澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

天皇誕生日に昭和天皇の戦争責任を思う

本日は、天皇誕生日。読売の社説が、「天皇陛下85歳 平成最後の誕生日を祝いたい」とある。さて、何ゆえに「祝いたい」のだろうか。本当に目出度いのだろうか。

佛教では、人の逃れ得ぬ不幸を、生・老・病・死の「四苦」と教える。その生とは、そもそも生まれいづることなのだ。「生」は「苦」そのものというニヒリズムに徹した人生観。なるほど、生こそは、老・病・死の出発点であり、愛別離苦・怨憎会苦をはじめとする七難八苦の根源ではないか。とすれば、具眼の士には、人の誕生も誕生日も目出度くなんぞはないことになる。

しかし、凡夫の身には、人の誕生は目出度い。人の成長も目出度い。人の長寿もまた目出度い。苦が伴えども、生きていることは寿ぐべきことではないか。だから、親しい人の誕生日には、祝意が述べられる。

もっとも、赤の他人の誕生日にまで、祝意を述べてはおられない。親しい人であればこその心からの祝意であって、上辺の祝意や祝意の強制ほどいやみでやっかいなものはない。私にとって、天皇は赤の他人。面識もないし、メールのやり取りもない。世話になったことも、世話をしたこともない。多少の関係があるとすれば、私の納めた税金の幾分かが、彼の生活を支えているというくらいのこと。彼の誕生日は、彼の家族や友人には慶事であろうが、私にとっては格別に目出度いことではない。

一昨年(2016年)の今日の「日記」には、「天皇誕生日に思う」を書いた。以下は、その一節。
https://article9.jp/wordpress/?p=7870

昭和天皇(裕仁)の第1子から第4子までは女児であった。女児の誕生は「失望」と受けとめられていた。第5子にして初めての男児誕生が、「日本中が大喜び」「うれしいなありがと」と、目出度いこととされたのだ。もっとも、今退位を希望している天皇である。男児として生まれたことを自身がどう思っているかは窺い知れない。

私の母は、自分の心情として「嬉しかった」とは言わなかったが、「みんなが喜んでいた。嬉しがっていた」とは言っていた。おそらくは、お祭り同様の祝賀の雰囲気が巷に満ちていたのだろう。

天皇制は、不敬罪や治安維持法、あるいは宮城遙拝強制・徴兵制・非国民排斥・特高警察・予防拘禁・拷問などの、おどろおどろしい制度や強制装置によってのみ支えられたのではない。天皇制を内面化した民衆の心情や感性に支えられてもいたのだ。

昨年(2017年)の今日の「日記」には、12月23日・A級戦犯処刑の日に。以下は、その一節。
https://article9.jp/wordpress/?p=9654

本日、12月23日は、極東国際軍事裁判(東京裁判)において死刑の宣告を受けたA級戦犯7名が処刑された日として記憶される。69年前の今日のことだ。

判決が言い渡されたのは、同年11月12日。刑の執行の日取りについて特に定めはなかったが、皇太子明仁の誕生日を選んでの執行と伝えられている。

当時の皇太子はその後40年を経て天皇となった。本日は、その地位に就任して29回目の天皇誕生日である。今日、A級戦犯の刑死はさしたる話題にならず、もっぱら明後年(2019年)の天皇の生前退位だけが話題である。GHQと極東委員会の思惑ははずれたことになるのだろうか。しかし、今日は昭和天皇の戦争責任を考えるとともに、国民精神を戦争に動員した天皇制の危険性について、思い語り合うべき日であろう。

天皇は、本日の誕生日に記者会見用の談話を発表している。そのうちの下記の点について、最小限のコメントを付しておきたい。

昭和28年に奄美群島の復帰が、昭和43年に小笠原諸島の復帰が、そして昭和47年に沖縄の復帰が成し遂げられました。沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました。皇太子時代を含め、私は皇后と共に11回訪問を重ね、その歴史や文化を理解するよう努めてきました。沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません。

先の大戦で多くの人命が失われ、また、我が国の戦後の平和と繁栄が、このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず、戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています。

戦後60年にサイパン島を、戦後70年にパラオのペリリュー島を、更にその翌年フィリピンのカリラヤを慰霊のため訪問したことは忘れられません。皇后と私の訪問を温かく受け入れてくれた各国に感謝します。

この人は出自の重荷を背負って生きてきた人なのだと改めて思う。端的に言えば、親のしたことの償いを自分の使命と考えて生きてきたのだろう。もちろん、昭和天皇(裕仁)の戦争責任を意識してのこと。天皇の戦争責任については、これまで何度も書いてきた。最近のものとしては、下記をご覧いただきたい。

「『あの無謀な戦争を始めて、我が国民を塗炭の苦しみに陥れ、日本の国そのものを転覆寸前まで行かしたのは一体だれですか』」 ― 天皇(裕仁)の戦争責任を追及する正森成二議員の舌鋒(2018年8月23日)
https://article9.jp/wordpress/?p=10939
その書き出しは以下のとおりである。

人は兵士として生まれない。特殊な訓練を経て殺人ができる心身の能力を身につけて兵士となる。人は将校として生まれない。専門的訓練によって躊躇なく部下を死地に追いやる精神を身につけて将校となる。人は帝王として生まれない。「だれもが自分のために死ぬことが当然」とする人倫を大きく逸脱した帝王学によって育てられて帝王になる。

兵士は戦場で死ぬことを覚悟しなければならない。将校は作戦の失敗に責任をとらねばならない。帝王は帝国と運命をともにしなくてはなららない。革命や敗戦によって帝国が滅びるとき、当然に帝王も死すべき宿命を甘受する。が、ごくまれにだが、おめおめと生き延びる例外がないでもない。

昭和天皇(裕仁)は、沖縄地上戦で天皇の軍隊が沖縄の住民に加えた蛮行を知悉していたはず。また、「天皇メッセージ」によって、奄美・沖縄を占領軍に売り渡したことでも知られる。生前、沖縄を訪問することはできなかった。現天皇は、父に代わって贖罪の沖縄訪問を重ねたのだ。サイパンやパラオ、フィリピンの慰霊のため訪問も、贖罪の旅であった。惜しむらくは、自国民の犠牲に対する追悼が明確であったのに比して、加害責任と謝罪の意思は曖昧であった。
(2018年12月23日)

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Published in 日曜日, 12月 23rd, 2018, at 22:00, and filed under 天皇制.

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