澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

近ごろ気になることー「天皇を護憲の守護神のごとく見てよいのか」

「憲法日記」と題した当ブログ。本日で連続更新1256回となる。3年5か月と7日。毎回が何の節目でもない積み重ねの一コマ。毎日途切れることなく、飽きることなくよく続くものと、自分でも感心している。

ときおり、読者から励ましの言葉をいただく。
励まし方には二とおりある。名誉毀損であるとして高額損害賠償請求訴訟の被告とされることも、「不敬言動調査会」などの「警告」も、私には発憤の材料である。そのたびに、「萎縮してはならない」と自分に言い聞かせる。嬉しくはないが、非難も罵倒も恫喝も励ましには違いない。誰にも心地よく、毒にも薬にもならない無難な内容のブログなら、時間と労力をかけて書き続ける意味はない。

他方、本当の意味での暖かい励ましの言葉をいただくと本当に嬉しい。私の意見は、常に少数派のもの。その少数派の人たちに、「同感し、励まされます」と言っていただくと、書き続けることの意義を再確認して、また書き続けようという意欲が湧いてくる。偶然だろうか、最近は出版関係の0Bの方から、そのような励ましをいただくことが多い。

下記は、そのような励ましのお手紙に添えられた、「職域関係会報に載せた」というご意見の抜き刷り。ご紹介して是非お読みいただきたい。筆者は戦中派の年代の方。

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近ごろ気になること(2016・4・24)
 2月27日の朝日歌壇に《フィリピンで果てにし父よ両陛下慰霊で供花す暑さの中を》など、天皇訪比を称える歌3首が載っていた。
同じ選者が選んだものだ。選者は「評」の中で「両陛下のフィリピン慰霊の旅、日比両国民に犠牲を強いたあの戦争を忘れてはならぬというお言葉に共感を示す歌が多く寄せられた」と書いている。3月26日の東京新聞「平和の俳句」には「今現に九条貫く天皇あり」という句が選ぱれ、選者は「潔い句だ。作者の気持ちの込め方も、その対象の天皇のお姿も言動も、まことに潔い。今次大戦を深く悔いて、平和を願う天皇皇后」と述べていた。
 安倍暴走の中、時おり見せる平和主義的言動のゆえに天皇を護憲の守護神のように見なす傾向が強まっている。ある元外交官は「大御心」という古語を使って礼賛し、ある政治学者は九条の会関係の講演で「お言葉」「お立場」「おっしやいました」を連発して感激している。
 しかし、天皇はこうした護憲的イメージと裏腹な言動を見せることもある。昨年4月パラオ慰霊の旅への出発時には「祖国を守るべく戦地に赴き、帰らぬ身となった人々」云々と述べた。右側の人たちは歓喜した。その一例《ご出発に当ってのお言葉に、「祖国を守るべく戦地に赴き」との一節。一見、何気ないご表現に見えるかも知れない。しかしこれは、戦役者への「顕彰」に他ならない。わざわざ「祖国を守る」為と明言されているのだから。[略] これらは紛れもなく、ご嘉賞(お褒め)のお言葉と拝すべきだ。それらの戦地で斃れた英霊たちを、ひたすら″気の毒な″被害者、犠牲者と見るようなお態度では、全くない》(新しい歴史教科書をつくる会副会長のブログ)。このブログの言う通り、天皇は、この時、戦死者を顕彰すべき英霊として捉え、あの戦争は祖国防衛戦争であって侵略戦争などではないと言っていたに等しい。
 また、2006年12月には、イラクに派遣された自衛隊員約180名を皇居に招き、「ブッシュの戦争」と呼ばれる露骨な侵略戦争に関わった武装組織の労をねぎらった。この4月には「神武天皇没後2600年」という驚くべき行事に出席している(この行為には憲法20条3違反の疑いもある)。こうした言動に対してマスメディアは勿論、護憲派諸組織も、疑念や懸念を表明したことはない。
 現在の日本において天皇は至高の存在だ。メディアで報じる時は必ず最大級の敬語を用いなければならない。右のような言動についてもその評価を自由に論じることなど事実上許されていない。そんな状況の中で、民主主義と自由を希求する護憲派が、いかに安倍政治に対抗するためとはいえ、賛美する一方で良いのだろうか。戦時中「天皇陛下のおんために死ねと教えた父母の」などと歌わされ、先生の訓示の中で「天皇陛下」という語が出てくるつど全員さっと直立不動の姿勢をとらされた経験を持つ人間としては、どうも気になるところだ。

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まったく同感である。天皇を護憲の守護神のごとくたてまつってはならない。憲法が厳しく限定した枠を超えて天皇の言動を許してはならない。また、天皇の個性は偶然のことがらで、天皇制の持つ意味は必然のことである。この両者の区別を意識しなければならず、混同してはならない。

私の拙いブログが、このような意見を持つ方たちと励まし合う関係になるのなら、欣快の至り。「憲法日記」ずっと書き続けなければならない、と思う。
(2016年9月7日)

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