澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「おしつけないで 6.30リバティ・デモ」にご参加ください。

「日の丸・君が代をおしつけないで」という集会とデモを行います。名付けて「リバティ・デモ」。ぜひご参加ください。

私たちの主張は、「日の丸・君が代に反対」ではなく、「日の丸・君が代をおしつけないで」ということです。「日の丸・君が代」が大切で大好きだという方の意見は尊重しましょう。同じように、「日の丸・君が代の押しつけは困る」という私たちの声にも耳を傾けていただきたいのです。

私たちが大切にしたいのは一人ひとりの考え方がひとしく尊重される多様性です。多様であることの自由です。自由の先進国の言葉で言えば、「リバティ」あるいは「リベルテ」。だから、「リバティ・デモ」。

「日の丸・君が代」が好きだという方のなかにも、「強制はよくない」と言ってくださる方は大勢います。思想や良心のあり方についての強制のない、みんながのびやかに生きることのできる「やわらかでやさしい社会」を目指して、 ご一緒にデモに参加していただけませんか。

私たちは、主張します。

「国旗・国歌」にどのような考え方をもつのも自由であること
「日の丸・君が代」への敬意を強制してはならないこと
「国を愛する気持ち」は自然に湧き出るもので、押しつけることはできないこと
学校とは、多様な意見を尊重し合うことを学ぶところであること

この思いを広く訴えるために、私たち「君が代」裁判4次訴訟原告有志はデモを企画しました。歌ったり、踊ったり、シュプレヒコールをあげたり…。思い思いのスタイルで楽しく渋谷の町を歩こうと思っています。6月30日は“鳴り物”などを持ってお集まりください。

みんなで一緒に楽しく歩きましょう。自由を求めて。

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日時 6月30日(土曜日)
集会 18時半~ ウィメンズプラザ・視聴覚室
(表参道・青山学院大学前)
報告 澤藤統一郎(弁護士)「4次訴訟の現段階」
デモ 原宿・渋谷を歩く予定
主催 おしつけないで! 6・30リバティ・デモ実行委員会

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このリバティデモ出発前の集会では、私(澤藤)が報告する。テーマは、「4次訴訟の現段階」。いま、東京「君が代」裁判(懲戒処分取消等請求訴訟)4次訴訟は、東京高裁で半分勝ち半分負けて、納得できない13人が上告している。7月6日までに上告理由書を提出しなければならない。いま、弁護団は必死になって、この上告理由を執筆している。

以下に、一部をピックアップしてご紹介したい。「原判決(東京高裁第12民事部(杉原則之裁判長)2018年4月18日)には、憲法20条(信教の自由保障条項)解釈の誤りがある」とする上告理由中の一節。(但し、すべてが裁判書提出のとおりではない。)

1 国民各人の多様な価値観の共存を尊重すべきことは民主主義社会における普遍的な基本原理である。日本国憲法はこの基本原理に基づいて、個人の精神生活のありようについては、当該個人の選択を無条件に尊重すべき多元主義の立場に立つ。公権力によるその選択への介入は絶対的に禁止されている。
その当然の帰結として、憲法は、多文化,多宗教が共存する社会を正常なものと想定して、個人において信仰をもつことも、もたないことも、またいかなる宗教的信念を持つことも、完全な自由として保障している。
誰もが自ら選択した信仰にしたがって生きることを権利として保障される。公権力がこれに介入することは許されない。ただ、信教の自由の行使が、他の人権や、譲ることのできない憲法価値と具体的に衝突する場面では、その限りで調整を受けるべきことは当然であって、信教の自由ゆえに全ての行為(作為・不作為)が許されるというものではありえない。他の権利と関わりうるすべての権利が無制限ではあり得ないことは、ことさら述べるまでのことでもない、当然の事理である。肝腎なことは、他の権利との衝突の場面での調整の必要が認識されるべきこと、その調整のありかたが憲法の理念(価値序列)に照らして合理的でなければならないということである。
2 日本全体が多宗教共存の社会である以上、都立校の教職員の中にも、多様な信仰をもつ者があり、また、信仰をもたない者もある。信仰者であることを公然化している者もあり、そうしてはいない者もある。そのことは、上告人らにおいても同様である。
信仰は多様である。宗教的なタブーとされるものは、それぞれの信仰によって著しく異なる。偶像崇拝禁止に潔癖な信仰もあり、そうでない信仰もある。その教義や歴史的経緯から公権力との関係に緊張感の高い宗教もあり、公権力に親和性の濃い宗教もある。信仰上の理由で、日の丸・君が代への敬意の表明をなしがたいとする者もいれば、その信仰と矛盾を感じない信仰者もありうる。
また、非信仰者の宗教意識も同じく多様である。自らは信仰をもたないが、日の丸・君が代の有する宗教的な側面に強い違和感をもち、それ故に起立斉唱等の強制には服しがたいとする者もいる。
上告人らが提出した陳述書によれば,少なくとも二人の上告人が、自らキリスト教を信仰していることを明示して、その信仰ゆえに日の丸・君が代への敬意の表明はできない、したがって起立斉唱等を強制する職務命令には服しがたい、としている。また、一審における原告本尋問結果も、詳細にそのことを証している。
この両名について、憲法20条が保障する信教の自由侵害があったことは明らかというべきであって、これを儀礼的所作の強制に過ぎないとして、「そもそも信教の自由侵害にあたる公権力の行使そのものが存在しない」とするのは、詭弁も甚だしい。
3 憲法20条は,第1項前段で「信教の自由はこれを保障する」と規定し,第2項で「何人も宗教上の行為,祝典,儀式又は行事に参加することを強制されない」と規定する。
信教の自由には,①信仰の自由,②宗教的行為の自由,③宗教的結社の自由が含まれると説かれるが、本件で論じられるのは、主として「絶対的保障」とされる信仰の自由であり、これと不可分な限りでの消極的宗教的行為の自由である。
留意さるべきは、信教の自由が,多数派または正統派とされる宗教(オーソドックス)に対する少数の異端者,抵抗者の信仰の自由を保障するために認められてきたという歴史的経緯である。謂わば、典型的な少数者の人権として意識されてきた「非妥協的な基本権」である。宗教的少数者に対して宗教的寛容を強制するという愚かな過ちを犯してはならない。「たとえ,少数の潔癖感に基づく意見と見られるものがあっても,彼らの宗教や良心の自由に対する侵犯は多数決をもってしても許されないのである」(津地鎮祭訴訟大法廷判決の藤林益三最高裁長官の追加反対意見)との言が信教の自由の真髄を示していることを看過してはならない。
公権力が特定の宗教を正統と定め,国民に対しその信仰を強制あるいは勧奨することは,公権力が人の内心に踏み込むことであるから絶対的に禁止される。また,特定の信仰を有すること,あるいは有しないことを理由として刑罰その他の不利益取扱いをすることも,憲法20条1項前段によって禁じられる。さらに,公権力が人の信仰の有無を強制的に告白させること,あるいは宗教関係の調査を行うことは,公権力が人の信仰の有無を知ろうとするのは,それによって,有形無形の圧力,干渉を加えるためであったことは歴史的事実であり,仮にそれが弾圧,迫害を目的とするものではないとしても憲法20条によって禁止されるのである。
したがって,信仰の自由は,①特定の宗教を信仰すること,あるいは信仰しないこと,無信仰であること,を強制することの禁止,②特定の宗教を信仰すること,あるいは信仰しないこと,無信仰であること,を理由とする弾圧,迫害など不利益処遇の禁止,③信仰を有していること,あるいは有していないこと,無信仰であること,の告白を強制することの禁止,をその内容としている。
これらの信仰の自由は,憲法19条が保障する思想・良心の自由の宗教的側面であり,その保障の効果も,憲法19条と同様に,絶対無制約である。
なお、憲法20条2項は,何人も宗教上の行為などを「強制されない」というかたちで規定しているが,これは,明治憲法の下で,神社への参拝が強制されあるいは神道式の国家的儀式への参加が強制され,あるいは神道式の学校行事の実施が強制されたことに対する反省から定められたものに他ならない。すなわち,宗教上の行為(典型的には、礼拝,祈祷,宗教儀式,式典,あるいは布教活動など)を行うこと,または参加すること,あるいはこのような行為を行わないこと,または参加しないことなどはすべて個人の自由な意思で決めるべきことであって,公権力がこれらを強制することは許されないことの確認規定である。
ここでいう「宗教上の行為」の外延は、被強制者の信仰の自由保障の観点から、合目的的に確定される。信仰の自由の外延を切り縮めることがあってはならないことから、「宗教上の行為」の外延も同様の広い外延をもつ。
4 キリスト教徒である上告人両名の「信仰上、起立斉唱等ができない」とする心情を語った各陳述書の内容および本人尋問結果の内容は、同じキリスト教徒でも、日の丸・君が代の強制に服しがたいとする理由はけっして一様ではない。
しかし、キリスト教徒として真摯な信仰を有する上記上告人らのすべてにとって、卒業式・入学式等での君が代斉唱時に,日の丸に向かって起立し君が代を斉唱することは,信仰に反する行為を外部からの命令によって強制されることであり,自己の信仰の否定にほかならないとする強い信念においては一様であることをものがたっている。
キリスト教徒である上告人らにとって、信仰の対象とする神以外の偶像には崇拝が禁じられる。一方,日の丸・君が代は,戦前戦中において,神権天皇制国家の国旗国歌として、宗教国家のシンボルであると同時に、国家宗教のシンボルでもあった。国家神道の象徴として、明らかに神性を有する宗教的な存在であった。そして,いまなお,「日の丸・君が代」の宗教性は払拭されていないというのが上告人らの信念である。
したがって、「日の丸・君が代」に敬意を表明することは信仰に反する行為としてなしえない。このような説明は、多元的価値観の併存を認め、他人の信仰に寛容であろうとする良識を備えた者には、容易に了解可能なものである。
「いまなお,日の丸・君が代の宗教性が払拭されていない」ことが「客観的な」事実であるか否かの確認は不必要である。これも、信仰者の宗教的信念の内容に属することがらだからである。起立斉唱等の強制が、当該上告人らの信仰の自由と抵触することは明らかというべきである。
もちろん、信仰内容だからという理由で、あらゆる職務命令の拒否が許容されるものではない。他の重大な憲法価値との衝突の局面では、信仰が譲歩を余儀なくされることもあろう。
しかし、真摯なキリスト教徒の信仰を傷つけてでも、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意の表明を強制する必要性も合理性も到底認めがたい。ここには、憲法価値の優劣に関する倒錯があるとしか評しようがない。
卒業式等における「日の丸・君が代」強制は、当該信仰者との関係において、明らかに信仰の自由を侵害するものである。(以下略)

(2018年6月26日)

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