澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「共謀罪」とは、曖昧模糊な条文をもってなんでも処罰可能とすることを本質とする。

本日(2月28日)、「組織的犯罪処罰法等の一部を改正する法律案」が発表された。いよいよ、政権はこの3月10日に、閣議決定を経て共謀罪の法案提出の意向を固めたのだ。いつものパターンのとおり、強権アベ自民と下駄の雪公明の巧妙タッグによるもの。

発表されたのは、「法律案の概要」と「改正法案条文」、そして「新旧対照条文」である。その「法案の概要」(正確な標題は、「組織的犯罪処罰法等の一部を改正する法律案の概要」)に目を通しておこう。A4の一枚ものだが、ここにも共謀罪の本質的な危険性が表れている。

「概要」には、冒頭に3行のリードが掲記されている。どのような理由があって、どのような法改正を行うかをまとめたものだ。
「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約の締結に伴い、実行準備行為を伴う組織的犯罪集団による重大犯罪遂行の計画等の行為についての処罰規定、犯罪収益規制に関する規定等を整備する。」というもの。分かりにくい文章だが、よく読んでみれば文意を把握できないではない。

文意が把握できれば、真偽の判断も可能だ。「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約の締結に伴い」という立法理由はウソだ。「実行準備行為を伴う」が、これまでの批判をかわそうという魂胆。「重大犯罪遂行の計画」が、これも対象を絞りましたというアピール。「等」が曲者。いずれにしても、「共謀罪」の新設宣言なのだ。

3項目の具体的内容の第1項目が、政権の悲願である「共謀罪の新設」である。しかし、そのような言葉は使われていない。政権は、共謀罪の呼称を「テロ等準備罪」としているが、ここには「テロ」も「テロの回避」も書かれていない。まずは発表のとおりの文章を紹介しよう。

1 実行準備行為を伴う組織的犯罪集団による重大犯罪遂行の計画の罪の新設〔組織的犯罪処罰法〕

別表第四に掲げる罪に当たる行為であって、①組織的犯罪集団(団体のうち,その結合関係の基礎としての共同の目的が別表第三に掲げる罪を実行することにあるもの)の団体の活動として,当該行為を実行するための組織により行われるもの,又は②組織的胞罪集団の不正権益の獲得等の目的で行われるものの遂行を二人以上で計画した者は、計画に基づき犯罪を実行するための準備行為が行われたとき処罰するものとする罰則を新設[計画をした犯罪の法定刑が死刑又は無期・長期10年を超える懲役・禁錮の場合は5年以下の懲役・禁錮、それ以外の場合は2年以下の懲役・禁錮]

この文章を一読して理解できた人は、自分の日本語読解能力の異常性を恐れなければならない。あなたはおかしいのだ。巷の「文章読本」の類は、「美しくも読み易い品格ある文章を志す者は、悪文に近づいてはならない」として、法律(家)の文章を悪文の典型として挙げるのが常である。法律(家)の文章にも、出来不出来のあることは避けられないが、この文章は悪文の最たるものではないか。これを理解できる方が、おかしいのだ。

理解に努力しよう。まずはタイトル。
「実行準備行為を伴う組織的犯罪集団による重大犯罪遂行の計画の罪の新設〔組織的犯罪処罰法〕」とは、現行の〔組織的犯罪処罰法〕を改正して、これまでにない罪を新設する。その罪の名は、「実行準備行為を伴う組織的犯罪集団による重大犯罪遂行の計画の罪」というのだ。

お分かりだろうか、「実行準備行為を伴う組織的犯罪集団による重大犯罪遂行の計画の罪」という表現。

犯罪主体は、「組織的犯罪集団」のようである。
行為は、「重大犯罪遂行の計画」のごとくである。
では、「組織的犯罪集団による重大犯罪遂行の計画の罪」で良さそうなものだが、「実行準備行為を伴う」が目玉なので、これを冒頭にもってきた。

だから、「実行準備行為を伴う」という修飾語句が、「組織的犯罪集団による」を飛び越して、「犯罪遂行の計画」という被修飾語句と離れてしまっているから、文意がとりにくい。

それだけではない。「実行準備行為」とはなにか、「伴う」とは何か、「組織的犯罪集団」とは何か、「重大犯罪」とは何か、「その遂行の計画」とは何か。さっぱり分からないのが、当たり前。このわかりにくさ、曖昧さ。これこそが「共謀罪」の本質であり、その危険性の根拠なのだ。

本文は、さらに分からない。理解のためには、もっと努力が必要だ。改行で文の構造を明確化してみよう。

次の罪(共謀罪)を新設する。
別表第四に掲げる罪に当たる行為であって、
 ①組織的犯罪集団の団体の活動として,当該行為を実行するための組織により行われるもの、または
 ②組織的犯罪集団の不正権益の獲得等の目的で行われるもの
の遂行を二人以上で計画した者は、
 計画に基づき犯罪を実行するための準備行為が行われたとき処罰するものとする罰則を新設

なお、「組織的犯罪集団」とは、(団体のうち,その結合関係の基礎としての共同の目的が別表第三に掲げる罪を実行することにあるもの)のことをいう。

また、罰則は、「計画をした犯罪の法定刑が死刑又は無期・長期10年を超える懲役・禁錮の場合は」5年以下の懲役・禁錮とし、「それ以外の法定刑の犯罪の場合は」2年以下の懲役・禁錮とする。

文の構造は分かったこととして、実は、具体的にいかなる場合のいかなる行為が処罰対象となるかの肝腎なところは曖昧にして模糊のまま。実のところは、曖昧であるから、権力にとって使いやすく、市民にとっては恐るべき凶器なのだ。

刑法学の教科書を開くと、その第1頁の冒頭で、刑法の人権保障機能が語られる。権力の恣意的な刑罰権発動を防止するために、刑法典は厳格な犯罪構成要件を定めめている。もちろん、これに該当しない行為を処罰することを禁じて市民の人権を擁護しているのだ。

だから犯罪構成要件は明確であることが必要である。構成要件としての行為も結果も日常用語でだれにも分かるように書かれていなければならない。構成要件的行為は、「人を殺す」「他人の財物を窃取する」「放火する」などの、日常生活における行為とは区別された定型性を持っている。だから、実行行為の着手があったか否かの判断は明瞭である。実行行為に着手して結果が発生すれば既遂、しなければ未遂。実行の着手の有無が、通常は犯罪となるかどうかの分水嶺である。

ところが、共謀罪は、実行行為着手前の犯罪の計画段階で処罰しようとするもの。実行行為への着手のない段階で、犯罪としての定型性を欠いた日常行為を犯罪の準備行為として処罰対象とする立法なのだ。近代刑法の原則からは、乱暴きわまるものと言わねばならない。何をもって犯罪の実行行為となるか予想が付かないことが、共謀罪の共謀罪たる所以なのだ。だから、何が犯罪になるかを明確に記すことができない。むしろ、曖昧でなんでも処罰可能なところに、その本質があることを見極めなければならない。

なお、新設の罪の数は従来案では676に上ったが、今回法案の別表第四では91法律の277罪まで減らしたとされている。だから、大した弊害はない? とんでもない。刑法の人権保障機能が崩れるのだ。小さく生まれて大きく育った治安維持法の例も学ばなければならない。
(2017年2月28日)

DHCサプリメントを買ってはいけないー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第101弾

沖縄が心配だ。辺野古新基地建設の工事が本格的な進行を始め、巨大なコンクリートブロックがつぎつぎと海に沈められて珊瑚礁を破砕している。反対派の現地リーダー山城博治さんは逮捕されて勾留4か月にも及ぶ。そして、本土からの沖縄に対する差別意識丸出しで、沖縄の平和運動に対するデマを垂れ流したMXテレビのニュース女子報道に対する制裁が見えてこない。

本土の我々がもっと沖縄に目を向けなければならない。政権と対峙している沖縄の平和運動を支援しよう。そのような無数にある運動体の一つとして、「基地のない平和な沖縄をめざす会」がある。私は、会費を払って機関誌を読むだけの会員だが会の発足直後から20年近く、手作りの機関紙『沖縄』を読み続けている。典型的なミニコミ紙だが、今号が236号。ともかく、継続していることに頭が下がる。

この『沖縄』のメインスローガンは、「沖縄の心を一つに~『建白書』を実現し、未来を拓く『オール沖縄』のたたかいに連帯します。」というもの。そして、毎号下記のサブスローガンが並んでいる。

オスプレイ配備撤回!
普天間無条件返還!
沖縄基地全面返還!
辺野古新基地建設阻止!
憲法改悪反対・日米安保条約廃棄!
高江ヘリパッド建設阻止!
伊江島基地拡張反対!

曖昧さなく、「普天間無条件返還」「沖縄基地全面返還」「日米安保条約廃棄」と言っているところに好感。

2017年2月20日発行の第236号の最も目につく記事が、「DHCとTOKYO MXテレビ」と標題した、次の寄稿。じっくりお読みいただきたい。

「DHCの化粧品を見かける機会は少ないが、DHCの『健康食品』とやらはコンビニエンスストアにいっぱい並んでいる。これらの売り上げ利益で、真っ赤なウソ番組をつくってそれを東京MXテレビが流し、『人を殺す基地は、もういらない』と崇高なたたかいを続ける沖縄の人々、身銭やカンパで遠くからも駆けつける人々を侮辱した。侮しくて涙が出る。
あの『健康食品』とやらには毒がはいっている、そんな気がしてしまった。日当を払って情け容赦もない人権無視の弾圧をさせているのは、安倍政権である。
ますます負けられないたたかいになった。思いだけがつのってかけつけられないのがツラいけど、私は、DHCと東京MXテレビに抗議する!!
『私達は、私達の上地に、海に、基地をつくるな』と当たり前のことを言っているだけである。それを踏みにじるモノに抗議しているだけである。みっともない番組をつくって国民をだまさないで下さい!」(上原文子)

気持ちのあふれた一文ではないか。まったくそのとおりだと肯かざるをえない。寄稿者については知らない。「上原」は沖縄に多い姓。「私達の土地に海に、基地をつくるな」という言葉遣いからは沖縄出身者かも知れない。市井のひとりの声として、人々を励ます文章になっている。

その指摘のとおり、「DHCは『健康食品とやら』の売り上げ利益で、デマ番組をつくっている」。まったくそのとおりだ。だから、DHCの製品を買ってはならない。DHCの『健康食品とやら』を買うことは、デマとヘイトの番組の作成に加担することだ。沖縄に新基地を作らせてはならないと思う人、大浦湾の美ら海を守ろうと思う人は、けっしてDHCの製品を買ってはならない。

その『健康食品』とやらには毒がはいっている気がする」。これも同感だ。もちろん、比喩としての「毒」。平和運動への猛毒だ。また、それだけでなく、あらゆるサプリメントがけっして安全を保障されてはいないことが、今や健全な常識になっている。食品から普通に摂取している限りは安全な成分も、サプリメントに高濃度に詰め込まれれば、生体に危険ものとなりうる。その意味では「毒」は適切な表現なのだ。

本土から派遣の警察官に日当を払って、情け容赦もない人権無視の弾圧をさせているのは、安倍政権である」。これもご指摘のとおりだ。平和運動への敵意の点で、アベ政権と、DHC、TOKYO MXとはつがっている。それだけではない。安全性確認不十分なサプリメントの出荷量拡大をアベノミクスの第3の矢に位置づけている点でも、アベ政権とDHC、TOKYO MXとは利益を共通にしているのだ。

私も、一緒になって声を上げよう。平和のためのたたかいを続ける沖縄の人々やカンパで遠くから駆けつける人々を侮辱したDHCと東京MXテレビへの抗議の声を。そして、根本原因を作っているアベ政権への抗議も。

「みっともない番組をつくって国民をだまさないで下さい!」。
そして、「人を殺す基地は、もういらない」と。
(2017年2月27日)

日の丸・君が代の強制は、憲法20条(信教の自由)違反である。

「君が代裁判・4次訴訟」で、今月末を期限とした最終準備書面の作成に忙しい。私の分担部分の憲法20条(信教の自由)侵害論の一節(第3部 第2章 第2)を要約してご紹介したい。もちろん、違憲の根拠として主張しているものは、20条だけではない。19条もあれば、23条も、26条も、13条も、そして99条もある。20条は論点としては隠れがちだが、決しておろそかにしてはならない。以前にも申しあげたが、多くの人に、何を問題にしているかを知っていただきたい。その一端である。

※原告らの中には、自らの信仰ゆえに「日の丸・君が代」に対する敬意表明の強制に服しがたいとする複数の者がいる。
当該信仰をもつ原告らに対して、国旗に向かって起立し国歌を斉唱することを強制する10・23通達、同通達に基づく職務命令、そして当該原告に対する本件各処分は、いずれも当該原告の信教の自由を侵害するものとして、憲法20条に違反する。
また、その余の信仰をもたない原告らについても、国旗に向かって起立し、国歌を斉唱せよとの強制は消極的な信教の自由(信仰をもたず、信仰を強制されず、一切の宗教的関わりからの自由)を侵害するものとして、同じく憲法20条に違反する。

※ 信教の自由は、憲法史において、常に基本権カタログの先頭に位置するものであった。近代憲法における精神的自由はなによりも信教の自由を意味し、王権や為政者に対して被治者の信教の自由を認めさせるために近代憲法が成立したとさえ語られる歴史的事実の積み重ねがある。
しかし、我が国においては、20世紀の中葉まで信教の自由はなかった。1889年制定の大日本帝国憲法28条は「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背サル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」とし、天皇制を支える国家神道に抵触しない範囲でしか信教の自由は認められなかった。
その結果、国体思想に抵触する信仰は、天皇の神聖性を毀損することから「安寧秩序ヲ妨ケ」るものとして苛酷な宗教弾圧の対象となった。また、すべての国民に対して、明らかな宗教行事である神社参拝や宮城遙拝が「臣民タルノ義務」の範疇の行為として強制された。
日本国憲法は、旧憲法体制が国民の信教の自由を蹂躙した過去の反省から、憲法20条1項前段に、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」と厳格な信教の自由保障の規定をおき、その2項で「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」と明記した。

※ 「日の丸・君が代」は、大日本帝国の慣習法上の国旗国歌であった。大日本帝国が国家神道という特殊な宗教教義に基づく宗教国家であった以上、「日の丸・君が代」は、国家の象徴であるだけでなく国家神道という宗教上のシンボルでもあった。「日の丸・君が代」は、天皇の祖先神と現人神としての現天皇の弥栄を祈念する宗教儀式に必須の存在としての宗教的性格を持つ旗であり歌とされた。
日の丸は、太陽神を象形した宗教的デザインである。その象形が国家神道のシンボルとされたのは、天皇の祖先神(皇祖)であるアマテラスが太陽信仰に由来するところからとされる。また、君が代の歌詞は、神なる天皇の治世が代々継承して永久に続くように、という宗教的な祝祭歌である。
20世紀中葉まで、そのような意味付けをされていた「日の丸・君が代」は、象徴天皇制の日本国憲法下、かつての「日の丸・君が代」の宗教的性格を払拭し得ていない。とりわけ、自らの信仰を持つ者にとっては、「日の丸・君が代」が公的に宗教と結びついていた時代の記憶はいまだに生々しい。のみならず、現在なお天皇とその祖先を神と祀る宮中の皇室祭祀が連綿と継承され、これに追随する全国の神社神道が社会に根を下ろしている今日、「日の丸・君が代」をアマテラス信仰やアラヒトガミ信仰と切り離して考えることのできない現実的な社会基盤がある。

※ 信仰者である原告らにとっては、「日の丸」も「君が代」も、自らの信仰と厳しく背馳し抵触する存在であって、信仰という精神の内面の深奥において、この両者を受容しがたく、強制に服することができない。
このような信仰を有する者に、「日の丸・君が代」を強制することによる精神の葛藤や苦痛を与えてはならない。それこそが、日本国憲法が旧憲法時代の苦い反省のうえに国民に厳格な信仰の自由を保障した積極的な意味である。また、人類史が信教の自由獲得のための闘いとしての一面をもち、各国の近代憲法の基本権カタログの筆頭に信教の自由が掲げられ続けてきた普遍的意味でもある。

※ また、信仰者ではない原告らにとっても、宗教的性格を払拭し得ていない「日の丸・君が代」を強制されることは、信仰を有するものとは違った形で、自己の消極的な信仰の自由の侵害にあたるものである。

※ 「日の丸・君が代」の宗教的性格の有無や宗教的な意味付けの判断は、特定の宗教的行為を強制される側、すなわち被人権侵害者の認識を基準とすべきである。百歩譲っても、被侵害者の認識を最大限尊重しなければならない。人権侵害者の側である公権力においてする意味付けは、ことの性質上まったく意味をなさない。また、一般的客観的な基準によるときには、少数者の権利としての人権保障の意味は失われることにならざるを得ない。
とりわけ留意されるべきは、問題の次元が政教分離原則違反の有無ではなく、個人の基本的人権としての信教の自由そのものの侵害の有無であることである。公権力への禁止規定としての政教分離原則違反に関しては一般的客観的な判断になじむにせよ、基本的人権そのものである信教の自由侵害の有無を判断するに際しては、人権侵害の被害を被っている本人の認識を判断基準としなければならない。

※ 公権力の行使によって、原告らに対して「日の丸・君が代」への敬意表明を強制することが憲法20条に保障された信教の自由の侵害に該当するか否かの判断の過程では、憲法19条についての判断の枠組みと同様、一応は、原告らに対する起立や斉唱という外部行為の強制が、原告らの内面における宗教的信条を侵害すると言えるかが検討の対象となる。
しかし、信仰をもつ原告らについては、その判断の帰趨は自明というべきである。当該原告らにとっては、「他宗の神への礼拝の強制」にほかならず、「日の丸・君が代」に敬意を表明するよう強制されることは、信仰する教義と深く結びついた自己の人格そのものを否定されることであり、精神の深奥にあるものへの受け容れがたい破壊的攻撃以外のなにものでもない。

※ 江戸時代初期に、当時の我が国の公権力が発明した信仰弾圧手法として「踏み絵」があった。この狡猾な弾圧手法は、公権力が信仰者に対して聖像を踏むという身体的な外部行為を命じているだけで、直接に内心の信仰を否定したり攻撃しているわけではない、と言えなくもない。しかし、時の権力者は、信仰者の外部行為と内心の信仰そのものとが密接に結びついていることを知悉していた。だから、踏み絵の強制が信仰者にとって堪えがたい苦痛として信仰告白の強制になること、また、強制された結果心ならずも聖なる像を土足にかけた信仰者の屈辱感や自責の念に苛まれることの効果を冷酷に予測し期待することができたのである。
事情は今日においてもまったく変わらない。都教委は、江戸時代のキリシタン弾圧の幕府役人とまったく同様に、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制が、教員らの信仰や思想良心そのものを侵害し、堪えがたい精神的苦痛を与えることを知悉しているのである。
また、信仰をもたない原告らについても、事情は本質において変わらない。信仰をもつ原告においては侵害されるものが自己の信仰であるのに対して、信仰をもたない原告らにおいて侵害されるものは、特定の信仰の強制や干渉から自由であることである。
踏み絵の強制は、信仰をもたない一般人に対しても精神の静謐に対する被害を及ぼしうる。本来すべての人が、いかなる宗教とも、いかなる態様においても、関わりのなく精神生活を送ることについての自由を有する。「日の丸・君が代」の宗教性が払拭されていない以上は、これに対する敬意表明を強制される原告らは、宗教から完全に自由であるべきとする精神への侵害となるものである。

※ 以上の理は、基本的に「エホバの証人」剣道実技受講拒否事件最高裁判決(1996(平成)8年3月8日最高裁第二小法廷判決民集50巻3号469頁)において最高裁がとるところと言ってよい。
「エホバの証人」を信仰する神戸市立工業高等専門学校の生徒が受講を強制された剣道の授業受講は、一般的客観的には、宗教的な意味合いをもった行為とは言いがたい。しかし、当該の生徒の信仰に抵触する行為として、その強制の違法を最高裁は認めた。宗教性の認定に一般的客観的基準ではなく、被人権侵害者本人基準を採用したものというべきである。

本件でも、事情は同様であり、しかも「日の丸・君が代」への敬意表明という強制される行為は、剣道の授業受講とは比較にならない宗教性濃厚な行為である。(以下略)
(2017年2月26日)

事件名提案ー「豊中アベ疑惑事件」・「国有地払下げ・アベ友疑惑事件」ではどうだろう

言葉は大切だ。用語の選び方次第で、同じものを逆にも見せることができる。そう考えて、自民党は11本の戦争法案を、「国際平和支援法」(1本)と「平和安全整備法」(10本一括)と命名した。「国際平和」であり、「平和安全」である。これが、集団的自衛権行使や海外での自衛隊の武器使用を可能とする戦争法なのだ。そのほかにも、「積極的平和主義」だの、「一般的には戦闘だが法的には衝突」だの、枚挙に暇がない。自民党に倣って、ネーミングには工夫をしよう。

今、ようやく話題となりつつあるあの事件。正確にいえば、「安倍晋三夫婦関与疑惑の極右学校法人新設予定小学校敷地の国有地ただ同然払い下げ事件」をどうネーミングするか。この問題に火をつけた朝日は、「森友学園問題」といっているが、随分と腰の引けたネーミング。「森友学園」は覚えにくいし、覚えるに値しない。これではダメだ。毎日の本日の朝刊は、「大阪市の学校法人『森友学園』が小学校用地として大阪府豊中市の国有地を鑑定額より大幅に安く取得した問題」だ。これも長すぎて使えない。運動の中で使えるような事件名作りに、知恵を寄せ集めよう。

ネーミングは、この事件のどこをどのように主要問題点として把握するかによる。問題点が多岐にわたるとき、そのすべてを盛りこむことはできない。ネーミングに盛りこむべき要素を書き出してみよう。

その1 「アベ関与疑惑」
これが本質的なメインファクターだ。アベが極右勢力と親密で、極右復古主義教育に賛辞を呈していることが何よりの問題。国会でも「学園の教育への熱意は素晴らしいと聞いている」とまで述べている。国有財産ただ同然払い下げという、国からの不当きわまる極右学校法人に対する便益供与。その原因としてアベの関わりが疑われるところ。アベ疑惑として徹底した解明を要するところだ。

その2 「アベ妻疑惑」
臆面もなく、右翼幼稚園教育礼賛を繰りかえし、その広告塔となることで、アベと極右学校法人との橋渡しとなっていたのがアベ妻。「こちらの教育方針は、たいへん主人(安倍晋三)も素晴らしいと思っている。(卒園後)公立小学校の教育を受けると、せっかく芯ができたものが揺らいでしまう」として、新設予定とされた小学校の名誉校長就任を引き受けた。これが、近畿財務局や航空局に影響なかったはずはない。

一昨日(2月23日)に森友学園のホームページから削除された記事では、アベ妻が名誉校長として「理事長の教育への熱い思いに感銘を受け、(名誉校長に)就任させていただいた」「優れた道徳教育を基として、日本人としての誇りを持つ子どもを育てます」と記していた。疑惑を追及されて「名誉校長」の任を放棄して逃げ出したのは不可解。右翼勢力との関係を究明するとともに、アベの取引への関わりの有無について徹底して疑惑を解明しなければならない。

その3 「極右学校法人」疑惑
森友学園が経営する塚本幼稚園の極右復古主義教育の内容はすさまじい。理事長の個人的な政治的主張のために、子どもたちに皇室や自衛隊礼賛の旗振りをさせて手駒として使っている。また、極右にふさわしいヘイト文書や、児童虐待等々が報道されている。その一つ一つを徹底して事実究明していくことが必要だ。すなわち、アベ夫妻が共鳴し褒めたという教育の実態を明らかにしなければならない。

その4 「国有財産ただ同然払い下げ」疑惑
当初は右翼法人が定期借地権を設定して国から借地し、土地の汚染除去を理由に1億3200万円を国に支払わせ、次いで埋設ゴミ除却費用分8億円を値引かせて1億3400万円で払い下げを受けたという。結局のところ、この右翼法人は、わずか200万円で9億5000万円相当の不動産を手に入れた。当初は、隠蔽されていたこのような国有財産管理のからくりの究明が必要だ。アベの存在あればこそ、このような破格の、あるいは通常は考えられない馬鹿げた不当取引が実現したのだろうと考えざるをえない。何らかのかたちでアベが口を利いたのか、あるいは、学校側がアベの存在をチラつかせたか、それとも近畿航空局側が勝手にアベの意向を忖度したか。徹底して洗い出す必要がある。

その5 「私立小学校設立認可(予定)」疑惑
財政状態劣悪な森友学園がどうして、私学審で「認可適当」となったのか。この点も、きちんと解明されなければならない。また、入学希望予定生徒の保護者は、広告塔として利用された安倍夫妻の推薦によってこの学校を選択したのか否か。そして、既に入学金や寄付金を支払っているのかどうか。

その6 その他にも、豊洲同然の校地土壌汚染問題あり、南スーダンPKO同然の書類破棄問題あり、公開請求に棄却決定の問題まである。

これらの「疑惑点」を繋げると、寿限無の如く、「安倍晋三夫婦関与疑惑の極右学校法人新設予定小学校敷地の国有地ただ同然払い下げ・その他付随疑惑事件」となる。思い切ってハサミを入れよう。

飽くまで中心のテーマは、学校法人が右翼的思想で安倍首相と通じていたから、特別のはからいを受けたのではないか。それでなくては、こんなに安くし、こんなに秘密にした理由の説明はつかない、という政治的な疑惑。

当ブログでは、最初「学校法人『森友学園』の『アベ友疑惑小学校』設立認可問題」とし、その後「『アベ疑惑小学校』設立問題」とした。最終的には、学校認可問題と思ったのだが、修正しなけばならない。

「国有地ただ同然払い下げアベ友疑惑事件」ではどうだろうか。長すぎるのなら、「国有地払い下げアベ関与疑惑」。これでも長ければ、「豊中アベ疑惑事件」「国有地払下げ・アベ友疑惑事件」ではどうだ。
(2017年2月25日)

公権力は主権者国民に、国旗国歌への敬意表明を強制する権限をもたない

「君が代裁判・4次訴訟」は、次回3月15日期日に結審して判決を迎える。
弁護団と原告団は、今月末を期限とした最終準備書面の作成に忙しい。本日も、各自の分担原稿を持ち寄っての検討会議がほぼ3時間。私の分担もなんとか間に合いそうで、胸をなで下ろしているところ。

とはいえ、書面を書いているとあらためて腹が立ってくる。どうして国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明強制などという馬鹿げたことがまかり通るのだろうか。人権の砦であるはずの最高裁が、どうしてしっかりと違憲判断をしないのか。教育は、現場の教員のはつらつたる力量と連帯感あってのものだ。真面目な教師ほど悩まざるをえない環境の中、教育が公権力に絡めとられ、教師の連帯が切断されていく。明日の主権者を育成する教育の力が著しく低下しているではないか。

腹を立てつつも、裁判に絶望するわけにはいかない。弁護団も原告団も懸命だ。私の分担部分の一節を要約してご紹介したい。多くの人に、何を問題にしているかを知っていただきたいのだ。その一端である。

※公権力行使における権限の踰越
そもそも公権力は、国旗国歌に対する敬意表明を、公務員を含む国民に強制する権限をもたない。
(1) 国旗に対して起立し国歌を斉唱することは、国旗国歌に対して敬意を表明する行為である。少なくとも、主として敬意表明の行為としての側面(ないし要素)を主とする行為である。
起立斉唱の強制に関する一連の最高裁判決は、「一般的、客観的に見ても、国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為であるということができる」と述べている。職務命令を発して国旗起立・国歌斉唱を命じ、その違反に懲戒処分を科することは、その処分軽重の程度にかかわらず、「国旗国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為」を義務付けて懲戒処分によりこれを強制することにほかならない。

(2) 一連の最高裁判決は、前述のとおり「国旗国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為」であることを認めながら、いわゆる間接的制約論を展開して、制約可能性の拡大に途を開いてしまった。しかし、そもそも「敬意」という価値観ないし道徳的評価を公権力が個人に強制することは許されない。このことは、間接的制約論のかげに隠れてしまって、最高裁でも論じられないままになってしまっているが、本来は、司法が真正面から答えなければならない問題である。

(3) 国旗国歌に対する敬意表明の要素を含む行為の強制が、「式典における慣例上の儀礼的な所作として」おこなわれるからといって、許容されるということはできない。儀礼的所作の面があるとしても、それと当時に、敬意表明の要素を含む行為であることは、最高裁判決も認めるとおり、否定しがたいところである。
最高裁愛媛玉串料大法廷判決(最大判平成9年4月2日民集51巻4号1673頁)は、「本件の玉串料等の奉納に儀礼的な意味合いがあることも否定できない」としつつ、「そのことゆえに、地方公共団体と特定の宗教とのかかわり合いが、相当とされる限度を超えないものとして憲法上許されることになるとはいえない」と判断している。同じ法理が本件にも妥当しなければならない。

(4) 国旗国歌に対する敬意表明は国家に対する敬意表明にほかならない。
国旗国歌は、国旗国歌法によって定められた国家制度としての国家シンボルである。シンボルとは、形のない抽象的存在を形のある物体に具象化したものである。国旗国歌は、国家という抽象的存在を、旗や歌という感覚で把握可能なものに具象化して表現したものである。
旗と歌という国家のシンボルに対して敬意を表明する行為は、それが象徴する国家そのものに敬意を表明する行為にほかならない。

(5) 国旗国歌に対する敬意表明の強制は憲法的秩序に違背する背理である。
ア 憲法はその前文で、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基づくものである。われらはこれに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」と宣明している。国家の権威は国民に由来する。けっしてアプリオリに存在するものではない。神から与えられるものでもなく、あくまでも国民に由来する。
国家の権威は、国民から強権的に調達しうるものではないく、国民の任意の意思に依拠する権威であってこそ、国家の権威は正当化されるのである。
さらに、憲法は第1条で国民主権を、第13条で個人の尊厳を宣明する。国家の主人は国民であって、国家が国民の主人ではない。個人の尊厳の尊重と人権擁護こそが国家の存立意義であって、国家のために個人があるのではない。これらが憲法の予定する憲法的秩序である。この憲法的秩序は、公権力を規制する憲法の根本原理によって保たれる。憲法の条項としては、憲法前文とともに第99条(公務員の憲法尊重擁護義務)がそのことを明定する。

イ 敬意を表明するとは、対象の権威を承認するという意味である。したがって、国家シンボルである国旗国歌に敬意を表明する行為は、国家それ自体の権威を承認してその受容を確認する行為としての意味を持つ。
国旗国歌に対する起立斉唱によって国家に対する敬意を表明し、その都度、個人が国家の権威を承認してその受容を自発的に行う限りは、個人の自由であり問題が生じる余地はない。
ところが、これを公権力が「強制」するとなれば、様相が一変する。それは、国家が国民に対して、国家の権威を承認しこれを受容することを強制することになるからで、近代立憲主義を標榜する国家のなし得ることではない。国家の権威を受容せよと個人に「強制」することは、権威の源泉である国民に対して、権威の受容を「強制」する倒錯といわねばならない。このような国家の権威の由来をめぐる倒錯は、憲法的秩序に明確に反する背理である。

ウ 国民こそが主権者であつて、国家の権威を受容することも、受容しないこともできる地位にある。断じて、国民は、国家の権威の受容を強制される立場にはない。これを認めれば、立憲主義が崩壊する。したがって、その強制は国家の権威の正当性を否定する論理とならざるをえず、その意味でも背理となる。

エ したがって、公権力が、国旗国歌への敬意表明を呼びかけることはよいとして、その行為を行わない者に不利益処分を科してこれを「強制」することは、立憲主義からの逸脱として、公権力が本来なしうる限界を超えるものである。

(6) 公務員に対しても強制はできない
ア 一連の最高裁判決は、前記間接的制約が「許容し得る程度の必要性及び合理性が認められる」と判示するなかで、「住民全体の奉仕者として法令等及び上司の命令に従って職務を遂行すべきこととされる地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性に鑑み」と述べている。
公権力が強制しうる権限の限界を超えるという前述の原告らの主張に対しても、市民・国民一般と公務員(地方公務員・教育公務員)とを峻別し、「住民全体の奉仕者」「地方公務員の地位の性質及び職務の公共性」が主張されると思われる。すなわち、一般に国民・市民に対しては国旗国歌に敬意を表明することを強制できないとしても、公務員(地方公務員・教育公務員)は話が別で、住民全体の奉仕者であり権力機構内部の一員なのであるから、公務員に対しては、国旗国歌に対する敬意表明を強制することができる、という主張である。
しかし、これに対する反論としては、次の4点で足りる。

イ 第1に、原告らの主張は、立憲主義からの逸脱ゆえに公権力が本来なしうる限度を踰越しているとするものであって、これは、特定の名宛人との関係についてではなく、当該の公権力行使を一般的に違憲とするものである。言い換えれば、だれに対しても、そのような公権力の行使は憲法適合的にはなしえない。
そもそも、公務員としての身分を有しない一般国民に対する関係では、国旗国歌への敬意表明の「強制」はあり得ない。これは、ただ単に根拠法規がないというレベルの問題ではなく、国家の権威の由来に関する倒錯であり、立憲主義の論理に悖る背理であるからこそ、憲法がその「強制」を許容しないのである。学校儀式においては、参列の生徒や保護者、来賓への起立・斉唱の強制は当然に違憲である。
それでは、教育公務員である教職員に対してならば、公務員法等を根拠として職務命令という形での強制が可能になるのであろうか。
そのようなことはありえない。立憲主義の原則を逸脱した公権力の行使は、名宛人の属性如何に関わらず違憲であり権限を欠くものであるから、当然に不可能と言わなければならない。

ウ 第2に、公務員だからといって国家に対する敬意表明を強制できるとする考え方は、憲法的秩序にそぐわないというべきである。
くり返しになるが、国家シンボルである国旗国歌に対する敬意表明は、そのシンボルが象徴する国家に対する敬意表明にほかならない。そして、国家に対する敬意を表明する行為は、国家の権威を承認することである。
しかし、日本国憲法は、国家の権威を承認することを公務員に対して当然に要求しているわけではない。憲法が公務員に対して求めていることは、この憲法を尊重し擁護することである(憲法99条)。
憲法が公務員に義務づけているのは、あくまでも憲法を尊重し擁護することに限られるのであって、憲法は、国家の権威の承認の義務付けを認めてはいない。
したがって、公務員だからといって、国家に対する敬意表明を義務付けてもよいと考えることは、憲法的秩序から逸脱するものといわねばならない。

エ 第3に、「住民全体の奉仕者」であることは、公務員からその「国民」性を奪い去ってしまうものではない。
前述のとおり、国家の権威は国民に由来するのであり、国家の権威を受容せよと国民に「強制」することは、権威の源泉に対して権威の受容を「強制」する倒錯となる。そのような「国民」であることは、公務員になったからといって、消えてなくなるわけではない。
公務員であっても、国家の権威がそれに由来する「国民」であることに変わりはないのであって、公権力が公務員である個人に対して国家シンボルに対する敬意表明を強制すれば、それは、権威の源泉に対して権威の受容を強制する倒錯であり、公権力がおこなってはならない背理であることに変わりはない。

オ 第4に、公務員たる教職員への「強制」を合憲適法と認めれば、強制された教職員の行為を介在して生徒やその保護者にも、つまりは一般市民に対して国旗国歌への敬意表明「強制」の効果が及ぶ。国民への強制ではないと言いつつも、教員である公務員への「国家への敬意表明の指導の強制」は、卒業式での国旗国歌尊重儀式を通じて、国民全体に強制していることと変わるところはない。
すなわち、教職員に対する「強制」の効果は、生徒や父母、一般市民にまで及ぶのである。このような効果を容認する解釈は、とうてい憲法が許容するところではない。
(2017年2月24日)

「国有財産不正払い下げ疑惑小学校・不名誉校長」辞められるかしら?

サンク・コスト(埋没費用)という経済用語がある。回収不能な既投下費用のことで、その意味自体は分かりやすい。規制緩和を合理化する理論と結びついた概念なのだそうだが、そんな背景とは切り離して、いろんな場面で使われている。

あるプロジェクトの進捗が順調でない場合、撤退するか継続するか、その悩ましい局面でサンク・コスト(埋没費用)が問題となる。撤退すれば、これまでの投下費用がムダにはなるが、それ以上の損失の拡大は防止できる。敢えて事業を継続して成功に到達すれば、これまでの投下費用が生きることにはなるが、さらに費用を追加し損失を拡大して失敗に至るリスクを抱えなければならない。

サンク・コスト(埋没費用)が大きければ大きいほど撤退は困難になる。かつては、戦争や作戦継続のために軍がこの理を使った。「既に莫大な軍事費を投入し、人的資源も損耗した。いまさら方針を変更することはできない」「勝利を見ることのない撤収とあっては、満蒙の地に眠る英霊たちに申し訳が立たないではないか」として、結局のところ破局にまで暴走をかさねた。

原発も同様だ。あれだけの事故を起こしながら、サンク・コストに引きずられて、結局は原発と縁を切れない。なし崩しに再稼働を認めているのだ。この点は、ドイツとの対比が鮮やかだ。

投資でもバクチでも同じこと。これまでの損にこだわって、これを取り戻そうとあがくことが、結局は大損の原因となるのだ。これを「サンク・コスト効果」というようだ。あるいは、「サンク・コストの罠」「サンク・コストの呪縛」などとも。

もし、豊洲移転の方針を撤回して、これ以上、豊洲に金を注ぎ込む愚に終止符を打つことができれば、画期的なことになるだろう。「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」は、道徳律であるよりは、経済原則なのだ。その場合、サンク・コストを生んだ責任を徹底して追及しなければならない。

さて、学校法人「森友学園」の「アベ友疑惑小学校」設立認可の問題について、「サンク・コストの罠」の視点から問題を考えてみたい。新学校開設を推進するか、あるいはここできれいさっぱり断念すべきか。

まずは、子供の立場を考えれば
そもそも、この小学校は社会への不適応児をつくるものと自覚されている。小学校設立の趣旨をアベ妻自身がこう語っている。
「せっかくここで芯ができたものが公立の学校に行くと揺らいでしまう」
ここというのは、塚本幼稚園のことだ。つまり、「せっかく塚本幼稚園で、『大日本帝国万歳』『安倍晋三総理万歳』という右翼教育をしても、小学校に行くと、そんなものは通らない。公立で普通の教育を受けることになれば、雲散霧消してしまう」。だから、サンク・コスト効果が働いて、幼稚園教育を生かした小学校の設立が必要というのだ。しかし、小学校にやれば、次は中学、そして高校。いずれは社会に出なければならなくなる。サンク・コストが大きくなるほど、社会への適応が困難になる。右翼幼稚園教育を継続するか、早めに清算すべきか。できるだけ、早いに越したことはない。設立認可などない方が子供のためだ。

学校法人「森友学園」の立場から
アベ夫妻のご威光のおかげで、学校敷地は国有財産をただ同然で手にすることができた。ここまでは順調で感謝感激。でも、校舎建設費やゴミ処理費用まではただ同然とはいかない。4月開校を前提に教職員の募集をし、これに相当の費用をかけてもいる。当法人の財政規模からは、相当過大な金額の学校開設費用を投じている。学校開設を断念すれば、これらがサンクス・コストとして埋没してしまう。いまさら、敵前逃亡はなしがたい。

さりとて、これから学校を開設するとなれば、生徒が集まるか否かにかかわらず、莫大な維持費がかかることになる。教職員に賃金を支払っていけるだろうか。はなはだ心もとない。これまで経営してきた塚本幼稚園でさえ、生徒の応募状況は募集定員の半数に満たない。新設予定の小学校では、新1年生と新2年生それぞれ80人を募集し入学予定者は1年生が45人、2年生が5人だったが、1年生予定者のうち、朝日の報道があって以来5人が辞退した。騒ぎが大きくなって今後さらに辞退者が増えることも覚悟しなければならない。採算点は60人なのだから、経営的にはまったく自信がない。やっぱり、早めに撤退した方がいいのだろうか。悩みは尽きない。

生徒の保護者の立場から
大事な我が子の小学校選び。安倍総理大臣ご夫妻が肩入れされているということで、立派な教育をしてくれる学校と思ったんです。でも、塚本幼稚園の教育内容をよく聞くとどうもおかしいことだらけ。一人ひとりの生徒が大切にされる雰囲気はないし、話題は、ヘイトスピーチに、児童虐待との報道。園を辞めたり辞めさせたりのトラブルが絶えない様子。

私の場合は、サンク・コストを考える必要はありません。この学校が抱える問題点がよく見えてきた今、もっと安心して常識的な教育を行う小学校に通わせた方がよいと思うようになりました。

昨日の私学審の席では、「避けなければいけないのは、開校したものの児童が集まらずに結果的に運営ができなくなること」「来年以降に児童が集まるのか」「(経営見通しは)みんな危惧している」と、発言が相次いだそうではありませんか。また、「常勤の教職員で小学校の教員経験者が少ない」「カリキュラム内容も不透明」とも報道されていますよね。そんなところに子供をやれますか。きっと、辞退者はどんどん増えていきますよ。

だいたいこの学校の経営がいつまでもつかは疑問だらけ。それにしても、私学審などの討議状況は、秘密にしないで公開していただきたいものですね。あとになって、保護者が、「そんなことを知っていたらこんな学校にやるはずはなかった」と後悔することのないようにお願いします。

アベ妻の立場から
あーあ、こんなことになるのなら、初めから名誉校長なんて引き受けるんじゃなかったわ。塚本幼稚園の教育には、錚々たる右翼のみなさんが関わっているでしょう。私も夫も、右翼は大好きで、教育勅語も五箇条のご誓文も軍歌もヘイトにも何の違和感もないんですよ。でもこれまでチヤホヤしていたマスコミが、突然に寄ってたかって叩き始めて面食らっているの。これでは「名誉校長」とは名ばかり。国有財産不正払い下げ疑惑の「不名誉校長」になってしまったじゃありませんか。

「瑞穂の國記念小學院」「名誉校長」の立場。本当はもう降ろしてもらいたいの。籠池さんは国会に呼ばれるって話があるけど、私はいやですよ。これ以上関わりたくはない。

でも、ここまで関わってしまった今になって抜けてしまうって言うと、右翼のみなさんがどう思われるかしら。せっかくのアベ内閣への右翼筋の信頼がなくなり、支持率がぐんと下がってしまうことにならないかしら。

とはいえ、このまま名誉校長を続けて開校すれば、たくさんの人の批判の的になってしまうことでしょう。アベ内閣のダメージにもなる。それだけでなく。いずれ開校後に財政が破綻して小学校がつぶれれば、そのときの名誉校長への世論の風当たりはこの上なく強いことになる。口さがないメデイァの恰好の餌になります。それなら、小学校の開設認可をストップするか、あるいは名誉校長を辞めるのがよいのでしょうね。

いっそのこと、私学審が小学校開設を認可不適当と答申して、大阪府知事が認可しないのが一番良い。それなら、名誉校長もなくなるし、すべてを私学審のせいにして収まるのではありませんか。
(2017年2月23日)

ヘイトスピーチに、もっと敏感になろう。もっと強く批判しよう。

岩波ジュニア新書「1945年8月6日ーヒロシマは語り続ける」(伊藤壮著)に、次の一節がある。

 満州事変がはじまって以来、町は戦争一色にぬりつぶされようとしていた。学校でも家庭でも、中国軍という「悪者」をやっつける「正義」の味方、日本車の勇敢な戦いぶりに、子どもたちはすっかり感激していた。
 満州事変のさなかに茨城県に住む小学校高等科一年生(いまの中学一年生)が書いた『朝日新聞』への投書がある。
「毎日、毎日の新聞は、連盟(国際連盟)における日本の不利を報じています。私は連盟って何だかわかりません。が、日本をつぶす会のようにしか考えられません。なぜ、外国は支那をたすけ正義の日本を悪くしているのでしょう。満州にいる兵隊さんたちよ、あまりにも馬鹿な支那をうちこらしてください。日本の国のために、たとえ支那にアメリカがつこうが、ロシヤがつこうとも、断然立って戦ってください。九千万の同胞のために戦ってください。二七年前に私たちの父祖が血を流した満州の地を守ってください。広い満州の野は日本の生命です。ああ私たちの兄さんよ、どうか奮闘してください。お国のために闘ってください。正義にはむかう不正なる支那をうちこらしてください。」

この投書を読んで、背筋が寒くならないか。恐怖を感じないか。これが、あの時代の日本であり、日本人だった。恐るべき国の恐るべき時代。

この投書の子どもは、しっかりとした文章の書ける明晰な頭脳を持っている。中学一年生の年齢で、国際連盟の動きにも、満州の歴史にも通じている。そして、おそらくは、「正義感」も強い優等生だったのではないか。

彼のいう「正義」とは、「お国」と同義である。日本こそが正義そのもので、これと闘っている「支那」は、「あまりにも馬鹿」なのだから、「うちこらして」当然なのだ。アメリカもロシヤも、国際連盟も、日本に敵対するものは全て不正義で、「お国のため」に闘うことが正義の闘いという確信に満ちて、少しの揺るぎもない。

戦前の政府は、子どもたちをこのように育てることに成功したのだ。恐るべき「教育」いや、マインドコントロールの成果。戦争とは国家の名における大量殺人にほかならない。自国を美しい正義とし、敵国を醜い不正義としなければ、闘いはできない。敵国の民を憎むべき人々に仕立て上げなければ、大量の人殺しはできない。そのような刷り込みがあって初めて、戦争を始めることができるのだ。

ヘイトスピーチとは、そういう刷り込みの性格をもったものだ。他国を他民族を、憎むべき集団として描き出す。その差別者意識は、薄汚いだけでなく、きわめて危険なのだ。

たとえば、今話題の「アベ疑惑・小学校」の開設申請者として知られるようになった籠池泰典塚本幼稚園長などは、中国・韓国などへのヘイト感情を隠そうともしない。

同園への批判に対し、「これらの内容は全くの事実無根であり、保護者間の分裂を図り、当園の教育活動を著しく害するものです。専門機関による調査の結果、投稿者は、巧妙に潜り込んだ韓国・中国人等の元不良保護者であることがわかりました」と言ってみたり、「よこしまな考え方を持った在日韓国人や支那人」などと記載した文書を保護者向けに配布したり。また、「名古屋の塾から小学校を興した人も市内の高校を買収した人も在日ですから、この学校では勉強はできても国家観はズタズタになり反日の人間になり得る」「現(沖縄)知事は親中華人民共和国派、娘婿も支那の人である。もともと中共に従いたいと心から思っているので、中共の手先かもしれない」といった調子。

安倍晋三は、国有地払い下げへの関与は否定しても、この右翼・差別主義者との親密さを隠そうとはしていない。「価値観を共有する間柄」の如く思われて痛痒を感じないようなのだ。一方、この右翼幼稚園経営者は「アベの後ろ盾」を誇示する如くである。

ヘイトスピーチを行う者は、唾棄すべき存在として、この社会から強く指弾されなければならない。だが、もう子どもではないアベと籠池。諭しても説教しても聞く耳は持たないだろう。有効な手段は、ヘイトスピーチを繰り返している限り、問題のアベ疑惑小学校の開設はなく、幼稚園の経営も成り立たないと知らしめる以外にない。

塚本幼稚園の元保護者が作る「T幼稚園退園者の会」がホームページを立ち上げて、貴重な情報を提供している。
https://youchienblog.wordpress.com/

園から保護者に対して、信じられない数々の愚行が繰り返されてトラブルを引きずっており、この幼稚園の経営が継続できるとは思えない。

昨年(2016年)5月の時点で、定員315人に対して、園児の数は以下のとおり。
年長 51名
年中 36名
年少 68名
計155名で充足率は50%を切っている。そして現在の実数は、もっと少ないという。これでは、経営がずいぶん苦しかろう。もう少しの批判の積み重ねで、園の方針を変えることができるのではないか。

新設予定の「アベ疑惑小学校」の定員は1学年80名。塚本幼稚園の年長組が全員入学しても30名不足という。世論の批判を大きくすれば、経営が成り立たなくなる。さすれば、小学校の開設認可もなくなる。アベに擦り寄っても意味のないことを明らかにもできる。ヘイトスピーチ幼稚園、ヘイト小学校の経営が成り立たない状態をつくり出すことが、最も現実的な対応策だろう。

「お国のために闘ってください。正義にはむかう不正なる支那をうちこらしてください。」と投書する子どもを再び作ってはならない。アベと籠池と、両者に対して強い批判を積み重ねなければならない。
(2017年2月22日)

大阪府知事は「アベ疑惑小学校」の認可を留保せよ

当ブログでは、2月11日(建国記念の日)に取り上げた「瑞穂の國記念小學院」の設立認可問題。次から次へと「疑惑」が噴出している。その「疑惑」とは、安倍晋三夫妻と真正右翼との関わりであり、その関わりが、国有地払い下げに格別の取り計らいをもたらしたのではないかという強い疑いである。

校舎建設は進んでいる様子だが、この右翼小学校の設立認可はまだ下りていない。その認可の権限は大阪府知事にある。「大阪府私立小学校及び中学校の設置認可等に関する審査基準」によれば、3月31日が手続的には、知事権限による認可の期限である。しかし、「首相関与の国有財産不正払い下げ疑惑」はますます深まっている。その解明あるまで、軽々に認可を与えてはならない。

本日(2月21日)の赤旗は、同紙が入手した、大阪府私立学校審議会(私学審)での審議録に基づいて、次のように報道している。

「府側は私学審での認可適当の答申を前提に15年2月に国有地の処分の是非を審議する国有財産近畿地方審議会が開かれると報告したものの、14年12月の(私学審)会議では結論を保留。15年1月27日に臨時の審議会(私学審)を開催。指摘された問題について学園側が提出した書類についてなお『人件費が30%いかない。相当ひどいことをしないとできない』『まずい場合は認可しかるべしを取り下げる』などの意見が出されました。しかし、学校建設にかかる工事請負契約の締結状況や寄付金の受け入れ状況、詳細なカリキュラム、入学志願の出願状況など、開校にむけた進捗状況を次回以降も審議会に報告する条件付きで認可適当と認め府に答申しています。」

私学審の認可適当の答申は実は条件付きなのだ。その条件に関わって、重要な事実が2点大きな疑惑として浮かびあがってきている。

第1点は、法人の基本財産でもある校地(校舎敷地、屋外運動場等)の取得が確定的であるかの疑問である。国有地を「ただ同然」で取得した疑惑の経過が世に明らかとされてなお契約が有効として維持されるかどうか、はなはだ疑問ではないか。適正な価格を再算定してなお、経営主体がこれを取得する十分な財政能力を有しているとは考え難い。

要するに、特別のはからいでの価格と支払い方法での校地取得を否定されたら、学校経営などできはしないだろうということだ。

近畿財務局と森友学園とが、どんなからくりを使って文字通り「ただ同然」で、国有財産をアベとつるんだ右翼に払い下げたか。今のところ、最もよく調べているのは、下記のサイトであろう。筆者は京都の自由法曹団員弁護士である。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/watanabeteruhito/20170220-00067887/

第2点は、「寄付金の受け入れ状況」についての疑惑である。森友学園が、「安倍晋三記念小学校」の校名で、設立費用の寄付を募集していたことが明らかになっている。いつからいつまで、安倍晋三の名を使って、いったいいくらの金額を集めたのか。これが明らかにされないうちの認可はあり得ない。アベ首相自身が、「自分の名が使われたことは知らなかった」と国会答弁しているのだ。アベは、金集めのために勝手に自分の名が使われたことをもっと怒ってしかるべきではないか。

私学審答申の「認可適当」の条件は、単に形式的に報告があればよいというものではない。報告の内容が、再議を必要とするものであれば、当然に条件成就とはならないはずではないか。

それにしても、「秘すれば花」とは風流の世界のこと。豊洲にしても、南スーダンの日報にしても、「隠すのは醜悪さを見られては困る」からなのだ。情報公開請求を拒否した近畿財務局の経過隠蔽が、疑惑の発端となったこの事件。隠しきれなくなっての疑惑がふくれ、その醜悪さが際立ってきた。

森友学園理事長籠池泰典とは、経営する塚本幼稚園の保護者に「よこしまな考え方を持った在日韓国人や支那人」などと記載したヘイトスピーチ文書を配布して物議を醸した人物。アベとは「類は友を呼ぶ」、あるいはもともとが「同じ穴のムジナ」というべきか。「あい寄る魂」は美しいが、政治右翼と真正右翼の醜悪この上ないあい寄る疑惑の関係。

両者の関係を白日の下にさらけ出す努力が今求められている。その疑惑解明までの間に、この「アベ疑惑小学校」設立の駆け込み認可があってはならない。
(2017年2月21日)

民主主義は、トランプ政権に打ち克てるか

トランプ新政権が発足して1か月。その行方が気になって仕方がない。民主主義という確立したはずの理念が揺らいでいるからだ。その妥当性や有効性があらためて問われている。アベ政権の暴走ぶりにも驚ろかされてきたが、トランプの乱暴さはそれに輪をかけたものになっている。

民主主義は、権力無謬の信仰とは無縁である。主権者無謬もない。国民の政権選択は常に暫定的なものに過ぎないとする。その暫定的な選択の誤りに対する修正の能力を、民主主義は期待しているのだ。ワイマール体制下でナチスドイツがやったことは、この「後戻りの道」を閉ざしたことだ。

いま日本もアメリカも、政権選択の誤りについての修正能力が試されている。アベにしてもトランプにしても、これだけ問題点が明確になれば、退陣を余儀なくされなければならない。ところが、コアな支持者として盲目的な右翼勢力のあることが不気味である。ポストトゥルースのこの時代、アナザーファクトしか見ようとしない支持者たちが、アベやトランプをのさばらせているのだ。

それでも、アメリカ側には幾つかの明るいニュースがある。最近の大統領が就任した日から数えて、不支持率が多数を占めるまでに要した日数は下記の通りなのだそうだ。(「お役立ち情報の杜」)http://useful-info.com/analyzing-president-trump-personality
 レーガン大統領  :  727日
 ブッシュ大統領-Ⅰ:1336日
 クリントン大統領 :  573日
 ブッシュ大統領-Ⅱ:1205日
 オバマ大統領   :  936日
 トランプ大統領  :      8日

支持率・不支持率には、いくつもの調査があるから、正確なことは言えない。それでも、トランプへのご祝儀蜜月期間が極端に短かったことは確かなようだ。

Gallup世論調査結果が発表された。2月13~15日の日程で行われたもの。トランプの支持率は40%で、就任1か月時点の調査としては、歴代の最低を記録したという。2大政党下での選挙の勝者である。当然過半数の支持があろうというもの。それが、40%でしかない。隠れトランプは、雲散霧消してしまったのではないか。

Gallupによると、アイゼンハワー大統領以来、就任1カ月目の支持率平均は61%で、トランプの支持率は平均を21%も下回るものとなっているのだそうだ。これまでの最低支持率は、ビル・クリントン大統領の51%。この最低記録を11%下回る新記録なのだそうだ。

アイゼンハワーからトランプまでの就任1か月後支持率は以下のとおり。
    Date        Job approval (%)
Trump 2017 Feb 13-15       40 %
Obama 2009 Feb 12-15      64 %
G.W. Bush 2001 Feb 19-21      62 %
Clinton 1993 Feb 12-14      51 %
G.H.W. Bush 1989 Feb 28-Mar    63 %
Reagan 1981 Feb 13-16       55 %
Carter 1977 Feb 18-21         71 %
Nixon 1969 Feb 20-25       60 %
Kennedy 1961 Feb 10-15       72 %
Eisenhower 1953 Feb 22-27   67 %
Average(平均)            61 %

もう一つのニュースが、ニューヨーク・タイムズに載った精神科医連名の投書。「大統領職を安全に務めることは不可能だと信じる」とするもの。

投書はアメリカ精神医学会(APA)に所属する医師など専門家35人の連名で、2017年2月13日付けの紙面に掲載されたという。投書の見出しは、「精神保健の専門家はトランプ氏に警告する」。次のような翻訳が報道されている。

「トランプ氏の一連の発言や行動は、異なる意見を受容する能力に欠けることを示しており、彼は異なる見解に怒りの行動をとる。彼の言動は他者への共感能力に著しく欠けることを示している。こうした人物は自分の精神状況に合わせて現実を歪め、事実や事実を伝えようとする人物(ジャーナリストや科学者)を攻撃する」
「トランプ大統領の言動が示す重大な精神的不安定さから、われわれは彼が大統領職を安全に務めることは不可能だと信じる」

以下は、「J-CASTニュース」からの引用。その先の引用元は分からないが、信頼できそうな内容。

この投書が注目されたのは、反トランプの内容だけでなく、投書した医師たちが、アメリカ精神医学会の長年の倫理規定を意識的に破ったことにあるという。
  この規定はゴールドウォーター・ルールと呼ばれ、1964年に民主党のジョンソン大統領と共和党のゴールドウォーター上院議員が大統領選を争ったのを機に制定された。この選挙では、ある雑誌が「ゴールドウォーターのメンタル特集」というテーマで、各地の精神科医に大統領として適任かどうかを投票させた。ゴールドウォーター氏はすぐに雑誌を名誉毀損で訴え、裁判では勝訴した。
  このルールは精神科医がこうしたトラブルに巻き込まれないようにつくられた。「精神科医が自ら診察していない公的人物について、職業的意見を述べたり、精神状態を議論したりすることは非倫理的」と禁止した。1973年に制定され、今も有効だ。
  アメリカ精神医学会は2016年、「このルールを破って大統領候補の精神状態を分析することは「無責任で、レッテル貼りにつながり、非倫理的な行為だ」と厳しく戒めた。しかし、今回の医師らは投書の中で、「これまでの沈黙は失敗だった。この非常時にもう沈黙は許されない」と規定破りの決意を述べている。

アメリカの1964年の事件で、言論の自由の旗を掲げる側が敗訴した裁判例あることが信じがたい。このような判例が今も生きているとは到底思えない。それはさておき、トランプは、35人の精神科医をやむにやまれぬ気持にさせたのだ。「これまでの沈黙は失敗だった。この非常時にもう沈黙は許されない」
メディアと医師が、トランプとたたかう姿勢を見せている。アメリカのこととはいえ、この動きに勇気づけられる。日本もかくあらねば、と思う。

(2017年2月20日)

「保育園落ちた日本死ね!!!」の表現を擁護する

あの怒りのブログから1年。また、「保育園落ちた」の季節となった。「保活」(保育園就園活動)という言葉が定着しているそうだが、さて、深刻な保活事情は改善されているのだろうか。

毎日新聞はこう報じている。
「『日本死ね!!!』から1年 1年後も『待機ゼロ』無理 目標達成、首相『厳しい』」
「昨年2月に「保育園落ちた。日本死ね!!!」と窮状を訴える匿名ブログが共感を集めて社会問題化して1年。(2月)17日の衆院予算委員会で待機児童問題が取り上げられた。安倍晋三首相は「保育の受け皿は増やした」としつつ、政府が掲げる2017年度末の待機児童ゼロの目標達成は困難だとの見通しを示した。今年4月の入所を目指して落選した親たちには失望が広がっている。」

「保育園落ちた日本死ね!!!」という、このブログの衝撃は大きかった。意図したかどうかはともかく、市井の人の言語的表現がこれほどの社会的インパクトを獲得し、政権をうろたえさせた例は稀だろう。

当「憲法日記」では、昨年(2016年)3月15日に、「『保育園落ちた日本死ね』怒りのブログに、曾野綾子の『大きなお世話』」を書いた。今読み直してみて、書き換えなければならないところはない。目を通していただけたら、ありがたい。
http://article9.jp/wordpress/?p=6578

当時、「日本死ね!!!」という表現に違和感をもつという意見があった。いまだに散見される。「『死ね』は、人格否定の最たる表現」「いかなる場合にも禁句」という批判である。

だが、「日本死ね!!」の表現がなければ、このブログがこれほどのインパクトを持つことはなかった。そして、私自身は、「日本死ね!!」にさしたる違和感をもたなかった。このブログが大きな共感を呼んだのは、私のように違和感をもたなかった読み手が多かったからに違いない。むしろ、「日本死ね!!」という表現の過激に藉口した「日本」「国家」への批判抑制の論調の方に違和感をもった。自分の感性が鈍麻しているのかとも思ったが、そうではなさそうだ。

何よりも、このブログは弱者の悲鳴である。通常の言葉遣いでは到底気持が通じないという切羽詰まった状況が、このような強い言葉を選ばせている。強者が弱者に対して放つ、人格否定の文脈ではない。

しかも、日本人が日本人を対象に、自分も属している日本という国家の政策批判を展開しているというシチュエーションが重要なのだ。他者、他国、他グループに対する悪罵とは決定的に違っている。

他国に対する批判も、自国に対する批判も、表現の自由の範疇として保障の対象になることは当然である。当然ではあるが、自国に対する批判の方が、遠慮は要らない。他国に対する批判の言論には、慎重な配慮が必要との立論にはそれなりの理があろうかと思う。刑法は、第4章「国交に関する罪」の中に、第92条「外国国旗損壊罪」を設けている。「外国に対して侮辱を加える目的で、国旗を損壊する」ことが犯罪とされ、自国の国旗についての損壊を犯罪とはしていない(器物損壊が成立しうることは別として)。

また、「死ね」と言葉を投げつけられたのは、「日本」である。「日本」という国家は、組織であり機構であり制度であって、死ぬことはない。しかも、公権力の主体として最も辛らつな国民からの批判に晒されるべき存在といわねばならない。そのうえ、国家は人権享有主体ではない。「日本死ね」は、飽くまで、制度の不合理に対する怒りの比喩的な表現に過ぎないことが、一見明瞭なのだ。

仮に、このブログの表現が、「日本人死ね」であったとしたら、印象は相当に変わっていたはずである。私も違和感をもったかもしれない。さらに、特定の人名を出しての「○○死ね!!」であったら、このブログがこれほどの共感をもって受けとめられることはなかったに違いない。

昨年5月、在日への差別的表現を禁止した、ヘイトスピーチ対策法(フルネームは、「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」)が成立し、6月施行となった。同法第2条は、ヘイトスピーチを「差別的意識を助長・誘発する目的で、生命、身体、自由、名誉、財産に危害を加えると告げることや、著しく侮蔑するなどして、地域社会からの排除をあおる差別的言動」と定義している。同法は、差別解消のための努力を国の責務とし、自治体にも同様の努力義務を課している。

法の定義だけでは分かりにくいとして、法務省人権擁護局は、各自治体にヘイトスピーチの典型を例示した文書を提供している。そのヘイトスピーチの典型例が、許されない他への打撃的言論の限界を考察するための参考になりそうである。

報道によると、その「典型例」はヘイトスピーチ対策法の定義規定(第2条)の条文から、差別的言動を下記の3種に分けている。
①「生命、身体、自由、名誉、財産に危害を加えると告げるもの」
②「著しく侮蔑するもの」
③「地域社会からの排除をあおるもの」

①の脅迫的言動としては、「〇〇人は殺せ」「〇〇人を海に投げ入れろ」といった殺害を含め、危害を加えることの扇動に当たるもの。
②の著しく侮蔑する言動としては、特定の人種、民族、出身国・地域の人について『ゴキブリ』などの虫、動物、物に例えることや隠語や略語を用いたり一部伏せ字にして罵るパターンも含まれる。
③の地域社会からの排除を扇動する言動としては、「〇〇人を叩き出せ」「〇〇人は国へ帰れ」「〇〇人を強制送還しろ」など、日本もしくは地域からの排除の扇動。
というものである。

ひるがえって、日本人による「日本死ね」発言。対外的には、国交に関する「差別的意識を助長・誘発する目的」もなければ、外国への侮辱にもあたらない。対内的にも、だれに対する関係でも危害の煽動になっていない。侮蔑の意味もなく、誰かを排除する意図もない。「被害」は、日本ないし国家という抽象的存在に限定されて、人権享有主体のだれをも傷つけてはいない。

「日本死ね」の表現はことさらに非難をするにはあたらない。これを非難することが結局は政権や国策の擁護になっていることに留意されなければならない。
(2017年2月19日)

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