澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

伝統を守ることは、人の生命より大切。

伝統を大切にすべきは当然のことだ。疑う余地はない。伝統とは、日本の歴史であり、文化のことだ。日本民族の魂と言ってもよい。伝統を守るとは、前代から受け継いだ日本民族の魂を、次代に手渡すことだ。我々の世代で、伝統を断つことは、祖先にも子孫にも、申し開きのできない大きな罪を犯すことになる。

相撲は、日本の文化であり、日本の歴史そのものだ。民族の魂とともにある。だから、格別に伝統にこだわっている。当たり前のことだ。伝統を守ることに、理由も理屈もない。それが伝統だから守るのだ。なにかの基準に照らして、「正しい伝統だから守る」「正しくない伝統だから変えていく」という不遜な態度は、それこそまちがっている。伝統は、伝統だから大切にすべきであり、伝統だから守り受け継ぐべきものなのだ。

「土俵は女人禁制」これは、伝統だ。伝統である以上は、断固として守るのだ。なぜかという理由は要らない。この伝統が、他の理念と衝突しないか。時代に合わないのではないか。そんなことを考える必要はまったくないのだ。

日本社会の歴史は、長く男性中心で女性を差別してきた。だから、女人禁制とは男尊女卑の社会意識がもたらした伝統だ。そう言われれば、おそらくそのとおりなのだろう。しかし、だから男尊女卑の象徴である「女人禁制」をあらためようということにはならない。伝統を守るとは、敢えて時代錯誤との誹りを甘受すること。今の時代の精神には適合しないことを認識しつつ、今の時代に挑戦することにこそ意味がある。

だから、伝統を守ろうと決意を固めたわれわれは、「土俵は女人禁制」を徹底して、男尊女卑を墨守するまでだ。今の時代の良識にも常識にも適合しないことをすることを宣言しているのだ。変遷する時代の良識に従おうというのは、伝統を守ることと対極の姿勢。伝統擁護とは、断固として因循固陋に徹するという決意のことなのだ。

相撲協会は、女性が土俵に上がることを認めていない。小学生だろうと、市長だろうと、知事だろうと、女は女。神聖な土俵に上がる資格はない。相撲は神事だ。神事では女性は穢れだ。穢れた女性を神聖な土俵に上げることができるわけはない。

舞鶴巡業で市長が土俵で倒れたとき、女性看護師が市長の救命のために土俵に上った。あのときの、「女性は土俵から降りてください」と何度も繰り返されたアナウンスは、あれこそ伝統を守ろうという精神の真骨頂で正しかったのだ。あのとっさの時に、人命よりも伝統が大切だと、毅然とした判断ができたのは、日ごろからの協会の精神のあり方が、若手の行司にも浸透していたということで、素晴らしいことだった。

「緊急の場合だ。人の命の方が大切」などという浅薄な俗説は俗耳に入りやすい。しかし、市長一人の命よりも伝統が重い、という今の社会にはなかなか受け入れがたい正しい考えを、敢えて実行したこの行司はエライ。

八角理事長は、この行司のアナウンスを謝罪したが、あの謝罪こそが間違っている。堂々とこう言うべきだった。
「私たちは、『土俵は女人禁制』という伝統を守ってまいりました。私たち力士にとって、伝統を守るということが何にもまして重要なことであることをご理解いただき、今後はいかなる場合にも、女性の皆様には土俵に立ち入ることのないようご留意をお願い申しあげます」「ちびっ子相撲も同様。女児も女性ですから、年齢にかかわらず、土俵に上らせることのないよう、ご注意ください。」

伝統の由来や、その意味づけなどを穿鑿することは、余計なことであるだけでなく、むしろ有害なことだ。伝統とは、民族の魂である。民族の魂が、男尊女卑を叫んできた以上は、男尊女卑を貫くのだ。民族の魂が、弱い者いじめをくりかえしてきたのだから、新弟子イジメは当然の伝統として容認する。旧軍隊の精神と同様である。思考を停止して、伝統に従う。こうでなくてはならない。

ところで、いったい何が伝統で、何が伝統でないか。実はこれが難しい。難しいから、何が伝統かは、実のところ融通無碍なのだ。

相撲は日本民族の魂なのだが、いま大相撲では、外国人力士大活躍で日本人力士の影は薄い。「土俵は外国人禁制」ではない。なぜか、その理由は分からない。もっとも、興行的には、外国人力士に活躍してもらわねばならない。

ちびっ子相撲では、昨年は女児も参加できたそうだが、今年からはダメだ。なぜって、それが伝統だから。じゃあ、なぜ昨年までは参加できたのかって?

そんなことは聞いてはならない。協会発表には、文句をいわない。細部にはこだわらない。それこそが、伝統だろう。

実のところ、何より大切なのは興行収入だ。大相撲の体質が女性客に不愉快で、客離れが生じるようでは困る。ホンネのところ、興行収入は伝統よりもはるかに大切なのだ。「興行収入 > 伝統 > 人の命」という奇妙な価値序列。

いや奇妙ではない。「命にもまして金が大切」は、これこそ神代の昔からの民族の伝統なのだから。
(2018年4月13日)

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Published in 土曜日, 4月 14th, 2018, at 00:38, and filed under 両性の平等.

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