澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

東京「君が代」裁判・4次訴訟の客観的アプローチ論

猛暑のさなかに「熱気」あふれる集会所にお集まりの皆様、ご苦労様です。
「東京『君が代』裁判第4次訴訟」の概要をお話しさせていただきます。

「東京『君が代』裁判」は、都立校の卒入学式において「国旗起立・国歌斉唱」「国歌伴奏」の職務命令違反を理由とする懲戒処分の取り消しを求める行政訴訟です。1次訴訟から4次訴訟まであり、1次訴訟は2012年1月16日、2次訴訟は2013年9月6日に、いずれも最高裁判決で確定しています。両判決は、22件の減給処分と1件の停職処分を取り消しましたが、もっとも軽い戒告処分については「違憲違法だから取り消せ」という原告側の請求を退けています。今、3次訴訟が一審東京地裁で結審して来年1月16日の判決期日を待っており、4次訴訟が新たに提起されてこれから本格的な審理が始まるところです。

4次訴訟の訴状は約130頁。目次を書き連ねたレジメを用意しましたが、おそらくこれでは平板に過ぎて分かりにくかろうと思われます。メリハリを付けてご質問に答えるかたちでお話しをさせていただきます。

原告側の言い分の最たるものは、訴状の冒頭「本件訴訟の概要と意義」のところに書いてあります。表題のとおり、「これまでの最高裁判決に漫然と従ってはならない」と裁判所に語りかけています。

「裁判所の果たすべき使命」の節に、最高裁判決の中に見られる『今日の滴る細流がたちまち荒れ狂う激流となる』という警句や、そして、「マルティン・ニーメラー」の述懐を引いています。最近の憲法状況をみるに、人権や民主主義、あるいは平和が危うくなっているという危惧を抱かずにはおられません。厳格に憲法を遵守すべき姿勢の重大性を強調しています。

「漫然と従ってはならない、これまでの最高裁判決」とは、1次2次の各訴訟の判決を指しています。その余の10・23通達関連事件判決も同旨で、「減給以上の重い処分は量定重きに失して違法となるので取り消すが、軽い戒告にとどまる限りは違憲違法とまでは言えない」というのが、最高裁多数意見の見解です。

最高裁の判断は、減給以上の懲戒処分を取り消した限りでは、頑迷固陋な都教委に鉄槌をくだしたものと言えます。あの、行政に甘いことで知られる最高裁ですら、都教委の累積加重の機械的懲戒システムを違法としたのです。都教委は、司法から「違法行為者」という烙印を押された行政機関として恥を知らねばなりません。

しかし、戒告を違憲違法とはいえないとした点で、私たちは、この最高裁多数派の見解を到底受け容れることができません。最高裁裁判官も馴染んできたはずの憲法学界の通説的見解から大きくはずれた判断だからです。

なんとか、戒告についても違憲あるいは違法という裁判所の判断を求めたい。そのために、1次、2次の訴訟とは違った構成の訴状となっていることをご理解ください。

まずは、これまでと同様、憲法19条(思想良心の自由の保障)違反の主張について、手厚く論理を構築しています。ピアノ伴奏強制事件の判決は、「ピアノ伴奏という外部行為の強制は、客観的一般的には内心の思想良心を侵害するものではない」と言っていました。さすがにこれは、評判悪くて持ちこたえられず、1次・2次訴訟判決では、「国旗国歌への敬意表明という外部的行為の強制は、間接的には思想良心を侵害するものである」ことを認めました。しかし、同時に「間接的な侵害に過ぎないから、合憲判断に必要とされる厳格な審査基準の適用は必要なく、合理性・必要性が認められる程度で合憲と認めてよい」としたのです。

「間接的な侵害」に過ぎないという認定の吟味。「間接的な侵害」には厳格な審査基準不要という判断枠組みへの疑問と反論。そして、「必要性・合理性」存否の再点検まで追求しなければなりません。

それだけではなく、別の観点から新しい論点の設定が必要です。訴状では、「客観的アプローチ」、「客観違法」、「客観違憲」の主張をしています。19条違反、20条違反、あるいは23条違反という、「人権を侵害する」ところで行政の違法を把握し、「人権侵害故に違憲違法」とのアプローチを「主観的アプローチ」と呼ぶことにします。これとは異なり、そもそも当該行政機関にはそのような行為をすべき権能がない、という構成を「客観的アプローチ」と言ってよいと思います。

主観的なアプローチとしては一応最高裁の判断があったが、客観的なアプローチにおいての最高裁の判断はまだない、というのが私たちの立ち場です。

客観的アプローチは、立憲主義的アプローチでもあります。憲法とは、公権力と個人との関係を律するものです。先国家的な根源の存在である個人の尊厳こそが最高の憲法価値であって、主権者が後個人的な被造物として作りあげた国家が個人の尊厳に道を譲るべきは当然のことです。

ところで、国旗国歌は国家と等価な存在です。人は国家と等価な国旗国歌と向き合って、自分と国家との関係を形に表します。国家の象徴としての国旗国歌への敬意表明の強制は、国家を個人の尊厳の上に置くものとして、憲法の理念からはあるべからざることと言うしかありません。憲法的視点からは背理であり、倒錯にほかなりません。

この客観的アプローチだけでなく、10・23通達関連事件では最高裁が口を噤んでいる「教育の自由」の問題についても、重厚に論じて行きたいと思っています。

これまで、あらゆる公務員論のネックにあった、猿払事件最高裁大法廷判決の先例性に、堀越事件が切り込んでゆらぎが見えます。「七生養護学校事件判決」も、あらためて教育の自由に言及しています。

「日の丸・君が代」強制問題については、決して、最高裁判例が固まったとは考えていません。「戒告処分も違憲違法」そのような判決を目指していることをご理解ください。
(2014年7月27日)

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