澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

旧岩崎邸の贅の限りを目の当たりにして

定番のコースとして上野の杜を散策したあと、久しぶりに湯島の旧岩崎邸に足を運んでみた。ちょうど、ボランティアのガイドさんが1時間の予定で説明してくれるという。熱心なガイドさんから4人のグループで懇切な説明を受けた。多くの知らないことを教えてもらった。

ここは、敷地の一角に司法修習の場である司法研修所があったところ。
「司法修習は1947年にはじまる。同年採用者が修習1期になる。それ以前の敗戦後2年間は新旧制度の端境期にあたり、それぞれ、高輪1期、高輪2期とよぶ。これは当時の司法研修所の仮庁舎が高輪にあったことによる。1948年6月に紀尾井町の新庁舎に移転した。現在は埼玉県和光市にある。」(西川伸一)

司法研修所は、1948年6月から71年4月まで千代田区紀尾井町3番地にあった。私は23期で71年4月修習を終了しており、紀尾井町庁舎最後の修習生だったことになる。湯島の旧岩崎久弥邸内に研修所があったのは、71年4月から94年4月まで。その後は、埼玉県和光市の現庁舎に移転して20年余になる。今の修習生は70期。新憲法制定以来の年数とちょうど重なることになる。

だから、私にとって紀尾井町のオンボロ木造研修所の修習時代が懐かしいが、湯島の庁舎に足を踏み入れた経験はない。2~3度門前でビラを撒いたことがある程度。もっぱら、旧岩崎邸はキャノン機関のアジトとしての印象。作家、鹿地亘(かじ・わたる)拉致監禁事件の舞台としてのみ、なじみが深い。

今日、知ったこと。
旧岩崎邸のこの敷地は、元は越後高田藩榊原家の中屋敷であった。1878年に、当時の所有者牧野弼成(旧舞鶴藩主)から、三菱財閥初代の岩崎弥太郎が買い受けたもの。当時の敷地は約1万5000坪と、現在の3倍あったそうだ。岩崎は、戦後の財閥解体と高率の相続税で手放したという。

中心に位置する洋館は、ジョサイア・コンドルの設計で建てられたもの。コンドルは、お雇い教授としての任期が終わると、三菱の専属同様に稼ぎまくったようだ。金に糸目をつけない注文は、建築家にとってこの上なくおもしろかっただろう。

その岩崎邸の贅を尽くした数々である。120年前に、自家発電から上下水道まで、自前でインフラ整備をしていたという。各部屋の凝ったマントルピースは皆デザインがちがう。床のタイルも、壁紙(金唐革紙)も、ステンドグラスも、電球や水洗トイレに至るまで、これ以上はない贅沢品なのだそうだ。パーティーのたびに、食器はフランスからオールドバカラのワイングラスを客の数だけ取り寄せて揃えたという。

各部屋に大きな鏡があった。これも、フランスから取り寄せた高級品で、この鏡一枚の値段で家が1軒建ったとか。きっと当主の岩崎は、毎日この鏡に向かってこう呟いていたのだろう。
「鏡よ鏡、世界で1番の金持ちは誰だ?」
鏡は利口だからこう答える。
「もちろん、ご主人様でございます」
岩崎は上機嫌で鏡を大事にしたから、今日まで残ったのだ。

もし、正直なAIが組み込まれた鏡であったらこうはいかない。
「鏡よ鏡、世界で1番の金持ちは誰だ?」
愚かな鏡は真実を答える。
「世界で1番の金持ちとは、世界で1番の搾取と収奪を極めた人のことですが、それでも知りたいでしょうか」
「世界で1番搾取と収奪を極めた人でどうして悪いのだ?」
「そりゃあ、世界で1番人に憎まれている悪い奴ということですよ」
岩崎は躊躇なく鏡を割ったであろうから、今日まで残ったはずがない。

ガイドさんは、終始楽しそうに、やや自慢げに岩崎邸の「贅沢の限り」を説明した。特に、和館の方の作りは「すべての板材が、無節・長尺・柾目」、今はもはや再現不可能という。

王侯貴族の贅沢とは、民からの収奪によるものなのだから腹が立つ。王侯貴族ならざる成り上がりの政治家と政商の富の集積には、なおさら不愉快である。無隣庵や椿山荘・古希庵などの贅沢で知られる山県有朋や、「三井の番頭」と揶揄された井上馨が蓄財の藩閥政治家として名高いが、これだけではあるまい。いい加減な政治と結託して成り上がった、岩崎や古河、安田など政商たちの醜悪なあり方は、今日の加計と安倍との関係の比ではない。だから岩崎の贅沢ぶりは不愉快極まりない。

ガイドの説明が終わってお礼を言って、鹿地亘監禁やこの岩崎邸の地下にあったという水牢などについて聞いたが、まったくご存じないという。キャノン機関は知っていたが、鹿地亘の名前も知らない様子だった。ことあるごとに、話題とすることが必要だと思い、昔、ブログ(事務局長日記)に書いたことを再掲しておきたい。
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2003年06月07日(土)
鹿地事件の思い出
午後2時集合で、池之端の岩崎邸見学。
文化財への興味ではない。この建物は、反戦作家・鹿地亘さんの監禁場所だった。国民救援会の企画で、山田善二郎さんの案内による謀略の爪痕の現地学習会である。
実は、私は学生時代に鹿地亘さんの電波法違反被告事件支援の会の事務局長役を務めたことがある。これが、私が作った最初の名刺の肩書きだった。

鹿地さんは、1951年11月にキャノン機関によって、療養中の鵠沼海岸で拉致される。キャノン中佐率いるこの機関は、米占領軍の軍令部・G2直轄の諜報機関であるらしい。そのキャノンが住んでいたのが、三菱財閥の総帥岩崎家のこの豪壮な邸宅だった。鹿地さんも、不忍の池が見えるこの屋敷の2階の部屋に一時期監禁されていた。
ここの地下室には水牢もあり、当時多くの中国人、日本人がここに連れ込まれて、スパイになることを強要されていた。秘密裏に殺された人も多かったという。
自殺を図った鹿地さんを救出したのが、当時ハウスボーイ兼コックであった山田善二郎さん。現・国民救援会長である。
山田さんの命がけの通報と、猪俣浩三社会党議員の世論への訴えで、52年12月鹿地さんは闇に葬られる寸前で監禁を解かれる。拉致から1年余、日本が独立して半年余のことである。
問題はここで終わらない。横暴極まる米に対して沸騰した世論を沈静化するために、謀略が仕組まれる。「鹿地はソ連のスパイだった」とでっち上げられたのだ。手の込んだことに、「自分は鹿地の指示によってソ連のスパイとして働いていた」と「自白」する人物までが現れた。帝国電波(現クラリオン、保安隊・自衛隊との関係が深かった)の社員だったこの三橋という男は、さっさと有罪となり服役をすませた。その後は、社内で出世したというから妙な話。
三橋有罪を受けて、被害者だった鹿地さんが電波法違反で起訴されたというわけだ。鹿地さんは一審有罪判決を受け、私が関与したのはその後の高裁段階だった。その後東京高裁は明快な無罪判決を言い渡し確定する。しかし、遅れた無罪判決は謀略の効果を消すことはできない。

今はなき鹿地さんを思い出す。この事件を通じて、権力というものの酷薄さ醜悪さを知った。そして、権力に屈せずにたたかう人々の誇りも教えられた。
私が弁護士になったきっかけのひとつである。
(2017年8月12日・連続第1595回)

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