澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「新しい資本主義」とは徹底したアベノミクス批判の所産である。

(2021年11月27日)
 「週刊金曜日」(11月19日号)に「浜矩子の経済私考」というコラムが掲載されている。その表題が、《『新しい資本主義実現会議』のとっても緊急提言らしい緊急提言》という、ちょっと不思議な長い文章になっている。

 岸田のいう『新しい資本主義』とはいったい何なのだろう。浜矩子はどうとらえているのだろうか。そういう関心から読み始めると肩透かしを食らう。《この岸田の緊急提言は、いかにも泥縄に拵え上げられた『緊急』提言らしい緊急提言で、読んでも何が言いたいのか分からない》《むしろ、悪文の見本としての教材として有用である》という趣旨。さすが浜さん、歯に衣着せずに本当のことをおっしゃる。

 浜さんの文章を全文引用したいところだが、やや長い。抜粋して引用させていただく。

 岸田文雄首相の肝いりで立ち上げられた「新しい資本主義実現会議」が、11月8日に緊急提言を発表した。副題に「未来を切り拓く『新しい資本主議』とその起動に向けて」とある。
 Iから?の三部構成で、Iが総論、?が成長戦略編、?が分配戦略編となっている。Iを熟読してみた。ここを読めば、岸田氏が自民党総裁選以来、一貫して前面に打ち出してきた「新しい資本主義」の何たるかがいよいよわかる。そう考えたからである。
 結論的に言えば、岸田氏が考える「新しい資本主義」が何物であるかは、皆目、わからなかった。わからなかったから、論評のしようがない。

 だが、一つ、とてもよくわかったことがある。この緊急提言は、実に緊急提言らしい。大急ぎで、疾風怒濤のごとく取りまとめた観が実に濃厚だ。
 取りまとめたというよりは、寄せ集めたという印象だ。思いつく言葉を、手当たり次第、放り込んだ。そんな文章運びになってる。いや、文章運びにはなっていない。文章散らばしだ。そして、多くの文章が長すぎる。一つの文章でたくさんのことを言おうとしすぎている。

 ……文章が長くなりすぎると、必ず文法が破綻する。文頭と文末の関係が不整合になる。それだけならまだいい。長すぎる文章は、途中で話題が変わってしまうことがある。こうなると、目もあてられない。
 長すぎる文章は、声に出して読み上げると、途中で息が切れて苦しくなる。息継ぎが必要な文章は、長すぎると断定していい。文章が長すぎると、読み終えた頃には、冒頭がどうなっていたかを忘れている。読み直しが必要となる。だが、いくら読み直しても、最後にたどり着いた時には最初を忘れている。無限ループの地獄に陥る。

 「新しい資本主義実現会議」の緊急提言に、以上の全てが面白いようにあてはまる。この「緊急提言」は、「良き論文の書き方」の反面教師として教材に使える。

 この岸田政権の文章は「良き論文の書き方」の反面教師としての教材なのだ。端的に言えば、「悪しき論文の典型」にほかならない。こう紹介されると、読者は「そんなつまらないものは見たくもない」派と、「そんなヘンなものならぜひ目を通しておかなくては」派に分かれるだろう。私は後者なので、官邸の下記URLを開いてみた。「?.新しい資本主義の起動に向けた考え方」の部分だけなら、1500字ほどの文章。

https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/atarashii_sihonsyugi/kaigi/dai2/shiryou2.pdf

 なるほど、浜さんがこうまで悪文と言ったわけを納得する。浜さんに、こう言ってもらわないと、論旨を把握できない自分の読解力に問題があるのかと焦ることになってしまったかもしれない。

 それとともに、別の感想ももった。このわかりにくい文章は、実は、「新しい資本主義」を論じたものではなく、徹底したアベノミクス批判なのではないのだろうか。その暗喩だからこそ、ことさらに分かりにくくなっているのではないだろうか。岸田は、本当のところは下記のように言いたかったに違いない…と思うのだが。

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新自由主義を脱却した「新しい資本主義」の起動に向けて


 政府は、資本の横暴を野放しにして成長一辺倒をコンセプトとした新自由主義経済を克服するため、内閣に「新しい資本主義」実現本部を設置した。

 現在、世界各国において、地球環境の持続可能性や「人の尊厳」を重視し、資本の利潤追求を抑制する「新しい資本主義」の構築を目指す動きが進んでおり、我が国がこの動きを先導することを目指す。

 具体的には、1980年代以降、世界を席巻した新自由主義の傾向が強まり、大資本の活動の自由が過度に強調され、市場原理主義や規制緩和政策跋扈の結果、一方に富の集中が加速し、他方に労働者や中間層の所得は伸び悩み、今や耐えがたい格差と環境破壊が、資本主義の行き詰まりを露呈している。

 小泉政権時代から始まり安倍政権に至る、新自由主義的経済政策は悉く失敗に帰した。とりわけ、アベノミクスが今日の顕著な、日本経済の停滞、格差の拡大、下請け企業へのしわ寄せ、自然環境破壊、正規非正規の差別、男女賃金格差等々の矛盾を拡大してきたことを率直に認めるところからしか、日本経済再生の途はない。

 全てを市場原理に任せて、大資本・グローバル資本の横暴を恣にしたこれまでの経済政策の失敗を深刻に反省して、今こそ、民主主義の政治をもって、所得と資産の再分配を実行しなければならない。

 江戸時代の商人でさえ「三方良し」を理念とし、企業活動は「消費者に良し」「社会に良し」というかたちで企業の利潤獲得以上の理念や価値の存在を認めていた。

 今まさしく、《社会・自然環境・人権・多様性・格差の是正等々の諸正義と並立する、新しい時代の経済》を創る必要がある。

 また、何よりも合理的な再分配の実現が、最初の一歩である。企業の利益を従業員に賃金増額の形で分配してはじめて消費の拡大につながり、消費拡大によって需要が拡大すれば、企業収益が更に向上して、成長につながる。分配戦略こそが、成長を支える重要な基盤である。

 さらに、経済は社会に生きる人々の幸福追求に奉仕するものでなくてはならない。経済成長や資本のための制度設計、あるいは人の幸福を阻害しない経済という消極的な位置づけから脱却し、積極的に人の自由と生き甲斐と豊かさに奉仕する経済を目指さなければならない。
 そのための教育制度を改革し、多様性(ダイバーシティ)と包摂性(インクルージョン)を尊重し、女性や若者、非正規の方、地方を含めて、国民全員が参加・活躍できる社会を創り、一人一人が付加価値を生み出す環境を整備する必要がある。また、リカレント教育やセーフティーネットの整備を通じて、やり直しのできる社会、誰一人として取り残さない社会を実現する必要がある。また、人たるに値する生活水準の保証の上に、適正な評価にもとづく配分の積み重ねが必要である。

このような視点を含めて、我が国においても、まずは分配戦略を確実にして、これを基盤とする生産性向上を目指す。その果実を働く人々に賃金や応能主義税制を採用しての手厚い社会保障の形で再分配することで、広く国民の所得水準を向上させて、次の成長を実現する。そのような「分配と成長との好循環」の実現に向けて、政府、民間企業、労働者、労働組合、大学等、地域社会、国民・生活者がそれぞれの役割を果たしながら、あらゆる政策を総動員していく必要がある。

「新しい資本主義」実現会議では、こういった基本的な考え方を踏まえて、ビジョンとその具体化の方策を取りまとめ、世界に向けて率先して発信していく必要がある。策定にあたっては、車座対話を随時開催し、特に経済的な弱者・困窮者層やその代弁者からの関係者の方々の声を丁寧に聞きながら、検討を進めていく。

 以上のとおりアベノミクスに対する徹底批判こそが、「新しい資本主義」の真意であり、岸田内閣が最優先で取り組むべき施策なのである。

8月15日 あらためての決意

8月15日。国民の感覚では、72年前の本日に15年続いた戦争が終わった。戦争に「負けた」ことの不安や悔しさもあったろうが、戦争が「終わった」ことへの安堵感が強かったのではないか。これ以上の戦争被害はひとまずなくなった。空襲の恐怖も、灯火管制もこの日で終わった。非常時に区切りがついて、ようやくにして日常が戻ってきた日。

法的には、8月14日がポツダム宣言受諾による降伏の日だ。そして、降伏文書の調印は9月2日。しかし、多くの国民が戦争の終結を意識したのは8月15日だった。

この日の正午、NHKが天皇の「終戦の詔書」を放送している。1941年12月8日早朝の「大本営発表」からこの終戦の日まで、終始NHKは太平洋戦争遂行の道具であり続けた。天皇や軍部に利用されたというだけではない。国民に対する煽動と誤導への積極的共犯となった。

ところで、この「玉音放送」の文章は、官製悪文の典型という以外にない。こんなものを聞かされて、「爾臣民」諸君の初見の耳に理解できたはずはない。持って回った、空虚な尊大さと仰々しさだけが印象に残るすこぶる付きの迷文であり駄文というべきだろう。ビジネス文書としてこんな文章を起案したら、上司にどやされる。

あのとき、天皇はまずこう言わねばならなかった。
「国民の皆様に、厳粛にお伝えいたします。昨日、日本政府はアメリカ・イギリス・中国・ソ連連名の無条件降伏勧告書(ポツダム宣言)に対する受諾を通告して、無条件降伏いたしました。戦争は日本の敗北で終わったのです。」

そして、こうも付け加えなければならなかったろう。
「戦争を始めたのは、天皇である私と、政府と軍部です。戦争で大儲けした財閥はともかく、一般国民の皆様が戦争責任の追及を受けるおそれはありません」
「天皇である私と政府は、何千万人もの外国人と、何百人もの日本国民の戦没者に対して、戦争をひき起こした者としての責任を痛感しております。誠実に戦後処理を行ったあとは、命をもってもその責任をとる所存であります」
「私の名による戦争を引き起こして、取り返しのつかない事態を招いたことを、幾重にもお詫びもうしあげます。そして、国民の皆様に日本の復興に力を尽くしていただくよう、よろしくお願いいたします。」

72年後の本日。戦争責任を引き受けることのないまま亡くなった当時の天皇の長男が、現天皇として全国戦没者追悼式で式辞を述べた。そのなかに次の一節がある。

「ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないことをせつに願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対して、心から追悼の意を表し、世界の平和とわが国の一層の発展を祈ります。」

「深い反省」の言葉があることに注目せざるを得ない。同じ場での安倍晋三の式辞には、反省も責任もないのだから、十分に評価に値する。また、憲法前文のフレーズを引用して、「今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないことをせつに願い」と言っていることにも、同様である。

なお、天皇の式辞のなかに宗教的な臭みのある用語のないことに留意すべきだろう。この点は、よく考えられていると思う。これに比して、安倍の式辞には、御霊(みたま)が3度繰り返されている。「御霊(みたま)の御前(みまえ)にあって、御霊(みたま)安かれと、心より、お祈り申し上げます。」という調子。靖国神社参拝と間違っているのではないか。非常に耳障りであるし、意識的な批判が必要だと思う。

さて、天皇の「深い反省」について考えてみなければならない。誰が、誰に、何を反省しているのか、である。

まず、反省の主体は誰なのだろうか。天皇個人なのだろうか。天皇が象徴する日本国民なのだろうか。あるいは、戦争当時の天皇(裕仁)を代理しているのだろうか。それとも、抽象的な日本国の漠然たる反省だということなのだろうか。

また、「深い反省」を語りかけている相手は、軍人軍属の戦没者だけなのだろうか。「戦陣に散り戦禍に倒れた人々」という表現は、原爆や空襲被害者も含まれているのだろうか。また、日本人戦没者だけなのだろうか。被侵略国の犠牲者ははいっているのだろうか。戦没者以外の傷病者はどうなのだろうか。

さらに、いったい何をどう反省しているのだろうか。まさか、負けるような戦争をしたことではあるまい。戦争をしたこと自体であろうし、戦争するような国を作ったことなのだろう。「反省」には責任がともなうことは自覚されているだろうか。どのように責任をとるべき考えているのだろうか。

巨大な惨禍をもたらした戦争の反省のあり方が、一億総懺悔であってはならない。
まず、統治権の総覧者であり宗教的権威をもって戦争を唱導した天皇に最大の戦争責任があることは論を待たない。そして、天皇を御輿に担いで軍国主義国家を作って侵略戦争と植民地支配に狂奔した政治支配層の責任は明確であろう。これに加担したNHKや各紙の責任も大きい。そして、少なからぬ国民が、八紘一宇や大東亜建設、五族協和などのスローガンに浮かれて戦争に協力し、戦争加害国を作りあげたことの責任と反省も忘れてはならない。

国民それぞれが、それぞれことなる質と量との責任を負っていることを確認すべきなのだ。一般国民は、天皇や軍閥との関係では被害者であり、近隣諸国との関係では加害国の一員としての立場にある。

そして思う。今、私たちは、再びの戦前の過ちを繰り返してはならないことを。言論の自由を錆びつかせてはならない。好戦的な政府の姿勢や、歴史修正主義の批判に躊躇があってはならない。附和雷同して、国益追求などのスローガンに踊らされてはならない。近隣諸国への差別的言動を許してはならない。平和憲法「改正」必要の煽動に乗じられてはならない。

かつての臣民に戻ることを拒否しよう。主権者としての矜持をもって、権力を持つ者にも、権威あるとされる者にも、操られることを拒否しよう。平和を擁護するために。
8月15日、あらためての決意である。
(2017年8月15日・連続第1598回)

「共謀罪」は、なんとしても廃案に。

本日(4月6日)、共謀罪法案の審議入り。衆院本会議に上程されて、法案審議が始まった。もっとも、「共謀罪法」という法律があるわけではない。組織的犯罪処罰法という既にある法律の改正という形で、包括的に犯罪実行行為の着手がなくとも、共謀段階で処罰出来るようにしようというもの。

犯罪実行行為は、それぞれが犯罪としての固有の定型性を持っている。誰が見ても、「悪い」「危険な」行為。「人を殺す」「人の身体を傷害する」「他人の財物を窃取する」という実行行為に着手の有無は、それぞれ比較的明瞭だ。だから、捜査権の発動というかたちでの権力の発動は、恣意的には出来ない。ところが、「そんな悠長なことを言っていては社会の安全は保てない」「もっと早い段階で犯罪を未然に防がなくては安心できないだろう」と、犯罪の実行着手以前の「共謀」段階で処罰しようとするのが「共謀罪」。これが、権力にとっては、批判勢力を取り締まるのに便利この上ない。

しかし、権力にとっての利便は、国民にとっての危険となる。何しろ、犯罪の実行行為はまだ行われていない段階での取り締まり、それも一網打尽なのだから、国民にとってはいつなんどきなにを理由に逮捕されるか分からない。とりわけ、立憲主義も、民主主義も、人権思想も理解してないアベ政権。こんな危険なものを作らせてはならない。今国会最大の対決法案、廃案にする以外にない。

その組織的犯罪処罰法の改正案(正確な名称は「組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律等の一部を改正する法律案」)のキモは、同法に新たに「6条の2」を新設しようということ。これが「共謀罪」創設の根幹部分。民主主義にとっての天敵となりかねない条文。まずは、その「問題の6条の2」の条文そのものをじっくりとお読みいただきたい。但し、読みにくい。10分以上の読解努力は精神衛生上有害と思われる。なお、本当にこんな悪文が法案になっているのだろうかとお疑いの方は、原文を法務省ホームページにアクセスしてご確認いただきたい。
http://www.moj.go.jp/keiji1/keiji12_00142.html

第六条の二(新設)
「次の各号に掲げる罪に当たる行為で、テロリズム集団その他の組織的犯罪集団(団体のうち、その結合関係の基礎としての共同の目的が別表第三に掲げる罪を実行することにあるものをいう。次項において同じ。)の団体の活動として、当該行為を実行するための組織により行われるものの遂行を二人以上で計画した者は、その計画をした者のいずれかによりその計画に基づき資金又は物品の手配、関係場所の下見その他の計画をした犯罪を実行するための準備行為が行われたときは、当該各号に定める刑に処する。ただし、実行に着手する前に自首した者は、その刑を減軽し、又は免除する。
 一 別表第四に掲げる罪のうち、死刑又は無期若しくは長期十年を超える懲役若しくは禁錮の刑が定められているもの 五年以下の懲役又は禁錮
 二 別表第四に掲げる罪のうち、長期四年以上十年以下の懲役又は禁錮の刑が定められているもの 二年以下の懲役又は禁錮

2 前項各号に掲げる罪に当たる行為で、テロリズム集団その他の組織的犯罪集団に不正権益を得させ、又はテロリズム集団その他の組織的犯罪集団の不正権益を維持し、若しくは拡大する目的で行われるものの遂行を二人以上で計画した者も、その計画をした者のいずれかによりその計画に基づき資金又は物品の手配、関係場所の下見その他の計画をした犯罪を実行するための準備行為が行われたときは、同項と同様とする。」

当ブログでは、以前にも「『共謀罪』とは、曖昧模糊な条文をもってなんでも処罰可能とすることを本質とする。」(2017年2月28日)と書いた。こんな条文を読んで、「よく分かった」という人の頭脳の構造はおかしい。読んで分からないように、書いているのだから。
https://article9.jp/wordpress/?s=%E6%82%AA%E6%96%87

ところで、刑法の条文は一般的に分かり易い。普通に読んで分からなければならないのだ。典型例は次のようなもの。
「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する」(刑法199条)

これが条文の基本形。これならだれにでも分かる。主語(主題語)と述語が明瞭で文意明解である。何をしてはいけないかがはっきり分かることが大事で、そのことは刑罰権の発動というかたちでの権力行使の限界が明瞭ということでもある。これと比較して、「6条の2」の読みにくさ、わかりにくさが理解いただけよう。そのことは、とりもなおさず、刑罰権の発動というかたちでの権力行使の限界が不明瞭極まりないということでもある。権力にとって、使い勝手がよいということなのだ。

その分かりにくい条文を、できるだけ意味が通じるように、日本語としての文章を整えてみたい。主語と述語という、おなじみの文の構造に当て嵌めて条文を見直すと、

6条の2・第1号関係の条文の主語は、
「別表第四に掲げる罪のうち、死刑又は無期若しくは長期十年を超える懲役・禁錮の刑が定められているものについて、組織的犯罪集団の団体の活動として、当該行為を実行するための組織により行われるものの遂行を二人以上で計画した者(は)」
である。

述語は、
「その計画をした者のいずれかによりその計画に基づき資金又は物品の手配、関係場所の下見その他の計画をした犯罪を実行するための準備行為が行われたときは、五年以下の懲役又は禁錮に処する。」

文の構造がおぼろげながら分かっても、条文を理解したことにはならない。国民には、何が禁止されているのか、国家権力が介入できるか否か、自分に逮捕の恐れがあるのか否かが分からなければならないのだ。

具体例を挙げてみよう。刑法204条は、傷害罪を次のとおり定める。
「人の身体を傷害した者は、15年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。」
傷害罪は、組織的犯罪処罰法改正案の別表四に掲げられている277の罪名の一つ。したがって、今は「人の身体を傷害する」行為に着手ない限り、つまりは刃物を振り回すとか、人に殴りかかるとかする実行行為に着手のない限り、処罰対象とはならない。ところが、この法案が成立すると、傷害の実行行為なくても、一定の場合には「傷害の共謀あったとして」逮捕され、起訴され有罪になって「五年以下の懲役又は禁錮」に処せられることになる。

その要件とは、まずは、主語中の「組織的犯罪集団の団体の活動として、当該行為を実行するための組織により行われるものの遂行を二人以上で計画」することである。共謀を「二人以上で計画」と言っている。何を計画すると処罰対象となるか。「組織的犯罪集団の団体の活動として、当該行為を実行するための組織により行われるものの遂行を」という。これは、分かりにくい。分かりにくいだけでなく、厳格な歯止めとはならない。

さらに、述語のなかにも要件が定められているとされる。さすがに、「共謀」や「計画」だけでの処罰規定には世論の反発が強かろうとの忖度がつくり出した要件である。
「その計画をした者のいずれかによりその計画に基づき資金又は物品の手配、関係場所の下見その他の計画をした犯罪を実行するための準備行為が行われたときは」というのだ。

つまり、共謀や計画だけでは、処罰できない。共謀や計画をした犯罪を実行するための「準備行為」のあることが必要だというのだ。その準備行為とは何か。「その計画に基づく『資金又は物品の手配』、『関係場所の下見』『その他』」と例示されている。これは、日常にありふれた普通の生活上の行為が刑罰権行使の対象となることを意味する。

「別表第四に掲げる罪」は、数えるのもたいへんだが91法律の277罪だという。従来案では676に上ったが、今回法案ではここまで絞ったと手柄顔をする向きもあるが、これを現代版「五十歩百歩」という。刑法の人権保障機能を崩していることが、大問題なのだ。

今国会に延長はない。6月18日の会期末まで。2か月半の反対運動の盛り上がりでこの法案を廃案に追い込みたい。幸い、4野党の足並みは、よく揃っている。勝機は十分にあるように思う。
(2017年4月6日)

「共謀罪」とは、曖昧模糊な条文をもってなんでも処罰可能とすることを本質とする。

本日(2月28日)、「組織的犯罪処罰法等の一部を改正する法律案」が発表された。いよいよ、政権はこの3月10日に、閣議決定を経て共謀罪の法案提出の意向を固めたのだ。いつものパターンのとおり、強権アベ自民と下駄の雪公明の巧妙タッグによるもの。

発表されたのは、「法律案の概要」と「改正法案条文」、そして「新旧対照条文」である。その「法案の概要」(正確な標題は、「組織的犯罪処罰法等の一部を改正する法律案の概要」)に目を通しておこう。A4の一枚ものだが、ここにも共謀罪の本質的な危険性が表れている。

「概要」には、冒頭に3行のリードが掲記されている。どのような理由があって、どのような法改正を行うかをまとめたものだ。
「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約の締結に伴い、実行準備行為を伴う組織的犯罪集団による重大犯罪遂行の計画等の行為についての処罰規定、犯罪収益規制に関する規定等を整備する。」というもの。分かりにくい文章だが、よく読んでみれば文意を把握できないではない。

文意が把握できれば、真偽の判断も可能だ。「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約の締結に伴い」という立法理由はウソだ。「実行準備行為を伴う」が、これまでの批判をかわそうという魂胆。「重大犯罪遂行の計画」が、これも対象を絞りましたというアピール。「等」が曲者。いずれにしても、「共謀罪」の新設宣言なのだ。

3項目の具体的内容の第1項目が、政権の悲願である「共謀罪の新設」である。しかし、そのような言葉は使われていない。政権は、共謀罪の呼称を「テロ等準備罪」としているが、ここには「テロ」も「テロの回避」も書かれていない。まずは発表のとおりの文章を紹介しよう。

1 実行準備行為を伴う組織的犯罪集団による重大犯罪遂行の計画の罪の新設〔組織的犯罪処罰法〕

別表第四に掲げる罪に当たる行為であって、?組織的犯罪集団(団体のうち,その結合関係の基礎としての共同の目的が別表第三に掲げる罪を実行することにあるもの)の団体の活動として,当該行為を実行するための組織により行われるもの,又は?組織的胞罪集団の不正権益の獲得等の目的で行われるものの遂行を二人以上で計画した者は、計画に基づき犯罪を実行するための準備行為が行われたとき処罰するものとする罰則を新設[計画をした犯罪の法定刑が死刑又は無期・長期10年を超える懲役・禁錮の場合は5年以下の懲役・禁錮、それ以外の場合は2年以下の懲役・禁錮]

この文章を一読して理解できた人は、自分の日本語読解能力の異常性を恐れなければならない。あなたはおかしいのだ。巷の「文章読本」の類は、「美しくも読み易い品格ある文章を志す者は、悪文に近づいてはならない」として、法律(家)の文章を悪文の典型として挙げるのが常である。法律(家)の文章にも、出来不出来のあることは避けられないが、この文章は悪文の最たるものではないか。これを理解できる方が、おかしいのだ。

理解に努力しよう。まずはタイトル。
「実行準備行為を伴う組織的犯罪集団による重大犯罪遂行の計画の罪の新設〔組織的犯罪処罰法〕」とは、現行の〔組織的犯罪処罰法〕を改正して、これまでにない罪を新設する。その罪の名は、「実行準備行為を伴う組織的犯罪集団による重大犯罪遂行の計画の罪」というのだ。

お分かりだろうか、「実行準備行為を伴う組織的犯罪集団による重大犯罪遂行の計画の罪」という表現。

犯罪主体は、「組織的犯罪集団」のようである。
行為は、「重大犯罪遂行の計画」のごとくである。
では、「組織的犯罪集団による重大犯罪遂行の計画の罪」で良さそうなものだが、「実行準備行為を伴う」が目玉なので、これを冒頭にもってきた。

だから、「実行準備行為を伴う」という修飾語句が、「組織的犯罪集団による」を飛び越して、「犯罪遂行の計画」という被修飾語句と離れてしまっているから、文意がとりにくい。

それだけではない。「実行準備行為」とはなにか、「伴う」とは何か、「組織的犯罪集団」とは何か、「重大犯罪」とは何か、「その遂行の計画」とは何か。さっぱり分からないのが、当たり前。このわかりにくさ、曖昧さ。これこそが「共謀罪」の本質であり、その危険性の根拠なのだ。

本文は、さらに分からない。理解のためには、もっと努力が必要だ。改行で文の構造を明確化してみよう。

次の罪(共謀罪)を新設する。
別表第四に掲げる罪に当たる行為であって、
 ?組織的犯罪集団の団体の活動として,当該行為を実行するための組織により行われるもの、または
 ?組織的犯罪集団の不正権益の獲得等の目的で行われるもの
の遂行を二人以上で計画した者は、
 計画に基づき犯罪を実行するための準備行為が行われたとき処罰するものとする罰則を新設

なお、「組織的犯罪集団」とは、(団体のうち,その結合関係の基礎としての共同の目的が別表第三に掲げる罪を実行することにあるもの)のことをいう。

また、罰則は、「計画をした犯罪の法定刑が死刑又は無期・長期10年を超える懲役・禁錮の場合は」5年以下の懲役・禁錮とし、「それ以外の法定刑の犯罪の場合は」2年以下の懲役・禁錮とする。

文の構造は分かったこととして、実は、具体的にいかなる場合のいかなる行為が処罰対象となるかの肝腎なところは曖昧にして模糊のまま。実のところは、曖昧であるから、権力にとって使いやすく、市民にとっては恐るべき凶器なのだ。

刑法学の教科書を開くと、その第1頁の冒頭で、刑法の人権保障機能が語られる。権力の恣意的な刑罰権発動を防止するために、刑法典は厳格な犯罪構成要件を定めめている。もちろん、これに該当しない行為を処罰することを禁じて市民の人権を擁護しているのだ。

だから犯罪構成要件は明確であることが必要である。構成要件としての行為も結果も日常用語でだれにも分かるように書かれていなければならない。構成要件的行為は、「人を殺す」「他人の財物を窃取する」「放火する」などの、日常生活における行為とは区別された定型性を持っている。だから、実行行為の着手があったか否かの判断は明瞭である。実行行為に着手して結果が発生すれば既遂、しなければ未遂。実行の着手の有無が、通常は犯罪となるかどうかの分水嶺である。

ところが、共謀罪は、実行行為着手前の犯罪の計画段階で処罰しようとするもの。実行行為への着手のない段階で、犯罪としての定型性を欠いた日常行為を犯罪の準備行為として処罰対象とする立法なのだ。近代刑法の原則からは、乱暴きわまるものと言わねばならない。何をもって犯罪の実行行為となるか予想が付かないことが、共謀罪の共謀罪たる所以なのだ。だから、何が犯罪になるかを明確に記すことができない。むしろ、曖昧でなんでも処罰可能なところに、その本質があることを見極めなければならない。

なお、新設の罪の数は従来案では676に上ったが、今回法案の別表第四では91法律の277罪まで減らしたとされている。だから、大した弊害はない? とんでもない。刑法の人権保障機能が崩れるのだ。小さく生まれて大きく育った治安維持法の例も学ばなければならない。
(2017年2月28日)

敗戦記念日に、「安倍退陣」と「戦争法案廃案」を再確認

早朝、閑散とした上野公園を散歩する。DHCスラップ訴訟の支援の方からいただいた「article9」デザインのTシャツを着て、昨夜の雨のおかげで涼やかな風の中を歩き出す。

東大本郷キャンパスを鉄門から抜けて、無縁坂を下って不忍池に。今年もみごとに咲いた蓮の花を愛でつつ、弁天堂から清水堂へ。とき忘れじの塔から、上野大仏のご尊顔を拝して、噴水広場が終点。折り返しての帰り道に、五條神社を下って、また不忍池をめぐっての帰宅。ゆっくり歩いて汗ばむ1時間半ほどの道草散歩道。目に触れるものみな、のどかで平和な風景。

70年前の今日のこの公園は、どのようであっただろうかと考える。ここ上野は、維新期には「上野の戦争」の舞台となり、その後「恩賜公園」となった。関東大震災の避難場所となり、東京大空襲の夥しい犠牲者の埋葬地ともなった。その後の70年は、曲がりなりにも平和が続いている。動物園と博物館・美術館そして芸大に象徴される平和。

私のこれまでの人生は、「戦後70年」とほぼ重なる。物心ついたときは、既に「終戦後」だったから、戦前の空気は直接には知らない。一回り上の世代が語る、敗戦の「断絶」と「価値観の大転換」を聞かされて育った。自分でものを考える年齢になって、後天的に「敗戦による歴史の断絶」を学んで胸に刻んだ。

今日は、その歴史の断絶を意識し、再生した日本が国是とした「平和」を考え、噛みしめるべき日なのだ。

当たり前のことだが、ものごとに失敗があったと気付いたときには、失敗の原因を見極めなければならない。失敗の原因について自己に非があれば反省し、被害者には謝罪して、再び同じ失敗を繰り返すことのないように改善策を講じることになる。「原因究明⇒反省・謝罪」の揺るぎないプロセスがなければ、「再発防止の改善策」は出てこない。再発防止への努力の姿勢への信頼や共感を得ることもできない。

「歴史認識」とは、日本が犯した侵略戦争と植民地支配という「壮大な」失敗についての、「原因究明と反省・謝罪」のことである。戦前の何をどう反省して、戦前と対置された戦後の出発点としたのかという問いへのそれぞれの回答なのである。とりわけ、あの戦争をどのようなものと理解するかで、「再発防止」のあり方も異なってくる。

歴史修正主義の立場では、「やむなく仕掛けられた防衛戦争だったが」、「戦力不十分故に負けた」との理解もあり得る。この理解からは、「格段に強力な国防体制をつくりあげて、再び敗戦の憂き目を見ることのない軍国日本を建設しよう」ともなりかねない。

常識的な理解では、
(1) 戦前の天皇制国家が富国強兵を国策とした。
(2) 「富国」と「強兵」の追求が軍国主義と植民地支配政策を生みだした。
(3) 軍国主義は、侵略戦争を引き起こし過酷な植民地支配を支えた。
(4) 内外に未曾有の惨禍を遺して旧日本はいったん滅亡し、
  廃墟の中から別の原理の新日本が再生した。
(5) 日本の再生の原理とは、再びの戦争と植民地支配をせぬこと(平和・国際協調)であり、軍国主義の支柱となった天皇制を廃棄しての民主主義(国民主権)である。

だから、安倍談話は端的に日本に非があったことを率直に認め、「侵略戦争と植民地支配によって近隣諸国の民衆にこの上ない被害をもたらしたことを反省するとともに近隣諸国の民衆に謝罪し、再び平和の脅威とならないことを誓約する」で必要にして十分なのだ。

ところが、昨日の「戦後70年・安倍談話」はこうなってはいない。本心において、侵略戦争をしたという自覚がなく、植民地支配で迷惑をかけたとも思ってはいない。だから、反省も謝罪もしたくはないのだ。ところが、諸般の情勢から、反省や謝罪をしたように見せなければならない羽目に陥って、この外部から強制された起案なのだ。真意とは異なる文章だから、的確にポイントを書けない。末節と装飾が過剰な、ごまかしの長文となってしまっている。だから、およそ人の心を打つところがない。悪文であり、駄文である。

よく読むと、自分の言葉では侵略戦争と植民地支配とについて反省していない。もとより謝罪もない。村山談話・小泉談話が認めた「侵略戦争と植民地支配についての反省と謝罪」は、「歴代内閣の立場」として紹介されているに過ぎない。「歴代内閣の立場は、今後も揺るぎないものであります」という表現はあるが、自分もそれに積極的に賛成するとは言っていない。

この文章は、書き手が、自分の意を正確に伝えたいとも、意のあるところを読み取って欲しいとも思っていない。論理が一貫しないので滑らかさに欠け、ボキボキ折れているようで、読みにくいことこの上ない。歴史的な記述のレベルの低さも覆うべくもなく、これが一国の首相の名で出される文章であるとは情けない。一見無能な筆者が論理的に混乱しているとも思わせるが、起案の官僚がこんな悪文を書く無能力とは考えにくい。やはり意図的に争点をぼかした起案と見るべきであろう。

70年目の8月15日。今日のこの日は、さわやかな散歩で始まったが、安倍談話を読み直して、あらためての怒りのうちに一日が終わろうとしている。反省のないこの危険な人物を、首相の座に就かせておいてはならない。「安倍政治を許さない」「戦争法案を廃案に」との覚悟の必要を再確認する日となった。
(2015年8月15日)

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