私自身が訴えられた「DHCスラップ訴訟」。その勝利報告集会が近づいてきました。あらためてお知らせし、集会へのご参加を、よろしくお願いします。
日程と場所は以下のとおりです。
☆時 2017年1月28日(土)午後(1時30分?4時)
☆所 日比谷公園内の「千代田区立日比谷図書文化館」4階「スタジオプラス小ホール」
☆進行
弁護団長挨拶 田島泰彦先生記念講演 常任弁護団員からの解説
テーマは、「名誉毀損訴訟の構造」「サプリメントの消費者問題」「反撃訴訟の内容」など。会場発言(スラップ被害経験者+支援者)
澤藤挨拶
・資料集を配布いたします。反撃訴訟の訴状案も用意いたします。
・資料代500円をお願いいたします。
この集会から、強者の言論抑圧に対する反撃をはじめます。ご支援ください。
さて、「DHCスラップ訴訟」とは、いったい何だったのでしょうか。その提訴と応訴が応訴が持つ意味は、次のように整理できると思います。
1 言論の自由に対する攻撃とその反撃であった。
2 とりわけ政治的言論(攻撃されたものは「政治とカネ」に関わる政治的言論)の自由をめぐる攻防であった。
3 また消費者問題としての意義(攻撃されたものは「消費者利益を目的とする行政規制」)
4 訴権濫用による高額賠償請求がどこまで許されるか。
私は、言論萎縮を狙ったスラップ訴訟の悪辣さ、その害悪を身をもって体験しました。訴訟の被告になるのは、だれもが避けたい不愉快でしんどい経験です。6000万円もの請求を受ければ、多少はびびりの気持も湧いてきます。「こんな面倒なことになるのなら批判のブログは書かねばよかった」などと、ちらりと思ったりもします。でも、「これは自分一人の問題ではない」「自分が萎縮すれば、多くの人の言論の自由が損なわれることになる」「不当な攻撃とは闘わなければならない」「闘いを放棄すれば、DHC・吉田の思う壺ではないか」「私は弁護士だ。自分の権利も擁護できないで、依頼者の人権を守ることはできない」。そう思い、自分を励ましながらの応訴でした。
振り返って今、私は、DHC・吉田のやり口をけっして許してはならないと考えています。このような手口を放置すれば、社会の言論が萎縮して言論の自由が根底から崩壊しかねないとの危機感を持っています。とりわけ、「強者を批判することは裁判をやられて面倒だから、やめておいた方が賢い」となりかねません。
また、攻撃された私のブログは、政治とカネにまつわる、典型的な政治的言論ですから、スラップを放置することは権力批判の言論への萎縮を容認することにほかならないと思います。さらに、私は、吉田を「『金で政治を買おうというこの行動』、とりわけ『大金持ちがさらなる利潤を追求するために行政の規制緩和を求めて政治家に金を出す』、こんな行為は徹底して批判されなくてはならない」とブログに書きました。これは、消費者を代表する立場から、消費者利益を攻撃する者への言論による批判です。このような言論が封殺されてはなりません。
ですから、私は被告として訴訟に勝利しただけでは不足なのです。DHC・吉田は私の他に、同時期に9件のスラップ訴訟を提起しています。スラップ常習者と言って差し支えないと考えます。このようなスラップ常習者には、反撃訴訟が必要だと思います。
私に対する、DHCスラップ訴訟の提起が2014年4月16日ですから、時効期間の3年を考慮して、2017年4月16日以前の提訴が望ましいと思います。候補日を最初のブログ掲載の日から3年目の3月30日(木)として準備をいたします。被告は、DHC・吉田嘉明の両名だけとするか、あるいはDHC・吉田の不法行為を補佐した原告訴訟代理人となった弁護士も被告とするか。もう少し詰めて検討したいと思います。
反撃訴訟の訴額(損害賠償請求額)は660万円とします。
その根拠は、6000万円請求のスラップに対抗して応訴するための弁護士費用がその10%の金額として主損害を600万円。その損害賠償請求訴訟の弁護士費用10%を付加しての660万円。つまり、スラップ応訴のために被告(澤藤)が本来支払うべき弁護士費用(着手金+成功報酬)の妥当額が600万円。そして、反撃訴訟の弁護士費用がその10%の60万円。こういう計算です。
・違法性を基礎づけるキーワードは、
(1) DHC側の「調査義務懈怠」
(2) 6000万円の過大請求
(3) 合計10件もの濫訴
(4) 成算ないのに控訴し、最高裁まで争った。
1月28日集会では、田島先生のDHCスラップ訴訟を闘ったことの意義をお話しいただけるものと思います。また、反撃訴訟について、弁護団からの解説もあります。言論の自由の大切さと思われる皆さまに、集会へのご参加と、ご発言をお願いいたします。
(2017年1月13日)
本日は、「本郷湯島九条の会」新年の本郷三丁目交差点「かねやす」前街宣活動。憲法施行70周年のこの年には、アベ政権と民衆との本格的な改憲をめぐっての攻防が展開される。何よりも、野党と市民との共闘で国会の議席分布を変えなければならない。
マイクを取った人々が、戦争法のこと、共謀罪のこと、南スーダンの情勢、アベらのパールハーバー訪問、イナダの靖國神社参拝等々の訴えが続いた。そして、我が文京区も小選挙区の野党統一候補選定の話が進んでいるという。
東京2区は、文京(ぶ)・台東(た)・中央(ちゅう)の3特別区を範囲とする。これをまとめて「ぶたちゅう」と言うのだそうだ。まだ、統一候補予定者の名前も出てこないが、政党ではなく、まずは市民を中心に関係者が寄り集まっているという。がんばれ、「ぶたちゅう」。
もう一つ、話題は、東京大学の大学院生からの呼びかけで、軍学共同研究反対の訴え。
本日は、軍学共同研究反対に関する、再度の緊急署名のお願いをしておきたい。各大学や研究機関に宛てた要望である。
URLは下記のとおりである。
http://no-military-research.jp/shomei/
お知らせ
防衛装備庁は、軍事技術に関する研究助成制度である「安全保障技術研究推進制度」を2015年度に創設しました。この制度の狙いは、防衛装備(兵器・武器)の開発・高度化のために、大学・研究機関が持つ先端科学技術を発掘し、活用することです。2015年度に3億円、2016年度に6億円であった予算規模は、2017年度予算では110億円へと大幅増額されようとしています。何としてもここで軍学共同の流れにストップをかけなければなりません。
そこで私たちは、全国の大学・研究機関に、本制度へ応募しないように求める下記要望書を、科学者と市民の署名を添えて提出することにしました。皆様のご署名を呼びかけます。また、周囲の方々にも広げていただければ幸いです。2017年2月20日に皆様から寄せられた署名を集約する予定です。
大学・研究機関への要望書
防衛装備庁は、軍事技術に関する研究助成制度である「安全保障技術研究推進制度」を2015年度に創設しました。この制度の狙いは、防衛装備(兵器・武器)の開発・高度化のために、大学・研究機関が持つ先端科学技術を発掘し、活用することです。2015年度に3億円の予算規模で始まった本制度は、2016年には6億円に増額され、来年度(2017年度)においては当初の30倍超の110億円が閣議決定されました。大学予算や科学予算が減額され続けている中で、軍学共同を推進するための予算のみが大幅に増額されようとしていることは極めて異常と言わざるを得ません。そして本制度によって大学・研究機関や科学者が軍事研究に取り込まれてしまうことが強く懸念されます。
「安全保障技術研究推進制度」について、防衛装備庁は(1)基礎研究に対する助成である、(2)研究成果の公開を原則としている、(3)デュアルユースで民生技術への波及効果がある、などと強調して軍事研究に対する科学者や市民の警戒心を和らげようと躍起になっています。
しかし、(1)防衛装備庁の言う「基礎研究」とは、通常の意味における基礎科学・基礎研究ではなく、防衛装備(兵器・武器)の開発・高度化を目指す一連の研究・開発の過程の初期段階を意味します(その詳細は日本学術会議「安全保障と学術に関する検討委員会」の第6回会議のWEBに資料2として掲載されています)。つまり「直ちに装備化するわけではない防衛装備の基礎開発」という意味であり、将来的に本格的な装備として実用化するための第一歩なのです。
また(2)の公開については、防衛装備庁は公募要領で「研究成果は公開が原則」と曖昧に書いて発表・公開が自由であるかのように見せかけながら、実際の成果の公開に際しては必ず防衛装備庁の確認を必要とし、通常の研究と同様な研究成果公開の完全な自由が保証されておりません。さらに、採択された後に交わされる『委託契約事務処理要領』では「発表の内容、時期等については、他の当事者(防衛装備庁)の書面による事前の承諾を得るものとする」と書かれ、『委託契約書』では「発表及び公開にあたっては、その内容についてあらかじめ甲(防衛装備庁)に確認するものとする」と書かれており、採択決定後に取り交わす書類ですから、公募要領より露骨に防衛装備庁が介入・干渉できるようになっています。研究成果の完全に自由な公開という研究者にとっての死活条件が担保されていないことに対して、学術研究の場を預かる立場として安易に対応すべきではないと思われます。
(3)のデュアルユース問題については、防衛装備庁は元々民生技術として大学・研究機関で行われている開発研究を軍事目的に特化して応用しようというものであり、上記(2)の非公開の可能性を考えれば、むしろ本来構想していた民生のための技術開発が行われなくなることになると考えられます。つまりデュアルユースは、民生技術へ波及するかのように装う見せかけだけの言葉であり、実際は軍事のために技術を独占することになるのです。
以上の点からも明らかなように、この制度が大学・研究機関に浸透すれば、科学は人類全体が平和的かつ持続的に発展するための学術・文化ではなくなり、特定の国家や軍に奉仕するものへと変質させられてしまうでしょう。それは、大学・研究機関が本来行ってきた民生目的での研究・開発を歪めてしまうことになります。また、大学院生やポスドクなどの若手研究者が軍事研究に参加することが当然予想され、次世代を担う人間を育てる高等教育の在り方を変質させ、これまでせっかく築き上げてきた大学・研究機関の健全性への市民の信頼に傷をつけてしまうことは明らかです。さらに、戦時中に科学者が軍に全面協力したことへの痛烈な反省から導かれた「軍事研究を行わない」という戦後の日本の学術の原点をも否定することに繋がります。
市民は日本の学術研究が人類の平和と幸福に貢献するものと期待しており、戦争につながる研究を行なうことを決して望んではいません。市民の学術への信頼を裏切ることなく、日本の学術を預かる人間としての矜持の下、良識を貫くことを期待します。
上述したような「安全保障技術研究推進制度」の持つ危険性に鑑みて、私たちは
1.貴学・貴研究機関として、「安全保障技術研究推進制度」への応募を行わないこと、
2.貴学・貴研究機関として、「安全保障技術研究推進制度」をはじめとする軍事的研究資金の受け入れを禁止する規範あるいは指針の策定や、平和宣言の制定を検討すること、
を要望致します。
(2017年1月10日)
今年は、沖縄の基地建設反対闘争が正念場を迎える。自分のできることで沖縄の運動に参加したいと思う。まずは、下記のURLを開いて、高江オスプレイパッド建設反対のリーダー山城博治さんの釈放を求めるネット署名をお願いしたい。
15000人目標の賛同者が、今11731人の賛同者を得て、残り3269人となっているという。できることなら、あなたのお気持ちを、一言なりともコメントしていだたきたいし、このネット署名を拡散しようではないか。
https://www.change.org/p/savehiroji
署名の要請文は以下のとおりだ。
「ふるさとの自然を守りたい」「当たり前のくらしを守りたい」「米軍施設はいらない」??ただそれだけの思いで、高江の住民や沖縄の人たちは必死の座り込みを続けています。座り込みは、「非暴力で」「自主的に」「愛とユーモアを」のガイドラインが徹底され、強制排除にあっても、住民側にケガ人は続出しましたが、機動隊側を誰一人傷つけることはありませんでした。
それなのに、いま、山城博治さんら、反対運動のリーダーたちが、こじつけとしか思えない理由で、不当逮捕され、次々に別の理由に切り替わり、長期に拘留されています。最新の理由は、10ヶ月前の、1月28日から30日にかけて、辺野古・キャンプシュワブのゲート前にブロックを積み、工事車両の通行を妨げたというものです。なぜ、10ヶ月も前に行われた抗議行動について、いま、逮捕勾留なのでしょうか。警察は、その場にいて、見ていたにもかかわらず、何の行動も起こしていませんでした。
これは運動を委縮させ、運動のイメージを傷つけるための不当逮捕としか言いようがありません。
山城博治さんらの釈放を求めるため、年明けに以下の要請文を提出します。ぜひ賛同して要請者になってください!
要請者:鎌田慧、澤地久枝、佐高信、落合恵子、小山内 美江子
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那覇地方裁判所御中
那覇地方検察庁御中
山城博治さんらの釈放を求める要請書
前略
私たちは、沖縄辺野古の新基地建設と高江のオスプレイパッド建設に反対する人々に対する政府のすさまじい弾圧に深い憂慮の意を表明し、逮捕・勾留されている山城博治さんらの釈放を強く求める者です。
沖縄辺野古の新基地建設と高江のオスプレイパッド建設に沖縄の県民の多くが反対をしています。沖縄の基地負担軽減では全くなく、新たな基地を作り、基地機能を強化するものでしかないこと、また、貴重なふるさとの自然を守りたい、平穏な生活を守りたいという気持ちから、非暴力の座り込みが続けられています。こうした中、反対運動を続ける沖縄平和運動センター議長である山城博治さんたちがこじつけとも思われる理由で逮捕され、次々と罪名が切り替わり、長期の勾留が続いています。現場で行動を指揮する山城博治さんに対する勾留は、2016年12月25日で、70日にも及んでいます。山城博治さんは、10月17日、ヘリパッド建設予定地周辺の森の中におかれた有刺鉄線を切断したとして器物損壊罪で逮捕されましたが、那覇簡裁は20日にいったん勾留請求を却下しました。すると、警察は、同じ20日に、9月25日に公務執行妨害と傷害を行ったとの容疑で再逮捕しました。勾留を続けるために再逮捕したのです。11月11日には、山城さんは、公務執行妨害と傷害の罪で起訴されました。しかし、起訴の翌日の琉球新報は、山城さんは、「現場で市民の行動が過熱化したり、個別に動いたりすることを抑制し、」「勝手に機動隊員らと衝突したりしないように繰り返し呼びかけていた」と報じています。さらに、山城さんが2015年4月に闘病生活に入り、辺野古のキャンプシュワブゲート前の抗議行動に参加できなくなった後の県警関係者の話として、「暴走傾向の人を抑える重しとして山城さんは重要だった」と話していたと報じています。現場で、警察官が傷害を負った事実が仮にあるとしても、それを山城さんの責任とすることは筋違いです。
さらに、11月29日には、今度は、山城さんは威力業務妨害罪で逮捕されました。この逮捕の容疑は、10ヶ月前の、1月28日から30日にかけて、ゲート前にブロックを積み、工事車両の通行を妨げたというものです。なぜ、10ヶ月も前に行われた抗議行動について、いま、逮捕勾留なのでしょうか。警察は、その場にいて、見ていたにもかかわらず、何の行動も起こしていませんでした。
山城博治さん他運動関係者らに対する逮捕、勾留は、高江のオスプレイパッド建設、辺野古の新基地建設を強行するために、その反対運動をつぶすために行われているものです。沖縄の人々の、基地とヘリパッド建設反対のやむにやまれぬ行動に対して、これを力でねじ伏せるような一連の検挙は、不当な弾圧であり、決して許されてはなりません。
私たちは、山城博治さんたちの早期釈放を求めます。保釈が認められるべきです。同じ被疑事実で逮捕された他の人たちの何人かは、起訴されず釈放されています。罪証隠滅の恐れなどないことは明らかです。もちろん逃亡の恐れもありません。勾留を続ける法的な理由がありません。
とりわけ山城博治さんの健康状態が心配です。山城博治さんは、2015年に大病を患い、病み上がりの状態です。今も、白血球値が下がり、病院に通院し、治療を受けなければならない状態です。勾留理由開示公判で山城さんを見た、市民からも、山城さんの健康を危惧する声が上がっています。健康を害していることが、明らかな状態のもとで、長期の勾留が続けられています。さらに、山城博治さんのみ接見禁止がついていて、市民が面会に行くこともできず、弁護士としか会えない状態が続いています。山城博治さんの健康を害し、生命の危険すらもたらしかねない長期勾留は、人道上も決して許されることではありません。山城博治さんたちの一刻も早い釈放を求めます。
記
1.山城博治さんほか沖縄辺野古の新基地建設と高江のオスプレイパッド建設に反対する活動に関連して勾留されている人々の保釈または勾留執行停止を強く求めます。
2.山城博治さんに対する接見禁止措置を直ちに解除することを求めます。
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賛同者の署名簿は、那覇地方裁判所と那覇地方検察庁に届けられる。私は、この署名の呼びかけ人である鎌田慧、澤地久枝、佐高信、落合恵子、小山内美江子の各位を、尊敬し信用している。長期拘留が、基地建設反対運動への弾圧であることは自明であるとも考えている。このような事態を放置しておいてはならない。
なお、昨年暮れ(12月28日)に発表された「山城博治氏の釈放を求める刑事法研究者の緊急声明」も併せて掲載しておきたい。
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山城博治氏の釈放を求める刑事法研究者の緊急声明
沖縄平和運動センターの山城博治議長(64)が、70日間を超えて勾留されている。山城氏は次々に3度逮捕され、起訴された。接見禁止の処分に付され、家族との面会も許されていない山城氏は、弁護士を通して地元2紙の取材に応じ、「翁長県政、全県民が苦境に立たされている」「多くの仲間たちが全力を尽くして阻止行動を行ってきましたが、言い知れない悲しみと無慈悲にも力で抑え込んできた政治権力の暴力に満身の怒りを禁じ得ません」と述べる(沖縄タイムス2016年12月22日、琉球新報同24日)。この長期勾留は、正当な理由のない拘禁であり(憲法34条違反)、速やかに釈放されねばならない。以下にその理由を述べる。
山城氏は、?2016年10月17日、米軍北部訓練場のオスプレイ訓練用ヘリパッド建設に対する抗議行動中、沖縄防衛局職員の設置する侵入防止用フェンス上に張られた有刺鉄線一本を切ったとされ、準現行犯逮捕された。同月20日午後、那覇簡裁は、那覇地検の勾留請求を棄却するが、地検が準抗告し、同日夜、那覇地裁が勾留を決定した。これに先立ち、?同日午後4時頃、沖縄県警は、沖縄防衛局職員に対する公務執行妨害と傷害の疑いで逮捕状を執行し、山城氏を再逮捕した。11月11日、山城氏は?と?の件で起訴され、翌12日、保釈請求が却下された(準抗告も棄却、また接見禁止決定に対する準抗告、特別抗告も棄却)。さらに山城氏は、?11月29日、名護市辺野古の新基地建設事業に対する威力業務妨害の疑いで再逮捕され、12月20日、追起訴された。
山城氏は、以上の3件で「罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由」(犯罪の嫌疑)と「罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由」があるとされて勾留されている(刑訴法60条)。
しかし、まず、犯罪の嫌疑についていえば、以上の3件が、辺野古新基地建設断念とオスプレイ配備撤回を掲げたいわゆる「オール沖縄」の民意を表明する政治的表現行為として行われたことは明らかであり、このような憲法上の権利行為に「罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由」があるのは、その権利性を上回る優越的利益の侵害が認められた場合だけである。政治的表現行為の自由は、最大限尊重されなければならない。いずれの事件も抗議行動を阻止しようとする機動隊等との衝突で偶発的、不可避的に発生した可能性が高く、違法性の程度の極めて低いものばかりである。すなわち、?で切断されたのは価額2,000円相当の有刺鉄線1本であるにすぎない。?は、沖縄防衛局職員が、山城氏らに腕や肩をつかまれて揺さぶられるなどしたことで、右上肢打撲を負ったとして被害を届け出たものであり、任意の事情聴取を優先すべき軽微な事案である。そして?は、10か月も前のことであるが、1月下旬にキャンプ・シュワブのゲート前路上で、工事車両の進入を阻止するために、座り込んでは機動隊員に強制排除されていた非暴力の市民らが、座り込む代わりにコンクリートブロックを積み上げたのであり、車両進入の度にこれも難なく撤去されていた。実に機動隊が配備されたことで、沖縄防衛局の基地建設事業は推進されていたのである。つまり山城氏のしたことは、犯罪であることを疑うべき行為でも、身体拘束できるような行為でもなかったのである。
百歩譲り、仮に嫌疑を認めたとしても、次に、情状事実は罪証隠滅の対象には含まれない、と考えるのが刑事訴訟法学の有力説である。?の件を除けば、山城氏はあえて事実自体を争おうとはしないだろう。しかも現在の山城氏は起訴後の勾留の状態にある。検察は公判維持のために必要な捜査を終えている。被告人の身体拘束は、裁判所への出頭を確保するための例外中の例外の手段でなければならない。もはや罪証隠滅のおそれを認めることはできない。以上の通り、山城氏を勾留する相当の理由は認められない。
法的に理由のない勾留は違法である。その上で付言すれば、自由刑の科されることの想定できない事案で、そもそも未決拘禁などすべきではない。また、山城氏は健康上の問題を抱えており、身体拘束の継続によって回復不可能な不利益を被るおそれがある。しかも犯罪の嫌疑ありとされたのは憲法上の権利行為であり、勾留の処分は萎縮効果をもつ。したがって比例原則に照らし、山城氏の70日間を超える勾留は相当ではない。以上に鑑みると、山城氏のこれ以上の勾留は「不当に長い拘禁」(刑訴法91条)であると解されねばならない。
山城氏の長期勾留は、従来から問題視されてきた日本の「人質司法」が、在日米軍基地をめぐる日本政府と沖縄県の対立の深まる中で、政治的に問題化したとみられる非常に憂慮すべき事態である。私たちは、刑事法研究者として、これを見過ごすことができない。山城氏を速やかに解放すべきである。
*呼びかけ人(50音順)
春日勉(神戸学院大学教授) 本庄武(一橋大学教授) 前田朗(東京造形大学教授) 森川恭剛(琉球大学教授)
*賛同人(50音順)
足立昌勝(関東学院大学名誉教授) 雨宮敬博(宮崎産業経営大学准教授) 石塚伸一(龍谷大学教授) 内田博文(神戸学院大学教授) 内山真由美(佐賀大学准教授) 梅崎進哉(西南学院大学教授) 大場史朗(大阪経済法科大学准教授) 大藪志保子(久留米大学准教授) 岡田行雄(熊本大学教授) 岡本洋一(熊本大学准教授) 垣花豊順(琉球大学名誉教授) 金尚均(龍谷大学教授) 葛野尋之(一橋大学教授) 斉藤豊治(甲南大学名誉教授) 櫻庭総(山口大学准教授) 佐々木光明(神戸学院大学教授) 島岡まな(大阪大学教授) 鈴木博康(九州国際大学教授) 関哲夫(國學院大学教授) 高倉新喜(山形大学教授) 豊崎七絵(九州大学教授) 新倉修(青山学院大学教授) 新村繁文(福島大学特任教授) 平井佐和子(西南学院大学准教授) 平川宗信(名古屋大学名誉教授) 福島至(龍谷大学教授) 福永俊輔(西南学院大学准教授) 松本英俊(駒澤大学教授) 水谷規男(大阪大学教授) 宗岡嗣郎(久留米大学教授) 村田和宏(立正大学准教授) 森尾亮(久留米大学教授) 矢野恵美(琉球大学教授) 吉弘光男(久留米大学教授) 他3人
*計 41 人(12月28日13:00 第1回集約)
(注) 引き続き賛同を呼びかけ、2017年1月中旬に次回集約の予定。
以 上
本日は、東京「君が代」裁判第4次訴訟での原告7名についての本人尋問。東京地裁103号大型法廷で、午前9時55分開廷午後4時30分閉廷までの長丁場。充実した、感動的な法廷だった。
10・23通達関連の訴訟は数多いが、そのメインとなっているのが、起立斉唱命令違反による懲戒処分取消を求める「東京『君が代』裁判」。172名の1次訴訟から始まって、現在一審東京地裁民事第11部に係属しているのが4次訴訟。
2010年から2013年までの間に、17名に対して懲戒処分22件が発せられた。その内の14名が原告となって、19件の処分取消を求めている。なお、処分内容の内訳は、「戒告」12件、「減給1月」4件、「減給6月」2件、「停職6月」1件である。
主張の骨格として、第1に、公権力は、立憲主義の構造上、主権者に対して、国家象徴に敬意表明を強制する権限をもたないとする立論(「客観違憲」と呼んでいる)をし、また第2に、個人の権利侵害による違憲違法性として、憲法19条、23条、26条違反ならびに国際条約等に違背する(「主観違憲」)ことを主張している。さらに、本件各懲戒処分が裁量権を逸脱・濫用したものであることを主張している。
申請のとおりに原告13名の本人尋問が採用されて、本日(10月14日)7名、次回(11月11日)に6名の尋問が行われる。
本日7名の原告は、それぞれの立場から処分の違憲違法を基礎づける事実を語った。皆が、児童・生徒を主人公とし、それに向かい合う真摯な教育実践を語り、その教育理念と真っ向背馳するのが、「国旗国歌」ないし「日の丸・君が代」に象徴される国家主義的教育観であり、公権力による教育支配であると述べた。
ある者は、侵略戦争と植民地支配をもたらした戦前の教育の誤りを語り、その轍を踏んではならないとする思いから日の丸・君が代を受容できないとし、またある者は、教員としての良心において、生徒に国家主義を刷り込む行為に加担できないとし、またある者は生徒の前で面従腹背の恥ずべき行為はできないとした。
明らかになったことは、誰もが悩みなく不起立を貫いているのではないこと。多くの原告が、最初は不本意ながらも起立していたという。強い同調圧力と懲戒処分の威嚇効果からである。累積処分が職を奪うことになる恐怖心から不本意な起立を重ねたという原告がほとんど。しかし、やがて真剣に生徒に向かい合おうとする努力の中で、不本意な起立に訣別する。悩みながらも、自分を励まして、起立強制を拒否するに至る。問題の深刻さから体調を崩し、精神的なバランスを崩したりの葛藤の末にである。さながら、感動的な7本の人間ドラマを観ている趣だった。
また、各原告は「10・23通達」体制下で、教育現場がいかに変わったか。都教委の横暴が、現場をいかに荒廃させたかを語った。職員会議での採決禁止通達以来、教員集団の教育力は地に落ち、教員の情熱も自発性も責任意識も、既に大きく失われてしまったとの証言は生々しい。
私が主尋問を担当した教員は、不本意ながらも起立を続けたあと、大きな緊張と決意で不起立に転じた。しかし、5回の不起立は現認処分なく経過し、6回目から処分されるようになった。その後、現認と処分が繰り返され、3度の戒告処分を受けたあと、2度の減給処分を受けている。
この教員は次のように述べている。
「反省なく、不起立を繰り返せば処分を重くするのは当然、という考え方には同意できません。一般的な非違行為であれば、反省を欠くとして繰り返しの処分が重くなることは理解できます。しかし私は、自分の思想や良心に照らして、起立できないのです。非違行為といわれること自体も不本意で、反省の色が見られないと言われても反省のしようがありません。」
「もちろん戒告も納得できませんが、4回目と5回目の処分が戒告ではなく減給になっていることについては、どうしても納得できません。私の思想や良心は不可分の一個のものです。何回目の不起立であろうとも、職務命令に従えなかった理由は、同じ一個の思想・良心に基づくということです。ですから、私の思想良心が変わらない限り、同様の状況で職務命令が出されれば、結果として何度でも不起立とならざるを得ません。私に、『反省して起立せよ』というのは、思想や良心を変えろ、あるいは屈服せよ、ということです。減給処分は、そういう脅しにほかなりません。」
次回(11月11日)午前9時55分から午後4時30分まで、6名の原告尋問が、同じ103号法廷で行われる。関心おありの方には是非傍聴をお薦めする。いま、この社会で、東京の教育現場で起こっている現実が語られる。貴重な体験となると思う。
(2016年10月14日)
本日(9月25日)は、開業医共済協同組合の総代会準備の理事会に出席。
総代会に提案の議案書冒頭に、「事業の基本方針」が高らかに宣言されている。
1.開業医共済協同組合は開業医として国民の命と健康を守る立場にあり、共済協同組合として、国民の協同の力で共済制度の解体を狙うアメリカと日本の金融資本の横暴を阻止し、何よりも人間として平和と自由を希求するものである。その立場から、これらの政治の動きに警鐘を鳴らし、開業医の経営と生活を守り、協同の理念を広げる当組合と制度の発展に尽力する。またそのことによって開業医運動の未来を示す役割も果たす。
2.国民の生存権確保を目的とする社会保障の一翼を担って、第一線の医療現場で医療を給付している開業医には、ひとたび病気やケガで自院の休業を余儀なくされたときに医業再開のための公的休業保障は無く、当組合は「国民医療の改善」「開業保険医の経営を守る」という保険医運動の基本方針と「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という協同組合の基本原則に則り、共済事業をさらに発展させていくために、保険医団体はじめ関係団体とともに協力・協同して活動する。
3.当組合は、医師・歯科医師自身が作った組織であるという株式会社等にはない共同体組織としての「優位性」を備えている。医療機関の経営を下支えすること、開業医共済休業保障制度の共済基盤を安定させることの2つの課題を正面に据え、組合員の立場に立った制度共済を提供・充実させるために、組合員の知恵と共同の力に基づいて事業を推進する。
なお、この議案書案の中には、医療を取り巻く情勢として、「憲法破壊に対峙し、平和を求める国民による明確な意思表示」の一項目が明記されている。
この議案書に通底するものは、「恒産無くして恒心無し」という現実主義である。「医師が、国民の命と健康を守るという使命を果たすには、まずもって自身の経営の安定が必要だ」というリアリティ。極めてわかりやすい。
弁護士も似たようなもの。人権と社会正義に奉仕するという弁護士本来の任務を全うするためには、弁護士が裕福である必要はないが、経営の安定が必須の要件なのだ。このことを軽視してはならない。弁護士の不祥事の多くは過当競争による弁護士の貧困に起因する。個人的な資質をあげつらうだけでは解決にならない。俗世では、「貧すりゃ鈍する」というとおりである。
孟子の「恒産無くして恒心無し」は、「恒産無くして恒心有る者は、ただ士のみ能くする」とセットをなしている。弁護「士」にしても、医「師」にしても、社会的使命を全うするためにやせ我慢せよ、とは言いがたい。世に「赤髭」はいるが常に稀有の存在でしかない。人権派弁護士も自己犠牲を求められれば、圧倒的に少数派とならざるを得ない。
実は、医師や弁護士に限ったことではない。「恒産無くして恒心無し」「衣食足りて礼節を知る」「貧すりゃ鈍する」は刑事政策の基本ではないか。犯罪をなくすためには、貧困をなくし、すべての人に生活の安定を保障することのはず。いや、国際紛争の多くが、経済格差や貧困から生じているではないか。
開業医共済協同組合は、まずは医師・歯科医師の共助によって自らの経営と生活の安定を確保し、その上で後顧の憂いなく自らの職業的使命を全うしようというのだ。企業による保険ではなく、献身的なボランティア理事による共済事業として今順調に発展中である。
関心ある方は、下記のURLをご覧いただきたい。
http://www.kaigyouikumiai.or.jp/
(2016年9月25日)
本日、服務事故再発防止研修受講を強いられているT教諭を代理して、代理人弁護士の澤藤から抗議と要請を申しあげる。直接には、東京都教職員研修センター総務課長に申しあげるが、抗議と要請の相手は、東京都教育委員会と都知事だ。これから申しあげる抗議と要請の趣旨をよろしくお伝えいただきたい。
T教諭は、今年(2016年)3月、勤務先の特別支援学校卒業式において「君が代」斉唱時の不起立を理由として懲戒処分(減給10分の1・1月)を受けた。これは、憲法に保障された「思想・良心の自由」と「教育の自由」を蹂躙する暴挙と言わざるをえない。少なくとも、懲戒権濫用として取り消しを要する違法な処分だ。
あらためて申しあげるまでもなく、すべての人は、それぞれ固有の精神生活をもっている。この精神生活の核心にあるものを憲法は、「思想」あるいは、「良心」と表現している。人が人であるために、自分が自分であるために、けっして譲ることのできない、思想と良心とが誰にもある。もとより、その思想および良心は自由でなくてはならない。国家に思想や良心の持ち方に関して、干渉される筋合いはないのだ。
憲法19条が、「思想および良心の自由はこれを保障する」とわざわざ定めたのは、戦前のウルトラ国家主義時代の反省に基づくものである。この時代、天皇を中心とする國体思想が国家公認のイデオロギーとされ、国民にはこの国家公認のイデオロギー受容が強制された。一方、これに反する多様な思想や良心が強権的に排斥された。
とりわけ、国策である富国強兵と植民地拡大に反対する思想や良心は権力に不都合として、徹底した弾圧を受けた。平和を唱え、民族の独立を支援する思想や良心には、非国民・国賊という悪罵が投げかけられた。記憶すべきは、この忌まわしい時代にも、思想や良心の自由をかけがえのないものとして、飽くまでこれを守り抜こうと、権力に抗って弾圧の犠牲となった少からぬ人びとがいたことである。
この、思想・良心や信仰が乱暴に蹂躙された苦い経験の反省の上に、戦後ようやく日本国民は憲法19条を手にしたのだ。けっして、これを絵に描いた餅にしてはならない。思想や良心をむち打つようなことをしてはならない。誰のものであれ、思想や良心を傷つけてはならない。公権力が、特定の思想を価値あるものとしてこれを国民に押しつけ、他方、特定の思想を嫌って、その思想からの転向を迫るような、野蛮なことをしてはならない。
とりわけ、学校で再び国家主義を鼓吹する教育を強行してはならない。教員に対して、ナショナリズムや愛国心を強制するような形で、教員の思想良心を蹂躙するようなことがあってはならない。
T教諭が「日の丸」の前で起立して「君が代」を歌うことができなかったのは、「日の丸・君が代」をかつての侵略戦争や植民地支配のシンボルとして捉えているからだ。あまりに深く、忌まわしい戦争と民族差別に結びついたこの旗とこの歌。これに敬意を表することは、結局のところ侵略戦争や他民族支配に、無自覚・無反省であることを意味することにほかならない。そのことは、国内外の多くの人びとの平和に生きる権利を否定することであり、民族差別を肯定することでもあって、到底、起立斉唱などなしうるものではない。
また、教師である自分が生徒の前で「日の丸・君が代」に起立斉唱することは、生徒に対する「日の丸・君が代」への敬意表明強制に加担することとして、教師としての良心が許すところではない。
T教諭は、自分の思想と、教員としての良心に恥じない姿勢を貫こうとしたのだ。日本国憲法は、このような国民の思想・良心の自由を尊重せよ、侵害してはならないと、公権力に命じている。だから、東京都教育委員会は、T教諭を、その思想・良心に基づく行為に対する偏狭な政治的・社会的圧力から擁護しなければならない。
ところが、都教委はまったく正反対のことをしている。思想・良心にしたがった真面目な教員を擁護するどころかこれを処分し、あまつさえ、これに追い打ちをかけてT教諭に「服務事故再発防止研修」という名目で、思想・良心の転向を強要しているではないか。
都教委と研修センターとは、自己の思想・良心を貫いたT教諭に、いったい何を研修せよ、何を反省せよ、というのか。
日本の行った侵略戦争と植民地支配が、実は正しいものであったと歴史観を変更せよ、というのか。侵略戦争を唱導した天皇制国家に誤りはなかったと認めよ、というのか。戦争や植民地支配を正当化した、日本の優越意識や民族差別を肯定せよというのか。あるいは、教育公務員である以上は、唯々諾々といかなる職務命令にも無批判に従えというのか。教室においては、自らの思想や良心の一切を捨てよ、というのか。思想や良心は捨てなくてもよいから、面従腹背の生き方を教師として子どもたちに模範を示せというのか。あらためて、「再発防止研修」の強行に満身の怒りを込めて抗議する。
服務事故再発防止研修には、2004年7月の司法判断がある。「研修執行停止申立に対する東京地裁決定」で、担当裁判官の名を冠して、「須藤決定」と呼ばれているものだ。
須藤決定はこう言っている。「繰り返し同一内容の研修を受けさせ、自己の非を認めさせようとするなど、公務員個人の内心の自由に踏み込み、著しい精神的苦痛を与える程度に至るものであれば、そのような研修や研修命令は合理的に許容される範囲を超えるものとして違憲違法の問題を生じる可能性があるといわなければならない」
違法の要素とされているものは、「繰り返し同一内容の研修を受けさせ」ること、「自己の非を認めさせようとする」ことである。T教諭は、確固たる自己の思想と良心に基づいて起立斉唱を拒否している。「繰りかえし同一内容の研修を受けさせる」とは、研修実施者において、服務事故とされている被研修者の行為が、実は被研修者の思想・良心にもとづく行動だと分かったあとも、研修を継続するということを意味する。思想や良心に基づく行為に対して、「自己の非を認めさせようとする」ことは許されないのだ。
T教諭に対する、同じ研修の繰りかえしは今日が4度目だ。もはや研修の名による追加処分以外のなにものでもない。既に、研修の名による、転向強制となっているではないか。
古来より、「我が心 石にあらざれば 転ずべからず」「我が心 蓆にあらざれば 巻くべからず」と言われるとおり、思想や信条、良心や信仰というものは、容易にうごかすことはできない。取り去ったり、形を変えることもできない。人が人であり、自分が自分であるための精神の核心に位置するものなのだから、公権力がこれを動かそうなどとしてはならないものなのだ。
本日、あなた方は、T教諭をここ研修センターに呼び出して、いったい何をしようというのか。けっして、教諭の思想を弾劾してはならない。良心をむち打ってはならない。憲法に反する行為に加担することのないよう、厳重に抗議と要請を申しあげる。
(2016年8月29日)
できるだけ、散歩をするよう心がけている。
幸い、近所の散歩コースには恵まれている。定番の行く先は上野公園。東大本郷キャンパスを赤門からはいって鉄門から抜ける。右に元キャノン機関があった旧岩崎邸を見ながら無縁坂を下って不忍池に至る。池は、巨大な蓮の葉におおわれ、華はそろそろ見納め。時間が許せば、清水寺から上野大仏、東照宮、彰義隊墓碑などを散策し、五條神社や湯島天神などを経て帰宅まで1時間余り。結構汗をかく。
上野公園ではすれ違う外国人観光客の嬌声に圧倒される昨今なのだが、今夏に異変が生じた。大人数の若者たちが、スマホを片手に特定地点に蝟集しているのだ。ときに、この集団が黙したまま同方向に走り出す。水鳥がいっせいに飛び立つようなあの雰囲気。みな、手にしたスマホを見つめながらの集団駆け足。やや不気味な光景。ポケモン・ゴー現象とやらだ。
はて、こんな場面をどこかで見たようなと記憶をたどって、ゾンビ映画に思いあたった。あるいはキョンシーだろうか。格別、こちらが襲われるような恐ろしい雰囲気はないのだが、スマホだけを見つめて、ひたすらスマホの指示に操られている印象の集団を目の当たりにするのは気持ちのよいものでない。大勢が、右を向けと言われれば挙って右を向く。左といえば左だ。目の前で繰り広げられる「操られ現象」が不気味なのだ。
もっとも、ポケモンゲットにうごきまわる人びとは象徴的存在に過ぎない。実は、誰もが操作の対象となって右往左往しているのが現代の社会。
経済生活では、大企業の宣伝広告が人びとを操っている。効きもしないサプリメントの宣伝に乗せられて大金をはたく。つくられた流行の衣装を身にまとう。うまくもない店に行列をつくる。株や先物やFXに誘い込まれて財産を失う。
多くの職場で、愚かなワンマン社長が労働者を操っている。ブラック企業の専横を不愉快と思っても、容易に逃げ出せないのがこの世の常。
政治では、圧倒的な保守メデイアが有権者を操作する。自らが主体的に選択したという錯覚のもとに、多くの人が、自らの利益に反する保守政党に投票する。民主主義が有効に機能すれば、多数の利益になる政治が実現するはずなのにそうはならない。多くの人が操られた結果だからだ。普通選挙実現以来の永遠の課題。
さて、ポケモンゴーとは、モンスターを探して捕獲するゲームだという。モンスター狩りをするハンターとして操られることを拒否して、自らの意思でリアルのモンスターを探索し、捕獲してみるというのはどうだろうか。最強にして最凶のモンスターは官邸にいる。政治や経済やメディアを操作する総元締めとして政権があり、そのトップにモンスターが棲息しているのだ。防衛省にも都庁にもこれに次ぐモンスターが巣くっている。
スマホの中の世界から一歩出て、官邸に棲息するモンスターを包囲して、駆逐できないだろうか。その手段は、市民と野党の結集による選挙ということになる。駆逐だけでは面白みに欠けるというのなら、官邸のモンスターを民衆が包囲してゲットし、ゲットしたあとは、民主的に再教育して改心させ、無害化したモンスターを再び世に放つ試みはどうだろうか。
照りつける中、スマホ片手に走り回るのもきっと面白いのだろうが、リアルなモンスター退治の方が、よっぽどロマンに溢れたものと思うのだが。
(2016年8月24日)
昨日(8月17日)の毎日新聞夕刊。鬱陶しいオリンピック報道の紙面に埋もれるような「特集ワイド」。野田聖子のインタビュー記事。
「相模原殺傷事件」「感じた嫌悪『いつか起きる…』」「長男が障害持つ野田聖子衆院議員」という見出し。もう一つ、中見出しが「命ってすごいんだぞ」。私はすっかりこの人に感情移入してこの記事を読んだ。この人なら信頼してもよいのではないか、政治家として大成して欲しい、とも思った。
「相模原殺傷事件」は、あまりに重い問を時代に突きつけている。私は、この衝撃を受け止めかね、どう整理したらよいのか考えあぐねている。そこに、野田聖子インタビューである。多くの人の共感を得たのではないか。下記のURLを開いて是非全文をお読みいただきたい。
http://mainichi.jp/articles/20160817/dde/012/040/003000c
この人の物言いには気取りがない。飾り気もない。そして尊大さがない。上からの目線を感じさせるところが微塵もなく、障がいの子を抱えて、優生思想を肯定する世間の雰囲気に恐怖を感じ、差別意識丸出しの曾野綾子からの名指しの批判に慄然とする、弱い母親の立場を隠さない。
事件犯人の殺意は、身障者を社会の厄介者とするこの社会の差別意識の土壌から生まれたものだ。石原慎太郎や曾野綾子らは、その加害者側の差別意識を代表する立場。対して、野田聖子は被害者側の立場で、「私も息子も、いつ襲われるか分からないジャングルの中を歩いているような気分」という。それでも、懸命に闘おうという気概に「侠気」さえ感じさせる。
野田聖子発言の中の次の個所が特に目に止まった。
野田 逆にお聞きしますが、この事件でなぜ被害者の名前が報道されないのでしょうか。被害者が生きてきた何十年という人生が、ないことになっているのでは。その人生を失った悲しみは、これで分かち合えるのでしょうか?
記者 「遺族が公表を望んでおられない」と警察が説明していることもあります。
野田 優生思想的な考えを持つ人たちから、家族が2次被害に遭うからでしょう。変ですよね。だからこそ私は逆を行きたい。息子の障害や写真を公表したのもその思いから。国会議員にも家族の障害を隠す人がいるんじゃないかな。でも隠す必要はない。息子に誇りを持ってほしいとの思いもある。
人は人であるだけでなく、それぞれが固有名詞と個別の人生をもつ、ほかならぬ自分なのだ。人は人として尊ばれるだけでなく、個性をもった個人としても尊ばれなければならない。
野田聖子は障がいをもつ子の母として、被害者が名前さえ知られることなく、抽象的な人数の一人としてのみ処理されることが、耐えがたくも許しがたいのだ。もちろん、家族が2次被害に遭いかねない事情はよく分かる。だからこそ、政治家である自分は、そのような社会と闘って社会を糺さなければならない。そう自覚して、愛息の障がいや写真を公表しているのだ。
社会に巣くう差別の土壌で心ない加害者が育つ。教室でのイジメ、公園でのホームレス狩り、ヘイトデモ、ネットでの匿名民族差別の悪罵…。加害者は世間の顔色を窺いながら、悪質さをエスカレートしていく。このような差別言動の横行は、この社会が病んでいることの徴表にほかならない。
病んだ社会が生みだした差別言動の行く着くところが、「社会のムダを省く」という「論理」で行われた「相模原殺傷事件」ではないか。犯人は、「誰が私を裁くことができるのか」と薄笑いを浮かべて、そう世に問うているのだ。
社会の差別意識を嫌悪し、これと闘おうという野田聖子の真っ当な姿勢に声援を送りたい。曾野綾子や、これに煽動されたネット住民のバッシングを許してはならないと思う。万が一にも、孤立させてはならない。
初めて、野田聖子の公式ホームページを開いてみた。政策の中に、次のアピールがある。
■子供を産み育てたいと願う人々がさまざまな理由で苦しい思いをし、豊かな日本にありながら子供の貧困が進み、社会の基盤が蝕まれています。安全な生殖補助医療環境、無用な負荷のない育児環境、子供の権利と命を守るセイフティーネットを整え、子供の幸せな誕生と健やかな成長を約束します。
■高齢者のホームレス化、孤独死が増え、老々介護の厳しさもますます増しています。現行の健康寿命関連施策を一層充実させるとともに、人生の晩年を温かく見守り支える社会的な意識醸成に取り組みます。
■先端医学、医療技術の発展を後押ししつつ、女性の健康や終末医療などを活発に議論する場と法制度を整え、生命倫理問題に真摯に向き合う社会を築きます。
毎日の記事と併せて読むと、信用できそうだと印象を受ける。そして、こんな、自民党に対する抵抗とも読める政策もあった。
■思考停止につながる党議拘束のあり方や不透明な党内ルールを見直し、多様な議員人材を育て、国民に開かれ、国民の力を活かす自民党を目指します。
野田は、選択的夫婦別姓に賛成の立場を表明してもいる。同じ自民党でも、アベとは大違いだ。保守の幅広さを感じさせる。
野田聖子とこれを支えている夫(議員ではない)と、そして来年は小学校だという真輝(まさき)君に注目し、拍手と声援を送る。
(2016年8月18日)
あと2日。2016都知事選の選挙運動期間は、今日(7月29日)と明日しか残されていない。全力で鳥越候補を押し上げたいと思う。
私は、鳥越という人物を個人的に知っているわけではない。その人格に過度の思い入れはない。その特別の能力や識見に期待しているわけでもない。しかし、いま、客観的に都知事候補鳥越俊太郎は、「ストップ・アベ暴走」の最前線にいる。さらに正確には、鳥越俊太郎を都知事候補に押し上げようという運動が、壊憲と護憲のせめぎあいの最前線にあるというべきである。野党4党が統一して、「人権・平和・憲法を守る東京を」と公約とする鳥越を推しているのだ。護憲のための野党共闘の効果についての試金石ともなっている。
しかも、何度も繰り返すが、今回はこれまでとは違う。千載一遇のチャンスなのだ。これまでは幅広い野党共闘は望むべくもなかった。これまでの都知事選では、野党が割れ、与党側の圧勝を許した。
07年の選挙では浅野史郎の惜敗率(当選者に対する得票率)は、60.23%、吉田万三22.39%であった。2011年選挙では、東国原64.36%、小池晃23.86%。野党が統一できていれば、善戦はできたのだ。だから、2012年都知事選では曲がりなりにも社共の共闘ができて、大いに期待した。しかし、宇都宮健児の惜敗率は22.33%という泡沫候補並みの惨敗だった。吉田万三、小池晃のレベルに達しなかったことは、共闘のあり方が厳しく問われなければならない。記憶に新しい2014年選挙でも、野党統一はならず、舛添の独走を許した。
今回選挙で、これまでにない幅の広い野党統一が実現している。そして、自公の与党勢力が割れているのだ。いまこそ、「人権・平和・憲法を守る」志のある者すべてが総結集してこの千載一遇のチャンスを生かさなければならない。
鳥越候補の公約やスローガンは全面的に支持できる。彼の演説の内容も、首都のトップの姿勢として評価してしかるべきだ。彼が公約として掲げる「人権・平和・憲法を守る東京を」「憲法を生かした『平和都市』東京を実現します」というには全面的に共感する。「多様性を尊重する多文化共生社会をつくります。男女平等、DV対策、LGBT施策、障害者差別禁止などの人権施策を推進します」「非核都市宣言を提案します」もだ。
鳥越が、選挙演説で述べた、「1に平和 2に憲法 3に脱原発」のスローガンは、彼ならばこそのもの。「非核都市東京宣言」もよし。都政については、『住んでよし、働いてよし、学んでよし、環境によし』。そして、聞く耳を持っていることの自負が大切だ。上から目線の人でないことは確かではないか。
あと2日。今後の野党共闘継続のためにも、そして何よりも憲法の命運のためにも、できるだけのことをしなければならない。
(2016年7月29日)
本日(7月27日)午前11時、東京地裁527号法廷で、東京「日の丸・君が代」処分取消請求第4次訴訟の第11回口頭弁論。恒例のとおり、原告のお一人が、熱を込めて陳述をした。いつものことながら原告の陳述は感動的で、裁判官諸氏もよく耳を傾けてくれたと思う。
今日の陳述を担当した渡辺厚子さんは、障がい児教育に情熱を傾けて教員人生を送った方。その陳述内容の前文が後掲のとおり。渡辺さんは、障がい児と接する中でいろんなことを教えられたという。私は、10・23通達関連の訴訟に携わる中で、障がい児教育に携わる教員から大事なことを教わった。
これまでも学校事故の損害賠償請求事件などでは、在学契約における学校の子どもに対する安全配慮義務の内容に関連して、憲法26条に言及してはきた。しかし、「日の丸・君が代」裁判で初めて障がい児教育の何たるかをおぼろげながらにも知った。そこから、教育の本質が見えてくる思いだ。
重度の障がい者に接して、石原慎太郎の如くこんな感想を述べる人物もいる。
「ああいう人ってのは人格あるのかね」「ショックを受けた」「僕は結論を出していない」「みなさんどう思うかなと思って」「絶対よくならない、自分がだれだか分からない、人間として生まれてきたけれどああいう障がいで、ああいう状況になって…。しかし、こういうことやっているのは日本だけでしょうな」「人から見たらすばらしいという人もいるし、恐らく西洋人なんか切り捨てちゃうんじゃないかと思う。そこは宗教観の違いだと思う」「ああいう問題って安楽死なんかにつながるんじゃないかという気がする」(「安楽死」の意味を問われた知事は)「そういうことにつなげて考える人も いるだろうということ」「安楽死させろといっているんじゃない」(と否定した。)「自分の文学の問題にふれてくる。非常に大きな問題を抱えて帰ってきた」(1999年9月18付 朝日)
石原には障がい児教育はできない。障がい児教育を重要とする発想もできない。相模原障がい施設での19人殺害事件犯人と、根底において同じ発想なのだから。
障がい児教育の思想は、その対極にある。教育の成果を国家にも社会にも還元する発想を持たない。子どもを将来の経済社会の担い手として、「人材」と見る目をもたない。教育を経済投資としコストとする思考を拒否してはじめてなり立つ。徹底して、子どもの人格の尊厳から出発する思想だといってよい。
国家や社会に先んじて子どもの尊厳がある。教育とは、そのような尊厳から出発すべきものだというのだ。一人ひとりの障がい児に寄り添うことで、教育の本質が見えてくるのではないか。
その障がい児教育の現場に乱暴に押し入ってきた国旗国歌とは、教育の本質と相容れない国家主義の象徴である。石原都政の時代に、強引に国旗国歌強制が持ち込まれたことは偶然ではないのだ。
本日で主張のやり取りが一応終了して、次回第12回口頭弁論から舞台は103号地裁大法廷に移る。証拠調べ手続にはいる。また、感動的で教訓に満ちた法廷となるものと思う。
なお、次回法廷は、10月14日(金)午前9時55分開廷で、午後4時30分まで。
次々回は、11月11日(金)午前10時開廷で、午後4時30分まで。
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2016年7月27日4次訴訟原告渡辺厚子陳述
2003年10月、大泉養護学校職員会談で、校長より10・23通達の説明がなされました。このときの全教職員の驚愕を私はどう言葉にしていいかわかりません。巣立っていく一人ひとりの卒業生を思い浮かべて、こうしたらいいだろうか、ああしたらいいだろうか、と私たち教員が考え続け、実施しようとしている卒業式が、完全に壊されてしまう。大変な危機感をもって、みんな必至で校長に言いました。
「A君はやっと車椅子をこげるようになりました。いま、その車椅子で証書をもらいたいとフロアー会場で練習をしているんです。」「壇上になったらどうしてこげますか。彼に、自力ではとりにいくな、とでも言うんですか。」
「Bさんは呼吸器をつけています。電源コードを壇上へのばして舞台上手そでから向こうの下手そでまでぐるっと回し降りてくるまで延ばすなんてできません。呼吸器の電源を切らない限り無理です。そんなことをさせるんですか。」
しかし校長は、都教委の命令だから、それに従わなければならない、と苦しそうに答えるだけでした。私達は憤懣やるかたなく、世の中のバリアーフリーに逆行している。命をなんと思っているんだ。通達は、子どもの活動、子どもの権利を潰そうとしている、と言い合いました。ほどなく近藤精一指導部長の、障がい児学校には個別配慮をするという都議会答弁をきき、「そうだよ、都教委だって障がい児にバリアーをつくって動けなくするようなことはしないはずだ」「フロアーを使用できるよう要望してほしい」と校長に訴えました。
校長も、そうだなあ、校長連絡会で聞いてみるよ、と言いました。しかし持って帰ってきた結果は、「だめだ、壇上しか許されない。都議会答弁と実際は違う。スロープ制作予算をつけると言っている」。それっきりでした。
高い壇しかないときに、スロープを通ってのぼれるようバリアーフリーをめざす、というのならわかります。しかし約50年間研究を重ね、子どもたちが主人公となる卒業式のために、バリアーのないフラットな会場を使って対面式の卒業式をしてきたのです。スロープをつくるからいいだろう、ではなく、そもそもバリアーフリーのフラットな会場を使うな、と禁止したことこそ問題です。
フロアーか壇上か、と言った形式の違いの問題としてみられるかもしれませんが、それは本質をみていません。子どもから出発すべき教育の基本を忘れた、いや無視した大問題です。障がい児への合理的配慮に欠ける、なにより子どもの尊厳を奪う事柄なのです。
通達前03年3月卒業式では、どれほど車椅子操作がたどたどしくとも自走して証書をとりにいくのを禁じられることはありませんでした。通達後の卒業式で、生徒が電動車椅子を操作し、フロアーで受け取りたいと、校長に懇願しました。その生徒は唇や舌を噛み切りコントロールできない身体に泣き叫ぶ毎日でした。同じ病気の弟は亡くなりました。本人、親、担任の3人4脚の文字通り涙ぐましい努力で奇跡的にやっとどうにか操作が出来るようになったのです。これは、できるできないというレベルの話ではなく、自分の人生で初めてつかんだ、生きる希望、自らの尊厳でした。しかし、校長から、だめだ、とはねつけられました。その子は泣く泣く担任に押されて壇上に上がりました。担任は悔し涙で、起立しませんでした。
通達が出るまでは当然のこととして営まれてきた子どもの活動です。私たち教員は、子どもの尊厳を守ってやれないばかりか、踏みにじる行為に加担させられます。情けない、悔しい。起立命令を拒否するのは、こんな理不尽には従えない、加害行為に加担したくない、というひりひりとした教員の良心の叫びなのです。
私は本訴訟で停職6ヶ月の処分取り消しを求めています。
子どもたちによって育ててもらった、教員としての私の良心、信念。それを捨てるわけにはいかないとしてきたら、あっという間にこんなに重い処分となってしまいました。
退職の前年度の2009年には、悩み抜いた末の卒業式不起立により停職3ヶ月処分を受けました。そして保護者達から責め続けられ、大変苦しみました。これが30年余自分のすべてを注ぎ込み情熱をもって関わってきたことの答えなのかとほぞを噛む思いでした。
退職の年、教員としてどん底にいた私を、再び信頼してくれる子どもや保護者たちが現れ、私は気を取り直し、最後まで子どもと自分を裏切るまいと思い2011年3月起立しませんでした。
私は障がい児教育の1頁も知らずに飛び込み、初めての学校でありちゃんに出会いました。ありちゃんは、後頭葉が損傷しているため、目が見えませんでした。面会にくるお父さんは、ありちゃんを抱っこしながら、「ありの目が見えたら、世界1周でもしてやりたい」と語っていました。1年ほどたったある日のこと、何気なく転がしたボールを追うように、ありちゃんの顔が上がったのです。私はナースステーションに駆け込み、「先生! ありちゃんが見えているみたいだ」とさけびました。医者も看護師も見に来て、後のカンファレンスで、脳に新たな回路ができ始めたのだろうと言われました。
私は芯から驚きました。不可能と医学でいわれていても、人との関わりが人を変える。私はありちゃんによって教育の力、というものを知らされました。その後も、沢山の子どもによって、人は一人ひとり違い、その違いにこそ価値をおいて教育するべきなのだ、と教えられました。通達と命令は子ども一人ひとりの違いを押しつぶしています。
こどもの権利を侵す間違った命令には従えない。これは私にとって、自分が自分であり続けるために、子どもたちによって育てられた教員の良心を捨てないために、越えてはならない一線なのです。夭折していった子どもたちへ、今後も怠けず、子どものために尽くす、と誓った日を私は忘れるわけにはいきません。
私の初任時代からの近しい友人は、諸事情から命令を拒否できず、苦しみながら起立していました。毎年3月が近づくたびに目が空ろになり、耐えかねてとうとう退職し、そしてほどなくなくなりました。教員はみんな、子どもを第一に考えた教育を実施したいのです。それとは正反対のことをさせられる苦しみ。10・23通達はどの教員の良心にも回復し難い打撃を与えています。
裁判所におかれては、教育というものを熟考し、私達が何故起立できなかったのかに深く思いを致していただきたい。そして子どもや教職員の人権擁護の観点に立った判断を示していただきたいと切に願います。
以上
(2016年7月27日)