私の手許に一冊の書物がある。これは、私にとっての特別のものだ。
表題は、「花巻が育んだ救世軍の母 山室機恵子の生涯」。「宮沢賢治に通底する生き方」と副題が付いている。社会事業者であり、キリスト者であった山室機恵子の400頁におよぶ本格的な評伝。著者は、知人の安原みどりさん。
鎌倉市雪ノ下の「銀の鈴社」からの出版で、発行日が2015年9月25日とされているが、そのとき著者は既に亡くなっている。この著の「あとがき」のあとに、異例の「お礼の言葉」という1頁が添えられている。
お礼の言葉は、「『山室機恵子の生涯』を出版することができ、望外の幸せを感じております」と始まっている。多方面の著作への協力者に対して、「皆さまには、言い尽くせない感謝の気持ちでいっぱいです。心よりお礼申しあげます」と結ばれている。「2015年8月」とだけあって、日の特定はない。みどりさんは、8月28日に逝去されている。癌での覚悟の死であったという。毛すじほども取り乱すところのない、「お礼の言葉」を書いたのはいったい何日だったのだろうか。
9月3日の告別式での夫君・安原幸彦さんのご挨拶で、みどりさんがこの著書の最後の校正稿を脱稿したのは逝去の2日前、8月26日であったと知らされた。この評伝の著作に取りかかったのが、死を宣告され覚悟して後のことだという。自分の生きた証しとして、最期に一冊の著書を書き上げた、その壮絶にしてみごとな生き方に感服するしかない。
この著作は評伝であるから、著者は、41歳の若さで帰天した山室機恵子の臨終の場面に触れざるを得ない。その描写はかなりの長文にわたるものであるが、夫・山室軍平(牧師)は後に「私は、今日までいまだかつてあれ程、生死を超越した高貴なる最期をみたことがない」と感嘆していた事実を紹介し、「聖職者として多くの人の最期を看取った軍平に、かく言わしめた機恵子の精神性の高さ」を称賛している。おそらくは、自らの最期もかくあれかしと意識しての執筆であったろうし、それを現実のものとされたのであろう。
安原みどりさんは、私と同郷岩手県の生まれ。賢治の母校である盛岡一高(旧制盛岡中学)を卒業後、賢治の妹・宮沢トシの母校である日本女子大学を卒業している。機恵子を、自己を犠牲にして生涯を弱き者のために捧げ尽くした宗教者として、賢治の生き方に通底するものを見て、世に紹介したいと思い立ったのであろう。実は、賢治と機恵子とは、ともに生家は花巻市豊沢町。宮澤家と、機恵子の実家佐藤家とは、わずか数軒をへだつだけの近所で、親しい間柄だったという。
この書の最後に、5頁余におよぶ参考文献リストが並んでいる。この厖大な資料を渉猟しての労作を簡単には紹介できない。前書きに当たる「はじめに」が、著者自身の要約とも読める内容となっている。ここから抜粋して、この著の紹介としたい。
日本救世軍の歩みは、そのまま日本の社会福祉の歩みであるといわれる。その「日本救世軍の母」と呼ばれる山室機恵子は、1874(明治7)年12月5日に花巻で生まれた。機恵子の生家のすぐ近所に宮沢賢治の実家がある。機恵子の先祖は南部藩の家老で、機恵子は武士道の精神で育てられ、生家の家風は「世のため身を捨てて尽くす」であった。機恵子はこの使命感を持って明治女学校に進み、桂村正久から洗礼を受けキリスト者になった。
機恵子が明治女学校を卒業した1895(明治28)年は、くしくもイギリスの救世軍が日本に進出し、山室軍平が救世軍に挺身した年でもある。救世軍は1865年にロンドンのスラム街でウィリアム・ブース夫妻によって創設され、貧民救済の社会事業と、救霊事業(キリスト教伝道)を世界に広めていた。当時の救世軍は「西洋法華」と嘲笑され、迫害を受け、山室軍平はその真価もまだ世に知られない、無名の青年にすぎなかった。
機恵子は明治女学校出の才媛にふさわしい良縁には目もくれず、「山室となら世のために尽くすという信念を実現できる」と決心し、山室軍平と結婚した。機恵子は花嫁道具を揃える両親に「50歳まで着られる地味な着物を作って下さい。救世軍で着物をこさえるつもりはありませんから」と言い、軍平の収入が7円、家賃3円50銭、11畳半だけの広さしかない伝道所兼自宅の長屋生活に突入した。いわばシンデレラ・ストーリーとは逆の人生を果敢にも選択したのである。
機恵子は8人の子を生み育てながら、貧民救済・廃娼運動・東北凶作地子女救済・結核療養所設立などの先駆的社会事業のため東奔西走したが、病に倒れ41歳で逝去した。
機恵子は「私が救世軍に投じた精神は、武士道をもってキリスト教を受け入れ、これをもって世に尽くすことにありました。お金や地位を求める生活を送らなかったことを満足に思っています」「幸福はただ十字架の傍にあります」と遺言して帰天した。
機恵子の生き方は質素な生活をし、自分を勘定に入れずに、東奔西走し困窮した人のため自分を犠牲にして尽くすもので、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩を彷彿とさせる。賢治が「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」として羅須地人協会を設立し農民と共に生きた精神も、宗教は異なるが機恵子と通底するものがある。
賢治の実弟、宮沢清六は著書『兄のトランク』の中で「若い頃の賢治の思想に強い影響を与えたものに基督教の精神があった。私共のすぐ後には日本救世軍の母とよばれた山室軍平夫人、機恵子が居られた。私の祖父と父が『佐藤庄五郎(機恵子の実父)さんと長女のおきえさんの精神は実に見上げたものだ』と口癖のように言っていたから、若い賢治がこの立派な基督教の実践者たちの思想と行動に影響されない筈はなかったと思われる。そしてその精神が、後年の賢治の作品の奥底に流れていることが首肯されるのである」と書いている。
宮沢賢治を知らない人はいないが、機恵子没後百年になる現代では、機恵子を知る人はほとんどおらず、故郷岩手ですら知られていない。機恵子は「よいことをする時は、なるべく目立たないようにするのですよ」とこどもに教え、右手の善行を左手にも知らせず天に財を積んだ。
津田梅子、羽仁もと子、矢島揖子、新渡戸稲造、内村鑑三など、多くの著名人が軍平、機恵子を支援したが、善行を当然の事として黙すキリスト者に代って、関係性を詳らかにするのも意義があることだろう。家庭を持ち働く女性の元祖でもあった機恵子の生涯を顕彰してみたいと思う。
安原みどりさんが、機恵子の生き方のどこに感銘を受け共感し、この書を執筆しようと思い立ったのか、痛いほど伝わってくる。この著作を完成させたみどりさんの感受性と生き方にも学びたいと思う。
また、機恵子が伴侶として山室軍平を選んだことを、自分が安原幸彦さんを選んだことと重ね合わせてもいたのだろう。機恵子も、みどりさんも、自らの意思で幸せな人生を送ったのだと思う。
合掌。
(2015年10月5日・連続第918回)
安倍晋三とは、日本国憲法に限りない憎悪をもつ人物である。憲法改正こそが彼の終生の悲願にほかならない。日本国の首相としてこの上なくふさわしからぬこの人物が首相の任についている。憲法擁護義務を負う首相であるにかかわらず、憲法の平和主義に敵意を露わにし、戦後レジームからの脱却を呼号している。9条の改憲が無理なら、議席の多数を恃んでの解釈改憲・立法改憲のたくらみに余念が無い。こうして安倍は特定秘密保護法を成立させ、今戦争法を成立させようと躍起になっている。
私たち国民の側の課題は、戦争法案を廃案に追い込むことと安倍内閣を打倒することの2点となっている。この2点は分かちがたく一体となった課題なのだ。澤地久枝の依頼によって金子兜太が筆をとったという「安倍政治を許さない」が時代のスローガンととして定着しつつある。許されざる安倍政治とは、あらゆる分野に及んでいるが、何よりも憲法を破壊し平和を蹂躙する「戦争法案」の成立を許してはならない。
安倍政権の危険性と、戦争法の危険性。その両者がともに国民の間に広く深く浸透しつつある。安倍政権にかつての勢いはない。相当のダメージを受けてふらふらの状態となっている。が、いまだにダウンするまでには至っていない。「水に落ちた犬は打て」というが、まずは水に落とさねばならない。ようやく水辺にまでは押してきた。もう一歩で水に落とすことができそうではないか。大きな世論の批判で、安倍を水に落とそう。
世論調査で、「戦争法案に反対」は圧倒的多数だ。しかし、これだけでは安倍政権に廃案やむなしと決断させるには十分でない。むしろ強行突破の決意をさせることになりかねない。政権の側に、「反対運動の高揚は法案の成立までのこと。法案が成立してしまえば、みんな諦めるさ」という国民への見くびりがあるからだ。
今は何よりも、安倍内閣の支持率を低下させることが重要だ。30%の危険水域以下となれば、水に落ちた犬状態といってよいだろう。
さらに、重要な指標が与党である自民・公明両党の支持率だ。安倍政権の支持率低下の顕著さに比較すると、自民党支持率低下の傾向はさほどではない。これに火がつけば、事態は大きく変わることになるだろう。今でも腰の引けている自民党参議院議員が、安倍を見捨てることになるからだ。法案を批判し、内閣を批判し、与党を批判する。このことによって法案を廃案に追い込む展望が開けつつあると思う。議席の数がすべてを決めることにはならないのだ。
安倍政権のヨタヨタぶりは、国立競技場建設計画の白紙撤回となって表れた。次いで、辺野古新基地計画の凍結である。仙台市議選での「自民党後退、共産党前進(3人トップ当選)」の結果も手痛い。8月6日広島平和記念式典での非核三原則言及せず問題もあり、70年談話も安倍カラーは押さえこまれそうな雲行き。TPPも思惑のとおりには行かない。埼玉知事選も、川内原発再稼働への風当たりも強い。そこに、礒崎や武藤のオウンゴールが重なる。安倍晋三、こころなし精気に欠ける。疲れ切った表情ではないか。相当にこたえているのだろう。
さらに今日になってのできごとだ。今月20日に告示9月6日投開票予定の岩手県知事選挙に立候補を表明していた、元復興大臣の平野達男参議院議員が立候補を取り消した。相当にみっともない戦線離脱なのだ。そして、政権への痛手である。
平野達男は、民主党政権の復興大臣との印象が強いが、今は民主党を離脱して無所属の参議院議員。今回は自民・公明の推薦で立候補表明をして、現職達増拓也との保革一騎打ちの構図が描かれていた。100万を超す県内有権者を対象に、自民・公明の与党連合と、民主・生活に共産までくっついた野党連合との票の取り合い。戦争法案の賛否を問うミニ国民投票の様相であった。
ところが、このところ自・公の評判がすこぶる悪い。自民党独自の最新世論調査シミュレーションでは、ダブルスコアの水が開いたという。戦争法案参院審議のヤマ場に、与党がダブルスコアで野党連合に敗北ではなんとも惨めなことになり、法案成立の大きな支障になる。「だから平野達男君、立候補はおやめなさい」と声がかかったのだ。結局は現職達増の無投票当選という白けた結果となる。
本日の平野の立候補記者会見では、平野はあけすけに「国の安全保障の在り方が最重要課題へと浮上し、県政の在り方が論点になりづらい状況が生じてきた」と述べたという。翻訳すれば、「知事選でありながら、戦争法案の賛否を問うワンイシュー選挙になりそうで、そうなれば自公に推された立場で勝てるわけがない」ということなのだ。
加えて、参議院議員である平野が知事選に立候補すれば、参院選の補選をしなければならない。これが10月になるが、この選挙も自公の衰退を天下にさらけ出すことになるというのが、「立候補はおやめなさい」のもう一つの理由だったという。ダブルの敗戦を避けて、不戦敗を選んだというわけだ。
これまでは、こう報道されていた。
「衆院での安保法案の強行採決に対する世論の反発が広がり、法案を推進する与党側にとって逆風となっている。県内各地であいさつ回りを重ねる平野氏も『法案に対する反応は厳しい。自民の支援をなぜもらったのかと聞かれることもある。国政と県政は別のことと説明すれば理解はしていただいている』と話す。参院で審議入りした安保法案について平野氏は『慎重な審議が必要』との考えだ。
一方、達増陣営は『法案は違憲』との立場を前面に出し、強行採決した与党陣営が推す平野氏と、反対の野党勢力の対立構図を強調する。達増氏は後援会の集会などで『県民が正しい選択をすることで国政も変えられる』と訴え、安保法案の是非を問う主張を繰り広げている。」(朝日・岩手版)
明らかに、安倍と距離を置いた戦争法案反対がプラスイメージ、安倍にベッタリはマイナスイメージとなって、立候補すら見送らざるを得ないのだ。
9月6日投開票の岩手県知事選はなくなった。しかし、岩手県議選は同日投開票される。戦争法案推進勢力と反対勢力の票の奪い合いがどうなるか。100万有権者の審判を待ちたい。
岩手だけではない。アチラもコチラも、安倍に冷たく、憲法に暖かい風が吹いている。
(2015年8月7日)
8月13日(木)11時?14時 日弁連講堂「クレオ」で、下記のシンポジウムを開催し、「国民の70年談話」を採択する。日本国憲法の視座から、各分野の戦後70周年を検証し、「安倍政権の戦後70周年談話」に対峙する「国民の側からの70年談話」を決議し採択しようという企画。
この企画への参加を呼びかけるチラシのPDFファイルを、ここからダウンロードして、ぜひ拡散していただくようお願いしたい。
コンセプトは、あくまで安倍政権と対峙する国民の側からの、戦後70年という来し方の総括であり、今後の展望である。各人それぞれの個性ある総括ではなく、「国民」の総括であり展望。国民とは、主権者であると同時に被治者である人々の総体。権力者との対概念にほかならない。
国民の戦後70年の総括が安倍政権と同様となるはずはなく、今後の展望も安倍政権とは異なるものとなる。その国民の総意を、憲法の立場に立脚するものとして確認したい。もっともオーソドックスな憲法の解釈と、その憲法が踏まえた歴史認識を前提とするのが「国民の70年談話」の基本となる。それが、「日本国憲法の視座から」と副題をつけた意味である。
政権の側の「談話」の内容は、安倍首相独特の個性から、歴史認識の記述がきわめて独善的で不十分になることが予想されている。自ら選定した有識者懇談会の意見をさえ聞こうとしていないと報道されている。私たちは、憲法の視座から、公表された安倍談話と対峙させた内容の「国民の談話」を作成して、安倍政権のあり方を根底から批判するものとしたいと思う。
おそらく、彼我の最大の対決点は平和主義のとらえ方となるだろう。憲法9条が指し示す「武力によらない平和」か、安倍政権が打ち出している「積極的平和主義」すなわち武力による抑止力に期待する平和か。この思想の対立を浮かびあがらせることが課題となると思われる。また、この点の理解は、歴史認識の違いから導き出されると考えられる。侵略戦争や植民地支配についての加害者としての真摯な反省を表明するか否かも鋭く対立するところとなるだろう。
期間はきわめて切迫しているが、可能な限り原案を広く世に問うて、多くの人の意見に耳を傾けて成案としたい。この過程にも、ぜひご参加いただきたい。
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(企画の総合タイトル)
「『国民の70年談話』ー日本国憲法の視座から
過去と向き合い未来を語る・安全保障関連法案の廃案をめざして
(企画の趣旨)
戦後70周年を迎える今年の夏、憲法の理念を乱暴に蹂躙しようとする政権と、あくまで憲法を擁護し、その理念実現を求める国民との対立が緊迫し深刻化しています。
この事態において、政権の側の「戦後70年談話」が発表されようとしていますが、私たちは、安倍政権の談話に対峙する「国民の70年談話」が必要だと考えます。
そのような場としてふさわしいシンポジウムを企画しました。憲法が前提とした歴史認識を正確に踏まえるとともに、戦後日本再出発時の憲法に込められた理念を再確認して、平和・民主主義・人権・教育・生活・労働・憲法運動等々の諸分野での「戦後」をトータルに検証のうえ、「国民の70年談話」を採択しようというものです。
ときあたかも、平和憲法をめぐるせめぎ合いの象徴的事件として安全保障関連法案阻止運動が昂揚しています。併せて、この法案の問題点を歴史的に確認する集会ともしたいと思います。
ぜひ、多くの皆さまのご参加をお願いいたします。
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(プログラム)
◆それぞれの分野における「戦後70年」検証の発言
■戦後70年日本が戦争をせず、平和であり続けることが出来たことの意義
高橋哲哉 (東京大学教授)
■戦後改革における民主主義の理念と現状
堀尾輝久 (元日本教育学会・教育法学会会長)
■人間らしい暮らしと働き方のできる持続可能な社会の実現に向けて
暉峻淑子 (埼玉大学名誉教授)
■日本国憲法を内実化するための闘い──砂川・長沼訴訟の経験から
新井章 (弁護士)
■安全保障関連法案は憲法違反である
杉原泰雄 (一橋大学名誉教授)
◆「国民の70年談話」案の発表と参加者による採択
主催※「国民の70年談話」代表・新井章
※事務局長・加藤文也 (連絡先 東京中央法律事務所)
以上
(2015年7月28日)
「自公の与党幹部が、昨日(7月1日)東京都内で会談し、衆院特別委員会で安全保障関連法案を7月15日を軸に採決をめざす方針を確認した。」
朝日の報道である。「会期末をにらみ、参院審議も念頭に衆院での再議決が可能な60日以上の日程を確保して衆院を通過させ、関連法の確実な成立をめざす。」という解説。そりゃ、ないよ。
丁寧に説明すると聞いた憶えがあるが、まだ丁寧な説明には遭遇していない。もう、先を決めての審議だというのか。形だけの説明、形だけの丁寧。国民が理解しようとしまいと、スケジュールのとおりに粛々と採決に持ち込む算段。そりゃなかろう。
60年安保を思い出そう。あの大運動が本格的に盛りあがったのは、5月19日衆院安保特別委員会での強行採決、そして翌5月20日衆議院本会議強行採決を契機としてのことだった。平和の問題だけでなく、民主主義の問題までが、国民の前に突きつけられたのだ。今回、様相が似て来つつあるではないか。
そもそも、本当に採決強行などできるのか。自公に次世代だけではみっともない。せめて維新を抱き込みたいというのが政府与党の願望だろうが、いよいよ世論の支持が細りはじめている。維新も自公と心中はしたくないだろう。ダメージは大きいぞ。本当に内閣がつぶれかねない。手を貸した政党もだ。
各社の世論調査で安倍内閣の支持率が軒並み低下している。戦争法には反対、集団的自衛権は容認しない、法案は違憲だ、内閣の説明はまったく不十分、というのが圧倒的な世論となっている。朝日の調査を皮切りに、共同、産経、日経、テレビ朝日と、軒並み同様だ。それに重ねて、「若手勉強会+百田」の「マスコミを懲らしめろ」「沖縄2紙を潰せ」の発言問題。このオウンゴールがよく利いている。説明すればするほど支持率低下する。だから、世論に耳を傾けて譲歩せざるを得ないとするか、早めに強行採決した方がよいと開き直るか。
こんな折、 福島民報社・福島テレビ共同の県民世論調査結果に驚いた。この調査、6月29日時点のものだが、全国にさきがけての激動の予兆なのかも知れない。
法案「違憲」54.3% 「違憲ではない」15・3%
まず、この数値の差に驚かざるを得ない。
集団的自衛権行使容認に「反対」51・7% 「賛成」14・5%
これにはさらに驚いた。極めつけは、内閣支持率だ。
安倍内閣を「支持する」28・4% 「支持しない」50・6%
この圧倒的な内閣不支持率は、既に事件だ。安倍にとっては驚愕の数字だろう。今後の各紙各社の調査が楽しみだ。
福島民報は県内最大のメディアである。福島だけが突出しているというよりは、これが最近の世論の動向とみるべきだろう。もしかしたら、この調査結果、安倍政権の凋落を知らせる桐の一葉なのかも知れない。
常識的には、弱い立場の安倍政権、強気の強行採決などできようはずもない。しかし、坐してジリ貧を待つよりは今のうちに乾坤一擲、ということもないではない。すべては党利党略で、民意が国会にも、内閣にも届いていないもどかしさを感じる。
もとはと言えば、小選挙区制のマジックのなせるわざ。民意の風が国会にも官邸にも、さわやかに吹いてもらいたい。
(2015年7月2日)
FIFAの評判ががた落ちだ。それにかこつけて、オウンゴールだの、レッドカードだのという当てこすりがかまびすしい。例の「集団的自衛権行使は憲法違反」という憲法学者3人の発言だ。安全保障特別委員会ではなく衆議院憲法審査会での発言だが、与党推薦の専門家までが明確に「違憲」と断じたのだから始末に悪い。自ら招いた学者の発言による大きな失点だから、オウンゴールというのは言い得て妙だ。これで法案だけでなく政権にもレッドカードと言いたいのだろう。野党は鬼の首を取ったような騒ぎだ。安倍政権をFIFAになぞらえたいという悪意が芬々、これは品位に欠けたやり方ではないかね。
野党はまだ許せる。マスコミまでが騒ぐのは許せん。今日の朝日も、東京新聞も、このことが一面トップだ。朝日の「憲法解釈変更 再び焦点」「安保法制『違憲』、攻める野党」は怪しからん。東京は「立憲主義に反する解釈変更」「国民納得せぬ『違憲立法』」だ。朝日の第2面には、追い打ちをかけるように「安保法制問われる根幹」「『撤回を』勢いづく野党」「政権、世論へ影響警戒」の見出し。ますます、怪しからん。面白くない。
朝日・毎日・東京がこの件を取り上げて社説を書いている。
「違憲」法制―崩れゆく論議の土台(朝日)
安保転換を問う 「違憲法案」見解(毎日)
安保法制審議 違憲でも押し通すのか(東京)
そして読売もだ。
集団的自衛権 限定容認は憲法違反ではない(読売)
朝・毎・東はかわいげがない。読売だけがものごとの理をよく弁えている。政権と折れ合うことでの利がいかほどのものか、衝突をして失うものの大きさがどれほどか。大人の智恵があるのは読売だけではないか。
こんなときに動揺してはいかん。ムキになって反論するのは愚策で、「たいしたことはないさ」と装って、さらりと受け流すのが上策。一昨日(6月4日)の記者会見では、そんなつもりで、「憲法解釈として法的安定性や論理的整合性が確保されている」「まったく違憲でないという著名な憲法学者もたくさんいる」と述べてみた。ところがこの評判がよくない。「憲法解釈として法的安定性が保たれているか」「論理的整合性が確保されているか」をあらためての争点として浮上させてしまった。元々自覚しての弱点を糊塗する意図の発言なのだから、本気で突っ込まれれば都合が悪い。新聞記者たる者、武士の情けを知らねばならんだろう。
昨日(6月5日)は、「まったく違憲でないという著名な憲法学者もたくさんいる」に関連して、性格の悪いいやな記者から「違憲でないという著名な憲法学者の名前を挙げていただきたい」という意地の悪い質問があった。このことを東京新聞がイヤミたっぷりに記事にしている。
「菅義偉官房長官は5日の記者会見で、集団的自衛権の行使容認を柱とする安全保障関連法案を合憲とする憲法学者が『たくさんいる』と発言したことに関し、具体的な学者名を記者団に問われ、挙げなかった」「菅氏は、行使容認を提言した安倍晋三首相の私的諮問機関『安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会』(安保法制懇)に言及して『有識者の中で憲法学者がいる。その報告を受け(集団的自衛権の行使容認を)決定した』と説明。安保法制懇に憲法学者が1人しかいないことを指摘されると『憲法学者全員が今回のことに見解を発表することはない。憲法の番人である最高裁が判断することだ』と述べた」
まるで私がデタラメを言って、追求されると逃げ口上と言わんばかりの書きぶり。本当のことだから文句を言えないのが悔しい。しばらくは「最高裁が判断することだ」で逃げておくしかなかろう。どうせ最高裁の判断は滅多に出るものではないのだから。
それだけでない。「民主党の岡田克也代表は記者会見で『今の政府の説明で合憲だという憲法学者を、ぜひ衆院憲法審査会に参考人として出してほしい』と述べた」ことが記事にされている。さらに朝日は、「学識者186人『廃案』に賛同」と目立つ記事を載せている。そんなにも、安倍政権にダメージを与えたいのか。
とは言うものの、こちらの旗色が悪い。やっぱり無理なことを始めてしまったのではないだろうか。今さら、法案を引っ込めるわけにもいかないが、このままでは安倍政権の致命傷にもなりかねない。
私が言うのもなんだが、安倍政権というのは不思議な存在だ。常々思っているんだが、この政権がなぜここまでもっているんだか、なぜ世論調査の支持率が高いのか、実は私にもよくわからない。
誰でも知ってのとおり、安倍が有能なわけはない。せめて人格が人並みであってくれればと思うのだが、あの答弁中の「総理のヤジ」はチンピラなみといわれても反論のしょうがない。私もたしなめてはいるのだが、そのときは神妙にしていても、すぐにメッキがはがれて地金が出てしまう。こればっかりはしょうがない。だから党内に人望があるわけがない。第1次政権を放り出したときのみっもなさといったらなかった。あれはみんな覚えていることだ。
それだけではない。この政権の重要政策は、ことごとく評判が悪い。特定秘密保護法、NSC法、辺野古基地建設強行、新ガイドライン、労働法制、福祉や消費者立法まで、個別的な政策課題では、あらゆる世論調査で不支持が支持を上回っている。普通ならこれでアウトだ。ところが、なんとなく支持率は高いのだ。
アベノミクスが唯一安倍政権を支えている、というのが通り相場だが、これとて「アベノミクスの恩恵を感じていない」という国民が圧倒的多数だ。株価が実体経済の反映ではなく、これを押し上げている要因がGPIF資金の証券市場への大量注ぎ込みと、円安進行による外国投資家の資金流入にあることも常識だから、いつまでももつわけがない。これがいつ崩れるか、私だって冷や汗ものだ。「株価の落ち目が政権の落ち目」になることは確実。それまでの勝負だとは思っている。
それにしても、株価下落の将来ではなく、なぜ、いままでもってきているのだろうか。安倍政権の醸しだす雰囲気が時代にフィットしているのではないのかね。個々の政策テーマを詰められると、とても国民の支持は得られないのだが、感性のレベルで安倍的なものを受け入れる素地があるのではないだろうか。
安倍晋三といえば、歴史修正主義派政治家の旗手だ。保守というよりは右翼のイメージ、日の丸よりは「我が軍の」旭日旗がよく似合う。だからこそ、今の時代の風にフイットしているんじゃなかろうか。戦後民主主義期にも、高度成長期にも、安倍的な政治家の出る幕はなかった。バブルが崩壊して、失われた20年の後に、自信を失いつつある国民が空虚な威勢に寄りかかりたいと思っているのではないか。そんな役回りに、安倍はピッタリなのだろう。
とは言え、理詰めで攻められたら、集団的自衛権行使や海外派兵が違憲だということは大方の認識になりつつある。丁寧に説明すればするほど、法案のボロが出る。安倍政権はボロの出る法案とあまりに深く結びついてしまった。
ここは思案のしどころだ。審議の長期化に展望のないことは火を見るよりも明らかなのだからジリ貧を避けるために早期決戦の強行突破で乗り切るべきか。はたまた、安倍政権を見限って、別の保守本流の穏健路線で新規まき直しをはかるかだ。そのときは、総理・総裁の首のすげ替えが必要だが、そろそろ潮時ではないだろうかね。法案の審議状況を見ているとそんな気がしてくる。
(2015年6月6日)
国会の委員会審議では「参考人質疑」が行われる。各党の委員が、自党の見解を支持する識者を参考人として推薦する。だから、各党の見解の分布がそのまま、参考人の意見の分布に重なる。私も過去に2度、参考人として招かれた経験があるが、事前に予定されたとおりの意見の陳述があって波乱なく終わった。これが通例なのだろう。波風の立つことのない安全パイのパフォーマンス。ところが、今日は違った。与党側にしてみれば、トンデモナイ事態の出来であったろう。
報道によれば、衆院憲法審査会は4日、与野党が推薦した憲法学者3人を招いて参考人質疑を行った。その質疑において、集団的自衛権の行使容認を含む安全保障関連法案に関する質問では、全員が「憲法9条違反」と明言したという。これは、近時まれなる痛快事ではないか。
参考人は、自民・公明・次世代の3党が推薦した長谷部恭男、民主党が推薦した小林節、維新の党推薦の笹田栄司の3氏。樋口陽一・杉原泰雄・浦部法穂・山内敏弘などの違憲論を述べると予想される大御所連ではない。安全パイと思われての出番であったろう。とりわけ、長谷部恭男がその役割であったと思われる。
周知のとおり、長谷部恭男とは、特定秘密保護法の原型を形つくった、「秘密保全のための法制の在り方に関する有識者会議」5人のひとりである。2011年1月から6月にかけて、6回の会合を開き、同年8月8日に「秘密保全のための法制の在り方について」と題する報告書をまとめた。秘密保全法制検討の会議にふさわしく、会議の経過はヒ・ミ・ツ。議事録の作成はなかったという。その会議の中枢にあって、特定秘密保護法案が国会提出となってからも、積極的な推進論者であった。当然のごとく、衆議院の特別委員会で自民党推薦の参考人として特定秘密保護法に賛成の意見を述べている。
また、小林節とは、長く改憲論を唱える憲法学者として孤塁を守った人物。この人の著書のタイトルが、「憲法守って国滅ぶ」(1992年)、「そろそろ憲法を変えてみようか」(小林節・渡部昇一共著、2001年)、「憲法、危篤!」(小林節・平沢勝栄共著、200年)と言うのだから、推して知るべし。もっとも、最近の安倍政権の解釈改憲路線に対する批判は鋭い。護憲的改憲論者なのか、改憲的護憲論者なのかよくわからないが。
そして、笹田栄司。司法制度の研究者として知られる人だというが、この人が、憲法9条や安保法制についてどのような発言をしているかはほとんど知られていないだろう。推薦者が維新というのも、どんな見解を述べるのかまったく推測不可能。その意味では、最も適格な参考人であったかも知れない。
長谷部は、集団的自衛権の行使容認について「憲法違反だ。従来の政府見解の基本的枠組みでは説明がつかず、法的安定性を大きく揺るがす」と指摘。「外国軍隊の武力行使と一体化する恐れが極めて強い」と述べた、という。(この部分産経による)
これは事件だ。与党(自・公、おまけに次世代まで含めた3党)が招いた憲法学者が、政府提出の法案を違憲と明言したのだ。安全パイが、「ロン!」と当たってしまったのだ。前代未聞のことであろう。痛快きわまりない。
法案作りに関わった公明党の北側一雄は「憲法9条の下でどこまで自衛措置が許されるのか突き詰めて議論した」と理解を求めた。だが、長谷部氏は「どこまで武力行使が新たに許容されるのかはっきりしていない」と批判を続けた、と報道されている。長谷部という人、御用学者と思っていたが、研究者としての信念を持っていると見直さざるを得ない。
小林も、「憲法9条は海外で軍事活動する法的資格を与えていない。仲間の国を助けるために海外に戦争に行くのは憲法違反だ」と批判した。明快この上ない。また、政府が集団的自衛権の行使例として想定するホルムズ海峡での機雷掃海や、朝鮮半島争乱の場合に日本人を輸送する米艦船への援護も「個別的自衛権で説明がつく」との見解を示した、という。護憲論でも改憲論でもなく、解釈論ならこうなる以外にない、ということなのであろう。
そして、笹田。従来の安保法制を「内閣法制局と自民党が、(憲法との整合性を)ガラス細工のようにぎりぎりで保ってきた」と説明し、「今回、踏み越えてしまった」と述べた、という。推薦した維新はどう思ったのだろうか。想定のとおりの発言と受け止めたのか、それとも予想外のこととして驚いたろうか。
いずれにしても、専門研究者からの「法案は違憲」の指摘である。今後の審議への影響がないはずはない。まったく影響ないのなら、参考人質疑という制度自体が無意味ということになる。
さっそく官房長官が会見でフォローを試みた。
「憲法解釈として法的安定性や論理的整合性が確保されている」としたうえで、「まったく違憲でないという著名な憲法学者もたくさんいる」と述べた、とのこと。これは、ハッタリというしかなかろう。こんなことを言うから、なおのこと政府の狼狽が見えてしまうのだ。
おそらくは、「違憲でないという憲法学者もいる」だけなら、おそらくウソではないだろう。しかし、「まったく」を付ければもうウソだ。「著名な」も「たくさんいる」もみんな根拠がない。どんな憲法学者が、政府与党のチョウチンを持とうというのか。明確にして欲しいものだ。
一方、法案が憲法に違反し、重大な問題をはらんでいるとする憲法学者は、上記の3人以外に、少なくも171人はいる。明治大学の浦田一郎教授ら6人が3日、国会内で会見して明らかにした憲法学者声明の賛同者数である。法案を合憲と主張する憲法学者が存在したとしても絶対少数。無視してよい程度。どの世論調査においても、法案反対派が多数を占める。どうやら、内閣と国会だけが、世論とねじれた存在になっているのだ。
安倍クン、無理押しは、安倍内閣の存立危機事態を招くことになるぞ。
(2015年6月4日)
なんと私自身が被告にされ、6000万円の賠償を請求されているDHCスラップ訴訟の次回口頭弁論期日は明日4月22日(水)となった。13時15分から東京地裁6階の631号法廷。誰でも、事前の手続不要で傍聴できる。また、閉廷後の報告集会は、東京弁護士会507号会議室(弁護士会館5階)でおこなわれる。集会では、関連テーマでのミニ講演も予定されている。どなたでも歓迎なので、ぜひご参加をお願いしたい。私は、多くの人にこの訴訟をよく見ていただきたいと思っている。そして原告DHC吉田側が、いかに不当で非常識な提訴をして、表現の自由を踏みにじっているかについてご理解を得たいのだ。
DHC会長の吉田嘉明は、私の言論を耳に痛いとして、私の口を封じようとした。無茶苦茶な高額損害賠償請求訴訟の提起という手段によってである。彼が封じようとした私の言論は、まずは、みんなの党渡辺喜美に対する8億円拠出についての政治とカネにまつわる批判だが、それだけでない。なんのために彼が政治家に巨額の政治資金を提供してたのか、という動機に関する私の批判がある。私は当ブログにおいて、吉田の政治家への巨額なカネの拠出と行政の規制緩和との関わりを指摘し、彼のいう「官僚機構の打破」の内実として機能性表示食品制度導入問題を取り上げた。
この制度は、アベノミクスの第3の矢の目玉の一つである。つまりは経済の活性化策として導入がはかられたものだ。企業は利潤追求を目的とする組織であって、往々にして消費者の利益を犠牲にしても、利潤を追求する衝動をもつ。だから、消費者保護のための行政規制が必要なのだ。これを桎梏と感じる企業においては、規制を緩和する政治を歓迎する。これは常識的なものの考え方だ。
私は2014年4月2日のブログを「『DHC8億円事件』大旦那と幇間 蜜月と破綻」との標題とした。以下は、その一節である。これが問題とされている。
たまたま、今日の朝日に、「サプリメント大国アメリカの現状」「3兆円市場 効能に審査なし」の調査記事が掲載されている。「DHC・渡辺」事件に符節を合わせたグッドタイミング。なるほど、DHC吉田が8億出しても惜しくないのは、サプリメント販売についての「規制緩和という政治」を買いとりたいからなのだと合点が行く。
同報道によれば、我が国で、健康食品がどのように体によいかを表す「機能性表示」が解禁されようとしている。「骨の健康を維持する」「体脂肪の減少を助ける」といった表示で、消費者庁でいま新制度を検討中だという。その先進国が20年前からダイエタリーサプリメント(栄養補助食品)の表示を自由化している米国だという。
サプリの業界としては、サプリの効能表示の自由化で売上げを伸ばしたい。もっともっと儲けたい。規制緩和の本場アメリカでは、企業の判断次第で効能を唱って宣伝ができるようになった。当局(FDA)の審査は不要、届出だけでよい。その結果が3兆円の市場の形成。吉田は、日本でもこれを実現したくてしょうがないのだ。それこそが、「官僚と闘う」の本音であり実態なのだ。渡辺のような、金に汚い政治家なら、使い勝手良く使いっ走りをしてくれそう。そこで、闇に隠れた背後で、みんなの党を引き回していたというわけだ。
大衆消費社会においては、民衆の欲望すらが資本の誘導によって喚起され形成される。スポンサーの側は、広告で消費者を踊らせ、無用な、あるいは安全性の点検不十分なサプリメントを買わせて儲けたい。薄汚い政治家が、スポンサーから金をもらってその見返りに、スポンサーの儲けの舞台を整える。それが規制緩和の正体ではないか。「抵抗勢力」を排して、財界と政治家が、旦那と幇間の二人三脚で持ちつ持たれつの醜い連携。
「大衆消費社会においては、民衆の欲望すらが資本の誘導によって喚起され形成される」とはガルブレイスの説示によるものだ。彼は、一足早く消費社会を迎えていたアメリカの現実の経済が消費者主権ではなく、生産者主権の下にあることを指摘した。彼の「生産者主権」の議論は、わが国においても消費者問題を論ずる上での大きな影響をもった。ガルブレイスが指摘するとおり、今日の消費者が自立した存在ではなく、自らの欲望まで大企業に支配され、操作される存在であるとの認識は、わが国の消費者保護論の共通の認識ー常識となった。
また、消費者法の草分けである正田彬教授は次のように言っている。
「賢い消費者」という言葉が「商品を見分け認識する能力をもつ消費者」という意味であるならば、賢い消費者は存在しないし、また賢い消費者になることは不可能である。高度な科学的性格をもつ商品、あるいは化学的商品など、複雑な生産工程を経て生産されたものについてだけではない。生鮮食料品についてすら、商品の質について認識できないのが消費者である。消費者は、最も典型的な素人であり、このことは、現在の生産体系からすれば当然のことである。必然的に、消費者の認識の材料は、事業者―生産者あるいは販売者が、消費者に提供する情報(表示・広告などの)ということにならざるを得ない。消費者は、全面的に事業者に依存せざるをえないという地位におかれるということである。
このような基本認識のとおりに、現実に多くの消費者被害が発生した。だから、消費者保護が必要なことは当然と考えられてきた。被害を追いかけるかたちで、消費者保護の法制が次第に整備されてきた。私は、そのような時代に弁護士としての職業生活を送った。
それに対する事業者からの巻き返しを理論づけたのが「規制緩和論」である。「行政による事前規制は緩和せよ撤廃せよ」「規制緩和なくして強い経済の復活はあり得ない」というもの。企業にとって、事業者にとって消費者規制は利益追求の桎梏なのだ。消費者の安全よりも、企業の利益を優先する、規制緩和・撤廃の政治があってはじめて日本の経済は再生するというのだ。
アベノミクスの一環としての機能性表示食品制度、まさしく経済活性化のための規制緩和である。コンセプトは、「消費者の安全よりは、まず企業の利益」「企業が情報を提供するのだから、消費者注意で行けばよい」「消費者は賢くなればよい」「消費者被害には事後救済でよい」ということ。
本日発売のサンデー毎日(5月3日号)が、「機能性表示食品スタート」「『第3の表示』に欺されない!」という特集を組んでいる。小見出しを拾えば、「国の許可なく『効能』うたえる」「健康被害どう防ぐ」「まずは食生活の改善 過剰摂取は健康害す」などの警告がならぶ。何よりも読むべきは、主婦連・河村真紀子事務局長の「性急すぎ、混乱に拍車」という寄稿。「健康食品をめぐる混乱は根深く、新制度によるさらなる被害」を懸念している。これが、消費者の声だ。
この問題で最も活発に発言している市民団体である「食の安全・監視市民委員会」は4月18日に、「健康食品にだまされないために 消費者が知っておくべきこと」と題するシンポジウムを開催した。その報道では、「機能性表示食品として消費者庁に届け出した食品の中には、以前、特定保健用食品(トクホ)として国に申請し、「証拠不十分」と却下されたものも交じっている」との指摘があったという(赤旗)。まさに、企業のための規制緩和策そのものだ。
あらためて「合点が行く」話しではないか。消費者の安全の強調は、企業に不都合なのだ。私は、そのような常識をベースに、サプリメント製造販売企業オーナーの政治資金拠出の動機を合理的に推論したのだ。消費者の利益を発言し続ける私の口が、封じられてはならない。
(2015年4月21日)
本日の朝刊に掲載された小さな記事。朝には見落として、夕方に気が付いた。世間の耳目を引かないようだが、私にはいささかの関心がある。
「慰安婦報道:『朝日新聞は名誉毀損』8749人が賠償提訴」というベタの見出し。
「朝日新聞の従軍慰安婦報道によって『日本国民の名誉と信用が毀損された』などとして、渡部昇一・上智大名誉教授ら8749人が26日、同社を相手取り、1人1万円の賠償と謝罪広告掲載を求めて東京地裁に提訴した。訴状によると、原告側が問題視しているのは、朝日新聞が1982〜94年に掲載した『戦時中に韓国で慰安婦狩りをした』とする吉田清治氏(故人)の証言を取り上げた記事など13本。『裏付け取材をしない虚構の報道。読者におわびするばかりで、国民の名誉、信用を回復するために国際社会に向けて努力をしようとしない』などと訴えている。
朝日新聞社広報部の話 訴状をよく読んで対応を検討する。」(毎日)
世の中は狭いようで広い。こんな訴訟の原告団に加わる「名誉教授」や、こんな提訴を引き受ける弁護士もいるのだ。この奇訴にいささかの興味を感じて、訴状の内容を読みたいものとネットを検索したが、アップされていない。靖国関連の集団訴訟などとの大きな違いだ。
それでも、「『日本国民の名誉と信用が毀損された』として、朝日を相手取り、賠償と謝罪広告掲載を求めて東京地裁に提訴した」というメディアの要約が信じがたくて、当事者の言い分で確かめたいと関連サイトを検索してみた。
「頑張れ日本!全国行動委員会」という運動体が提訴の委任状を集めており、姉妹組織「朝日新聞を糺す国民会議」が訴訟の運動主体のようでもある。これらを手がかりに検索を重ねても訴状を見ることができないだけでなく、請求原因の要旨すら詳らかにされていない。法的な構成の如何にはまったく関心なく、原告の数だけが問題とされている様子なのだ。勝訴判決を得ようという本気さはまったく感じられない。
ようやく3人で結成されている弁護団のインタビュー動画にたどり着いた。3人の弁護士が語ってはいるが、その大半は「訴訟委任状の住所氏名は読めるようにきちんと書いてください」「郵便番号をお忘れなく」「収入印紙は不要です」「委任の日付は空欄にしてもかまいません」などと細かいことには熱心だが、請求原因の構成については語るところがない。「朝日がいかに国益を損なったか」という政治論だけを口にしている。ここにも、真面目な提訴という雰囲気はない。
永山英樹という右派のライターが、次のように提訴記者会見での原告団の言い分をまとめている。おそらくは、訴状を読んでのことと思われる。
「日本の官憲による慰安婦の強制連行という朝日の宣伝により、旧軍将兵、そして国民は集団強姦犯人、あるいはその子孫という汚名を着せられ、人格権、名誉権が著しく損なわれた。日本の国家、国民の国際的評価は著しく低下して世界から言われなき非難を浴び続けている。たしかに虚報を巡って朝日は「読者」に対し反省と謝罪の意は表明した。しかし捏造情報で迷惑を被ったのは「読者」だけではないのである。国際社会における国家、国民の名誉回復の努力も一切していない。そこで朝日新聞全国版で謝罪に一面広告を掲載することと、原告に対する一万円の慰謝料の支払いを求めるのがこの訴訟なのだ」
どうやらこれがすべてのようだ。これでは、そもそも裁判の体をなしていないといわざるを得ない。
この提訴は、訴権濫用により訴えそのものが却下される可能性が極めて高い。訴訟の土俵に上げてはもらえないということだ。訴え提起が民事訴訟制度の趣旨・目的に照らして著しく相当性を欠き信義則に反する場合には、訴権濫用として、訴えを却下する判決は散見される。このような信義則に反する場合としては、?訴え提起において、提訴者が実体的権利の実現ないし紛争の解決を真摯に目的とするのでなく、相手方当事者を被告の立場に立たせることにより訴訟上または訴訟外において有形・無形の不利益・負担を与えるなどの不当な目的を有すること、および?提訴者の主張する権利または法律関係が、事実的・法律的根拠を欠き権利保護の必要性が乏しい、ことが挙げられている。
今回の集団による対朝日提訴は、まさしくこの要件に該当するであろう。
さらに、提訴が訴権の濫用に当たることは、却下の要件となるだけでなく、提訴自体が朝日に対する不法行為を構成する可能性もある。そのときは原告すべてに不法行為による損害賠償責任が生じることになる。通常8749人に損害賠償の提訴をすることは事務の繁雑さと郵送料の負担とで現実性がないが、本件では反訴なのだから好都合だ。反訴状は正副各1通だけで済むし、送達費用はかからない。当事者目録は原告側が作ったものをそのまま利用すればよい。朝日にとってはお誂え向きなのだ。
朝日を被告としたこの訴訟は不法行為構成であろうが、何よりも各原告に、「権利または法律上保護される利益の侵害」がなくてはならない。「国益の侵害」や「日本国民の名誉と信用が毀損された」では、そもそも訴えの利益を欠くことになって、私的な権利救済制度としての民事訴訟に馴染まないことになる。この点で訴訟要件論をクリヤーできたとしても、法律上保護される利益の侵害がないとして棄却されることは目に見えているといってよい。
さらに誰もが疑問に思うはずの、時効(3年)と除斥期間(20年)について、原告側はどのようにクリヤーしようとしているのか、とりわけ除斥期間は被告の援用の必要はない。訴状に何らかの記載が必要だし、原告を募集するについて重要な説明事項でもある。しかし、この点についてはなんの説明もないようだ。
この訴訟は新手のスラップだ。勝訴判決によって権利救済を考えているのではない。ひたすらに朝日に悪罵を投げつける舞台つくりのためだけの提訴ではないか。本来の民事訴訟制度は、こんな提訴を想定していない。
朝日は、早期結審を目指すだけでなく、提訴自体を不法行為とする反訴をもって対抗すべきではないか。負けて元々の提訴で、相手を困らせてやれ、という訴訟戦術の横行を許してはならないと思う。
(2015年1月27日)
元日と2日、久しぶりに医療過誤訴訟の訴状を起案している。ようやく、ほぼ完成近くまでになった。近々、正月休み明けに提訴することになる。依頼者の承諾を得たので、敢えてその冒頭の一章を、当事者を特定しないかたちで掲載する。
世人の目を惹く大事件ではない。訴額も高くはない。しかし、当事者本人にとっては人生を左右しかねない大事件。そして、誰もが経験しうる医療への不信不満の問題点をよく表している、象徴的事件ではないだろうか。
理念としては、患者の人権の侵害をいかに回復するかを課題とする訴訟である。医師・医療機関との関係において弱者の立場となる患者の側に立って、その人間としての尊厳をどのように保護すべきか、という問題でもある。
もっと分かり易く表現すれば、「一寸の虫にも五分の魂」がテーマなのだ。人間である患者には、五分では納まらない魂がある。自尊心とも、矜持とも言い換えることができよう。医師や医療機関は、ルーチンワークとなってしまった日常の診療行為の中で、この当然のことを時に忘れることがあるのではないか。
起案中の訴状の依頼者は若い女性。とある大病院での研修医2名の動脈血採血の実験台とされて、採血失敗から神経を損傷されて2か月もの入院を余儀なくされた。この間に、職を失ってもいる。ところが、この大病院の副院長は、患者に向かって、「研修医の彼らは何も悪くありません、普通の青年です」「あなたの体に問題があって、このようなことになりました」などといい、さらに「あなたの態度に問題があったからこうなったんじゃない?自業自得だよね」とまで言ってのけたのだ。こう言われて怒らない方がおかしい。私は、話を聞いて依頼者と一緒になって大いに怒った。「あなたの私怨でしかない」などと聞き流す輩がいれば、その連中にも腹が立つ。
ここからは私の忖度だが、この副院長の思いは、洋々たる未来が約束されている研修医2名の将来だけに向けられている。その青年の未来の輝きに較べれば、患者となった20歳の女性店員の人生などは問題にならないという不遜な思いがあったのではないだろうか。大所高所に立って、副院長として、将来性ある医師らのために、患者を説得しようと考えたのであろう。高圧的な態度で接することによって、患者にものを言っても無駄たと思わせ、あきらめるよう仕向けたのではなかったか。
「医師の職業人生の出発点を汚すようなことは望ましくない。だから、あなたには騒いでほしくない。おとなしく身を退いていただきたい」。言外にそのような差別的な傲慢さを感じざるを得ない。
私はこの依頼者の怒り心頭がよく理解できる。しかも、この若い依頼者は、単に怒っているだけでない。私と打ち合わせを進める中で、記憶を整理し、自分の思いを反芻しつつ、次第に自分の怒りの根拠と正当性に自信を深めてきている。そのことが小気味よく、こちらが励まされている。
この依頼者は、「同じような事件は、他にもあるのではないか。このままでは同じような病院の傲慢がまかり通って、患者の被害が繰り返される」として、「自分の実名を挙げてもかまわないから、新聞記事として取り上げてもらいたい」と、某新聞社に顛末を投稿までしている。活きのよい五分の魂がキラキラ光っているではないか。さて、今度はメディアの人権感受性が試されている。
人権も人権侵害も、そして人権の擁護も、抽象的な問題ではない。常に具体的事件の中でのみ表れる。弁護士の仕事は、そのような人権に関わるひとつひとつの事案において、被害者とともに人権を救済することにある。
その原点は、人権侵害に対する怒りを被害者とともに共有することにあるのだと思う。怒ることはエネルギーを要するしんどいことではあるが、この「人権感受性」を失ったら弁護士は終わりだ。私は、まだ沸き上がる怒りを持ち続けていることを誇りに思う。
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(以下で被告とは、病院開設である法人をいう)
第1 事案の概要と特徴
1 研修医による単純な医原性傷害事故(「過失1」)
本件は、近時まれな典型的医原性医療過誤事件である。その加害態様は、医療過誤事件というよりは研修医による患者に対する単純な過失傷害事件と表現するにふさわしい。本件の責任論は、被告病院の研修医が未熟で乱暴な医療行為によって原告の大腿神経損傷の傷害を与えたという単純なものである。
到底単独で医療行為に従事する技量を持たない未熟な2人の研修医が、指導医不在の際に4回にわたって患者(原告)に対する動脈血採血を試みて失敗し、患者の大腿神経を損傷した。本件では、この過失傷害行為を「過失1」とする。
結局研修医らは採血に至らず、原告の強い懇請で研修医に替わった看護師がなんなく採血を行ったが、結果としてこの採血は原告に対する診療に何の役に立つものでもなかった。原告は、無益無用な医師の行為によって重篤な神経損傷の障害を得て、被告病院での2か月間の入院を余儀なくされ、退院後の現在も回復に至っていない。訴状提出の現在、症状未固定で後遺障害の程度は未確定である。
この間、原告は無収入の生活を強いられ、その上失職もして、経済的な困窮は甚だしい。
2 副院長の暴言に象徴される事故対応の不誠実(「過失2」)
近時、本件のごとき単純な医原性事件は訴訟事件とならない。医療機関が責任を認め、謝罪と賠償ならびに再発防止策を構築することによって患者の被害感情を慰謝するのが危機管理の常道として定着しつつあるからである。
ところが、本件における被告の原告に対する事故後の対応は、これまた近時の医療の世界において信じがたい不誠実極まるものであった。
被告は研修医の採血による原告への神経損傷の事実は認めながらも、責任を否定して原告の経済的困窮による生活補償を拒絶した。そればかりか、交渉担当責任者となった副院長は原告に対して、「研修医の彼らは何も悪くありません、普通の青年です」「あなたの体に問題があって、このようなことになりました」などと申し向け、挙げ句の果てには「あなたの態度に問題があったからこうなったんじゃない?自業自得だよね」との暴言まで吐いている。この副院長の暴言に象徴される被告の不誠実な事故対応を「過失2」とする。
本件は、医療機関が患者に対して負う医療事故を起こした場合の誠実対応義務の不履行が、それ自体で独立した違法な過失行為として損害賠償請求の根拠となることの判断を求めるものである。
以上のとおり、本件は上記2点を特徴とする医療過誤損害賠償請求訴訟である。
(2015年1月2日)
東北新幹線の車窓からの冬晴れの富士がこのうえない目の愉しみ。大宮を過ぎてしばらくは、冠雪のその姿がことのほか大きく美しかった。残念ながら盛岡は雪景色。岩手山は盛岡の町を覆う雪雲のなかに隠れて見えなかった。その雪雲の下の盛岡の某所で、三陸沿岸の各地から集まった「浜の一揆」の首謀者たちの密議が行われた。
かつての一揆の謀議はどのように行われたのだろうか。密告者の耳や目をおもんばかって、厳重な秘密会だったに違いない。どのように連絡を取りあい、どんな場所で会合をもったのだろうか。その苦労がしのばれる。今、我々の「浜の一揆」に格別の秘密はない。この作戦会議を地元のメディアに公開してもいっこうに差し支えない。この真剣で活発な討議の様子を行政にも、浜の有力者にも見せてやりたい。
サケは岩手沿岸漁業の基幹魚種である。そのサケを一般漁民は捕獲することができない。うっかりサケを捕獲すると「密漁」となり、県条例で「6月以下の懲役若しくは10万円以下の罰金に処せられる。刑罰を科せられるだけでなく、漁業許可の取り消しから漁船・漁具の没収にまで及ぶ制裁が用意されている。だから、網にサケがかかれば、もったいなくも海に捨てなければならない。これほど厳重に、一般漁民はサケ漁から閉め出されているのだ。
サケを獲っているのはもっぱら「漁協」と「浜の有力者」である。漁法はケタ違いに大規模な定置網漁。漁協が必ずしも漁民の利益のための組織となっていない実態があり、浜の有力者が不当に利益をむさぼっているボス支配の現実がある。
震災・津波の被害のあと、三陸沿岸漁業の復興の過程で、この浜の現状は漁民にとって耐えがたいものとなり、「漁民にサケを獲らせよ」という浜の一揆の要求になり、運動になった。この「浜の一揆」は三陸復興における大事件である。地域経済上の問題でもあり、民主主義の問題でもある。地元メディアが、もっと関心を寄せてしかるべきではないか。
今、岩手県知事宛に、俺たちにもさけを獲らせろと、「固定式刺し網によるサケ漁の許可」を求めている小型船舶所有漁民が101人。近々、もう少しその人数は増えることになる。人数がそろったところでどうするか、今日はその作戦会議なのだ。
私が口火を切って、いろいろと意見が交わされる。
「どうも県の担当課には緊迫感が感じられない。相変わらず、漁民が陳情や請願を繰り返しているとでも思っているのではないか。行政不服審査法に基づく審査請求から行政訴訟提起への行動に踏み出したのだということをよく理解しているのだろうか」
「それは、分かっているようだ。担当課長は『裁判はなんとか避けたい』とは言っている。『それなら許可を出せばよいことだ』と返答すると、『それでは、漁連が納得しない。なんとか、漁連が納得するような方法を考えてくれ』と言う」
「県は、けっして我々の要求が間違っているとか、できないことだとは言わない。漁連と話し合ってくれというだけなのだ。でも、それは行政にあるまじき逃げの姿勢でしかない。県は態度を決めなければならない」
「仮に行政が不許可なら裁判で争おうというこれまでの方針でよいと思う」
「ただ、裁判をすること自体が目的ではない。サケを捕れて、生計が立つようにすることが目的なのだから、早期にその目的を実現する方法があれば、その方がよい」
「『最終手段としては裁判を』という基本はしっかりと確認しながら、行政との交渉で要求が通るものなら、それも考慮の余地はあるのではないか」
「裁判では、県知事の不許可決定が違法として取り消されるか否かの二者択一しかない。しかし、県との交渉であればいろんな案を検討して、どこかに落ち着けることも可能だ」
「これまで要求してきた、TAC(漁獲総量規制)とIQ(個別漁獲量割当)を具体化して政策要求とすることはどうだろうか」
「判決に代わる落としどころとして『岩手版IQ』を漁民自身が提案し、これを実現するとなれば、画期的なことではないか」
「漁業の将来を考え、水産資源保護をもっとも真剣に考えているのは行政でも漁連でもなく私たちだ。けっして乱獲にならないような自主規制によって、漁業の永続を考えてのIQ提案なのだ」
「たとえば、TACはとりあえず過去3年の漁獲量の平均として定める。固定式刺し網にはその漁獲高の20%を割り当てる。」
「固定式刺し網と限定せず、延縄でも刺し網でも、小型漁船漁民に20%で良いのではないか」
「そうすると大型定置の取り分は、これまでの100%から80%に減ることになるだろうか」
「実際には減らないのではないだろうか。固定式刺し網の漁期を秋に限定するのは一案ではないか。この時期、サケは水温の低い沖のやや深いところを回流していて定置にはかからない。この時期に沖合の小規模の固定式刺し網漁は、岸に近い大型の定置網漁と競合しないはずだ」
「相互扶助という観点から『IQ』よりは『ITQ』(譲渡性あるIQ)の方が魅力がある。漁師が病気になって漁に出られないときは一時的にその権利を譲って凌ぐようにできればありがたい」
「病気だけでなく『漁運』というものもある。たまたま不漁の時に、他の好漁の人に枠を融通できれば便利だ」
「譲ることができる相手は、同じ小型船舶の漁民ということに限定しておかないと、大きな資本に買荒らされることになりかねない。歯止めをしっかりしておこう」
「そのような案を具体化し、請求人団として、代理人の弁護士を先頭に県との交渉をしよう。その際には、きちんとマスコミにもレクチャーをしておこう」
「一人くらいは、本気で漁業の問題を取材する記者も現れるのではないか」
「そこまでやって県がだめだというのなら、裁判をすればよいことだ。その腹はもう固まっている」
意見はまだまだ続いた。充実した3時間の議論。田野畑村から押し出した、かの三閉伊一揆のあのときの謀議の雰囲気もこのようだったのではなかろうか。
(2014年12月19日)