澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

官房長官のぼやき

FIFAの評判ががた落ちだ。それにかこつけて、オウンゴールだの、レッドカードだのという当てこすりがかまびすしい。例の「集団的自衛権行使は憲法違反」という憲法学者3人の発言だ。安全保障特別委員会ではなく衆議院憲法審査会での発言だが、与党推薦の専門家までが明確に「違憲」と断じたのだから始末に悪い。自ら招いた学者の発言による大きな失点だから、オウンゴールというのは言い得て妙だ。これで法案だけでなく政権にもレッドカードと言いたいのだろう。野党は鬼の首を取ったような騒ぎだ。安倍政権をFIFAになぞらえたいという悪意が芬々、これは品位に欠けたやり方ではないかね。

野党はまだ許せる。マスコミまでが騒ぐのは許せん。今日の朝日も、東京新聞も、このことが一面トップだ。朝日の「憲法解釈変更 再び焦点」「安保法制『違憲』、攻める野党」は怪しからん。東京は「立憲主義に反する解釈変更」「国民納得せぬ『違憲立法』」だ。朝日の第2面には、追い打ちをかけるように「安保法制問われる根幹」「『撤回を』勢いづく野党」「政権、世論へ影響警戒」の見出し。ますます、怪しからん。面白くない。

朝日・毎日・東京がこの件を取り上げて社説を書いている。
  「違憲」法制―崩れゆく論議の土台(朝日)
  安保転換を問う 「違憲法案」見解(毎日)
  安保法制審議 違憲でも押し通すのか(東京)
そして読売もだ。
  集団的自衛権 限定容認は憲法違反ではない(読売)
朝・毎・東はかわいげがない。読売だけがものごとの理をよく弁えている。政権と折れ合うことでの利がいかほどのものか、衝突をして失うものの大きさがどれほどか。大人の智恵があるのは読売だけではないか。

こんなときに動揺してはいかん。ムキになって反論するのは愚策で、「たいしたことはないさ」と装って、さらりと受け流すのが上策。一昨日(6月4日)の記者会見では、そんなつもりで、「憲法解釈として法的安定性や論理的整合性が確保されている」「まったく違憲でないという著名な憲法学者もたくさんいる」と述べてみた。ところがこの評判がよくない。「憲法解釈として法的安定性が保たれているか」「論理的整合性が確保されているか」をあらためての争点として浮上させてしまった。元々自覚しての弱点を糊塗する意図の発言なのだから、本気で突っ込まれれば都合が悪い。新聞記者たる者、武士の情けを知らねばならんだろう。

昨日(6月5日)は、「まったく違憲でないという著名な憲法学者もたくさんいる」に関連して、性格の悪いいやな記者から「違憲でないという著名な憲法学者の名前を挙げていただきたい」という意地の悪い質問があった。このことを東京新聞がイヤミたっぷりに記事にしている。

「菅義偉官房長官は5日の記者会見で、集団的自衛権の行使容認を柱とする安全保障関連法案を合憲とする憲法学者が『たくさんいる』と発言したことに関し、具体的な学者名を記者団に問われ、挙げなかった」「菅氏は、行使容認を提言した安倍晋三首相の私的諮問機関『安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会』(安保法制懇)に言及して『有識者の中で憲法学者がいる。その報告を受け(集団的自衛権の行使容認を)決定した』と説明。安保法制懇に憲法学者が1人しかいないことを指摘されると『憲法学者全員が今回のことに見解を発表することはない。憲法の番人である最高裁が判断することだ』と述べた」

まるで私がデタラメを言って、追求されると逃げ口上と言わんばかりの書きぶり。本当のことだから文句を言えないのが悔しい。しばらくは「最高裁が判断することだ」で逃げておくしかなかろう。どうせ最高裁の判断は滅多に出るものではないのだから。

それだけでない。「民主党の岡田克也代表は記者会見で『今の政府の説明で合憲だという憲法学者を、ぜひ衆院憲法審査会に参考人として出してほしい』と述べた」ことが記事にされている。さらに朝日は、「学識者186人『廃案』に賛同」と目立つ記事を載せている。そんなにも、安倍政権にダメージを与えたいのか。

とは言うものの、こちらの旗色が悪い。やっぱり無理なことを始めてしまったのではないだろうか。今さら、法案を引っ込めるわけにもいかないが、このままでは安倍政権の致命傷にもなりかねない。

私が言うのもなんだが、安倍政権というのは不思議な存在だ。常々思っているんだが、この政権がなぜここまでもっているんだか、なぜ世論調査の支持率が高いのか、実は私にもよくわからない。

誰でも知ってのとおり、安倍が有能なわけはない。せめて人格が人並みであってくれればと思うのだが、あの答弁中の「総理のヤジ」はチンピラなみといわれても反論のしょうがない。私もたしなめてはいるのだが、そのときは神妙にしていても、すぐにメッキがはがれて地金が出てしまう。こればっかりはしょうがない。だから党内に人望があるわけがない。第1次政権を放り出したときのみっもなさといったらなかった。あれはみんな覚えていることだ。

それだけではない。この政権の重要政策は、ことごとく評判が悪い。特定秘密保護法、NSC法、辺野古基地建設強行、新ガイドライン、労働法制、福祉や消費者立法まで、個別的な政策課題では、あらゆる世論調査で不支持が支持を上回っている。普通ならこれでアウトだ。ところが、なんとなく支持率は高いのだ。

アベノミクスが唯一安倍政権を支えている、というのが通り相場だが、これとて「アベノミクスの恩恵を感じていない」という国民が圧倒的多数だ。株価が実体経済の反映ではなく、これを押し上げている要因がGPIF資金の証券市場への大量注ぎ込みと、円安進行による外国投資家の資金流入にあることも常識だから、いつまでももつわけがない。これがいつ崩れるか、私だって冷や汗ものだ。「株価の落ち目が政権の落ち目」になることは確実。それまでの勝負だとは思っている。

それにしても、株価下落の将来ではなく、なぜ、いままでもってきているのだろうか。安倍政権の醸しだす雰囲気が時代にフィットしているのではないのかね。個々の政策テーマを詰められると、とても国民の支持は得られないのだが、感性のレベルで安倍的なものを受け入れる素地があるのではないだろうか。

安倍晋三といえば、歴史修正主義派政治家の旗手だ。保守というよりは右翼のイメージ、日の丸よりは「我が軍の」旭日旗がよく似合う。だからこそ、今の時代の風にフイットしているんじゃなかろうか。戦後民主主義期にも、高度成長期にも、安倍的な政治家の出る幕はなかった。バブルが崩壊して、失われた20年の後に、自信を失いつつある国民が空虚な威勢に寄りかかりたいと思っているのではないか。そんな役回りに、安倍はピッタリなのだろう。

とは言え、理詰めで攻められたら、集団的自衛権行使や海外派兵が違憲だということは大方の認識になりつつある。丁寧に説明すればするほど、法案のボロが出る。安倍政権はボロの出る法案とあまりに深く結びついてしまった。

ここは思案のしどころだ。審議の長期化に展望のないことは火を見るよりも明らかなのだからジリ貧を避けるために早期決戦の強行突破で乗り切るべきか。はたまた、安倍政権を見限って、別の保守本流の穏健路線で新規まき直しをはかるかだ。そのときは、総理・総裁の首のすげ替えが必要だが、そろそろ潮時ではないだろうかね。法案の審議状況を見ているとそんな気がしてくる。
(2015年6月6日)

これは最近にない痛快事ー「安保法制は憲法違反」自公推薦を含む参考人全員が批判

国会の委員会審議では「参考人質疑」が行われる。各党の委員が、自党の見解を支持する識者を参考人として推薦する。だから、各党の見解の分布がそのまま、参考人の意見の分布に重なる。私も過去に2度、参考人として招かれた経験があるが、事前に予定されたとおりの意見の陳述があって波乱なく終わった。これが通例なのだろう。波風の立つことのない安全パイのパフォーマンス。ところが、今日は違った。与党側にしてみれば、トンデモナイ事態の出来であったろう。

報道によれば、衆院憲法審査会は4日、与野党が推薦した憲法学者3人を招いて参考人質疑を行った。その質疑において、集団的自衛権の行使容認を含む安全保障関連法案に関する質問では、全員が「憲法9条違反」と明言したという。これは、近時まれなる痛快事ではないか。

参考人は、自民・公明・次世代の3党が推薦した長谷部恭男、民主党が推薦した小林節、維新の党推薦の笹田栄司の3氏。樋口陽一・杉原泰雄・浦部法穂・山内敏弘などの違憲論を述べると予想される大御所連ではない。安全パイと思われての出番であったろう。とりわけ、長谷部恭男がその役割であったと思われる。

周知のとおり、長谷部恭男とは、特定秘密保護法の原型を形つくった、「秘密保全のための法制の在り方に関する有識者会議」5人のひとりである。2011年1月から6月にかけて、6回の会合を開き、同年8月8日に「秘密保全のための法制の在り方について」と題する報告書をまとめた。秘密保全法制検討の会議にふさわしく、会議の経過はヒ・ミ・ツ。議事録の作成はなかったという。その会議の中枢にあって、特定秘密保護法案が国会提出となってからも、積極的な推進論者であった。当然のごとく、衆議院の特別委員会で自民党推薦の参考人として特定秘密保護法に賛成の意見を述べている。

また、小林節とは、長く改憲論を唱える憲法学者として孤塁を守った人物。この人の著書のタイトルが、「憲法守って国滅ぶ」(1992年)、「そろそろ憲法を変えてみようか」(小林節・渡部昇一共著、2001年)、「憲法、危篤!」(小林節・平沢勝栄共著、200年)と言うのだから、推して知るべし。もっとも、最近の安倍政権の解釈改憲路線に対する批判は鋭い。護憲的改憲論者なのか、改憲的護憲論者なのかよくわからないが。

そして、笹田栄司。司法制度の研究者として知られる人だというが、この人が、憲法9条や安保法制についてどのような発言をしているかはほとんど知られていないだろう。推薦者が維新というのも、どんな見解を述べるのかまったく推測不可能。その意味では、最も適格な参考人であったかも知れない。

長谷部は、集団的自衛権の行使容認について「憲法違反だ。従来の政府見解の基本的枠組みでは説明がつかず、法的安定性を大きく揺るがす」と指摘。「外国軍隊の武力行使と一体化する恐れが極めて強い」と述べた、という。(この部分産経による)

これは事件だ。与党(自・公、おまけに次世代まで含めた3党)が招いた憲法学者が、政府提出の法案を違憲と明言したのだ。安全パイが、「ロン!」と当たってしまったのだ。前代未聞のことであろう。痛快きわまりない。

法案作りに関わった公明党の北側一雄は「憲法9条の下でどこまで自衛措置が許されるのか突き詰めて議論した」と理解を求めた。だが、長谷部氏は「どこまで武力行使が新たに許容されるのかはっきりしていない」と批判を続けた、と報道されている。長谷部という人、御用学者と思っていたが、研究者としての信念を持っていると見直さざるを得ない。

小林も、「憲法9条は海外で軍事活動する法的資格を与えていない。仲間の国を助けるために海外に戦争に行くのは憲法違反だ」と批判した。明快この上ない。また、政府が集団的自衛権の行使例として想定するホルムズ海峡での機雷掃海や、朝鮮半島争乱の場合に日本人を輸送する米艦船への援護も「個別的自衛権で説明がつく」との見解を示した、という。護憲論でも改憲論でもなく、解釈論ならこうなる以外にない、ということなのであろう。

そして、笹田。従来の安保法制を「内閣法制局と自民党が、(憲法との整合性を)ガラス細工のようにぎりぎりで保ってきた」と説明し、「今回、踏み越えてしまった」と述べた、という。推薦した維新はどう思ったのだろうか。想定のとおりの発言と受け止めたのか、それとも予想外のこととして驚いたろうか。

いずれにしても、専門研究者からの「法案は違憲」の指摘である。今後の審議への影響がないはずはない。まったく影響ないのなら、参考人質疑という制度自体が無意味ということになる。

さっそく官房長官が会見でフォローを試みた。
「憲法解釈として法的安定性や論理的整合性が確保されている」としたうえで、「まったく違憲でないという著名な憲法学者もたくさんいる」と述べた、とのこと。これは、ハッタリというしかなかろう。こんなことを言うから、なおのこと政府の狼狽が見えてしまうのだ。

おそらくは、「違憲でないという憲法学者もいる」だけなら、おそらくウソではないだろう。しかし、「まったく」を付ければもうウソだ。「著名な」も「たくさんいる」もみんな根拠がない。どんな憲法学者が、政府与党のチョウチンを持とうというのか。明確にして欲しいものだ。

一方、法案が憲法に違反し、重大な問題をはらんでいるとする憲法学者は、上記の3人以外に、少なくも171人はいる。明治大学の浦田一郎教授ら6人が3日、国会内で会見して明らかにした憲法学者声明の賛同者数である。法案を合憲と主張する憲法学者が存在したとしても絶対少数。無視してよい程度。どの世論調査においても、法案反対派が多数を占める。どうやら、内閣と国会だけが、世論とねじれた存在になっているのだ。

安倍クン、無理押しは、安倍内閣の存立危機事態を招くことになるぞ。
(2015年6月4日)

「機能性表示食品制度に異議あり」ー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第42弾

なんと私自身が被告にされ、6000万円の賠償を請求されているDHCスラップ訴訟の次回口頭弁論期日は明日4月22日(水)となった。13時15分から東京地裁6階の631号法廷。誰でも、事前の手続不要で傍聴できる。また、閉廷後の報告集会は、東京弁護士会507号会議室(弁護士会館5階)でおこなわれる。集会では、関連テーマでのミニ講演も予定されている。どなたでも歓迎なので、ぜひご参加をお願いしたい。私は、多くの人にこの訴訟をよく見ていただきたいと思っている。そして原告DHC吉田側が、いかに不当で非常識な提訴をして、表現の自由を踏みにじっているかについてご理解を得たいのだ。

DHC会長の吉田嘉明は、私の言論を耳に痛いとして、私の口を封じようとした。無茶苦茶な高額損害賠償請求訴訟の提起という手段によってである。彼が封じようとした私の言論は、まずは、みんなの党渡辺喜美に対する8億円拠出についての政治とカネにまつわる批判だが、それだけでない。なんのために彼が政治家に巨額の政治資金を提供してたのか、という動機に関する私の批判がある。私は当ブログにおいて、吉田の政治家への巨額なカネの拠出と行政の規制緩和との関わりを指摘し、彼のいう「官僚機構の打破」の内実として機能性表示食品制度導入問題を取り上げた。

この制度は、アベノミクスの第3の矢の目玉の一つである。つまりは経済の活性化策として導入がはかられたものだ。企業は利潤追求を目的とする組織であって、往々にして消費者の利益を犠牲にしても、利潤を追求する衝動をもつ。だから、消費者保護のための行政規制が必要なのだ。これを桎梏と感じる企業においては、規制を緩和する政治を歓迎する。これは常識的なものの考え方だ。

私は2014年4月2日のブログを「『DHC8億円事件』大旦那と幇間 蜜月と破綻」との標題とした。以下は、その一節である。これが問題とされている。

たまたま、今日の朝日に、「サプリメント大国アメリカの現状」「3兆円市場 効能に審査なし」の調査記事が掲載されている。「DHC・渡辺」事件に符節を合わせたグッドタイミング。なるほど、DHC吉田が8億出しても惜しくないのは、サプリメント販売についての「規制緩和という政治」を買いとりたいからなのだと合点が行く。

同報道によれば、我が国で、健康食品がどのように体によいかを表す「機能性表示」が解禁されようとしている。「骨の健康を維持する」「体脂肪の減少を助ける」といった表示で、消費者庁でいま新制度を検討中だという。その先進国が20年前からダイエタリーサプリメント(栄養補助食品)の表示を自由化している米国だという。

サプリの業界としては、サプリの効能表示の自由化で売上げを伸ばしたい。もっともっと儲けたい。規制緩和の本場アメリカでは、企業の判断次第で効能を唱って宣伝ができるようになった。当局(FDA)の審査は不要、届出だけでよい。その結果が3兆円の市場の形成。吉田は、日本でもこれを実現したくてしょうがないのだ。それこそが、「官僚と闘う」の本音であり実態なのだ。渡辺のような、金に汚い政治家なら、使い勝手良く使いっ走りをしてくれそう。そこで、闇に隠れた背後で、みんなの党を引き回していたというわけだ。

大衆消費社会においては、民衆の欲望すらが資本の誘導によって喚起され形成される。スポンサーの側は、広告で消費者を踊らせ、無用な、あるいは安全性の点検不十分なサプリメントを買わせて儲けたい。薄汚い政治家が、スポンサーから金をもらってその見返りに、スポンサーの儲けの舞台を整える。それが規制緩和の正体ではないか。「抵抗勢力」を排して、財界と政治家が、旦那と幇間の二人三脚で持ちつ持たれつの醜い連携。

「大衆消費社会においては、民衆の欲望すらが資本の誘導によって喚起され形成される」とはガルブレイスの説示によるものだ。彼は、一足早く消費社会を迎えていたアメリカの現実の経済が消費者主権ではなく、生産者主権の下にあることを指摘した。彼の「生産者主権」の議論は、わが国においても消費者問題を論ずる上での大きな影響をもった。ガルブレイスが指摘するとおり、今日の消費者が自立した存在ではなく、自らの欲望まで大企業に支配され、操作される存在であるとの認識は、わが国の消費者保護論の共通の認識ー常識となった。

また、消費者法の草分けである正田彬教授は次のように言っている。
「賢い消費者」という言葉が「商品を見分け認識する能力をもつ消費者」という意味であるならば、賢い消費者は存在しないし、また賢い消費者になることは不可能である。高度な科学的性格をもつ商品、あるいは化学的商品など、複雑な生産工程を経て生産されたものについてだけではない。生鮮食料品についてすら、商品の質について認識できないのが消費者である。消費者は、最も典型的な素人であり、このことは、現在の生産体系からすれば当然のことである。必然的に、消費者の認識の材料は、事業者―生産者あるいは販売者が、消費者に提供する情報(表示・広告などの)ということにならざるを得ない。消費者は、全面的に事業者に依存せざるをえないという地位におかれるということである。

このような基本認識のとおりに、現実に多くの消費者被害が発生した。だから、消費者保護が必要なことは当然と考えられてきた。被害を追いかけるかたちで、消費者保護の法制が次第に整備されてきた。私は、そのような時代に弁護士としての職業生活を送った。

それに対する事業者からの巻き返しを理論づけたのが「規制緩和論」である。「行政による事前規制は緩和せよ撤廃せよ」「規制緩和なくして強い経済の復活はあり得ない」というもの。企業にとって、事業者にとって消費者規制は利益追求の桎梏なのだ。消費者の安全よりも、企業の利益を優先する、規制緩和・撤廃の政治があってはじめて日本の経済は再生するというのだ。

アベノミクスの一環としての機能性表示食品制度、まさしく経済活性化のための規制緩和である。コンセプトは、「消費者の安全よりは、まず企業の利益」「企業が情報を提供するのだから、消費者注意で行けばよい」「消費者は賢くなればよい」「消費者被害には事後救済でよい」ということ。

本日発売のサンデー毎日(5月3日号)が、「機能性表示食品スタート」「『第3の表示』に欺されない!」という特集を組んでいる。小見出しを拾えば、「国の許可なく『効能』うたえる」「健康被害どう防ぐ」「まずは食生活の改善 過剰摂取は健康害す」などの警告がならぶ。何よりも読むべきは、主婦連・河村真紀子事務局長の「性急すぎ、混乱に拍車」という寄稿。「健康食品をめぐる混乱は根深く、新制度によるさらなる被害」を懸念している。これが、消費者の声だ。

この問題で最も活発に発言している市民団体である「食の安全・監視市民委員会」は4月18日に、「健康食品にだまされないために 消費者が知っておくべきこと」と題するシンポジウムを開催した。その報道では、「機能性表示食品として消費者庁に届け出した食品の中には、以前、特定保健用食品(トクホ)として国に申請し、「証拠不十分」と却下されたものも交じっている」との指摘があったという(赤旗)。まさに、企業のための規制緩和策そのものだ。

あらためて「合点が行く」話しではないか。消費者の安全の強調は、企業に不都合なのだ。私は、そのような常識をベースに、サプリメント製造販売企業オーナーの政治資金拠出の動機を合理的に推論したのだ。消費者の利益を発言し続ける私の口が、封じられてはならない。
(2015年4月21日)

対朝日集団訴訟を憂うるー新手スラップの横行を許してはならない

本日の朝刊に掲載された小さな記事。朝には見落として、夕方に気が付いた。世間の耳目を引かないようだが、私にはいささかの関心がある。

「慰安婦報道:『朝日新聞は名誉毀損』8749人が賠償提訴」というベタの見出し。
「朝日新聞の従軍慰安婦報道によって『日本国民の名誉と信用が毀損された』などとして、渡部昇一・上智大名誉教授ら8749人が26日、同社を相手取り、1人1万円の賠償と謝罪広告掲載を求めて東京地裁に提訴した。訴状によると、原告側が問題視しているのは、朝日新聞が1982〜94年に掲載した『戦時中に韓国で慰安婦狩りをした』とする吉田清治氏(故人)の証言を取り上げた記事など13本。『裏付け取材をしない虚構の報道。読者におわびするばかりで、国民の名誉、信用を回復するために国際社会に向けて努力をしようとしない』などと訴えている。
朝日新聞社広報部の話 訴状をよく読んで対応を検討する。」(毎日)

世の中は狭いようで広い。こんな訴訟の原告団に加わる「名誉教授」や、こんな提訴を引き受ける弁護士もいるのだ。この奇訴にいささかの興味を感じて、訴状の内容を読みたいものとネットを検索したが、アップされていない。靖国関連の集団訴訟などとの大きな違いだ。

それでも、「『日本国民の名誉と信用が毀損された』として、朝日を相手取り、賠償と謝罪広告掲載を求めて東京地裁に提訴した」というメディアの要約が信じがたくて、当事者の言い分で確かめたいと関連サイトを検索してみた。

「頑張れ日本!全国行動委員会」という運動体が提訴の委任状を集めており、姉妹組織「朝日新聞を糺す国民会議」が訴訟の運動主体のようでもある。これらを手がかりに検索を重ねても訴状を見ることができないだけでなく、請求原因の要旨すら詳らかにされていない。法的な構成の如何にはまったく関心なく、原告の数だけが問題とされている様子なのだ。勝訴判決を得ようという本気さはまったく感じられない。

ようやく3人で結成されている弁護団のインタビュー動画にたどり着いた。3人の弁護士が語ってはいるが、その大半は「訴訟委任状の住所氏名は読めるようにきちんと書いてください」「郵便番号をお忘れなく」「収入印紙は不要です」「委任の日付は空欄にしてもかまいません」などと細かいことには熱心だが、請求原因の構成については語るところがない。「朝日がいかに国益を損なったか」という政治論だけを口にしている。ここにも、真面目な提訴という雰囲気はない。

永山英樹という右派のライターが、次のように提訴記者会見での原告団の言い分をまとめている。おそらくは、訴状を読んでのことと思われる。
「日本の官憲による慰安婦の強制連行という朝日の宣伝により、旧軍将兵、そして国民は集団強姦犯人、あるいはその子孫という汚名を着せられ、人格権、名誉権が著しく損なわれた。日本の国家、国民の国際的評価は著しく低下して世界から言われなき非難を浴び続けている。たしかに虚報を巡って朝日は「読者」に対し反省と謝罪の意は表明した。しかし捏造情報で迷惑を被ったのは「読者」だけではないのである。国際社会における国家、国民の名誉回復の努力も一切していない。そこで朝日新聞全国版で謝罪に一面広告を掲載することと、原告に対する一万円の慰謝料の支払いを求めるのがこの訴訟なのだ」
どうやらこれがすべてのようだ。これでは、そもそも裁判の体をなしていないといわざるを得ない。

この提訴は、訴権濫用により訴えそのものが却下される可能性が極めて高い。訴訟の土俵に上げてはもらえないということだ。訴え提起が民事訴訟制度の趣旨・目的に照らして著しく相当性を欠き信義則に反する場合には、訴権濫用として、訴えを却下する判決は散見される。このような信義則に反する場合としては、?訴え提起において、提訴者が実体的権利の実現ないし紛争の解決を真摯に目的とするのでなく、相手方当事者を被告の立場に立たせることにより訴訟上または訴訟外において有形・無形の不利益・負担を与えるなどの不当な目的を有すること、および?提訴者の主張する権利または法律関係が、事実的・法律的根拠を欠き権利保護の必要性が乏しい、ことが挙げられている。
今回の集団による対朝日提訴は、まさしくこの要件に該当するであろう。

さらに、提訴が訴権の濫用に当たることは、却下の要件となるだけでなく、提訴自体が朝日に対する不法行為を構成する可能性もある。そのときは原告すべてに不法行為による損害賠償責任が生じることになる。通常8749人に損害賠償の提訴をすることは事務の繁雑さと郵送料の負担とで現実性がないが、本件では反訴なのだから好都合だ。反訴状は正副各1通だけで済むし、送達費用はかからない。当事者目録は原告側が作ったものをそのまま利用すればよい。朝日にとってはお誂え向きなのだ。

朝日を被告としたこの訴訟は不法行為構成であろうが、何よりも各原告に、「権利または法律上保護される利益の侵害」がなくてはならない。「国益の侵害」や「日本国民の名誉と信用が毀損された」では、そもそも訴えの利益を欠くことになって、私的な権利救済制度としての民事訴訟に馴染まないことになる。この点で訴訟要件論をクリヤーできたとしても、法律上保護される利益の侵害がないとして棄却されることは目に見えているといってよい。

さらに誰もが疑問に思うはずの、時効(3年)と除斥期間(20年)について、原告側はどのようにクリヤーしようとしているのか、とりわけ除斥期間は被告の援用の必要はない。訴状に何らかの記載が必要だし、原告を募集するについて重要な説明事項でもある。しかし、この点についてはなんの説明もないようだ。

この訴訟は新手のスラップだ。勝訴判決によって権利救済を考えているのではない。ひたすらに朝日に悪罵を投げつける舞台つくりのためだけの提訴ではないか。本来の民事訴訟制度は、こんな提訴を想定していない。

朝日は、早期結審を目指すだけでなく、提訴自体を不法行為とする反訴をもって対抗すべきではないか。負けて元々の提訴で、相手を困らせてやれ、という訴訟戦術の横行を許してはならないと思う。
(2015年1月27日)

若い医療過誤事件依頼者の姿勢に励まされたこと

元日と2日、久しぶりに医療過誤訴訟の訴状を起案している。ようやく、ほぼ完成近くまでになった。近々、正月休み明けに提訴することになる。依頼者の承諾を得たので、敢えてその冒頭の一章を、当事者を特定しないかたちで掲載する。

世人の目を惹く大事件ではない。訴額も高くはない。しかし、当事者本人にとっては人生を左右しかねない大事件。そして、誰もが経験しうる医療への不信不満の問題点をよく表している、象徴的事件ではないだろうか。

理念としては、患者の人権の侵害をいかに回復するかを課題とする訴訟である。医師・医療機関との関係において弱者の立場となる患者の側に立って、その人間としての尊厳をどのように保護すべきか、という問題でもある。

もっと分かり易く表現すれば、「一寸の虫にも五分の魂」がテーマなのだ。人間である患者には、五分では納まらない魂がある。自尊心とも、矜持とも言い換えることができよう。医師や医療機関は、ルーチンワークとなってしまった日常の診療行為の中で、この当然のことを時に忘れることがあるのではないか。

起案中の訴状の依頼者は若い女性。とある大病院での研修医2名の動脈血採血の実験台とされて、採血失敗から神経を損傷されて2か月もの入院を余儀なくされた。この間に、職を失ってもいる。ところが、この大病院の副院長は、患者に向かって、「研修医の彼らは何も悪くありません、普通の青年です」「あなたの体に問題があって、このようなことになりました」などといい、さらに「あなたの態度に問題があったからこうなったんじゃない?自業自得だよね」とまで言ってのけたのだ。こう言われて怒らない方がおかしい。私は、話を聞いて依頼者と一緒になって大いに怒った。「あなたの私怨でしかない」などと聞き流す輩がいれば、その連中にも腹が立つ。

ここからは私の忖度だが、この副院長の思いは、洋々たる未来が約束されている研修医2名の将来だけに向けられている。その青年の未来の輝きに較べれば、患者となった20歳の女性店員の人生などは問題にならないという不遜な思いがあったのではないだろうか。大所高所に立って、副院長として、将来性ある医師らのために、患者を説得しようと考えたのであろう。高圧的な態度で接することによって、患者にものを言っても無駄たと思わせ、あきらめるよう仕向けたのではなかったか。

「医師の職業人生の出発点を汚すようなことは望ましくない。だから、あなたには騒いでほしくない。おとなしく身を退いていただきたい」。言外にそのような差別的な傲慢さを感じざるを得ない。

私はこの依頼者の怒り心頭がよく理解できる。しかも、この若い依頼者は、単に怒っているだけでない。私と打ち合わせを進める中で、記憶を整理し、自分の思いを反芻しつつ、次第に自分の怒りの根拠と正当性に自信を深めてきている。そのことが小気味よく、こちらが励まされている。

この依頼者は、「同じような事件は、他にもあるのではないか。このままでは同じような病院の傲慢がまかり通って、患者の被害が繰り返される」として、「自分の実名を挙げてもかまわないから、新聞記事として取り上げてもらいたい」と、某新聞社に顛末を投稿までしている。活きのよい五分の魂がキラキラ光っているではないか。さて、今度はメディアの人権感受性が試されている。

人権も人権侵害も、そして人権の擁護も、抽象的な問題ではない。常に具体的事件の中でのみ表れる。弁護士の仕事は、そのような人権に関わるひとつひとつの事案において、被害者とともに人権を救済することにある。

その原点は、人権侵害に対する怒りを被害者とともに共有することにあるのだと思う。怒ることはエネルギーを要するしんどいことではあるが、この「人権感受性」を失ったら弁護士は終わりだ。私は、まだ沸き上がる怒りを持ち続けていることを誇りに思う。
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(以下で被告とは、病院開設である法人をいう)
第1 事案の概要と特徴
1 研修医による単純な医原性傷害事故(「過失1」)
  本件は、近時まれな典型的医原性医療過誤事件である。その加害態様は、医療過誤事件というよりは研修医による患者に対する単純な過失傷害事件と表現するにふさわしい。本件の責任論は、被告病院の研修医が未熟で乱暴な医療行為によって原告の大腿神経損傷の傷害を与えたという単純なものである。
  到底単独で医療行為に従事する技量を持たない未熟な2人の研修医が、指導医不在の際に4回にわたって患者(原告)に対する動脈血採血を試みて失敗し、患者の大腿神経を損傷した。本件では、この過失傷害行為を「過失1」とする。
  結局研修医らは採血に至らず、原告の強い懇請で研修医に替わった看護師がなんなく採血を行ったが、結果としてこの採血は原告に対する診療に何の役に立つものでもなかった。原告は、無益無用な医師の行為によって重篤な神経損傷の障害を得て、被告病院での2か月間の入院を余儀なくされ、退院後の現在も回復に至っていない。訴状提出の現在、症状未固定で後遺障害の程度は未確定である。
  この間、原告は無収入の生活を強いられ、その上失職もして、経済的な困窮は甚だしい。
2 副院長の暴言に象徴される事故対応の不誠実(「過失2」)
  近時、本件のごとき単純な医原性事件は訴訟事件とならない。医療機関が責任を認め、謝罪と賠償ならびに再発防止策を構築することによって患者の被害感情を慰謝するのが危機管理の常道として定着しつつあるからである。
  ところが、本件における被告の原告に対する事故後の対応は、これまた近時の医療の世界において信じがたい不誠実極まるものであった。
  被告は研修医の採血による原告への神経損傷の事実は認めながらも、責任を否定して原告の経済的困窮による生活補償を拒絶した。そればかりか、交渉担当責任者となった副院長は原告に対して、「研修医の彼らは何も悪くありません、普通の青年です」「あなたの体に問題があって、このようなことになりました」などと申し向け、挙げ句の果てには「あなたの態度に問題があったからこうなったんじゃない?自業自得だよね」との暴言まで吐いている。この副院長の暴言に象徴される被告の不誠実な事故対応を「過失2」とする。
  本件は、医療機関が患者に対して負う医療事故を起こした場合の誠実対応義務の不履行が、それ自体で独立した違法な過失行為として損害賠償請求の根拠となることの判断を求めるものである。
  以上のとおり、本件は上記2点を特徴とする医療過誤損害賠償請求訴訟である。
(2015年1月2日)

「浜の一揆」の密謀

東北新幹線の車窓からの冬晴れの富士がこのうえない目の愉しみ。大宮を過ぎてしばらくは、冠雪のその姿がことのほか大きく美しかった。残念ながら盛岡は雪景色。岩手山は盛岡の町を覆う雪雲のなかに隠れて見えなかった。その雪雲の下の盛岡の某所で、三陸沿岸の各地から集まった「浜の一揆」の首謀者たちの密議が行われた。

かつての一揆の謀議はどのように行われたのだろうか。密告者の耳や目をおもんばかって、厳重な秘密会だったに違いない。どのように連絡を取りあい、どんな場所で会合をもったのだろうか。その苦労がしのばれる。今、我々の「浜の一揆」に格別の秘密はない。この作戦会議を地元のメディアに公開してもいっこうに差し支えない。この真剣で活発な討議の様子を行政にも、浜の有力者にも見せてやりたい。

サケは岩手沿岸漁業の基幹魚種である。そのサケを一般漁民は捕獲することができない。うっかりサケを捕獲すると「密漁」となり、県条例で「6月以下の懲役若しくは10万円以下の罰金に処せられる。刑罰を科せられるだけでなく、漁業許可の取り消しから漁船・漁具の没収にまで及ぶ制裁が用意されている。だから、網にサケがかかれば、もったいなくも海に捨てなければならない。これほど厳重に、一般漁民はサケ漁から閉め出されているのだ。

サケを獲っているのはもっぱら「漁協」と「浜の有力者」である。漁法はケタ違いに大規模な定置網漁。漁協が必ずしも漁民の利益のための組織となっていない実態があり、浜の有力者が不当に利益をむさぼっているボス支配の現実がある。

震災・津波の被害のあと、三陸沿岸漁業の復興の過程で、この浜の現状は漁民にとって耐えがたいものとなり、「漁民にサケを獲らせよ」という浜の一揆の要求になり、運動になった。この「浜の一揆」は三陸復興における大事件である。地域経済上の問題でもあり、民主主義の問題でもある。地元メディアが、もっと関心を寄せてしかるべきではないか。

今、岩手県知事宛に、俺たちにもさけを獲らせろと、「固定式刺し網によるサケ漁の許可」を求めている小型船舶所有漁民が101人。近々、もう少しその人数は増えることになる。人数がそろったところでどうするか、今日はその作戦会議なのだ。

私が口火を切って、いろいろと意見が交わされる。
「どうも県の担当課には緊迫感が感じられない。相変わらず、漁民が陳情や請願を繰り返しているとでも思っているのではないか。行政不服審査法に基づく審査請求から行政訴訟提起への行動に踏み出したのだということをよく理解しているのだろうか」
「それは、分かっているようだ。担当課長は『裁判はなんとか避けたい』とは言っている。『それなら許可を出せばよいことだ』と返答すると、『それでは、漁連が納得しない。なんとか、漁連が納得するような方法を考えてくれ』と言う」
「県は、けっして我々の要求が間違っているとか、できないことだとは言わない。漁連と話し合ってくれというだけなのだ。でも、それは行政にあるまじき逃げの姿勢でしかない。県は態度を決めなければならない」
「仮に行政が不許可なら裁判で争おうというこれまでの方針でよいと思う」
「ただ、裁判をすること自体が目的ではない。サケを捕れて、生計が立つようにすることが目的なのだから、早期にその目的を実現する方法があれば、その方がよい」
「『最終手段としては裁判を』という基本はしっかりと確認しながら、行政との交渉で要求が通るものなら、それも考慮の余地はあるのではないか」
「裁判では、県知事の不許可決定が違法として取り消されるか否かの二者択一しかない。しかし、県との交渉であればいろんな案を検討して、どこかに落ち着けることも可能だ」
「これまで要求してきた、TAC(漁獲総量規制)とIQ(個別漁獲量割当)を具体化して政策要求とすることはどうだろうか」
「判決に代わる落としどころとして『岩手版IQ』を漁民自身が提案し、これを実現するとなれば、画期的なことではないか」
「漁業の将来を考え、水産資源保護をもっとも真剣に考えているのは行政でも漁連でもなく私たちだ。けっして乱獲にならないような自主規制によって、漁業の永続を考えてのIQ提案なのだ」
「たとえば、TACはとりあえず過去3年の漁獲量の平均として定める。固定式刺し網にはその漁獲高の20%を割り当てる。」
「固定式刺し網と限定せず、延縄でも刺し網でも、小型漁船漁民に20%で良いのではないか」
「そうすると大型定置の取り分は、これまでの100%から80%に減ることになるだろうか」
「実際には減らないのではないだろうか。固定式刺し網の漁期を秋に限定するのは一案ではないか。この時期、サケは水温の低い沖のやや深いところを回流していて定置にはかからない。この時期に沖合の小規模の固定式刺し網漁は、岸に近い大型の定置網漁と競合しないはずだ」
「相互扶助という観点から『IQ』よりは『ITQ』(譲渡性あるIQ)の方が魅力がある。漁師が病気になって漁に出られないときは一時的にその権利を譲って凌ぐようにできればありがたい」
「病気だけでなく『漁運』というものもある。たまたま不漁の時に、他の好漁の人に枠を融通できれば便利だ」
「譲ることができる相手は、同じ小型船舶の漁民ということに限定しておかないと、大きな資本に買荒らされることになりかねない。歯止めをしっかりしておこう」
「そのような案を具体化し、請求人団として、代理人の弁護士を先頭に県との交渉をしよう。その際には、きちんとマスコミにもレクチャーをしておこう」
「一人くらいは、本気で漁業の問題を取材する記者も現れるのではないか」
「そこまでやって県がだめだというのなら、裁判をすればよいことだ。その腹はもう固まっている」

意見はまだまだ続いた。充実した3時間の議論。田野畑村から押し出した、かの三閉伊一揆のあのときの謀議の雰囲気もこのようだったのではなかろうか。
(2014年12月19日)

朝日バッシング集会の「卑劣な犯罪」激励発言

昨日(11月13日)の「週刊金曜日」ネットニュースが報じている。去る10月25日、「『朝日新聞を糺す国民会議』結成国民大集会」なるものが、東京・永田町で開催されたとのこと。同記事の標題は、「植村氏への“脅迫煽る”元議員も―『朝日』叩きで集会」となっている。

同報道は、この集会での3人の発言を紹介している。
まず、この集会の基本性格を明確にする藤岡信勝発言。
「藤岡信勝・拓殖大学客員教授は今後の争点は『二つある』として、第一に、従軍“慰安婦”問題の『土台になる(日本国への)朝鮮人強制連行のデマそのものを打ち砕かなければいけない』などと持論を展開。第二の争点は『南京事件』であるとして、来年『終戦70年』を前に歴史戦が激しく闘われることになるのは間違いなく、そこでは『必ず南京事件、南京大虐殺(の史実をめぐる応酬)がむし返されます』と述べ、『週刊文春』や本誌で近日、藤岡氏と本多勝一本誌編集委員による誌上公開討論が予定されていると告知した」

そして、私が驚いた土屋敬之発言。
「土屋たかゆき・前東京都議会議員は、元『朝日新聞』記者の植村隆氏が非常勤講師を務める北星学園大学(札幌市)に今年9月、何者かが植村氏を辞めさせなければ大学に危害を加えるなどと脅迫した事件に触れ、『(同大学に)抗議が殺到して、彼(植村氏)はなんと言ったかというと「大変な脅迫を受けている」(と訴えたが)、冗談じゃないですよ!』『だって国賊でしょ? 売国……でしょ?』などと脅迫行為を支持するともとられかねない発言を繰り広げた」

そして、もうひとり。
「ジャーナリストの大高未貴氏は『左巻きの連中』を『歴史捏造主義者』などと揶揄したが、自身の『捏造』記事をめぐり、現在、韓国・ソウル大学の名誉教授から『出版物による名誉毀損罪』で告訴されている件(本誌10月17日号で既報)への言及はなかった」

この集会の決議文をネットで読むことができる。
「朝日新聞は、日本軍の兵士が朝鮮人女性を『強制連行』し、『従軍慰安婦』にしたとの吉田清治『証言』を報道し、その嘘とねつ造が明らかになっても訂正謝罪することなく、30年以上も放置して来ました。その結果、世界中の人々は、日本の兵士が、朝鮮人女性を『強制連行』し、『性奴隷』のごとく扱ったかのような認識とイメージを抱くようになりました。朝日新聞のねつ造報道によって、世界で最も軍律厳しく道義心の高かった皇軍兵士は、野蛮で残酷な誘拐犯や強姦魔のごとき犯罪者扱いをされたまま、日本人の名誉と誇りを傷つけられて来ました(以下略)」

「世界で最も軍律厳しく道義心の高かった皇軍兵士」とは一驚に値する。彼らの心情(願望というべきか)を素直に吐露するものとして甚だ興味深い。

もちろん、「吉田清治『証言』を報道し」たのは朝日だけではない。産経も読売も毎日もなのだ。とりわけ産経は熱心だった。読売も当時は良心的な記事を書いていた。これは周知の事実。朝日だけをバッシングの対象とするのは理不尽極まる。とりわけ、植村隆元記者は、吉田清治証言紹介記事とは無縁なのだ。

さらに、この決議が興味を惹くのは、「日本を取り戻す」「戦後レジームからの脱却」「戦後体制脱却」が繰り返されていること。安倍政権や自民党と同じフレーズを使って、親和性がアピールされているのだ。安倍自民党は、かつての「保守」政党ではなく、この集会の参加者と同質の極右政党と化していることをよく表している。

この集会では、「日本と日本人の名誉と誇りを取り戻す」ことが繰りかえし強調された。「『戦後日本』ではなく、本来の『日本』が動き出した」「『世界市民』ではなく、『日本国民』が起ち上がった」などとされている。また、この日の集会で代表者に選出された渡部昇一は、「朝日新聞の社長と関係者は、国連ビル前で切腹してもらいたいくらいだ」とまで発言している。

最も注目すべきは先に見た土屋敬之発言である。週刊金曜日は品良く、「脅迫行為を支持するともとられかねない発言」と手心を加えているが、誰が見ても「犯罪容認発言」であり、「犯罪者にエールを送る発言」でもある。国賊や売国者には脅迫があってしかるべきとする見地から犯罪者を激励する発言ではないか。

かつて石原慎太郎がテロ容認発言をして物議を醸した。
右翼少年による浅沼稲次郎・元社会党委員長の刺殺事件に対して「こんな軽率浅はかな政治家はその内天誅が下るのではないかと密かに思っていたら、果たせるかなああしたことにあいなった」と言い、また、外務省の田中均外務審議官の自宅ガレージに右翼が爆発物を仕掛けた事件に関して、「何やってんですか。田中均というやつ、今度、爆弾を仕掛けられて、当ったり前の話だ」と発言している。

土屋発言も同様だが、法が支配する社会において許容される限度を明らかに超えた発言である。法秩序を逸脱し、人権や人身を攻撃する暴言として許容してはならないのだ。

私は、北星学園大学への匿名脅迫状の発送を威力業務妨害罪に当たるとして、その犯人に厳正な捜査と処罰を求めた告発人弁護士380名のひとりである。共同代表のひとりでもある。この卑劣な犯罪を容認し、公然と激励する発言者を許しがたい。もちろん、このような発言を組織した集会もだ。

朝日バッシングの尖兵になっているのは、匿名脅迫状発送の卑劣な犯罪者にシンパシーをもつ、このような集会の参加者なのだ。必要な批判を遠慮してはならないと思う。
(2014年11月14日)

石原慎太郎の「一文字」改憲論に

石原慎太郎が所属している政党は「次世代の党」という(「前世紀の党」ではない)。その党の衆院予算委員会の持ち時間に石原が質問に立った。10月30日のこと。

その質問について、共同は「憲法前文に助詞の使い方の間違いがあるとして、安倍晋三首相に一文字だけの改正を提案した」と伝えている。時事は、「日本国憲法前文の日本語の使い方に不備があると訴え、安倍晋三首相も石原氏の主張に一部同調する場面があった」と。

メディアの注目度が低く、詳細は報じられていないが、次のような内容であったようだ。
「石原氏は前文の『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼』の部分を例に取り、『助詞の「に」の使い方が明らかに間違いだ。おかしな日本語は日本に厄介な問題をもたらす9条につながっている』とまくし立て、助詞だけでも手直すよう首相に求めた」(時事)
「作家である石原氏は、前文の『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して』の表現について『明らかに間違いだ』と指摘し、『信義に』を『信義を』に改めるべきだと主張した」(共同)

まったくつまらない話。ネタ切れで、目先を変えてみたということ。メディアの受けをねらったものだろうが、当てが外れたようだ。

思い出すのは、教育勅語についての似たような話題。私が手にした高校時代の国文法の教材に、「教育勅語に動詞の使い方の間違いがあった」と述べられていた。「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」の「一旦緩急あれば(已然形)」は、「一旦緩急あらば(未然形)」の間違いだという。

もちろん、間違いではないとする説もあるようだ。しかし、学生が教えられる意味に勅語を理解し、教えられた国文法に照らせば、明らかに勅語には「一字の間違い」がある。しかも「もっとも大事な部分の大きな間違い」なのだ。私が使ったその教材では、「当時、どの国文の教師も間違いには気付いていたが、畏れ多くも天皇の文書に誤りがあるなどとは指摘できなかった。起草者の元田永孚の権威を失墜することも憚られた」と、当時の社会や学会の権威主義を批判していた。

その印象に深い教材のおかげで、私は古語における動詞の「未然形」と「已然形」との違いを理解し、以後取り違えをすることはなかった。

さて今の世に、仮に憲法の「一文字の間違い」があったとして、いかほどの意味を持つだろうか。憲法は拝跪すべき聖典ではない。文字や文章の一字一句を侵すべからずとする神聖な存在でもない。教育勅語とは違うのだ。

石原には、「一文字の間違いがある」と指摘する表現の自由がある。しかし、石原の指摘する「一文字の間違い」で、憲法の理念についての国民の確信に何の揺るぎも生じるものではない。要するに、とるに足りない些事の指摘でしかない。

それでも、彼が、予算委員会で党の持ち時間をこの些事に費やしたことについて、産経は次のように報じている。
「質問を志願したという石原氏が取り上げたのは憲法の前文。『間違った助詞の一字だけでも変えたい。それがアリの一穴となり、自主憲法の制定につながる』と訴えた」
一文字の間違いがあったとしても、「それがアリの一穴となり、自主憲法の制定につながる」は、思い込みも甚だしい。

しかも、彼が何をもって「間違い」、「不備」というのかは詳報に接していないもののどうしても理解しがたい。まさか、「信頼する」は他動詞だから、格助詞は「を」をもちいるべきだ、などと言っているわけでもあるまい。

私には、「日本国民は、‥平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」が日本語の文章として間違いとの指摘には到底頷く気にはなれない。日本語として不適切とも、醜い文体とも思えない。とりわけ、わけの分からない多くの法律条文の「醜悪な」文体に辟易している身には、この日本国憲法の文章は、例外的に分かり易く、美しいとさえ思える。

石原の指摘のごとく、「諸国民の公正と信義を信頼して」としてもよかろうが、やや意味が変わってくるのではないだろうか。両者を比較しての文意についての感覚的な印象としては、「を」を用いた場合には信頼の対象は「諸国民」の意味合いが強く、「に」を用いた場合には信頼の対象はほかならぬ「公正と信義」となるのではないか。

また、「諸国民の公正と信義『を』信頼して、われらの安全と生存『を』保持しようと決意した」という同じ助詞の重なりを避けようとした修辞上の配慮もあったろう。すくなくとも、「を」が正しくて「に」は間違いと決めつけることはできない。ましてや、「助詞の『に』の使い方が明らかに間違いだ」「おかしな日本語だ」と断定する根拠はあるまい。

こういうときには、まず「日本国語大辞典」だ。格助詞「に」を引いてみるが、膨大に過ぎて手に負えない。結局、広辞苑が手頃だ。格助詞「に」について14通りの用法分類があって、その8番目に「対象を指定する」用法の説明がある。文語の用例がいくつかならび、最後に口語の「赤いの『に』決めた」とある。これだろう。

憲法前文は、信頼の対象を単に「平和を愛する諸国民」とせず、さらに「その公正と信義」と指定(特定)したのだ。決して間違った日本語でも不自然な日本語でもない。

なお、憲法の教科書では「平和を愛する諸国民の公正と信義」は、国連の理念と活動への評価だと説かれる。内容においても間違いはなく、ここをもって「アリの一穴」とすべき理由はない。

本日のブログのタイトルを、「石原慎太郎の『一文字』改憲論に」とした。「石原慎太郎の『一字』改憲論に反駁する」の意味である。これを、「石原慎太郎の『一文字』改憲論を」にしないのは「明らかに間違い」、「日本語として不備」などと指さされる筋合いはなかろう。
(2014年11月2日)

「はだしのゲン」攻撃の逆効果に学ぶ

昨日(10月26日)の毎日に、「【読書世論調査】はだしのゲン、5割『読んだ』」の見出しで、次の記事が報じられている。

「毎日新聞が8〜9月に実施した「第68回読書世論調査」で、広島の被爆体験を描いた漫画「はだしのゲン」を読んだことがある人は2人に1人に上ることが分かった。このうち9割超は小中学生が読むことを『問題ない』としており、戦争の悲惨さを伝える平和教育の教材として肯定的に受け止めていることがうかがえる。」

調査は全国の16歳以上の男女3600人を対象に郵送方式で実施し、2406人から有効回答を得たという大規模なもの。調査では49%が「はだしのゲン」を読んだことが「ある」と答えた。「特に学校で読んだことが推測される30代は年代別で最も多い73%が読んでいた」という。

興味深いのは、「小中学生が読むことについては、全体で85%、読んだ人に限ると97%が『問題ない』と答えた」ということ。詳細のデータは報告されていないが、「小中学生が読むことについて問題があると考えるか否か」の回答には、読んだ群と、読んでいない群との間で大きな落差があることだ。その差はほぼ24%と推定される。

読んだ人々は、自分の読書経験から判断している。その97%が「小中学生が読むことについて問題がない」と回答していることは注目すべき肯定度というべきである。これが、実際に読んだことのない者だけでの同じ設問についての回答が73%(推定)となるのはどうしてだろうか。

自分で読まない人々の回答は、ことさらに残虐なシーンだけを抜き出して強調したプロパガンダに少なからず影響されたのではないだろうか。全体の文脈から切り離して、戦闘や原爆の残酷な場面や、日本兵の女性に対する暴行の場面、あるいは差別表現だけを抜き出して、これを「小中学生が読むことについて問題がないか」と問われれば、躊躇することは当然に考えられる。それでも、7割を超える人が「問題ない」と回答していることを心強く思うべきなのだろう。

毎日の見出しに強調されてはいないが、実際に「はだしのゲン」を読んだことがある人たちが自分の読書経験から判断して、実にその97%が「小中学生が読むことについて問題がない」と回答していることは、もっと世に知らしむべことだと思う。この調査結果を教えられれば、読んだことがない人々の意見も変わってくるのではないか。「描写が過激」なのは、戦争の現実の悲惨に近づこうとした結果にすぎないということへの理解が得られると思う。

このような調査が行われたのは、「間違った歴史認識を植えつけている」という一部の心ない人々の陳情に松江の市教委が過剰に反応したことがきっかけになっている。2012年12月、松江市教委は、「旧日本軍の残虐行為などの描写に過激な部分がある」という理由で、読むのに教師の許可が必要な閉架措置とするよう学校側に要請することにした。それが「知る権利」や「表現の自由」を侵すものだと社会問題に発展して、結局市教委の事務局の手続きに不備があったということに落ち着き、13年8月に市教委は閲覧制限を撤回した。良識ある世論の大きな勝利である。

この事件をきっかけに、「はだしのゲン」の単行本は注文が相次いで増刷を重ねたという。昨年(13年)の夏には、例年同時期の2?3倍の売れ行きがあったと報じられている。続いそうした社会的関心の高まりが、今回の毎日の調査にもつながっている。

「間違った歴史認識を植えつけている」からこのマンガを子どもに見せるべきでない、という陳情は完全に裏目に出た。松江市教委の判断もである。このような「逆効果」こそが、歴史修正主義からの攻撃に対する最も有効な反撃となる。これが、この事件から学ぶべき最大の教訓ではないか。

なお、「はだしのゲン」は、マンガという媒体で戦争の悲惨を訴えて成功した典型例である。小説や詩歌だけでは十分にできなかったことを、優れた映画がなしえた。多くの人の感性に訴え得て反戦の気運を盛り上げた。その映画よりもさらに広範な多くの読み手を得て、「はだしのゲン」は、原爆の悲惨を訴え戦争にまつわる現実を突きつけた。

戦争は、常にそれを推進する勢力と押しとどめようとする勢力との、壮大なせめぎ合いのテーマとなる。だから、二度と戦争をしてはならないと訴える作品は、戦争推進勢力から疎まれる。あわよくば、折あらば、排斥しようとの試みの標的となる。一部右翼の排斥の蠢動は、「はだしのゲン」の反戦作品としての影響力を無視し得なくなった表れとして故中沢啓治の名誉でもあろう。

戦地での戦闘行為は、戦争のごく一部に過ぎない。長い長い国民全体の戦争準備期間における諸々の政治経済教育報道の過程があり、戦争に関係づけられた国民生活がある。戦後も国民各人の人生の後遺症を引きずることになる。

「はだしのゲン」は、戦前の市民生活から、思想差別、民族差別、皇軍の残虐、被爆後の広島の生活までを壮大に描ききった大河ストリーである。だから、読ませたくない勢力の標的となった。いま、「はだしのゲン」攻撃に対する反撃成功の教訓に学ぶべき意義は大きい。
(2014年10月27日)

「従軍慰安婦」報道の元朝日記者を応援する

朝日バッシングは、時代を画しかねない大きな問題である。朝日の「誤報」が責められているのではない。「誤報」は朝日を叩く恰好のきっかけ提供に過ぎず、叩かれているのはリ朝日が象徴するリベラリズムそのものなのだ。戦後民主々義が攻撃されていると言ってもよい。

その意味では、「従軍慰安婦」問題と、福島第1原発事故対応の「誤報」二部門の重みは格段に異なる。「従軍慰安婦」問題での「誤報・取り消し」は、歴史修正主義派を大いに勢いづかせるものとなった。吉田清治証言の虚偽性はとっくの昔に周知の事実になっていたにかかわらず、である。

故人となっている吉田清治叩きだけでは迫力がないからか、右派メディアは、当時の「従軍慰安婦」報道担当記者をバッシングの対象にしている。その標的の一人とされたU元記者は、吉田清治証言の紹介記事とは何の関係もない。

にもかかわらず、新聞・週刊誌だけではなく、ネットでの匿名に隠れた卑劣な記事の罵詈雑言がはなはだしい。元朝日記者本人だけでなく、高校生の娘さんを含め、家族みんなが標的とされている。右派「言論」のおぞましさをよく表す事態である。

そして、元記者が非常勤講師として勤務する札幌の北星学園大学に脅迫状が二度にわたって届いた。文面の一部は以下のようなものだという。

「U(元記者)をなぶり殺しにしてやる。」「(Uを)すぐに辞めさせろ。やらないのであれば、天誅として学生を傷めつけてやる」「あの頭の程度で講義がこなせるというのか。できるというのならその程度の学校か、ほほう朝鮮系か」「これをやるーガスボンベ爆発、サビ釘混ぜて」
あきらかな脅迫であり威力業務妨害である。リベラルな言論への萎縮効果を狙った表現の自由の封殺であり、大学の自治への挑戦でもある。そして、差別意識むき出しののヘイトスピーチでもある。

このような新聞・週刊誌・ネット・脅迫状などの総掛かりの「言論の暴力」に、私たちの社会はどれほどの耐性をもっているだろうか。健全な良識が復元力を発揮しうるだろうか。社会が試されている。

幸い、北星学園大学は毅然とした態度を堅持している。「負けるな北星!の会」の市民運動も動き出している。その意味では、けっして押されっぱなしではない。しかし、学校の警備を厳重にせざるを得ず、そのための費用負担は確実に大学の重荷になっていると漏れ聞こえてくる。仮に、右派言論の暴力に屈するような事態となれば、これは一大事だ。大学にもU記者とその家族にも、「負けるな」「がんばれ」と声援を送りたい。そして、精一杯支えなければならないと思う。

ネットや脅迫状のネタは、すべて新聞・週刊誌記事からの借り物である。新聞・週刊誌がすべてのネタ元となっており、しかも、ごく少数の右翼言論人がその中心に位置している。そこから、すべてが発せられ拡散されているという構図がある。U記者の記事を捏造という、その大ネタ元の内容が、あきらかにおかしい。とうてい、U記者の記事を捏造だなどと決めつけることはできない。

U記者の最初の「従軍慰安婦」記事は朝日の1991年8月11日付。後に実名を公表して訴訟に踏み切る金学順さんを取材したもの。その記事のリードの冒頭が以下のとおり。
「日中戦争や第二次大戦の際、『女子挺(てい)身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、『韓国挺身隊問題対策協議会』が聞き取り作業を始めた。同協議会は十日、女性の話を録音したテープを朝日新聞記者に公開した」

これが、右派の大ネタ元から攻撃されている。この記事のうち、
?「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され」の部分が「経歴詐称」であり「捏造」だというのだ。そもそも、「挺身隊」とは勤労動員組織なのだから慰安婦とは関係がない、という。

しかし、この記事は『女子挺身隊』は、個別事例としての金さんの経歴を指しているのではなく、「女子挺身隊の名で日本軍人相手に売春行為を強いられた朝鮮人従軍慰安婦」という一般例を指している。また、当時は韓国内でも「女子挺身隊」は「従軍慰安婦」を意味するものとされていたと反論されている。この点は、検証可能であろう。

ちなみに、ウィキペディアの「韓国挺身隊問題対策協議会」の解説記事では、「団体名に『挺身隊』とあるが、これは日本統治時代の慰安婦を指している。挺身隊(女子挺身隊)は日本や韓国などを含めた当時の日本領内の勤労奉仕団体のことを指すが、韓国においては現在も慰安婦を女子挺身隊と混同することが多い」とされている。

何よりも、問題は「狭義の強制性」にあるはずだが、このリードには「強制連行」の言葉はなく、本文には「だまされて慰安婦にさせられた」と明記されている。

また、U記者には、同年12月25日付の記事もある。このときは、「日本政府を提訴した元従軍慰安婦・金学順さん」という見出しになっている。

この記事について、
?金さんがキーセンであった経歴を意図的に隠した。
?Uさんの義母が戦後補償裁判の原告であることを隠した。の2点が攻撃されている。
以上の3点が、「捏造」指摘のすべてと言ってよいようだ。

しかし、金さんがキーセンの養成学校に通っていたことは、本筋の問題に何の関わりもないこととして、朝日だけでなく、当時他の新聞も記事にしていない。また、Uさんの義母は裁判の原告とはなっていない。朝日の検証記事でも、U記者が義母から記事の内容について提供を受けたことはない、と確認をされている。

私には、まだ右派の批判を「何の根拠もない」ときめつけるだけの資料に接してはいない。しかし、確信を持って言えることは、これらの批判が「従軍慰安婦」問題の本質に関するものではないということである。「従軍慰安婦」とされた女性の悲惨な状況を報じる記事の内容には触れることなく、その周辺の些事についてのこのような批判が、どうして右派勢力総掛かりの大合唱になるのだろうか。

朝日バッシングの意図と、これに対抗する言論の意義は明らかというべきではないか。いずれ、右派の「批判」については、黒白が明らかになるだろう。そのときは、攻守ところを変えることになるだろう。

もちろん、その際にも薄汚い「リベンジ言論」はあり得ない。
(2014年10月15日)

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