大嘗祭を国家の行事としてはならない。国費を投じてはならない。
本日(11月14日)の夕刻から明日未明にかけて「大嘗祭」の中心行事だという「大嘗宮の儀」が催される。実のところ、大嘗宮の奥まった密室で新天皇が何をするのかは窺い知れない。何しろ、「秘儀」とされているのだから。「秘儀」ではあるが、最も重要な宮中神事だという。
「秘儀」ともったいぶるのは、神秘と権威をひけらかす常套手法。新天皇が神と一体になり、新天皇に神の霊力が備わるという、通常人の理解を超えた宗教儀式には神秘性がなくてはならない。白昼、群衆の目に曝されるところでは、神秘の儀式は成立し得ない。深夜、密室での、秘儀であればこそ、荒唐無稽な意味づけの神事も成立しうる。都合のよいことに、「なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」と言ってくれる下々が大勢控えているのだ。
この秘儀に、27億円の国費が費やされる。皇室にどんなに重要なものであっても、いや重要なものであればこそ、憲法は公的な宗教行事は一切認めない。神事に公費の支出は違憲である。もちろん、大嘗祭の費用を宮廷費から支出するなど明らかに違憲。もってのほかというしかない。
もっとも、天皇にも純粋に私人としての信仰の自由は認められてよい。天皇の神事は、天皇が身銭を切って、身の丈に合わせて、身内の行事として、ひっそりとやっていればよいはずのもの。
秋篠宮発言は、下記のとおりの具体的な具体的な提案となっていた。
「宗教色が強いものを国費でまかなうことが適当かどうか」「大嘗祭には天皇家の私的生活費の『内廷費』を充てるべきだ。身の丈に合った儀式で行うのが本来の姿」「大嘗祭のために祭場を新設せず、毎年の新嘗祭など宮中祭祀を行っている『新嘉殿』で行い、費用を抑える」
「身の丈に合った」「内廷費での」大嘗祭挙行は、おそらく皇室・皇族の一致した希望なのだろう。でなければ、秋篠宮があれだけはっきりと発言できるはずはなかろう。できるだけ世論に反発を受けない、出過ぎない皇室の在り方をめざすもの。しかし、為政者にとって大事なのは、国民の統合や、保守政治の道具として使える天皇制でしかない。皇室や皇族の意向を無視して、「身の丈を遙かに超えた」大嘗祭となっている。
大嘗祭に使用だけの目的で大嘗宮関連建築物を建設し事後速やかに取り壊すという税金の無駄遣いが20億円。この深夜の無駄遣い儀式に、三権の長以下700人が参列するという。何をするのか訳の分からぬ行事のために、なんという大仰な馬鹿馬鹿しさ。
共産党は、こう言って、大嘗祭への出席を拒絶している。
「大嘗祭」は、天皇が神と一体になり、そのことによって民を支配していく権威を身につける儀式として古来より位置づけられてきた。国民主権の原則にも、政教分離の原則にも明らかに反する。
社民党も同様の見解で出席しない。常識的な憲法感覚を持つ者にとっては当然のこと。
問題は公明党。創価学会という宗教団体をバックとする同党が、どうして「他宗教の行事」に参加できるのだろうか。
もちろん、宗教の教義は無限に多様である。他宗にひたすら寛容で無原則の宗教団体もありうる。しかし、創価学会は日蓮の教えの正統な承継者を自負して、他宗には非寛容の厳格さで知られる。戦前には、創価教育学会が国家神道に弾圧された歴史もある。それでも公明党を、秘儀なる神事に参列させるのだ。天皇制恐るべし、というほかはない。
大嘗祭に国が関わり国費を支出することは、たまたま憲法に政教分離条項があるから違憲となるのだなどという底の浅いものではない。日本国憲法は、戦争の惨禍をもたらした神権天皇制の復活を絶対に認めないという大原則のもとに,象徴天皇制を容認した。象徴天皇とは、権力を持たないと言うだけではなく、いかなる意味でも神ではない一介の公務員職としての天皇を意味している。しかるところ、大嘗祭とは天皇を神とする意味づけの儀式ではないか。ことは、憲法の根幹に関わっている。けっして、いささかも、国家の関与は認められない。
繰り返し、言わねばならない。
日本国憲法の政教分離原則とは、再び天皇を神としてはならないということであり、天皇を神にする儀式である大嘗祭に国家が関与してはならない。
(2019年11月14日)