澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

都知事に対する「500億円捨て金」支出の責任追及

毎日新聞署名コラムの中で、山田孝男「風知草」の論調には、歴史認識や立憲主義の理解の点で違和感が大きい。安倍晋三に招かれて、ともに会食などしているとこうなるのではないか。その山田が、国立競技場建設費問題を戦争中の戦艦武蔵の「悲劇」になぞらえている。武蔵は、世界最大の戦艦としての威信を誇示した。しかし、時代遅れの大艦巨砲主義は戦略あいまいなままに出撃して何の戦果を挙げるでもなく、巨費とともに沈んだ。両者の類似の指摘は頷かせる。安倍と会食をともにする記者の記事でさえなければ立派な記事だ。

国立競技場建設費用は2520億円!!。金額だけではなく、その金額の決め方にまつわる無責任体制が、戦争責任や原発開発とも重なる。「ドタバタ劇」として、「負のレガシー」として国民に完全に定着した。あの「読売」の世論調査でも、81%が建設計画を見直すべきだという結果である。「責任の所在があいまいなまま突っ走り、『決まったことだから』と、途中でやめることができない。これが日中戦争から太平洋戦争にかけての日本の歴史。と思っていたら、新国立競技場をめぐる問題も、そっくりです。」とは池上彰の毎日紙上発言。2520億円問題は、誰も彼も大っぴらに批判のできるテーマとなっている。

もちろん、この問題にも、諸悪の根源としての安倍晋三が絡んでいる。この競技場のデザインと、福島第1原発の放射能問題の解決が東京五輪招致成功の2本の柱だった。これを国際公約といっているわけだ。放射能は「完全にコントールされ、ブロックされています」というこちらの柱は、大ウソだったことがとっくに明確になっている。もう一つもウソとなれば、「大ウソ2本立て」。招致の根拠が崩れるというわけだ。せめて競技場のデザインだけは遺したい。これが政権と、その意を体した無責任体制関連人脈のホンネのところ。

しかし、この計画を推進するには2520億の巨費を調達しなければならない。安倍や森、下村の懐を痛めての負担ではない。身銭を切るのは国民なのだ。批判の荒波を覚悟しなければならない。政権を揺るがすことにもなりかねない。

この計画を頓挫させれば、日本の威信にかかわる? そんなことはない。安倍政権とJOCの威信でしかなかろう。安倍晋三が引責辞任すればよいだけのことだ。

何とも、無責任極まる安倍晋三・森喜朗・下村博文、そしてJOCだ。FIFAのカネまみれ体質が明らかになったが、あまり人々が驚いていない。所詮、そんなものだろうという受け止め方。商業主義蔓延のオリンピックも同様ではないのか。2520億という巨額のカネの取扱いの杜撰を見ていると、オリンピックが美しいものなどとは到底思えない。こんなに金のかかる競技場なら作る必要はない。入場式なんぞは原っぱで十分だ。雨が降ったら傘をさせばよい。そんな非常識なことはできない、というのならオリンピックなんかやめてしまえ。わけの分からぬ東京オリンピックを返上しろ。

イメージというものは恐ろしい。あのキールアーチのデザインは、最初の頃こそ斬新・清新なイメージだった。しかし、報道が積み重ねられるうちに、既に完全な負のレガシーとしてのイメージが定着した。あのデザインそのままでは、オリンピックのバカバカしさ、薄汚さのシンボルとして半永久的な語りぐさとなる。

さて、問題はここからだ。こんな馬鹿馬鹿しいものの建設費はムダ金であり、捨て金だ。捨て金の支出など許してはならない。舛添知事は、これまでは比較的常識的な姿勢で都民の支持を維持してきた。「国側からきちんとした説明をいただかなければ、都民の税金を費やすわけには行かない。」という至極真っ当な姿勢。ところが、7月7日有識者会議以来、どうも雲行きがおかしい。

舛添さん、都民の知らぬ裏の場で、安倍・森・下村などから一席設けられ、振る舞い酒に酔うなど、けっしてないように。何とはなしに話をつけて、都の財政から500億のつかみがねを支出するようなことがあれば、都民の怒りを買うことになりますぞ。500億を出したらあなたの2期目はない。オリンピックの年まで知事でいたいのなら、なによりもこの捨て金を出さないと明言することが肝要だ。

このところ多くの人が、地方財政法上、国の支出の一部を地方が負担することは禁じられていると指摘している。つまり、都財政からの500億円支出は、単に不当というだけでなく、違法なのだ。違法な支出は、都民がたった一人でも住民監査を経て住民訴訟の提起が可能である。

最終的には、知事個人が違法支出の責任をとらねばならない。応訴にもかかわらず、舛添敗訴となれば、500億円を個人として東京都に支払うよう命じられる。500億円全額回収に現実性はないものの、違法支出の抑止効果は十分に期待できる制度だ。知事や議会は多数派が握っている。多数派の横暴に歯止めをかけて、統治の合法性を確保するための貴重な制度である。

ところが、今、国立市で問題となっている一つの裁判が、この制度を無にしかねない重大な問題をはらんでいる。仮に、国立競技場の建設費の一部として舛添知事が500億を都の財政から支出し、これを裁判所が違法と認めたとする。その場合でも、都議会の自民党が舛添免責の決議を提案して議会がこれを採択すれば、東京都が舛添知事個人に対する損害賠償請求権の行使はできなくなる、というのだ。現実に、そのような地裁判決が出ている。

詳しくは、下記の当ブログを参照されたい。
2014年9月26日「株主代表訴訟と住民訴訟、明と暗の二つの判決」
http://article9.jp/wordpress/?p=3589

当該の判決についての報道は、以下のとおり。
「高層マンション建設を妨害したと裁判で認定され、不動産会社に約3100万円を支払った東京都国立市が、上原公子元市長に同額の賠償を求めた訴訟の判決が(2014年9月)25日、東京地裁であり、増田稔裁判長は請求を棄却した。
 増田裁判長は『市議会は元市長に対する賠償請求権放棄を議決し、現市長は異議を申し立てていないので、請求は信義則に反し許されない』と指摘した。」(時事)

今回の事例に置き直せば、以下のようになるのだ。
「先行する住民訴訟の判決で、国立競技場建設費用500億円の知事の支出は違法とされた。この判決に基づいて、東京都が原告となって舛添要一知事に500億円の賠償を求めた訴訟の判決が東京地裁であり、裁判長は原告の請求を棄却した。裁判長は『都議会は知事に対する賠償請求権放棄を議決し、知事は異議を申し立てていないので、請求は信義則に反し許されない』と指摘した。」

要するに、舛添知事の責任を都議会多数派の意思次第で免責することが可能だというのである。これは制度の趣旨を根本から突き崩すものではないか。上原元市長の行為が違法であるかどうかについては私は論評を控えたい。事情を詳らかにしないだけでなく、結論がどちらでも、事例判決を一つ積み重ねるだけでさしたる問題ではない。議会で首長の責任を免責できるか否かが大問題なのだ。

住民訴訟とは、民主主義・多数決原理に限界を画するものである。住民の多数派から選任された首長が、どのような「民意に基づく行為」であったにせよ、法体系に反することはできないのだ。首長らに財務会計上の違法行為があれば、住民たった一人でも、原告となってその是正を求める提訴ができる。これを、議会の多数決で違法行為の責任を免ずることができるとすれば、せっかくの住民訴訟の意義を無にすることになる。

首長の違法による損害賠償債務を議会が多数決で免責できるとすることには、とうてい納得し難い。国立市はいざ知らず、東京都をはじめ、ほとんどの地方自治体の議会は、圧倒的な保守地盤によって形成されている現実がある。首長の違法を質すせっかくの住民訴訟の機能がみすみす奪われることを認めがたい。

もし仮に、最高裁までが議会の決議による首長の債務免責を認めることになれば、免責決議に賛成した議員の法的責任追及が必要になるものと考えている。
(2015年7月12日)

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