澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

産経社説《国旗国歌 敬意払うのが自然な姿だ》に異議あり

「右翼」の定義は難しい。もしかしたら、不可能かも知れない。あれこれ考えた末の暫定結論は、「アンチ『左翼・リベラル』の立場」というほかはない。月は自身で光らず、太陽光を反射するだけの存在。右翼も同様、自らに積極的な思想らしい思想の体系があるわけではない。左翼・リベラルの主張や発言への反発を口にする反射神経を持ち合わせているだけ。結局はそれだけで、それ以上のなにものでもない。

太陽光がなければ月の存在は目に見えない。社会に左翼・リベラルの行動や発言がなければ、右翼の存在もなきに等しい。不可思議な共棲関係、あるいは片面的な寄生関係というほかはない。なお、私自身はリベラルを徹底した先に左翼が位置するという理解なので、「左翼・リベラル」とひとくくりにすることに抵抗感はない。

左翼・リベラルの特性の一つとして個人主義がある。個人の自立・自立した主体の自由・個性の輝きを基底的な価値とする。ひとくくりに他と束ねられることを拒否して、自分が自分であることを大切にする。右翼はそのアンチを主張して、国家・民族・社会秩序などを重んじるという。

個人の自由に敵対する主要な存在は二つある。一つは、国家権力であり、もう一つは社会の同調圧力である。「個人対国家」、「個人対社会」の自立・自由をめぐるせめぎ合いを象徴するものとして、国旗・国歌の取扱いがある。左翼・リベラルは、個人を束ね、絡めとり、個の自立や自由に敵対する作用をものものとして国旗・国歌を基本的に受け入れがたい。これを受け入れるよう期待する社会の圧力にも反発せざるを得ない。

また、左翼・リベラルは、国家や民族を単位としてものを考えないから、日本の負の歴史を直視することを躊躇しない。その目でみた、「日の丸・君が代」は、旧天皇制とのあまりに深い結びつきを払拭し得ない。天皇主権・軍国主義・超国家主義・権威主義・思想統制と異端に対する弾圧・差別容認・監視国家体制等々の日本の負の歴史を背負った存在として、「日の丸・君が代」を受け入れがたい。右翼は、「左翼・リベラルに反対」だから、「国旗国歌」にも「日の丸・君が代」にも大賛成なのだ。

昨日(6月25日)の産経社説が、《国旗国歌 敬意払うのが自然な姿だ》という社説を掲げている。右翼の心性丸出しである。もう少しまともな議論ができないのだろうかと嘆かざるを得ない。とはいうものの、まともに産経社説を相手にする真っ当な識者もなかろうから、私が反論を認めておくこととしたい。

まず、表題からおかしい。《国旗国歌 敬意払うのが自然な姿だ》というが、自然な姿がよいなら、現状あるがままの大学の自然の姿に放っておけばよいのだ。ところが、大学の自治への権力的介入という不自然をけしかける内容になっているから、きわめて不自然で分かりにくい主張であり表題となっている。

国旗国歌に敬意を払うべきだと考える思想があってもよい。しかし、国家を敬意の対象とすべきとする思想は、けっして「自然」なものではない。むしろ、権力に好都合な思想として、警戒を要する思想と言わねばならない。また、当然のことではあるが、国旗国歌に敬意を払うべきだと考えない人々に、この思想を押しつけることはできない。

《国旗、国歌はその国の象徴として大切にされ、互いに尊重するのが国際常識だ。》
これは不正確。「国家が民意を反映している限りにおいて、あるいは、国家が国民から支持されている限りにおいて、その国の国旗・国歌は、国民によって大切にされる。」というべきである。さらに正確には、「国旗、国歌は国家の象徴として大切にされることもあれば、ないがしろにされることもある。」「国家への抵抗の象徴的行為として、国旗が抗議の対象となることもしばしばある。」「国家への抗議の表現として、国旗が焼かれることも踏みつけられることもあり、分けても人種差別が顕著なアメリカ合衆国では、黒人による国家への抗議行動において星条旗受難の歴史がある」と続けなければならない。

《国旗国歌は、互いに尊重するのが国際常識》であることは、大学における「日の丸・君が代」強制と何の関係も持たない。まったく、これっぽっちも、である。運動会に万国旗を飾ることの理屈に役立つ程度であろう。しかも、《国旗国歌は、互いに尊重するのが国際常識》と言い切るのは実は困難なのだ。独裁国家、極端な人権弾圧国家の国旗国歌の尊重は、人権侵害に手を貸していると見られる恐れを拭えない。また、国旗国歌の尊重が国際紛争の一方当事者への加担と見られることすらある。台湾の国旗・チベット国旗・アイシル国旗、イロコイの国旗、ラコタの国旗、南オセチアの国旗…、その尊重には難しさがつきまとう。要するに、「自国が認めている範囲での相互主義の反映」に過ぎないのだ。

また、産経の文章は、国旗国歌の尊重が、「現実にそうなっている」というのか、「そうなるべきだ」と言っているのかはよく分からない。意識的に避けているようにも読める。

《ましてや国民が自国の旗などに敬意を払うのは自然な姿だ。》
驚いた。これは、一種の信仰告白である。根拠や理由についての一切の説明なく、どうしてかくも安易に断定できるのか。しかも、なにゆえ自分の意見を他人に押しつけることができると考えているのか。まったく理解に苦しむ。

私はまったくの別意見だ。国旗国歌とは国家という人工的組織の象徴である。国家とは暴力に支えられた権力構造体である。うかうかしていると、いつ国民に襲いかかってくるやも知れぬ危険きわまりない代物。暴発せぬよう、押さえつけておくべき警戒の対象でこそあれ、敬意を払うべき対象ではあり得ない。「敬意を払うのは自然な姿だ」とは、アンチリベラルの右翼、あるいは全体主義者・国家主義者に特有の心性でしかない。このような産経流の国家観・国旗国歌観には、70年前の日本国民が別れを告げたはずではなかったか。

《下村博文文部科学相が、国立大の入学式や卒業式での国旗掲揚、国歌斉唱を適切に行うよう学長会議で要請した。妨げる方がおかしい。学長らは国旗、国歌の重要性を認識し、正常化を進めてほしい。》
ここで論理がとんでもなく飛躍した。《敬意を払うのは自然な姿だ》というなら、それぞれの大学の自然に任せれば良いこと。どうして、札付きの右派である文科大臣が、大学の自治への介入という批判を押し切ってまで、不自然極まる「要請」をしなければならないのか。大学の財布の紐を握っている国の「要請」は、実は「強要」にほかならない。

国家は特定の思想や価値観を持つことを禁止される。国民の多様な思想や価値観に寛容でなくてはならないからである。「カネを出すから、国の言い分に随え」と言ってはならない。これがあらゆる部門にわたっての国家の基本的なルールである。ましてや大学とは、大学の自治、学問の自由が貫徹されなければならない場である。公権力のイデオロギーに左右されることのない、自由な学問の研究と教授の自由こそが、社会に不可欠だと確認されている。これは、憲法原則(憲法23条)ともなっているのだ。恐るべき、文科相と産経のタッグを組んでの憲法原則への挑戦というほかはない。

《文科省によると、国立大86校のうち今春の卒業式で国旗を掲揚したのは74校、国歌斉唱は14校にとどまっている。東大、京大のように国旗掲揚、国歌斉唱とも行っていない大学が10以上ある。下村文科相は要請にあたって「各国立大の自主的な判断に委ねられている」と配慮したうえで、「大学の自治や学問の自由に抵触するようなことは全くない」と述べた。その通りである。》
何とも愚かしい文章である。《各国立大の自主的な判断に委ねられている》のなら、口を出してはならない。文科省がスポンサーとして口を出すことが、「大学の自治や学問の自由に抵触する」ことは自明ではないか。愚かな文部行政を、愚かな右翼メディアが支えているの図である。

《国旗と国歌の適切な取り扱いは、大臣がわざわざ要請する以前に、各大学の学長の判断で行うべきことだ。できないのは一部教職員らの反対を恐れるからだ。》
いやはやとんでもない。大学人とは、知性を持つ集団である。「大学に国旗と国歌を持ち込むことに賛成」などという知性を欠いた人物は、皆無ではなかろうが圧倒的少数にとどまる。戦争法案違憲論が圧倒的な憲法学者の中で、3人だけの合憲論者がいた。このくらいの比率でしかなかろう。にもかかわらず、「国旗掲揚74校」と聞けば、驚かざるを得ない。スポンサーへのおもねりの結果というほかはない。

《スポーツの国際大会で選手、観客とも対戦相手の国旗、国歌を含め敬意を払う態度は自然であり、国旗、国歌に背を向ければ非難される。》
何度も出て来る「自然」。「自然」であるべきことに国が口出しすることはない。「自然」と言いつつ、不自然に口を出し、介入し、さらには強制を合理化しようというのだ。スポーツをナショナリズム高揚の手段に使おうという意図が透けて見える。スポーツを国旗国歌強制の口実とし続ければ、スポーツ自体の問題性が国民的な議論の対象にならざるを得ない。

《ところが日本の教育現場では小中高校などの入学、卒業式で国歌斉唱であえて起立せず、国旗掲揚や国歌斉唱を「強制」などと批判する教師らが相変わらずいる。大学での反発が強いことは予想されたことではある。海外から多くの留学生を受け入れる国立大の節目の式で国旗掲揚、国歌斉唱を行わない大学がある現状は恥ずかしい。》

ようやくのホンネである。要するに、「大学人は、国家に服従する思想に自発的に転向せよ。でなければ、大学に対して徹底して国旗国歌を強制せよ」という産経の主張なのだ。こんな「強制」を行っているのは、人権後進国である北朝鮮と中国しか実例を知らない。人権尊重を掲げる文明国ではあり得ないことなのだ。むしろ、留学生を受け入れる国立大の節目の式で国旗掲揚、国歌斉唱などを行う大学がある現状は、恥ずかしいことこの上ない。

《しかし国際的な常識や儀礼を否定してまで、特定の政治的主張を押し通そうとすることこそ、学問の自由などをゆがめるものではないのか。》
めちゃくちゃな「論理」である。特定の政治的主張を押し通そうとしているのは、文科省であり、産経である。これは水掛け論ではない。国民には多様な思想が許容されており、その多様性を保障するために国家は価値中立でなければならない。そして、国民の多様な思想の共存を妨げる権力の行使が禁止される。だから、国旗国歌に敬意を表明すべきという思想を強制してはならない。明らかに違憲・違法なのだ。

国家は、特定の価値観を持ってはならず、ましてや国民にこれを押しつけることはできようもない。国民個人の思想・良心の自由は保障されている。産経主張は、国家主義者・全体主義者の目から見た、逆さまの世界観である。こんなまやかしの論理で、国家の思想統制を許してはならない。

《さまざまな機会を捉え国旗、国歌を大切にしたい。》
産経のボルテージの高さは、経営政策上このような主張で購読部数は減らない、と読んでのことである。このように思わせている一定の読者層の存在があるのだ。右翼メデイアは右翼購買者に支えら、また右翼を再生産もする。この文科省の愚行を礼賛する産経の論調は、国家主義が危険水域に達しつつあるのではないかとの不気味さを覚える。さまざまな機会を捉えて、国旗・国歌強制の動きにプロテストしなければならない。

たいした問題ではないと高をくくって看過していると、既成事実の積み重ねが取り返しのつかない大変なことになりかねない。ここにも「既に戦前」の影が忍びよっている。
(2015年6月26日)

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