2013年4月1日から毎日連続更新を続けてきた当ブログは、本日で丸3年となった。この間、36か月。1096日(365日+365日+366日)である。1日1記事を書き続けて、本日が連続1096回目、明日のブログから4年目にはいる。
「三日坊主」という揶揄の言葉はあるが、「三年坊主」とは言わない。むしろ、「石の上にも三年」というではないか。その三年間の途切れない継続にいささかの達成感がある。とはいうものの、このブログを書き始めた動機からは甚だ不満足な現下の政治状況と言わざるを得ない。
今次のブログ連載は2013年1月1日から書き始めた。正確には、日民協ホームページの一隅を借りて以前にも連載していた「憲法日記」の再開であった。第2次安倍政権の発足に危機感を持ったことがきっかけ。安倍流の改憲策動に抵抗する一石を投じたいとのことが動機である。案の定、この政権は「壊憲」に余念なく、危険きわまりない。しかも、日本全体の右傾化によって発足したこの政権は、この3年余で、保守陣営全体を極右化しつつある。
当ブログ再開当時「当たり障りのあることを書く」と宣言しての気負いから、直ぐさま間借り生活の窮屈を感じることとなった。そのため、自前のブログを開設して引っ越し、連続記録のカウントを始めたのがその年の4月1日。以来、あちこちに問題を起こしつつの「憲法日記」の連続更新である。
安倍内閣がまだ続いていることに焦慮の思いは強いが、他方この間のブログの威力とさらなる可能性を実感してもいる。「保育園落ちた。日本死ね」の1本のブログが、政治を動かしている現実を目の当たりにしたばかりでもある。以前、当ブログでは「ブロガー団結宣言」を掲載したが、あらためて、その修正版として「リベラル・ブロガー団結宣言」を再掲載したい。
「すべてのリベラル・ブロガーは、事実に関する情報の発信ならびに各自の思想・信条・意見・論評・パロディの表明に関して、権力や社会的圧力によって制約されることのない、憲法に由来する表現の自由を有する。
リベラル・ブロガーは、市井の個人の名誉やプラバシーには最善の配慮を惜しまない。しかし、権力や経済的強者あるいは社会的権威に対する批判においていささかも躊躇することはない。政治的・経済的な強者、社会的な地位を有する者、文化的に権威あるとされている者は、リベラル・ブロガーからの批判を甘受しなければならない。
無数のリベラル・ブロガーの表現の自由が完全に実現するそのときにこそ、民主主義革命は成就する。万国のリベラル・ブロガー万歳。万国のリベラル・ブロガー団結せよ。」
現代的な言論の自由を語るとき、ブロガーの表現の自由を避けては通れない。憲法21条は、「言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定める。日本国憲法に限らず、いかなる近代憲法も、その人権カタログの中心に「表現の自由」が位置を占めている。「表現の自由」の如何が、その社会の人権と民主主義の到達度を示している。文明度のバロメータと言っても過言でない。
しかし、人がその思想を表明するための表現手段は、けっして万人のものではない。この表現手段所有の偏在が、個人の表現の自由を空論としている現実がある。「言論、出版その他一切の表現の自由」における、新聞や出版あるいは放送を典型とする言論の自由の具体的な担い手はマスメディアである。企業であり法人なのだ。基本的人権の主体は本来個人であるはずだが、こと表現の自由に限っては、事実上国民は表現の受け手としての地位にとどめられている。メディアの自由の反射的利益というべき「知る権利」を持つとされるにすぎない。
そもそも、本来の表現の自由は個人のものであったはず。その個人には、せいぜいがメディアを選択する自由の保障がある程度。いや、NHKの受信にいたっては、受信料支払いを強制されてなお、政権御用のアベチャンネルを押しつけられるありさまではないか。
その事情を大きく変革する可能性がネットの世界に開けている。IT技術の革新により、ブログやSNSというツールの入手が万人に可能となって、ようやく主権者一人ひとりが、個人として実質的に表現の自由の主体となろうとしている。憲法21条を真に個人の人権と構想することが可能となってきた。まことにブログこそは貧者の武器というにふさわしい。個人の手で毎日数千通のビラを作ることは困難だ。これを発送すること、街頭でビラ撒きすることなどは不可能というべきだろう。ブログだから意見を言える。多数の人に情報を伝えることが可能となる。ブログこそは、経済力のない国民に表現の自由の主体性を獲得せしめる貴重なツールである。ブログあればこそ、個人が大組織と対等の言論戦が可能となる。弱者の泣き寝入りを防止し、事実と倫理と論理における正当性に、適切な社会的評価を獲得せしめる。ブログ万歳である。
この「個人が権利主体となった表現の自由」を、今はまだまだ小さな存在ではあるが大きな可能性を秘めたものとして大切にしたい。反憲法的ネトウヨ言論の氾濫や、匿名に隠れたヘイトスピーチの跋扈の舞台とせず、豊穣なリベラル言論の交換の場としたい。この新しいツールに支えられた表現の自由を手放してはならない。
ところが、この貴重な表現手段を不愉快として、芽のうちに摘もうという動きがある。その典型例がDHCスラップ訴訟である。経済的な強者が、自己への批判のブログに目を光らせて、批判のリベラル・ブロガーを狙って、高額損害賠償請求の濫訴を提起している現実がある。もちろん、被告として標的にされた者以外に対しても萎縮効果が計算されている。
だから、全国のリベラル・ブロガーに呼び掛けたい。他人事と見過ごさないで、リベラル・ブロガーの表現の自由を確立するために、あなたのブログでも、呼応して声を上げていただきたい。さらに、全ての表現者に訴えたい。表現の自由の敵対者であるDHCと吉田嘉明に手痛い反撃が必要であることを。スラップ訴訟は、明日には、あなたの身にも起こりうるのだから。
(2016年3月31日・「憲法日記」連続3年更新の日に)
「季刊フラタニティ(友愛)」(発行ロゴス)の宣伝チラシの惹句を起案した。6人が分担して、私の字数は170字。最終的には、下記のものとなった。
経済活動の「自由」が資本主義の本質的要請。しかし、自由な競争は必然的に不平等を生み出す。「平等」は、格差や貧困を修正して資本主義的自由の補完物として作用する。「フラタニティ」は違う。資本主義的な競争原理そのものに対抗する理念ととらえるべきではないか。搾取や収奪を規制する原理ともなり得る。いま、そのような旗が必要なのだと思う。
いかにも舌足らずの170字。もう少し、敷衍しておきたい。
典型的な市民革命を経たフランス社会の理念が、『リベルテ、エガリテ、フラテルニテ』であり、これを三色旗の各色がシンボライズしていると教えられた。日本語訳としては、「自由・平等・博愛」と馴染んできたが、今「フラテルニテ」は、博愛より友愛と訳すのが正確と言われているようだ。この雑誌の題名「フラタニティ」は、その英語である。
「自由・平等」ではなく、「友愛」をもって誌名とした理由については、各自それぞれの思いがある。市民革命後の理念とすれば、「民主」も「平和」も「福祉」も、「共和」も「共産」も「協働」もあるだろう。「共生」や「立憲主義」や「ユマニテ」だってあるだろう。が、敢えて「フラタニティ(友愛)」なのである。
自由と平等との関係をどう考えるべきか、実はなかなかに難しい。「フラタニティ」の内実と、自由・平等との関係となればさらに難解。されど、「フラタニティ」が漠然たるものにせよ共通の理解があって、魅力ある言葉になっていることは間違いのないところ。
「フラタニティ」は、この社会の根底にある人と人との矛盾や背離の関係の対語としてある。競争ではなく協同を、排斥ではなく共生の関係を願う人間性の基底にあるものではないか。多くの人が忘れ去り、今や追憶と憧憬のかなたに押しやられたもの。
市民革命とは、ブルジョワの革命として、所有権の絶対と経済活動の自由を最も神聖な理念とした。市民革命をなし遂げた社会の「自由」とは、何よりも経済活動の「自由」である。その後一貫して、経済活動の「自由」は資本主義社会の本質的要請となった。経済活動の自由とは、競争の自由にほかならず、競争は勝者と敗者を分け、必然的に不平等を生み出した。そもそも持てる者と持たざる者の不平等なくして資本主義は成立し得ない。
したがって、資本主義社会とは、不平等を必然化する社会である。本来的に自由を重んじて、不平等を容認する社会と言ってもよい。スローガンとしての「平等」は、機会の平等に過ぎず、結果としての平等を意味しない。しかし、自由競争の結果がもたらす格差や貧困を修正して、社会の矛盾が暴発に至らないように宥和する資本主義の補完物として作用する。一方、「フラタニティ」は、資本主義的自由がもたらした結果としての矛盾に対応するものではなく、資本主義的な競争原理そのものに対抗する理念ととらえるべきではないだろうか。
人が人を搾取する関係、人が人と競争して優勝劣敗が生じる関係、そのような矛盾に対するアンチテーゼとしての、人間関係の基本原理と考えるべきではないだろうか。いま、貧困や格差が拡がる時代に、貧困・格差を生み出す「自由」に対抗する理念となる「旗」が必要なのだと思う。
なお、「博愛」か「友愛」か。
「愛」は、グループの内と外とを分けて成立する。外との対抗関係が強ければ強いほど、内なる「愛」もボルテージの高いものとなる。社会的には許されぬふたりの仲ほどに強い愛はない。家族愛も、郷土愛も、民族愛も、愛国心も、排外主義と裏腹である。外に向けた敵愾心の強さと内向きの愛とは、常に釣り合っている。
「友愛」は、「仲間と認めた者の間の愛情」というニュアンスが感じられる。最も広範な対象に対する人類愛は「博愛」というに相応しい。もっとも、「博愛」には慈善的な施しのイメージがつきまとう一面がある。ならば「友愛」でもよいか。訳語に面倒がつきまとうから、「フラタニティ」でよいだろう。
(2016年3月30日)
本日、天気晴朗なれども、空気が重い。
2016年3月29日零時。戦争法が施行となった。その第一日目の今日、昨日とは違う日本である。これまでは、「専守防衛の立場からの個別的自衛権発動は例外としても」、戦争を政策の選択肢に入れてはならないとする日本であった。今日からは、政権による「存立危機事態」の判断さえあれば、世界中のどこででも戦争を行うことができることになったのだ。駆けつけ警護も、他国軍への武器運搬等の支援もできることになった。日本に敵対をしていない第三国への開戦は、当然のことながら、当該国からの反撃を覚悟の上でのことになる。その場合、日本国内のどこもが標的目標となる。
この戦争法は明らかに平和憲法に違反している。しかし、最高裁がこれを違憲と判断しうるだろうか。心もとないといわざるを得ない。よもや合憲と宣言することはありえないが、敢えて判断を避けることになる公算が高い。もっともらしい理由を付けながらも責任を放棄して判断を回避する、結局は逃げるのだ。
できることなら、違憲の法律を国民の意思の表明として廃止したい。国会は唯一の立法機関だが、「立法」とは、法律の制定だけでなく、改正も廃止も含むことになる。国民世論が選挙結果に結実して、「戦争法違憲派」が国会の過半数を制すれば、戦争法の廃止が可能となる。来たるべき参院選をそのような選挙にしなければならないと思う。
その戦争法施行第一日目に、文京区革新懇が中心となって企画した浜矩子講演会があった。演題が、「グローバル時代の救世主、それが日本国憲法」というもの。
冒頭に、日本国憲法前文の「諸国民との協和による成果を確保し」というフレーズを引用して、「これこそ、21世紀のグローバル時代を見通した」名言であって、今や「誰もが世界とつながり、だれもがひとりでは生きてゆけない時代となっている」ことが強調された。
安倍首相が唱える「戦後レジームからの脱却」「日本を取り戻す」のスローガンは、「大日本帝国」時代への復古にほかならない。当時の経済政策は強兵のための富国であり、植民地侵略の経済戦略としての大東亜共栄圏構想であって、グローバル時代のものではあり得ない。
昨年4月、安倍首相は笹川平和財団アメリカ支部での講演で「アベノミクスと私の外交政策は表裏一体」と語っている。経済政策の目的を外交安全保障と一体と位置づけることの危険は国際的に確認されていること。本来の経済政策の目的とは、経済の均衡が破綻したときの回復と、経済的弱者救済の二つに限定されなければならない。経済の均衡破綻とは、極端なデフレとハイパーインフレを典型とし、これによって傷つくのはまさしく弱者だ。アベノミクスは、弱者の救済ではなく、「富国強兵」を目的とするものなのだ。
今回、新3本の矢で、GDP2割増の600兆円にするというのも、国防費を増やすことが目的。TPPも防衛戦略が目的とされている。アメリカ議会での安倍演説では「その経済効果には、戦略的価値がある」と言っている。これは、TPPではなく、TYP(とっても、やばいパートナーシップ)と呼ぶべきだろう。
強調されたことは、「アベノミクスを政権維持のための民心収攬手段」と考えるのは大きな間違いで、「危険な富国強兵策そのもの」ととらえなければならない、ということ。
経済の講演を期待したものの、むしろ憲法の話しとなった。印象的だったのは、やや年齢層の高い聴衆の真剣さである。戦争法施行第一日目にふさわしい講演会となった。
(2016年3月29日)
私も、依頼あれば学習会の講師を務める。テーマは、スラップ・「日の丸君が代」・政教分離・消費者・医療・教育、そして改憲問題。最近改憲問題は、ほとんどが緊急事態条項についてのもの。今年になってから緊急事態条項をテーマの講師活動は6回となった。そのレジメを掲載しておきたい。参考になるところもあろうかと思う。
訴えの骨格は、次の諸点。
☆今、安倍政権は、解釈改憲を不満足として明文改憲をたくらんでいる。
☆その突破口が「緊急事態条項」とされている。
☆しかし、緊急事態条項は必要ない。
☆いや、緊急事態条項(=国家緊急権条項)はきわめて危険だ。
☆現行憲法に緊急事態条項がないのは欠陥ではない。
憲法制定者は緊急事態条項を危険なものとして意識的に取り除いたのだ。
☆意識的に取り除いたのは、戦前の旧憲法下の教訓から。
☆それだけでなく、ナチスがワイマール憲法を崩壊させた歴史の教訓からだ。
☆緊急事態条項(=国家緊急権条項)は、
整然たる憲法秩序をたった一枚でぶちこわすジョーカーなのだ。
レジメ《緊急事態条項は、かくも危険だ》
本報告(レジメ)の構成 同じことを3回繰り返す。骨格→肉付→化粧
第1章 骨格編 ビラの見出しに、マイクでの呼びかけに。
第2章 肉付編 確信をもって改憲派と切り結ぶために。
第3章 資料編 資料を使いこなして説得力を
第1章 スローガン編
いま、緊急事態条項が明文改憲の突破口にされようとしている。
しかし、緊急事態条項は不要だ。「緊急事態条項が必要」はデマだ。
緊急事態条項は不要と言うだけではない。危険この上ない。
緊急事態条項の導入を「お試し改憲」などと軽視してはならない。
自民党改憲草案9章(98条・99条)が安倍改憲の緊急事態条項。
98条が緊急事態宣告の要件。99条が緊急事態宣告の効果。
緊急事態条項は、立憲主義を突き崩す。人権・民主々義・平和を壊す。
緊急事態とは、何よりも「戦時」のことである。⇒戦時の法制を想定している。
「内乱等社会秩序の維持」の治安対策である。⇒大衆運動弾圧を想定している。
緊急事態においては、内閣が国会を乗っ取る。政令が法律の役割を果たす。
⇒議会制民主主義が失われる。独裁への道を開く。
緊急事態条項は、国家緊急権を明文化したもの。
国家緊急権は、それ一枚で整然たる憲法秩序を切り崩すジョーカーだ。
国家緊急権は、天皇主権の明治憲法には充実していた。
その典型が天皇の戒厳大権であり、緊急勅令(⇒行政戒厳)であった。
ナチスも、国家緊急権を最大限に活用した。
ヒトラー内閣はワイマール憲法48条で共産党を弾圧して議会を制圧し、
制圧した議会で、悪名高い授権法(全権委任法)を成立させた。
授権法は、国会から立法権を剥奪し、独裁を完成させた。
最も恐るべきは、緊急事態条項が憲法を停止し、
緊急時の一時的「例外」状況が後戻りできなくなることだ。
第2章 肉付編
1 憲法状況・政権が目指すもの
☆解釈改憲(閣議決定による集団的自衛権行使容認から戦争法成立へ)だけでは、
政権は満足し得ない。
彼らにとって、戦争法は必ずしも軍事大国化に十分な立法ではない。
⇒現行憲法の制約が桎梏となっている。⇒明文改憲が必要だ。
☆第二次アベ政権の明文改憲路線は、概ね以下のとおり。
96条改憲論⇒立ち消え(解釈改憲に専念)⇒復活・緊急事態条項から
改憲手続(国民投票)法の整備⇒完了 各院に憲法審議会
そして最近は9条2項にも言及するようになってきている。
2 なぜ、緊急事態条項が明文改憲の突破口とされているのか。
☆東日本大震災のインパクトを利用
「憲法に緊急事態条項がないから適切な対応が出来なかった」
☆「緊急事態への定めないのは現行憲法の欠陥だ」
仮に、衆院が構成がないときに「緊急事態」が生じたら、
☆政権側の緊急事態必要の宣伝は、「衆院解散時に緊急事態発生した場合の不備」 に尽きる。「解散権の制限」や「任期の延長」規程がないのは欠陥という論法。
しかし、現行憲法54条2項但し書き(参議院の緊急集会)の手当で十分。
☆それでも「お試し改憲」(自・公・民・大維の賛意が期待できる)としての意味。
☆あわよくば、人権制約制限条項を入れたい。
3 政権のホンネ
☆国家緊急権(規程)は、支配層にとって喉から手の出るほど欲しいもの
大江志乃夫著「戒厳令」(岩波新書)の前書に次の趣旨が。
「緊急事態法制は1枚のジョーカーに似ている。他の52枚のカードが形づく る整然たる秩序をこの一枚がぶちこわす」
☆自由とは権力からの自由と言うこと。人権尊重理念の敵が、強い権力である。
人権を擁護するために、権力を規制してその強大化を抑制するのが立憲主義。
立憲主義を崩壊せしめて強大な権力を作るための恰好の武器が国家緊急権。
☆戦時・自然災害・その他の際に、憲法の例外体系を形づくって
立憲主義を崩壊させようというもの。
4 天皇制日本とナチスドイツの国家緊急権
☆明治憲法には、戒厳大権・非常大権・緊急勅令・緊急財政処分権限などの
国家緊急権制度が手厚く明文化されていた。
☆最も民主的で進歩的なワイマール憲法に、大統領の緊急権限条項があった。
ナチス政権以前に、この条項は250回も濫発されていた。
☆ナチス政権は、この緊急事態法を活用して共産党の81議席を奪い、
授権法(全権委任法)を制定して国会を死滅させた。
☆その反省から、日本国憲法は、国家緊急権(条項)の一切を排除した。
戦争放棄⇒戦時の憲法体系を想定する必要がない。
徹底した人権保障システム⇒例外をおくことで壊さない
5 自民党改憲草案「第9章 緊急事態」の危険性
☆旧天皇制政府の戒厳・非常大権規程が欲しい⇔「戦後レジームからの脱却」
ナチスの授権法があったらいいな⇔「ナチスの経験に学びたい」
しかも、緊急事態に出動して治安の維持にあたるのは「国防軍」である。
☆自民党改憲草案による「緊急事態」条項は
濫用なくても、「戦争する国家」「強力な権力」「治安維持法体制」をもたらす。
しかも、濫用の歯止めなく、その危険は立憲主義崩壊につながる。
☆草案では、内閣が国会を乗っ取り、政令が法律の代わりを務める。
内閣が、人身の自由、表現の自由を制約する政令を発することができる。
予算措置もできることになる。
6 まずは、徹底した「緊急事態条項必要ない」の訴えと
次いで、「旧憲法時代やナチスドイツの経験から、きわめて危険」の主張を
第3章 資料編
☆日本国憲法54条2項
「衆議院が解散されたときは、参議院は、同時に閉会となる。但し、内閣は、国に緊急の必要があるときは、参議院の緊急集会を求めることができる。」
☆自民党改憲草案(2012年4月27日)「第9章 緊急事態」
98条 緊急事態の宣言
1項 内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる
99条 緊急事態宣言の効果
1項 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。
3項 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。
☆自民党「Q&A」(99条3項関連)
現行の国民保護法において、こうした憲法上の根拠がないために、国民への要請は全て協力を求めるという形でしか規定できなかったことを踏まえ、法律の定める場合には、国民に対して指示できることとするとともに、それに対する国民の遵守義務を定めたものです。
☆民主党「憲法提言」(民主党憲法調査会 2005 年10 月31 日)
違憲審査機能の強化及び憲法秩序維持機能の拡充
国家非常事態における首相(内閣総理大臣)の解散権の制限など、憲法秩序の下で政府の行動が制約されるよう、国家緊急権を憲法上明示しておくことも、重ねて議論を要する。
国家緊急権を憲法上に明示し、非常事態においても、国民主権や基本的人権の尊重などが侵されることなく、その憲法秩序が確保されるよう、その仕組みを明確にしておく。
☆公明党憲法調査会による論点整理(公明党憲法調査会、2004 年6 月16 日)
「ミサイル防衛、国際テロなどの緊急事態についての対処規定がないことから、あらたに盛り込むべしとの指摘がある。ただ、あえて必要はないとの意見もある。」
☆大日本帝国憲法の国家緊急権規程
第14条(戒厳大権)
1項 天皇ハ戒厳ヲ宣告ス
2項 戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム
第8条(緊急勅令)
1項 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス
第31条(非常大権)
本章(第2章 臣民権利義務)ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ
第70条(緊急財政処分)
1項 公共ノ安全ヲ保持スル為緊急ノ需用アル場合ニ於テ内外ノ情形ニ因リ政府ハ帝国議会ヲ召集スルコト能ハサルトキハ勅令ニ依リ財政上必要ノ処分ヲ為スコトヲ得
☆戒厳令(明治15年太政官布告第36号)
第一条 戒厳令ハ戦時若クハ事変ニ際シ兵備ヲ以テ全国若クハ一地方ヲ警戒スルノ法トス
第二条 戒厳ハ臨戦地境ト合囲地境トノ二種ニ分ツ
第三条 戒厳ハ時機ニ応シ其要ス可キ地境ヲ区画シテ之ヲ布告ス
第十四条 戒厳地境内於テハ司令官左ニ記列ノ諸件ヲ執行スルノ権ヲ有ス
但其執行ヨリ生スル損害ハ要償スルコトヲ得ス
第一 集会若クハ新聞雑誌広告等ノ時勢ニ妨害アリト認ムル者ヲ停止スルコト
第二 軍需ニ供ス可キ民有ノ諸物品ヲ調査シ又ハ時機ニ依リ其輸出ヲ禁止スルコト
第三 銃砲弾薬兵器火具其他危険ニ渉ル諸物品ヲ所有スル者アル時ハ
之ヲ検査シ時機ニ依リ押収スルコト
第四 郵便電報ヲ開緘シ出入ノ船舶及ヒ諸物品ヲ検査シ並ニ陸海通路ヲ停止スルコト
第五 戦状ニ依リ止ムヲ得サル場合ニ於テハ人民ノ動産不動産ヲ破壊燬焼スルコト
第六 合囲地境内ニ於テハ昼夜ノ別ナク
人民ノ家屋建造物船舶中ニ立入リ検察スルコト
第七 合囲地境内ニ寄宿スル者アル時ハ時機ニ依リ其地ヲ退去セシムルコト
☆1923年9月3日 関東戒厳令司令官通知
(同司令部は、9月2日緊急勅令による「行政戒厳」によって設置されたもの)
一 警視総監及関係地方長官並ニ警察官ノ施行スベキ諸勤務。
1 時勢ニ妨害アリト認ムル集会若ハ新聞紙雑誌広告ノ停止。
2 兵器弾薬等其ノ他危険ニ亙ル諸物晶ノ検査押収。
3 出入ノ船舶及諸物晶ノ検査押収。
4 各要所ニ検問所ヲ設ケ
通行人ノ時勢ニ妨害アリト認ムルモノノ出入禁止又ハ時機ニ依り水陸ノ通路停止。
5 昼夜ノ別ナク人民ノ家屋建造物、船舶中ニ立入検察。
6 本命施行地域内ニ寄宿スル者ニ対シ時機ニ依リ地境外退去。
二 関係郵便局長及電信局長ハ時勢二妨害アリト認ムル郵便電信ヲ開緘ス。
☆ワイマール憲法 第48条2項
ドイツ国内において、公共の安全および秩序に著しい障害が生じ、またはそのおそれがあるときは、大統領は、公共の安全および秩序を回復させるために必要な措置をとることができ、必要な場合には、武装兵力を用いて介入することができる。
この目的のために、大統領は一時的に第114条(人身の自由)、第115条(住居の不可侵)、第117条(信書・郵便・電信電話の秘密)、第118条(意見表明の自由)、第123条(集会の権利)、第124条(結社の権利)、および第153条(所有権の保障)に定められている基本権の全部または一部を停止することができる。
☆ナチスドイツの授権法(全権委任法)全5条
正式名称 「民族および国家の危難を除去するための法律」1933年3月23日成立
1.ドイツ国の法律は、ドイツ政府によっても制定されうる。
2.ドイツ政府によって制定された法律は、憲法に違反することができる。
3.ドイツ政府によって定められた法律は、首相によって作成され、官報を通じて公布される。特殊な規定がない限り、公布の翌日からその効力を有する。
4.ドイツ国と外国との条約も、本法の有効期間においては、立法に関わる諸機関の合意を必要としない。政府はこうした条約の履行に必要な法律を発布する。
5.本法は公布の日を以て発効する。本法は1937年4月1日までの時限立法である。
☆日本国憲法制定時の、対GHQ「3月2日」案
明治憲法下の緊急命令及び緊急財政措置に代わるものとして、76 条において、「衆議院ノ解散其ノ他ノ事由ニ因リ国会ヲ召集スルコト能ハザル場合ニ於テ公共ノ安全ヲ保持スル為緊急ノ必要アルトキハ、内閣ハ事後ニ於テ国会ノ協賛ヲ得ルコトヲ条件トシ法律又ハ予算ニ代ルベキ閣令ヲ制定スルコトヲ得」と規定されていた。GHQ側は、国家緊急権に関する英米法的な理解を根拠に、「非常時の際には、内閣のエマージェンシー・パワー(emergency power)によって処理すべき」としてこれを否定したが、その後の協議の結果、日本側の提案に基づき、参議院の緊急集会の制度が採り入れられることになった。(衆議院憲法審査会「緊急事態」に関する資料)
☆制憲国会(第90帝国議会)における政府(担当大臣金森徳次郎)答弁
「緊急勅令及ビ財政上ノ緊急処分ハ、行政当局者ニ取リマシテハ実ニ調法ナモノデアリマス、併シナガラ調法ト云フ裏面ニ於キマシテハ、国民ノ意思ヲ或ル期間有力ニ無視シ得ル制度デアルト云フコトガ言ヘルノデアリマス、ダカラ便利ヲ尊ブカ或ハ民主政治ノ根本ノ原則ヲ尊重スルカ、斯ウ云フ分レ目ニナルノデアリマス、ソコデ若シ国家ノ仲展ノ上ニ実際上差支ヘガナイト云フ見極メガ付クナラバ、斯クノ如キ財政上ノ緊急措置或ハ緊急勅令トカ云フモノハ、ナイコトガ望マシイト思フノデアリマス」
「民主政治ヲ徹底サセテ国民ノ権利ヲ十分擁護致シマス為ニハ、左様ナ場合ノ政府一存ニ於テ行ヒマスル処置ハ、極力之ヲ防止シナケレバナラヌノデアリマス言葉ヲ非常ト云フコトニ藉リテ、其ノ大イナル途ヲ残シテ置キマスナラ、ドンナニ精緻ナル憲法ヲ定メマシテモ、口実ヲ其処ニ入レテ又破壊セラレル虞絶無トハ断言シ難イト思ヒマス、随テ此ノ憲法ハ左様ナ非常ナル特例ヲ以テ――謂ハバ行政権ノ自由判断ノ余地ヲ出来ルダケ少クスルヤウニ考ヘタ訳デアリマス、随テ特殊ノ必要ガ起リマスレバ、臨時議会ヲ召集シテ之ニ応ズル処置ヲスル、又衆議院ガ解散後デアツテ処置ノ出来ナイ時ハ、参議院ノ緊急集会ヲ促シテ暫定ノ処置ヲスル、…コトガ適当デアラウト思フ訳デアリマス」
☆法律による「緊急事態」への対処について(『改憲の何が問題なのか』(岩波、2013年)所収の水島朝穂「緊急事態条項」)水島さんのブログ「直言」から
「日本の場合、憲法に緊急事態条項はないが、法律レヴェルには「緊急事態」という文言が随所に存在することである。例えば、「警察緊急事態」(警察法71条)、「災害緊急事態」(災害対策基本法105条)、「重大緊急事態」(安全保障会議設置法2条9号)である。これに「防衛事態」(自衛隊法76条)、「武力攻撃事態」(武力攻撃事態法2条)、「治安出動事態」(自衛隊法78、81条)が加わる。憲法9条の観点から合憲性に疑義のあるものもあるが、ここでは立ち入らない。」
☆東北弁連会長声明
災害対策を理由とする国家緊急権の創設に反対する会長声明
現在、与党自民党において、東日本大震災時の災害対応が十分にできなかったことなどを理由として、日本国憲法に「国家緊急権」の新設を含む改正を行うことが議論されている。
国家緊急権とは、戦争や内乱、大災害などの非常事態において、国民の基本的人権などの憲法秩序を一時停止して、権限を国に集中させる制度を言う。この制度ができると国は強大な権限を掌握することができるのに対し、国民は強い人権制約を強いられることになる。災害対応の名目の下に、国家緊急権が創設されることは、非常に危険なことと言わざるを得ない。
そもそも、日本国憲法の重要な原理として、権力分立と基本的人権の保障が定められたのは、国家に権力が集中することによって濫用されることを防ぎ、自由・財産・身体の安全など、国民にとって重要な権利を守るためである。大日本帝国憲法(以下「旧憲法」という)時代には国民の人権が不当に侵害され、戦争につながった経験に鑑みて、日本国憲法はかかる原理を採用している。また、旧憲法には国家緊急権の規定があったが、それが濫用された反省を踏まえて、日本国憲法には国家緊急権の規定はあえて設けていない。
確かに、東日本大震災では行政による初動対応の遅れが指摘された事例が少なくない。しかし、その原因は行政による事前の防災計画策定、避難などの訓練、法制度への理解といった「備え」の不十分さにあるとされている。例えば、震災直後に被災者に食料などの物資が届かなかったこと、医療が十分に行き渡らなかったことなどは、既存の法制度で対応可能だったはずなのに、避難所の運営の仕組みや関係機関相互の連絡調整などについての事前の準備が不足していたことに原因があるのである。東京電力福島第一原子力発電所事故に適切な対処ができなかったのも、いわゆる「安全神話」の下、大規模な事故が発生することをそもそも想定してこなかったという事故対策の怠りによるものである。つまり、災害対策においては「準備していないことはできない」のが大原則であり、これは被災者自身が身にしみて感じているところである。
そもそも、日本の災害法制は既に法律で十分に整備されている。例えば、災害非常事態等の布告・宣言が行われた場合には、内閣の立法権を認め(災害対策基本法109条の2)、内閣総理大臣に権限を集中させるための規定(災害対策基本法108条の3、大規模地震対策特別措置法13条1項等)、非常事態の布告等がない場合でも、防衛大臣が部隊を派遣できる規定(自衛隊法83条)など、災害時の権限集中に関する法制度がある。また、都道府県知事の強制権(災害救助法7?10条等)、市町村長の強制権(災害対策基本法59、60、63?65条等)など私人の権利を一定範囲で制限する法制度も存在する。従って、国家緊急権は、災害対策を理由としてもその必要性を見出すことはできない。
他方で、国家緊急権はひとたび創設されてしまえば、大災害時(またはそれに匹敵する緊急時)だけに発動されるとは限らない。時の政府にとって絶対的な権力を掌握できることは極めて魅力的なことであり、非常事態という口実で濫用されやすいことは過去の歴史や他国の例を見ても明らかである。国民の基本的人権の保障がひとたび後退すると、それを回復させるのが容易でないこともまた歴史が示すとおりである。
よって、当連合会は、東日本大震災において甚大な被害を受けた被災地の弁護士会連合会として、災害対策を理由とする国家緊急権創設は、理由がないことを強く指摘し、さらに国家緊急権そのものが国民に対し回復しがたい重大な人権侵害の危険性が高いことから、国家緊急権創設の憲法改正に強く反対する。
2015年(平成27年)5月16日
東北弁護士会連合会 会長 宮本多可夫
以 上
(2016年3月28日)
2020年東京オリンピックまであと4年。世界中から、多くの人々が東京にやってこようとしています。既に東京に観光客の増加は著しく、今年の花見の名所には、外国人があふれています。しかし、本当に東京は平和と自由の祭典である、オリンピック・パラリンピックを開催する都市としてふさわしいのでしょうか。オリンピック開催都市としての資格があるのでしょうか。是非、その実態を知ってください。そして、できれば、ご一緒に東京都に抗議をしていただきたいのです。
世界中の皆様に、とりわけオリンピックを機に東京に足を運ぼうとしていらっしゃる方々に申し上げます。東京には、公権力によって思想や信仰に対する弾圧に苦しんでいる人が現実にいるのです。その背景にある事情に耳を傾けてください。
400年ほど昔のことです。戦国の動乱を経て統一日本の政権が江戸に打ち立てられたころ、時の為政者は極度に民衆の叛乱を恐れました。為政者の権威確立に邪魔となるものとして、厳格に宗教を統制しました。外来の宗教である、キリスト教は布教も信仰も厳しく禁じられました。さらに進んでね、江戸幕府の為政者は、キリスト教の信仰者を徹底して弾圧して信仰を抹殺しなければならないとまで考えたのです。しかし、信仰は目に見えません。どうしたら、キリスト教の信仰者をあぶり出すことができるでしょうか。
悪知恵を働かせて彼らが発明した独創的手段が、「踏み絵」というものでした。信仰者にとって大切な聖なる図柄を描いた踏絵板(後に真鍮製)を用意し、これを全民衆に踏ませたのです。キリストやマリアの像を踏みつけることはできない、罪の意識から躊躇する者を信仰者としてあぶり出したのです。普段は見えない信仰を可視化する見事な方法といわねばなりません。多くのキリスト教徒が「踏み絵」によって殉教を余儀なくされました。この踏み絵は、九州全域の年中行事として、幕末まで実に230年に及ぶ長期間、続けられたのです。日本の為政者の狡猾にして残忍な一面をよく表している歴史の一こまと言わねばなりません。
その後近代に至って、権力を掌握した天皇制政府は、踏み絵を発明した為政者のあとを襲って、宗教的・政治的弾圧に狂奔しました。彼らは、天皇を神とする宗教によって民衆の精神を支配しようと試み、天皇の権威を認めない宗教を徹底して弾圧したのです。ここにも、信仰者受難の歴史が刻まれています。また、政治的信条故に天皇の権威を認めようとしない者も過酷な弾圧を受けました。
70年前の敗戦にともない、日本は天皇制のくびきから解放され、憲法によって個人の精神的自由が保障される時代に入ったとされています。しかし、ご存じのとおり、日本の現首相自身が「戦後レジームからの脱却」や「日本を取り戻す」と広言し、戦後民主主義を否定して戦前を志向しているのです。この国には、思想・良心・信仰の自由はいまだ根付かず、為政者は折りあらば思想や信仰の統制を狙っているのです。
13年前のことです。時の東京都知事石原慎太郎は、狡猾にして残忍しかも傲慢な人物でした。その人物が、自分の「盟友」たちを教育委員として採用し、知事の意のままとなる教育委員会を作り上げました。こうして知事の意を受けた東京都教育委員会は、「学校の入学式や卒業式においては、全教職員は国旗に向かって起立し、国歌を斉唱しなければならない」「この命令に従わない者には懲戒処分を科す」という通達を出しました。悪名高い、「10・23通達」です。
日本の国旗とは「日の丸」、国歌とは「君が代」のことです。いろんな理由から、このハタやウタに敬意を表することはできない、という日本人はたくさんいます。政治的信条や、教員としての良心、そして信仰者としての立場などを理由とするものです。この通達は、そのような人々に、起立斉唱を強制し、踏み絵と同様の精神的苦痛を与えているのです。
教職員の多くは、国旗国歌に敬意を強制することには反対の立場です。国旗国歌は、人格の形成を目的とする教育の場にふさわしくないと思っているからです。しかし、このような多くの教員が、自らの信念に従って不起立を貫くか、それとも心ならずも起立せざるを得ないと屈するか、の選択を迫られるのです。
神は果たして、踏み絵の前で苦境に立たされた信仰者に「信仰を貫け」「踏み絵を踏んではならない」と命じるのでしょうか。それとも「許すから踏んでよい」と人の弱さを認めるのでしょうか。神の意思を忖度して悩むのは、生身の信仰者です。これによく似た問題が、東京の学校現場で現実化しているのです。
踏絵を強要した宗門改めの役人の人物像に、石原慎太郎の顔か重なります。人間の尊厳よりも為政の秩序を優先することにおいて、人の精神の自由の価値に対する理解のない点において、日の丸・君が代を強制して恥じない石原の罪は、絵踏を発明した役人の残忍さに後れを取るものではありません。
東京都教育委員会は、「日の丸・君が代」の強制に服しなかったとして、既に延べ474件の懲戒処分を強行しています。これは、人の良心に鞭を打つ行為というほかはありません。思想・良心・信仰の発露としての行為が制裁の対象とされているのです。それぞれの人の内面における思想・良心・信仰と,そのやむにやまれぬ発露としての不起立・不斉唱という外部行為とは分かちがたく結びついています。ですから懲戒処分は各人の行為だけではなく内面の思想・良心・信仰をも鞭打つものとなっています。
たとえば、このような実例があります。敬虔なクリスチャンである教員が、どうしても「日の丸」の前で起立して「君が代」を歌うことはできない、として繰りかえし懲戒処分を受けています。
この人の目には、「日の丸」とはアマテラスという太陽神の象形と映ります。この神こそは、国家神道の中心に位置する天皇の祖先神です。また、「君が代」とは、神なる天皇の御代の永続をことほぐ祝祭歌にほかならないのです。その宗教的な意味づけ故に、自らの信仰と抵触し、これを受容しがたいというのです。
東京都はこのような教員を容赦しません。懲戒処分を繰りかえしています。処分を受けた者には、再発防止研修という名の嫌がらせも繰りかえされているのです。
このような東京都の野蛮な行為は、思想・良心・信仰をあぶり出して、制裁を加えようというもので、400年前に発明された踏み絵の流れを汲む日本の為政者の傳統といわざるを得ません。
思想や良心や信仰が大切なものだとお考えの皆さま。東京都に対して、「オリンピックに取り組む前にやるべきことがあるだろう」「東京都の思想弾圧・宗教弾圧の体質をあらためるべきではないか」と、私たちとご一緒に是非声を上げていただくよう、お願いいたします。
(2016年3月27日)
下記は、本日(3月26日)「赤旗」1面の記事。
「大阪高裁 大阪市に賠償命じる
橋下徹前大阪市長による市職員への憲法違反の「思想調査アンケート」(市職員への労使関係アンケート調査)で「精神的苦痛をうけた」として、職員とOB計59人が市に1900万円余りの賠償を求めた訴訟の控訴審判決が25日、大阪高裁でありました。田中敦裁判長は、一審大阪地裁に続いて、アンケートの一部を違憲と断定。大阪市に賠償を命じました。賠償額は一審判決の1人6000円を変更し5000円としました。
田中裁判長は、アンケートの四つの設問について、団結権(憲法28条)やプライバシー権(同13条)を違法に侵害したと断罪。一審で団結権侵害が認められた組合費の使い道の設問については侵害にあたらないと判断しました。橋下前市長には、アンケートが職員の権利を侵害しないよう確認する注意義務があったのに違反したとして損害賠償を認めました。
判決後の記者会見で、弁護団の西晃事務局長は「アンケートが憲法に抵触する内容を含む違法な公権力の行使であったと明確に判断された勝利判決だ。市は上告することなくこの判決を受け入れてほしい」と話しました。
原告団長の永谷孝代さん(60)は「みなさんの励ましの中でたたかってきて本当によかった。職員が働きがいが持てない職場の状況、市民が苦しむ市政が続くなか、みなさんとともに大阪市が良くなるように運動していきたい」とのべ、大阪市役所労働組合(市労組・全労連加盟)の田所賢治委員長は「憲法守る市役所づくりのために引き続き奮闘する」と話しました。」
他紙の報道では、「アンケートは組合の「政治活動」を問題視した橋下市長(当時)が、職務命令で回答を義務づけて実施。」「昨年12月に組合5団体と市職員29人が原告となった同様の訴訟で、大阪市におよそ80万円の賠償を命じる市側敗訴の大阪高裁判決が確定している。」「今回の判決も上告なく確定する模様」とのこと。
同業者として恥ずかしい限りだが、この件には弁護士が深く関わっている。この違法アンケートを強制した責任者である当時市長の橋下徹が弁護士。そして橋下からの依頼で「特別顧問」となり違法アンケート実施の実務を担当したのが野村修也、やはり弁護士である。権力に対峙して人権を擁護すべき弁護士が人権侵害の側にまわっているのだ。
事件は2012年2月のこと。大阪市は、職員およそ3万人を対象に労働組合の活動への参加や、特定の政治家を応援する活動経験について記名式のアンケート調査を行った。しかも、「このアンケートは任意の調査ではありません。市長の業務命令として、全職員に、真実を正確に回答していただくことを求めます。」「正確に回答がなされない場合は処分の対象となりえます。」と述べて、従わない場合は処分もあり得ることが明示されていた。公権力による思想表白強制といわざるを得ない。常軌を逸しているというほかはない。
当時、この橋下流の乱暴に世論の批判は高く、「このような被告職員の人権を著しく侵害する本件思想調査に対して、労働組合や法律家団体、広範な市民から激しい抗議がなされた。その結果、本件思想調査回答期限後の2月17日、野村修也は、データ開封作業や集計などを「凍結」することを表明せざるを得なくなった。また、同月22日には、大阪府労働委員会が、大阪市労働組合連合会らの実効確保の措置申立てに対して、市の責任において、本件思想調査を中止するよう異例の勧告を出した」(訴状)
そのため、結局は集めたアンケートの回答は未開封のまま廃棄されたが、これで納得しない職員の2グループが、訴訟を提起した。2件の訴訟ともに、職員らが原告となってアンケートの回答強制が人権侵害の憲法違反だとするもの。特定の公務員の故意または過失にもとづく違法な公権力の行使があって、その結果損害が生じたとする国家賠償請求訴訟である。両事件とも、1・2審を通じて、大阪市の敗訴となった。
2件の訴訟はこれで確定する。大阪市は原告らに損害を賠償することになる。ということは、市長の違法行為によって、市が損害を被るということだ。実はその損害の範囲は、必ずしも判決で命じられた賠償額にとどまらない。違法なアンケート調査にかかった費用、たとえば特別顧問野村修也への報酬など、が因果関係ある損害たりうる。余計な紛争の処理に要した費用も同様である。市が不当労働行為救済申し立てや、損害賠償請求訴訟に対応するために出費したものについても、市長の違法行為による損害となり得る。
判決を読む機会に恵まれていないが、判決では、大阪市の公権力行使が違法というだけでなく、市長の故意または過失が明確になったはず。ならば、市長の責任が問われなければならない。具体的な手段は、監査請求前置の住民訴訟である。
国立市に好個の参考事例がある。マンション事業者の明和地所が、国立市の違法な公権力行使によって損害を被ったとして国家賠償訴訟を提起し、2500万円の請求を認容する判決が確定した。市は明和地所に対して遅延損害金を含む賠償金を支払ったが、市民のなかから「市長の違法行為によって、市に損害が生じたのだから、市は当然に元市長に損害分を求償すべきだ。市長は市の損害分を個人で負担すべきだ」というグループが現れて、監査請求を経て原告となり東京地裁に「国立市は、明和地所に支払った損害賠償金と同額を元市長個人(上原公子)に対して請求せよ」との判決を求める住民訴訟を提起した。住民が原告となり、被告は元市長という訴訟である。
東京地裁はこの請求を認容する判決を言い渡し確定した。国立市は、判決にしたがって、元市長に請求したが、拒絶されて元市長に対する損害賠償請求訴訟を提起した。今度は、原告が市、被告は元市長という訴訟である。
その一審判決直前に国立市議会は元市長に対する賠償請求権を放棄することを議決している。一審判決はこれを踏まえて、「国立市議会が上原公子元市長に対する賠償請求権の放棄を議決しているにもかかわらず、現市長がそれに異議を申し立てることもせず、そのまま請求を続けたことが『信義則に反する』」として、国立市の請求を棄却するものとなった。市の債権がなくなったとしたのではなく、議会の債権放棄の議決によっても債権が存続することを前提として、請求を信義則違反としたのだ。なかなか分かりにくいところ。
ところが、控訴審継続中に議会の構成が逆転して、求償権の行使を求める議決が可決される事態となった。これを受けて、控訴審判決は一審とは逆に請求を全部認容するものとなっている。
国立市の事例と同様に、違法なアンケート調査によって大阪市に損害を与えた橋下徹の責任追及は、元市長橋下徹に対しても可能ではないか。大阪市の住民であれば、誰でも原告となれるのが住民訴訟だ。大阪在住のどなたかに、具体化していただきたいものと思う。
なお、大阪市議会の定数は86。与党である「大阪維新の会」の議員数は37である。幸いに半数に達していない。しかし、あと7人を語らえば、債権放棄決議が可能となる。議会の決議で、違法な市長の責任を免じることの不当は明らかというべきではないか。
(2016年3月26日)
大西英男さん、あなたこそ男の中の男。保守の中の保守、最も自民党らしい議員として光っている。あなたのすばらしさの真骨頂は、歯に衣きせずにホンネをストレートに語ることだ。ホンネを語って、有権者を魅了する政治家が今はすくない。あなたは貴重な存在だ。
ホンネを語る議員がすくないということは、飾らず地のままで魅力ある政治家が少ないということだ。海の向こうアメリカでは、今、トランプがホンネを語って大衆に大ウケではないか。あなたこそ、江戸川のトランプ。あなたの支持者は、あなたのホンネの放言を魅力と感じて、あなたを議会に送り込んだのだ。
だから、がんばれ。大西議員。他の凡庸な政治家の如くに前言を撤回するな。簡単に謝るな。反省などもってのほか。そんなことでは、あなたの魅力は台なしだ。支持者はついてこない。ここは、徹底して居直れ。何が悪いと、押し通せ。
あなたは、昨日(3月24日)所属する細田派の総会で、冒頭、司会としてマイクを握って次のような発言をしたと報じられている。
衆院北海道5区補欠選挙で自民党公認候補応援のために現地入りした際のこと、必勝祈願のために神社を訪れ、支援を依頼した巫女が『自民党は好きじゃない』と語っていたことを紹介し、『巫女のくせに何だと思った』といちゃもんをつけた。さらに、『巫女さんを誘って札幌の夜に説得をしようとも思った』などと際どい発言を連発した。
あなたの発言を、「私は神社関係を中心に回ったが、私の世話を焼いた巫女さんが20歳くらいだった。投票が初めてだということだから、ひとつ口説いてやろうと思った」と紹介している記事もある。
あなたの凄いところは、記者に追い詰められ、問い詰められた挙げ句の問題発言ではないところだ。聞かれてもいないことを、自ら暴露する。その率直さがいかにもあなたらしい。聞かれもしないのに、自分の方から問題行動を暴露したのは、あなたのほかには、DHCの吉田嘉明くらいのものではないだろうか。この率直さが、あなたの政治家としての大きな魅力だ。
「巫女のくせに何だ」という発言は、いろんな意味にとれる。
まずは、「女のくせになんだ」という意味合い。「男が自民党をよろしくとお願いしているのだ。そんなとき、女というものは、おとなしく愛想よく、こちらを立てるべきものだろう」というニュアンス。
そのとおりではないか。日本の社会では、女はそうあるべきが当然なのだ。男はみんな、ホンネではそう思っているはず。だから大西さんよ。「女のくせになんだ」という懐かしい言葉を死語にせぬように、ここはがんばっていただきたいのだ。
「巫女なら自民党を応援するはずではないか」という意味合いも感じられる。このところ、神社界は憲法改正運動に大いに乗り気じゃないか。その神社に雇われて仕事をしている巫女なら、自民党を応援して当たり前ではないか。自分の主義主張を前面に押し出して、「自民党は好きじゃない」とは、神社界で働く者としても、従業員としての身分にある者としても、まったく立場をわきまえぬ我が儘勝手な振る舞い。世の常識は、大西さん、あなたの味方だ。
「私は神社関係を中心に回ったが、私の世話を焼いた巫女さんが20歳くらいだった。投票が初めてだということだから、ひとつ口説いてやろうと思った」というのも、誰でも腹の内では思うことではないか。凡庸な人物は、それを「礼節」というイチジクの葉で、隠しているだけだ。
派閥の領袖も、自民党の幹部も、公明党までもが、良い子ぶってなんだ。「意味不明な発言」「不適切な発言」などと言っている。そりゃ間違いだ。意味は明瞭だし、不適切か否かは選挙民が決めるものだ。
だから大西さん、あなたを選出した有権者を信じることだ。あなたの選挙区は東京第19区。江戸川区と重なる。あなたのレベルが選挙民のレベルではないか。江戸川区民は、女性差別を容認している。『巫女のくせに何だ』『巫女さんを誘って札幌の夜に説得をしようと思った』などの発言になんの違和感もない。土地柄というものだ。
だから、大西さん。弱音を吐いてはいけない。次の選挙まで、国会議員として務め通して、ますます直情径行に、思ったとおりの発言を続けていただきたい。そして、次の総選挙にも必ず出馬していただきたい。
大西さん。あなたは昨年6月自民党議員の勉強会で、「マスコミを懲らしめるには広告料収入がなくなるのが一番」などと発言して、党から厳重注意処分を受けている。そのときの記者会見で次のように言っている。
「私のいま、事務所やあれですね、ブログを含めて多くの人たちが『頑張れ』と。『よく言ってくれた』と。そういう激励のね、声が多いですよ。」
そのとおりだ。ネトウヨ連中は、こぞってあなたの味方だ。そして、かく言う私もなのだ。だから強気でがんばれ。
ところが大西さん、そのときあなたは、記者団からの質問に次のように回答してもいる。
「――ご自身が勉強会で発言したことは、問題があったと思わないということか。
問題があったとは思いませんけれども、ただ、われわれ政治家として、こういう誤解、曲解を与えるような発言、こうやって皆さんに説明しなければ分かってもらえないような発言は今後、慎んでいかなければいけないという反省はしてますよ。」
これはいただけない。こんな「反省」はあなたらしくない。こんなことでは、次の選挙で、あなたは負ける。
前回総選挙での東京19区開票結果は以下のとおりだった。
大西英男 68 自由民主党 前(公明推薦) 98,536票 46.3%
初鹿明博 45 維新の党 元(民主党都連推薦)56,701票 26.6%
大田朝子 30 日本共産党 新 36,976票 17.4%
ホンネを語るあなたなればこその圧勝ではないか。今回の発言こそは、安心して「謝罪拒否」「反省拒否」に徹すべきだ。
このまま、反省しない放言居士のあなたが相手なら、改憲阻止勢力の結集はしやすいはず。そうなれば、「自公」対「民共」の勢力は伯仲し、改憲阻止勢力の貴重な勝利をもたらしうるではないか。
もしかしたら、あなたは、主観的意図とは関わりなく改憲阻止に重要な役割を果たしうる立場にある。だから、がんばれ。ホンネを貫け。大西議員よ。
(2016年3月25日)
またまた、「またも負けたか都教委よ」である。
本日(3月24日)午後、東京高裁第4民事部(綿引万里子裁判長)は、都立高校教員の懲戒免職処分取消請求控訴事件において、東京都教育委員会の控訴を棄却する判決を言い渡した。しかし、都教委敗訴は、もはやニュースにならない。負けつづけているからだ。都教委が勝訴したら、それ自体が大きなニュースという時代なのだ。
この件は、都教委が当該教員に非違行為があったとして懲戒免職処分としたことに対して、教員が処分の取り消しを求めて提訴したもの。2015年10月26日一審判決があって都教委が敗訴し、これを不服として控訴をした都教委の再びの敗訴である。
担当の加藤文也弁護士からの報告は、「判決の事実認定も判断も、現場で生徒のためにがんばっている教員を励ます内容となっています。」というものだった。
都教委はこの件では判決で2度負けているだけではない。原告は懲戒免職処分の取消請求訴訟を提起しただけでなく、処分の執行停止(民事の仮処分に相当する)を申立て、一審・二審の両裁判所とも、この執行停止申立を認める決定を出している。都教委は、都合4件の敗訴「判決・決定」を受けたわけだ。
敗訴続きの都教委は、きっぱりと上告受理申立などやめるがよい。「違法」な免職処分を行ったことを真摯に謝罪して現職復帰を認めるべきである。その上で、どうして裁判所から違法と断罪される処分を発令してしまったのか、責任の所在を明らかにしたうえ、同じ過ちを繰り返さぬよう適切な措置をとらねばならない。
?2013年12月 東京地裁判決。再発防止研修未受講事件(原告Fさん・都立高校)で減給6月の処分取消。控訴なく確定。
?2014年10月 東京高裁判決。都立高教員の再任用更新拒否損害賠償請求を認容。都教委上告せず確定。
?2014年12月 東京高裁判決。都立高教員条件付き採用免職事件で勝訴。都教委上告せず確定。
?2015年 1月 東京地裁。都立高教員免職処分執行停止申立を認容決定。
?2015年 5月 東京地裁判決。再雇用拒否撤回二次訴訟(原告22名)原告勝訴。都側が控訴し高裁でも敗訴(下記?)。
?2015年 5月 東京高裁判決。河原井さん根津さん停職処分取消訴訟で逆転勝訴。都側が上告。
?2015年10月 東京地裁判決。岸田さんの停職処分・人事委修正裁決取消訴訟で原告勝訴。都教委が控訴し高裁で係争中。
?2015年10月 東京地裁判決 都立高校教員Oさん免職処分取消。都教委が控訴。
?2015年12月 東京高裁判決。東京「君が代」裁判三次訴訟。都教委敗訴(5名の減給・停職処分取消)について上告を断念。
?2015年12月 東京高裁再雇用拒否撤回二次訴訟判決 原告勝訴。都教委が上告受理申立。
?2016年 1月 東京高裁、都立高校教員Oさん免職事件執行停止決定。
?2016年 3月 都立高校教員Oさん免職事件控訴棄却 東京高裁判決。
これで、都教委は、自らが処分者として関わった教育裁判で12連敗!である。その内、7件が「日の丸・君が代」強制関係。その他が5件。その他の5件も、明らかに都教委の強権体質を表すものである。
これだけ多くの裁判を抱えるに至ったことだけでも都教委は恥とし反省しなければらない。さらに、12連敗とは、滅多にできる芸当ではない。前人未踏の金字塔というべきであろう。この不名誉な責任は、6名の教育委員にある。
「自分は職員の起案を了承しただけ」などという弁明はできない。そんな能なし委員は即刻退任してもらわねばならない。 教育委員にこそ、再研修が必要だ。
教育委員とは何者であるか。あるいは、あるべきか。地教行法第4条は、その資格要件をこう定めている。
4条1項「教育長は、当該地方公共団体の長の被選挙権を有する者で、人格が高潔で、教育行政に関し識見を有するもののうちから、地方公共団体の長が、議会の同意を得て、任命する。」
4条2項「委員は、当該地方公共団体の長の被選挙権を有する者で、人格が高潔で、教育、学術及び文化に関し識見を有するもののうちから、地方公共団体の長が、議会の同意を得て、任命する。」
法が想定する教育委員(長)像は、「人格が高潔で、教育行政に関し識見を有する」教育長と、「人格が高潔で、教育、学術及び文化に関し識見を有する」その他の教育委員である。12連敗の教育委員諸君。諸君は、自分の責任をどう自覚しているか。
本日は、東京「君が代」裁判の弁護団会議。原告を交えた雑談の中で乙武洋匡元教育委員の不倫不祥事が話題となった。いま、暴かれているこの人物の行状。この人が、ごく最近まで東京都教育委員の一人として、多忙な不倫生活の合間に、片手間仕事の教育委員としての務めに従事していたのだ。到底「人格が高潔」でもなく、「教育、学術及び文化に関し識見を有する」とも言えない。これでも、委員が「務まった」のだ。
処分を受けた教員のひとりが、「こんな人物に処分されていたんだね」と呟いた。私には、痛々しく聞こえた。本気で教育に取り組んでいる現場の教員にとっては、なんとも情けない思いなのだ。
次は、4月18日に都教委が被告となっている再雇用拒否撤回三次訴訟(東京地裁民事第11部)の判決が控えている。おそらくは、これが都教委13連敗の日となる。
裁判所に、「違法」「違法」と言われ続けているのだ。これだけ敗訴を重ねて、その体質を改善しようとしないのか。舛添知事よ。オリンピックにかまけていないで、なんとかしなければならない事態だと自覚していただきたい。
(2016年3月24日)
私は、天皇制不要論者である。憲法から、第一章「天皇」を削除すべきだと思ってはいる。しかし、いま天皇制打倒が喫緊の課題とは思わない。むしろ、天皇制については、現行憲法の基本的な理念である国民主権や平和主義の実現に障害とならぬよう運用し、国民の総意によって廃止に至ることが望ましいと思う。
そのような、「できるだけ現行憲法の理念実現に支障のない天皇制のあり方」として、性差別のない皇位継承があってもよいのではないだろうか。
憲法に天皇は男性に限ると書いてあるわけではない。皇位継承のルールは、「国会の議決した皇室典範」が定めることになっている。皇室典範はそのネーミングに「法」の文字がないが、単なる法律のひとつである。国会の過半数の賛成で皇位承継のルール変更は可能なのだ。不磨の大典などではないのだ。国会で、皇位継承についての男女平等を決めれば、女性天皇が誕生することになる。
この提案は、天皇制の廃棄につながる積極的意義があるわけではない。その意味では、枝葉の些事なのかも知れない。が、女性天皇が就任すれば、性差に関する国民意識を大きく変えることになるのではないか。こんなことを考えたのは、女性差別撤廃委員会(CEDAW)の日本への勧告ドラフトが皇位承継の女性差別を問題にしていたからだ。
3月7日、国連の女性差別撤廃委員会(CEDAW)が、日本政府に対する女性差別是正の勧告を含む「最終見解」を公表した。この報告書ドラフトの最終段階まで、「皇位を男系男子に限っているのは女性差別に当たるのだから、皇室典範を改正して差別をなくするよう求める」勧告が盛り込まれていたという。最終見解に盛り込まれていれば、世界の良識が天皇制をどう見ているのかを、日本の国民が知ることになったろう。所与のものでしかなかった天皇制のあり方が、実は国会の議論を通じて国民自身の意思で変更できるのだという、当たり前のことに気が付くきっかけになったのではないだろうか。
いったい、どうして最終段階ではこのドラフトが撤回されたのだろうか。いつか内情を知りたい。そして、今回は見送られたが、いずれしっかりした「勧告」がなされることを期待したい。
政府や自民党、右翼筋は、まったく逆なことを考えているようだ。3月14日の参院予算委員会で、この点に関わる若干の質疑があった。質問者は、右翼筋との関係深い山谷えり子である。
○山谷えり子 自由民主党、山谷えり子でございます。
国連女子差別撤廃委員会で、先頃、日本に対する最終報告案の中に、皇室典範改正を求める勧告が盛り込まれようとしておりました。皇位継承権が男系男子の皇族にしかないという、女性差別ではないかという勧告が盛り込まれようとしたんですけれども、皇室典範改正まで言及するというのは内政干渉でもありますし、また日本の国柄、伝統に対する無理解というのもあろうかと思います。外務省は、しっかりと抗議をして、説明をして、最終的な文章からはそれが削除をされましたけれども、日本の正しい姿を更に戦略的に対外発信していくということが大切ではないかと思います。
安倍内閣になりましてからは、昨年度、国際的な広報予算五百億円上積みをいたしまして、来年度の予算も七百三十億円取っております。この国際広報体制の在り方について、総理はどのようにお考えでございましょうか。
○安倍晋三 国際広報体制についての御下問でございますが、言わば日本の真の姿をしっかりと諸外国に理解をしていく上において、また日本の伝統文化、また日本が進めようとしている政策について正しい理解を得るために広報活動を展開をしていく必要があると、このように考えております。
我が国の皇室制度も諸外国の王室制度も、それぞれの国の歴史や伝統があり、そうしたものを背景に国民の支持を得て今日に至っているものであり、そもそも我が国の皇位継承の在り方は、条約の言う女子に対する差別を目的とするものではないことは明らかであります。委員会が我が国の皇室典範について取り上げることは、全く適当ではありません。また、皇室典範が、今回の審査プロセスにおいて一切取り上げられなかったにもかかわらず、最終見解において取り上げることは手続上も問題があると、こう考えております。
こうした考え方について、我が方ジュネーブ代表部から女子差別撤廃委員会側に対し、説明し、皇室典範に関する記述を削除するよう強く申し入れた結果、最終見解から皇室典範への言及が削除されました。
我が国としては、今回のような事案が二度と発生しないよう、また我が国の歴史や文化について正しい認識を持つよう、女子差別撤廃委員会を始めとする国連及び各種委員会に対し、あらゆる機会を捉えて働きかけをしていきたいと考えております。
典型的な狎れ合い質疑であって緊張感を欠くこと甚だしい。緊張感を欠く中での問題質問であり問題答弁である。首相と与党議員が、こんなレベルでしか「女性差別撤廃条約」の理解をしていないということが大きな問題なのだ。
山谷は、「皇室典範改正を求める勧告は内政干渉だ」という。「日本の国柄、伝統に対する無理解」という言い回しで、国連の勧告を拒否する姿勢を露わにしている。人権の普遍性を認めないいくつかの後進国とまったく同じ姿勢で、滑稽の極みというほかはない。
安倍も呼吸を合わせて、いかにも安倍らしく「日本の伝統文化」については、国連にはものを言わせないという姿勢。
しかし、日本が締結し批准もした「女性差別撤廃条約」は、すべての締約国のあらゆる部門において、男女差別を容認している「傳統・文化」を是正しようとしているのだ。「我が国の傳統・文化に対する無理解」ということ自体が筋違いも甚だしい。
したがって、「伝統に基づく文化としての女性差別が国民の支持を得ている」ことも、国連の勧告を拒否する理由にはなりえない。多くの場合、女性差別は伝統や文化として定着し、国民多数派の支持を得ているからこそ頑迷固陋でやっかいなのだ。それなればこそ、国連や国際社会が是正に乗り出す意味があるのだ。
「そもそも我が国の皇位継承の在り方は、条約の言う女子に対する差別を目的とするものではない」というのもまったくおかしい。安倍は、条約は「女子に対する差別を目的する」制度や傳統・文化だけを問題にしている、と理解しているのではないか。明らかに間違いである。
究極の問題点は、「我が国の歴史や文化について正しい認識を持つよう国連」に働きかけるという点である。国連や国際社会の見解に耳を傾けようというのではなく、「我が国の歴史や文化」を正しく認識せよ、とは独善性の極み、思い上がりも甚だしい。
女性差別撤廃条約(正式名称は、「女性に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」)の関連個所を抜粋しておこう。
「この条約の締約国は、国際連合憲章が基本的人権、人間の尊厳及び価値並びに男女の権利の平等に関する信念を改めて確認していることに留意し、
世界人権宣言が、差別は容認することができないものであるとの原則を確認していること、並びにすべての人間は生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳及び権利について平等であること並びにすべての人は性による差別その他のいかなる差別もなしに同宣言に掲げるすべての権利及び自由を享有することができることを宣明していることに留意し、
人権に関する国際規約の締約国がすべての経済的、社会的、文化的、市民的及び政治的権利の享有について男女に平等の権利を確保する義務を負つていることに留意し、
しかしながら、これらの種々の文書にもかかわらず女子に対する差別が依然として広範に存在していることを憂慮し、
女子に対する差別は、権利の平等の原則及び人間の尊厳の尊重の原則に反するものであり、女子が男子と平等の条件で自国の政治的、社会的、経済的及び文化的活動に参加する上で障害となるものであり、社会及び家族の繁栄の増進を阻害するものであり、また、女子の潜在能力を自国及び人類に役立てるために完全に開発することを一層困難にするものであることを想起し、
衡平及び正義に基づく新たな国際経済秩序の確立が男女の平等の促進に大きく貢献することを確信し、
国の完全な発展、世界の福祉及び理想とする平和は、あらゆる分野において女子が男子と平等の条件で最大限に参加することを必要としていることを確信し、
社会及び家庭における男子の伝統的役割を女子の役割とともに変更することが男女の完全な平等の達成に必要であることを認識し、
女子に対する差別の撤廃に関する宣言に掲げられている諸原則を実施すること及びこのために女子に対するあらゆる形態の差別を撤廃するための必要な措置をとることを決意して、
次のとおり協定した。
第一条 この条約の適用上、「女子に対する差別」とは、性に基づく区別、排除又は制限であつて、政治的、経済的、社会的、文化的、市民的その他のいかなる分野においても、女子(婚姻をしているかいないかを問わない。)が男女の平等を基礎として人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを害し又は無効にする効果又は目的を有するものをいう。
第二条 締約国は、女子に対するあらゆる形態の差別を非難し、女子に対する差別を撤廃する政策をすべての適当な手段により、かつ、遅滞なく追求することに合意し、及びこのため次のことを約束する。
(a)男女の平等の原則が自国の憲法その他の適当な法令に組み入れられていない場合にはこれを定め、かつ、男女の平等の原則の実際的な実現を法律その他の適当な手段により確保すること。
(b)女子に対するすべての差別を禁止する適当な立法その他の措置(適当な場合には制裁を含む。)をとること。
(c)女子の権利の法的な保護を男子との平等を基礎として確立し、かつ、権限のある自国の裁判所その他の公の機関を通じて差別となるいかなる行為からも女子を効果的に保護することを確保すること。
(d)女子に対する差別となるいかなる行為又は慣行も差し控え、かつ、公の当局及び機関がこの義務に従つて行動することを確保すること。
(e)個人、団体又は企業による女子に対する差別を撤廃するためのすべての適当な措置をとること。
(f)女子に対する差別となる既存の法律、規則、慣習及び慣行を修正し又は廃止するためのすべての適当な措置(立法を含む。)をとること。
第三条 締約国は、あらゆる分野、特に、政治的、社会的、経済的及び文化的分野において、女子に対して男子との平等を基礎として人権及び基本的自由を行使し及び享有することを保障することを目的として、女子の完全な能力開発及び向上を確保するためのすべての適当な措置(立法を含む。)をとる。
以上のとおり、この条約は、あらゆる場面での女性差別撤廃という観点から、各締約国の、憲法にも法律にも切り込むことを任務としている。そのことを承知で、日本も締結しているのだ。内政干渉という非難は筋違いである。
また、第1条に「女子に対する差別」の定義がある。
皇位の承継が男系男子に限られ、女子が皇位を継承できないのは、「社会的、文化的分野」における、「性に基づく区別、排除又は制限」であることは自明である。しかも、象徴とされた天皇が男性に限られ、天皇の子として生まれても、女性は皇位の承継から排除されている現状は、国民意識に男尊女卑の遺風を残存させることに影響は大きい。
仮に、皇室典範の立法者である国会に、典範作成の目的が女性差別にはないとしても、国民意識に男尊女卑の遺風を刷り込む、その効果さえあれば、「是正されるべき女性差別」なのである。
「女性は天皇になれない、これは女性差別だ」。女性差別撤廃委員会(CEDAW)はそう考えて、差別を是正するよう勧告案を起草したのだ。今回は手続的な不備があったのかも知れない。今回は撤回となったが、次の機会にはこの勧告が現実のものとなり、さらには国会の審議で皇室典範の改正が実現することを望む。
重ねて言うが、私は、天皇制不要論者である。だが、現行憲法に天皇の存在が明記されている以上は、天皇制廃棄は将来の課題でしかない。そのような時代に、女性天皇はあってもよいではないか。女性天皇が就任すれば、性差に関する国民意識を大きく変えることになるだろう。
敢えて言えば、男系男子皇位承継主義は男尊女卑意識の象徴である。ここに切り込んだ女性差別撤廃委員会(CEDAW)の慧眼に敬意を表したい。
(2016年3月23日)
昨日(3月21日)防衛大学校の卒業式が行われた。壇上正面に大きな日の丸。学問の自由とも、本来的な意味での教育とも無縁のこの場である。「日の丸」も「君が代」も、そして安倍晋三の出席も違和感がない。
安倍晋三が自衛隊最高指揮官として、かなり長い訓示を述べた。
「卒業、おめでとう。諸君の規律正しく、誠に凛々しい姿に接し、自衛隊の最高指揮官として、心強く、大変頼もしく思います。」から始まり、最後は「御家族の皆様。大切な御家族を、隊員として送り出して頂いたことに、自衛隊の最高指揮官として、感謝に堪えません。お預かりする以上、しっかりと任務を遂行できるよう、万全を期すことをお約束いたします。…平素から、防衛大学校に御理解と御協力を頂いている、御来賓、御家族の皆様に、心より感謝申し上げます。」と締めくくられている。
軍隊大好きのアベ訓示には美辞麗句が連ねられているが、防衛大学校の学生とは、どうも「規律正しく、誠に凛々しく、心強く、大変頼もしい」存在ではなさそうなのだ。また、自衛隊最高指揮官や大学校当局が、「学生をお預かりした責任に万全を期している」とは到底言い難い。安倍晋三は、「御家族の皆様」に感謝ではなく謝罪しなければならない立場にあるようだ。
今年の防大の卒業生は419人。その中での卒業後自衛官への任官を辞退する「任官拒否者」は47人、11%に達した。昨年に比べ2倍近い。このことが戦争法の影響と話題になっている。入学時は500人程度であったはず。卒業に至らなかった80人ほどの退学の理由にも関心をもたざるを得ない。しかし、格段に大きな衝撃は、防大生間の陰湿なイジメが明らかになったことである。しかも、そのイジメの内容が半端なものではない。こんなイジメをする連中には、およそヒューマニズムの片鱗もない。反知性的で、反社会的で、凶暴きわまりない。武器を扱う者たちの本性がこれだとすると、自衛隊とは恐るべき暴力集団と警戒を要する。
これまでも、自衛隊内の上官から部下に対するイジメが話題となったことはすくなくない。そのことによる自殺もあった。しかし、隊内エリート育成機関でのイジメは、これと質を異にする。自衛隊という組織の基本性格を形づくるものと指摘せざるを得ない。
この卒業式に先立つ3月18日、20代の男性が3697万円の損害賠償を求めて福岡地裁に提訴した。提訴後、この若者の母親が、記者会見して訴状の内容を語っている。
原告は、上級生のイジメ(正確には暴行あるいはリンチというべきだろう)に遭って、退学を余儀なくされた元防大生。被告は、国と暴行実行の上級生8名である。
朝日によれば、提訴の内容は以下のとおりである。
「防衛大学校(神奈川県横須賀市)の学生だった福岡県内の20代男性が、上級生らから暴行や嫌がらせを受けてストレス障害になり退学を余儀なくされたとして、当時の学生8人と国に計約3697万円の損害賠償を求めて18日、福岡地裁に提訴した。
訴状によると、男性は2013年4月の入学直後から、上級生らに「学生指導」と称して殴られたり、アルコールを吹きかけ火をつけられたりする暴行を繰り返し受けたほか、写真を遺影のように加工して通信アプリ「LINE」に流されるなどした。男性は「重度ストレス反応」と診断され、14年8月から休学。昨年3月に退学した。
男性側は「教官も学生間の暴力行為やいじめを認識していたのに、対策を怠った」などと主張。防衛大を設置する国にも賠償を求めている。
男性は14年8月、上級生や同級生計8人を傷害容疑などで横浜地検に刑事告訴。同地検は昨年3月、うち3人を暴行罪で略式起訴し、横浜簡裁が罰金の略式命令を出した。防衛大は今年2月、新たに関与が判明した学生を含め3?4年生12人と、当時の教官ら10人を処分した。
男性の母親(50)が18日、福岡市で会見し、『息子は自衛隊員になりたくて防衛大に入った。こんなことがあると知っていたら行かせなかった』と語った。防衛大学校は『再発防止に取り組んでいますが、訴状の内容を確認しておらずコメントは控えます』としている。」
毎日新聞の報道も同旨。以下は抜粋。
「防衛大学校の学生寮(神奈川県横須賀市)で起きた暴行事件を巡り、被害者で福岡県内に住む20代の元男子学生が18日、『上級生らからいじめを受け、大学側も適切な対応を怠った』として、国と上級生ら計8人に慰謝料など計約3690万円の賠償を求める訴訟を福岡地裁に起こした。
自衛隊内の暴力を巡っては、海上自衛隊呉基地(広島県呉市)の2等海尉が自殺未遂した問題で、両親が先月、山口地裁に提訴したばかり。
防衛大の教官については『暴行を認識しつつ、助けたり予防したりする対策をとらなかった』として安全配慮義務違反を主張している。元学生は体調を崩し14年8月から休学し、15年3月に退学した。」
本日(3月22日)付赤旗の報道がさらに具体的な内容を伝えている。
「原告の元学生が本紙の取材に応じ、胸中を語りました。
元男子学生は2013年4月に入学し、学生寮に入寮。しかし同年6月から14年5月にかけて上級生らから受けたのは『指導』と称して殴る、蹴るなどの暴行と、ロッカーにある私物を荒らされるなどのいじめの繰り返しでした。
『指導』は上級生らの気分しだいで繰り返されるといいます。元男子学生が、なかでも耐えられなかったことは、放課後に上級生から『風俗店にいき、写真をとってこい』という「指導」でした。
元男子学生が「行けない」と拒むと、「罰」がまっています。仰向けに寝かされ、上級生らが上から足で思い切り踏みつけてきます。
こうした暴行には「ネーミング」があります。例えば「○○ファイヤー」。下半身にアルコールをふりかけ、それに火をつけるという蛮行です。
熱さと痛みに耐えられず消そうとすると「まだ我慢しろ」と上級生の罵声が襲ったといいます。
理不尽ないじめと暴行に、思い悩んだ末に学校のカウンセラーに相談しましたが、返ってきたのは「1カ月我慢すればなくなる、辛抱しろ」という言葉でした。」
元男子学生は、振り返ります。「あのときはもうだめだ、と思った。最後の頼みの綱が切られた」。心身ともに絶望のふちに立たされ、『重度ストレス反応』と診断されました。14年8月、家族とも相談し休学しました。あわせて上級生ら8人を横浜地検に刑事告訴しました。同地検は15年3月、上級生3人を暴行罪で『略式起訴』し、残りの5人は起訴猶予にしました。横浜簡易裁判所は3人に罰金を命じました。
元男子学生は、防衛大を昨年3月に退学しました。被害体験から自衛隊への見方、考え方も大きく変化したといいます。
「実家の福岡が水害にあったときに、自衛隊が住民の救援のために働く姿をみて共感、自分も自衛官になると考えた。高校卒業で国立大学も合格していたが防衛大学校を選んだ。しかし入学して厳しい上下関係を利用した陰湿ないじめ、暴行の限りを尽くす上級生。これを容認する学校側の体質は許せなかった」
原告の元学生は2013年の入学である。この年彼をいじめた2年生が、今年(2016年)卒業している。神妙にアベの訓辞を聞き、帽子を投げた372人(任官拒否者は卒業式に出席できない)のなかに、彼に暴行を働いた者がいる。被告となっている者もいるはずだ。おそらくは、別の場面で別の下級生にイジメを行っていた者もいるに違いない。
「防衛大学校は、自衛隊のリーダー(幹部自衛官)を育成する日本で唯一の大学教育機関です。」と同校ホームページが言っている。卒業して任官すると直ちに曹長となり、半年で三尉となる。下級生をいじめた者が、そのメンタリティをもったまま、兵を指揮する立場に立つことになるのだ。必然的に、隊全体がイジメの体質をもつことになる。
こういう、隊内のイジメの体質は、旧軍時代からの傳統の受継というべきものなのだろう。軍隊とは、戦争をするための組織。戦争はお互いに相手を殺し合うこと、人間性や人権意識があってはなし得ることではない。敢えて不合理な蛮行を日常化する体質や感覚が必要なのだろう。仮に、旧軍からの傳統の受継でなければ、「軍隊というものは、理不尽に慣れなければならない。ようやく自衛隊幹部も一人前に理不尽なことができるようになってきた。それでこそ本来の軍隊に近づいてきた」と言うことなのだ。
(2016年3月22日)