澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

自分自身の思想と良心を守り抜いた原告の皆さまに敬意を表します。

東京「君が代裁判」4次訴訟の終了報告集会にご挨拶申し上げます。
提訴から最高裁決定で確定するまでの、事件の経過や各審級の判決内容は、平松真二郎弁護団事務局長から報告があったとおりですので、私は別の角度からのお話しをさせていただきます。

弁護士は、事件と依頼者によって、はじめてはたらく場が与えられます。事件と依頼者によって、弁護士としての生きがいを得、力量を育てられるものです。私は、育てられるにはやや手遅れですが、私を除く弁護団の皆が、この事件に真剣に取り組み、弁護士としての生き甲斐を得、大きく育てられたことをありがたく思っています。

人はパンのみにて生くるものにあらず。弁護士はルーチンの債務整理のみにて生くるものではありません。弁護士を志したときには人権擁護の理念に燃えていたはずです。そのような弁護士本来の活動の機会を得たことを好運に思い、魅力ある原告の人々と信頼関係を築いて交流することができたことをありがたいこととも、好運であったとも、思っています。

この訴訟では、君が代不起立に対する懲戒処分のうち、減給・停職の苛酷な処分はすべて取り消されて確定しました。そのうちの田中さんに対する、4回目・5回目の不起立に対する減給処分がいずれも取消されて確定したことが、特筆すべき成果として強調されています。原告の訴えをよく聞く耳を持っている、血の通った裁判官のお陰でもありますが、私は、一審14人の原告団全員の熱意と真面目さが裁判所を動かしたのだと思います。田中さん一人の成果ではなく、14人全員の成果であったと思います。また、その成果は、予防訴訟から、処分取消を求めた1次、2次、3次訴訟の積み上げの上に、大きな支援の輪の広がりの中で勝ち得られたのだと思います。

一方、残念ながら4次訴訟でも、戒告処分を取り消すことはできませんでした。最高裁の壁は厚かったというほかはありません。このことは、5次訴訟以後の課題として残されたことになります。私たちは、日本国憲法の理念から、「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱せよ」という職務命令も、その職務命令違反を理由とする懲戒処分も、本来は違憲違法なのですから、戒告処分取消の判決を得るまで、力を尽くしたいと思っています。

すこしだけ、この事件において問われているものを振り返ってみたいと思います。
最近、何度か韓国へ行く機会があります。その都度ことあるごとに、韓国では国旗国歌への敬意強制に関する問題はないのか、強制に反対の運動はないのかと聞くのですが、誰もが強制を意識することもないし、強制反対の運動もない、と言います。

よく知られているとおり、韓国の国旗は太極旗。起源は李氏朝鮮時代からと言いますが、1919年の3・1独立運動では、独立を求める行進の先頭にこの旗が立ち、独立宣言文以上に、独立を求める民衆を鼓舞する役割を果たしたと言われています。以来、抗日と民族独立運動のシンボルとなり、独立後に正式に国旗として制定されました。

韓国では、右派・左派を問わず、国旗に親近感・肯定感が強いようです。この旗に、プライドを持ち、この国旗に敬意を表することは当然のことという共通の了解があり、国旗に敬意を強制の問題も、国旗に抵抗の問題も聞いたことがない、と言うわけです。

日本では事情が違うとお話しします。日本で国旗とされている「日の丸」は、かつては富国強兵と滅私奉公をスローガンとした、天皇制軍国主義国家のシンボルでした。侵略戦争と植民地主義の象徴だったと言ってよい。敗戦後、新憲法で国の基本原則が根底から変えられたのに、「日の丸」は依然として国旗となっている。この旗を憲法理念に敵対する旧体制の残滓のシンボルと考え、敬意を表することができないという少なからぬ良質な人々がいます。私も、日の丸は嫌いだ。こう説明すると、「なるほど。分かります。そんなふうに、国旗の成り立ちや意味合いが違うのですね」ということになります。日本の事情は分かるけど、韓国は違う、というわけです。

でもね、と話は続きます。日本ではあまり知られていませんが、韓国の国歌は「愛国歌」といいます。その歌詞は、韓国の自然や国民の精神を讃え、最後がこう結ばれています。

この気性とこの心で忠誠を尽くし、辛くとも楽しくとも国を愛そう

忠誠の対象は国。愛そうという呼びかけの対象も国。私の感覚では、「国に忠誠を。国を愛そう」なんて歌は気持ちが悪くて歌えない。どんな民主的な国であろうとも、国家は権力として国民と対立する。自立した個人の尊厳を守るためには、どんな国家に対しても、批判や抵抗が必要ではないか。国旗国歌に無批判に敬意を表するということは、個人の尊厳を放棄して権力に従順であれということ。だから、「国を愛そう」などとは言うべきではないし、けっして言えない。国旗国歌に忠誠を誓ったり、敬意を表明するなんてできない。そう考えている少なからぬ良質な人々がいる。私もその一人だ。だから、「日の丸が嫌い」だけでなく「国旗」が嫌いだ。

こう言うと、韓国のたいていの人は首を捻ります。そういう理屈は分からないでもないが、現実にはそんな問題も運動も韓国にはないと思います、となる。

今年(2019年)5月18日光州民主化運動犠牲者追悼の国家式典に参加しました。この式の冒頭に韓国国歌の演奏を聴きました。ああ、韓国の国民は、国旗国歌に違和感がないのだな、と思わせられました。

日本と韓国、国旗国歌に対する国民感情がずいぶん異なります。「日の丸・君が代」強制を受け入れがたいとする私たちは、いったい何に抗い、何を求めているのだろうか、と考えます。

問われているものは、歴史観であり、国家観であり、教育観ではありますが、その根底にあるのは、個人の尊厳を擁護する課題だと思うのです。自分を大切にしたい、自分の人生の主人公は自分自身であって、自分の生き方は自分で決める。国家に余計な口出しはさせない、ということが根本にあるように思うのです。

国家の権力や、社会の多数派が求めるとおりの生き方は、波風が立たず、案外楽なのかも知れません。しかし、自分は自分である、みんながそれぞれの個性を認め合って、生きてゆける社会を作りたい、とりわけ次代の社会の主人公を育てる立場の教員であれば、そう思うのは当然です。これを蹂躙する権力の行使は、理不尽極まるものといわねばなりません。

とは言え、この理不尽に抵抗するか、妥協するか。これは、人生観の分かれ目。敢えて、覚悟の抵抗をされた方に、私は尊敬の念を禁じえません。

そこで、不起立を貫き、この訴訟を闘い抜いた意義を確認したいと思います。まず、何よりも自分を裏切らず、自分の信念を曲げることなく、自分自身のプライドを守ったことが大きな成果ではないでしょうか。憲法を武器に、堂々と正論を述べたことを誇りにしてよいと思います。

それだけではなく、国旗国歌の強制に反対の大きな運動に参加し寄与したことも、素晴らしい成果だと思ます。原告の皆さんは、はからずも、歴史を進歩の方向に動かすか、退歩の方に動かすかの岐路に遭遇したのです。あきらめて権力に膝を屈するのではなく、敢然と力を合わせて闘ったことが、歴史を進展させるベクトルに作用したのです。日の丸・君が代強制反対運動は、人権運動であり、民主主義擁護運動であり、自由な教育を目指す運動でもあります。4次訴訟原告の皆様が、この運動に力強い刺激を与え、これを支える大きな力となって来られたことに、重ねての敬意を表明して、ご挨拶とします。
(2019年6月1日)

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