澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

高校生が書いた「私たちの憲法前文」

まいにち笑っていられる幸せ。
まいにちごはんが食べられる幸せ。
まいにち学べる幸せ。
まいにち安心して眠れる幸せ。
まいにち会いたい人に会える幸せ。
あたり前のまいにちは特別なまいにち。
もしまだ戦争が日本で続いていたら
もしまだ核兵器が使われ続けていたら
今、この瞬間のようにありふれた幸せに溺れることもできていない。
あたり前に感謝しながら
自分が幸せになるための努力をしていきたい。
頭の片隅に幸せになりたくてもなれない人がいることを覚えておきたい。
そうすることで世界が一歩幸せに近づく。
(「ほっととーく・145号」2018年2月3日号より)
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現代の高校生が、社会の理想を憲法に託して、まぎれもなく自分の言葉で書き上げた「私の憲法前文」だ。この前文を書く作業を通じて、自分と社会とが緊密に繋がっていることを明確に再認識したのではないか。自分の幸せは社会のありかたと無関係にはない。平和なくして、あたり前のまいにちはない。

この一文の素晴らしさは、徹底して「個人の幸せ」から出発して筆を進めているところだ。そのことが多くの人々の共感を呼ぶ。笑うこと、食べること、学ぶこと、安心して暮らすこと、自由に人と交際すること、それこそが幸せだ。ここには、国家も、民族も、王様も、党も、家も、神様も出る幕はない。「個人の幸せ」こそが第一義だ。その他の諸々は、個人の幸せのためのもの。そのような確信が、身についているのだ。まずは、そのことを素晴らしいと思う。

この書き手は思いをめぐらせる。「個人の幸せ」に敵対するもの、「個人の幸せ」を根こそぎ奪い去るもの。その危険なものは戦争だ。核兵器だ。「個人の幸せ」には平和が不可欠なのだ。「個人の幸せ」を守る平和への感謝をしつつ、平和を守り抜く努力をしていかねばならない、と。

さらに、思いはめぐる。「幸せになりたくてもなれない人がいる」現実についての認識である。「幸せになりたくてもなれない人」の具体的イメージは、この短い文章からは伝わってこない。

戦火に怯える紛争地域の人々、基地建設と闘わざるを得ない人々、原発被害によって故郷を追われた人々、過労死するまでの労働を強いられる人々、国籍や民族や思想や信仰による差別に苦しむ人々、公害や労災や職業病の被害者。そして、貧困にあえぐ多くの人々。この理不尽はすべて社会が作り出した不幸だ。不幸を作り出した社会が、その自覚と反省によって不幸をなくせないはずはない。

さらには、病気や自然災害や事故に苦しむ人々の不幸には、社会が手を差し伸べなければならない。この社会の理想に向けての一歩が、社会と世界の幸せの実現に一歩近づくということなのだ。

個人の幸せから出発して、個人の幸せの実現のためには世界の幸せが必要と考える。そして、この「前文」を書いた君の言うとおり、「幸せになりたくてもなれない人がいることを自覚しつつの、自分が幸せになるための努力」が世界の幸せを生み出す力になる。そう、1926年に、詩人(宮沢賢治)もこう言っている。
  近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
  世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

賢治は、
 まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう
と言って散った。
この「前文」を書いた君は、今の世の無数の賢治の一人だ。私も、そうなりたいと思っている。
(2018年2月24日)

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