澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「安倍晋三とは一緒に飯を喰う仲だ。甘利を評する筆が甘くなるのはやむを得ないさ」

「労働運動は場末のパブから始まった」とは社会史が語るところ。「労働組合は、安酒の麗しき結晶である」とは、私ひとりの語るところ。資本主義の勃興期に、法の保護なく過酷な搾取に喘いだ工場労働者たちがパブで不満を語り合う。これが労働運動と労働組合の起源なのだ。

だから、私が弁護士になった当時、労働運動に寄与したいと志す若手の弁護士には、「労働者と酒を飲め」「団結も信頼も、アルコールから生まれる」などと教えられ、実際によく飲んだ。私の付き合いの範囲では、組合費で幹部が酒を飲むことはなかった。もちろん接待もない。すべて自腹の割り勘の「団結と連帯の酒」だった。

酒食をともにし語り合うことで信頼関係が生まれる。同じ席で同じものを飲みかつ喰うことが、仲間と認めあう儀礼となっているのだ。「同じ釜の飯を喰う」「一宿一飯の恩義」などの言葉のニュアンスがよく分かる。「俺の酒が飲めないっていうのか」という酔漢の気持ちも、だ。

多くの「一流」マスコミ人が、安倍ら「二流」政治家と酒食をともにしているという。こちらは場末の安酒ではない。豪勢な料亭や寿司屋、あるいは一流のレストランでの話し。アベ友、スシ友、フグ友、飲み友の会席。この席で、政権とメディアとの「団結と信頼」「個人的な友情」あるいは「醜い癒着」の関係が育まれているのだ。勘定は誰が持っているのか、などと問題にするのは「ゲスの勘繰り」の類。

その効果は着実に現れている。NHKや産経・読売だけにではない。私の愛読する「毎日新聞」にもである。

本日の毎日新聞朝刊2面の「風知草」。このコラムは毎週月曜日に掲載されるが、この空間には他の記事とは違う風が流れている。「アベ風」の匂いである。本日のタイトルは、「ゲスの極み」。二流政治家と酒食をともにする「一流記者」山田孝男の筆になるもの。

「風知草」とは、風のまにまになびく草。疾風の中の勁草の対極である。もっとも、風向きを知る草に罪があるわけではない。風はいろんな方向から吹く。権力から吹く風もあれば、民衆が起こす風もある。そよ風も、突風も、爆風もある。いったい「風知草」はどこからの風を読もうとしているのか。風の向きを知って、覚悟を決めてこの風に抗おうというのか、それとも風に流されようというのか。

本日の「ゲスの極み」は、政権からの風を知って、暖かい迎合の風を返しているようだ。「一飯の恩義」を感じて、「スシ友へのエール」として書いた記事。

甘利明事務所に「1200万円のワイロが流れたという『週刊文春』特報」に関して、「違法な金銭授受は間違いなさそうだが、その意味と背景について、正確に見定める必要がある」という趣旨。こんな記事は、サンケイか夕刊フジに任せておけばよい。毎日新聞の紙面に、どうしてこんな「アベへのヨイショ」が躍るのか。

暴かれた「甘利スキャンダル」の威力は、アベ政権直撃のメガトン級。いまやその影響は激震となっている。アベの取り巻き連中が、この衝撃を緩和し、過小評価しようとして躍起になっている。

その典型が山東昭子の「ゲスの極み」発言であり、高村正彦の「わなにはめられた」論である。山東の発言はとりわけ悪質である。「ゲスの極みというような感じで、まさに、両成敗でただしていかなければならない気がする」。これは、告発者に対する「おまえも無傷では済まないぞ」という威嚇である。この威嚇は、今回の告発者に限られたものではなく、今後同様の例を抑止しようという効果を狙ったものである。

覚悟の告発を「ゲスの極み」とする山東に、「政権の疑惑を隠す暴言」などと批判が集中しているのは当然のことだが、アベと酒食をともにする「スシ友・山田孝男」は、「告発側も疑えーという山東の指摘は傾聴に値する」という。山田は、「ワイロは、もらう側も渡す側も、どだいゲス(下種(げす)=心卑しき者)の極み。だから両成敗……。いかにも芸能界出身の山東らしい機知だ。」と、山東の言わぬことまで付け加えて山東を持ち上げている。

それはおかしい。山田孝男の言の意味と背景を吟味すれば、政権擁護の弁でしかない。
山田は、「告発側も疑えーという山東の指摘は傾聴に値する」という理由を「なぜなら、一見、捨て身と見える告発者の所属企業は実態不明、あらかじめ紙幣番号を複写した札束を渡すなど、暴露を前提にした仕掛けにあざとい印象を受けるからである。」という。これは、高村の「わなにはめられた」論とまったく同じである。

「告発側も疑え」? いったい何をどう疑えというのだ。「政敵の陰謀にはめられた」とでも言いたいのだろうか。あちらこちらでの陰謀説には食傷だが、仮に陰謀であつたとしても、甘利の罪責が軽減されることにはならない。陰謀であろうとなかろうと、現金700万円を収受しているのは犯罪である。甘利は、50万円の現金を2回にわたって、自らのポケットに入れたと具体的に告発されて、これを否定できないのだ。

もしかしたら、今回の件は陰謀であれはこそ、表に出てきたのかも知れない。甘利に限らず、多くの政治家が、口利き料をポケットに入れて、「陰謀でないから裏に隠れたままになっている」のかも知れない。それなら、陰謀バンザイだ。

賄賂罪は、「公務員の職務の公正」と「公務員の職務の公正に対する国民の信頼」を保護法益とするものとして、贈賄も収賄もともに犯罪とされている。この犯罪は表に現れにくい。「アンダー・ザ・テーブル」といわれるように、賄賂の収受は隠密裡に行われるからである。疑惑ありとの指摘に対しては、贈賄側も収賄側も、団結固く口裏を合わせて否認することが通例で、立件は難しい。摘発には、リニエーションの制度導入が効果的だ。これは裏切りの奨励である。どちらか、先に犯罪を申告した方の立件を免除する制度である。賄賂罪摘発を容易にすることで、賄賂の収受をなくそうという発想である。

あっせん利得罪は、「賄賂罪」ではない。が、口利きをしてその報酬として利得を収受する政治家(甘利)だけでなく、政治家に口利きを依頼して利得を供与する者(S社)の行為も犯罪になる。S社は、このことをよく知りながら、自分の訴追を覚悟して告発に踏み切っている。山田の「あざとい印象」よりも、自分の訴追を覚悟して告発に踏み切ったことでの政治家の犯罪暴露を積極評価すべきが当然ではないか。

また、「告発者の所属企業は実態不明」はなかろう。政治資金収支報告書から社名も所在地も直ぐに分かる。新聞記者が可能な調査を手抜きして「実態不明」と「印象」を語るのは怠慢の誹りを免れまい。「あらかじめ紙幣番号を複写した札束を渡すなど、暴露を前提にした仕掛けにあざとい印象を受けるからである」とは驚いた。海千山千の政治家を相手に、このくらいのことをしても少しの不思議もない。この程度の「印象」で、山東を弁護し、甘利の罪責を薄めて政権を擁護しようというのだ。

山田のコラムに漂っているものは、政権中枢に位置する者に対する「捨て身の告発」への不快感である。そして、極端な言を避けつつ、告発者を誹ることで、被告発者を相対的に弁護し、告発の影響をできるだけ小さくしようとの政権への配慮が見える。この不快感は、アベ政権の不快感を毎日新聞の紙上に映したものといわざるを得ない。

なるほど。一緒に飯を喰うことの効果はあるものだ。信義に厚い。さすがは高級店での「君子の交わり」である。
(2016年1月25日)

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