き込んでいると思う。法廷と報告集会とが、憲法理念の教室になり得ているという充実感がある。ここまでの書面提出で、私はゆったりと安心の気持になっている。私は、大船に乗った気持で、よい正月を迎えることができそうだ。
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         DHCスラップ訴訟被告準備書面(4)要約

第1 「事実の摘示」と「論評」の区別についての総論
1 政治批判に関する言論の自由の重要性
  本件に好個の参考判例として陸山会報道事件東京地裁判決を引用して論じる。
  「憲法21条1項が保障する言論、出版その他一切の表現の自由は、基本的人権のうちでも特別に重要なものであり、特に、国政に関わる国会議員の政治的姿勢、言動等に関しては、国民の自由な論評、批判が十二分に保障されなければならないことは、民主国家の基本中の基本である。不法行為としての名誉毀損は、人の社会的評価に係る問題であるが、個人の立場には様々なものがあるのであり、特に政治家、とりわけ国会議員は、単なる公人にすぎないものではない。議員は、芸能人や犯罪被疑者とは異なるのであり、その社会的評価は、自由な表現、批判の中で形成されなければならないのであって、最大限の自由な論評、批判に曝されなければならない。このことは、論評としての域を逸脱していないかどうかについての判断に際しても、特に留意すべき事柄であり、いやしくも裁判所が、限定のない広範な情報の中で形成されるべき自由な政治的意見の形成過程に介入し、損害賠償の名のもとにこれを阻害することはあってならない」
  本件ブログは、富裕者による政治家に対する多額の裏資金提供という、よりダイレクトに「政治とカネ」という民主主義制度の根幹にわたる問題に関する記事の正当性、公益性が論じられている事案である。政治家への裏資金の授受をテーマとしたブログであるから、批判の対象は、金銭の提供を受けた政治家とともに、政治家に巨額の資金を交付して国の政策を左右しようとする富裕者である。しかも、行政の規制を桎梏と表明している大企業のオーナー経営者である。
  公人たる政治家にかかわり、多額の資金を交付して国の政策を左右しようとする実業家や資本家にも、国民の自由な表現による批判が最大限保障されなければならないことは理の当然というべきである。政治家への批判の言論の自由を「民主国家の基本中の基本」として、これを手厚く保障すべきとする理由は、そのまま本件にも当てはまる。
2 ブログ全体の記載をふまえて違法性が判断されるべきこと
  また、同東京地裁判決は、違法性の判断方法について次のとおり述べている。
 「雑誌記事が名誉毀損の不法行為を構成するかどうか、それが違法であるかどうかを検討するに際しては、当該記事全体を読んだことを前提として、一般の正常な読者の普通の注意と読み方とを基準に判断すべきものであり、これを読まないまま、断片的な文言を偶々目にした者による迂闊な印象いかんを想像して、このような感じ方をする者がいるかもしれないというだけで名誉毀損の成否を判断することは許されないというべきである。」
3 名誉毀損における事実の摘示と論評の区別について
 「摘示された事実による名誉毀損と一定の事実に基づく意見、論評による名誉毀損とは、社会的評価を低下させると認められる表現が摘示された事実自体によるものであるか、それとも意見、論評部分によるものであるかによって区別されるべきであり、上記区別は、一般の読者の普通の注意と読み方によって当該記事を解釈することにより行うべきものであると解するのが相当である。」
  主張対照表の記載に明示したとおり、原告らが「原告らの社会的評価を低下させる」と主張する被告ブログの表現のすべては、「一般の読者の普通の注意と読み方によって当該記事を解釈」する限り、「摘示された事実自体」ではなく、真実もしくは真実相当性を具備した事実に基づく、きわめて常識的で合理的な「意見、論評」であることは明らかというべきである。
  以上を前提として、当該各意見論評の前提となる事実及びその証拠方法について以下のとおり特定する。(以下略)
(2014年12月24日)

朝日バッシングを「第二の白虹事件」としてはならない

何年前のことだったろうか。何をきっかけにしての話題だったかも忘れたが、新聞記者だった弟から、「兄さん、白虹事件というのを知っているだろう」と話しかけられたことがある。憲法を学び、表現の自由に関心をもち続けてきた私だが、恥ずかしながら「白虹」も、「朝日・白虹事件」も知らなかった。

そのときの弟の説明で、「白虹日を貫く」という言葉が皇帝の凶事を表す天象として史記の中にあること、戦前の大阪朝日新聞が紙面にこの言葉を載せて弾圧を受けたことを知った。不敬を理由とした国家の言論弾圧事件であっただけでなく、右翼の跳梁がすさまじく、朝日の社長が襲われたり、不買運動が展開されたりして、日本の新聞界全体が萎縮したことも知った。国家と右翼勢力が意を通じて言論を弾圧し攻撃する、国民がこれに抵抗するでなく傍観する構図。なんと、今とよく似ているではないか。

昨日(12月22日)毎日夕刊に「牧太郎の大きな声では言えないが…:『第二の白虹事件』の年」というコラムが印象に残る。学生時代に、この事件を「新聞の国家権力への屈服」と教えられたとして、以下のように解説している。

「1918(大正7)年8月26日の大阪朝日新聞夕刊は、「米騒動」に関する寺内正毅内閣の失政を糾弾する新聞人の集会をリポート。その記事に、こんなくだりがあった。
『食卓に就いた来会者の人々は肉の味酒の香に落ち着くことができなかった。「白虹日を貫けり」と昔の人が呟いた不吉な兆が黙々として肉叉(フォーク)を動かしている人々の頭に電のように閃く』
この中の「白虹日を貫けり」という表現が問題になった。
司馬遷の「史記」にある言葉。燕の太子丹の刺客となった荊軻が始皇帝の暗殺を謀る。白い虹(干戈)が日輪(天子)を貫く自然現象が起きて暗殺が成功する!との意味らしい。
大阪府警察部新聞検閲係は、新聞紙法41条の「安寧秩序ヲ紊シ又ハ風俗ヲ害スル事項ヲ新聞紙ニ掲載シタルトキ」に当たるとして、筆者と編集人兼発行人の2人を裁判所に告発した。不買運動も起こった。右翼団体が大阪朝日新聞社の社長を襲撃し、「国賊!」と面罵した。

2014年、朝日新聞は「慰安婦報道」「吉田調書」の誤りで、いまだに一部から「国賊」扱いされている。「白虹事件」の後、新聞は戦争に加担するメディアになった。そんなことがないように!と願うばかりだが…」

ネットを検索したら、「電網木村書店 Web無料公開」というサイトを見つけた。問題の記事を書いた記者の一人で、禁錮2月の実刑になった大西利夫記者が、後に『別冊新聞研究』(5号)の「聴きとり」に答えてこう言っているそうだ。

「白虹事件というのは、日本の言論史の上でかなり大きな意味をもっておりまして、『朝日』もこれから変わりますし、他の新聞も、うっかりしたことは書けん、というように…。」
「その時の『朝日』のあわて方もひどかったんです。天下の操觚(そうこ)者[言論機関]を以って任じ一世を指導するかのように見えた大朝日も権力にうちひしがれて、見るも無残な状態になる有様を私、見たような気がして、余計ニヒリスティックになるんです。」

本日の朝刊で、朝日が「白虹事件」の二の舞を演じているのではないかと、危惧せざるを得ない。第三者委員会の人選はどうしてこのようなものになったのだろう。もっと適切で妥当な人選は可能だったはずではないか。

本日の朝日に掲載された「第三者委員会報告書(要約版)・個人意見」欄の、岡本行夫・北岡伸一両委員の言いたい放題に腹が立ってならない。こんな駄言に紙面を提供して、「天下の操觚者を以って任じ一世を指導するかのように見えた大朝日」なのか。

牧太郎は、「『白虹事件』の後、新聞は戦争に加担するメディアになった。」と言い、大西利夫も、「『朝日』もこれから変わりますし、他の新聞も、うっかりしたことは書けん、というように…」と言っている。白虹事件のあと、朝日だけでなく、言論界全体が変わったのだ。「変わった」とは権力批判、政権批判の牙を抜かれたということだ。さらには、迎合する姿勢にさえ転じたということ。

岡本行夫も北岡伸一も、明らかに「朝日よ変われ」「現体制受容に舵を切れ」とトーンを上げている。北岡に至っては、「過剰な正義の追求は、ときに危険である」「バランスのとれたアプローチが必要」と、朝日の姿勢にお説教を垂れている。さらには、憲法9条についての論調の攻撃までし、安倍内閣の安全保障政策に対する朝日の批判を「レッテルを張って」「歪曲する」ものと決めつけてもいる。これは、朝日バッシングを「第二の白虹事件」とし、朝日とメデイァ全体の在野性、権力批判の姿勢を骨抜きにしようとするものにほかならない。

朝日バッシングを「第二の白虹事件」にしてはならない。朝日は萎縮から抜け出て踏みとどまらねばならない。他の新聞もメディアもだ。牧太郎は、コラムを「読者の皆さん、民主主義が守られる『良いお年』を!」と結んでいる。しかし、安閑としていては到底よいお年などあり得ない。民主主義を守るためには声を上げることが必要ではないか。
(2014年12月23日)

次回口頭弁論は12月24日11時 ー 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第31弾

私自身が被告となっている「DHCスラップ訴訟」の次回口頭弁論期日の日程が間近になってまいりました。法廷傍聴と法廷後の報告集会について再度のご案内を申し上げます。
   12月24日(水)午前11時~   口頭弁論
     東京地裁631号法廷(霞ヶ関の裁判所庁舎6階南側)
   同日11時30分~ 報告集会
     弁護士会館5階・東京弁護士会508号室
前回期日での裁判長からの指示に基づいて、被告が準備書面を陳述することになります。その内容については、12月12日「憲法日記」(第30弾)をご覧ください。

  http://article9.jp/wordpress/?p=4008
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再三言ってきたことだが、私には水に落ちた犬を打つ趣味はない。多分人間が甘いのだ。石原慎太郎も猪瀬直樹も徳田虎雄も既に水に落ちている。今さら、打つ気にはなれない。

渡辺喜美も水に落ちた。今や散々の体たらくである。みんなの党は分裂し、彼は代表を降りざるを得なくなった。その後党執行部と対立し、身動きできなくなったみんなの党は解散、そしてこの度の無所属立候補での落選。小選挙区で落ちれば、比例復活の目はない無所属出馬の無念を体現した。

渡辺は、既にバッジを外したタダの人である。その失意の身に、追い打ちをかけるがごとき東京地検特捜の事情聴取。人生ままならないと悲哀をかこつ身となっている。だが、渡辺に限っては同情しない。特捜よ、手をゆるめずにもっと打つべしと、声を掛けたい心境。捜査が、まだ水に落ちぬ者への身辺にまで及ぶことに期待してのことである。

ようやくにして8億円授受事件の経過が捜査機関の手によって解明されようとしている。この捜査を中途半端なものに終わられてはならない。8億円という巨額の政治資金が、たまたま週刊新潮の吉田手記があったから明るみに出た。あの手記がなければ、「裏金」は裏のままでひっそりとその存在が世に知られることはなく、そのカネでみんなの党は政治活動をおこなったのだ。この「裏金」が政治資金である以上は、その授受と非公開が政治資金規正法の理念に反していることに疑いはない。

政治資金の動きには透明性が求められる。透明性が確保されてはじめて、「政治がカネで歪められていないか」について国民の監視と批判が可能となる。透明性を確保して、政治とカネとの関係を国民の不断の監視と批判に曝すべきことこそが、政治資金規正法の基本理念である。

現実に著しく透明性を欠く巨額の政治資金の授受があった。この事実が「裏金」として伏せられていたことについては、政治資金として金銭を受領した政治家だけでなく、政治資金を提供したスポンサーの側にも批判がおよぶべきは理の当然ではないか。心ある国民が、一党の党首である渡辺に巨額の金を提供して政治を動かそうとした、DHC・吉田の思惑に多大の関心をもっている。その関心に応え、資金提供者の思惑の如何を検証すべきは捜査機関の任務というべきである。

渡辺に対する捜査の進展が吉田の思惑をも解明して、「政治資金の提供として政治献金であれば違法なところ、貸金だから違法性を欠く」という渡辺・吉田共通の弁明に切り込んでもらいたい。そこまで踏み込まずして、検察に対する国民の信頼は成り立ち得ない。

今、DHCスラップ訴訟は、新たな状況において、新たな意味合いを帯びるに至っている。

ぜひ、法廷を傍聴のうえ、報告集会の意見交換にもご参加いただきたい。政治的言論の自由を確保するためにも、政治がカネで歪められることを繰り返させないためにも。
(2014年12月22日)

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