悪名高き「10・23通達」に基づく懲戒処分は457件に及ぶ。その関連訴訟は、まだまだ続いている。この訴訟は、国旗・国歌の評価をめぐる訴訟でもなければ、「日の丸・君が代」の歴史認識をめぐる訴訟でもない。ひとえに、「国旗・国歌」あるいは、「日の丸・君が代」の強制が許されるか否か、というだけの訴訟なのだ。
その本質は、個人と国家との憲法価値の優劣をめぐる争いである。すべての憲法訴訟において、実質的にそれぞれの憲法価値相互の衡量が行われる。本件において衡量されているものは、「個人の尊厳」と「国家の存立」という各憲法価値にほかならない。法的には、その衡量の帰趨は自明であるにかかわらず、この正確な衡量を狂わせているものがある。それがナショナリズムである。
本件の訴えは、「原告らに対する国旗・国歌への敬意表明の強制が許容されるのか」というシンプルな問に回答を求めるもの。
この問への回答のために衡量の対象とされるものの一方は、敬意の表明の強制対象である国旗・国歌。国旗・国歌ともに国家の象徴として、国家と等価の関係にあるものと意味づけられている。したがって、秤の一方に載せられるものは国家そのものの憲法価値である。「国家への敬意という価値」と言ってもよい。
もう一方の秤に載せるものは、国旗国歌への敬意表明の強制を受け容れがたいとする教員個人の尊厳であり、個人の思想良心の自由という人権としての憲法価値である。国家と対峙する個人が自らの尊厳という憲法価値を認めるよう裁判所に求めているのだ。
一方に「国家」を、他方に「個人」をおいた秤の衡量の結果は、本来であれば、「個人」の方が「国家」よりも遙かに重いことが明白である。近代立憲主義の大原則においては、個人が前国家的な存在であり、国家が後個人的存在であるのだから、これは当然のこと。
ところが、学校現場ではそうなっていない。行政もそのようには考えない。さらには、裁判所も、そのようにシンプルに考察することに躊躇を隠さない。国と個人との憲法価値の正確な衡量を妨げる要因があるからである。それが強力なナショナリズムの作用にほかならない。
ナショナリズムは、国民を統合する機能をもっている。その故に、為政者に親和性がある。また、ナショナリズムは国民多数派の心情でもある。多数派が、政権を形づくる原則においては、政権がナショナリズムに親和的であることは理の当然。したがって、政権を握った為政者は、意識的にナショナリズムを涵養する。その極端な例のひとつが、戦前の日本であった。
かつて、天皇制政府の教育政策は国粋的なナショナリズムを鼓吹した。日本は神国であって、他国に優越した存在であることが強調された。戦前の国策として意識的に涵養されたナショナリズムは、一面国民を統合することに成功した。しかし、その過剰なナショナリズムは、対外的には排外主義となり、侵略戦争と植民地主義の温床となった。対内的には、ナショナリズムに熱狂しない少数者を非国民とする非寛容の思想となって、思想良心の自由を侵害し、政治弾圧や宗教迫害の温床となった。
戦後民主主義は、排外的ナショナリズムを払拭したはずだった。ところが今、日本の社会には過剰なナショナリズムが復興しようとしている。戦前とまったく同じ「日の丸・君が代」を国旗国歌とする法律を作り、学校現場で「日の丸・君が代」への敬意表明を強制していることがその象徴的なできごとである。
ナショナリズムには、国民を熱狂させる力がある。国家への統合に国民の精神を総動員するエネルギーを秘めている。国家との関係を醒めた理性で見つめる人に対して、愛国的な行動に同調を求める強力な圧力となっている。
ナショナリズムは、国家を特別に重要で敬意を表すべき存在であるとする。尊崇に値するものとさえ考える。国旗国歌についても、同様にこれを重大なものとして扱い、すべての国民に対して、これに敬意を表明することを強要する。
ナショナリズムによる国旗国歌への敬意表明要求は、社会的同調圧力として存在するにとどまらず、多数決原理の下、容易に政治権力に転化する。こうして、政治権力がナショナリズムを鼓吹する悪循環が生じる。10・23通達を発出した東京都の例は、その最悪の実例である。
ナショナリズム鼓吹派は常に多数派で、ナショナリズムに同調しない人々は常に少数派である。すべての国民が国旗国歌に敬意を表明すべきことは当然と考える人々が多数派で、不起立不斉唱でこれに抵抗する人々は少数派である。関連訴訟は、そのような社会的背景の中で生じ、そのような背景の中で権利回復を求めた争訟が展開されている。
言うまでもなく、人権の擁護は、少数派の人権の擁護であることに実質的な意味がある。多数派が思想弾圧を受けることはない以上、思想良心の自由とは常に「権力(=多数派)が憎む少数派の思想の自由」である。多数派には思想良心の自由の保障は実質的に無用である。
多数派の社会的同調圧力は多数決原理の介在によって、強制力をもつ公権力の命令に転化する。10・23通達と、同通達にもとづく職務命令とはそのようにして、教員の人権を脅かしている。
多数派は、国旗国歌に敬意を表しない少数派の思想や良心は許し難いとする。個人の単位で思惟し行動する原則を認めず、国民としての思想や行動の統合を求めることがナショナリズムの本来的な志向である。行政は、ナショナリズムを背景に、多数派の意思を権力を発動して実行した。そのような文脈において、今、司法の役割が問われている。
司法がナショナリズムという「多数派の意思」に動揺してはならない。司法は、飽くまで人権の砦としての役割を果たさなくてはならず、多数決原理に迎合してこれに追随してはならない。多数派の少数者に対する同調圧力の不当を看過して、これを容認するようなことがあってははならない。司法がその役割を果たさなければ、ナショナリズムの非理性的な熱狂は、対外的には容易に排外主義となり、対内的には異論を許さない非寛容な非国民排除の社会を再現することになりかねない。ナショナリズムという危険物の扱いを過てば、日本国憲法の前文が痛苦の反省の対象とした歴史を繰り返すことにつながりかねない。
革新陣営総体が上り坂で強いとき、裁判所は保守反動の役回りとなる。革新派の勢力が十分でないとき、人権擁護の歯止めを裁判所に期待せざるを得ない。人権擁護の立場を貫徹することが、結果としてナショナリズムの歯止めとなる。10・23通達関連訴訟をそのような展望をもっつものとして関わっていたいと思う。
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*籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
*経営委員会は、籾井勝人会長を罷免せよ。
*百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
*経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任を勧告せよ。
よろしくお願いします。
(2014年3月3日)
安倍政権の「国家主義的日本改造」プランの重要な柱のひとつが「教育再生」。再生の用語には、戦後レジーム以前の戦前への回帰願望が透けて見えている。今、その具体策として教育委員会制度「改革」の法案を今月(3月)中に国会上程の予定で、自・公の与党内摺り合わせが進行中と報じられている。またまた例のごとく、公明党のマイナーチェックによって自民党案の大筋が法案となりそうな雲行き。今国会の大きな争点の一つとなりそうだ。
この法案は、戦後改革の重要テーマであった「教育改革」の成果を否定しようとするもの。「戦後教育改革」とは、国家による教育を否定し、教育への国家・公権力の介入を防止することを主眼とするもの。少しずつ後退を余儀なくされて来た制度を一段と改悪し、教育委員会制度をほとんど形骸化することがはかられている。自民党案は、国家や自治体首長の公権力が教育へ直接介入する道を大きく開くものである。
戦前においては、教育とは国家が望む国民を作りあげることだった。国家の大目標が「富国・強兵」にあった以上、教育の目的は、「富国」を支える従順で良質の労働力を養成すること、心身ともに頑健で上官の命令に服従する「強兵」を供給することにあった。天皇制国家は、全国の教場で、国家の存立を支える国体イデオロギーを臣民の子女にたたき込んだ。全国民を対象とするマインドコントロールこそが戦前教育であったと言って過言でない。
敗戦によって事態は一変した。偏頗な非合理的イデオロギーに基づく天皇制は瓦解し、個人の尊厳と民主主義が指導原理となった。大日本帝国憲法とともにあった教育勅語は失効し、日本国憲法に「教育を受ける権利」が位置を占め、教育基本法が制定された。47年教育基本法には、清新にして格調高い以下の前文が付されていた。時代の雰囲気と国民の関係者の熱い思いをよく伝える文章。
「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。」
戦前教育についての最大の反省点は、「国家が直接教育を行った」ことにあった。国家による教育を防止し、国家の教育への支配介入を阻むために、いくつもの障壁が設けられた。まずは、教育と教育行政とを分離し、教育に関して行政のなすべきことを教育条件の整備に限定し、教育の内容に介入してはならないとした。それでも、教育行政が教育内容に介入する恐れは払拭できない。そこで、教育行政は、国家ではなく地方自治体の任務とし、さらに教育行政を一般行政から区別して、自治体の首長から独立した教育委員会を地方教育行政の主体とした。自治体の首長は住民多数の意向を体現する立ち場にあるが、こと、教育行政に限っては時々の多数派の意向から中立でなくてはならないという原則を重視した制度設計だった。
こうして、教育基本法の理念を実現するために、1948年4月教育委員会法が制定されて、全国の自治体に、公選制による教育委員会が設置された。全国の自治体にくまなく地方議会が設置されているのと同様、全国にくまなく選挙による教育委員会が設置された。国家の教育への介入は、地方分権と、教育行政の独立と、さらに地方教育行政といえども教育内容には介入できないとする原則と、3重の障壁を設けて警戒されたと言ってよい。その制度の中心に、教育委員会が位置していた。
しかし、住民の公選による教育委員会制度は戦後の保守政権確立の過程で挫折する。1956年には、教育委員を公選とせず、議会の同意を得て首長が任命することになった。法律の名前も、教育委員会法から地教行法(地方教育行政の運営に関する法律)に変わった。
教育委員会制度は、戦後レジームの重要な構成部分である。1956年制度改変後もなお、教育委員会は国家による教育統制の防波堤であり、地方自治体の首長の教育への介入にも一定の役割を果たしてきた。全国学力テスト参加に反対を貫いた犬山市教育委員会の例などにみられるとおり、不十分ながらも、国家の教育介入へのコントロールとブロックの装置となりうる。なり得ることが、予防の機能も果たしてきたといえよう。安倍政権には、このコントロールとブロックが目障りでしょうがない。これをなくしてしまいたいのが、彼らの本音。
2013年3月現在で、文科省がまとめた教育委員会制度についての各党の意見分布は以下のとおりである。
※自由民主党
・首長が議会の同意を得て任命する「常勤」の「教育長」を教育委員会の責任者とするなど、教育委員会制度を抜本的に改革。
・いじめの隠ぺいなど、法令違反や児童生徒の「教育を受ける権利」の侵害に対しては、公教育の最終責任者たる国が責任を果たせるよう改革。
※公明党
・いじめや不登校問題など学校現場の様々な問題に対応するため、委員選定や委員会の権限をはじめとする教育委員会の在り方を抜本的に見直し、その機能強化を図る。
・学校ごとの裁量を広げ、教員の創意工夫を奨励する制度を推進。
※民主党
・コミュニティスクール(土曜授業も含む)を更に増やす。
・地方教育行政法を見直し、現在の教育委員会制度を見直す。
※日本維新の会
・教育制度改革(教育委員会制度の廃止を含む)
※みんなの党
・地方自治体の判断により教育委員会を設置するか否かを決定できるようにする等、地域の実情に応じた教育行政が展開できる環境整備
・教育は市町村、現場の学校に任せることを基本とし、国の役割は最低限の教育水準の維持にとどめ、地域の実情に合わせたユニークな教育の実施
・学校を地域社会に開放し、地域社会の核に。学校経営も保護者・住民・教育専門家等による運営委員会で実施。
※社会民主党
・教育委員会の在り方を抜本的に見直し、機能を強化。
・学校ごとの裁量を広げ、教職員の自発的取組が生かされるよう制度を整備。
・地方教育委員会に予算権を付与し、地域の実態を反映した教育計画の立案・推進を可能にする等、教育の民主化の推進。
※共産党
・教育への政治支配をやめさせる。
・民主的な学校運営、住民参加の学校づくり(教育委員の公選、学校への住民参加)
以上をみれば、「教育委員会制度の理念を再確認して活性化の方策をとる」方向か、「教育委員会の形骸化を制度的に追認して教育行政の権限を首長に移行する」方向かと、争点を整理することができよう。
今回の自民党案については、ペーパーとしてまとまったものに接することができない。各紙の取材内容として報道されているものを読むしかないのだが、各紙の報道を要約すれば、以下のとおり。
?首長に、教育行政全体についての中心的権限を委譲。
?首長主宰の会議を新設し、首長の権限を強める。
?教育長を責任者と位置づけ、首長が直接任免する。
?文科大臣の教育委員会に対する「是正要求」などの権限を強化。
結局、自民党案においては、教育委員会の形は残されるが、本来期待された公権力・政治権力からの教育介入防波堤としての役割は実質において失われる。
安倍政権も、そして石原や橋下などの地方権力も、そのやり口は「選挙に勝ったからには、我こそ民意」として、民意が教育に介入して何が悪いかと開き直っているのだ。時々の多数派によって形成された時の権力が、権力の望むところの教育を行ってはならない。
教育委員会制度「改革」は、戦後教育改革の原点を忘れて、教育の政治的中立性の原則を蹂躙するものである。
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☆抗議内容の大綱は
*籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
*経営委員会は、籾井勝人会長を罷免せよ。
*百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
*経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任を勧告せよ。
よろしくお願いします。
(2014年3月2日)
本日は、3・1ビキニデー。1954年3月1日、「ブラボー」とふざけた名を付けられた水爆実験による第五福竜丸の被災から60周年。その「記念のつどい」は盛況だった。メインの企画は三宅榛名さんのピアノコンサートと、池内了さんの記念講演。そして、マーシャル共和国大使や被爆者団体などの各界挨拶。
核爆発だけではなく、放射線被害への警告が今日の集いのメインテーマとなった。ヒロシマ・ナガサキとフクシマとを結ぶ位置に、第五福竜丸の被害がある。期せずして、60周年記念行事はそのことを確認する機会となった。
池内さんは、「M to M」と「N to N」という2対の標語を披露して、人類にとっての放射線の危険を語り、原発の稼働があってはならないことを力説した。
「M to M」とは、「Mt(メガトン)からMkwh(メガキロワット) へ」という意味。「核技術は、核爆発から核エネルギーへとシフトされた」「同じ技術同じ危険が、核爆弾から原発へと形を変えている」という含意。
「N to N」とは、「Nuclear to Nature」。「エネルギー供給を原発頼りにすることはやめて、自然エネルギーに切り替えよう」という意味。「日本は資源小国というが、それは地下資源のこと。太陽や海や風のエネルギーには恵まれている」「原発事故は絶対にあってはならないのだから、地震や津波の国日本での原発稼働はあり得ない」「自然エネルギーの開発を」「それこそが、人類と資源のサスティナビリティを確保する道」という説得力のある講演だった。
2月20日多喜二祭でのノーマフィールドさんの講演を思い出す。レジメに基づいた話しのなかで、都知事選の争点に絡む話題として、「生命」と「生活」の乖離が語られた。本来長いスパンでの生命を維持し擁護することが人にとって最も大切なこと。しかし、今日の生活を脅かされている人にとっては、そのような悠長なことは言っておられない。明日の生命よりは今日の生活を重視せざるを得ない。状況がそうさせている以上、今日の生活を選択する人を責めることはできない。
明らかに、原発への対応を念頭においてのこと。曖昧さを残した語り口で、必ずしも論旨明確ではなかった。私は次のように理解した。
今、脱原発こそが人類の生存のために最重要の課題。人類史的で文明史的な課題でもある。本来、都知事選のテーマとして他の課題とは比較にならない重要性をもっているはず。しかし、そのような主張は必ずしも選挙民の要求にフィットしたものとはならない。長いスパンの生命の維持よりは、今日の生活が大切ではないか、というのが多くの選挙民の声なのだから。
おそらくは、彼女は、心情的には細川護煕候補に肩入れしつつ、しかし、脱原発のシングルイシューの訴えでは票が取れない、そう思っていたのだろう。理念派からの支持は期待できても、今日の生活の改善を要求する現実派からの支援を獲得することができない。結局はそのことで敗れた、そう分析しているのだ。
本日の毎日「メディア時評」欄に、王寺賢太という論者が、「舛添・細川両氏の公約が『原発の部分を黒塗りすれば見分けが付かない』(都幹部の話し)」と引用している。しかし、細川を支持した理念派有権者にとっては、まさしく「原発の部分」の訴えこそが、死活的に重要だったのだ。
本日の「3・1ビキニ」の集いは、理念派の集会という雰囲気。まさしく長いスパンの人類の明日のために、語り合う集いとなった。核爆弾も原発もなくそう。核の軍事利用も平和利用もやめよう。経済的な豊かさよりは、平和と安全をえらぼう。確実な未来のためなら、乏しさはガマンをしよう。飽食しなくてもよい、腹7分目で十分ではないか。私には、得心の行く内容の集会だった。
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(2014年3月1日)
昨日(2月27日)舛添要一新都知事の定例記者会見が行われ、その全文の記録がネットで読める。URL配下のとおり。
http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/KAIKEN/TEXT/2014/140227.htm
興味深いことには、知事が10・23通達や処分の問題について語っている。もちろん、知事の側から積極的に切り出したものではない。質疑応答の中で、果敢に切り込んだ記者の質問に応じてのもの。慎重な口調ながら、石原や猪瀬とは明らかに異なる対応。今回会見の発言内容には理解不足が目立つものの、もう少し事実を知ってもらえたら、もう少し教員側の意見に耳を傾けてもらえたら、またもう少し人権や民主主義の基本原則からこの問題を考えてもらえたなら、石原・猪瀬の時代とは違った舛添流教育行政となるのではないか。
舛添さんの発言のさわりをいくつか抜き出して、コメントをしたい。
【知事発言】…国旗国歌法、これは国会できちんと通りました。それから、もうご承知のように、広島の学校の校長先生が自殺するという事件があって、あの当時、国会議員だった野中広務さん含めて、これはおかしいじゃないかっていうことで、国旗国歌法を定めたと。だから、憲法のもとにある国旗国歌法、これは日本国民である限りは、それはきちんと守らないといけません。それがまず大前提で、もちろん公務員はそれを守らないといけない。
【澤藤コメント】「憲法のもとにある国旗国歌法、これは日本国民である限りは、それはきちんと守らないといけません」は、まったく意味をなさない。舛添さんも、この会見碌を読み直して、「まずいことを言っちゃった」と思っているはず。国旗国歌法は、国旗のデザイン(日章旗)を定める第1条と、国歌のメロディと歌詞(君が代)を定める第2条の2か条だけからなる法律。掲揚義務も斉唱義務も、もちろん尊重義務もない。うっかり法案に国旗国歌尊重義務などを盛り込んだら、憲法問題を生じることとなり、反対世論が昂揚して法案は成立しえない、という政府の読みがあったからだ。だから「きちんと守らないといけません」という、守るべき規範がそもそもない。おそらく、舛添さんは国旗国歌法をきちんと読み込んだことがない。
「日本国民である限りは、それはきちんと守らないといけません。それがまず大前提で、もちろん公務員はそれを守らないといけない」という発言は、もしかしたら、彼は法を読まずして間違った思い込みをしているのかも知れない。国旗国歌法を根拠として国民には旗と歌の尊重義務があり、公務員には強制可能なのだと。明らかな間違い。誰かが教えてあげなければならない。その機会は、都議会の質疑か、記者会見の席かということになるのだろう。
また、舛添さんの「日本国民である限りは、それはきちんと守らないといけません」という説教調が気になるところ。知事の仕事は、説教を垂れることではない。しかも、憲法遵守義務は、天皇や首相や知事自身に説くべきで、国民に説くべきものではない。さらに、言っていることが、「日本国民である限りは、国旗国歌への敬意表明はきちんと守らないといけません」に聞こえる。しかし、国旗国歌法は、日本国民の誰にも、なんの命令も要望もしていないのだ。
【知事発言】それから、…処分の中身は適当であったかどうかと、これはもう最高裁の判決があるわけですから、その判決に従うと、司法に従うということは、これは三権分立の国として当然あると思います。
【澤藤コメント】間違っていることを言っているわけではないが、行政の長の言として適切さを欠く。三権分立の理念の把握も浅薄だと言わざるを得ない。
知事発言には、権力の発動である行政処分が不当に人権を侵害することのないよう慎重な配慮を要するとの姿勢を感じ取ることができない。処分の謙抑性や慎重さではなく、積極性だけが強調されて、事後的に司法判断において違法とされればその判断に従えばよいだけだ、と言っている。
我が国の司法が、立法や行政に対する違憲審査権を持ちながら、その権限の行使に極めて消極的なことはよく知られた事実である。だから、知事としては、「いやしくも最高裁から、『違法な処分だから取り消す』という不名誉極まる判決を言い渡されることなどなきよう、慎重な配慮が必要」と部下にも都民にもいうべきなのだ。「最高裁からの違法判断の判決があれば、それに従えばよい」などというのは無責任な居直りに過ぎない。
【知事発言】それから、10.23通達含めて、これからどうするかっていうのは、これは少しまた検討課題で時間をいただきたいと思います…。その不起立懲戒処分がどうなんだろうかということについては、…重過ぎるのか低過ぎるのか…これ、もう少し事務方含めて、都教委がどういう判断であるかっていうのを直接やっぱり聞かないとわかりません。その上で、今言ったご質問にもどう対応するかを考えたいと思ってます。
【澤藤コメント】なかなかに期待を抱かせる発言ではないか。その文言のまま受けとって、10・23通達の見直し、少なくも処分濫発の見直しに期待したい。石原教育行政では、また石原後継を称する猪瀬教育行政でも、舛添さんのような率直な見解にはなり得ない。
【知事発言】私は…やはり国旗に対してきちんと敬意を払う、国歌に対してもきちんと起立して歌うということは、私は当然だと思ってますから、それ以外の解釈あるとすれば、まさにその解釈こそ、司法の場に委ねればいいと思ってますけど、ま、そういうふうに思ってます。
【澤藤コメント】おやおや、自由主義者で個人主義の理解者であるはずの舛添さんから、こんな俗論が飛び出すとは思ってもみなかった。東京オリンピックを主宰する立ち場となったから、こんな発言となったのだろうか。「私が、国旗・国歌に対して敬意を払うべし」という意見をもっていることはわかった。問題は、そのことにはない。論理がそこから幾段も飛躍するところにある。「自分だけではなく、すべての国民が国旗国歌に敬意をはらうべきが当然である」。さらに、「国旗国歌に敬意をはらうよう公権力によって強制することも当然」となっているのだ。
憲法とは、究極において国家と個人との関係をどう規律するかの規範である。少なくとも、憲法が最大の関心とするところは、権力の主体としての国家と人権主体としての個人との関係にほかならない。個人を先国家的な存在とし、国家を後個人的な存在とする憲法は、個人の国家観を当然に多様なものと認める。国家の都合で個人の国家観が制約され統制されることはあり得ない。主権者である国民個人の意思で国家がつくられたのだから、当然といえばあまりに当然。
主権者によってつくられた国家が、主権者である国民に対して、自らの象徴である国旗国歌への敬意表明を強制することは、背理であり矛盾であり、倒錯である。そんな出過ぎたことは国家に許容されてはいないのだ。
果敢な記者の質問が明らかにしてくれたことは、舛添さんは、国旗国歌法についても、また自民党の改憲草案の国旗国歌尊重義務条項についても、10・23通達についても、関連訴訟の最高裁判決についても、ほとんどご存じないようであること。是非とも、自由主義者・個人主義者としての舛添さんの本領を発揮して、頑迷固陋な国家主義が固化した石原教育行政の残滓を洗い流していただきたい。
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滝の氷柱よさようなら、春の凱旋行進曲のお通りだい
今年、にわかの雪国となってしまった関東地方では、慣れない雪と氷に嫌というほど苦しめられた。それでも一昨日あたりから、気温が上昇して一息ついている。春めいたと喜んでいる人もいるけれど、雪を楽しむ余裕のある北国では、気温が上がって美しい景色が台無しになって残念がっている人もいる。青森県西目屋村の「乳穂ケ滝(におがたき)」では25日朝、滝が高さ33メートルの氷柱になって地面に到達した。しかし、午後には暖気でその氷柱は崩落してしまった。同村の観測によると氷柱の命はたった5時間だったそうだ。
岩手県花巻市石鳥谷町の「たろし滝」(13メートル)も一度地面に届いた氷柱が、雨で崩落してしまった(2月11日)。「たろし」は「垂氷(たるひ)」が変化したもので「つらら」の意味。両方の滝は地元の保存会が毎年、氷柱の太さを測って、その年の米の作柄を占っている。毎年氷柱ができるわけではなく、やっとできた氷柱の命も短い。関係者はハラハラしながら見守っている。楽しみなお祭りでもあり、観光行事でもある。ここに限らず、北国の各地には、雪や氷の美しい造形をお国自慢にしているところがたくさんあるに違いない。
しかし季節はめぐり、さしもの冬将軍も春のほほえみの前にはしぶしぶながら退席を覚悟したようだ。例年どおり、伊豆の河津川は濃いピンクの河津桜と黄色い菜の花の花づなで華やかに飾られた。カレル・チャペックは春の喜びを次のように語っている。
「『それ!』というあの神秘な掛け声が鳴りわたったらしい。朝のうちはまだかたい襁褓(むつき)につつまれていた芽が、柔らかい葉先をおしだして、レンギョウのしなやかな枝にきらりと小さな金の星がひかり、梨のふっくりした芽がすこしひらき、何の芽かわからないが、その先にみどりをおびた金色の蕾がかがやいていた。ねばねばした鱗片からは、若々しいみどりが顔を出し、ふとった芽がひらきかかって小さな葉脈と小さなたたみ目のやさしい透かし細工が押し合って出ようとしていた。赤くなってはにかむことはないのだ。たたんだ扇を開くがいい。うぶ毛をはやしてねむっている芽よ、目を覚ませ。スタートの命令がもう出たのだ。楽譜にのらない行進曲の、はなやかなラッパを吹き鳴らすがいい!日をうけて光れ、金色の金管楽器。とどろけ、太鼓。吹け、フリュート。幾百万のヴァイオリンたちよ、おまえたちのしぶき雨をまきちらすがいい。茶色と緑のしずかな庭が凱旋行進曲を始めたのだ」(「園芸家12カ月」カレル・チャペック)
冬の寒さに閉じこもって、今年も壮大な氷雪の美しさをみすみす見逃してしまったけれど、めぐりきた春のさそいなら、うけて立てそうだ。コートを脱ぎ捨てて、お花見に行こう。おっとその前に、NHKの籾井さん、百田さん、長谷川さんおやめなさい。花見の酒がまずくなる。
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(2014年2月28日)
2012年12月16日総選挙で、安倍晋三政権が誕生してから1年と2か月。この政権は、従来の保守政権とは明らかに様相を異にする。旧来の保守本流に位置していた人たちからも、その極端な危うさを指摘する声が高い。
いま、安倍政権が、比較的高い支持率で「安泰」なのは、アベノミクス効果と喧伝される経済政策によるものである。しかし、そのメッキも剥がれ始めたとする、説得力のある論説が目につくようになってきた。
アベノミクス崩壊以前に、被告人安倍晋三の大罪を俯瞰しておきたい。一応、「12の大罪・7つの被害」としてみた。別の視点もあるだろうし、見落としもあろう。それでも、安倍政権、いつまでも続けさせておくわけにはいかない。
第1の罪 明文改憲の罪
明文改憲によって、国防軍創設・天皇元首化・基本的人権の抑え込みをたくらむほか、96条先行改憲論に象徴される立憲主義への飽くなき攻撃こそ最大の罪。
第2の罪 解釈改憲の罪
集団的自衛権行使容認の強行や武器輸出解禁の姿勢に表れているとおり、改憲手続きを迂回して憲法の理念を実質的に破壊する罪は重い。
第3の罪 特定秘密保護法制定の罪
国民の知る権利を奪って民主主義の基盤を破壊するだけでなく、立法にも司法にも、秘密保護の枷をはめて三権分立を形骸化する大きな罪だ。
第4の罪 靖国神社参拝の罪
国家神道否定のための政教分離原則を蹂躙して軍国神社に額ずくことは、戦後の国際秩序への挑戦としても、罪は限りなく深い。
第5の罪 教育破壊の罪
教育基本法改悪の前科に続いての再犯。政治や行政から独立していなければならない教育を、権力の下僕にしてしまおうという執念の教育委員会制度改革の罪。
第6の罪 NHKともだち人事の罪
自らの分身をNHKに送り込み、公共放送を意のままに乗っ取ろうという、天の許さざる露骨な悪事。
第7の罪 原発再稼動と輸出の罪
3・11で顕在化した恐怖、利権構造、政策決定過程の密室性は、脱原発の澎湃たる天の声を呼び起こした。再稼動と輸出とは、人類の未来に対する大罪である。
第8の罪 労働法制改悪の罪
限りなく大企業・財界の思惑を偏重した労働法制は、限りなく労働者の貧困化を招くばかり。不安定雇傭の創出は、日本社会を暗黒化する重罪である。
第9の罪 福祉切り捨ての罪
すべての人に対する人としての生活の保障こそが、国家と政治の存在理由である。容赦なく福祉を削ることは政治の基本と人倫に背く罪である。
第10の罪 TPP交渉参加の罪
農業や漁業を潰し、外国企業のために消費者利益も、国民の裁判を受ける権利すらも売り渡そうとする交渉に、公約に反して参加した罪は深い。
第11の罪 消費税増税の罪
大企業と金持ちに大幅な減税、庶民には大幅増税。税制がもつ富の再分配機能を否定して逆進性顕著な消費増税の強行には怨嗟の声が世に満ちる。
第12の罪 辺野古新基地建設強行の罪
沖縄県民の立ち場でアメリカと交渉するのではなく、アメリカの立ち場で沖縄に基地を押し付け、新たな基地被害をつくり出す重罪。
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安倍晋三による国民の7つの被害
※危うくされたものは平和
近隣諸国を敵視し国民を煽って緊張を高め、それを口実に軍備を増強をたくらむ。安倍政権が続く限り、平和が危うい。
※傷つけられたものは歴史の真実
侵略戦争と植民地支配に対する反省を欠き、破廉恥な歴史の修正を厭わない。その結果、歴史の真実が傷つけられている。
※奪われたものは民主主義
特定秘密保護法案の審議過程で明らかになったものは、国民の知る権利にだけでなく、民主主義そのものに対する敵視の姿勢。いま、民主主義が奪われている。
※損なわれたものは国際的信用
原発の放射線被害は、「コントロール下にあり、ブロックされている」と平気で嘘をついた。靖国神社参拝も歴史修正主義も国際的な信用を損なっている。
※痛めつけられたものは国民の生活
消費増税・福祉切り捨て・労働者の切り捨ては、国民生活を痛めつけ格差と貧困を拡大している。
※害されるものは国内の産業
TPP交渉で、獲得しようとしているのは工業製品の売り込み先。切り捨てようとしているのが、農漁業と消費者利益。
※断ち切られたものは日本の未来
「教育再生」の名による教育の破壊は、洋々たる青少年の未来を、戦争の危険と貧困格差そして不安な社会という絶望に変える。
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NHKに対する「安倍首相お友だち人事」への抗議を
☆抗議先は以下のとおり
※郵便の場合
〒150-8001(住所記入不要)NHK放送センター ハートプラザ行
※電話の場合 0570?066?066(NHKふれあいセンター)
※ファクスの場合 03?5453?4000
※メールの場合 http://www.nhk.or.jp/css/goiken/mail.htmlに送信書式
☆抗議内容の大綱は
*籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
*経営委員会は、籾井勝人会長を罷免せよ。
*百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
*経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任を勧告せよ。
よろしくお願いします。
(2014年2月26日)
1945年8月6日。世界で初めて核爆弾が人の住む街で爆発し、一瞬にして10万余の人を殺した。人類史はこの日を永遠に忘れることができない。この日、人類は、自殺の能力を自らのものとしたことを自覚したのだ。
さらに、1954年3月1日。ヒロシマ型ウラン爆弾の1000倍の破壊力をもつ水素爆弾が南太平洋ビキニ環礁で爆発した。その近くでマグロ漁に従事していた第五福竜丸の乗組員23人が死の灰を浴びて被曝し、そのうちの一人、無線長だった久保山愛吉さんがその半年後の9月23日に亡くなった。この3月1日も、けっして忘れてはならない。人類は何千回も自殺できる。爆発だけでなく、放射能汚染でも滅亡しうるのだ。
その日から、今週の土曜日3月1日でちょうど60年。当時、私は小学4年生だった。第五福竜丸母港の焼津にほど近い清水市内に住んでいた。ガイガー計数管の測定で放射能に汚染された「原爆マグロ」は廃棄された。放射能の雨にあたらぬように注意され、たいへん不安な思いをしたことを憶えている。
我が国の国民的な原水爆禁止運動は、広島・長崎の被爆直後から起こったものではない。ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験によって日本漁船の乗組員が被曝した、この事件をきっかけに始まり、大きく盛りあがった。このときに、核爆発の破壊力への恐怖ばかりではなく、放射線への恐怖が多くの人の意識の底に沈潜した。それが今、反原発運動の原点となっている。
1954年のうちに、東宝が「ゴジラ」をつくって、空前の大当たりとなった。国民の反原水爆感情へのフィットがあったからだろう。また、5年後の1959年には、新藤兼人が『第五福竜丸』という映画をつくっている。久保山愛吉役を宇野重吉が演じて、作品の評価は高かった。
公益財団法人第五福竜丸平和協会は、被曝60周年を迎えるに際して、次のようにメッセージを発している。
「第五福竜丸。皆さんはこの船の名をご存知ですか?
60年前の3月1日、太平洋ビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験で吹き上げられた「死の灰」により、第五福竜丸乗組員やマーシャル諸島の人々が被ばくし、さらに多数の船舶に被害を与え、広範な海洋・大気が放射能で汚染されました。
ビキニ水爆被災事件は、原水爆の脅威と地球規模の環境破壊の危険を明らかにしました。それから60年を迎えるいま、私たちは福島第一原子力発電所事故がもたらした危険にも直面しています。
ビキニ事件を機に人びとは、広島・長崎の被爆体験にも根ざした原水爆反対の世論と国民的運動を大きく高揚させ、それは世界へとひろがり国際的な潮流となりました。「ラッセル=アインシュタイン宣言」に示された警告にこたえ、戦争も兵器もない世界を作り出す努力がさまざまな形でつづけられてきましたが、人類はいまだに核の脅威から解き放たれてはいません。
ビキニ水爆被災から60年。この事件が問いかける意義を今日に活かし、核による惨禍とその非人道性・違法性に対する理解をいっそう深め、放射能被害の課題と向き合い、明日への希望につなげることを切に願うものです。
『知らない人には、心から伝えよう。忘れかけている人には、そっと思い起こさせよう』。船を残そうとの呼びかけが多くの人びとを動かしました。それは、核なき未来を希求する合言葉です。私たちの希望がかなうその日まで……第五福竜丸は航海をつづけます。」
私は、同公益財団法人の監事を務めている。皆様に、協会が行う「60年記念プロジェクト」へのご賛同とご協力をお願いしたい。
<3・1ビキニ 第五福竜丸60記念のつどい>
日時:2014年3月1日(土)
午後2時開演(開場1時30分、終演4時30分)
会場:日本青年館・中ホール
入場料:2000円(学生1000円、中学生以下無料)
■記念コンサート「第五福竜丸の記憶のために」
作曲家・ピアニスト 三宅榛名さん…「第五福竜丸の記憶のために」と題された自作の新曲演奏。
■記念講演会「宇宙的視点から考える?ヒトと地球と空と核」
天文学者 池内了さん…水爆実験による放射線被ばくにピリオドを打つべく人びとは声を上げる。核なき明日への希望を…宇宙的視野から考える。
◇チケットのお申込みは第五福竜丸平和協会まで。
電話03?3521?8494、メールでもOK。
http://d5f.org/kinkyou.htm#1391757264_19682
お誘い合わせて、ご来場ください。
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NHKに対する「安倍首相お友だち人事」への抗議を
☆抗議先は以下のとおり
※郵便の場合 〒150-8001(住所記入不要)NHK放送センター ハートプラザ行
※電話の場合 0570?066?066(NHKふれあいセンター)
※ファクスの場合 03?5453?4000
※メールの場合 http://www.nhk.or.jp/css/goiken/mail.htmlに送信書式
☆抗議内容の大綱は
*籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
*経営委員会は、籾井勝人会長を罷免せよ。
*百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
*経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任を勧告せよ。
よろしくお願いします。
(2014年2月24日)
東京に、いまだ残雪。しかし、季節は確かな「光りの春」。湯島から上野の界隈には、梅やマンサクが咲き、カンザクラまで開いていた。不忍池周辺では柳が芽を吹き、春はもうすぐの風情。
日曜の午後。作品撤去要請問題で話題となった、「現代日本彫刻作家展」を観ようと、東京都美術館に足を運んだ。しかし、展示期間は一昨日(2月21日)で終了していた。残念。
東京新聞の1月19日朝刊報道によれば、事件の顛末は以下のとおり。
『東京都美術館(東京都台東区上野公園)で展示中の造形作品が政治的だとして、美術館側が作家に作品の撤去や手直しを求めていたことが分かった。作家は手直しに応じざるを得ず「表現の自由を侵す行為で、民主主義の危機だ」と強く反発している。
撤去を求められたのは、神奈川県海老名市の造形作家中垣克久さん(70歳)の作品「時代(とき)の肖像?絶滅危惧種」。…特定秘密保護法の新聞の切り抜きや、「憲法九条を守り、靖国神社参拝の愚を認め、現政権の右傾化を阻止」などと書いた紙を貼り付けた。代表を務める「現代日本彫刻作家連盟」の定期展として15日、都美術館地下のギャラリーに展示した。
美術館の小室明子副館長が作品撤去を求めたのは翌16日朝。都の運営要綱は「特定の政党・宗教を支持、または反対する場合は使用させないことができる」と定めており、靖国参拝への批判などが該当すると判断したという。中垣さんが自筆の紙を取り外したため、会期が終わる21日までの会場使用は認めたが、観客からの苦情があれば撤去を求める方針という。
小室副館長は取材に「こういう考えを美術館として認めるのか、とクレームがつくことが心配だった」と話す。定期展は今回で7回目だが、来年以降、内容によっては使用許可を出さないことも検討するという。』
美術や芸術を一面的に定義づけて、政治や宗教と切り離そうとすることに無理がある。政治も宗教も、そして芸術も、人間の存在の根源と深く関わるが故に、相互に分かちがたく結びつき切り離しがたい。作家の個性こそが美術や芸術の本質なのだから、行政が個々の作品について「政治的」「宗教的」とレッテルを貼ることは、それ自体が作家の表現活動への不当な制約となろう。ましてや、それ故に展示を拒否することは、公権力の違法な行使とならざるをえない。
古来、平和を願い戦争を憎む芸術は、明らかに政治的メッセージ性を有するが、同時に人間存在の根源と結びつくものとして、その芸術性を疑うものはない。たとえば「ゲルニカ」や「原爆の図」は、作者の反戦の政治的メッセージと芸術的個性とが融合したものとして受け容れられている。「政治的であるが故に非芸術」などという愚かな批判はない。
現代の日本社会に生きる作家の個性が、時代の危険な空気を敏感に察知して、自分の作品に平和の危機を象徴するメッセージを書き付けることがあっても、事情はまったく同様である。行政が、「政治的であるが故に非芸術」などと言ってはならない。「政治的」というレッテルを張ることこそ、真の意味で「極めて政治的」な行為なのだ。
また、「靖国神社参拝の愚」「憲法九条を守り」「現政権の右傾化を阻止」などのメッセージが、「特定の政党を支持、または反対する場合」に該当する訳がない。
東京新聞の取材のとおり、美術館側の本音は、「クレームがつくことが心配だった」ということにある。これが時代の空気であり、皮肉なことに、作品の撤去を求められた作家の感覚の的確さを裏付けるものとなった。
しかし、行政は、「クレームがつくことが心配だった。だから作品の撤去を求める」と言ってはならない。「クレームがつくことが心配だった。だから万全の配慮で作品を守る措置を講じる」と言わねばならなかった。
教員組合や労働組合が主催する集会に関して、各地の地方公共団体が右翼の襲撃等のおそれがあるとして会場の使用不許可処分を行うことがある。自治体が組合を嫌悪しているわけではない。「クレームがつくことが心配」だというのだ。しかし、最高裁は、これらの処分を原則違法としている。行政には、実力で言論を封じようという右翼の襲撃から集会を防御して、憲法21条の表現の自由を擁護すべき責任があるのだ。
その典型判例が、上尾市福祉会館使用許可事件最高裁判決(1996年3月15日)。最高裁はこう言っている。
「主催者が集会を平穏に行おうとしているのに、その集会の目的や主催者の思想、信条等に反対する者らが、これを実力で阻止し、妨害しようとして紛争を起こすおそれがあることを理由に公の施設の利用を拒むことができるのは、前示のような公の施設の利用関係の性質に照らせば、警察の警備等によってもなお混乱を防止することができないなど特別な事情がある場合に限られるものというべきである。ところが、前記の事実関係によっては、右のような特別な事情があるということはできない。なお、警察の警備等によりその他の施設の利用客に多少の不安が生ずることが会館の管理上支障が生ずるとの事態に当たるものでないことはいうまでもない。」
当該の作品展示に対して、右翼的心情をもつ来館者からクレームがつく「多少の不安」が生ずることは予想されるところ。これが、作品撤去の口実に使われてはならないことは、いうまでもない。是非とも、東京都美術館にも、そのような気概を堅持していただきたい。
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上野公園花便り
なかなか最高気温が10度に届かない。まだまだ寒い。雪も融けずにあちこちに残っている。
けれども、公園には子どもたちの声がはじけている。日が長くなって、春はもうすぐだ。「不忍池」のまわりのシダレヤナギの木が全体に黄緑色になってけむってきた。枝を手元に引き寄せて、仔細に眺めてみれば、ふしふしに若芽が膨らんでいる。春を運ぶ樹液が枝枝のすみずみまで行き渡るトクトクという音が聞こえるようだ。
紅梅も白梅もちょうどいい五分咲きだ。メジロが花粉にまみれて、枝から枝へと遊び回っている。おや、「上野動物園の入り口」あたりに、桜も咲いている。薄いピンクの五弁のカンザクラだ。
「五条神社」の境内にはフクジュソウの花が太陽のようにキラキラ咲いている。クリスマスローズの花も咲いた。梅もほどよく香っている。「清水寺の舞台」の下にはマンサクの黄色い花も満開だ。クラッカーがはじけたように、細長い花弁が外に向かって飛び出している。春になると「マンズサク」花で、雪国の人が待ち望んでいる気持ちがよく分かる。
「湯島天神」の梅は何だか精彩がない。まだ蕾が多くて五分咲きで、まさに見頃だが、梅の花より人が多い。受験シーズンのかき入れ時。いたるところ合格祈願、合格御礼の絵馬が山のようにぶら下がっている。さすが梅の木にではなく所定の場所に。昔は梅の枝にビッシリとオミクジが結びつけられていたが、今はオミクジは売られていない。あまりの人混みで、梅の香りはしなくて、たこ焼きの臭いが充満している。ここ湯島天神の春は受験の悲喜こもごもの思いと混ざり合ってやってくる。
(2014年2月23日)
悪名高い都教委の10・23通達。その通達に基づいた、教員への「日の丸・君が代」強制はまだ終わりを見ない。既に処分件数は457件だが、まだまだ続きそう。そして、この強権行政に対する闘いも終わらない。
本日は、東京都人事委員会での口頭公開審理。2010年?12年に処分されて人事委員会に審査請求している教員のうち8人が意見陳述を行った。それぞれが極めて個性豊かに、「日の丸・君が代」の強制に服することができない理由を語った。教育者としての信念や真摯さが、痛いほどに伝わってくる。とりわけ、障がい児教育、定時制あるいは「荒れた」生徒に向かいあう教師たちの陳述が胸を打つ。
また、異口同音に語られたのは、10・23通達後10年の教育の荒廃である。校長も教員も、教育を語らなくなった。ただただ、上命下服の行政だけが語られている。卒業式の主人公は生徒ではなくなった。その座は「日の丸・君が代」が象徴する国家に取って代わられている。都教委の監視下に、管理職はなによりも「日の丸・君が代」強制の貫徹を最重要の課題としている。不服従の教員には、徹底した嫌がらせが行われる。「もはや都教委が行政としての正常な感覚を失い、民間でいうところの『ブラック企業』に身を落としている」とまで言われた。
そして幾人もが、改憲と教育破壊を志向する、安倍政権の動向を憂れえた。「再び教え子を戦争に送ってはならない。それが自分の教員としての出発点だった。今こそ、初心に返って、子どもの将来を守るために、この危険な動向と対峙しなければならない」と決意が語られた。みんなが、他の人では語れない自分の言葉で語った。
さらに、教育行政による教育への露骨な支配・介入が語られた。ある教員の陳述書には、「話し合おうとしない人たちへ」というタイトルが付されていた。「話し合おうとしない人たち」とは東京都教育委員のことである。「話し合うということは、とりわけ教育の世界では大切なこと。話し合うことのできる人間を育てることが教育のおおきな目標と言ってもよい。話し合うことが、争い解決の唯一の手段なのですから」という立ち場からの問題提起。
「学校では、たとえ生徒の稚拙な論理であってもじっと耳を傾け、一緒に考え、理解しあう努力をしなければなりません。一方的な強制は、生徒の人間としての成長には良い影響をもたらしません。かつての教育現場は、卒業式に限らず学校行事の企画・運営については教職員の間で実にさまざまな意見が出され、充実した話し合いがなされてきました」
「ところが、10・23通達以来の10年間、学校現場では、職員会議での賛否を問うことすら禁止され、ひたすら上意下達の徹底が図られ、話し合うということが無くなりました。話し合いに代わるものが、教育の世界にあるまじき問答無用の命令と服従なのです」
「10・23通達とは、現場での話し合いを拒否して、問答無用で行政が教育に介入しようというもの。まさしく教育基本法のいう「不当な支配」そのものです。教育に携わる者が権力に支配されてはならない。権力をもつ者が直接的に教育を支配することの危険性は、歴史からいやというほど学んだではありませんか」
「正しいことでも間達った内容でも、権力が教育に介入することは絶対に避けなければならないことです。まして、10・23通達のように、独断にもとづき、話し合いすら否定するものは、現代の社会においては認めてはなりません」
また、石原慎太郎やその後継をもって任じた猪瀬直樹の罪の深さに触れつつ、こんな陳述もなされた。
「新しい都知事を迎えて、教育委員会は今までどおりの教育行政を惰性的に継続するのでしょうか。人事委員会は私たちへの処分をこのまま認めるのでしょうか。誤りを糺すよい機会ではありませんか」
舛添要一新都知事についての教育現場からの評価は、まだ定まっていない。少なくも、石原のような極右ではなさそうだ。猪瀬のように石原都政に縛られる立ち場でもない。教育の自由や、教育行政の謙抑性や、公権力がイデオロギーを持ってはならない、という常識くらいは弁えていよう。市民的な思想・良心の自由尊重の姿勢も、石原・安倍よりは、ずっとマシなのではないか。もしかしたら、「ブラック官庁・都教委」の変身のチャンスなのかも知れない。
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ラン(藍)藻が作るバイオプラスチック
プラスチックを作る藻があるなんて、植物好きには見逃せない。2月20日の毎日は、理化学研究所(理研)が、ラン藻の遺伝子を改変して、従来の10倍も効率のよいバイオマスプラスチック生産に成功したと報じた。
「ラン藻」とは植物ではないらしい。藍色っぽい緑色をしたバクテリアで、植物のように、葉緑体が光と二酸化炭素から酸素を発生して光合成を行う。もとは植物の藻類に分類されていたので、名前に藻がつく。単細胞生物は植物であるか動物であるかの区別が難しい。
日本では1960年代頃からプラスチック製品が日用品として使われるようになり、今では身近にあふれかえっている。塩ビ製の雨樋、水道管、ペットボトル、ポリエチレン製の袋、家電製品やコンピューターの外枠など。大変便利なものだが、大きな問題を抱えてもいる。これらプラスチック製品は有限な石油から作られる。また、腐敗しないので廃棄が難しい。
そこで追及されたのが、石油ではなく生物から合成される「バイオマスプラスチック」や自然に分解される「生分解性プラスチック」だ。ところが、強度や耐熱、耐久性が低い。加工が難しい。原料(生ゴミ、稲わら、海藻、サトウキビ、トウモロコシなど)が高価だ。ポリマー化が難しい。これらが原因となって、石油からできるプラスチックに較べると価格が3?5倍になり、太刀打ちができない。
そこに登場したのが、バイオマスプラスチックの原料となるポリヒドロキシ酪酸(PHB)である。「ラン藻」が光とCO?を使ってPHBを光合成してくれる。そうなればCO?が削減できる。自然に腐って水と有機物になるので、廃棄物処理も容易である。ダイオキシンの発生もない。頭の痛い地球規模の環境問題の一端が解決できる。
今回の理研の発表によれば、この「ラン藻」培養には、栄養もわずかの酢酸だけでよく、「『ラン藻』の乾燥重量の14パーセントに相当する量のプラスチックを合成した」(2月20日毎日)という。今話題のSTAP細胞にも酢が使われている。理研の研究成果には酢が付きもののようだ。
小さな記事だが、ワクワクする報道ではないか。この際、日本は原発につぎ込む助成金などやめて、国を挙げて「ラン藻」研究をしてみてはどうだろう。サステナビリティは「ラン藻」から。原発に代えて、ラン藻プラスチックとその技術を世界中へ輸出すのだ。そうすれば、「自国の繁栄のために地球を破滅に導いた国」との汚名から逃れることができる。いやむしろ、「破滅から地球を救った国」として人類史に名を残せる…かも知れない。
(2014年2月21日)
今日、2月20日は小林多喜二の命日。命日という言葉は穏やかに過ぎる。天皇制の手先である思想警察によって虐殺された日である。1933年の今日、多喜二は、スパイの手引きで特高警察に街頭で格闘の末に身体を拘束され、拉致された築地警察署内で、その日のうちに拷問によって虐殺された。
スパイの名は三船留吉。多喜二殺害の責任者は特高警察部長安倍源基。その手を虐殺の血で染めたのは、特高課長毛利基、特高係長中川成夫、警部山県為三らである。多喜二は満29歳と4か月であった。
以下は赤旗の記事『戦前でも、拷問は禁止されており、虐殺に関与した特高警察官は殺人罪により「死刑又は無期懲役」で罰せられて当然でした。しかし、警察も検察も報道もグルになってこれを隠し、逆に、天皇は、虐殺の主犯格である安倍警視庁特高部長、配下で直接の下手人である毛利特高課長、中川、山県両警部らに叙勲を与え、新聞は「赤禍撲滅の勇士へ叙勲・賜杯の御沙汰」と報じたのです。1976年1月30日に不破書記局長(当時)が国会で追及しましたが、拷問の事実を認めず、「答弁いたしたくない」(稲葉法相)と答弁しており、これはいまの政府に引き継がれています。』
共産党員であること自体を犯罪としたのは、悪名高い治安維持法である。治安維持法が、どのように思想弾圧に猛威を振るったか。以下は、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の対政府請願要旨の抜粋である。
『戦前、天皇制政治の下で主権在民を唱え、侵略戦争に反対したために、治安維持法で弾圧され、多くの国民が犠牲を被った。治安維持法が制定された1925年から廃止されるまでの20年間に、逮捕者数十万人、送検された人7万5681人、虐殺された人90人、拷問、虐待などによる獄死1600人余、実刑5162人に上っている。戦後、治安維持法は、日本がポツダム宣言を受諾したことにより、政治的自由の弾圧と人道に反する悪法として廃止されたが、その犠牲者に対して政府は謝罪も賠償もしていない。ドイツでは連邦補償法で、ナチスの犠牲者に謝罪し賠償している。イタリアでも、国家賠償法で反ファシスト政治犯に終身年金を支給している。アメリカやカナダでも、第二次世界大戦中、強制収容した日系市民に対し、1988年に市民的自由法を制定し約2万ドルないし2万1000ドルを支払い、大統領や政府が謝罪している。韓国では、治安維持法犠牲者を愛国者として表彰し、犠牲者に年金を支給している。』
よく知られているとおり、1925年治安維持法第1条は、「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」というもの。
天皇制打倒、資本主義否定という「悪い思想」で結社をつくってはならないという弾圧法規。これが後に「改正」されて、最高刑は死刑となる。のみならず、「結社の目的遂行の為にする行為」までが処罰されるようになって猛威を振るった。党の活動に少しでも協力すれば犯罪とされ、共産党員に少しでも関わればしょっぴかれるという、現実的な危険が生じたのだ。共産党員と親しいと思われることは恐いこと。触らぬ神に祟りなし。共産党には近づかないに限る。こういう庶民の「知恵」が、「お上に逆らう共産党は恐い」と固まっていく。宗教者や自由主義者も、そして反戦の思想も、民主主義も弾圧の対象とされた。多喜二虐殺はその象徴。
昨年の秋、築地署を見てきた。その裏門近くには、多喜二の死亡診断書を書いた前田医院が残っていた。そして、今日は「多喜二祭」に足を運んだ。メインの講演は、ノーマ・フィールドさん。多喜二の活動から、今の世を照射して、オプティミズムを語ろうというお話だったが、全体の骨格が良く見えてこなかった。
今、多喜二と治安維持法を語るには、自民党改憲草案に触れざるをえない。
自民党案は、表現の自由を保障した、21条「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。」に次の第2項を付け加えようという。
「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。」
これは、恐るべき暴挙だ。「公益及び公の秩序」に何を盛り込むか次第で、現代に治安維持法をよみがえらせることが可能となる。
さらに、拷問の禁止に触れた現行の第36条は「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」となっている。自民党改憲草案は、この「絶対に」の3文字を取ってしまおうというのだ。
36条を起案した人の脳裏には、多喜二虐殺のことがあったに違いない。「絶対に」の3文字に力が込められている。自民党案は、今わざわざ、「絶対に」を抜いてしまおうというのだ。多喜二の命日に、虐殺された多喜二に代わって叫ぼう。そんなことは許さない。絶対に。
(2014年2月20日)
昨年暮れの特定秘密保護法案審議の最終盤では、「こんなにも広範囲の秘密・秘密では、国民の目の届かないところで行政が暴走しかねないではないか」という批判が巻き起こった。この批判をかわすために、安倍政権は「チェック機関創設の大盤振る舞い」をした。まずは、「保全監視委員会」「独立公文書管理監」「情報保全観察室」(いずれも仮称)なるものだったが、さっぱり何をするのか分からない。しかも、そのいずれもが行政内部の機関であって、ムジナにタヌキの監視をさせるようなもの。その評判の悪さに、安倍が最後の切り札として「第三者機関をつくる」と言いだしたのが、参院での採決強行の前日、12月5日。こうして、行政の外の第三者機関としての「情報保全諮問会議」が発足した。
出自からしてまことに怪しい組織。国民的に盛りあがった秘密法批判をかわすための「イチジクの葉」であることは歴然。成立した特定秘密保護法に、民主的な化粧のひとはけを施す茶番劇の小劇場という趣である。
諮問会議は、法の適正な運用のため内閣総理大臣に対し意見を述べることが役割で、会議のメンバーは下記の7名。
宇賀克也・東京大学大学院教授
塩入みほも・駒澤大学准教授
清水勉・日本弁護士連合会情報問題対策委員
住田裕子・弁護士
(主査)永野秀雄・法政大学教授
南場智子・株式会社ディー・エヌ・エー取締役
(座長)渡辺恒雄・読売新聞
渡辺恒雄が座長なのだから、この会議がどう動くことになるかは推して知るべし。
ただ、日弁連から清水勉弁護士が加わっているのが目を引く。彼は、特定秘密保護法の成立に最も鋭く反対した一人。それでも敢えて、この茶番に付き合おうという。私は、その意気を買いたいと思う。
特定秘密保護法は、「運用宜しきを得る」ことでなんとかなるしろものではあるまい。細部の修正ではなく、法の廃止を求めるのが筋だ。おそらく彼もそう思っているだろう。それでもなお、内部から批判を貫こうとしている。
会議参加への批判は、二つのレベルで考えられる。まずは、どうせ密室での個人の発言が会議の進行や政策に影響を与えることになろうはずはない。だから、発言しても無駄。また、仮に発言が外部に公開されたとしても、どうせ徹底批判意見は7分の1でしかない。結局は諮問会議全体の意見は翼賛的な見解にまとめられてしまうだろう。その結果、実質的には日弁連代表も加わって、特定秘密保護法の運用が定着した、という安倍政権の形づくりの思惑に手を貸すだけではないか。
その批判を意識して、本日の毎日「そこが聞きたい」欄で、清水さんが記者の質問に答えている。
−−諮問会議は「会議として」首相に意見を述べることになっています。反対派が1人では、多数派に取り込まれるだけではありませんか。
「そうはならないでしょう。秘密保護法18条には『首相は(秘密指定などの)基準を定めるときは、識見を有する者の意見を聴いたうえで案を作成する』とあります。『識見を有する者』という個人の立場で意見を言えるから参加しました。問題意識や専門性の高い人が、情報の適正管理という観点から公的な場で言った意見を踏まえ、法律が運用されていくのが正しい筋道だと思います。」
「この7人で何か具体的な議論をして決めるとは思いません。自分の分かっていること、見えていることに問題意識を持って発言することが一人一人に求められています。」
−−反対派である自身の役割は。
「賛成、反対ではなく、経過をなるべく公表公開する必要があると思っています。議事録には発言者の氏名を入れることになりました。意味のある発言を公的な場で記録することが重要です。後からでも意見が生きればよいと思います。基準案作りに向け、資料をなるべく多く見せてもらい、考え抜いて意見をまとめたいと思っています。」
つまり、7人の見解をまとめた合意形成は予定されていない。しかも、密室の会議ではない。発言内容は、国民に届くはず。という彼の読みなのだ。外は外で、法の廃止を求めた運動をつくっていけばよい。彼は彼で、諮問会議の中で頑張ろうというのだ。もちろん、会議の中で「法の廃止」などと言えるわけはない。法の実施を前提としたものになるのは当然として、どのような法の運用になるかの幅は極めて大きい。大いに期待したい。
ところで、せっかく作成された議事録。是非目を通してみよう。
まずは、官邸のホームページで、第1回会議の議事次第、配布資料と議事要旨が入手できる。URLは、以下のとおり。
http://www.cas.go.jp/jp/seisaku/jyouhouhozen/index.html
ところが、議事録はホームページ掲載とはならない。第1回会議(本年1月17日)の議事録は、メディア各社が情報公開請求をしていたがなかなか開示されず、これが批判の対象となっていた。ようやく、2月12日に公開があって各社が入手したようだ。1時間余の会議の記録で全文14頁。さっそく読みたいと思ったが、どのメディアも全文掲載をしていない。探したら、福島瑞穂議員のホームページで読める。そのURLは、以下のとおり。
http://satta158.web.fc2.com/docs/140212-minutes-of-security-law-council.pdf
安倍晋三が、2度にわたってかなり長い発言をしている。また、渡辺座長の、自分の立ち場をよく心得たという発言もある。そして、清水弁護士はブレない発言を貫いているという印象。私は、彼を応援する。
そしてなにより大切なのは、第2回以後も、情報保全諮問会議議事録の公開を堅持させることだ。この点は、みんなで声を揃えよう。
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接ぎ木ロボット
実の成る野菜を作るには、今は「接ぎ木苗」を使う。種をまいて、立派な実物(みもの)を収穫するのはなかなか難しい。素人の家庭菜園だけでなく栽培農家も「接ぎ木苗」を植える時代らしい。そうでなければ栽培農家でも、八百屋さんに並んでいるような、大きくて色つやがよく、味のよい商品価値のある実物は作れない。その結果、「接ぎ木苗」は主要5品種(キュウリ、スイカ、メロン、ナス、トマト)で年間6億本も生産されている。
いったい「接ぎ木苗」とは何か。味や収量、見栄えを求めて、野菜は続々と品種改良されている。しかし、この優良品種は概して病害に弱い。味がよくて、そのうえ病気に強いものが求められる。その難問を解決するのが「接ぎ木苗」なのだ。
植物は昔から、挿し木や接ぎ木で殖やされてきた。土壌病害に強い根っこをもった「台木」に、弱いけれどおいしい実の成る「穂木」を接ぎ木したらと試行錯誤された。芽生えて間もない苗を使って、適切にカットした両者を接着しておけば、2週間もしないうちにカット面が活着して1本の苗になる。
スイカの台木にはカンピョウ(ユウガオ)を使う。キュウリやメロンにはカボチャを、ナスにはアカナスが台木となる。味のよいトマトには根の強いトマトが台木として使われる。
素人はカボチャ味のキュウリやメロンができはしないかと心配になるが、そんなことはない。しかし、「ナスの木にトマトのような赤い実が成った」「キュウリやスイカを作ったらカボチャが成った」ということは間々あるという。穂木が衰えて、勢いの強い台木のほうが育って実を結んだのだ。
以前各農家は、自分の畑に植える「接ぎ木苗」を自分で作っていた。しかしこのごろは、お好みのものを農協やホームセンターで手に入れる。家庭菜園の主も少々高価だがワクワクしながら、珍しい品種にチャレンジする。たいてい八百屋で入手した方が安上がりな結果になるけれど、愚かにも、園芸店に苗が並ぶと今年こそはと苗に手が伸びてしまう。
日経の記事(2014/02/13)によると、この膨大な6億本にものぼる「接ぎ木苗」を作っているのは、実はロボットなのだ。1本の腕がトレイに並べられた「実生苗?」の上部をカットして捨てる。もう1本の腕は別のトレイに並べられた別の品種の「実生苗?」をカットして、カットした上の部分を根のついた「実生苗?」のところへもっていき、パイプでとめる。人間は「実生苗?」と「実生苗?」を間違えないようにセットするだけでいい。もし人間がそのセットを間違えると、キュウリが成らずにカボチャが成ることになる。
人間なら1時間あたり200本のところを、ロボットは1000本の苗を作る。今までこの種苗会社は、苗生産の時期(2?5月)には200人の臨時パートを時給900円で雇っていた。このロボット購入に1億円かかったが、今まで行っていた人間の採用、教育、労務管理が大幅に省けるので充分ペイすると社長は満足げに語っている。
仕事のなくなったパートさんがロボットを作る仕事に就けるなら、まだいい。しかし、このロボットを作る会社はオランダの企業だという。こうして大量生産された「接ぎ木苗」に成るキュウリは誰が買うことになるのだろう。収入のなくなったパートさんには買えない。コスト削減のための接ぎ木ロボットは、人を幸せにするだろうか。住みやすい社会をつくるだろうか。結局は貧富の差を産み出すだけになってしまわないか。かつてのラッダイト運動とおなじように、ロボットを壊したくなる人がきっと出てくるに違いない。
(2014年2月19日)