澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

アベ君、キミはいったい何のために英語を学んだのかー老英語教師の慨嘆

アベ君。私は恥ずかしい。キミに英語を教えたのは私だ。例によって、「昔々ある学校で」のこと。キミは、目立たない生徒だったが、英語だけは人並みの成績だった。英語の勉強はよくしていたように見受けた。だが、キミの英語を学ぶ姿勢には、最後まで違和感を禁じ得なかった。キミほど実用と方便としてだけの英語を身につけようとした学生をほかに知らない。

私は、英語の学びを通じて、生徒には揺るぎのない教養を身につけて欲しいと願い続けてきた。ことあるごとにその旨を語ったはずだ。英語を入り口として、その奥にひらけた英語圏の豊穣な文化は、教養として人格の核になり得るものだ。また、英語を入り口として、英語圏以外の多様な文化とも触れあうことができるようにもなる。

日本の伝統・文化・歴史を真に理解するためには他国の文化を知らねばならない。日本を相対化して見つめる姿勢を持たなければ、独善に陥って日本を正確に見極めることができない。夜郎自大の姿勢を避けつつ、しかも自分の属する文化に誇りを持つためには、教養としての英語が必須だと私は思っている。しかし、この考えはキミには一顧だにされなかった。

あらゆる学問に通じることだ。いったい何のために学ぶのか。何のために科学者となるのか。何のために医学を志し、どのような姿勢で臨床に臨むのか。誰のどのような利益への奉仕を目指して法を学び実践するのか。英語を学ぶキミには、まったく目的意識というものが感じられなかった。

あれから随分と時を経た。キミにジェントルマンとしての教養が身についていないなどと、無い物ねだりをして嘆いているのではない。英語の教師としての私から見て、キミは政治家として不思議な立ち位置にある。私が生徒に望んだことの正反対がキミの今の姿なのだ。

私が望んだことの一つは、日本文化や日本の歴史を相対化して見る眼の育成だ。英米流の普遍的な合理主義に照らして、日本の戦前の神権天皇制や国体思想の非合理を多少なりとも批判する眼をもって欲しいということだ。そうすれば、個人主義や人権思想あるいは抵抗権思想などによく理解が及び、社会的同調圧力に流され易い日本の文化に疑問を持つことができるだろう。「和を以て貴しとなす」などという日本の伝統に叛旗を翻すことまでは望み薄としても、間違っても、戦前指向や偏狭なナショナリズムに染まって、失笑を買うようなことがあってはならない。

もう一つは、英語によるコュニケーション能力を鍛えることで、欧米人に対する無用のコンプレックスを払拭し、堂々と対等意識で対峙する精神を鍛えてほしい、ということだ。

今のキミは、いったいどうなっているのだ。キミの国内政治の基本姿勢は、「戦後レジームからの脱却」であり、「日本を取り戻す」ということだという。これは、英語圏文化から見て非合理極まる戦前指向であり、偏狭なナショナリズムを基本理念としているということ以外のなにものでもない。

もう一つは、キミのアメリカに対する姿勢の問題だ。キミは国内では偏狭なナショナリストとして傲岸きわまりないが、アメリカにはまことに卑屈ではないか。こういう精神性はアンビバレントであるように思えるが、独善と卑屈とがキミの精神の両面として矛盾がなく収まっている。

沖縄問題や思いやり予算がその典型だったが、戦争法案がにわかにクローズアップされてきた。キミは、アメリカ議会の演説で戦争法案の成立をアメリカ合衆国に公約した。まだ、日本の主権者に法案の形も見せていない時点でだ。「アメリカに約束してしまったのだから、もう引き返せない。その約束を守るために、日本の国民を説得する。説得できなければ強行採決をしてでも戦争法を成立させなければならない」というのがキミの姿勢だ。おかしくはないか。

キミは、私が英語を教えた二つの目的を、みごとに二つとも正反対の結果で答えたのだ。教師としては、これにすぎる落胆はない。情けなくも嘆かわしい。

私は、意識的に生徒の教養の核とするにふさわしい英語教材を選んで学習させた。その中の一つに、リンカーンのゲティズバーグの演説があったことを覚えているだろうか。短いものだが、名演説とされているものだ。

その最後のフレーズが、日本国憲法の前文にも取り入れられた次のもの。
…these dead shall not have died in vain―that this nation, under God, shall have anew birth of freedom―and that government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.
(これらの戦死者の死をむだに終らしめないことを、ここで堅く決意することである。この国に、神の下で、新たに自由の誕生をなさしめることである。そして、人民の、人民による、人民のための政治が、この地上から滅びることがないようにすることである。本間長世訳)

キミは、「民意に反してでも、強行採決をしてでも戦争法案を成立させることが、国民のためになるものと後世理解を得ることにきっとなる」という趣旨のことを言ったそうではないか。おそらくは、「私が正しい。だから、民意を無視してもよい。だから憲法解釈を変えたってよい。だから、違憲法案だといわれても意に介さない」

キミは、リンカーンから何も学ばなかった。思い上がりも甚だしい。アメリカの独立宣言も、キング牧師の演説も、キミの人格形成にはかすりもしなかったのだ。私はますます肩身が狭い。

TPPや集団的自衛権は、新たな植民地支配の形ではないか。キミはグローバル化にえらく熱心だが、結局はご主人様への奉仕と、そこからのおこぼれ頂戴に熱心だということだ。私は、世界の誰とも対等な人格としてコミュニケーションができるツールとして、キミに英語を教えたつもりだった。ところがキミは、奴隷主の言葉として英語を学び、上手にご主人の機嫌をとって見せたのだ。この齢でこんな嘆きをしなければならならぬとは、…ああ、無念極まる。
(2015年7月26日)

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