憲法の構造として「卵黄と卵白」をイメージしよう。
日本国憲法の全体像を図形的にどうイメージするか。こういうことを考えてみることは、楽しい作業である。もちろん飽くまでもイメージに過ぎないものだが、憲法の基本構造をどう把握し、憲法各パートの関連をどう理解するか、自分なりの憲法観の確認でもある。いったい、象徴天皇制とは、その構造のどこにどのように位置するものか。
憲法の基本構造を「3本の柱」の構築物と捉えることが、「新しい憲法のはなし」以来のスタンダードではないだろうか。この教科書では、「いちばん大事な考えが三っつあります」として、「民主主義」と「国際平和主義」と「主権在民主義」を挙げている。
この憲法体系イメージのミソは、「(象徴)天皇」という柱のないことである。「主権在民」の柱は、天皇主権を否定してそびえている。「民主主義」も「国際平和主義」も、大日本帝国憲法の体系を否定し、そのアンチテーゼとして確立されたもの。「新しい憲法」の解説としては、優れものだったろう。
しかし、この3本柱イメージは、「人権」が欠落している点で、違和感を禁じえない。近代立憲主義の視点からの整理がなされているともいいがたく、体系性に欠けるといわざるを得ない。
私の世代は、「国民主権」・「恒久平和」・「基本的人権」の3本の原理を柱として、憲法体系が成り立っているという憲法構造の把握に馴染んできた。この3本柱の構造も、天皇制の旧憲法とは異なる「新憲法の特徴」を取りあげて「重要な柱」として列記したもの。そのとおりではあるが、各柱それぞれの位置づけや関係性には無頓着で、これも体系的なものとは言いがたい。
私は、卵の形と把握したい。もう少し正確に言えば、卵の内側の構造。黄身(卵黄)と白身(卵白)の関係のイメージ。大切な黄身を壊さぬように、白身が優しく包んで支えているという構造。黄身が人権である。ここに憲法価値が凝縮されている。白身が統治機構である。黄身を支え、黄身を保護するものとしての役割を担っている。白身がなければ、黄身は保護されない。だから、白身もとても重要である。が、もとよりその重要性は、黄身を守るためのもので、それを超えての価値があるわけではない。
白身が肥大して、黄身を押し潰してはならない。白身は、自制のためのいくつものサブシステムをもっている。それが、三権分立であり、民主主義であり、戦力の不保持であり、検閲の禁止であり、学問の自由であり、教育への支配の禁止であり、司法の独立であり、平和主義であり、租税法定主義等々である。
天皇制はもちろん黄身の一部ではない。白身の一部として端っこに紛れ込んではいるが、人権を支える役割を担うものではないから、明らかに異物である。黄身を保護すべき白身の機能の邪魔にならない限りで存在が許容されるが、次第に器質的にも機能的にも縮減していくことが望ましい。
「憲法を護る」とは、この黄身である基本的人権を護ることである。それに資する限りで、白身の機能を護ることである。憲法体系の端っこに天皇制が書き込まれているからという理由で、天皇制を擁護することが体系としての憲法を護ることではない。むしろ、天皇制を廃絶に向かわしめることこそ、異物を排して憲法を護ることなのだ。
この至高の価値としての人権とこれを支える統治機構の関係の比喩は、卵黄と卵白でなくてもよい。貝の身と貝殻でも、カンガルーの赤ちゃんと母親の袋でも、ウニとトゲでも、ひなと鳥の巣でも、小銭と財布でも、果実のタネと果肉でも、あるいは電力と送電線でも、コンテンツと通信手段でも、なんでもよいのだ。が、大切に黄身を抱く白身のイメージがふさわしいように思われる。
どのようにイメージしても、天皇の存在は、憲法の番外地でしかない。そのことを、国費を投じた大嘗祭の挙行に際して確認しておきたい。
(2019年11月15日)