澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「憲法日記」連続更新2200回を通過 ― 元号不使用のお勧め

当ブログは、毎日更新を宣言してその実行を続けている。一昨日(4月10日)が、連続更新2200回の節目だった。2013年4月1日を始点に連載を始めて、先月末で6周年。昨日が2201回目、本日(4月12日)は2202回目となる。その以前、日本民主法律家協会のホームページに連載した「事務局長日記」は連続更新800日余の程度だったから、今回は大幅に長期のものとなった。

連載を始めた当初、運動の現場で使ってもらえるものを書きたい、という発想があった。1970年代初めからの私の弁護士生活の前半部分は、労働組合や市民運動との付き合いが深かった。多くの小さな運動体の書記長や事務局長が、驚くべき勤勉さと有能さを発揮して、組織のミニ機関紙を発行していることに強い印象を受けた。

ガリ版で毎朝配布の「分会ニュース」を発行している全金の職場があった。その分会書記長の情熱やエネルギー、あるいは創意工夫の全能力は、もっぱら組合運動に費やされ、企業の欲するような従業員としての就業の余力はなかったようだ。それが、仲間からの信頼の源泉だった。

そのような活動家たちが望んでいたのが、「埋め草」である。狭いスペースの分会ニュースでも、全紙を埋めるのは容易なことではない。現場で切実な闘争課題だけでなく、労働運動や平和運動、憲法問題などのネタがあれば、余白を埋められる。そんなふうに使ってもらえるものが書ければよいと思いつつ、なかなか思い通りにならない。

本日は、初心を思い起こして、「埋め草風」に徹した文章にしてみたい。これまでの記事を再構成して、短かく読み易く、転載しやすいネタの提供。「元号不使用の勧め」である。

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元号は欠陥製品だ。この際、使うのやめよう。
明治・大正・昭和・平成という元号。年を表示するための道具だが、これは使い勝手の悪い、不便な道具だ。道具としては出来の悪い欠陥品というしかない。時は、切れ目なく続くのに、元号は何の合理性もなく不自然に、そして突然に時代を区切ってしまう。そこに、欠陥の本質がある。
ある人の生年月日と死亡年月日から、その人の死亡年齢を計算しようとする。西暦表示なら引き算一回で済むところを、元号表示だと、異なる元号を西暦に換算したうえでの計算を必要とする。この元号から西暦への換算は、あらゆるところで問題となり厖大なビジネスのコストとなる。
元号の欠陥は、その賞味期限限定性と、地域限定性にまとめることができる。
元号は有限であって、その期間は一世代分しかもたない。平均30年というところである。しかも、現在の元号がいつ終わるか、次の元号がいつから始まるかわからない。何よりも、次の元号が決まらないのだから、将来の年の表示ができない。これは、致命的な欠陥である。
もう一つ重大な欠陥は、このグローバルの時代に、元号は日本以外に通用しないということ。国内限定の製品なのだ。内向き、外向きで使い分ける? そんなバカバカしいことをする必要はない。すべて西暦で統一すればよいだけのこと。
4月30日に平成で表示される時代は終わる。これを期に、こんな不便な欠陥品の押しつけは拒否しようではありませんか。

 

元号は不便なだけでなく、有害なのだ。この際、使うのやめよう
元号とは、天皇の代替わりがあると、時代をリセットして年を数え直すという仕組み。一億人の日本人のうちのたった一人の都合に、ほかの全員が付き合わされるという無茶苦茶な年の数え方。
なぜ、誰が考えてもこんな不合理なことがまかり通るのか。為政者が国民に元号を使わせたいからだ。なぜ、為政者は国民に元号を使わせたいのか。元号と天皇制とが緊密に結びついており、国民生活に天皇制を刷り込むためには、元号使用が効果的だからだ。為政者は、なぜ国民生活に天皇制を刷り込みたいのか。天皇の権威を受容する国民こそが、御しやすい為政者に好都合な被治者だからだ。憲法が想定する、自立した主権者としての意識を確立した国民こそは、為政者のもっとも嫌うところなのだ。
だから、元号使用は「臣民」にこそふさわしい。主権者としての自立した国民に元号使用はふさわしくない。これを機会に元号使用はもうやめよう。

 

「令和」は、イヤーな漢字の組み合わせ。この際元号使用を止めよう。
「令」とは、普通の言語感覚の持ち主なら、まずは、命令・法令・勅令・訓令の令を連想する。さらには、威令・禁令・軍令・指令・家令・号令。布令…。この文字の原義は、権力者から民衆に、お上から下々への命令と、これをひざまずいて受け容れる民衆の様を表すイヤーな漢字。
さらに、「和」だ。この和は、本来なら、平和・親和・調和・柔和の和として悪かろうはずはない。ところが、天皇やら政権やら自民党やらが、この字のイメージをいたく傷つけ、ねじ曲げている。決定的なのは、右翼の改憲案には大抵「和」が出て来ることだ。たとえば、自民党の憲法改正草案。その前文にこうある。
「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。」
右翼は、みんな「和」が好きなのだ。自民党自身がこう解説している。
「『和の精神は、聖徳太子以来の我が国の徳性である。』という意見があり、ここに『和を尊び』という文言を入れました。」
「十七条の憲法」は日本書紀に出て来る。もちろん漢文である。その第一条はやや長いが、冒頭は以下のとおり。「以和爲貴、無忤爲宗」
「和を以て貴しと為し、忤(さから)うこと無きを宗とせよ」と読み下す。「忤」という字は難しいが、「逆」の類字と説明されている。従順の「順」ではなく、反逆の「逆」である。要するに、「和」とは、「上級官僚と下僚の調和」である。しかも、その調和のありかたは、「下は上に逆らわず、従順に機嫌をとる」ことを表している。これは、上から目線での説教以外のなにものでもない。これは、古き日本の伝統かも知れないが、近代憲法の国民主権原理とは無縁。
自民党改憲草案前文の「和」が、新元号の一文字として埋め込まれたことから、真っ当な言語感覚を持つ者には、「令和」とは、「『下々は、権力や権威に従順であれ』との命令」の意と解さざるを得ない。英訳すれば、令和はダブルのorderであって、「order and order」と言わねばならない。だから、令和の使用は恥ずかしい。一切使用は止めよう。

 

「元号使用」の拒否こそが主権者としてのありかただ。
元号使用の法的義務はありません。そんな押しつけができるわけはない。しかし、為政者は巧妙に元号を使わざるを得ないような仕掛けを考えます。役所に行けば、元号の世界。断固拒否するのは、やや勇気の要ること。また、問題は、元号使用強制の社会的圧力です。一人ひとりの個人が自由であるとは、自分を取り巻くいくつもの集団の圧力に縛られないということなのですが、これがなかなかに難しいことと言わねばなりません。
とりわけ、このところ少し社会の風向きがおかしいように思うのです。気になるのは、メディアの天皇への過剰な敬語や、皇族への過剰な遠慮。なんとなく恐れ入った態度の蔓延です。
もうすぐ5月1日。天皇が交替します。現天皇(明仁)からその長男(徳仁)へ。天皇が誰であろうと、私たちの暮らしに何の関わりもありません。あってはならないのです。この、騒ぐこともない、どうでもよいはずのことを、なんだかたいへんなことのように、大騒ぎする人々がいます。それを煽る人々がいます。天皇の交替で、時代が変わるもののごとくに。
その「時代が変わる」と思わせる仕掛けが元号の変更です。実際は何も変わりません。天皇の交替など、国民にとって、どうでもよいことなのです。元号という時の区切り方を発明した本家は中国です。こちらが、「皇帝が時を支配する」という大ウソの本家本元。中国の周りの国のミニ皇帝たちが、これを真似しました。ウソの分家です。日本もその一つ。本家の中国では、今は元号を使っていません。煩わしくて、ビジネスにも政治や経済にも日常生活にも、学問や科学技術にも、そして何よりも国際交流に、不便なことが明らかだからです。年代の表記はグローバルスタンダードである西暦一本とすることが最もシンプルで便利。いまや、元号というローカルなツールに固執しているのは、日本のみ。こんなもの後生大事に抱えていて、日本はホントに大丈夫なのでしょうか。
天皇制と結びついた、不便な元号など使わないことが、主権者としての国民に最もふさわしいありかただと思います。ところが、そうすると往々にして、社会的同調圧力が働きます。「あなたは日本人でありながら、日本に固有の元号を使わないの?」「もしかして、あなたは非国民では?」という圧力。イジメの構造と変わるところがありません。この圧力に負けてしまうと、国民主権の実質が失なわれかねません。天皇制を便利な道具としようという、政権運営の思惑を許してしまうことになってしまいます。
元号変更の機会に、ちょっとの勇気を発揮して、元号使用を止めませんか。役所や、銀行や、郵便局や、宅配業者などの窓口で、元号での年月日記入を求められることがあったら、必ず西暦で記入しましょう。それを咎められたら、「元号使用を強制するとおっしゃるのですか」「私は西暦使用にこだわります」とがんばってみてください。小さな抵抗の積み重ねが大切だと思います。勇気をもってのイジメからの離脱が、イジメをなくすることにつながるように、小さな元号使用拒否の動きが、再び天皇の政治利用を許さない、民主主義社会の形成につながるものと思うのです。
(2019年4月12日)

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