澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

民主主義と人権との幸福な調和を

お招きいただきありがとうございます。
憲法の視点から、「自主的団体の役割と課題」を語れという、滅多にないテーマでお話しする機会をいただいたことを感謝いたします。

私が物心ついたころには既に日本国憲法の世でありました。親の世代から平和のありがたさをくり返し教えられて、憲法を糧に育ってきました。中学校で初めて憲法を学びましたが、民主主義(国民主権)・平和・基本的人権という3者の理念を相互に「幸福な調和」をなすものとイメージしました。

戦前は、この3者ともなかったのです。民主主義の欠如が戦争を招いた。人権を抑圧することが戦争を可能とした。天皇のために死ぬことを尊しとする無人権国家に、民主主義が育つはずはない。という時代だったと言えましょう。

敗戦を機に世の中は変わりました。民主主義が徹底すれば、人権と平和を尊重する政治が行われる。人権の尊重は自ずと平和と豊かな民主々義をもたらす。不戦の誓いが、人権と民主主義の担保となる。そのように、漠然としたものではありましたが未来をとても明るいものとイメージした記憶です。

しかし、弁護士として仕事をするようになって、なかなかそうではないことの悩みを抱え続けて来ました。とりわけ、「人権vs.民主主義」の対立構造が重要です。この2者について、どのようにして調和をはかるべきか。その現実的・実践的課題に現在も直面しています。

私は、究極の憲法価値は「個人の尊厳」だと思っています。それ以外の民主主義・平和・法の支配・権力分立・司法の独立・教育の自由・地方自治‥等々は、それぞれ重要ではありますが、人権を実現するための手段的価値でしかない。そう考えています。

今日のお話しのテーマは、その尊厳の主体である「個人の人権」と「参加団体の民主主義」との関係の問題です。

この社会において、個人が無数の砂粒としての存在である限りは無力な存在と言わざるを得ません。支配に対する抵抗の術を持たず、個人の尊厳を実現する力がありません。任意に設計した集団や組織を形成し参加することによって初めて、自己の尊厳を実現すべき力量を獲得することになります。

一面、無力な個人が集団や組織を形成することによって自らの人権を擁護し伸長する実力を獲得するのですが、他面、集団や組織をかたちづくった途端に、できあがった集団や組織とその構成員との間における対立を背負い込むことになります。この宿命的な課題をどう捉えるべきでしょうか。

究極に「個人」と「国家」の対立構造があります。「人権の尊重」と「社会秩序維持の要請」の対立と言い換えてもよいと思います。いうまでもなく、日本国憲法は自由主義・個人主義の立場でできています。ですから、個人の尊重を究極の価値とし、国家の価値に優越するものとしています。とはいうものの、秩序の無視はできません。重んずべき秩序の内実を十分に見極めることが必要で、おそらくは「秩序」自体は憲法価値ではないけれど、秩序の維持を通して守ろうとしている人権の実体があるはずで、結局は人権対人権の価値の調整をしているのだと思います。

国家と個人の間に、無数の、多様な「中間団体」があります。個人の自立と並んで、中間団体の公権力からの自立が社会の民主的秩序形成に死活的に重要だと思います。自立した個人がつくる自立した自主団体が、「公権力の支配」からも「全体主義的な社会的同調圧力」からも自由であることの重要性はどんなに強調しても過ぎることはないと思うのです。

その反面、あらゆる中間団体が、構成員の自立や権利と対峙する側面をもつことになります。「民主的に形成された団体意思が、成員の思想・良心を制約する」ことです。つまり、民主主義が人権を制約するという問題です。私たちが、日常生活で常に経験する葛藤と言ってよいと思います。

その葛藤の中で、時に抜き差しならない具体的な問題が出てきて、大きな話題となることがあります。そのようなときに、問題の本質を考える手がかりを得ることになります。たとえば、著名な判決となっている次のような実例があります。

*八幡製鐵政治献金株主代表訴訟・最高裁大法廷判決(1970/6/24)
 企業の特定政党への政治献金問題が許されるかという問題です。八幡製鐵の株主が、同社から自民党への350万円の政治献金を違法としての提訴でした。一審は、株主の主張を認めたのですが、高裁で逆転。最高裁は大法廷判決で上告を棄却しました。その理由として、「社会的実在たる法人は性質上許す限り自然人の行為をなしうる」という側面をのみ強調し、「会社が特定政党への政治献金をすることによって株主の思想信条を害することにならないか」という側面の吟味がないがしろにされています。「企業献金奨励判決だ」と、評判の悪い判決の代表格です。

*国労広島地本事件訴訟最高裁判決(1975/11/28)
 「労働組合が特定の公職選挙立候補者の選挙運動の支援資金として徴収する臨時組合費について組合員は納付義務を負うか」という問題で、最高裁は否定の結論をくだしました。もとより、労働組合には、民主的な手続による組合の決定事項に関しては組合員に対する強制の権限があります。そのような統制なくして、企業と闘うことはできません。自分たちの要求を貫徹するために必要であれば政治的な決定もできます。民主的な手続を経て選挙の支援決議も可能です。しかし、その統制権限も、組合員の政治的思想を蹂躙することはできない、というのです。組合員の政党支持の自由こそが尊重されるべきで、労働組合が政党支持を決議することはできても、これを組合員に強制することはできない、という結論です。

*南九州税理士会政治献金事件・第3小法廷判決(1996/3/19)
 南九州税理士会に所属していた税理士が、政治献金に充てられる「特別会費」を納入しなかったことを理由として、会員としての権利を停止されました。これを不服として、会の処置を違法と提訴した事件です。最高裁判所は、税理士会が参加を強制される組織であることを重視し、税理士会による政治献金を会の目的の範囲外としました。
 次の理由の説示が注目されます。「特に、政党など(政治資金)規正法上の政治団体に対して金員の寄付をするかどうかは、選挙における投票の自由と表裏を成すものとして、会員各人が市民としての個人的な政治的思想、見解、判断等に基づいて自主的に決定すべき事柄であるというべきである。なぜなら、政党など規正法上の政治団体は、政治上の主義若しくは施策の推進、特定の公職の候補者の推薦等のため、金員の寄付を含む広範囲な政治活動をすることが当然に予定された政治団体であり、これらの団体に寄付することは、選挙においてどの政党又はどの候補者を支持するかに密接につながる問題だからである」
立派な画期的判決と言ってよいと思います。

私の問題整理の視点は、「団体の意思形成が可能か」「形成された団体意思が構成員を拘束できるか」と意識的に局面を2層に分けて考えることです。前者が団体意思形成における手続上の「民主主義」の問題で、後者が不可侵の「人権」の問題です。「民主的な手続を経た決議だから全構成員を拘束する」とは必ずしも言えないことが重要です。いかに民主的に決議が行われたとしても、そのような団体意思が構成員個人の思想・信条・良心・信仰などを制約することは許されない、ということです。

どんな団体も、その団体が結成された目的(厳密に定款や規約に書いてあることに限られませんが)の範囲では広く決議や行為をなしえます。が、成員の思想・信条・良心・信仰を制約することはできません。

私は、このことを「人権が民主主義に優越する」と結論して話しを終わらせたくありません。構成員の人権を顧みない乱暴な決議をするような団体運営があってはならないと思うのです。民主主義とは、決して多数決と同義ではありません。ましてや少数の意見を切り捨てることでもありません。徹底した意見交換の積み重ねによって、可能な限りメンバーの意見が反映されるような運営ができなければなりません。時間はかかり、面倒ではあっても、そのような組織運営の在り方が、その団体の連帯や団結を保障することになると考えます。

あらゆる自主的組織における「人権原理と民主主義との調和」は、組織の意思形成過程において徹底した組織内言論の自由、とりわけ幹部批判の自由を保障して論議を尽くすこと。その過程で、成員の思想・良心・信仰の自由に関わる問題については、十分な配慮がなされるはずではありませんか。

貴団体が、意識的にそのような組織運営をすることで世の模範となるならば、人権と民主主義との幸福な調和をもたらす社会の実現に大きな寄与をすることになるものと思います。ぜひ、そのような成果を上げていただきたいと切望する次第です。
(2014年6月28日)

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