澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

もうよそう、「集団イジメ」と「元号使用」。

イジメはいけません。誰にも尊重されるべき人格がありプライドもあります。その人格やプライドを踏みにじるようなことを言ってはなりません。してはいけません。一人の人を標的に、仲間はずれにしたり、みんなで悪口を言ったり。自分がされたらイヤなこと、悲しいことは、誰にもしてはいけません。勇気を出して、みんなで、イジメはやめましょう。

でも、もしかして、自分がイジメに加わっていないと、次には自分がいじめられる。だから、イジメを止めることができない。イジメのグループから抜けるのが難しい。本当は、いじめられている人と仲良くしたいのだけれど、ほかの人たちの目が恐くてそれができない。そんな人はいませんか。たしかに、イジメを止めること、止めさせることは、勇気がいることでしょう。

クラスでも、部活でも、学校でも、職場でも、あるいは地域でも、必ず人と人との集まりとして形成された「集団」は、集団のなかの一人ひとりの考えや行動に、強い圧力となる影響力をもっています。集団はそのメンバーに、みんなが同じような考えを持ち、同じような行動をするよう集団としての圧力となります。たとえば、「みんなして、A君はいやな奴だと考えよう」「みんなでA君とは口をきかないことにしよう」「これに反対する人は仲間ではない」という具合に。

イジメを止めたくても、止められない。イジメられている人を助けたいけど、恐くてできない。これが、「集団圧力」の働きです。一人ひとりの個人が自由であるとは、自分を取り巻くいくつもの集団の圧力に縛られないということなのですが、人が集団の圧力に負けずに自由であることは、実はなかなかに難しいことと言わねばなりません。

社会全体と個人の関係も、まったく同じことが当てはまります。集団が大きくなると、「集団圧力」はもっと大きくなります。極端な場合、社会がある一つの考え方に個人の同調を求めて、それ以外の考え方を許さないということさえおこります。社会が個人の考え方や行動をがんじがらめに縛りつけて、それ以外の考え方を許さない窮屈な社会。その考え方に従わない人々を徹底していじめ抜く社会。場合によっては、虐殺さえする社会。戦前の日本がまさしくそのような、社会的同調圧力極大化の社会でした。

戦前の社会が、国民のすべてに押し付けようとした考え方というのは、「天皇は神の子孫であって、天皇自身も神である」「神である天皇が治める日本は神国である」「神である天皇の命令に間違いはない」ということでした。もちろん、大ウソです。神とされた天皇こそ、国民を統治に従わせようとする側の人々にとって、この上ない便利な道具でした。そのような便利な道具として作りあげられたのが天皇制でした。

天皇が神であるというウソを国民に押し付けるために、天皇制政府はもったいぶった、神がかりの儀式や演出を、天皇やその家族にさせました。昔の服を着せて、カネを鳴らしたり笛を吹いたり。祝詞を上げたり。本物とはずいぶんちがった立派な容貌の天皇の肖像画を描かせてこれを写真にとり、全国の学校に配って、子どもたちに拝ませたりもしました。

さて、どれだけの人が天皇が神というウソを信じたでしょうか。おそらく、多くの人は天皇は神だと信じた振りをしていたのでしょう。そのように振る舞うように、強力な社会的圧力が働いていたからです。

日本の敗戦によって、こんなウソを信じる振りをする必要はなくなりました。天皇に、恐れ入る必要のない時代になったのです。子どもたちが、のびのびと、「天皇って、昔は神さまとされていたんだって」「へー、そんな時代があったんだ」と会話のできる時代になったのです。

ところが、このところ少し風向きがおかしいように思うのです。気になるのは、メディアの天皇への過剰な敬語や、皇族への過剰な遠慮。なんとなく恐れ入った態度の蔓延です。

もうすぐ天皇が交替します。現天皇からその長男へ。天皇が誰であろうと、私たちの暮らしに何の関わりもありません。あってはならないのです。この、騒ぐこともない、どうでもよいはずのことを、なんだかたいへんなことのように、大騒ぎする人々がいます。天皇の交替で、時代が変わるもののごとくに。

実際は何も変わりません。天皇の交替など、国民にとって、どうでもよいことなのです。明日(4月1日)、天皇の交替に伴う新しい元号が発表されます。元号という時の区切り方の本家は中国です。こちらが、「皇帝が時を支配する」という大ウソの本家本元。中国の周りの国のミニ皇帝たちが、これを真似しました。ウソの分家です。日本もその一つ。本家の中国では、今は元号を使っていません。煩わしくて、ビジネスにも政治や経済にも日常生活にも、学問や科学技術にも、そして何よりも国際交流に、不便なことが明らかだからです。年代の表記はグローバルスタンダードである西暦一本とすることが最もシンプルで便利。いまや、元号というローカルなツールに固執しているのは、日本のみ。こんなもの後生大事に抱えていて、日本はホントに大丈夫でしょうか。

最も気になることは、天皇は神であるというウソを国民に信じさせるための、もったいぶった神がかりの昔の儀式や演出がまたぞろ、大がかりに復活しそうな気配のあることです。

政府は、既に新元号を決めているはずです。でも、けっして官房長官が公表する前に漏洩があってはならない、という固い姿勢です。いったい何をもったいぶっているのでしょうか。官房長官も首相も、新元号を発表する自分たちに、国民の耳目を向けさせようという魂胆であることがありありです。何のことはない。政権のための代替わり。

国民の天皇への関心は、政権や、保守論壇や、メディアや、財界によってつくられたものです。再び天皇制に利用価値ありとの思いから。国民意識の統合に、戦前とは違った形で天皇制の利用が進展しているものと警戒しなければなりません。

これを機会に、天皇制と結びついた、不便な元号など使わないことが、主権者としての国民に最もふさわしいありかただと思います。ところが、そうすると往々にして、社会的同調圧力が働きます。「あなたは日本人でありながら、日本に固有の元号を使わないの?」「もしかして、あなたは非国民では?」という圧力。イジメの構造と変わるところがありません。この圧力に負けてしまうと、国民主権の実質が失なわれかねません。天皇制を便利な道具としようという、政権運営の思惑を許してしまうことになってしまいます。

役所や、銀行や、郵便局や、宅配業者などの窓口で、元号での年月日記入を求められることがあったら、必ず西暦で記入しましよう。それを咎められたら、「元号使用を強制するとおっしゃるのですか」「私は西暦使用にこだわります」とがんばってみてください。

小さな抵抗の積み重ねが大切だと思います。勇気をもってのイジメからの離脱が、イジメをなくすることにつながるように、小さな元号使用拒否の動きが、再び天皇制の政治利用を許さない、民主主義社会の形成につながるものと思うのです。
(2019年3月31日)

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