久々に澄みきった青空が心地よい秋の日曜日に、爽やかならぬワタクシ・アベの登場でお目汚しをお許しください。ワタクシの今国会冒頭の所信表明演説が「北朝鮮現象」と評判が悪いのですが、釈明させていただきたいのです。
問題の個所は、ワタクシが意識して声を張り上げた次のくだりです。
「我が国の領土、領海、領空は、断固として守り抜く。強い決意を持って守り抜くことを、お誓い申し上げます。現場では、夜を徹して、そして、今この瞬間も、海上保安庁、警察、自衛隊の諸君が、任務に当たっています。極度の緊張感に耐えながら、強い責任感と誇りを持って、任務を全うする。その彼らに対し、今この場所から、心からの敬意を表そうではありませんか。」
わたしは、「今この場所から、自衛隊員らに、心からの敬意を表そうではありませんか。」と演説したに過ぎず、けっしてワタクシから我が党の議員にスタンディングオベーションを求めたものではありません。もっとも、事前に最前列の我が党の若手議員諸君には内々「起立・拍手」の指示をしていたのは報道されたとおりですが、けっして全議員に指示もお願いもしていたわけではありません。前列が立てば、順次附和雷同が連鎖するだろうと、計算づくのことだったからです。
君が代の「起立・斉唱」だって同じことでしょう。誰かが起立することは、周りの人に同じ行動を促す圧力になる。着席したままでは国家に意識的な反発をもっていると見なされかねない。順次起立の附和雷同現象が生じるものなのです。みんなが起立して一人不起立は、これはもう非国民。処分の対象としても大きな世論の非難はおきないのです。それとおんなじ雪崩現象を計算し期待したということです。
できれば、公明や維新あたりには同調圧力が及ぶことを期待したのですが、そこまでは実現しなかった。その点ややものたりず残念ではありますが、さすが我が党の議員。ほぼすべての諸君の領土・領海・領空を守る兵隊さんたちへの鳴り止まぬ「起立・拍手」。これこそが戦後レジームを脱却した戦前回帰への大きな第一歩。そして、ようやくにして我が党の議員だけでも国防国家という価値観を共有する北朝鮮の域に近づいてくれたかと、感慨一入というところでございます。
このとき、ワタクシの念頭にあったのは、あの「兵隊さんよありがたう」の歌詞とメロデイでした。念のため、歌詞を掲載しておきましょう。
肩を並べて兄さんと
今日も学校へ行けるのは
兵隊さんのおかげです
お国のために
お国のために戦った
兵隊さんのおかげです
夕べ楽しい御飯どき
家内そろって語るのも
兵隊さんのおかげです
お国のために
お国のために傷ついた
兵隊さんのおかげです
淋しいけれど母様と
今日もまどかに眠るのも
兵隊さんのおかげです
お国のために
お国のために戦死した
兵隊さんのおかげです
明日から支那の友達と
仲良く暮してゆけるのも
兵隊さんのおかげです
お国のために
お国のために尽くされた
兵隊さんのおかげです
兵隊さんよありがとう
兵隊さんよありがとう
ワタクシがいう「海上保安庁、警察、自衛隊の諸君」とは、この歌の「兵隊さん」にほかならないのです。
この歌は、日中戦争開始翌年の1938(昭和13)年10月、大阪朝日、東京朝日による「皇軍将士に感謝の歌」の懸賞募集の佳作一席に選ばれたのがこの歌だそうです。ちなみに、一等に選ばれたのは「父よあなたは強かった」だとか(ウィキペディア)。当時は、朝日新聞も国家や政府・軍部に全面協力の立派なことをしていたわけです。
国民生活に奉仕する人びとはたくさんいることでしょう。障がい者や老人の介護に専念している多くの人にではなく、危険な消火活動に当たっている消防士にでもなく、「兵隊さん」には特別に感謝しなくてはいけないのです。平和を守るためには、国際間の格差や不平等や貧困をなくし医療や教育の普及をする活動が不可欠と言えば言えることでしょう。でも、そういう取り組みに地道に努力している人たちに感謝することはないのです。飽くまでも感謝の先は「兵隊さん」でなくてはならないのです。
国の平和と安全を守るためには、武力を手段とする道と、武力によらない道とがあります。日本国憲法を素直に読めば、「武力による平和」「武力による安全保障」という道を明示的に放棄し、武力によらない平和、武力によらない安全保障という道を選択しています。ワタクシ・アベはこの憲法を天敵としています。この憲法を壊して、戦前同様に富国強兵をスローガンとする国防国家を作りたい。そのためには、何よりも、国民の中に根強くある「戦争は悪だ」という惰弱な厭戦意識や戦争アレルギーを払拭して、まずは「兵隊さんよありがとう」精神を涵養しなければならないのです。
ワタクシが言及した「任務の現場」の中には、もちろんのこと辺野古や?江もはいります。ここでは、国家的大局観を見失って、地方的な利益に固執する一部の人びとの激しい抵抗を排除するために、「海上保安庁、警察、自衛隊の諸君」が体を張ってがんばっています。
まさしく、我が国の領土・領海・領空を守るための、辺野古大新基地であり、?江ヘリパッドの建設ではありませんか。それを「沖縄地上戦の悲惨な体験から絶対に基地は作らせない」と妨害するのは、非国民ともいうべき不逞の輩以外の何者でもありません。そんなオジイやオバアの抵抗を排除するために、今日、今も、「兵隊さんたち」が極度の緊張感に耐えながら、強い責任感と誇りを持って、ごぼう抜きの任務を全うしているのです。
その沖縄の彼ら「兵隊さん」に対し、今この国会のこの場所から、自民党議員諸君だけでも一丸となって、心からの敬意を表そうではありませんか、と申しあげたのです。
えっ? 弁明になっていない? なぜそう言われるのか理由が理解できない。反日の非国民諸君には、ワタクシ・アベの言葉が通じないということなのでしょう。
(2016年10月2日)
日刊ゲンダイが、辺野古新基地建設反対の闘いを「平成の砂川闘争」と表現した。「土地に杭は打たれても 心に杭は打たれない」との名フレーズを残したあの砂川闘争である。「ちゅら海を、いくさの泥で汚させない」というのが、辺野古闘争である。
いま、代執行訴訟の和解によって大浦湾埋立工事はストップしているが、代わって東村高江周辺の米軍北部訓練場のヘリパッド建設工事が強行されている。工事の強行を支えているのは、500人規模といわれる全国から投入された機動隊である。地元沖縄の警察では住民や支援者に手荒なまねはできない。県外の機動隊に頼らざるを得ないのだ。
とりわけ、目立っているのが警視庁機動隊。工事現場では「何しに来たのか」「東京へ帰れ!」と怒声が飛ぶ。海保も機動隊も、沖縄戦での日本軍(第32軍)に似ている。地元の運動体には、「警視庁機動隊をなんとかできないのか」という声が高いという。さもありなん。一方、東京の運動体には、沖縄支援の具体策を講じたいが、有効な手立てはないだろうか。という声がある。
この両者を結びつける東京でできる手立てが、機動隊予算支出差し止めの監査請求である。
地方自治法242条に基づき、東京都民であれば誰でも(たった一人でも)、機動隊の沖縄派遣費用が東京都公安委員会ないし警視総監による違法または不当な公金の支出にあたるとして、その公金支出を差し止め、あるいは既往の損害を東京都に賠償するよう請求することができる。
請求先が東京都監査委員会で、そのメンバーは5名。警視庁生活安全部長の友渕宗治が常勤で他4人が非常勤。自民党都議・山加朱美、公明党都議・吉倉正美、元中央大学大学院教授・筆谷勇、公益財団法人21世紀職業財団会長・岩田喜美枝。
監査請求は、事実の特定が不十分でもかまわない。違法ではなく不当の主張でもよい。とりあえず監査請求をすることで、派遣機動隊の規模や支出額が特定できることになる。「宿泊先は、名護市内にある1部屋1泊5万円前後の高級リゾートホテル」との報道の真偽も確認できる。そして、監査結果に納得できなければ、監査請求者が原告となって、東京地裁に住民訴訟の提起もできることになる。
機動隊派遣費用支出が、違法あるいは不当な公金支出に該当するか否かは、もっぱら派遣された機動隊の行動如何にある。いったい、機動隊は何をしたのか、何をしているのか、現地の運動体との連携を緊密に、逐一その違法行為を監査請求審査の場に反映させるというのは、優れて実践的な運動であり法的手段ではないか。
そのような試みが今準備中であるという。
(2016年9月26日)
沖縄県名護市辺野古の新基地建設を巡り、石井啓一国土交通相が沖縄県の翁長雄志知事を訴えた「辺野古違法確認訴訟」で福岡高裁那覇支部(多見谷寿郎裁判長)は(9月)16日、国側の請求を認め、県側敗訴の判決を言い渡した。(朝日から引用)
沖縄タイムスが、法廷での裁判長の発言を、「裁判長『ほっとした ありがとう』異例の感謝」「憤る傍聴席」の見出しで、次のように報じている。
「ほっとしたところであります。どうもありがとうございました」。16日午後2時、多見谷寿郎裁判長は、約4分間の国側勝訴の判決言い渡しを安堵の表情で締めくくり、県側代理人に一礼した。
翁長雄志知事が敗訴した場合に『確定判決には従う』考えを明言したことへの異例の“感謝”に、県側代理人は硬い表情を崩さなかった。傍聴席からは『出来レースとしか思えない』と憤りの声が上がった。」
裁判長の言い渡しとこれに続く発言は以下のとおりとのこと。
それでは、いま読み上げました事件(平成28年(行ケ)第3号地方自地法251条の7第1項の規定に基づく不作為の違法確認請求事件)の判決を致します。
主文
1、原告が被告に対して平成28年3月16日付「公有水面埋立法に基づく埋立承認の取り消し処分の取り消しについて(指示)」によってした、地方自治法245条の7第1項に基づく是正の指示に基づいて、被告が公水法42条1項に基づく埋立承認を取り消した処分を取り消さないことが違法であることを確認する
2、訴訟費用は被告の負担とする。
請求認容です。理由については、判決の骨子と要旨を作成している。ご覧ください。
なお、この場で2点だけ説明致します。
まず1点目は、協議と判決との関係。協議は政治家同士の交渉ごとでまさに政治の話。訴訟は法律解釈の話。両者は対象とする問題点は同じでも、アプローチがまったく違うもので同時並行は差し支えないと、考えた。
2点目。裁判所が被告に敗訴判決に従うかを確認した理由に関係する。国は敗訴しても変わらない。国は何もできないことが続くだけ。
これは弁護士の方はよくご存じだと思うが、平成24年の地方自治法改正を検討する際に問題になった。
不作為の違法を確認する判決が出ても、地方公共団体は従わないのではないか。そうなれば判決をした裁判所の信頼権威を失墜させ、日本の国全体に大きなダメージを与える恐れがあるということが問題になった。
そういう強制力のない制度でも、その裁判の中で、被告が是正指示の違法性を争えるということにすれば、地方公共団体も判決に従ってくれるだろうということで、そういうリスクのある制度ができた。
それで、その事件がこの裁判にきたということになる。そういうことで、そのリスクがあるかを裁判所としてはぜひ確認したいと考えた。もしそのリスクがあれば、原告へ取り下げ勧告を含めて、裁判所として日本の国全体に大きなダメージを与えるようなリスクを避ける必要があると考えた。もちろん代執行訴訟では、被告は「不作為の違法確認訴訟がある。そこで敗訴すれば、従う。だから、最後の手段である代執行はできない」と主張されまして、それを前提に和解が成立しました。
ですから当然のこととは思いましたけれども、今申し上げたように理解があるということでしたので、念のため確認したものの、なかなかお答えいただけなくて心配していたんですけども、さすがに、最後の決断について知事に明言していただいて、ほっとしたところであります。どうもありがとうございました。判決は以上です。じゃあ終わります。
裁判所が作成した判決骨子というものは以下のとおり。これだけ読めば、裁判所の考え方が、あらかた解る。
判決骨子
1 事案の概要
本件は,原告が,被告に対し,普天間飛行場代替施設を辺野古沿岸域に建設するために受けていた公有水面埋立ての承認の取消しを敢り消すよう求めた是正の指示に従わないのは違法であるとして,その不作為の違法の確認を求めた事案である。
2 当裁判所の判断
(1) 知事が公有水面埋立承認処分を取り消すには,承認処分に裁量権の逸脱・濫用による違法があることを要し,その違法性の判断について知事に裁量は存しないので,取消処分の違法性を判断するに当たっては,承認処分の上記違法性の有無が審理対象となる。
(2) 公有水面埋立法(以下,「法」という。)4条1項1号要件の審査対象に国防・外交上の事項は含まれるが,これらは地方自治法等に照らしても、国の本来的任務に属する事項であるから,国の判断に不合理な点がない限り尊重されるぺきである。
(3) 普天間飛行場の被害を除去するには本件埋立てを行うしかないこと,これにより県全体としては基地負担が軽減されることからすると,本件埋立てに伴う不利益や基地の整理縮小を求める沖縄の民意を考慮したとしても,法4条1項1号要件を欠くと認めるには至らない。
(4) 承認時点では,十分な予測や対策を決定することが困難な場合は引き続き専門家の助言の下に対策を講じることも許されるなどの点に照らすと法4条1項2号要件を欠くと認めるには至らない。
(5) よって,承認処分における要件審査に裁量権の逸脱・濫用があるとは言えず,承認処分は違法であるとは言えない。仮に,承認処分の裁量権の範囲内であってもその要件を充足していないという不当があれば取り消せると解したとしても,承認処分に不当があると認めるには至らないし,仮に不当があるとしても,知事の裁量の範囲内で埋立ての必要を埋立てによる不利益が上回ったに過ぎず,承認を取り消すべき公益上の必要がそれを取り消すことによる不利益に比べて明らかに優越しているとはいえないなど,承認処分を取り消すことは許されない。よって,被告の取消処分は違法である。
(6)その他,被告がする是正の指示が違法であるとの主張は,その前提とする地方自治法の解釈が失当である。
(7)遅くとも本件訴え提起時には,是正の指示による措置を講じるのに相当の期間は経過しており。被告の不作為は違法となった。また,地方自治法の趣旨及び前件和解の趣旨から,被告は自ら是正の指示の取消訴訟を提起するべきであった。
もっとも、めったにない形式の訴訟。経過を追っていないと、何が争われているかが分かりにくい。読者に分かっていただけるように解説したい。
国(沖縄防衛局)は、沖縄県名護市辺野古の大浦湾を埋め立てて、広大な米軍新基地を建設しようとしている。この埋め立てには公有水面埋立法に基づく県知事の承認が必要となっている。国といえども例外ではない。そこで、国が県に対して埋立の承認を求めた。問題となった法の条項は、公有水面埋立法4条1項の1号と2号である。
第四条 都道府県知事ハ埋立ノ免許ノ出願左ノ各号ニ適合スト認ムル場合ヲ除クノ外埋立ノ免許ヲ為スコトヲ得ズ
一 国土利用上適正且合理的ナルコト
二 其ノ埋立ガ環境保全及災害防止ニ付十分配慮セラレタルモノナルコト
国の公有水面埋立承認申請に対して、
(1)13年12月27日、仲井眞前知事が承認した。(これを「仲井眞承認」と言うことにする)
(2)15年10月13日、翁長現知事が、「仲井眞前知事がした承認」を取り消した。(これを「翁長取消」とする)
(3)16年3月16日、国(国土交通大臣)が県に対して、『翁長知事が、「仲井眞前知事がした承認」を取り消した」のは違法だから、この取消を取り消すよう』是正の指示をした。
(4)県が是正の指示に従わないから、国(国交大臣)は県を被告として「是正の指示に従わない不作為が違法であることの確認を求める」という訴訟を起こした。
つまり、国は県に対して、「翁長取消を取り消せ」と是正指示をしている。翁長取消が取り消されれば仲井眞承認が復活して、現在中断している埋立工事を再開して続行できるとになるわけだ。
国にいわせれば、(1)法に照らして「仲井眞承認」が正しく、(2)「翁長取消」が違法。だから、(3)国の是正の指示にしたがって、県は「翁長取消を取り消す」べきだがこれをしないから、(4)県の不作為(国の指示に従わないこと)の違法確認を求める、という訴訟を提起したのだ。
これに対して、県の側からは、(1)「仲井眞承認」はいい加減な審査でなされた違法な承認で、(2)翁長現知事の「承認取消」は環境保全問題を精査して出された適法な取り消し。だから、(3)国の県に対する是正の指示は不適法なものとして、従う必要はない。したがって、(4) 裁判では、違法確認請求の棄却を求める、ということになる。
判決は、国の完勝、県の完敗である。判決言渡し後の報告集会で、被告県側の弁護団長は「考えられる中では最も悪い判決」と言い切ったと報道されている。まったく、そのとおりだろう。判決書は全文180頁を越す大部なもので、全文は手許にないが、目次や沖縄タイムスが報道している下記の「詳細要旨」で十分に中身が分かる。裁判所が整理した、争点(1)?争点?のいずれについても、裁判所はなんの悩みもなく国側の肩をもっている。
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/62573
まず、判決理由は、「仲井眞承認は広範な裁量権にもとづくもので、これを取り消すには,承認処分に裁量権の逸脱・濫用による違法があることを要する」とし、一方「翁長取消の判断に、仲井眞承認の違法性判断に裁量はない」と言いきる。これで、事実上勝負あったということになる。
続いて、判決は仲井眞承認の適法性を積極的に述べている。公有水面埋立法4条1項の1号と2号の各要件を充足しているというのだ。この判断には、問題が大きい。とりわけ、「国土利用上適正且合理的ナルコト」に関して、国の防衛政策上の適正・合理性の主張に過剰にコミットしている点が問題となろう。事実上、日米安保を基軸とする国の防衛政策を過度に重要視して、これに反する自治体の判断を許さないものとなっており、地方自治をないがしろにするものと言わざるを得ない。(3) 普天間飛行場の被害を除去するには本件埋立てを行うしかないこと,これにより県全体としては基地負担が軽減されることからすると,本件埋立てに伴う不利益や基地の整理縮小を求める沖縄の民意を考慮したとしても,法4条1項1号要件を欠くと認めるには至らない。また、埋立承認の条件としての環境保全の必要性については、その重要性が没却されている。
「普天間飛行場の被害を除去するには本件埋め立てを行うしかない」などと国の主張に積極的な賛意を表するその筆致は、公正性を疑わせるに十分である。
なお、争点6の「国が行える是正の指示の範囲について」の判示が引っかかる。
「本件指示は国土交通大臣の権限を逸脱する」という、知事側の見解を一蹴して、判決はこう言っている。
「是正の指示の要件は、『各大臣は、その所管する法律、またはこれに基づく政令に係る都道府県の法定受託事務の処理が法令の規定に違反していると認めるとき』(同法245条の7第1項)と定めている。これは、法定受託事務に関する是正の指示については、都道府県が処理する法定受託事務に係る法令を所管する大臣であることだけが要件とされている。自らの担任する事務に関わるか否かに関係なく、法定受託事務の処理が違法であれば、是正の指示の発動が許される趣旨と解される。よって、この点において知事の主張に理由がないことは明らかだ。」
この見解だと、仮に仲井眞承認の先行なく、翁長知事が国(防衛局)の埋立申請を不承認とした場合でも、国(国交相)は承認するように是正の指示が出せることになる。これでは、国と自治体との対等性はまったく否定されてしまうではないか。
多見谷コートに関しては、沖縄現地の報道は、非常にネガティブなものだった。「15年10月に多見谷裁判官が福岡高裁那覇支部長に異動したのは、国寄りの判決を書いてきた姿勢を見込まれて、辺野古訴訟対策に送り込まれたのではないか」「国側代理人は法務省の定塚訟務局長だが、定塚氏は高裁支部の多見谷裁判長と連絡をとっていた」など。判決は、危惧されたとおりのものとなった。
裁判とは紛争解決の役割を持つ制度だが、どのような判決でも、ともかくどちらかの主張に軍配を挙げること自体に意味があるというものではない。公正な立場から法的正義を実現しているとの国民からの信頼を得ることによって、社会の秩序形成に資することになる。しかし、これだけ露骨な政府摺り寄りの判決となっては、沖縄県民だけでなく、沖縄の問題に関心を寄せるあらゆる人に、説得力を持ち得ないものとなった。
「こんな裁判所なら不要」のレベルではない。「こんな判決は有害」というべきだろう。これでは国と沖縄県との紛争解決に益するものとはなりようがない。
(2016年9月17日)
国が沖縄県を訴えた「辺野古・違法確認訴訟」が昨日(8月19日)第2回口頭弁論で結審した。7月22日提訴で8月5日に第1回口頭弁論。この日、判決までの日程が決まった。そして、決まった日程のとおりわずか2回の期日での結審。9月16日には判決言い渡しとなる。異例の早期結審・早期判決というだけではない。極めて問題の大きな訴訟指揮が行われている。果たして公正な裁判が行われているのだろうか。納得しうる判決が期待できるのだろうか。
問題は、やや複雑である。まずは、どんな裁判なのか確認しておきたい。
国(沖縄防衛局)は、沖縄県名護市辺野古の大浦湾を埋め立てて、広大な米軍新基地を建設しようとしている。公有水面を埋め立てるには、国といえども県知事の承認が必要となっている。そこで、国が県に対して埋立の承認を求めた。承認の是非は、主として環境保全の観点から判断される。
国の公有水面埋立承認申請に対して、
(1)仲井眞前知事が承認した。
(2) 翁長現知事が、「仲井眞前知事がした承認」を取り消した。
(3)国(国土交通大臣)が県に対して、『翁長知事が、「仲井眞前知事がした承認」を取り消した」のは違法だから、この取消を取り消すよう』是正の指示をした。
(4)県が是正の指示に従わないから、国(国交大臣)は県を被告として「是正の指示に従わない不作為が違法であることの確認を求める」という訴訟を起こした。
つまり、国にいわせれば、(1)「仲井眞前知事の埋立承認」が正しく、(2)「翁長現知事の承認取消」が違法。だから、(3)国の是正の指示にしたがって、県は「承認取消を取り消す」べきだがこれをしないから、(4)県の不作為(国の指示に従わないこと)の違法確認を求める、ということになる。
これに対して、県の側からは、(1)「仲井眞前知事の埋立承認」はいい加減な審査でなされた不適法な承認で、(2)翁長現知事の「承認取消」は環境保全問題を精査して出された適法な取り消し。だから、(3)国の県に対する是正の指示は不適法なものとして、従う必要はない。したがって、(4) 裁判では、違法確認請求の棄却を求める、ということになる。
以上の説明だと、新旧各知事の「承認」と「その取り消し」の適法違法だけが争点になりそうだが、現実の経過はより複雑になっている。それは、本件訴訟の前に、国から県に対する代執行訴訟の提起があって、その和解がなされていること、その和解に基づいて国地方係争委員会の審査があり、結論として「真摯な協議」を求められていること、である。
代執行訴訟の和解も、係争委員会の決定も、国と県との両者に真摯な協議による自主解決が望ましいとする立場を明らかにしている。しかし、この間における国の協議拒否の姿勢の頑なさは尋常ではない。
代執行訴訟の和解は今年の3月4日金曜日だった。誰もが、これから県と国との協議が始まる、と考えた。ところが、土・日をはさんで7日月曜日には、国は協議の申し入れではなく、県に対して「承認取消を取り消す」よう是正の指示を出している。国は、飽くまで辺野古新基地建設強行の姿勢を変えない。
「代執行訴訟における和解も、係争委員会の決定も、国と県との両者に真摯な協議による自主解決が望ましいとしているではないか。県は一貫して国との間に真摯な協議の継続を求めており、不作為の違法と評される謂われはない」とするのが県の立場。
衆目の一致するところ、先行した代執行訴訟での原告国の勝ち目は極めて薄かった。この訴訟での国の敗訴で国が辺野古新基地建設を終局的に断念せざるをえなくなるわけではないが、国にとっては大きな痛手になることは避けられない。裁判所(福岡高裁那覇支部・多見谷寿郎裁判長)は、強引に両当事者に和解案を呑ませて、国を窮地から救ったのではないのだろうか。
国は敗訴を免れたが、埋立工事の停止という代償を払わざるをえなかった。以来、工事は止まったままだ。国は新たな訴訟での勝訴確定を急がねばならない立場に追い込まれている。裁判所の審理促進は、このような国の立場を慮り、気脈を通じているのではないかと思わせる。
裁判所が異様な審理のあり方を見せたのは、まずは被告となった県側が答弁書を提出する前に争点整理案を提示したことである。裁判の大原則は当事者主義である。裁判所は両当事者の主張の範囲を逸脱した判決は書けない。だからまずは両者の言い分によく耳を傾けてからでなくては争点の整理はできない。答弁書提出前の争点整理など非常識で聞いたことがない。これではまるで昔のお白州並みだ。原告の審理促進の要望に肩入れしていると見られて当然なのだ。
本日(8月20日)の沖縄タイムスは、「『辺野古訴訟』結審 異様な裁判浮き彫りに」と題する社説を掲げている。そのなかに次の一文がある。
「2回の口頭弁論で見えてきたのは裁判の異様さである。
この日も国側代理人は翁長知事に「最高裁の判断で違法だと確定した場合に是正するのは当然だという理解でいいか」と繰り返し尋ねた。多見谷裁判長も「県が負けて最高裁で確定したら取り消し処分を取り消すか」とただした。
審理中の訴訟について、県が敗訴することを前提に最高裁における確定判決に従うかどうかを質問するのは裁判所の矩を超えている。
多見谷裁判長と国側代理人の示し合わせたような尋問をみると、3月に成立した国と県の和解は、国への助け舟で仕組まれたものだったのではないかとの疑念が拭えない。
多見谷裁判長は昨年10月30日付で福岡高裁那覇支部に異動している。国が代執行訴訟に向けて動き始めていた時期と重なっていたため、さまざまな臆測を呼んだ。
同裁判長と国側代理人を務める定塚誠・法務省訟務局長は成田空港に隣接する農地の明け渡しを求めた「成田訴訟」で、それぞれ千葉地裁、東京高裁の裁判官を務めていたことがある。定塚氏は和解条項の案文や和解受け入れにも深く関わっている。」
本来、裁判所は両当事者から等距離の第三者でなければならない。国の代理人が仲間の裁判官という構図で裁判が進行しているのだ。」
また、本日(8月20日)の琉球新報は、こう述べている。
「原発問題など地方自治体の民意と国益の衝突は全国にあり、今後、地方と国の対立が司法に持ち込まれる場面は増加するとみられる。不作為の違法確認訴訟は今回が制度創設以来初めてのケースだ。多見谷寿郎裁判長が、まだ煮詰まっているとは到底言えない議論をどう整理するのか。訴訟の判決は、司法が地方自治とどう向き合うかを問う試金石となる。」
そのとおりだ。試金石の意味を敷衍すれば、こうなるだろう。
9月16日判決で沖縄県が勝訴すれば、公正な司法が地方自治と真っ当に向き合ったことの証しとなる。しかし、もし国が勝訴するようなことがあれば、裁判の公正に対する国民の信頼は地に落ちることになる。司法は真っ当に地方自治に向き合っていないと評せざるをえないということだ。
そんな裁判で、仮に沖縄県が敗訴したとしよう。知事が、確定判決に従わざるをえないことは当然としても、そのことが「辺野古新基地建設を阻止する」手立てを失うことにはならない。訴訟は、「あらゆる手段を尽くして辺野古新基地建設を阻止する」という手立のひとつに過ぎない。しかも、法的手段がまったくなくなるというわけでもない。
民意が新基地建設反対という以上は、本来国は無理なことをやっているのだ。強引になればなるほど、傷を大きくするのは国でありアベ政権とならざるを得ない。自民党だけではない。国交相を出している公明党にとっても大きな打撃となるだろう。
(2016年8月20日)
都知事選の敗北を引きずっての8月である。脱力感が抜けないまま、はや原爆忌。この間、内閣改造があって、えっ? 稲田朋美が防衛大臣だと?。悪い冗談はほどほどに、と言わざるを得ないできごと。共和党の大統領候補となったトランプ同様の悪夢。と言うよりはリアリティのないマンガ的なできごとではないか。とはいえ、小池百合子都知事同様、イナダ防衛大臣が現実となっている。そもそもアベ政権の存在が、既に悪夢であり、信じがたいマンガ的できごとであり、冗談のはずの現実なのだ。
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8月3日深夜のイナダ就任記者会見は、さすがにご祝儀会見とはならなかった。記者諸君のツッコミはなかなかのもの。防衛省のホームページに防衛大臣臨時記者会見概要として掲載されている。
http://www.mod.go.jp/j/press/kisha/2016/08/04a.html
見出しをつけ、多少質疑の順番を入れ替えて整理してみた。少し長いがイナダなるものがよく分かる。ぜひ目を通していただきたい。イナダが、防衛大臣として不適任なこと明々白々ではないか。こんな人物を物騒な地位に就けては、日本の安全にもアジアの平和にも有害だ。もっとも、外の省庁なら適任という意味ではない。この人、過去の自分の発言に無責任だ。質問に噛み合った答弁の能力がない。言っていることが論理的整合性に乏しい。上手に切り返す政治的センスがない。答弁に余裕もユーモアもない。要するに政治家としてはまったくダメということだ。
イナダの歴史認識を問う
Q:大臣は、日中戦争から第2次世界大戦にいたる戦争は、侵略戦争だと思いますか。自衛のための戦争だと思いますか。アジア解放のための戦争だと思いますか。
A:歴史認識に関する政府の見解は、総理、官房長官にお尋ねいただきたいと思います。防衛大臣として、私個人の歴史認識について、お答えする立場ではありません。
Q:防衛大臣としての見解を伺いたい。
A:防衛大臣として、お答えする立場にはないと考えております。
Q:大臣の就任が決まってから、中国やフランスのメディアなどが、右翼政治家と指摘していたと思うのですけれども、大臣のそれについての御見解と、自分をどういう政治家だと。
A:多分、弁護士時代に関わっていた裁判などを捉えられたりされているのではないかというふうに思っておりますけれども、私自身は、歴史認識の問題について、様々な評価はあるでしょうけれども、一番重要なことは客観的な事実が何かということだと思います。私自身の歴史認識に関する考え方も、一面的なものではなくて、やはり客観的事実が何かということを追求してきたつもりであります。その上で、私は、やはり先ほども申し上げましたように、東アジア太平洋地域の平和と安定、そしてそのためには、中国、韓国との協力的な関係を築いていくということは不可欠だろうというふうに思っております。いつでも、私は、交流というか、話し合いの場を自分から設けていきたい。そして、議論することによって、私に対する誤解も、多分払拭されていくのではないかというふうに思っております。
Q:それに関連して、前の大臣、中谷さんは、訪中についてかなり追求されていたと思うのですけれども、大臣、先ほどの質問で聞かせていただいたのですが、訪中に関する考え方を教えて下さい。
A:機会があれば、訪中したいというふうに思っております。
Q:海外メディアは、大臣の歴史問題に関しまして、南京事件について御見解がいろいろあると思うのですが、聞きたいということと、防衛省の正式な見解では、非戦闘員の殺害、略奪行為をやったことは否定できないと。正しいか、いろいろな説はあるのでどれかとは整理はできませんとあるのですけれども、この見解についてはどう御覧になられますか。
A:私が、弁護士時代取組んでいたのは、南京大虐殺の象徴的な事件といわれている百人切りがあったか、なかったか。私は、これはなかったと思っておりますが、そういったことを裁判として取り上げたわけであります。それ以上の歴史認識については、ここでお答えすることは差し控えたいと思います。
Q:外務省の方の見解は、これは政府としての正式な見解ではないと思うのですけれども、どうお考えですか。
A:外務省の見解を申し上げていただけますか。
Q:南京入城の時に、非戦闘員が殺害、略奪行為があったことは否定できないと思われていますと。具体的なニュースについては、諸説あるので政府はどれが正しいか言えませんと。歴史のQ&Aのホームページ、外務省に書いてあるのですけれども、これはいかがでしょうか。
A:それは、三十万人、四十万人という数が、南京大虐殺の数として指摘をされています。そういった点については、私は、やはり研究も進んでいることですので、何度も言いますけれども、歴史的事実については、私は、客観的事実が何かということが最も重要だろうというふうに思います。
Q:この見解については、虐殺があったと。略奪行為。民間人の虐殺であったと。数は分からないと。この認識だと思うのですけど。これはお認めになるのですか。
A:数はどうであったかということは、私は重要なことだというふうに思っております。それ以上に、この問題について、お答えする立場にはないというふうに思っています。
Q:例えば秦郁彦なんて、ああいった右の方だと思うのですが、日本軍の陣中日記ですとか、その作戦の照合とか御覧になって、捕虜になって捕まった人は、正式な軍事裁判にかけられずに殺されていると。これは、民間人ではないし、虐殺に当たる。虐殺というか、不法な殺害に当たるので、そういう意味では数万の殺害は認めざるを得ないと。これは、かなりコンセンサス的にできあがっているところだと思うのですけれども、戦闘詳報とか、先ほど「事実が大切」と仰いましたが、日本側の残した正式な記録に残る少なくとも数万の殺害というのは、認められるのかどうかというのをぜひお伺いしたいのですが。
A:秦先生を含め、様々な見解が出ていいます。何が客観的事実かどうか、しっかりと見極めていくことが重要で、それ以上について、私がお答えできる立場にはないと思います。
Q:外務省の見解についてはどうなのですか。ホームページに載っているのですけれども。外務省と防衛省、見解が違ったら困ると思うのですが。
A:外務省の見解が、政府の見解と反するということではない、当たり前のことですけれども。
Q:大臣もこの見解をとられると、従うということですか。
A:大臣もというか、私は、歴史的な問題については客観的事実が全てであり、数は関係ないという御意見もありますけれども、数を含めて客観的事実が何かということを、しっかりと検証していくことが重要だというふうに思っています。
Q:その点でのポイントというのは、ここ20年ぐらいは議論が進んでいなくて、歴史家でこれに挑戦する人ってあまりいないのですけれども、大臣、そこら辺は、事実、事実と仰られますが、この点についても、捕虜の殺害、この点、疑義があられるということなのでしょうか。
A:私がここで秦先生の見解について、何かコメントをする立場にはありません。
イナダの靖国参拝の意向について問う
Q:大臣は、靖国の参拝を心の問題だとおっしゃったけれども、かつて小泉内閣時代に、総理は堂々と靖国に公式参拝するべきだとおっしゃられていました。それが、なぜ今、防衛大臣になられて、公式参拝をするとも、しないとも言えないのですか。
A:私は、靖国神社に参拝するか、しないか、これは、私は、心の問題であるというふうに感じております。そして、それぞれ一人一人の心の問題について、行くべきであるとか、行かないべきであるとか、また、行くか、行かないか、防衛大臣として、行くか、行かないかを含めて、申し上げるべきではないと考えております。
Q:かつて、総理大臣が一国のリーダーとして、堂々と公式参拝するべきだというふうにおっしゃっていましたけれども、それとは考え方が変わったということですか。
A:変わったというより、本質は心の問題であるというふうに感じております。
Q:そのときには、総理大臣は行くべきだというふうにおっしゃっていた訳ではないですか。心の問題だというふうにおっしゃっていないではないですか。
A:そのときの私の考えを、ここで申し上げるべきではないというふうに思います。また、一貫して、行政改革担当大臣、さらには政調会長、もうずっとこの問題は心の問題であって、行くとか、行かないとかは、お話しはしませんけれども、安倍内閣の一員として適切に判断をして行動してまいりたいと思っております。
Q:行政改革担当大臣としては行かれた。防衛大臣としては、なぜ行くとも行かないとも言わないのですか。
A:行政改革担当大臣の時代にも、何度も予算委員会、それから様々な記者会見でもお尋ねを受けました。その際にも私は、心の問題であり、靖国に参拝するとか、しないとか、すべきであるとか、すべきでないとか、申し上げませんということを一貫して申し上げてきたとおりです。
Q:一国の総理大臣は、公式参拝すべきだと言っているではないですか。べきだと、「べきだ論」を言っているではないですか。
A:私は、これの本質は心の問題だというふうに感じております。
イナダの従軍慰安婦問題の認識を問う
Q:慰安婦問題に関して聞きたいのですけれども、2007年に、事実委員会が、報告をアメリカの新聞に出したのですけれど、そのときは、大臣は賛同者として名前をつけたのですけれども、慰安婦は、強制性はなかったとコメントもあったので、今の考え方は変わっていますか。
A:慰安婦制度に関しては、私は女性の人権と尊厳を傷つけるものであるというふうに認識をいたしております。今、そのワシントンポストの意見公告についてでありますが、その公告は、強制連行して、若い女性を20万人強制連行して、性奴隷にして虐殺をしたというような、そういった米国の簡易決議に関連してなされたものだというふうに思っております。いずれにいたしましても、8月14日、総理談話で述べられているように、戦場の影に深く名誉と尊厳を傷つけられた女性達がいたことを忘れてはならず、20世紀において、戦時下、多くの女性達の尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を胸に刻みつけて、21世紀は女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしていくという、その決意であります。
Q:強制性はあったということですか。
A:そういうことではありません。そういうことを言っているのではありません。
イナダの沖縄・辺野古政策を問う
Q:別件になるのですけれども、先ほど沖縄の件で、大臣は辺野古が唯一の解決策だというふうに従来の政府の見解を示されました。ただ、なかなか移設は進んでいない状況があると、この根本的な原因はどこにあるとお考えでしょうか。
A:まずは、普天間の辺野古移設が決められた経緯でありますけれども、この問題の本質は、普天間飛行場が世界一危険な飛行場と言われ、まさしく市の中心部、ど真ん中、小学校のすぐ近くにあるということだというふうに思っております。そういったこの問題の本質を、やはり住民の皆様方にしっかりと説明をしていくということが必要であろうと思っております。そして、大きな議論の末に、裁判所で国と県が和解をして、和解条項が成立したわけでありますので、その和解条項に基づいて、今、国も提訴し、さらには協議も進めて行くのだということも説明した上で、誠実に対処していく必要がある、引き続き粘り強く取組んでいく必要があるというふうに思っております。
Q:住民に説明するのが必要と仰いましたけれども、防衛大臣になられて、自ら沖縄に訪問する、行きたいというお考えはありますか。
A:この問題については、しっかりと知事や県民の皆様方にも、御説明をする必要があるというふうに思っています。今、具体的にスケジュール的なものを検討しているわけではありませんけれども、その必要があるというふうに考えております。
Q:今日、午前の菅官房長官の会見で、基地問題と振興策がリンクしている部分があるのではないかという懸念が出ました。大臣御自身は、沖縄の基地問題、現在の辺野古移設とか止まっていますが、これが進まない段階では、振興策は減らすべきだとお考えですか。
A:振興策を減らすとはどういうことでしょうか。
Q:沖縄の振興予算を減額すべきだとお考えでしょうか。
A:私は、沖縄の基地移転、そしてその負担軽減、これは、政府を上げて安倍政権が出来ることは全て行い、また、目に見える形で実施するという基本方針の基で、在日米軍の再編を初めとした施策を着実に進めて行きたいというふうに思っております。その上で、振興策について、防衛省として、お答えする立場にはないというふうに思います。また、基地問題と沖縄振興をリンクさせることについては、本日午前の官房長官会見において、菅長官が述べられたとおりだと承知いたしております。
防衛費について問う
Q:防衛費についてお聞かせください。一時的な例外を除いて、日本の防衛費はGDPの1%以下に抑えられていたという整理だったと思うのですけれども、事実として、1%に抑えられてきたと、それが意識されていたという経緯もあるかと思うのですけれども、そういった防衛費の扱い方というのは、適正かどうかというのを、大臣、どのようにお考えでしょうか。
A:予算の中で防衛費がどうあるべきか、日本の安全を守るためにどれぐらいの防衛予算が必要か、非常に重要な問題だと思います。そういった点を踏まえて、中期防も計画を立てているわけでありますので、その中で着実に、必要な防衛費ということは、つけていくということだというふうに思います。
Q:必要があれば、1%を超えることも、躊躇するべきではないというふうに、大臣、お考えでしょうか。
A:しっかりと、いろいろなことを勘案して計画は立てております。そして、その結果が防衛予算、それが必要なものを積み上げたものであるというふうに、私は認識をいたしております。
北朝鮮弾道ミサイル発射に関して
Q:別件で大変恐縮なのですけれども、北朝鮮の弾道ミサイル、発射されたものについて、回収作業というのは、現在、どのような感じで進んでらっしゃるのか。一部報道で、打ち切ったということも報じられているのですけれども、大臣としては、どのように認識されていますか。
A:昨日から今朝にかけて、弾道ミサイル、あるいは、その一部が落下したと推定される海域において、自衛隊のP?3Cや護衛艦、海上保安庁の航空機や巡視船による捜索を実施し、発見した漂流物を回収しているところであります。他方、現在までに回収した漂流物の中に、弾道ミサイル、あるいは、その一部と判断できるようなものは確認されておりません。引き続き、自衛隊の護衛艦や艦載ヘリによる捜索を実施し、仮に、弾道ミサイル、あるいは、その一部と判断できるような物体を発見できれば、それを回収し、分析することを考えております。
自衛隊員の戦死の持つ意味について問う
Q:戦死ということについてお伺いしたいのですけれども、国民国家においては日本に限らず、戦死ということに様々な意味が付与されてきたと思います。現在、自衛隊員を預かる防衛大臣として、戦死、戦争で亡くなるということに対して、どういうふうなお考えを持つのか、戦死という言葉が持つ意味についての御認識をお聞かせ下さい。
A:憲法上、日本は戦争を放棄いたしております。ただ、憲法ができた時には9条があるので、攻めてこられたとしても、白旗を揚げて自衛権も行使しないというのが解釈だったわけですけれども、1954年に解釈を変えて、そして、日本も主権国家であるので、自衛隊は憲法違反ではない、合憲である。そして、自衛権の行使も、必要最小限度の行使を可能であるということを解釈上決め、また、それは最高裁でもそのような解釈にあるわけであります。自衛権の行使の過程において、犠牲者が出る事も、考えておかなきゃいけないことだろうとは思います。非常に、重たい問題だと思います。
重ねて歴史認識を問う。先の戦争は侵略戦争ではないのか。
Q:先ほどお答えいただけなかったので、もう一回聞きますけれども、軍事的組織の自衛隊のトップとしての防衛大臣に伺いますが、日中戦争から第二次世界大戦にいたる戦争は侵略戦争ですか、自衛のための戦争ですか、アジア解放のための戦争ですか、見解を教えてください。
A:政府の見解は、総理、官房長官に聞いていただきたいと思います。私は、昨年総理が出された談話、これが政府の見解だと認識しております。
Q:大臣自身の見解もそのとおりですか。異論はないのですか。
A:昨年の総理が出された談話に異論はありません。
Q:侵略戦争ですか。
A:侵略か侵略でないかというのは、評価の問題であって、それは一概に言えないし、70年談話でも、そのことについて言及をしているというふうには認識していません。
Q:大臣は侵略戦争だというふうに思いますか、思いませんか。
A:私の個人的な見解をここで述べるべきではないと思います。
Q:防衛大臣として極めて重要な問いかけだと思うので答えてください。答えられないのであれば、その理由を言って下さい。
A:防衛大臣として、その問題についてここで答える必要はないのではないでしょうか。
Q:軍事的組織のトップですよ。自衛隊のトップですよ。その人が過去の戦争について、直近の戦争について、それは侵略だったのか、侵略じゃないか答える必要はあるのではないですか。何故、答えられないのですか。
A:何度も言いますけども、歴史認識において、最も重要な事は、私は、客観的事実が何かということだと思います。
Q:侵略だと思うか、思わないかということを聞いているわけです。
A:侵略か侵略でないかは事実ではなく、それは評価の問題でそれぞれの方々が、それぞれの認識を持たれるでしょうし、私は歴史認識において最も重要なことは客観的事実であって、そして、この場で私の個人的な見解を述べる立場にはありません。
Q:防衛大臣としての見解ですよ。
A:防衛大臣として、今の御質問について、答える立場にはありません。
Q:では、関連ですけれども、日中戦争と太平洋戦争は若干違うと思うのですが、日中戦争の前、日本は、あの時は南満州鉄道あたりしか駐留する権利はなかったわけですね、軍隊を。そこからはみ出して、傀儡国家を打ち立てて、満州国を作ったと。これ侵略じゃないのですか。普通の常識から言って、いろいろ議論はあるのでしょうけれど、太平洋戦争は議論があるとしても、満州国を作るときの経緯というのは、どういう法律に基づいたのか、しかも、あのとき陸軍は、天皇の統帥権を最後無視して、暴走して、拡大して、後から認めた件はありますけれども、それが日本にとって最大の軍事的な教訓なわけですよね。日中戦争、あるいは、その満州国の作り方について、評価できないというのは、国のリーダーとして、いかがなものかと思いますけれど、この2点いかがですか。
A:私は、安倍内閣の一員として、政府の大臣として、この場におります。私の個人的な見解や、また、この場は、歴史論争をする場ではないと思います。政府の一員として、私は、政府の見解、これは昨年の70年談話において総理が示されたとおりだというふうに認識をいたしております。
Q:別に歴史認識(論争)をしたいわけではなくて、これはリアルな、過去をどう捉えて、軍をどうコントロールするか、あるいは、今の近隣諸国とどう仲良くやっていくか、今のリアルの問題と繋がっているからお聞きしているので、別に学者的な論争をしたいわけではないのですけど。日中戦争の、特に満州国の作るときの過程というのは、これは侵略じゃないと、歴史学者は、普通、侵略と言うと思うのですけれども、国際法の専門家の議論はあると思うのですけれども、国民感情からして、歴史学者は、普通、侵略というのは、一般の常識じゃないかと思うのですけれども、そういった一般の、例えば世界中の人々に受け止め方ですね。これ、侵略じゃないと言い切って、どこの欧米の方でもリーダーとして議論されたらいいと思うのですけれども、まともに議論できるとお思いなのでしょうか。
A:私は、歴史認識において、最も重要なのは、客観的事実が何かということだと思います。また、昨年の70年談話でも示されたように、我が国は、過去の歩みをしっかり反省をして、戦後、しっかりと憲法の下で、法律を守り、法の支配の下で、どこの国を侵略することも、また、戦争することもなく、70年の平和な歩みを続けてきたこの歩みを続けていくということだと思っております。
Q:これから、例えば、中国、韓国のリーダーとか、欧米のリーダーと会うときに、あの戦争、太平洋戦争はいろいろ議論があるかもしれませんが、日中戦争に関しても、侵略かどうか、私、言えませんというふうにおっしゃって議論されるわけですね。
A:そういう単純な質問はないと思うのですね。
Q:でも、報道関係、みんなに見られているからですね。欧米のメディアは、そこに歴史認識を集中しているわけですよ。単純と言われようがそういう具合に、この人こういう歴史認識を持っているのではないかとみんな懸念しているわけですよ。別に、単純に議論を私がふっかけるのではなくて、割と世界中のメディアがそういう懸念を持って、書いていると。それに対して答える影響というのは、我々国民なのですから、説明責任はあると思うのですが、いかがですか。
A:私は、昨年、総理が出された70年談話、この認識と一致いたしております。
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イナダは、2011年3月号の雑誌「正論」の対談で、「長期的には日本独自の核保有を単なる議論や精神論ではなく国家戦略として検討すべきではないでしょうか」と発言していた。小池百合子と同類。軽佻浮薄の極みというべきだろう。
昨日(8月5日)の記者会見で、この点を記者から突っ込まれて、「憲法上、我が国がもてるとされる必要最小限度(の武力)がどのような兵器であるかということに限定がない」と述べ、憲法9条で禁止しているわけではないとする従来の政府見解に沿って説明した。ただ、「現時点で核保有はあり得ない」としつつ、「未来のことは申し上げる立場にない」とも語った。
イナダが述べたことは、「我が国が核武装することは憲法上は許されることだ」。だが、「現時点では諸般の事情に鑑み、政策として核保有はあり得ない」。もっとも、政策の問題だから、状況次第で未来の核政策はどうなるか分からない。未来とは過去と現在を除くすべて、つまりは明日からのこと」と理解すべきなのだ。
その発言の翌日に当たる今日(8月6日)が、71年めの広島平和記念式典。松井一実市長は平和宣言で、「今こそ『絶対悪』を消し去る道筋をつけるために連帯し、行動を」と呼びかけた。核は、絶対悪なのだ。絶対悪の廃絶こそが平和への道であり、国内外の世論ではないか。
状況次第で核保有が許される、核政策がころころ変わるようなことを許してはならない。「日本独自の核保有を単なる議論や精神論ではなく国家戦略として検討すべき」などとは、悪魔の言と言わねばならない。
アベ首相は、6日、広島市内で記者会見し、イナダの発言を「我が国は核兵器を保有することはありえず、保有を検討することもありえない。稲田防衛大臣の発言はこのような政府の方針と矛盾するものではない」と擁護したという。これも同罪なのだ。都知事選敗北の脱力感は払拭し得ないが、早く悪魔が跳梁するこの悪夢を終わらせないと、世界が滅びてしまうことにもなりかねない。
(2016年8月6日)
はや7月である。今年も半分が過ぎた。この秋はどのような秋になるだろうか。暮れはどうだろう? 鬼が笑っているだろうか。それとも鬼も哭いているのだろうか。
今月10日に参院選投開票。そして、31日には都議選である。とりわけ2016年参院選の結果は、日本の将来を大きく左右することになりかねない。憲法と日本の命運のかかる選挙である。
今日を含めて選挙運動ができる期間は、あと9日。当ブログも精一杯、野党共闘の側の勝利のための記事を書き続けたい。
今日は公明党を取り上げる。自民党の下駄の雪と揶揄されつつも、壊憲与党を支える大勢力となっている。昔は、「平和の党」や「福祉の党」を称したが、今、その面影はない。
公明党の参院選政策集に、憲法問題への言及のないことが話題となっている。自民党のように「隅っこに小さく」さえも載せない。自民党のように「もごもごと曖昧に」語ることすらしない。
公明党の選挙政策集は「希望が行きわたる国へ」という21頁に及ぶものだ。大項目で6、小項目では52の政策を掲げている。そのなかに、憲法がまったく出てこないのだ。護るとも、活かすとも、付け加えるとも、語るとも、論ずるとも、変えるとも、なくするとも言わない。まったくのダンマリ。国民の間に憲法や立憲主義についての関心がこれだけ高まっているときに、国の行く末を左右するこの大問題への徹底した沈黙は、不気味というほかはない。
大項目の第5項が、「安定した平和と繁栄の対外関係」。この中には、「アジア太平洋地域の平和と繁栄の構築」という小項目がある。しかし、ここでも中国に対する侵略戦争や、韓国に対する植民地支配に関する歴史認識はまったく語られていない。そもそも憲法の理念を語る姿勢に欠けていると指摘せざるを得ない。憲法問題については完全なフリーハンドを留保しておきたいという意思表示なのだろう。こんな政党に投票できるだろうか。
公明党の選挙公約に欠けているのものは「憲法」だけではない。実は、「沖縄」も出てこない。「普天間」も「辺野古」の文字もない。もちろん、「海兵隊」も「カデナ」も「オスプレイ」も「地位協定」もない。公明党は、いったい国と沖縄の深刻な対立問題をどう考え、どう対応しようとしているのか。その方針について、民意の審判を受ける意思はないというのだろうか。
しかも、である。辺野古新基地建設に伴う大浦湾の公用水面埋立問題に関わって、沖縄県知事の埋立承認取消を執行停止とし、埋立工事の続行を強行させた悪名高い国交大臣は、公明党所属の石井啓一ではないか。辺野古埋立を是とするのであれば、堂々と公約に掲げて民意の審判を仰ぐべきが当然ではないか。
選挙遊説でも、公明党の幹部は憲法も沖縄も語らないという。しかし、両テーマとも日本の政治の根幹に関わる大問題である。有権者の関心もきわめて高い。これに触れない公明党の選挙公約を、いったい何と評すべきか。
「2014年衆院選や13年参院選の公約では、憲法に新たな条項を加える『加憲』の項目があったが、今回は触れていない。山口那津男代表は(6月)9日の記者会見で『今回の選挙は、憲法改正の成熟した選択肢が実現していないので、争点にはならないと考えている』と説明した。」(毎日)
これは、論理的に破綻している。前回・前々回選挙では成熟していた憲法改正の選択肢が、今回選挙ではその成熟がしぼんだとでもいうのであろうか。事態はまったく逆であることが明らかだ。要するに公明党は、都合の悪いことからは逃げているだけのことなのだ。
憲法についても沖縄についてもホンネを語らず、きれいごとだけを並べてごまかして、票だけはいただこうという、姑息な魂胆が透けて見える。これが公明党の流儀というほかはない。このような真摯さと誠実さに欠ける政党の集票活動に有権者は惑わされてはならない。
この公明党の姿勢への反発を「日刊ゲンダイ」が報じている。「公明党まさかの大苦戦 比例区に手回らず支持者離れも深刻」という表題。
「支持者を裏切った結果か。公明党が真っ青になっている。参院選で予想外の苦戦をしているからだ」というリードで始まっている、その記事の中に次の取材コメントが紹介されている。
「公明党は定数が増えた選挙区に次々に候補者を擁立しています。愛知は9年ぶり、兵庫と福岡は24年ぶりに立てた。パワーが分散されたためか、埼玉と兵庫は大苦戦している。埼玉は最後の1議席を共産党と争い、兵庫は民進党と競り合っている。焦った公明党は、安倍首相に泣きつき、埼玉と兵庫の公明党候補の応援演説をしてもらっています。もし、2つの選挙区を落としたら、山口那津男代表の責任問題になるでしょう」(公明党事情通)
「公明党の支持者は、公明党を“平和の党”“福祉の党”と信じて支持し、選挙になれば知り合いに投票をお願いする、いわゆる“フレンド票”を集めてきた。ところが公明党は、“戦争法案”成立に突っ走った。あれで、熱心な支持者ほど離れてしまった。今回、“自分は公明党に一票を入れるけど、フレンド票は集めない”と口にする人も多い。比例票が激減する可能性があります」(公明党関係者)
同様の報道は、複数見られる。私には選挙情勢や党内事情についての真偽を判断する術はない。しかし、かつては平和を語って平和憲法擁護の立場を明確にし、福祉を語って民衆の支持を集めていた政党のこの様変わりである。戦争法を強行採決し、弱い者イジメの新自由主義政策に加担している公明党に、かつての真面目な支持者が愛想をつかして公明党離れをしつつあるということは、大いに納得できる。
こんな不誠実な政党への投票は、多くの有権者にとって自らの首を絞めることと強く警告せざるを得ない。だから申しあげる。「およしなさい。公明党への投票」。
(2016年7月1日)
本日、沖縄戦で組織的戦闘が終結したとされる「6月23日」。あの日から71年目である。折も折。元米海兵隊員の強姦殺害事件への追悼・抗議集会の直後であり、辺野古新基地建設反対を最大テーマとする参院選のさなかでもある。
選んだ如くのこの時に、「沖縄全戦没者追悼式」が糸満市の平和祈念公園で開かれた。アベ晋三も、抗議を受ける悪役としての参列。今年も「帰れ」という野次が飛んだという。さぞや針のムシロに坐る心もちであったろう。
「『全』戦没者追悼式」であることに意味がある。「平和の礎」の刻銘と同様に、勝者と敗者を区別することなく、また兵士と民間人の区別もなく、その死を意味づけすることなく、沖縄戦の戦没者のすべてを、かけがえのない命を失った犠牲者として等しく追悼するという考え方だ。ここはひたすらに戦没者の死を悼む場であって、それ以上に出過ぎた、遺族以外の何ものかが死者の魂を管理するという考えが拒否されている。
これと対極にあるのが、死者を徹底して区別し、死者の魂を国家が管理するという靖國の思想である。死者を悼むのではなく、特別の死に方を礼賛し称揚して、特定の死者の魂を国家が管理するというのだ。靖國神社は、天皇の軍と賊軍とを徹底して区別し、天皇への忠死か否かで死者を区別し、敵と味方を未来永劫に分かつ差別の思想に拠っている。露骨な死者の国家利用と言ってよい。しかも、軍国主義高揚のための戦没者と遺族の心情の利用である。
平和の礎は、21万1326人の沖縄戦戦没者の名を刻銘している。
「太平洋戦争・沖縄戦終結50周年記念事業の一環として、国籍を問わず、また、軍人、民間人の別なく、全ての戦没者の氏名を刻んで、永久に残すため、平成7年(1995年)6月に建設したものです。その趣旨は、沖縄戦などでなくなられた全ての戦没者を追悼し、恒久平和の希求と悲惨な戦争の教訓を正しく継承するとともに、平和学習の拠点とするためです。」とされている。
「平和の礎」のデザインコンセプトは、“平和の波永遠なれ(Everlasting waves of peace)”というもので、屏風状に並んだ刻銘碑は世界に向けて平和の波が広がるようにとの願いをデザイン化したものだという。この刻銘碑の配列は、沖縄県民・県外都道府県民・外国人の各死者の刻銘碑群に区分されている。その外国人刻銘数は1万4572人。内訳は以下のとおりである。
米国 14,009
英国 82
台湾 34
朝鮮民主主義人民共和国 82
大韓民国 365
なお、沖縄県民 149,362人
県外都道府県計 77,402人
で、いずれも兵士と民間人の区分けはしていない。
平和の礎も沖縄全戦没者追悼式も、まったく靖国のようではない。靖国のように敵味方を区別しない、靖国のように兵士だけを顕彰するものではない。靖国のように神道という宗教形式をもたない、靖国のように天皇の関与がない、靖国のように戦没者の身分や階級にこだわらない、靖国のように恩給の受給資格と連動しない。そして、靖国のように愛国心を鼓舞しない。靖国のように戦死者の勇敢さや遺徳を誇示することはない。靖国のように、戦争を美化しない。靖国のように敗戦を無念としない。靖国のように、戦犯を祀ることがない。戦犯というカテゴリーもなければ、祀るという行為とも無縁である。靖国のように戦争や軍隊や兵士を意味づけることをしない。もちろん、靖国のように、武器を飾ってみせたりなどけっしてしない。
この日、思い起こすべきは、沖縄県平和祈念資料館設立の趣意書にある次の言葉である。
「1945年3月末、史上まれにみる激烈な戦火がこの島々に襲ってきました。90日におよぶ鉄の暴風は、島々の山容を変え、文化遺産のほとんどを破壊し、20数万の尊い人命を奪い去りました。沖縄戦は日本に於ける唯一の県民を総動員した地上戦であり、アジア・太平洋戦争で最大規模の戦闘でありました。
沖縄戦の何よりの特徴は、軍人よりも一般住民の戦死者がはるかに上まわっていることにあり、その数は10数万におよびました。ある者は砲弾で吹き飛ばされ、ある者は追い詰められて自ら命を絶たされ、ある者は飢えとマラリアで倒れ、また、敗走する自国軍隊の犠牲にされる者もありました。私たち沖縄県民は、想像を絶する極限状態の中で戦争の不条理と残酷さを身をもって体験しました。
この戦争の体験こそ、とりもなおさず戦後沖縄の人々が、米国の軍事支配の重圧に抗しつつ、つちかってきた沖縄のこころの原点であります。
”沖縄のこころ”とは、人間の尊厳を何よりも重く見て、戦争につながる一切の行為を否定し、平和を求め、人間性の発露である文化をこよなく愛する心であります。
私たちは、戦争の犠牲になった多くの霊を弔い、沖縄戦の歴史的教訓を正しく次代に伝え、全世界の人びとに私たちのこころを訴え、もって恒久平和の樹立に寄与するため、ここに県民個々の戦争体験を結集して、沖縄県平和祈念資料館を設立いたします。」
本日の琉球新報が、「安全保障関連法が施行され、日本が戦争のできる国へと大きく変貌した中で迎える『慰霊の日』」に、格別の思いの社説を書いている。タイトルが「慰霊の日『「軍隊は住民を守らない』 歴史の忘却、歪曲許さず」というもの。これこそ今ある沖縄の原点ともいうべきものだろう。
「『地獄は続いていた』
日本軍(第32軍)は沖縄県民を守るためにではなく、一日でも長く米軍を引き留めておく目的で配備されたため、住民保護の視点が決定的に欠落していた。首里城の地下に構築した司令部を放棄して南部に撤退した5月下旬以降の戦闘で、日本兵による食料強奪、壕追い出し、壕内で泣く子の殺害、住民をスパイ視しての殺害が相次いだ。日本軍は機密が漏れるのを防ぐため、住民が米軍に保護されることを許さなかった。そのため戦場で日本軍による命令や強制、誘導によって親子、親類、友人、知人同士が殺し合う惨劇が発生した。
日本軍の沖縄戦の教訓によると、例えば対戦車戦闘は『爆薬肉攻の威力は大なり』と記述している。防衛隊として召集された県民が急造爆弾を背負わされて米軍戦車に突撃させられ、効果があったという内容だ。人間の命はそれほど軽かった。県民にとって沖縄戦の最も重要な教訓は「命(ぬち)どぅ宝(命こそ宝)」だ。
『終わらない戦争』
戦後、沖縄戦の体験者は肉体だけでなく心がひどくむしばまれ、傷が癒やされることなく生きてきた。その理由の一つが、沖縄に駐留し続ける米軍の存在だ。性暴力や殺人など米兵が引き起こす犯罪によって、戦争時の記憶が突然よみがえる。米軍の戦闘機や、米軍普天間飛行場に強行配備された新型輸送機MV22オスプレイの爆音も同様だ。体験者にとって戦争はまだ終わっていない。
戦後も女性たちは狙われ、命を落とした。1955年には6歳の幼女が米兵に拉致、乱暴され殺害された。ベトナム戦時は毎年1?4人が殺害されるなど残忍さが際立った。県警によると、72年の日本復帰から2015年末までに、米軍構成員(軍人、軍属、家族)による強姦は129件発生し、147人が摘発された。そして今年4月、元海兵隊員による女性暴行殺人事件が発生した。
戦場という極限状態を経験し、あるいは命を奪う訓練を受けた軍人が暴力を向ける先は、沖縄の女性たちだ。女性たちにとって戦争はまだ続いている。被害をなくすには軍隊の撤退しかない。
『軍隊は住民を守らない』。私たちは過酷な地上戦から導かれたこの教訓をしっかり継承していくことを犠牲者に誓う。国家や軍隊にとって不都合な歴史的出来事の忘却、歪曲は許されない。」
本日沖縄を訪れたアベ晋三は、この血を吐くような地元紙の社説を読んだだろうか。この社説に象徴される沖縄の民衆の気持ちを理解しただろうか。沖縄全戦没者追悼式と平和の礎の思想に触れ得ただろうか。それとも、改憲戦略においてどのように沖縄の世論を封じ込めるべきかと策をめぐらしただけであったろうか。
(2016年6月23日)
本日(6月19日)那覇で、米軍属(元海兵隊員)女性暴行殺人事件に抗議する県民大集会が開催された。集会名は、「元海兵隊員による残虐な蛮行を糾弾! 被害者を追悼し、沖縄から海兵隊の撤退を求める県民大会」(主催・辺野古新基地を造らせないオール沖縄会議)。参加者数は6万5千人。県民の怒りと悲しみの思いの強さを示すこの集会。集会参加者の訴えは直接には日米両政府に向けられた形だが、本土の私たちにも鋭く「沖縄をこのままにしておいてよいのか」と問いかけている。
1995年の複数米兵による少女暴行事件を受けて開かれた県民総決起大会は、8万5千人規模の大集会だった。今回は、自民・公明・おおさか維新の3党は参加していない。その意味では、文字通りの「オール沖縄」の集会とは言えないかも知れない。
しかし、今圧倒的な県民世論は、仲井眞前知事の辺野古埋立承認に怒り、翁長県政を支えて政府と対峙している。県議選では、自民・公明・維新の3党を相手に翁長県政支持を確認した。そして、いよいよ参議院選挙の闘いが間近だ。自・公・維まで参加の「オール沖縄」では闘う相手方を見失わせることになるのではないか。
政府与党の下部組織であり、改憲勢力でもある自・公と、それに擦り寄る維新の大会不参加は、自らの孤立化を際立たせたもの。この3党不参加での、6万5千人の集会規模は、あらためて大きな意味のあるものと思う。
集会では、被害女性の死を悼んで黙祷のあと、被害女性の父親が寄せたメッセージが読み上げられた。
「米軍人、軍属による事件・事故が多い中、私の娘も被害者の一人となりました。次の被害者を出さないためにも、全基地撤去、辺野古新基地建設に反対。県民が一つになれば可能だと思っています」
あいさつに立った翁長知事は「(95年の大会の際に)二度と繰り返さないと誓いながら、政治の仕組みを変えることができなかった。知事として痛恨の極みであり、大変申し訳ない」と述べた、と報じられている。
若者たちも登壇し、「米軍基地を取り除くことでしか問題は解決しない」などと主張した。最後に採択された大会決議は、繰り返される米軍関係の犯罪や事故に対する県民の怒りと悲しみは限界を超えていると指摘。日米両政府が事件のたびに繰り返す「綱紀粛正」「再発防止」には実効性がないと反発し、県民の人権と命を守るためには、在沖海兵隊の撤退のほか、県内移設によらない米軍普天間飛行場の閉鎖・撤去、遺族らへの謝罪や補償、日米地位協定の抜本的改定、を求める決議が採択された。
先に(5月26日)、県議会でも「在沖海兵隊の撤退を求める抗議決議」が「全会一致」で可決された際にも、自民党議員は議場から退席して採決に加わらなかった。今回の県民集会でも同じことが繰り返されたことになり、自・公はさらに孤立と矛盾を深めたといえよう。
沖縄の怒りと悲しみが渦巻く大集会が行われている頃、東京で「思想史の会」というグループの研究会が開かれ、誘われて参加した。
報告は次のタイトルの2題。
「明仁天皇と昭和天皇」
「沖縄における天皇の短歌は何を語るのか」
各1時間余の報告のあとに、原武史放送大学教授のコメントがあって、質疑と意見交換があった。
最初の報告の中で、昭和天皇(裕仁)の日本国憲法や(旧)安保条約制定過程への積極関与の経過が語られ、とりわけ昭和天皇の超憲法的行動として「沖縄メッセージ」が次のように紹介された。
☆昭和天皇は新憲法施行後も、閣僚の上奏など非公開の場では政治的発言を続けてきた。いくつかの例を挙げれば…。
・1947年5月、マッカーサーとの第4回会見。「日本の安全保障を図るためには、アングロサクソンの代表であるアメリカが、そのイニシアティブを執ることを要する」。
・1947年7月、芦田均外相に、「日本としては結局アメリカと同調すべきで、ソ連との協力は難しい」
・1948年3月、芦田首相に、「共産党に対しては何とか手を打つことが必要と思うが」
☆時には、政府を介さずにアメリカにメッセージを送ることも。1947年9月にはGHQの政治顧問に対し、共産主義の脅威とそれに連動する国内勢力が事変を起こす危険に備え、アメリカが沖縄・琉球列島の軍事占領を続けることを希望する。それも、25年や50年、あるいはもっと長期にわたって祖借するという形がよいのではないか、と申し入れた。
私見だが、当時の天皇(裕仁)には、既に施行(47年5月)されていた新憲法に従わねばならないという規範意識は希薄で、皇統と皇位の維持しか脳裏になかった。そのために、言わば保身を動機として、沖縄を売り渡すという身勝手なことを敢えてしたのだ。その裕仁の保身が、69年後の今日の沖縄県民の大集会につながっている。
おそらくは、そのような負い目からだろう。昭和天皇(裕仁)は、戦後各地を巡幸したが沖縄だけには足を運ばなかった。「沖縄における天皇の短歌は何を語るのか」のレポートで、彼の「思はざる病となりぬ沖縄をたずねて果たさんつとめありしを」(1987年)という歌があることを知った。気にはしていたのだ。
父に代わって、現天皇(明仁)は妻を伴って、皇太子時代に5回、天皇となってから5回、計10回の沖縄訪問をして、その都度歌を詠み、琉歌までものしている。多くは沖縄戦の鎮魂の歌であり、それ以外は沖縄の自然や固有の風物・文化にかかわるもの。主題は限定され、現在も続く実質的な異民族支配や基地にあえぐ現実の沖縄が詠まれることはない。
この天皇の沖縄へのメッセージを在沖の歌人たちはどう受け止めたか。報告者は11首の歌を披露している。たとえば、次のような激しさの歌。
・日本人(きみ)たちの祈りは要らない君たちは沖縄(ここ)へは来るな日本(そこ)で祈りなさい(中里幸伸)
・戦争の責めただされず裕仁の長き昭和もついに終わりぬ(神里義弘)
・おのが視野のアジア昏れゆき南海に没せし父よ撃て天皇を(新城貞夫)
今日6月19日県民大集会も、根底に、沖縄の人びとのこの激しい憤りと悲しみがあってのこと。かつては天皇の国に支配され、天皇への忠誠故に鉄の嵐の悲惨に遭遇し、そして天皇によって米国に売り渡され、異民族支配が今も続く沖縄。
傍観者としてではなく、今日の集会の人びとの怒りを受け止めねばならないと思う。
(2016年6月19日)
辺野古新基地建設に関しての沖縄県と国との紛争。3月4日における訴訟上の「(暫定)和解」に続く法的手続として注目されていた、「国地方係争処理委員会」の審査申立事件において、昨日(6月17日)予想外の結論が出た。
「アメリカ軍普天間基地の移設計画を巡って、国と地方の争いを調停する『国地方係争処理委員会』は、名護市辺野古沖の埋め立て承認の取り消しを撤回するよう、国が出した是正の指示について、違法かどうか判断しないとする結論をまとめました。」(NHK)というのだ。
辺野古・大浦湾の埋立承認問題で、沖縄県と国とが鋭く対立する以前には、一般には、ほとんど知られた存在ではなかった国地方係争処理委員会(委員長・小早川光郎成蹊大学法科大学院教授、外4名)。地方自治法250条の7第1項「総務省に、国地方係争処理委員会を置く」にもとづいて設けられている。その権限は、同条2項で「委員会は、普通地方公共団体に対する国又は都道府県の関与のうち国の行政機関が行うものに関する審査の申出につき、この法律の規定によりその権限に属させられた事項を処理する。」とある。
具体的に、委員会は何をどのように処理することができるか。
法250条の13は、(自治体から国に対して、国の関与に関する審査の申出)ができるとしている。
「250条の13第1項 普通地方公共団体の長その他の執行機関は、その担任する事務に関する国の関与のうち是正の要求、許可の拒否その他の処分その他公権力の行使に当たるものに不服があるときは、委員会に対し、当該国の関与を行つた国の行政庁を相手方として、文書で、審査の申出をすることができる。」
沖縄県知事(翁長雄志)は、この規定に基づいて、国の行政庁(国土交通大臣)を相手方とする審査申し出をして受理された。3月14日のことである。
沖縄県からの「審査申出の趣旨」は、以下のとおりである。
「相手方国土交通大臣が沖縄県に対して平成28年3月16日付国水政第102号「公有水面埋立法に基づく埋立承認の取消処分の取消しについて(指示)」をもって行った地方自治法第245条の7第1項に基づく是正の指示について、相手方国土交通大臣はこれを取り消すべきである
との勧告を求める。」
経過を把握していなければ、一読しての理解は困難ではなかろうか。理解のために言葉を補えば、こんなところだろうか。
「平成28年3月16日付国水政第102号」という日付と文書のナンバリングで特定された、「国土交通大臣が沖縄県に対してした是正指示」を取り消すように、委員会から大臣に勧告してもらいたい、というのが骨格である。
その〈国から県への是正指示〉の内容とは、『公有水面埋立法に基づく(仲井眞前知事がした国への)埋立承認について、(翁長現知事がした埋立承認の)取消処分について、これを取消すようにという(国土交通大臣の県に対する)指示』である。この是正の指示について、相手方国土交通大臣はこれを取り消すべきであるという、係争委の勧告を求めている。
なお、申立年月日よりも、是正指示の日付があとになっているのは、当初は3月7日付で出された是正指示だったが、理由の付記がないと不備を指摘されて国土交通大臣が指示を出し直したからである。
この件での相手方国土交通大臣の答弁書における、申出の趣旨に対する答弁は以下のとおりとなっている。
「相手方(国土交通大臣)の審査申出人(沖縄県知事)に対する平成28年3月16日付けの是正の指示(以下「本件指示」という。)が違法でないとの判断を求める。」
本件指示をめぐって、沖縄県側は「違法な指示として、国はこれを取り消すべきである」との判断を、国側は「違法でない」との判断を、各々が求めた。そして、審理期間の90日が経過して審査を終えた。
審査の結果としての判断の示し方は、法250条の14第1項に次のように定められている。
「委員会は、自治事務に関する国の関与について前条第一項の規定による審査の申出があつた場合においては、審査を行い、
相手方である国の行政庁の行つた国の関与が違法でなく、かつ、普通地方公共団体の自主性及び自立性を尊重する観点から不当でないと認めるときは、理由を付してその旨を当該審査の申出をした普通地方公共団体の長その他の執行機関及び当該国の行政庁に通知するとともに、これを公表し、
当該国の行政庁の行つた国の関与が違法又は普通地方公共団体の自主性及び自立性を尊重する観点から不当であると認めるときは、当該国の行政庁に対し、理由を付し、かつ、期間を示して、必要な措置を講ずべきことを勧告するとともに、当該勧告の内容を当該普通地方公共団体の長その他の執行機関に通知し、かつ、これを公表しなければならない。」
つまり、
本件指示が違法でも不当でもない場合には、その旨を通知し公表し、
本件指示が違法あるいは不当な場合は、必要な勧告をする、
というのだ。違法・不当について判断しないという選択肢は、明記されていない。
にもかかわらず、委員会は、敢えて「本件指示の違法・不当について判断しない」とする結論を出した。この点について、NHKはこう報じている。
「委員会はこの申し出について協議した結果、『国と沖縄県との間で共通の基盤づくりが不十分な状態のもと、委員会として国の是正指示が違法かどうか判断することは、国と地方とのあるべき関係からみて望ましくない』などとして、違法かどうか判断しないとする結論をまとめました。
そのうえで委員会として『国と沖縄県は、普天間飛行場の返還という共通の目標の実現に向けて真摯に協議し、双方がそれぞれ納得できる結果を導き出す努力をすることが問題の解決に向けて最善の道だという見解に達した』としています。
小早川光郎委員長は、記者会見で『国地方係争処理委員会の制度は、国の関与の適否を委員が判断して当事者に伝えることで、国と地方の対立を適正に解決するという趣旨の制度だ。今回のケースでは、そうした対応をしても、決して両当事者にとってプラスになるわけではない。法律の規定に明文化されていない答えを出すときに、それしか有益な対応がありえない場合は、非常に例外的な措置だが、法解釈上はあるのだろうと考えて、きょうのような決定をした』と述べました。」
この結論を受けての国側の対応は、居丈高だ。
「中谷防衛大臣は、防衛省で記者団に対し『国による是正の指示が違法だとは認めなかったので、是正の指示は有効だ。仮に沖縄県が結論に不服があれば、和解条項に基づき、1週間以内に是正の指示の取り消し訴訟を提起することになると承知している』と述べました。そのうえで、中谷大臣は『日米同盟の抑止力維持と普天間飛行場の危険性の除去を考えれば、名護市辺野古への移設が唯一の解決策だ。国と沖縄県は和解条項に従って協議を行うことになるので、常に誠意を持って、政府の取り組みについてご理解いただけるよう努力していく』と述べました。」(NHK)
国側は、「本件指示が違法でないとの判断を求め」たにも拘わらずそのような判断は得られなかったのだ。「違法だという県側の主張は認められなかった」のだから、「県側で、取り消し訴訟を提起すべきだ」というのは、一般論としては間違いでないとしても、この局面では苦しい言い分。飽くまで一方的な主張に過ぎない。
注目されていた沖縄県側の対応は、本日(18日)次のように報じられている。
「米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の同県名護市辺野古への移設問題で、翁長雄志知事は18日、国の第三者機関『国地方係争処理委員会』が17日に示した審査結果を不服とせず、提訴しない考えを示した。翁長知事は『委員会の判断を尊重し、問題解決に向けた実質的な協議をすることを期待する』と会見で述べた。」(朝日)
係争委は、消極的に本件指示の違法性を判断しないというだけでなく、より積極的に「普天間飛行場の返還という共通の目標の実現に向けて双方が真摯に協議を尽くすべき」だとしているのだから、県の対応に理があるというべきだろう。
なお、本日の赤旗に次の報道がある。
「決定文では、今回の法的争いの本質が辺野古新基地建設という「施策の是非」をめぐる両者の対立に端を発したものであり、『議論を深める共通の基盤づくりが不十分な状態のまま、一連の手続きが行われてきたことが、紛争の本質的な要因だ』と指摘。現在の状態を『国と地方のあるべき関係から乖離している』と断じ、『このままであれば、紛争は今後も継続する可能性が高い』と警告しました。」
係争委はなかなか味なことをした、というのが私の感想。大岡裁きの味、である。第三者委員会とは言いながらも、国に不利な結論は出しがたい。さりとて、法理や世論を無視することもできない。違法・不当についての判断を控えて、真摯な協議を尽くせというのは、ぎりぎり可能な良心的対応というべきではないか。これが情に適った大人の智恵としての判断なのかも知れない。
協議に期限は付されていない。国と県との真摯な協議が続く限り、埋立工事の再開はできない。話し合いの落ち着きどころは、世論の動向次第だ。明日(6月19日)は、「オール沖縄会議」が主催する元米海兵隊員の女性暴行殺害事件に抗議する「県民大集会」が開催される。そして、間もなく参院選となる。その結果が、大きく協議の成りゆきに影響することになるだろう。意外に、この大岡裁きが、沖縄にとって有益にはたらくことになるのではなかろうか。
(2016年6月18日)
明治大学で行われた、「圧殺の海 第2章 『辺野古』先行上映」(試写会)を観てきた。そして、沖縄の現実を切りとった映像の迫力に圧倒された。
怒号と叫喚の107分間。見続けるのが息苦しい。しかし、目をそらしてはならない。これが、マスコミ報道では知ることのできない沖縄の現実なのだ。沖縄や基地問題に関心をもつ者のすべてが、この映画を見つめて沖縄の現実を知らなければならない。映画が聞かせる怒号は、理不尽な権力行使への沖縄の民衆の怒りのほとばしりであり、叫喚は権力の暴力を受けた者の呻き声である。
辺野古新基地建設を強行する強大な権力の圧倒的な意志。その巨象に立ち向かう蟻の群のごとき抗議行動。抗議に立ち上がる者の前に、立ちはだかる実力部隊は、沖縄県警だけではない。警視庁の機動隊であり、海上保安庁であり、そして米軍である。五分の魂が圧倒的な権力と切り結んでいる様が映し出される。
なんとしても基地を作らせまいと体を張って抵抗する人びとと、これを制圧しようとする機動隊や海保とのせめぎあいが、生々しく映像化されている。翁長知事誕生の2014年11月から暫定和解成立によって工事が休止した16年3月で終わらず、先月(16年5月)まで18か月の記録。毎日撮り続けて、総撮影時間は1200時間にもなると説明があった。6人のカメラマンが現場に張り付いてのことというが、よくぞここまでと思わせる接近しての危険を顧みない撮影ぶりである。
政治や訴訟の推移と関連しつつも、現場の運動が独自の論理で動いていることがよく分かる。抵抗する人びとの悲鳴にも似た痛切な言葉が、胸に突き刺さる。
「お願いだから、沖縄を壊さないで。」
「ここは、私たちの海だ。あなたたちは帰れ。」
「何が公暴(公務妨害罪)だ。暴力で俺たちの故郷を奪ったのはそっちじゃないか」
「あなた方だって、自分の故郷をこんなに壊されたら怒るでしょうが」
「私たちは平和を求めている。あなた方も戦争はいやでしょう」
「沖縄全体が反対しているんだ。なぜ沖縄の声を聞かないんだ」
案内のチラシには、こう書いてあった。
「翁長知事誕生から18ヶ月、24時間体制で現場に張り付き撮影を続けた辺野古・抵抗の記録『辺野古』が完成した。沖縄県民は、どうたたかってきたのか。国が沖縄県を訴えた代執行訴訟は、2016年3月に和解となるが、その後の辺野古は・・・。
劇場公開に先立ち映画の上映とシンポジウムを開催します。」
「辺野古で、大浦湾で、キャンプシュワブゲート前で、県庁で、6人のカメラマンが撮影した映像は1000時間を越える。抗議船やカヌーを海上保安官に転覆させられても、海へ出つづける人びと、セルラースタジアムを埋め尽くす県民、権限を行使し国に抵抗する知事、水曜日、木曜日と工事をさせない日を増やすゲート前の座り込み、米兵のレイプを許さないゲート前の2千5百人。テレビでは見えない辺野古・抵抗の最前線。」
なんの誇張もない。映像の迫力は、文字情報では表せない。
沖縄・辺野古問題は、目前の参院選の重要テーマの一つである。この映画を話題にすることの意義は大きい。
沖縄の基地問題は、日本国憲法体制と日米安保体制とのせめぎあいの衝突点にある。平和や独立を語るときに避けて通れない。それだけではない。今や、辺野古新基地建設は、安倍政権の強権的暴走を象徴するものとなっている。
公有水面埋立法は、国が起業者として公有水面を埋め立てる際には、県知事の承認を必要としている。仲井眞知事は、知事選の選挙公約を投げ捨てて、沖縄防衛局の埋立申請に承認を与えた。しかし、それゆえに県民世論は、仲井眞を放逐し、圧倒的な支持をもって翁長県政を誕生させた。周知のとおり、翁長知事は慎重な手続を経て、前知事の承認を取り消した。
このことの重さを安倍政権は一顧だにしない。「粛々と工事を進める」というのみ。沖縄の民意、その民意に支えられた新たな知事の判断を尊重すべきが当然ではないか。こんなときこそ、「新たな判断」というべきなのだ。
「粛々と進められる工事」に抗議する人びとに対する容赦ない制圧の強行が、この「圧殺の海 第2章 『辺野古』」に活写されているのだ。
この映画のパンフレット(1000円)が、映画に劣らず迫力に富み、読むに値する内容となっている。
このドキュメントの「主役」ともいうべき、辺野古ゲート前抗議行動のリーダー・山城博治のロングインタビューが7頁にわたって掲載されている。その中の一部を抜粋する。
大衆運動って、つぶされるまで粘り強くやるって心理がどこかあります。勝てないだろう、だけど押し切られるまではがんばるという。今、辺野古の状況見たら、そうはならないね。勝たなきやならない。勝って、国の様々なやり方で押しやろうとする物事に対して、勇気を、元気を辺野古から与えていく、がんばれば何とかなるという元気を与える責務が今、あると感じています。
政府が作った法案が、沖縄で実行されるという関係です。私自身の課題は、実行される沖縄で歯止めをかける、東京のみなさんは東京で歯止めをかける。私たちは、実行される位置に居るから、基地を、戦争の道具を止める。ここで頑張ると当然、全国に広がる。
民主主義を問い、地方自治を問う。平和を問う。辺野古を窓口として、見える日本の今のあり様。だから、全国からやってくる。この交流は大きいと思う。一日、多いときには百人を超える県外の人たちが来る。延べ何千、何万の人たちになってる。その広がりが、今、全国で、辺野古、辺野古、がんばろうの声になってる。十年前では考えられなかった。
翁長さん、県の弁護団、法廷でのぎりぎりのたたかい、行政としての駆使できる手法のぎりぎりのたたかい、現場でのたたかい、それから全国と連携をするたたかい。そういう事を積み重ねれば、この基地は出来ない。
また、自らも逮捕された経験をもつ芥川書作家・目取真俊が「海のたたかい」と題して寄稿している。これも示唆に富むもの。その一部を引用する。
「県知事選挙や衆議院議員選挙のたびに政府・沖縄防衛局は、長期間にわたり工事を止めざるを得なかった。彼らが恐れたのは、海保の暴力的弾圧が県民の反発を呼び、選挙にマイナスの影響を与えることだった。
実際、2014年の夏に辺野古側の浅瀬で行われたボーリング調査では、海保の拘束で負傷者が続出した。カヌーから強引に引き上げてGB(ゴムボート)の床に叩きつけ、カヌーメンバーに頚椎捻挫のケガを負わせた。船に乗り込んで船長の手首を捻挫させたり、カヌーメンバーのその様子はメディアで報じられただけでなく、写真や動画がインターネットで拡散され、海保に対する批判が高まった。安倍晋三政権が沖縄に振る舞っている強権的な姿勢が、海保の暴力という形で可視化され、有権者の投票行動に影響を与えかねない事態となった。それ故に政府・沖縄防衛局は、選挙前に海底ボーリング調査を中断せざるを得なかったのである。
もし、カヌーや船団による海上行動が行われていなかったらどうだったか。行われていたにしても、海保の弾圧を恐れてフロートを越えず、形だけの抗議ですませていたらどうだったか。海保とカヌー、抗議船がぶつかることもなく、メディアに報じられることもほとんどなかっただろう。それこそ調査は「粛々と」進められたはずだ。」
沖縄県が申し立てた第三者機関「国地方係争処理委員会」での審査の結論は、審査期間90日以内と定められていることから、遅くとも6月21日には出ることになる。6月22日参院選公示日の直前である。果たして、どのような判断になるのか、大いに注目されるところ。仮に沖縄県に不満の残る判断であれば、新たな提訴となる。6月25日からの映画『辺野古』の東京上映は、参院選投票日(7月10日)直前のまたとないタイミングである。
この映画は、既に、那覇市牧志の桜坂劇場で上映中であり、昨日(6月11日)からは大阪十三のシアターセブン劇場で、そして6月25日からは東京上映(ポレポレ東中野)が始まる。東京上映は8週間のロングラン企画だという。
http://america-banzai.blogspot.jp/2016_06_01_archive.html
なお、予告編をユーチューブで見ることができる。
https://www.youtube.com/watch?v=KlTVZxBG1cs&feature=youtu.be
映画に関する問合せ先は下記のとおり。
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(2016年6月12日)