澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

東京大空襲犠牲者を悼んで

戦前、3月10日は陸軍記念日だった。1905年3月10日に日露戦争での奉天会戦で勝利した帝国陸軍が奉天(現在の瀋陽)に入城した日が起源。以下の陸軍奉祝歌(作詞 陸軍省新聞班、作曲 山田耕筰)というものがある。

 奉天戦の勝鬨の
 聞こゆる今日の記念日は
 我が陸軍の誉れぞと
 国民挙げて祝うなり
 日露の役に誓いたる
 挙国一致を偲びつつ

 東亜の光満蒙に
 躍進の鐘鳴り響き
 戦果は実る過ぎし日の
 赤き血潮に築きたる
 天業の道揺るぎなく
 平和の楽土春深し

 世界の柱我が日本
 同胞全て九千万
 鉄の結びに義は重く
 幾度経ぬる聖戦の
 輝く跡を身に締めて
 巨き歩みや日の御旗

戦意昂揚の歌をあげつらうのも大人げないが、なんと空虚で浅薄な。
皇軍の道徳性や正当性を「東亜の光」「平和の楽土」としか言えない。そんなタヨリないもののために、「日の御旗」を掲げた「聖戦」への「挙国一致」「鉄の結び」を国民に呼び掛けている。「世界の柱我が日本」「天業の道揺るぎなく」などとはよくも言ったり。戦後レジームからの脱却を呼号する安倍晋三の頭の中には、こんなフレーズがつまっているのだろうか。

1945年の「今日の記念日」早暁、325機のB-29爆撃機が東京を襲った。超低高度で人家密集地に焼夷弾の雨を降らせた。折からの春の強風が火を煽って、人と町とを焼きつくした。防空法と隣組制度で逃げれば助かった多くの人命が奪われた。

米軍がことさらに陸軍記念日を狙って東京を空襲したという証拠はないという。しかし、この記念日に続いて翌11日が日曜日にあたり、疎開していた子どもたちの多くが一時帰宅していたという事情があった。そのために、意外にも子どもの死者が多い。 こうして、1945年の陸軍記念日は、「我が陸軍の誉れ」の終焉の日となった。この日は、「国民挙げて祝う」どころではない。死者の数は10万人を超すとされている。無惨に生を断ち切られた10万の死者の無念、遺族の無念に、黙祷し合掌するしかない。

空襲の犠牲者は、英霊と呼ばれることもなく、顕彰をされることもない。その被害が賠償されることも補償されることもない。それどころか、戦後の保守政権はこの大量殺戮の張本人であるカーチス・ルメイに勲一等を与えて、国民の神経を逆撫でにした。

広島・長崎の原爆、沖縄の地上戦、そして東京大空襲‥。このような戦争の惨禍を繰り返してはならないという、国民の悲しみと祈りと怒りと理性が、平和国家日本を再生する原点となった。もちろん、近隣諸国への加害の責任の自覚もである。2度と戦争の被害者にも加害者にもなるまい。その思いが憲法9条と平和的生存権の思想に結実して今日に至っている。

安倍政権がこれに背を向けた発言を繰り返していることを許してはならない。3月10日、今日は10万の死者に代わってその決意を新たにすべき日にしなければならない。

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  *百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
  *経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任勧告せよ。
以上よろしくお願いします。

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   「フルーツ・ハンター」(アダム・ゴウルナー著)と「カカオ採る子ら」

果物は美味い。口にすれば甘い幸せがひろがる。今の季節はリンゴ、イチゴ、キュウイフルーツ、デコポン、アボカド、バナナなど。朝食は果物とヨーグルトとコーヒーで充分だ。たしかに、私たちの先祖はチンパンジーなのだ。

子どもの頃は果物など贅沢も贅沢、なかなか手が届かないもので、「水菓子」といって珍重した。バナナなど病気になった時に食べるか、遠足に持って行けたら上等だった。それが今ではどうだ。バナナは一番安価な食べ物となった。庭の木になる柿を食べたがる子どももいないというではないか。子どものころの憧れを満たそうとする、「昔の子ども」にとって、果物は永遠に輝く魅力を失わない。四季折々、入れ替わり立ち替わり現れる果物をみれば、豊かになったものだとしみじみと思う。

「フルーツ・ハンター 果物をめぐる冒険とビジネス」(アダム・リース・ゴウルナー著 白水社)は、果物についての広大な世界を展開している。著者はカナダ出身のジャーナリスト。完熟果実の美味しさに取りつかれた著者は、ブラジル、ハワイ、ボルネオ、セーシェルのプララン島、アフリカのカメルーンそして世界中から果物の集まるニューヨークをくまなく調査する。糖度、果汁、芳醇な香り、色、手触り、艶、形の妙についての語り口は、すぐにその果物を木から直接もぎ取って味わうために駆け出したいような気分にさせる。

果物を追及する奇妙な情熱に取りつかれた人々の紹介もある。シカゴの大実業家のホイットマンは家族連れで、ジャングルの島々を熱帯果実を求めて歩き回った。ホイットマン家の息子たちは大勢の人から、あんたたちはサーカスの一団かときかれ、果物マニアの父親のそばで幸せに育った。父親が採集した植物をフロリダの庭で栽培したので、どこの家の庭にもチュパチュパがなっていると思い込んでいた。息子の友人たちは、弁当に入っているウルトラ・エキゾチックを味見したいとうるさくせがんだという。

接ぎ木に取りつかれたグラフティン(接ぎ木屋)・クリフトの情熱と強迫観念の話もある。「おれは果物作りが好きなんだ。新しいものを作り出すことがね。ワクワクする。グレートデンを産み出したブリーダーのような気持ちだ」。接ぎ木によって生みだされた「生命の木」にはスモモ、モモ、サクランボ、アンズ、アーモンド、ネクタリンが同時に実をつけていたのである。接ぎ木症とは「その技法にのめり込み、熱心さを通りこして、四六時中頭から離れなくなる」と警告される病状をさす。クリフトはそんなことはちっとも気にしない。フェアチュイルド熱帯植物園で木に登って接ぎ木をしているところを捕まったことがある。今では警備員がナイフと接ぎ木の用具を入り口で預かっているそうだ。

この本の中には果物にまつわる負の側面も書き込まれている。「知識とひきかえに魂を売ったファウスト博士のように、果物にも不快な副作用がある。殺虫剤に残留農薬。ワックスに着色料。とどまるところを知らない石油の大量消費。放射線照射および燻蒸施設。冷蔵室での数ヶ月にわたる保存。違法果実を大型トレーラーに積み込んでコロンビアから密輸する果物長者…」について書かれている。

バナナ共和国(アメリカ資本によってバナナなどの一次産品の輸出をとおして牛耳られた中南米諸国)を支配したユナイテッド・フルーツ社のホンジェラス、グァテマラで行った政権転覆や人権蹂躙、そしてキューバのピックス湾事件に果たした汚い役割まで、しっかり書き込んでいる。甘いおいしい果物の苦い側面も書いた骨太の物語だ。

ところで、本日(3月10日)の中畑流万能川柳の秀逸は、次の一句。
 「カカオ採る子らは知らないチョコレート」(句意なし)
私たちは確かに豊かになった。果物もチョコレートもふんだんに食べられる。しかし、その豊かさが、カカオ採る子らの貧しさの犠牲においてのアンフェアなトレードの結果なのかも知れないと思うと、甘いはずのフルーツもやや口に苦い。
(2014年3月10日)

原発事故地元被害者の「東電への感謝」

もうすぐ、あの驚愕と痛恨の日から3年になる。3・11は、自然災害としての震災・津波と、人災としての原発事故被害の両者について、真剣に向かいあうべき日となった。人類がその体験を積み重ねることによって進歩できる存在だとしたら、この深刻な体験から我々は何を学ぶべきだろうか。

各紙がそれぞれに考える材料を提供してくれている。本日(3月9日)の毎日朝刊の1面と4面に、「ストーリー 原発に裏切られた町?この怒り、どこへ誰へ」という渾身のルポがある。長文だが、このような記事こそジャーナリズムの本領だろう。袴田貴行記者の労作。

ルポは、福島県双葉郡大熊町の鈴木幸夫さん(88)を追う。先月26日、避難先の会津若松から帰還困難区域にある自宅に一時帰宅してみると、盗難に遭って家中が荒らされ、野生動物が侵入したのか床はふん尿だらけの惨めさ。

鈴木さんは、「こんちくしょう、こんちくしょう」と呟く。なぜこんなことになったのか、誰が悪いのか、どこへ怒りを向ければいいのか、分からない。やりきれなさが丸めた背中からにじんだ、と描写されている。

鈴木さんは、町議会議長の経験もある地元の重鎮として原発推進の旗振り役を務めた人。東電が2008年に発行した福島第1原発の記念誌には、鈴木さんが原発事故を懸念する人たちに「車の事故の方が心配が大きい」と言って不安を打ち消した逸話が紹介されている。

その鈴木さんが、古里を追われる原因を作った原発や東電への憎しみはないという。「東電には今でも感謝している。事故の復旧は彼らにしかできない。力を尽くしてほしい」とも。

大熊に豊かさをもたらしてくれた東電への感謝の思い。子と孫計5人が東電や関連会社に就職してもいる。大いに実利をもたらした原発であった。

ルポは次のように記している。
「福島のチベット」−−。昭和30年代、農業以外にめぼしい産業がなく、高度経済成長から取り残された双葉郡はそう呼ばれていた。大熊町は54(昭和29)年に大野村と熊町村が合併して生まれたが、慢性的な財政難で職員の給料さえ遅配することがあった。
だが、原発誘致により76年には地方交付税不交付団体となった。企業の進出で税収が伸びただけでなく、原発立地自治体などには施設の設置や稼働を促進するため国から「電源3法交付金」が支給された。74〜12年度に町が受け取ったのは計212億円で、原発事故のあった10年度には町の歳入の2割強を占めた。同年度の町の財政力指数(自治体の財政力を示し、「1」を上回るほど自立度が高い)は1・39で、福島県内でダントツの1位だった。

「出稼ぎがなくなり、家族と一緒に暮らせるようになって幸せ」がもたらされたのだ。

記者は、最後に原発推進の旗を振ってきた鈴木さんの今の気持ちを確かめる。「過去の判断に悔いはないのか」と。鈴木さんは「後悔はない」ときっぱり答える。「原発でもなかったら、大熊は寂しい町で終わっていたよ」

原発建設の地元では、原発誘致による地域振興を求めざるを得ない現実があった。これだけ深刻な事故が生じて自らの故郷が失われてなお、「東電には今でも感謝している」という現実の重さ。これまで東電と原発を抜きにして地域振興策はなく、これからも東電抜きの復旧の構想を描くことができないのだ。このような人々の民意に支えられて、原発が建設され維持されてきた。けっして、「押し付けられた」「欺されていた」ということではない。

今回の都議戦に関してノーマフィールドさんが言った「「いのち」よりも「生活」の選択」、という言葉を思い出す。本当は命が大切なのだ。世代をつなぐ命の安全を第一選択として、「脱原発こそ最重要の課題」と言わねばならない。しかし、そのような悠長なことは言っておられない。それよりも、現実の「生活」の課題を何とかしてもらわねばならない。脱原発の課題の重要性に目をつぶっても、雇傭や福祉や子育てや、そのほかの緊急の課題の充実が多くの人から求められる。それを責めることはできない。原発と生活とが緊密に結びついている福島の地元ではもっと深刻だ。「生活優先」は、「脱原発を最重要課題とはしない」レベルではない。親原発、親東電と言わざるを得ないのだ。

戦争もよく似ている。「いのち」と「生活」を分離したうえでの生活優先の選択が戦争遂行の推力となる。植民地政策、軍需景気、軍需産業による雇傭の創出、戦争推進派の羽振りのよさ、職業軍人としての誇りや生き甲斐…。戦争は、「実利」と結びついていた。少なからぬ人々の「民意」に支えられてこそ戦争は遂行された。けっして、国民が天皇や政治家に「押し付けられた」、「欺されていた」からだけではない。だから、あれだけの惨禍のあとでも、戦争の旗を振った人々が、本心から戦争を反省したわけではないのだ。同じ状況では、同じ歴史が繰り返されるだろう。

15年戦争の日本人犠牲者は310万人。戦没皇軍兵士の遺族には、莫大な軍人恩給が振る舞われた。これも、戦争と結びついた「実利」。同時に戦争批判の口封じの側面も見なければならない。

同じ「毎日」の「今週の本棚」欄に、安岡章太郎の「歴史の温もり」が紹介されている。評を書いたのは井波律子さん。辛うじて戦争を生きのびた安岡はこう言っているそうだ。
「平和は、一人一人が辛抱づよく戦争に反対し、心底から平和を守ろうとする以外に守りようがないというのは、一見タヨリないようだが真実の言葉であろう」

たしかにそうだと深く頷かされる。しかし、もう一方で、戦争に実利を見出す構造の克服こそが大切なのだという思いもつよい。植民地政策や、軍需景気、軍需産業に頼らない、庶民生活の豊かさの底上げが重要だ。格差の拡大、貧困の蔓延は戦争への実利と、それゆえの戦争支持の民意の基盤となるだろう。

原発についてもことは同じではないか。豊かさの不平等の克服が必要だ。格差の縮小、とりわけ地域間格差、産業間格差をなくしていく政策こそが、問題の解決につながるのだと思う。この格差がなくなれば、自然の豊かさに恵まれるだけ、地方に居住することがメリットになるだろう。自然とともに生きることこそ、人の理想であり、「いのち」を大切にすることなのだ。
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(2014年3月9日)

「戦争にならないように棄権する」

毎日新聞の川柳欄は、選者仲畑貴志の名をとって「仲畑流万能川柳」という。
時事ネタあり、社会ネタあり、男女や人情の機微に触れたもの、そして反戦ものまで。内容豊富で実に楽しい。川柳であるからには、ピリッと気の利いた風刺がほしい。権力や権威を笑い飛ばすものでなくてはつまらない。

驚くべきは、年間投句数は58万に及ぶという。毎日掲載句のうち1句が「秀逸」とされ、その中から「月間大賞」が選定され、さらに、58万句の中から、たった一句の「年間大賞」が選ばれる。

毎日欠かさずに、目を通しているが、「秀逸句」必ずしも秀逸とはいいがたい。秀逸句を凌ぐ出来栄えとうならせる掲載句が毎日二つ三つ。おそらくは、膨大な没句の中にも秀句が埋もれているのだろう。人生も社会も同じようなものだ。とはいえ、プロが選した58万句の年間最優秀句には興味津々。

本日の朝刊に紹介された2013年年間大賞句は、
  「戦争にならないように投票す」
作者は、戸枝洋子さん(80歳)。柳名は「かもめ」、東京都北区在住とのこと。

なんと真っ直ぐな、なんの技巧も感じさせないシンプルな句だろう。いや、シンプルな言葉だろうか。昨年7月の投句だから、6月の都議戦と7月の参院選を意識しての句であろう。作者は2012年12月の総選挙の結果に驚愕したに違いない。安倍政権の危うさに戦争の影を感じて、投票を通じて平和を希求する意思表示をしたのだ。安倍自民や、その下駄の雪の公明以外の候補者に投票したに違いない。それにしても、福祉でも雇傭でも景気でもなく、平和を願っての投票が川柳となり、年間大賞受賞句となる時代なのだ。

選者の評は以下のとおり。
「普通であれば、「良い国」とか「住みよい国」とかを願って「投票す」なのですが、「戦争にならないように」というのが、この国の今の空気感なのですね。近隣諸国との問題をはじめ、さまざまなキナ臭い空気が漂っています」

仲畑貴志は、細川護煕が都知事に立候補したとき、瀬戸内寂聴や吉永小百合らとともに、真っ先に支持を表明したグループのひとり。原発関連句の選も多い。もう少し踏み込んだ辛口の評が期待できそうなのだが、これでは毒にも薬にもなっていない。それでも、「この国の今の空気感」を「キナ臭い」として、この句をトップに据えたのはたいした在野感覚。

さて、明日(3月9日)が大阪市長選の告示。私の感覚では、いかなる選挙も民意反映のチャンスであり、民意伸長のチャンスでもある。まさしく、「戦争にならないように投票す」でなくてはならない。

主要野党は橋下徹に対抗する候補を立てないようだ。それでも、安倍よりさらに右に位置する維新・橋下への投票は、「戦争を招きかねないその一票」「これがまあ戦争へつづく第一歩」「あのときに橋下支持したばっかりに」「大阪が次の戦争の火付け役」などとなりかねない。すると、「戦争にならないように棄権する」「この度は平和を願って選挙パス」となるのだろうか。

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(2014年3月8日)

「社会に復讐する」という言葉の重み

千葉県柏市で起きた連続殺傷事件で、24歳の被疑者が強盗殺人容疑で逮捕された。この被疑者が、警察の取り調べに「社会に復讐する」と話したことが大きく報道されている。

被疑者の成育環境も現在の生活状況も、そして「社会に復讐する」(報道によっては、「報復する」)という言葉がどのような文脈で語られたのかも、まだよくはわからない。分からないながらも、20代の無職男性が社会との断絶感と、将来への絶望感とを抱いている状況が見えてくる。これまでも、似たような多くの事件の報道に接してきた。

本件にあてはまるかは即断できないが、図式的には、
 新自由主義政策⇒経済格差の拡がり⇒若者の貧困化⇒絶望感⇒犯罪
と描いて、さほど無理がないのではなかろうか。
もっとも、こういう図式化を皮相とする、次のような指摘もある。

事件が起こると、まず「犯行の心理的動機を明らかにせよ」という掛け声だ。メディアに心理学者が登場して心理学的な推理が重ねられる。
同時並行する形で、「犯行の社会的背景を究明せよ」とキャッチフレーズが唱えられる。犯罪や家族や教育を専門とする社会学者たちの発言が華々しく飛び交う。
最後に、「性格異常ではないのか、精神に欠陥があるのではないか」と、精神病理的な分析または解釈が語られる。これがお決まりの成り行き。
「犯罪」の心理学的還元、社会学的還元、精神医学的還元といってもいい。「殺人事件」を解決するための三種還元である。

山折哲雄さんが歎異抄を語った「悪と往生」(中公新書)からの要約抜粋である。
この著名な哲学者は、「三種還元の手法には、その還元の総和によって人間の理解が可能になるとするうさん臭い人間観がひそんでいるのではないだろうか。人間には『心の闇』があるなどといいながら本当のところは誰もそれを信じてはいないのだ」と言う。実は誰も人間の心の闇を見すかすことなどはできない。犯罪を起こした人間の心など理解は不可能、とおっしゃる。

なるほど、私たちは「三種還元の手法」で、犯罪と犯罪者を理解したつもりになる。いや、むしろ犯罪の起承転結を理解したと自分を納得させて安心したいのだ。多くの場合、「三種還元の手法」は、犯罪者はこの社会の例外的な存在で、自分は犯行とも被害とも無縁で安全だと教えてくれる。しかし、哲学者はこの姿勢を人間観察における浅薄という。

「安易にすべてが分かったなどとと思い上がってはならない」との戒めとしてこれを聞き置くとして、「三種還元の手法」自体は、犯罪の動機や原因を特定して講じるべき対策を考案するためには有効である。おそらくは、すべての犯罪に三種の要因が、濃淡様々に絡みあっているのだ。

なかでも、社会的な要因を重要なものとして看過することはできない。「恒産あるところに恒心あり」で、格差少なく貧困のない社会では犯罪が少ない。しかし、現今の為政者が拠り所とする新自由主義とは、飽くなき競争至上主義を是認するものだから、優勝劣敗の敗者あることを当然とする。むしろ、格差と貧困の存在を積極的に肯定する政策といってよい。しかも、できるだけ小さな政府で企業負担を減らそうというのだから、自助努力が強調されて福祉は切り捨てられる。市場原理にお任せの格差貧困と安価で使い捨て自由な労働力が求められている。

この政策は必然的に多くの人々の絶望を生みだす。絶対の格差、絶対の貧困の底に沈んだ絶望の人々。統計的にみれば、経済的困窮が犯罪の温床となることは否定し得ない。また、絶望は自殺念慮や、社会への復讐の行動につながる。自由競争にすべてを任せようという強者の論理は、結局のところ犯罪多発の不安定な社会に向かわざるを得ない。

それでも、為政者は「格差や貧困をなくす政策に転換を」とはならない。「格差や貧困に甘んじる従順な性格の国民をつくればよい」というのが彼らの発想だ。そのために教育の管理が徹底される。また、「なかには従順ならざる人格も育つだろう。それに対しては、治安の強化だ」という発想となる。

新自由主義とは、古典的な資本のやりたい放題の横暴を認めよという主張だ。儲けのためにはカジノでも、高利貸しでもなんでもやれるようにしよう。労働市場の規制をなくして人を安く使い捨てができるようにし、法人税の負担を軽くし、福祉は削ろうというもの。その結果としての格差・貧困は積極的に容認する。しかも、「自由」の主体は企業であり、資本であり、大金持ちでしかない。一般庶民は、権力に従順であれとの教育の対象となり、長じては治安対策の対象ともなる。そして、天皇を戴くこの民族の歴史と伝統とによるイデオロギー統制によって擬似的な国民の一体感の醸成がはかられる。

だから、自民党改憲草案は、新自由主義と、復古的天皇制イデオロギーや公序による治安政策とが、木に竹を接いだような不自然をなしている。しかし、それはやむを得ないこと。経済的な新自由主義という木に、治安政策という竹を接がざるを得ないのだ。治安政策の根本に教育統制や復古主義的イデオロギー教化がある。

連続殺傷事件の被疑者の「社会に復讐」という言葉は、今の為政者に、重く響いているはずなのだ。

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(2014年3月7日)

「憲法の番人」か「安倍政権の番犬」か

「月とすっぽん」とは、形ばかりは似たようで実は正反対なものの喩え。「月」は仰ぎ見る美しいもの。「スッポン」は泥沼を這う美しからざるもの。「あなたは月のよう」とは褒め言葉で、「スッポン同然」は悪口となる。

「番人」と「番犬」も、似ているようでニュアンスは大きく異なる。番人は自分の意思を持っている。守るべき価値あるものを意識して守る。最高裁を指して、「人権の砦、憲法の番人」と言って、最高裁が怒ることはない。しかし、番犬は自分の意思を持たずに命令に盲従する。命令の正邪や理非を解せず、守るべき物の価値を判断する意思も能力ももたない。特定の人に面と向かって「番犬」と言えば、その姿勢の批判となる。言われた方は、その喩えが侮辱だと言いたくもなろう。

共産党の論客として知られる小池晃議員が、小松一郎法制局長官に向かって、「安倍政権の番犬と言った」と報道されている。複数の報道によると、正確には「番犬」ではなく「番犬みたい」。それも「安倍政権の番犬みたいなことをしないで下さい」という言いまわしで、「番犬」との決めつけはしていなかったようだ。それでも、言われた小松さんが腹に据えかねたとして、社民党党首への答弁の機会に「反論」したことで話題となった。

各紙が報道しているが、本日(3月6日)の朝日は「『安倍政権の番犬』指摘に反論」という見出しで次のように報じ、小池さんの反論も掲載している。

『小松一郎・内閣法制局長官は5日の参院予算委員会で、4日に共産党の小池晃副委員長から「安倍政権の番犬みたい」と言われたことに対し、「国家公務員にも、プライバシーや名誉に関わるものを含め、憲法上、基本的人権が保障されている」と反論した。

 小池氏は4日の同委で、菅義偉官房長官にイラク特措法やテロ特措法の条文解釈を質問したのに、小松氏が答弁に立ったとして「憲法の番人なんだから、安倍政権の番犬みたいなことをしないで下さい」と指摘していた。

 小松氏は5日の同委で、社民党の吉田忠智党首への答弁の際、「他の党の所属の委員だが」と切り出し、小池氏の発言に「このようなご指摘を受けることはできない」と反論。共産党にも「日頃、国民の基本的人権をことさら重視している」と指摘した。

 小池氏は朝日新聞の取材に「政権をかばうようなことをしたから指摘した。番犬だと断定はしていないし、人権をおとしめるというようなことを言われるのは心外だ」と語った。』

さて、問題は2点。小池さんの小松長官に対する「番犬みたい」発言は正鵠を射たものか。そして、小松長官の人格を侮辱するものとして人権侵害に当たるか。小松長官の反論は、後者に対するものだけで、前者についてはない。

小池さんの委員会でのとっさの発言は、「本来内閣法制局長官といえば、その役割は憲法という大切なものを擁護すべき番人ではないか。ところが、今のあなたが官房長官をかばって答弁を買って出ようというその姿勢は、憲法ではなく安倍政権を擁護しようというものでしかない。憲法の番人であるべき立場の人が、あたかも安倍政権に盲従する番犬みたいなことをすべきではない」という趣旨と解される。正鵠を射たものであること、この上ない。

いまさら言うまでもなく、小松一郎長官と言えば、集団的自衛権行使容認という解釈改憲実現の手段として安倍内閣に抜擢された人物。しかも、前例のない外務省からの異例の人事。予てから安倍政権の番犬とささやかれていた人。おそらくは自分でも気にしていたに違いない。面と向かって言われたからには反論しておかねばならないと、翌日の他党議員の質問に対する回答の機会をとらえたのだ。しかし、「私は憲法の番人の役割を放擲していない」とも、「安倍政権に盲従しているわけではない」とも弁解はしていない。おそらくは、そのような弁明の意思はないのだろう。

では、小池さんの小松長官に対する「番犬みたい」発言は人格を侮辱するものとして人権侵害に当たるのだろうか。さすがに小池さんの発言は慎重で、「安倍政権の番犬みたいなことをしないで下さい」という言い方が、侮辱になるとは考えがたい。これをしも人権侵害というなら、活発な議論そのものを封じることになってしまうだろう。

一般論として、強い批判の表現が人格攻撃の色彩を帯びることは往々にしてあり得る。原則論としては、そのような批判の仕方は避けた方が好ましい。しかし、対等者間の言論交換ではなく非対等者間で、権力を持つ側、強者の側、多数を握る側に対する批判に遠慮や萎縮が生じてはならない。権力を持つ側、強者の側、多数を握る側は、民衆の側からする強い批判を甘受しなければならない。それが、民主主義の要請するところ。

場面が変れば事情も変わる。共産党の副委員長である小池さんは、党組織幹部として党内からの批判には十分に耳を傾けなければならない。たとえ、その批判が人格攻撃的な色彩を帯びるものであろうとも。

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NHK籾井会長、百田・長谷川両経営委員の辞任・罷免を求める署名運動へのご協力のお願い

下記URLから
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-3030-1.html
http://chn.ge/1eySG24

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    NHKに対する「安倍首相お友だち人事」への抗議を
☆抗議先は以下のとおり
 ※郵便の場合
  〒150-8001(住所記入不要)NHK放送センター ハートプラザ行
 ※電話の場合 0570?066?066(NHKふれあいセンター)
 ※ファクスの場合 03?5453?4000
 ※メールの場合 下記URLに送信書式のフォーマット
    http://www.nhk.or.jp/css/goiken/mail.html
☆抗議内容の大綱は
 *籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
 *経営委員会は、籾井勝人会長を罷免せよ。
 *百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
 *経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任を勧告せよ。
以上よろしくお願いします。
(2014年3月6日)

日弁連「教育法制『改正』問題に関する各界懇談会」

日本弁護士連合会は、全国の弁護士の強制加入団体である。当然に様々な政治信条をもつ人が会員となっている。だから、政治的スローガンで、会としての行動をすることはない。

法に基づく弁護士の使命は、「基本的人権を擁護し、社会正義を実現すること」である(弁護士法1条1項)。だから、「基本的人権を擁護すること」「社会正義を実現すること」を目標とした活動をすることは旺盛に行われるべきで、むしろ弁護士会の責務でもある。しかも、「弁護士は、前項の使命に基き、誠実にその職務を行い、社会秩序の維持及び法律制度の改善に努力しなければならない」(同条2項)という規定さえある。個人としての弁護士が、弁護士活動に参加して、基本的人権擁護のために「法律制度の改善に努力」すべきことは弁護士の義務ですらある。

もっとも、制度の改善は政治的な過程を経なければ実現し得ない。また、人権課題と政治課題との境界には微妙なものがある。ときに、「人権課題のようでもあるが、政治的色彩を払拭できない以上は弁護士会として取りあげるべきではない。」との意見にぶつかる。しかし、そのように萎縮していたのではすべての人権課題への取り組みが不可能になる。むしろ、「現実の社会に生起するすべての人権課題が、多かれ少なかれ政治的色彩を帯びることは当然である。人権課題である以上は、政治的色彩があろうとなかろうと弁護士会がとり組むことに躊躇してはならない」というべきだろう。

法体系の最上位にある日本国憲法は、豊かな諸人権の擁護を最高の憲法的価値とし、その諸人権の実現のために諸制度を設けている。弁護士会は、人権問題として広範な諸制度に関わる問題に取り組むことが可能である。「その課題は政治的色彩が濃いから、政治問題だ」という会内の声は克服しなければならない。法律家の団体として、自ずから圧倒的多数の賛意を得る合意形成の着地点がある。

そのような弁護士会の課題のひとつに教育問題がある。安倍政権の教育再生実行会議の動向を見極め、子どもの教育を受ける権利擁護の観点から、適切な対応をしなければならない。2006年の第1次安倍内閣における教育基本法改正問題の際にも、重大な憲法問題と考えられたが、今また教育は喫緊の重要課題となっている。

日弁連に、教育法制改正問題対策ワーキンググループができて、教育関係の各学会や市民運動団体に呼び掛けて、本日、第1回の「教育法制『改正』問題に関する各界懇談会」が開催され、私も出席した。

本日は、各参加者がそれぞれの問題意識を語った。それだけで2時間近く。
発言に共通しているものは、強い危機意識。異口同音に、このままではたいへんな事態になってしまう、戦後民主主義の成果としての教育が根こそぎ改変されてしまいかねない危機にあることが語られた。

もう少し具体的には、「教育への権力的統制の強化」と「競争による教育の破壊」の2点が柱になっている。前者は明文改憲や集団的自衛権行使容認の解釈改憲、特定秘密保護法などと軌を一にする国家主義的路線。「戦争のできる国づくりに適合する教育」と何人もが語った。後者は、一握りのエリートとそれに奉仕する従順な労働力を養成しようという新自由主義路線。格差社会化、子どもの貧困化などの問題が語られた。

最大のテーマとして関心の中心となったのが、やはり教育委員会制度改変問題。具体的には、今国会に上程予定とされる地教行法改正問題。課題はそれひとつだけでなく、教科書検定や採択の制度の問題。「日の丸・君が代」強制、教育助成の問題、在日の民族教育への差別解消、道徳の教科化、学力テスト、歴史教科書への介入、学習指導要領解説書の押し付け問題…。「安倍政権は、これからもっと多様な教育統制の具体策を出してくる予定だ」という研究者からの発言もあった。

いくつか、印象深い発言を摘記しておきたい。
「教育行政は、やらねばならない課題が山積していることが明確なのにやろうとしない。そして、やってはならないとされている教育内容への介入だけにこの上なく熱心になっている」

「今、戦後の教育改革を振り返って見るチャンスでもある。あのときに、地方だけでなく中央にも教育委員会をという声が高かった。当然、文部省など有害無益で不要ということだった。文部省は辛うじて生き残ったが、もう一度そのときの議論を今振り返って見るべきではないか」

「辛うじて生き残った文部省の大臣は、最初のうちは政治家ではなく、学者を充てていた。教育の独立と政治的中立には、それだけの気を使っていたのだ。そのことをもう一度思いおこそう」

「戦後の教育改革といえば、教育基本法、6・3制、共学、社会科、教育委員会制度ではないか。今、その全部が『教育再生』の名の下に、なし崩しにされようとしている」

そうして、自戒の念を込めて、何人もが次のように語った。
「理念や制度の問題は複雑で面倒だ。私たちは、多くの市民に理解してもらえるように話してこなかったのではないか。これからは、分かりやすい言葉で、正確にやさしく語る術を身に付けなければならない」

今後も連絡を取りあうことを確認して散会した。第1回懇談会、首尾は上々ではなかったか。
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NHK籾井会長、百田・長谷川両経営委員の辞任・罷免を求める署名運動へのご協力のお願い

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以上よろしくお願いします。
(2014年3月5日)

国旗国歌強制をめぐるナショナリズムについて

悪名高き「10・23通達」に基づく懲戒処分は457件に及ぶ。その関連訴訟は、まだまだ続いている。この訴訟は、国旗・国歌の評価をめぐる訴訟でもなければ、「日の丸・君が代」の歴史認識をめぐる訴訟でもない。ひとえに、「国旗・国歌」あるいは、「日の丸・君が代」の強制が許されるか否か、というだけの訴訟なのだ。

その本質は、個人と国家との憲法価値の優劣をめぐる争いである。すべての憲法訴訟において、実質的にそれぞれの憲法価値相互の衡量が行われる。本件において衡量されているものは、「個人の尊厳」と「国家の存立」という各憲法価値にほかならない。法的には、その衡量の帰趨は自明であるにかかわらず、この正確な衡量を狂わせているものがある。それがナショナリズムである。

本件の訴えは、「原告らに対する国旗・国歌への敬意表明の強制が許容されるのか」というシンプルな問に回答を求めるもの。
この問への回答のために衡量の対象とされるものの一方は、敬意の表明の強制対象である国旗・国歌。国旗・国歌ともに国家の象徴として、国家と等価の関係にあるものと意味づけられている。したがって、秤の一方に載せられるものは国家そのものの憲法価値である。「国家への敬意という価値」と言ってもよい。

もう一方の秤に載せるものは、国旗国歌への敬意表明の強制を受け容れがたいとする教員個人の尊厳であり、個人の思想良心の自由という人権としての憲法価値である。国家と対峙する個人が自らの尊厳という憲法価値を認めるよう裁判所に求めているのだ。

一方に「国家」を、他方に「個人」をおいた秤の衡量の結果は、本来であれば、「個人」の方が「国家」よりも遙かに重いことが明白である。近代立憲主義の大原則においては、個人が前国家的な存在であり、国家が後個人的存在であるのだから、これは当然のこと。

ところが、学校現場ではそうなっていない。行政もそのようには考えない。さらには、裁判所も、そのようにシンプルに考察することに躊躇を隠さない。国と個人との憲法価値の正確な衡量を妨げる要因があるからである。それが強力なナショナリズムの作用にほかならない。

ナショナリズムは、国民を統合する機能をもっている。その故に、為政者に親和性がある。また、ナショナリズムは国民多数派の心情でもある。多数派が、政権を形づくる原則においては、政権がナショナリズムに親和的であることは理の当然。したがって、政権を握った為政者は、意識的にナショナリズムを涵養する。その極端な例のひとつが、戦前の日本であった。

かつて、天皇制政府の教育政策は国粋的なナショナリズムを鼓吹した。日本は神国であって、他国に優越した存在であることが強調された。戦前の国策として意識的に涵養されたナショナリズムは、一面国民を統合することに成功した。しかし、その過剰なナショナリズムは、対外的には排外主義となり、侵略戦争と植民地主義の温床となった。対内的には、ナショナリズムに熱狂しない少数者を非国民とする非寛容の思想となって、思想良心の自由を侵害し、政治弾圧や宗教迫害の温床となった。

戦後民主主義は、排外的ナショナリズムを払拭したはずだった。ところが今、日本の社会には過剰なナショナリズムが復興しようとしている。戦前とまったく同じ「日の丸・君が代」を国旗国歌とする法律を作り、学校現場で「日の丸・君が代」への敬意表明を強制していることがその象徴的なできごとである。

ナショナリズムには、国民を熱狂させる力がある。国家への統合に国民の精神を総動員するエネルギーを秘めている。国家との関係を醒めた理性で見つめる人に対して、愛国的な行動に同調を求める強力な圧力となっている。

ナショナリズムは、国家を特別に重要で敬意を表すべき存在であるとする。尊崇に値するものとさえ考える。国旗国歌についても、同様にこれを重大なものとして扱い、すべての国民に対して、これに敬意を表明することを強要する。

ナショナリズムによる国旗国歌への敬意表明要求は、社会的同調圧力として存在するにとどまらず、多数決原理の下、容易に政治権力に転化する。こうして、政治権力がナショナリズムを鼓吹する悪循環が生じる。10・23通達を発出した東京都の例は、その最悪の実例である。

ナショナリズム鼓吹派は常に多数派で、ナショナリズムに同調しない人々は常に少数派である。すべての国民が国旗国歌に敬意を表明すべきことは当然と考える人々が多数派で、不起立不斉唱でこれに抵抗する人々は少数派である。関連訴訟は、そのような社会的背景の中で生じ、そのような背景の中で権利回復を求めた争訟が展開されている。

言うまでもなく、人権の擁護は、少数派の人権の擁護であることに実質的な意味がある。多数派が思想弾圧を受けることはない以上、思想良心の自由とは常に「権力(=多数派)が憎む少数派の思想の自由」である。多数派には思想良心の自由の保障は実質的に無用である。

多数派の社会的同調圧力は多数決原理の介在によって、強制力をもつ公権力の命令に転化する。10・23通達と、同通達にもとづく職務命令とはそのようにして、教員の人権を脅かしている。

多数派は、国旗国歌に敬意を表しない少数派の思想や良心は許し難いとする。個人の単位で思惟し行動する原則を認めず、国民としての思想や行動の統合を求めることがナショナリズムの本来的な志向である。行政は、ナショナリズムを背景に、多数派の意思を権力を発動して実行した。そのような文脈において、今、司法の役割が問われている。

司法がナショナリズムという「多数派の意思」に動揺してはならない。司法は、飽くまで人権の砦としての役割を果たさなくてはならず、多数決原理に迎合してこれに追随してはならない。多数派の少数者に対する同調圧力の不当を看過して、これを容認するようなことがあってははならない。司法がその役割を果たさなければ、ナショナリズムの非理性的な熱狂は、対外的には容易に排外主義となり、対内的には異論を許さない非寛容な非国民排除の社会を再現することになりかねない。ナショナリズムという危険物の扱いを過てば、日本国憲法の前文が痛苦の反省の対象とした歴史を繰り返すことにつながりかねない。

革新陣営総体が上り坂で強いとき、裁判所は保守反動の役回りとなる。革新派の勢力が十分でないとき、人権擁護の歯止めを裁判所に期待せざるを得ない。人権擁護の立場を貫徹することが、結果としてナショナリズムの歯止めとなる。10・23通達関連訴訟をそのような展望をもっつものとして関わっていたいと思う。

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よろしくお願いします。
(2014年3月3日)

教育委員会制度「改革」とは、再びの国家による教育支配のたくらみ

安倍政権の「国家主義的日本改造」プランの重要な柱のひとつが「教育再生」。再生の用語には、戦後レジーム以前の戦前への回帰願望が透けて見えている。今、その具体策として教育委員会制度「改革」の法案を今月(3月)中に国会上程の予定で、自・公の与党内摺り合わせが進行中と報じられている。またまた例のごとく、公明党のマイナーチェックによって自民党案の大筋が法案となりそうな雲行き。今国会の大きな争点の一つとなりそうだ。

この法案は、戦後改革の重要テーマであった「教育改革」の成果を否定しようとするもの。「戦後教育改革」とは、国家による教育を否定し、教育への国家・公権力の介入を防止することを主眼とするもの。少しずつ後退を余儀なくされて来た制度を一段と改悪し、教育委員会制度をほとんど形骸化することがはかられている。自民党案は、国家や自治体首長の公権力が教育へ直接介入する道を大きく開くものである。

戦前においては、教育とは国家が望む国民を作りあげることだった。国家の大目標が「富国・強兵」にあった以上、教育の目的は、「富国」を支える従順で良質の労働力を養成すること、心身ともに頑健で上官の命令に服従する「強兵」を供給することにあった。天皇制国家は、全国の教場で、国家の存立を支える国体イデオロギーを臣民の子女にたたき込んだ。全国民を対象とするマインドコントロールこそが戦前教育であったと言って過言でない。

敗戦によって事態は一変した。偏頗な非合理的イデオロギーに基づく天皇制は瓦解し、個人の尊厳と民主主義が指導原理となった。大日本帝国憲法とともにあった教育勅語は失効し、日本国憲法に「教育を受ける権利」が位置を占め、教育基本法が制定された。47年教育基本法には、清新にして格調高い以下の前文が付されていた。時代の雰囲気と国民の関係者の熱い思いをよく伝える文章。

「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。」

戦前教育についての最大の反省点は、「国家が直接教育を行った」ことにあった。国家による教育を防止し、国家の教育への支配介入を阻むために、いくつもの障壁が設けられた。まずは、教育と教育行政とを分離し、教育に関して行政のなすべきことを教育条件の整備に限定し、教育の内容に介入してはならないとした。それでも、教育行政が教育内容に介入する恐れは払拭できない。そこで、教育行政は、国家ではなく地方自治体の任務とし、さらに教育行政を一般行政から区別して、自治体の首長から独立した教育委員会を地方教育行政の主体とした。自治体の首長は住民多数の意向を体現する立ち場にあるが、こと、教育行政に限っては時々の多数派の意向から中立でなくてはならないという原則を重視した制度設計だった。

こうして、教育基本法の理念を実現するために、1948年4月教育委員会法が制定されて、全国の自治体に、公選制による教育委員会が設置された。全国の自治体にくまなく地方議会が設置されているのと同様、全国にくまなく選挙による教育委員会が設置された。国家の教育への介入は、地方分権と、教育行政の独立と、さらに地方教育行政といえども教育内容には介入できないとする原則と、3重の障壁を設けて警戒されたと言ってよい。その制度の中心に、教育委員会が位置していた。

しかし、住民の公選による教育委員会制度は戦後の保守政権確立の過程で挫折する。1956年には、教育委員を公選とせず、議会の同意を得て首長が任命することになった。法律の名前も、教育委員会法から地教行法(地方教育行政の運営に関する法律)に変わった。

教育委員会制度は、戦後レジームの重要な構成部分である。1956年制度改変後もなお、教育委員会は国家による教育統制の防波堤であり、地方自治体の首長の教育への介入にも一定の役割を果たしてきた。全国学力テスト参加に反対を貫いた犬山市教育委員会の例などにみられるとおり、不十分ながらも、国家の教育介入へのコントロールとブロックの装置となりうる。なり得ることが、予防の機能も果たしてきたといえよう。安倍政権には、このコントロールとブロックが目障りでしょうがない。これをなくしてしまいたいのが、彼らの本音。

2013年3月現在で、文科省がまとめた教育委員会制度についての各党の意見分布は以下のとおりである。
※自由民主党
・首長が議会の同意を得て任命する「常勤」の「教育長」を教育委員会の責任者とするなど、教育委員会制度を抜本的に改革。
・いじめの隠ぺいなど、法令違反や児童生徒の「教育を受ける権利」の侵害に対しては、公教育の最終責任者たる国が責任を果たせるよう改革。
※公明党
・いじめや不登校問題など学校現場の様々な問題に対応するため、委員選定や委員会の権限をはじめとする教育委員会の在り方を抜本的に見直し、その機能強化を図る。
・学校ごとの裁量を広げ、教員の創意工夫を奨励する制度を推進。
※民主党
・コミュニティスクール(土曜授業も含む)を更に増やす。
・地方教育行政法を見直し、現在の教育委員会制度を見直す。
※日本維新の会
・教育制度改革(教育委員会制度の廃止を含む)
※みんなの党
・地方自治体の判断により教育委員会を設置するか否かを決定できるようにする等、地域の実情に応じた教育行政が展開できる環境整備
・教育は市町村、現場の学校に任せることを基本とし、国の役割は最低限の教育水準の維持にとどめ、地域の実情に合わせたユニークな教育の実施
・学校を地域社会に開放し、地域社会の核に。学校経営も保護者・住民・教育専門家等による運営委員会で実施。
※社会民主党
・教育委員会の在り方を抜本的に見直し、機能を強化。
・学校ごとの裁量を広げ、教職員の自発的取組が生かされるよう制度を整備。
・地方教育委員会に予算権を付与し、地域の実態を反映した教育計画の立案・推進を可能にする等、教育の民主化の推進。
※共産党
・教育への政治支配をやめさせる。
・民主的な学校運営、住民参加の学校づくり(教育委員の公選、学校への住民参加)

以上をみれば、「教育委員会制度の理念を再確認して活性化の方策をとる」方向か、「教育委員会の形骸化を制度的に追認して教育行政の権限を首長に移行する」方向かと、争点を整理することができよう。

今回の自民党案については、ペーパーとしてまとまったものに接することができない。各紙の取材内容として報道されているものを読むしかないのだが、各紙の報道を要約すれば、以下のとおり。
?首長に、教育行政全体についての中心的権限を委譲。
?首長主宰の会議を新設し、首長の権限を強める。
?教育長を責任者と位置づけ、首長が直接任免する。
?文科大臣の教育委員会に対する「是正要求」などの権限を強化。

結局、自民党案においては、教育委員会の形は残されるが、本来期待された公権力・政治権力からの教育介入防波堤としての役割は実質において失われる。

安倍政権も、そして石原や橋下などの地方権力も、そのやり口は「選挙に勝ったからには、我こそ民意」として、民意が教育に介入して何が悪いかと開き直っているのだ。時々の多数派によって形成された時の権力が、権力の望むところの教育を行ってはならない。

教育委員会制度「改革」は、戦後教育改革の原点を忘れて、教育の政治的中立性の原則を蹂躙するものである。

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よろしくお願いします。
(2014年3月2日)

「3・1ビキニ・第五福竜丸60記念のつどい」

本日は、3・1ビキニデー。1954年3月1日、「ブラボー」とふざけた名を付けられた水爆実験による第五福竜丸の被災から60周年。その「記念のつどい」は盛況だった。メインの企画は三宅榛名さんのピアノコンサートと、池内了さんの記念講演。そして、マーシャル共和国大使や被爆者団体などの各界挨拶。

核爆発だけではなく、放射線被害への警告が今日の集いのメインテーマとなった。ヒロシマ・ナガサキとフクシマとを結ぶ位置に、第五福竜丸の被害がある。期せずして、60周年記念行事はそのことを確認する機会となった。

池内さんは、「M to M」と「N to N」という2対の標語を披露して、人類にとっての放射線の危険を語り、原発の稼働があってはならないことを力説した。

「M to M」とは、「Mt(メガトン)からMkwh(メガキロワット) へ」という意味。「核技術は、核爆発から核エネルギーへとシフトされた」「同じ技術同じ危険が、核爆弾から原発へと形を変えている」という含意。

「N to N」とは、「Nuclear to Nature」。「エネルギー供給を原発頼りにすることはやめて、自然エネルギーに切り替えよう」という意味。「日本は資源小国というが、それは地下資源のこと。太陽や海や風のエネルギーには恵まれている」「原発事故は絶対にあってはならないのだから、地震や津波の国日本での原発稼働はあり得ない」「自然エネルギーの開発を」「それこそが、人類と資源のサスティナビリティを確保する道」という説得力のある講演だった。

2月20日多喜二祭でのノーマフィールドさんの講演を思い出す。レジメに基づいた話しのなかで、都知事選の争点に絡む話題として、「生命」と「生活」の乖離が語られた。本来長いスパンでの生命を維持し擁護することが人にとって最も大切なこと。しかし、今日の生活を脅かされている人にとっては、そのような悠長なことは言っておられない。明日の生命よりは今日の生活を重視せざるを得ない。状況がそうさせている以上、今日の生活を選択する人を責めることはできない。

明らかに、原発への対応を念頭においてのこと。曖昧さを残した語り口で、必ずしも論旨明確ではなかった。私は次のように理解した。

今、脱原発こそが人類の生存のために最重要の課題。人類史的で文明史的な課題でもある。本来、都知事選のテーマとして他の課題とは比較にならない重要性をもっているはず。しかし、そのような主張は必ずしも選挙民の要求にフィットしたものとはならない。長いスパンの生命の維持よりは、今日の生活が大切ではないか、というのが多くの選挙民の声なのだから。

おそらくは、彼女は、心情的には細川護煕候補に肩入れしつつ、しかし、脱原発のシングルイシューの訴えでは票が取れない、そう思っていたのだろう。理念派からの支持は期待できても、今日の生活の改善を要求する現実派からの支援を獲得することができない。結局はそのことで敗れた、そう分析しているのだ。

本日の毎日「メディア時評」欄に、王寺賢太という論者が、「舛添・細川両氏の公約が『原発の部分を黒塗りすれば見分けが付かない』(都幹部の話し)」と引用している。しかし、細川を支持した理念派有権者にとっては、まさしく「原発の部分」の訴えこそが、死活的に重要だったのだ。

本日の「3・1ビキニ」の集いは、理念派の集会という雰囲気。まさしく長いスパンの人類の明日のために、語り合う集いとなった。核爆弾も原発もなくそう。核の軍事利用も平和利用もやめよう。経済的な豊かさよりは、平和と安全をえらぼう。確実な未来のためなら、乏しさはガマンをしよう。飽食しなくてもよい、腹7分目で十分ではないか。私には、得心の行く内容の集会だった。

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よろしくお願いします。
(2014年3月1日)

舛添要一さん、まずは国旗国歌法をしっかり理解して

昨日(2月27日)舛添要一新都知事の定例記者会見が行われ、その全文の記録がネットで読める。URL配下のとおり。
http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/KAIKEN/TEXT/2014/140227.htm

興味深いことには、知事が10・23通達や処分の問題について語っている。もちろん、知事の側から積極的に切り出したものではない。質疑応答の中で、果敢に切り込んだ記者の質問に応じてのもの。慎重な口調ながら、石原や猪瀬とは明らかに異なる対応。今回会見の発言内容には理解不足が目立つものの、もう少し事実を知ってもらえたら、もう少し教員側の意見に耳を傾けてもらえたら、またもう少し人権や民主主義の基本原則からこの問題を考えてもらえたなら、石原・猪瀬の時代とは違った舛添流教育行政となるのではないか。

舛添さんの発言のさわりをいくつか抜き出して、コメントをしたい。
【知事発言】…国旗国歌法、これは国会できちんと通りました。それから、もうご承知のように、広島の学校の校長先生が自殺するという事件があって、あの当時、国会議員だった野中広務さん含めて、これはおかしいじゃないかっていうことで、国旗国歌法を定めたと。だから、憲法のもとにある国旗国歌法、これは日本国民である限りは、それはきちんと守らないといけません。それがまず大前提で、もちろん公務員はそれを守らないといけない。

【澤藤コメント】「憲法のもとにある国旗国歌法、これは日本国民である限りは、それはきちんと守らないといけません」は、まったく意味をなさない。舛添さんも、この会見碌を読み直して、「まずいことを言っちゃった」と思っているはず。国旗国歌法は、国旗のデザイン(日章旗)を定める第1条と、国歌のメロディと歌詞(君が代)を定める第2条の2か条だけからなる法律。掲揚義務も斉唱義務も、もちろん尊重義務もない。うっかり法案に国旗国歌尊重義務などを盛り込んだら、憲法問題を生じることとなり、反対世論が昂揚して法案は成立しえない、という政府の読みがあったからだ。だから「きちんと守らないといけません」という、守るべき規範がそもそもない。おそらく、舛添さんは国旗国歌法をきちんと読み込んだことがない。
 
「日本国民である限りは、それはきちんと守らないといけません。それがまず大前提で、もちろん公務員はそれを守らないといけない」という発言は、もしかしたら、彼は法を読まずして間違った思い込みをしているのかも知れない。国旗国歌法を根拠として国民には旗と歌の尊重義務があり、公務員には強制可能なのだと。明らかな間違い。誰かが教えてあげなければならない。その機会は、都議会の質疑か、記者会見の席かということになるのだろう。

また、舛添さんの「日本国民である限りは、それはきちんと守らないといけません」という説教調が気になるところ。知事の仕事は、説教を垂れることではない。しかも、憲法遵守義務は、天皇や首相や知事自身に説くべきで、国民に説くべきものではない。さらに、言っていることが、「日本国民である限りは、国旗国歌への敬意表明はきちんと守らないといけません」に聞こえる。しかし、国旗国歌法は、日本国民の誰にも、なんの命令も要望もしていないのだ。

【知事発言】それから、…処分の中身は適当であったかどうかと、これはもう最高裁の判決があるわけですから、その判決に従うと、司法に従うということは、これは三権分立の国として当然あると思います。

【澤藤コメント】間違っていることを言っているわけではないが、行政の長の言として適切さを欠く。三権分立の理念の把握も浅薄だと言わざるを得ない。
知事発言には、権力の発動である行政処分が不当に人権を侵害することのないよう慎重な配慮を要するとの姿勢を感じ取ることができない。処分の謙抑性や慎重さではなく、積極性だけが強調されて、事後的に司法判断において違法とされればその判断に従えばよいだけだ、と言っている。
我が国の司法が、立法や行政に対する違憲審査権を持ちながら、その権限の行使に極めて消極的なことはよく知られた事実である。だから、知事としては、「いやしくも最高裁から、『違法な処分だから取り消す』という不名誉極まる判決を言い渡されることなどなきよう、慎重な配慮が必要」と部下にも都民にもいうべきなのだ。「最高裁からの違法判断の判決があれば、それに従えばよい」などというのは無責任な居直りに過ぎない。

【知事発言】それから、10.23通達含めて、これからどうするかっていうのは、これは少しまた検討課題で時間をいただきたいと思います…。その不起立懲戒処分がどうなんだろうかということについては、…重過ぎるのか低過ぎるのか…これ、もう少し事務方含めて、都教委がどういう判断であるかっていうのを直接やっぱり聞かないとわかりません。その上で、今言ったご質問にもどう対応するかを考えたいと思ってます。

【澤藤コメント】なかなかに期待を抱かせる発言ではないか。その文言のまま受けとって、10・23通達の見直し、少なくも処分濫発の見直しに期待したい。石原教育行政では、また石原後継を称する猪瀬教育行政でも、舛添さんのような率直な見解にはなり得ない。

【知事発言】私は…やはり国旗に対してきちんと敬意を払う、国歌に対してもきちんと起立して歌うということは、私は当然だと思ってますから、それ以外の解釈あるとすれば、まさにその解釈こそ、司法の場に委ねればいいと思ってますけど、ま、そういうふうに思ってます。

【澤藤コメント】おやおや、自由主義者で個人主義の理解者であるはずの舛添さんから、こんな俗論が飛び出すとは思ってもみなかった。東京オリンピックを主宰する立ち場となったから、こんな発言となったのだろうか。「私が、国旗・国歌に対して敬意を払うべし」という意見をもっていることはわかった。問題は、そのことにはない。論理がそこから幾段も飛躍するところにある。「自分だけではなく、すべての国民が国旗国歌に敬意をはらうべきが当然である」。さらに、「国旗国歌に敬意をはらうよう公権力によって強制することも当然」となっているのだ。

憲法とは、究極において国家と個人との関係をどう規律するかの規範である。少なくとも、憲法が最大の関心とするところは、権力の主体としての国家と人権主体としての個人との関係にほかならない。個人を先国家的な存在とし、国家を後個人的な存在とする憲法は、個人の国家観を当然に多様なものと認める。国家の都合で個人の国家観が制約され統制されることはあり得ない。主権者である国民個人の意思で国家がつくられたのだから、当然といえばあまりに当然。

主権者によってつくられた国家が、主権者である国民に対して、自らの象徴である国旗国歌への敬意表明を強制することは、背理であり矛盾であり、倒錯である。そんな出過ぎたことは国家に許容されてはいないのだ。

果敢な記者の質問が明らかにしてくれたことは、舛添さんは、国旗国歌法についても、また自民党の改憲草案の国旗国歌尊重義務条項についても、10・23通達についても、関連訴訟の最高裁判決についても、ほとんどご存じないようであること。是非とも、自由主義者・個人主義者としての舛添さんの本領を発揮して、頑迷固陋な国家主義が固化した石原教育行政の残滓を洗い流していただきたい。

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      滝の氷柱よさようなら、春の凱旋行進曲のお通りだい
今年、にわかの雪国となってしまった関東地方では、慣れない雪と氷に嫌というほど苦しめられた。それでも一昨日あたりから、気温が上昇して一息ついている。春めいたと喜んでいる人もいるけれど、雪を楽しむ余裕のある北国では、気温が上がって美しい景色が台無しになって残念がっている人もいる。青森県西目屋村の「乳穂ケ滝(におがたき)」では25日朝、滝が高さ33メートルの氷柱になって地面に到達した。しかし、午後には暖気でその氷柱は崩落してしまった。同村の観測によると氷柱の命はたった5時間だったそうだ。

岩手県花巻市石鳥谷町の「たろし滝」(13メートル)も一度地面に届いた氷柱が、雨で崩落してしまった(2月11日)。「たろし」は「垂氷(たるひ)」が変化したもので「つらら」の意味。両方の滝は地元の保存会が毎年、氷柱の太さを測って、その年の米の作柄を占っている。毎年氷柱ができるわけではなく、やっとできた氷柱の命も短い。関係者はハラハラしながら見守っている。楽しみなお祭りでもあり、観光行事でもある。ここに限らず、北国の各地には、雪や氷の美しい造形をお国自慢にしているところがたくさんあるに違いない。

しかし季節はめぐり、さしもの冬将軍も春のほほえみの前にはしぶしぶながら退席を覚悟したようだ。例年どおり、伊豆の河津川は濃いピンクの河津桜と黄色い菜の花の花づなで華やかに飾られた。カレル・チャペックは春の喜びを次のように語っている。

「『それ!』というあの神秘な掛け声が鳴りわたったらしい。朝のうちはまだかたい襁褓(むつき)につつまれていた芽が、柔らかい葉先をおしだして、レンギョウのしなやかな枝にきらりと小さな金の星がひかり、梨のふっくりした芽がすこしひらき、何の芽かわからないが、その先にみどりをおびた金色の蕾がかがやいていた。ねばねばした鱗片からは、若々しいみどりが顔を出し、ふとった芽がひらきかかって小さな葉脈と小さなたたみ目のやさしい透かし細工が押し合って出ようとしていた。赤くなってはにかむことはないのだ。たたんだ扇を開くがいい。うぶ毛をはやしてねむっている芽よ、目を覚ませ。スタートの命令がもう出たのだ。楽譜にのらない行進曲の、はなやかなラッパを吹き鳴らすがいい!日をうけて光れ、金色の金管楽器。とどろけ、太鼓。吹け、フリュート。幾百万のヴァイオリンたちよ、おまえたちのしぶき雨をまきちらすがいい。茶色と緑のしずかな庭が凱旋行進曲を始めたのだ」(「園芸家12カ月」カレル・チャペック)

冬の寒さに閉じこもって、今年も壮大な氷雪の美しさをみすみす見逃してしまったけれど、めぐりきた春のさそいなら、うけて立てそうだ。コートを脱ぎ捨てて、お花見に行こう。おっとその前に、NHKの籾井さん、百田さん、長谷川さんおやめなさい。花見の酒がまずくなる。
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      NHKに対する「安倍首相お友だち人事」への抗議を
☆抗議先は以下のとおり
 ※郵便の場合
  〒150-8001(住所記入不要)NHK放送センター ハートプラザ行
 ※電話の場合 0570?066?066(NHKふれあいセンター)
 ※ファクスの場合 03?5453?4000
 ※メールの場合 http://www.nhk.or.jp/css/goiken/mail.htmlに送信書式
☆抗議内容の大綱は
 *籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
 *経営委員会は、籾井勝人会長を罷免せよ。
 *百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
 *経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任を勧告せよ。
よろしくお願いします。
(2014年2月28日)

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