鴎外の天皇制批判・再論
4月8日の当ブログに、「鴎外が書き残した、天皇制への嫌悪」を書いた。内容は、直木孝次郎「森鴎外は天皇制をどう見たかー『空車』を中心にー」を紹介して若干の私見を付したもの。
その拙稿を、Blog「みずき」の東本高志さんが4月10日付で取り上げてくれた。反応があるのは嬉しい。せっかくなので、ご紹介したい。
https://www.facebook.com/takashi.higashimoto.1/posts/1309413295855761
澤藤統一郎さん(弁護士)が森鴎外の「天皇制批判」の論を紹介している(澤藤統一郎の憲法日記 2018年4月8日)。鴎外は体制=天皇制擁護者、というのがこれまでの私の鴎外理解だったので意外だった。もっとも、その鴎外の天皇制批判の小説といわれる『空車』は昔、読んだ記憶がある。そのときの小説の解説には「天皇制批判」というよりも天皇を利用する側近=政治家批判のように書かれていたように思う。今度の澤藤統一郎さんの紹介する鴎外の「天皇制批判」論を読んでもそのときの読後感は変わらない。鴎外は「天皇制」そのものを批判しているのではなく、その「天皇制」を下支えしている「藩閥官僚」制度を批判しているように見える。この問題に触れている原武史(放送大教授)の直木孝次郎著『武者小路実篤とその世界』の書評を読んでも、鴎外の「天皇制」批判は結局そういうものだ、と私は思う。鴎外は体制=天皇制擁護者、というこれまでの私の鴎外理解も変更する必要を私は感じない。(以下略)
鴎外・森林太郎は、陸軍軍医(軍医総監=中将相当)にして、官僚(高等官一等)であり、位階勲等は従二位・勲一等・功三級とのこと。「体制=天皇制」の中心部に位置していた人として、当然に「天皇制擁護者」のイメージは深い。したがって、「空車」という作品を、天皇制への批判や嫌悪感を書き残しておこうとしたものという理解にはなかなか思い至らない。だからこそ、直木孝次郎の炯眼に感服することになる。
「天皇制」のイメージには、人それぞれの理解がある。東本さんの「鴎外は『天皇制』そのものを批判しているのではなく、その『天皇制』を下支えしている『藩閥官僚』制度を批判しているように見える。」という感想がやや意外でもあり興味深くもある。「鴎外は、『神聖な天皇が、君側の奸たる藩閥官僚によって操られていた』と考えていた」との理解なのだろうか。
ところで、「天皇制そのもの」とはなんだろうか。天皇の神聖性とか、天皇の国民精神に対する支配性という類のもので、「天皇制を下支えしている制度」とは別物なのだろうか。
私は、天皇制とは単純に政治支配の道具に過ぎないと思っている。戦前の天皇制とは、「藩閥官僚による政治支配の道具」で十分である。だから、『天皇制そのもの』と、これを下支えしている『藩閥官僚』とを敢えて厳密に分離して考える必要はない。「天皇制を支える藩閥官僚」も、「藩閥官僚を従える天皇制」も、不可分一体のもので、『藩閥官僚』批判は、とりもなおさず天皇制批判にほかならない。
鴎外が、「空車」を「むなぐるま」と読ませたのは、「空しい」(≒虚しい)の語感を響かせたいということではなかろうか。大きな車に乗っているのは天皇なのだが、その実体はといえば、「空しい」だけの存在。空っぽに等しい。それにひきかえ、この車を牽く馬は大きく肥えて剽悍で、馬の口を取っているのは背の直い大男である。
結局のところ、「天皇制」とは、「空しい」存在である天皇だけでは成立し得ない。この天皇を乗っけた大きな車や肥えた馬やこれを御す大男の存在が必要不可欠なのだ。
直木孝次郎が引用するベルツの日記の一節(1900年5月9日)を再度引用しておこう。わたしはここに、天皇制の本質がよく顕れていると思う。
「一昨日、有栖川宮邸で東宮(皇太子嘉仁、後の大正天皇)成婚に関して、またもや会議。その席上、伊藤の大胆な放言には自分も驚かされた。半ば有栖川宮の方を向いて、伊藤(博文、直木註)のいわく「皇太子に生れるのは、全く不運なことだ。生れるが早いか、到るところで礼式(エチケット)の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と。そういいいながら伊藤は、操り人形を糸で躍らせるような身振りをしてみせたのである。」
天皇とは「側近者の吹く笛に踊らされねばならない操り人形」として、「不幸な存在」なのだ。これを操って、民衆支配の道具としているのが、伊藤や山県などの藩閥政治家たちである。その背後には資本があり、地主階級があり、支配される側の民衆自身もあった。そのことは、伊藤や山県ばかりではなく、軍や警察幹部も、天皇自身も自覚していたであろう。もちろん、鴎外もである。これが戦前の天皇制。
さて、問題は、日本国憲法下の象徴天皇制である。戦前、実は操り人形に過ぎない天皇も建前としては権力者だった。戦後は、建前としても天皇は操り人形(ロボット)に徹することが求められている。これが象徴天皇制というもの。
天皇は、内閣の助言と承認によってする憲法7条に定める10件の国事行為以外はなしえない。オーソドックスな憲法学は、天皇を日本国憲法体系における例外的存在とし、国民主権論や人権論との整合の観点から、象徴天皇の行動範囲を可及的に縮小しようとしてきた。
ところが、現天皇自身が「象徴としての公的行為」拡大を意識し、そのような「象徴天皇像」を作ろうと意図してきた。鴎外の比喩を用いれば、空車の上におとなしく、目立たないよう座していなければならない操り人形が、権威や国民との親近性を求める意思をもとうとしているのだ。憲法的制約を自ら解き放とうとする天皇。これは危険なものと考えざるをえない。
来年(2019年)国民は、天皇代替わりの儀式に接することになる。主権者たる国民が、空車の操り人形に拝跪するがごとき愚行を戒めなければならない。飽くまでも、天皇の存在感と行動可能範囲を極小化する議論が必要なのだ。
(2018年4月12日)