敗戦記念日に、「安倍退陣」と「戦争法案廃案」を再確認
早朝、閑散とした上野公園を散歩する。DHCスラップ訴訟の支援の方からいただいた「article9」デザインのTシャツを着て、昨夜の雨のおかげで涼やかな風の中を歩き出す。
東大本郷キャンパスを鉄門から抜けて、無縁坂を下って不忍池に。今年もみごとに咲いた蓮の花を愛でつつ、弁天堂から清水堂へ。とき忘れじの塔から、上野大仏のご尊顔を拝して、噴水広場が終点。折り返しての帰り道に、五條神社を下って、また不忍池をめぐっての帰宅。ゆっくり歩いて汗ばむ1時間半ほどの道草散歩道。目に触れるものみな、のどかで平和な風景。
70年前の今日のこの公園は、どのようであっただろうかと考える。ここ上野は、維新期には「上野の戦争」の舞台となり、その後「恩賜公園」となった。関東大震災の避難場所となり、東京大空襲の夥しい犠牲者の埋葬地ともなった。その後の70年は、曲がりなりにも平和が続いている。動物園と博物館・美術館そして芸大に象徴される平和。
私のこれまでの人生は、「戦後70年」とほぼ重なる。物心ついたときは、既に「終戦後」だったから、戦前の空気は直接には知らない。一回り上の世代が語る、敗戦の「断絶」と「価値観の大転換」を聞かされて育った。自分でものを考える年齢になって、後天的に「敗戦による歴史の断絶」を学んで胸に刻んだ。
今日は、その歴史の断絶を意識し、再生した日本が国是とした「平和」を考え、噛みしめるべき日なのだ。
当たり前のことだが、ものごとに失敗があったと気付いたときには、失敗の原因を見極めなければならない。失敗の原因について自己に非があれば反省し、被害者には謝罪して、再び同じ失敗を繰り返すことのないように改善策を講じることになる。「原因究明⇒反省・謝罪」の揺るぎないプロセスがなければ、「再発防止の改善策」は出てこない。再発防止への努力の姿勢への信頼や共感を得ることもできない。
「歴史認識」とは、日本が犯した侵略戦争と植民地支配という「壮大な」失敗についての、「原因究明と反省・謝罪」のことである。戦前の何をどう反省して、戦前と対置された戦後の出発点としたのかという問いへのそれぞれの回答なのである。とりわけ、あの戦争をどのようなものと理解するかで、「再発防止」のあり方も異なってくる。
歴史修正主義の立場では、「やむなく仕掛けられた防衛戦争だったが」、「戦力不十分故に負けた」との理解もあり得る。この理解からは、「格段に強力な国防体制をつくりあげて、再び敗戦の憂き目を見ることのない軍国日本を建設しよう」ともなりかねない。
常識的な理解では、
(1) 戦前の天皇制国家が富国強兵を国策とした。
(2) 「富国」と「強兵」の追求が軍国主義と植民地支配政策を生みだした。
(3) 軍国主義は、侵略戦争を引き起こし過酷な植民地支配を支えた。
(4) 内外に未曾有の惨禍を遺して旧日本はいったん滅亡し、
廃墟の中から別の原理の新日本が再生した。
(5) 日本の再生の原理とは、再びの戦争と植民地支配をせぬこと(平和・国際協調)であり、軍国主義の支柱となった天皇制を廃棄しての民主主義(国民主権)である。
だから、安倍談話は端的に日本に非があったことを率直に認め、「侵略戦争と植民地支配によって近隣諸国の民衆にこの上ない被害をもたらしたことを反省するとともに近隣諸国の民衆に謝罪し、再び平和の脅威とならないことを誓約する」で必要にして十分なのだ。
ところが、昨日の「戦後70年・安倍談話」はこうなってはいない。本心において、侵略戦争をしたという自覚がなく、植民地支配で迷惑をかけたとも思ってはいない。だから、反省も謝罪もしたくはないのだ。ところが、諸般の情勢から、反省や謝罪をしたように見せなければならない羽目に陥って、この外部から強制された起案なのだ。真意とは異なる文章だから、的確にポイントを書けない。末節と装飾が過剰な、ごまかしの長文となってしまっている。だから、およそ人の心を打つところがない。悪文であり、駄文である。
よく読むと、自分の言葉では侵略戦争と植民地支配とについて反省していない。もとより謝罪もない。村山談話・小泉談話が認めた「侵略戦争と植民地支配についての反省と謝罪」は、「歴代内閣の立場」として紹介されているに過ぎない。「歴代内閣の立場は、今後も揺るぎないものであります」という表現はあるが、自分もそれに積極的に賛成するとは言っていない。
この文章は、書き手が、自分の意を正確に伝えたいとも、意のあるところを読み取って欲しいとも思っていない。論理が一貫しないので滑らかさに欠け、ボキボキ折れているようで、読みにくいことこの上ない。歴史的な記述のレベルの低さも覆うべくもなく、これが一国の首相の名で出される文章であるとは情けない。一見無能な筆者が論理的に混乱しているとも思わせるが、起案の官僚がこんな悪文を書く無能力とは考えにくい。やはり意図的に争点をぼかした起案と見るべきであろう。
70年目の8月15日。今日のこの日は、さわやかな散歩で始まったが、安倍談話を読み直して、あらためての怒りのうちに一日が終わろうとしている。反省のないこの危険な人物を、首相の座に就かせておいてはならない。「安倍政治を許さない」「戦争法案を廃案に」との覚悟の必要を再確認する日となった。
(2015年8月15日)