澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

第五福竜丸展示館に、今年は格別のご支援を。

連休が今日で終わる。ああ、已んぬるかな。
連休は事前には長大で輝いて見える。なんでもできそうな素晴らしい大型連休。ところが、連休に突入すると突然連休は収縮して徐々に光を失い、過ぎ去ると短くて暗いものとなる。終わってみると、この連休には何もなしえなかった、溜まった仕事も片付かないこととなる。例年のことだが、連休とは不思議なものだ。

その連休最終日は、夢の島で公益財団法人第五福竜丸平和協会の理事会だった。評議員会に提案する3月末で締めた年度の決算案と、事業報告案の審議。協会の事業はすべて西暦表示だ。いまどき、どこでも当たり前のことだろう。ところが、役所に提出の書類だけは、元号表示となるので、煩わしいことこの上ない。おそらくは、ビジネスに携わる者の圧倒的多数は元号廃止論者ならん。

4月以後の新年度の事業計画を建てなければならないが、これに少々問題がある。1976年の開館から今年で42年。展示館の改修が必要な時期になっている。今年ようやくその改修工事に着工の予定となった。これに伴い、7月以後来年3月末まで展示館は閉館のやむなきに至る。

休館予定は《18年7月1日⇒19年3月31日》である。となると、東京都からの平和協会への委託料も大幅に減額となることが予想される。財政のピンチを回避しなければならない。

そこで、本日は、平和協会の立場で、広報活動を買って出る。皆様に幾つかのお願いを申しあげたい。

**************************************************************************
公益財団法人第五福竜丸平和協会が運営を委託されている第五福竜丸展示館は、念願だった大規模改修工事に着手することになり、その間休館いたします。

本年7月1日から工事に着手し、来春4月2日にリニューアルオープンいたします。展示物も新しいものに替え、充実した映像展示もできるようになります。休館前にも、そして休館明けの新装なった第五福竜丸展示館にも、ぜひお越しください。ボランティアの説明員が丁寧に解説いたします。

アクセスや展示の内容については下記のURLをご覧ください。
http://d5f.org/kyokai.html

実は、9か月もの休館に関連して皆様にお願いがあります。
一つは、休館中も核なき世界を目指す第五福竜丸の航海が途絶えることはありません。展示館外で平和協会の活動にご協力いただきたいのです。

あなたの地域で、自治体で、学校で、あるいは市民団体で、第五福竜丸のパネル展を開催していただけないでしょうか。

平和協会は第五福竜丸の被災をはじめとする核被害の展示パネルセットを貸出しています。毎年20?30か所で、パネル展が開かれています。これを、今年はもっと多くの場所で実行したいのです。たとえば、文化祭で、夏祭りで、市民集会で、人の往来する場で…。

展示パネルは、当館の常設展示をコンパクトにした内容で、さらにマーシャル諸島の核被害や第五福竜丸の歴史に関する展示物、現物資料などの貸出が可能です。協会の学芸員による講演会もお引き受けいたします。

☆当館の常設展示に沿った基本的な20枚組パネルセットの場合の内容や費用は以下のとおりです。
【主な内容】
第五福竜丸の被災、ブラボー実験、事件のスクープ、乗組員の被害、久保山愛吉さんの死、マグロ騒動、放射能雨、原水爆禁止の声の高まり、マーシャル諸島の被ばく者、世界の核実験、ラッセル=アインシュタイン宣言、保存運動、エンジンと展示館など
【サイズ】
A2(42cm×59cm)20枚
【貸出費用】
5千円?1万円+送料実費(宅配便3000?4000円程度)

☆また、20枚組パネルセットを増補しより詳細な42枚組パネルセットの貸し出しは次のとおりです。
【主な内容】
第五福竜丸被災、ビキニ事件の写真、解説に加え、マーシャル諸島の核被害パネル12枚を含む。
【サイズ】
B2(52cm×73cm)42枚
【貸出費用】
3万円+送料実費

☆その他、「マーシャル諸島の核被害」や、「世界の核被害写真パネル」セットもあります。その他、現物資料や講演会などの組み合わせ企画の相談に応じます。
下記にご連絡ください。

TEL:03-3521-8494 FAX:03-3521-2900
E-Mail:fukuryumaru@msa.biglobe.ne.jp

☆大型展のご案内
博物館や歴史資料館、郷土資料館、自治体主催の催しなどの特別展として、大型展示企画用に展示を構成いたします。
*ビキニ事件展示パネル60枚組(B2判)、もしくは42枚組
*マーシャル諸島の核被害に関するパネル等
*大漁旗
*船体タペストリー
*現物資料50?70点
【過去の実施例】
高知市、立命館大学国際平和ミュージアム、広島平和記念資料館、長崎原爆資料館、枚方市市民ギャラリー、茨木市、多摩市、串本市、丸木美術館、コープみやぎ、西東京平和のつどい等

**************************************************************************
☆ 第五福竜丸平和協会では、第五福竜丸の維持管理と財団の活動を支える賛助会員を募集しています。
皆様のご好意により第五福竜丸はこれからも航海を続けていくことができます。
ぜひとも寄附のご協力、会員としてご支援賜りますよう、よろしくお願いいたします。会員には、機関誌「福竜丸だより」をお送りします。

☆会員としてのご支援
1.賛助会員
第五福竜丸だよりはじめイベントのご案内などを差し上げます。
(年会費:個人5千円、団体1万円)

2.ニュース(福竜丸だより)会員
会員様のご自宅へ「福竜丸だより」をお送りいたしております。
(年会費:個人2千円 )

☆今回のみの支援
会員としてではなく寄附も受け付けております。 ご支援いただけると幸いです。
*賛助会費等も税制優遇措置の適用を受けます。
*当法人は平成23年10月26日付で税額控除対象法人になりました。
[賛助会費及び寄附金?2,000円]×40%が所得税額から直接控除されます。

具体的な寄付の方法については、下記URLをご覧ください。
あるいは、電話等でお問い合わせください。
http://d5f.org/contribute.html
(2018年5月6日)

第五福竜丸平和協会は、山本義彦新代表理事体制に。

昨日(5月27日)の公益財団法人第五福竜丸平和協会2017年度定時評議員会で、協会人事が大きく入れ替わった。協会の歴史にも反核運動にも、節目の時を感じる。

これまで長く代表理事を務めて、第五福竜丸の顔として知られた川崎昭一郎さん(千葉大名誉教授)が退任され、新たな代表理事に山本義彦さん(静岡大学名誉教授)が選任された。初代・三宅泰雄、2代・川崎昭一郎に続く、3代目の代表理事である。なお、川崎さんに代わる新理事として、高原孝生さん(明治学院大学教授)が選任された。

新理事会メンバーは以下のとおり。
・奥山修平(中央大学教授)
・川口重雄(高校教諭、丸山眞男手帖の会代表)
・坂野直子(日本青年館職員)
・高原孝生(明治学院大学教授・新任)
・山本義彦(静岡大学名誉教授・代表理事に)

理事だけでなく、評議員も大きく入れ替わった。浅見清秀(元都労連副議長)、岩佐幹三(被団協)、岩垂弘(元朝日新聞記者)、猿橋則之、高原孝生(理事に)の諸氏が退任して、新評議員会は以下のメンバーとなった。
・大石又七 (元第五福竜丸乗組員)
・桂川秀嗣 (東邦大学名誉教授・物理学者)
・岸田正博 (墨田山多聞寺住職)
・榛葉文枝 (元中学校教諭)
・日塔和彦 (文化財木造建造物修復)
・竹内 誠 (東京都生活協同組合連合会専務理事) (新任)
・長田三紀 (全国地域婦人団体連絡協議会事務局長)(新任)
・西原美香子(日本YWCA常務理事/総幹事)   (新任)
・山田玲子 (東友会副会長、日本被団協中央相談所委員長)(新任)
・若林克俊(自治労東京元執行委員、東京平和運動センター副議長)(新任)

なお、私は浦野広明さんとともに、もう1期(任期4年)監事を務める。

会合のあと、新旧役員の懇談会があって、顧問の杉重彦さん、山村茂雄さんらも出席され、全員のスピーチがあった。大石又七さんも、やや不自由なお体で出席され、思いの丈を語られた。

岩垂弘さんのスピーチだけを紹介しておきたい。
ビキニ事件が世を震撼させた1954年3月、岩垂さんは高校を卒業して大学に入学直前の時期だった。入学早々の早稲田での集会で、当時の総評事務局長高野実の原水爆反対運動への呼びかけの演説が印象に深いという。そして、岩垂さんは、夢の島に捨てられた第五福竜丸を記者として取材することとなり、その契機から反核運動の報道に携わることとなった。

岩垂さんは、初代三宅泰雄さんの原水禁運動における功績を、次のように語った。
「当時の原水禁と原水協との組織的対立は、一緒に運動することができないなどというレベルではなかった。お互い同席もできないんですよ。両者の反目激しいなかで、唯一、第五福竜丸の運動だけが、両組織が共同して参加できるもので、それは三宅さんが心を砕いた結果だった。」

そして、「2代目川崎さんの時代は、三宅さんの築いた基礎の上に、順調に広く社会に第五福竜丸の保存・展示を中心とした反核平和運動を展開した時期だった。今、時代は移り、ビキニも第五福竜丸も知らないという若い人々が増えている。この時期に、これまでの遺産をどう活かすか。それが3代目・山本代表理事の課題となることでしょう。」

おそらくは、同席する人々の賛意を得たスピーチであったと思う。

同日の会合で配布された資料の中に、昨年(2016年)の「展示館開館40周年」を伝える幾つかの新聞報道のスクラップのコピーがある。いずれも、「開館以来40年間で、来場者総数は530万人になっている。」と、核実験の被害を伝えてきた意義を確認しつつも、朝日は、「だが、原水禁運動の起点になったビキニ事件を知らない世代が増え、最盛期には30万件を超えた年間来館者数も、東日本大震災発生後の2011年度に10万人を割り込むなど、下落傾向に歯止めがかからない」と辛口の報道。対して、東京新聞は、「来場者の4分の1は学校見学できた子どもたち。成人して子供を連れてくる人もいる。世代を超えて、記憶を継承する役割を果たしている」と明るい展望を描いている。もちろん、両面とも真実。現実を見つめつつ、反核・平和に寄与する運動を進めなければならない。なお、2016年度(16年4月1日?17年3月31日)の年間入館者数は10万人の大台を回復している。山本義彦新執行部の幸先は悪くない。

公益財団法人第五福竜丸平和協会の公式サイトのURLは以下のとおり。よろしくご協力、ご支援のほどを。
http://d5f.org/kyokai.html
(2017年5月28日)

「原水爆の被害者は わたしを最後にしてほしい」(故久保山愛吉)

大型連休最終日の本日(5月7日)は、江東区夢の島で公益財団法人第五福竜丸平和協会の理事会。5月27日評議員会に提出の事業報告や、決算・予算案そして人事提案作成などが議題。

川崎昭一郎理事長を筆頭に理事は5名。それに、私と浦野広明さんが監事。安田和也事務局長が加わって8名で議事が進行する。理事(5名)・評議員(10名)の役員全員が核廃絶の理念に共鳴したボランティア。当然のごとくまったくの無償での活動。予算規模からも、この団体では経理上の不祥事は起こりようがない。

席上、2016年度(16年4月?17年3月)の第五福竜丸展示館の入場者総数が、106,855人と報告された。6年前の東日本大震災で入館者数が激減し、いまだに震災前の水準回復までには至らないものの、ようやく年間入館者数10万人の大台を回復した。展示館の来館者人数は、核廃絶運動消長のバロメータの一つと言ってよい。ぜひ、もっともっと多くの来館者を得たいもの。

団体の見学者が、765団体で27,428人。うち、小学校84校4,353人、中学校177校11,913人、大学を含むその他の学校91校、1,328人とのこと。

小学生の来館者の少ないことが話題となった。従前の半数を回復できていないという。とりわけ、都内の小学校からの来館者が少ない。近隣の学校には勧誘のビラをお渡しして働きかけはしているのだが、なかなか成果に結びつかない。学校の先生方の関心が薄れているのではないだろうか、という危惧が語られた。

小中学校のどの社会科教科書にも、戦後史の一コマとして、水爆実験による第五福竜丸被災の事実は記載されているのだという。それでも、授業では通り一遍のものになっているのではないか。その授業から、第五福竜丸実物展示見学までの距離をどうしたら埋められるのだろうか。やはり、原水禁運動の拡がりと熱気の問題となろうか。現在、原発事故被災に対する関心は高い。そのことと、核兵器や核実験による放射線被害との結びつきが十分に意識されていないのが残念だ。

子供も大人も、多くの人に第五福竜丸展示館に足を運んでいただき、歴史の生き証人である巨大な船体を眼前に、充実したパネル展示やガイドの説明で、1954年3月1日のできごとの意味をお考えいただきたい。日本の原水禁反対運動は戦後すぐから盛んであったのではない。第五福竜丸の被災をきっかけに国民的大運動になったのだから。館内の展示内容は、毎年2度ずつ変わる。ぜひとも、友人を誘っての繰りかえしのご訪問を。

現在の展示企画は、第五福竜丸の建造70年を記念して、木造船の歴史に焦点を当てた内容になっている。『この船を知ろうー建造70年の航跡』につづいて、6月からは、『この船をつくろうー船大工 匠の技』と題して、どのように船が造られるのかをたどる展示となる。建造の地和歌山県古座(串本町)、練習船改修の旧強力造船(三重県伊勢市)などからの資料提供を得て、船大工の船造りの工程や船大工の技、大工道具などを展示する。下記の実演イベントも用意されている。

特別イベント「船大工 匠の技を視る」
7月23日(日)午後2時~
第五福竜丸船首下特別ステージにて、大工さんのお話しと実演。
第五福竜丸の改修をした、三重県伊勢市の船大工が愛用の大工道具といっしょに夢の島に登場!! どなたでも参加できます! 無料。

また、6月17日(土)には、第46回ビキニふくしまプロジェクトとして、「マーシャルとふくしまをむすぶ」朗読と講演もある。
マーシャル最新事情を、第五福竜丸展示館の学芸員2人が報告し、福島の現状について井戸川克隆前双葉町長が講演する。

なお、第五福竜丸展示館の公式ホームページは以下のとおり。
http://d5f.org/
懸案だった英語の表記も充実したものとなった。海外からの熱心な見学者が増えているという報告もあった。

会議のあと展示館の外に出ると、久保山愛吉さんの石碑の側の花壇にバラが咲いていた。展示館の公式サイトには、今日(5月7日)アップされた次のような、やさしい文章のお知らせがあった。

連日、途切れることなく来館者でにぎわっています。
お天気のいい連休ということもあり、小さなお子さんを連れた方やバーベキューで遊びにいらしている方たちも、立ち寄られているようですね。
「原水爆の被害者は わたしを最後にしてほしい」
という久保山愛吉さんの言葉を刻んだ石碑の周りでは、バラがいっせいに咲きはじめました。
生前、久保山さんが育て、その後妻・すずさんが丹精したバラを株分けしていただいたクイーン・エリザベス(ピンク)、平和を願って植えられたピース(黄色)アンネのバラ(オレンジ)・・・。
季節の花たちも咲き誇っています。
連休明けからは本格的な修学旅行シーズンで、たくさんの小中学生たちを迎えます。
(2017年5月7日・連続第1498回)

**************************************************************************
公益財団法人第五福竜丸平和協会は、東京都から都立第五福竜丸展示館の運営を委託され、「都立第五福竜丸展示館ニュース 福竜丸だより」(隔月刊)を発行している。その2017年7月号が、通算400号となる。

「たより」は毎号8ページ。充実していると思う。定期購読については、以下のURLを開いていただきたい。
http://d5f.org/contribute.html

古稀を迎えた第五福竜丸ー負の遺産忘却の潮流に負けずに

本日(3月12日)は、江東区夢の島で公益財団法人第五福竜丸平和協会の理事会。私は協会の監事として、理事会にも評議員会にも出席する立場。もっとも、私の実務はたいしたことはない。理事・評議員の役員全員が核廃絶の理念に共鳴したボランティア。当然のことのごとく、まったくの無償での活動に頭が下がる。

席上、2016年4月から17年2月まで11か月の第五福竜丸展示館の入場者数が、98,389人と報告された。6年前の東日本大震で入館者数が激減した。いま、震災前までの回復までには至らないものの、ようやく年間入館者数10万人台突破確実の見込みとなった。

関連して、小・中学校の先生たちに、原水禁運動や核廃絶問題についての関心が薄れているのではないかとの議論があった。本当にそうなのだろうか。原発と核兵器との関連や、核拡散問題は大きな社会的関心事となっていると思うのだが。

子供も大人も、多くの人に第五福竜丸展示館に足を運んでいただき、歴史の生き証人である巨大な船体を眺めながら、充実したパネル展示やガイドの説明で、1954年3月1日のできごとの意味をお考えいただきたいと思う。

なお、第五福竜丸展示館の公式ホームページは以下のとおり。
http://d5f.org/

さて、東京都から第五福竜丸展示館運営の委託を受けているのが公益財団法人第五福竜丸平和協会。その協会が、「都立第五福竜丸展示館ニュース 福竜丸だより」を発行している。最新号が、2017年3月1日付の398号(3・4月号)。8頁建ての充実した内容。

今号トップは、「70年を記念して 福竜丸をつくる」という、今年の展示内容の紹介の記事。
「この3月、第五福竜丸は建造から70年を迎えました。
展示館の開館にあたり東京都は『木造船での近海漁業は現在でも行われていますが、当時はこのような船で遠くの海まで漁を求めて行ったのです……遠洋漁業に出ていた木造船を実物によって知っていただく」と展示の趣旨を掲げています。
 70年は、人でいえば古稀です。木造船は本来20年前後の耐用年数ですが、『原水爆による惨事をふたたび起こさないように(都の展示趣旨)』との市民の願いをこめて、本造船の実物の保存が実現したのです。
 今年は木造船・第五福竜丸を発信していく企画展示をすすめます。現在の『この船を知ろう~建造70年の航跡』につづき6月からは、『第五福竜丸・木造船をつくる』(仮称)と題して、どのように船が造られるのかをたどります。建造の地和歌山県古座(串本町)、練習船改修の旧強力造船(三重県伊勢市)などから資料の提供をうけ、船大工、研究者の協力で船造りの工程や船大工の技、大工道具などを展示します。
          *
 「福竜丸だより」は来る7月号で400号を迎えます。展示館開館時の「福竜丸ニュース」「平和協会ニュース」に代わり1978年4月に「都立第五福竜丸展示館ニュース」を冠して刊行されました。福竜丸と来館者、展示館の模様や協会の取り組みをたどる貴重な積み重ねの記録です。今号は、「3・1ビキニ記念のつどい」でのフランスの核実験と被害について、講演録を収録。これからも皆さんと第五福竜丸をつなぐ「たより」として編集したいと思います。

その「たより」7頁に、「ワシントンからの通信(1)」が掲載されている。連載第1回のタイトルが「オバマの広島訪問と謝罪問題」。執筆者名は、私には馴染みのない、樋口敏広という方。肩書に、「ジョージタウン大学外交学院助教」とある。若い人なのだろう。

ジョージタウン大学といえば、著名な私立大学。ビル・クリントンの卒業校であり、現在「下院議員16名及び、上院議員6名が同大学の卒業生」だとのこと。とりわけ、外交関係への影響は飛び抜けて大きいようだ。

その大学の学生、つまり「将来のアメリカ外交を担う若者」の核に対する意識についての報告が興味深い。

「昨年5月27日、バラク・オバマが現職の米国大統領として初めて公式に広島を訪問した。当時、アメリカでは国論を二分する大統領選が行われていたが、主要政党とメディアはこの訪問を好意的に評価した。しかし、それは主に日米和解の証として捉えられ、原爆投下に対する謝罪の必要性が正面から論じられることは皆無であった。オバマの広島訪問の「成功」は、むしろ原爆投下に関するアメリカの『神話』、すなわち原爆が終戦をもたらし、現在の日米友好につながったとの通説を一層強化したと言えよう。
では、将来のアメリカ外交を担う若者は原爆投下をめぐる歴史と記憶をどのように考えているのか。昨秋、私は大学一年生向けのゼミでオバマの広島訪問をとりあげた。驚いたことに多くの学生は謝罪問題を原爆投下の必要性や人道的影響といった従来の論点だけでなく、加害者としての歴史を否定する現在の世界的な潮流の一環として論じていた。ある学生は、日米両国が負の遺産を常に直視し謝罪し続けない限り、加害と犠牲の上に成りたっている自国を盲目的に肯定する思想が若者の間で台頭する、とその危険を指摘した。
 事実、アメリカでも先住民征服と奴隷制の過去と現在まで続く構造的暴力の存在を忘却し、自国を無条件に礼賛する歴史修正主義が高まっている。アメリカの多様性の象徴として登場したオバマ大統領が原爆投下に対する謝罪を避けることで国民統合を図ったとすれば、それは誠に皮肉だと言えよう。
負の遺産を否定し忘却しようとする動きが国内外で強まる中、その遺産をどのように展示し継承するかは、第五福竜丸展示館をはじめとする各資料館に共通する課題ではなかろうか。(ひぐちとしひろ ジョージタウン大学外交学院助教)」

短い文章だが、歴史修正主義蔓延の指摘だけでなく、その克服の希望をも語っている点で読み応えを感じさせ、連載2回目以後が楽しみではないか。

「たより」の定期購読については、以下のURLを開いていただきたい。
http://d5f.org/contribute.html
(2017年3月12日)

築地にマグロ塚をー署名運動にご協力のお願い

本日(9月23日)が久保山愛吉の命日である。
1954年3月1日、アメリカはビキニ環礁で最大級の15メガトン水爆「ブラボー」を大気中で爆発させた。その威力は広島に落とされた原爆の1000倍であったという。そして、その構造から大気中にばらまかれた放射線量もけたはずれのものだった。

たまたま近海で操業していてたマグロ漁船・第五福竜丸は、爆発地点から160キロの距離で被災することになった。未明、太陽が西に昇ったと思わせる閃光の後に、乗組員23名が雪のように降った死の灰を浴びることになった。これが「3・1ビキニ事件」。

この死の灰は、島ごと吹き飛ばされた珊瑚礁の破片を主成分とする、高線量の放射性物質だった。23人の乗組員全員が「急性放射線症」で入院した後、最年長の通信士久保山愛吉が半年後の9月23日に亡くなる。その遺言は、「原水爆の被害者はわたしをさいごにしてほしい」というものであった。

久保山の遺言を刻した「久保山愛吉碑」が、夢の島の第五福竜丸展示館の裏庭に建立されている。その書体は、三宅泰雄(第五福竜丸平和協会・初代会長)の筆になるもの。

その「久保山愛吉碑」のとなりに、「マグロ塚」がおかれている。高さ約130センチほどの青みがかった重量感ある石碑。「マグロ塚」の文字は、第五福竜丸乗組員だった大石又七の筆跡である。

東京都名義の解説板に、以下の記載がある。
「1954年3月1日、米国が太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験で被爆した第五福龍丸から、放射能に汚染された魚が水揚げされ、消費者の手に渡る前に中央卸売市場築地市場の一角に埋められました。
 このような核の被害が再び起きないことを願って、「築地にマグロ塚をつくる会」は募金活動を行い、募金に参加した大勢の子どもたちと共にマグロ塚を作りました。
 本来であれば、この塚はマグロが埋められた築地市場に置くことがふさわしいのですが、市場は整備中であるため、暫定的に第五福竜丸のそばに展示されることになりました。」

ビキニ事件当時、原爆マグロは世を震撼させた。放射能の脅威、その被害が食の安全を脅かす形で、すべての人の身近なものとなった。その記憶を風化させないで、核の恐怖の警鐘にしよう。そう考えたのが大石で、子どもたちに10円募金を呼びかけて石碑を作ることまではした。しかし、東京都も認めるとおり、「この塚はマグロが埋められた築地市場に置くことがふさわしい」のだが、それが実現していない。

築地には石碑ではなく、建物の壁にはめ込まれた金属の「プレート」がある。こちらは、次のように由来が書き込まれている。
「1954年3月1日、米国が太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験で被曝した第五福竜丸から水揚げされた魚の一部(約2トン)が同月16日築地市場に入荷しました。国と東京都の検査が行われ、放射能汚染が判明した魚(サメ、マグロ)などは消費者の手に渡る前に市場内のこの一角に埋められ廃棄されました。
 全国では850隻余りの漁船から460トン近くの汚染した魚が見つかり、日本中がパニックとなって魚の消費が大きく落ち込みました。築地市場でも「せり」が成立しなくなるなど、市場関係者、漁業関係者も大きな打撃を受けました。
 このような核の被害がふたたび起きないことを願って、全国から10円募金で参加した大勢の子どもたちと共に、この歴史的事実をきろくするため、ここにプレートを作りました。 マグロ塚を作る会」

いま、築地にマグロ塚はなく、市場の整備が済むまで、暫定的に第五福竜丸展示館にある。これを本来あるべきところに移そうという運動が起きている。その運動を担うのが「築地にマグロ塚を作る会」、代表が大石又七である。その会の設立趣旨を記しておきたい。

本会は、「1954年の水爆実験で、放射能マグロ騒ぎが起こり、築地魚市場はもちろん日本中がパニックになりました。457トンものたくさんのマグロが地中や海に捨てられ、魚屋さんや、お寿司さん魚河岸も、お手上げになりました。その教訓を忘れないようにしたいのです。埋められたマグロ、食卓に上ったマグロにも、マグロ好きな日本人らしく、供養と感謝の思いをよせて作りたい」との大石又七さんの呼びかけにもとづき、築地の中央市場への建設の要請と署名及び10円募金活動を行ってきました。その結果署名は2万2千名、募金は約300万円が集まりました。これは全国各地多くの賛同する人たちからの支援、とくに小・中学校の生徒からの支援も多くありました。
 築地の中央市場を管理する東京都からは市場の移転や改修計画を理由にプレートの設置のみが許可され、2000年の1月8日に中央市場の正門にプレートを設置することができました。又、本来ならば築地に置くべき『塚』は暫定的ながら第五福竜丸展示館前に設置する事になりましたが、いずれこの塚は、築地の市場に設置すべきものと考えています。
 97年当初はマグロ塚をつくる会といっても、大石さん一人から署名・募金活動を開始され、その後徐々に支援の輪が拡がってきました。今後とも築地の中央市場への塚の設置実現のためには、大石さんや多くの人たちが協力して持続的で広い活動を行うことが必要とされています。その為にも『築地にマグロ塚をつくる会』の会則等をつくり、機能的に運営し、多くの支援してくれる方にその活動の内容を伝えたいとおもっています。

会は今、東京都に対する要請の署名運動を始めた。要請の趣旨は、「かつてマグロの廃棄地とされた跡地の一画に『マグロ塚』を移設することで、核兵器や放射能の怖さ、そして平和の尊さを多くの人たちに永く訴えたい」ということである。
昨日(9月22日)夢の島で、会が「9・22平和集会」を開催した。82歳の大石が病む体を押して出席し、署名を通じての塚の移設実現を訴えた。

はからずも、今築地から豊洲への市場移転問題が世の大きな関心事となっている。食の安全こそが重大事として再確認されているのだ。60年前の「原爆マグロ」事件は、食の安全が脅かされたことによる国民的な規模でのパニックをもたらした。核兵器の存在が、このような形でも人の生活を脅かすことを忘れてはならない。

下記のURLを開いて、是非ご協力をお願いしたい。
  http://tsukijimaguro.blogspot.jp/2016/09/blog-post_76.html
(2016年9月23日)

詩画人・四國五郎の「辻詩」 ー「福竜丸だより」から

四國五郎(1924?2014)という画家をご記憶だろうか。ウィキペディアには、「広島県広島市出身の画家・挿絵画家・絵本作家・詩人である。広島平和美術展を広島の画家仲間達と創設。絵画と詩を描きながら、広島を拠点にして戦後の平和運動を推進した。特に原爆をテーマにした絵本『おこりじぞう』の装丁と挿絵が有名。」とある。峠三吉や山口勇子と組んで仕事をした人だ。

本日配達になった「福竜丸だより・№395」(2016年9月1日)に、ご長男・四國光氏の寄稿がある。「詩画人・四國五郎と『辻詩』」というタイトル。

「辻詩」とは耳慣れない。「辻」は、四つ辻の辻。辻説法・辻占・辻商い・辻籠・辻待ち・辻芝居・辻斬りの、あの「辻」。往来が交差する賑わうところ、巷の意味。辻詩は、「巷の詩」ということになるが、その内容は思想的宣伝物(手描きの反戦反核ポスター)なのだ。これを、単にポスターとかビラあるいは伝単などと即物的に表現せず、「辻詩」と言うところに作成者の思い入れがある。作成者とは峠三吉と四國五郎の両名が中心。峠が文を四國が絵を担当したという。この辻詩の作成と貼り出しは、占領下の広島で当局の言論統制をかいくぐっての逮捕覚悟のものだったという。その表現意欲がすさまじい。

「福竜丸だより」の寄稿を抜粋して紹介したい。これはまた見事な、亡き父へのオマージュでもある。

 父・四國五郎は第五福竜丸の水彩画を残している。また、ビキニ事件の時は、巨大な「原爆マグロ」を作って広島のデモに参加した。行動しなければ、という思いが常に父を突き動かしていた。
 その父の展覧会が「原爆の図一丸木美術館」で、開催されている(9月24日迄)。
父の作品としては「絵本おこりじぞう」の絵や、峠三吉と作った「原爆詩集」の表紙面や挿画が最も知られたものだと思うが、今回の展示の目玉のひとつは、父が峠と作った手描きの反戦反核ポスターだ。父たちはこの表現形式を「辻説法」になぞらえ「辻詩」と呼んだ。1950年の朝鮮戦争の始まる少し前から、峠が入院する53年頃まで、父は100枚から150枚描いたというが、現存するのは父のアトリエにあった8枚のみ。今回の展覧会では初めてこの8枚全てが展示された。
 当時はGHQによる言論統制のため、戦争や原爆に関する表現は厳しく規制されていた。「辻詩」はそのような状況下で作られた、逮捕覚悟の反戦活動であった。「辻詩」が出来上がると、峠が始めた詩のサークルである「われらの詩の会」のメンバーが手分けしてゲリラのように街中に貼り出し、警察が来ると大急ぎで剥して逃げた。「辻詩」の四隅に残る画鋲の穴を数えると、何回逃げたかがわかる。多いもので40個の穴が開いていたそうだ。
 どのようにして「辻詩」を作ったか、父のメモが残されている。それを読むと、ジャズの即興を連想させる。峠と父とでアイデアを持ち寄る。お互いに意見をぶつけ合いその場で「辻詩」の原案をどんどん作っていく。父がそれを自宅に持ち帰り、絵と、絵に相応しい字体で詩を書き入れる。出来上がると街に貼り出し道行く人に訴える。混沌の現実から今もぎ取ってきたような「生の表現」。それこそが人の心に訴え人を動かす、という信念が父たちにはあった。父は自分たちで書くだけでなく、多くの方が参加可能な「表現のプラットフォーム」として、「辻詩」に大きな可能性を見出していた。沈黙から言葉を引き出そうとした。
 仲間たちの中には、父や峠の、あまりに前のめりな姿勢に対して、危険すぎるので止めるべきだ、という反対も多かったと言う。しかし、父の日記を読む限り、この運動を減速したり止めたりする気持ちは微塵もなかったようだ。「辻詩」によって、詩と絵が社会に対してどれだけの働きかけができるのか、そのチヤレンジに全身全霊をかけて没頭していた様子が伺われる。
 「この時代、沈黙してはいけない」。日記を読むと、一連の表現活動による逮捕の可能性も仄めかしており、恐らく覚悟の上だったようだ。「戦争とシペリアを経験したので、それに比べればどんな事でも乗り越えられると思った」と晩年語っていた。
 「辻詩」とは廃棄あるいは押収される事が運命づけられた「使い捨て」の表現物だ。自分が丹精込めた「表現」の痕跡は一切残らない。3年近く、父は「辻詩」の作成に情熱を注いだ。作品として残る可能性の無いものに対して、そこまでのエネルギーを費やし続けることの、執念のような腹の括り方に、 私は改めて驚きを禁じ得ない。
 峠の死後も、父は生涯、戦争と平和のメッセージを伝える事を自分の使命と課し、絵や詩など膨大な作品を残した。その中で、最も父の心を熱く燃やしたものが、若き日の「辻詩」であったと思う。「辻詩」は表現者・四國五郎の原点であった。

なお、東京新聞(16年8月4日)の記事に、次の紹介がある。
「原爆をテーマにした絵本「おこりじぞう」の挿絵や詩人・峠三吉の私家版「原爆詩集」の表紙絵などで知られ、生涯にわたり反戦と平和を表現し続けた画家四国五郎さん(1924?2014年)の画業を振り返る「四国五郎展」が、東松山市の原爆の図丸木美術館で開かれている。」「復員の翌年、峠三吉と知り合った四国さんは、反戦詩をつづった絵を街頭に張り出す「辻詩」の活動を始める。朝鮮戦争(1950?53年)の最中、占領軍の言論統制下でのゲリラ的な運動だった。50年、丸木位里・俊夫妻も官憲の目をかいくぐりながら「原爆の図」の全国巡回展を始め、出発点となった広島では、四国さんらが展覧会を支えた。」(以下略)

表現の自由が抑圧された時代にも、表現者は黙ってはおれない。「この時代、沈黙してはいけない」という四國の言葉は重い。今の時代、意欲さえあれば、書ける、話せる、出版も、掲示も、メールも、ブログも、ほぼ自由に表現できる。この貴重な自由を、精一杯行使し続けなければならない。表現の萎縮によって自らこれを放棄する愚を犯してはならない。峠や四國の活動を知って、痛切にそう思う。
(2016年9月9日)

核なき世界を求めて第五福竜丸は今なお航海中ー展示館開館40周年

昨日(5月29日)、「第五福竜丸展示館開館40周年記念レセプション」が、賑々しく行われた。主催は公益財団法人第五福竜丸平和協会、参加者は核廃絶運動に真摯に関わってこられた方々。会場はクラシック然たる神田の学士会館であった。

都立第五福竜丸展示館は1976年6月10日に開館している。その都立第五福竜丸展示館の管理を担っているのが、第五福竜丸平和協会。協会の活動に関しては、ぜひとも下記のサイトをご覧いただきたい。私は、浦野広明さんとともに、監事を務めている。
  http://d5f.org/kyokai.html

協会の定款第3条は、「この法人は、昭和29年3月1日ビキニ水爆実験の被災船第五福竜丸を記念し、原水爆被害の諸資料を収集・保管・展示することにより、都民をはじめ広く国民の核兵器禁止・平和思想の育成に寄与することを目的とする。」と謳っている。船体の保存は意義ある重要なものだが、協会はこれを自己目的化しているわけではない。目的は飽くまで「核兵器禁止・平和思想の育成」なのだ。「育成」という用語が気になる方は、「涵養」「普及」「啓発」あるいは「訴え」「呼びかけ」とでも、読み替えていただきたい。

核爆弾が実戦においてその残虐な威力を示したのは1945年8月の広島と長崎だった。広島投下の原爆はウラン型。長崎のものはプルトニウム型。その7年後、52年にアメリカは南太平洋のエニウェトク環礁で初の水爆実験を行う。そして、1954年3月から5月にかけてアメリカは一連の最大級水爆実験をビキニ環礁で行う。キャッスル作戦と名付けた6回の実験の最初のものが、3月1日の15メガトン水爆「ブラボー」だった。ブラボーの爆発力は、広島に落とされた原爆の1000倍である。なんという脅威、そしてなんというふざけた命名。

たまたま近海で操業していてたマグロ漁船・第五福竜丸は、爆発地点から160キロの距離で被災することになる。未明、太陽が西に昇ったと思わせる閃光の後に、乗組員23名が珊瑚礁の死の灰を浴びることになった。これが「3・1ビキニ事件」。「急性放射線症」で全員が入院した後、最年長の通信士久保山愛吉さんが半年後に逝去される。その命日は9月23日、「久保山忌」である。

久保山さんの遺言「原水爆の被害者はわたしをさいごにしてほしい」という言葉を刻した「久保山愛吉碑」が、展示館の裏庭に建立されている。その書体は、三宅泰雄(協会初代会長)の筆になるもの。

こうして、原爆だけでなく、水爆の犠牲者としても日本人の名が歴史にきざまれた。広島・長崎だけでなく、第五福竜丸も核による悲惨な歴史の告発者であり証人なのだ。

昨日のレセプションでは「都立第五福竜丸展示館 40年のあゆみ」と表題した64頁のパンフレットが配布された。同パンフレットには付録「世界の核爆発実験年表」がついている。これによると、これまでの「爆発をともなう」核実験数は2061回。それ以外に「爆発をともなわな」核実験として、「アメリカ39回、ロシア10数回」があるという。

そして、まだ世界には、アメリカ(7200個)」、ロシア(7500個)をはじめとして、イギリス・フランス・中国・インド・パキスタン・イスラエル・北朝鮮が、核弾頭をもっている。核拡散の危険も払拭できない。

現実に被爆した、歴史の証人としての第五福竜丸は、多くのことを語っている。また、多くの人が、この船体を囲んで、多くのことを語りあい、語り継いでいる。まさしく、核なき世界を目指して「第五福竜丸は航海中」(被爆60年記念記録集の表題)なのである。

ところで、この「都立展示館」の開設は、廃船とされ捨てられていた第五福竜丸保存を求める市民運動を当時の都政が受け止めた結果である。当時の美濃部革新都政の姿勢を表明する「歴史的な」一文をご紹介しておきたい。展示館開館の2年前、第五福竜丸保存を目指して第五福竜丸保存協会が発足したときの「平和協会ニュース・第1号」への寄稿である。

憲法や平和運動に敵意を剥き出しにした石原都政や、みっともなさをさらけ出した舛添都政との恐るべき絶対格差に慨嘆せざるを得ない。われわれは再び、美濃部時代の真っ当な都政を手にすることがあるだろうか。

「平和協会に期待する」 東京都知事 美濃部亮吉
 第五福竜丸の保存を通して、平和と人道のためのたたかいを根気よく進めてこられたみなさんが、さらにその活動を拡大発展させるため、去年の暮、新たに財団法人第五福竜丸保存平和協会を設立されました。
 当然のこととはいえ、この運動は何一つ権力や財力に依存しない純粋な市民の善意と勇気だけでおし進められてきたものです。また、居丈高な絶叫や人目を驚かす街頭デモなどでなく、静かな情熱と知的な訴えによってささえられてきたものです。そういうみなさんの活動が、とかく先細りしがちなこの種の運動の中で、多くの困難をのり越えて着実に歩み続けてきたばかりか、今回の設立によっていっそう豊かな展望を持つ新たな段階に進まれたことに心から敬服し、その未来に熱い祝福をお送りいたします。
 いま、狂ったようなインフレの昂進によって、市民の生活は日々深い危機にさらされています。この混乱と不安をもたらしたものが、市民の立場をかえりみず、もっぱら資本の論理と利益に奉仕してきた高度経済成長政策であることは言うまでもありません。かつて私たちをあの悲惨な戦争にまきこんだものも、当時の日本の特殊な条件の下で進められた資本の論理と利益ではなかったでしょうか。私たちは、そのような根が生き続けていることに警戒を怠ってはなりません。
 それにしても、今日、内外の条件はそのころと一変し、戦争を喰いとめ平和を進めようとする各国市民の力は前例のない規模に達しています。みなさんの活動は、その責重な一環をなすものです。この力をますます強めなくてはなりません。第五福竜丸の小さな船体は、人々の心を戦争への怒りと平和への決意に駆りたてる大きなシンボルです。それは、平和をそこない、人間をしいたげるすべてのものに対し、私たちが何をしなければならないかを生々しく語りかけています。私は、みなさんの運動に心からの拍手と連帯をお送りし、協会のご発展に期待いたします。

なお、都立第五福竜丸展示館の開館時間は、9:30?16:00。入場無料である。
協会支援の下記賛助会員の制度がある。会員としてご支援いただけたら幸甚です。
1.賛助会員
第五福竜丸だよりはじめイベントのご案内などを差し上げます。(年会費:個人5千円・団体1万円)
2.ニュース(福竜丸だより)会員
会員様のご自宅へ「福竜丸だより」をお送りいたしております。(年会費:個人2千円 )

協会への連絡方法は下記のとおり。
東京都江東区夢の島3-2 夢の島公園内
TEL:03-3521-8494 FAX:03-3521-2900
アクセスは、http://d5f.org/access.html
(2016年5月30日)

元第五福竜丸漁労長・見崎吉男さん逝く

被曝当時の第五福竜丸漁労長だった見崎吉男さんが亡くなられた。一昨日(3月17日)の夜分遅い時刻だったとのこと。1954年3月1日ビキニ環礁での米国の水爆実験によって被ばくしてから62年後の逝去。享年90。ご冥福をお祈りする。

お目にかかったことはない。しかし、第五福竜丸の乗組員23人のリーダーとして、かねてからお名前は伺っていた。漁労長とは、航行と漁労スケジュールの責任者である。ひとたび漁船が出港したあと、いつどこに船を廻しどこで網を下ろすか、その判断を委ねられている。一山当てるも大損するも、漁労長の腕と判断次第なのだ。

夢の島の第五福竜丸展示館には、彼自筆の「船内心得」が展示されている。元は船内の操舵室に貼ってあったもの。一部は剥落しているが、「新しき出発、新しき束縛」と表題した長文のこの掲示物は、筆跡といい、行き届いた文章といい、見事というほかはない。

ごく一部分だが、末尾の文章を抜粋する。
「協同生活に一番大事なことは、才能のある人とか立派な仕事をする人が大勢集まる事ではない。それよりもその人が加入する事によって協同生活が何らかの形でプラスになるような人を一番必要とする。
 そして、信頼と団結によって力強い誇り得る傳統を生み、愛する人々の期待にそむかない最良の航海を続けなければならない。」

次の箇条書きの心得もある。
「時間を厳守すること
 出航及作業前の飲酒を厳禁す
 船中の賭博行為を厳禁す
……
一々の事故に関しては今更説明を必要としない
各々立派な良心の所有者である故」

時に、見崎は28歳。驚くほかはない。なお、乗組員の最年長が無線通信士久保山愛吉の39歳。平均年齢は25歳であった。

被曝後、23人は急性放射線障害で、東大付属病院と東京国立第一病院(現国立国際医療センター)に分かれて入院する。見崎は東京国立第一病院入院中にも旺盛に手記を書いている。リーダーとして、他の乗組員を気遣っていることがよく分かる。展示館の所蔵物のなかに、デパートの包装紙をつなぎ合わせた3メートルもの巻紙に彼が書きつづったものが残されている。その抜粋の次の文章が、展示館が作成した図録に収録されている。
「…あらゆる言論機関はいっせいに立ち上がり、あらゆる角度からこの事件にメスを入れ、世界の世論は沸き立ち、当事者である私は事件のただならぬために苦悩の連日。嵐に飛ばされた木の葉のそんざいそのまま病院に収容され、暖かい日本中の人びとにまもられて日時を経過した。そして、水爆禁止が大きく叫ばれた。…事件以来の米国側の言明に対し無条件で私は叫ぶ。そして悲憤の涙を流す。乗組員の幾多の悲惨なる姿、ニュース、映画、雑誌に新聞はもちろん。私はたまらない、彼らの心中を思うと。我々は無関心ではない。名誉毀損、彼らの言明により全員に与えた心の動揺に対する償いを要求する。」

その見崎も、事件後しばらくは被曝体験を語っていない。「「第五福竜丸」が「ビキニ事件」による被ばくの象徴のように扱われ、船員に対する世間の偏見、無理解にも深く傷ついた。」(静岡新聞)からであろう。時を経て、「地元中学校から依頼を受けたことをきっかけに2002年からは市民や子供たちに自身の経験について語る活動を続けてきた」(同)という。また、「事件から50年となる2004年前後から被曝体験を公の場で語り始め、06年には被曝経験などを手記にまとめて自費出版した。講演などの活動を続けていた」(朝日)

「第五福竜丸展示館30年のあゆみ」に、見崎の次の談話が出ている。全文を掲載する。
「船が夢の島で発見されて保存庫とが話題になったときに夢の島に新聞社の人に連れられていったことがある。改装されていたけれど、まさしく福竜丸の面影は残っていた。しかし、ゴミのなかにもぐってしまって、こりゃ保存するといっても何年もかかるなあ。それだったら解体して海に沈めて最後はきれいにしなさい、私はその時はそう思ったね。
 よく展示館を作ったよね。焼津に保存してはどうか、とかいろんな意見があった。敷地もいるし金もかかる。よほど熱心に保存をすすめないと実現しない。当時いい人がたくさんいたよなあ。都では美濃部さん、保存に協力した。最初、静岡では、被爆者の会の杉山秀夫さんなどが保存の会をつくって尽力した。私も声を掛けられたよ。その当時の焼津のえらい人は、保存に関係したいと思ってなかったね。当時の市長も「焼津の市政と第五福竜丸は何ら関係ない」と市議会でも答弁した。静岡県でもやらない。
 ではどうするか、沈めるか、大平洋のど真ん中へ持ってって沖で放置すりゃ、流されてアメリカに着くか、潮流はそうなってるから。アメリカが拾ってくれりゃいいからね。黒潮へもっていって沈めよう、さっぱりしていいじゃないか。それが焼津の意見だったね。
 でも若い衆の新聞の投書とかあって、保存の運動になった。美濃部さんと部も協力したわけだね。平和運動は本来は国をあげてやるべきことだと思うね。部に「おまかせ」という感じだね。しかし、人に見てもらえるようにしたのは素晴らしい。保存した人たちに感謝したいね。第五指竜丸は一つの漁船にすぎないが、原水爆というのは人類の犯罪ですよ。これをやめようじゃないか、と訴えているその象徴になってる第五福竜丸、それを作った東京都と運営している平和協会の存在は大きいね。保存のだめに、展示館建設のために働いた大勢の人たち、日本全国の人たちが取り組んだね。それを伝えて、この歴史を大事にしていきたいよね。みんなの力、日本の宝だよね。これからも福竜丸が原水爆のことを伝えて、展示館が役割を果たしてくださるこを願ってます。」(
2005年12月4日談)

歴史は貴重な証人を失ったことになる。公益財団法人第五福竜丸平和協会からも、Eメールで見崎さんの訃報が届いた。その末尾に、「現在 元乗組員でご存命の方は5名となりました」とある。

この方たちの存命のうちに、原水爆の廃絶を実現し、核による放射線被害のない世界を到来させたいものと思う。
(2016年3月19日)

「NPT会議はけっして失敗ではなかった」ー第五福竜丸平和協会評議員会にて

公益財団法人第五福竜丸平和協会の定款は、その目的を次のとおり定めている。
「1954(昭和29)年3月1日ビキニ水爆実験の被災船第五福竜丸を記念し、原水爆被害の諸資料を収集・保管・展示することにより、都民をはじめ広く国民の核兵器禁止・平和思想の育成に寄与することを目的とする」
協会は、この目的のとおりに、「夢の島」展示館での第五福竜丸船体の保管・展示を通じて、「国民の核兵器禁止・平和思想の育成に寄与」する諸活動を行っている。

本日は、その第五福竜丸平和協会の評議員会。2014年度の事業報告と決算の承認。それに新年度の理事の選任が主な議題。私は、監事として参加する立場。

評議員は、平和運動や原水爆禁止運動に携わってきた活動家が主だが、他にも多彩な顔ぶれ。物理学者やジャーナリスト、平和学や文化財保存や船の専門家なども加わっている。各分野の人々の発言が楽しい。今日も、NPT再検討会議参加者の報告があって盛りあがった。

昨年(2014年)度は、第五福竜丸がビキニで被爆してから60周年の節目。この1年の来館者は、104,745人と報告された。そのうち団体見学者が約3万人だが、事務局から「小学生の団体来館者が激減していることが心配」とのコメントがあった。本年の小学校の団体来館は92校、5,673名。この数字は10年前の約半数でしかない。どうしてこんなことになっているのだろうか。もちろん、小学生は圧倒的に都内学校。その来館者の減少は、学校や教員の姿勢の変化かと気になるところ。

来館者には、ボランティアの説明員が丁寧に説明をしてくれる。特に小学生は大歓迎。是非、多くの学校からのご参加をお願いしたい。核の恐ろしさ、平和の大切さについての貴重な学習の機会。核実験で死の灰を被った船体の存在感は大きい。この船で、人類最初の水爆実験被害の死者が出た。そのことの印象は強く、得るものは多いはずだ。問合せは、下記のURLを参照いただきたい。
  http://d5f.org/top.htm

また、昨年の来館者のうち確認できる外国籍として、アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・中国・台湾・韓国・シンガポール・インドネシア・ドイツ・オランダ・デンマーク・マーシャル諸島などが報告された。大使館員であったり、ジャーナリストであったり、国際平和団体や教育者、そして留学生や観光旅行者も。

無名の多くの来館者が大切なことは言うまでもない。しかし、できれば各国の元首級や高官の来館も欲しいところ。今次のNPT会議再検討会議では、「被爆70周年の節目の今年。各国の指導者は広島・長崎に足を運んで、被爆の実相を知るべきだ」という決議案が話題となった。原爆の被害を知るための地といえば、広島・長崎だが、水爆の被害を知るための場は第五福竜丸である。各国の要人に、こちらにも足を運んでもらいたいものと思う。広島・長崎は、東京からは遠い。第五福竜丸展示館は都内(江東区・夢の島)で、来やすいはずだ。

ところで、我が国の閣僚や都知事も来館の経験はあるのだろうか。是非とも一度は来館し、船体と展示物を見ながら、充実した説明に耳を傾けてもらいたい。

なお、第五福竜丸の船体も展示館も、東京都が所有している。公益財団法人第五福竜丸平和協会が、東京都から委託を受けて船と建物を管理し、展示の事業を行っている。もちろん入館料は無料で、毎年東京都からの委託料を受領している。石原慎太郎知事時代、この委託料がどうなるかが心配だった。少しずつ、減額され続けたが、「財政難の折からのことで、他の同種事業も同じ」との説明だった。

同知事とその後継が退任し、現知事になってから1年余。昨年度と今年度、減額され続けてきた委託料が久々に増額に転じた。増額と知事の交替との因果関係は明確には分からない。しかし、久々に明るい雰囲気。

NPT再検討会議に参加していた評議員のお一人から、興味深い報告があった。
「日本のマスコミ報道は、最終合意案採択に至らなかったことの評価が否定的に過ぎるのではないか。中東問題が躓きの石となって最終合意に至らなかったことは残念ではあるが、この障害はNPT固有の問題ではなく、これまでの核軍縮の議論が後退したというものではない。会議進行の透明性は格段に進み、どこまでの合意ができていたかは明確になっている。「核兵器の非人道性」がキーフレーズで、この会議で核保有国を圧倒して核兵器を非人道的なものとする合意は形成されつつあるという印象だった。その点、今回の会議には、それなりの意義があったと考えてよいと思う。けっして、落胆するにはあたらない。」

本日の会合で、協会の5人の理事が再任された。評議員会後に新理事会が開かれ、川崎昭一郎理事長(千葉大学名誉教授・物理学)を選任した。労多くしておよそ役得はない。もちろん報酬もない。報いられることはない役職にご苦労様ですと申しあげるしかない。多くの活動が、このようなボランティアによって支えられている。

「原水爆の被害者は私を最後にして欲しい」というのが、亡くなった久保山愛吉さんの遺言だった。第五福竜丸がビキニで被爆し久保山さんが亡くなってから昨年で60周年。今年は61年目となっている。第五福竜丸船体の保存を通じて、反核・平和の世論を喚起し、久保山さんの遺志に応えることが私たちの責務である。

60周年記念事業の一つとして出版した記録集のタイトルが「第五福竜丸は航海中」だった。まだまだその航海は終わらない。受け継ぐ人のバトンをつなぎながら、今後も長く続けなければならない。
(2015年5月24日)

核をもてあそぶプーチンに無数の抗議の声を

ロシアのプーチンが、1年前、クリミア半島併合の際に核兵器の使用準備を検討していた、と自ら明らかにした。米国を中心とする北大西洋条約機構(NATO)との対決に備えての核兵器の使用準備であったという。おぞましくも戦慄すべき発言。身の毛がよだつ。満身の怒りをもって抗議しなければならない。

人類は核と共存し得ない。核をもてあそぶ者は、人類の存亡をもてあそぶ者だ。誰にせよ、核をもてあそぶことはけっして許されない。ましてや、威嚇の手段にすることなど、狂気の沙汰だ。

核の脅しは、その対抗措置としての核の脅しの連鎖となり、その連鎖が核兵器の実戦使用となりかねない。核兵器の実戦使用は、対抗措置としての核兵器使用の連鎖となって、人類を滅亡に導きかねない。プーチン発言は、人類が許してはならないものなのだ。

「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という憲法9条を思い起こさねばならない。ましてや、核兵器による威嚇や行使があってはならない。

昨日(3月16日)の朝日川柳に、次の1句。
  戦闘に歯止めがあると人の言ふ(三重県 大西裕美子)

自衛隊による集団的自衛権行使やグレーゾーンでの戦闘を念頭においての句ではあろうが、歯止めの掛からぬ戦闘の究極の到達点が核戦争である。

私は、戦後間もないころに、広島の爆心地近くの小学校に入校した。幟町(のぼりちょう)小学校というその学校の担任の女性教師の顔面にはケロイドの痕が生々しかった。広島の街は、まだ片づけられない瓦礫が残っており、原爆ドームも子どもの遊び場となっていた。そこで、地元の人のピカに対する怨念を心に刻んで育った。

1954年3月焼津に第五福竜丸が寄港したころ、私は清水の小学校の5年生だった。「放射能の雨」「原爆マグロ」「ガイガー計数管」などに戸惑ったことをよく記憶している。そして、今は公益財団法人第五福竜丸平和協会の監事を務めている。核兵器も被曝も、絶対悪として廃絶しなければならないと、骨の髄まで身に沁みている。

現行日本国憲法を採択した制憲国会において、当時の首相・幣原喜重郎は憲法9条の論議に関して次のように答弁している。
「原子爆弾の出現によって、文明と戦争は両立しえなくなった。文明が戦争を抹殺しなければ、やがて戦争が文明を抹殺する」「一度び戦争が起これば人道は無視され、個人の尊厳と基本的人権は蹂躙され、文明は抹殺されてしまう。ここに於て本章(日本国憲法第2章「戦争の放棄」)の有する重大な積極的意義を知るのである」

プーチンが準備したという核兵器は、その破壊力において、広島・長崎に投下された原爆の比ではなかろう。その核兵器の使用の結果には勝者も敗者もない。人類を滅亡にいざなう破壊がもたらされるだけだ。

いかなる理由をこじつけようと、文明と核兵器とは両立しえない。文明が核兵器を抹殺しなければ、やがて核兵器が文明の全体を抹殺するのだから。

本日(3月17日)の朝日と毎日が、この問題を社説で取り上げている。
毎日の結びはこうなっている。
来月には核拡散防止条約(NPT)の再検討会議が開かれる。非核保有国の核保有国に対する視線は厳しい。核削減への努力が求められる中で、核の威力を誇示して自国の主張を通そうとする姿勢は国際社会への背信行為である。」

朝日はこうだ。
「力による国境の変更に加え、核による挑発。プーチン氏の行動は、前時代的な大国意識の表れではないか。これ以上、国際秩序に挑むような言動は慎むべきだ。国際社会のロシアへの警戒心は極度に深まっている。」

両紙のいうとおりだ。プーチンは「核の威力を誇示」し、「核による挑発」をおこなっているのだ。国際的に批判されるべきは当然である。くわえて、私たちも小さくても、無数の声を上げねばならない。核兵器に文明を抹殺されることなど、絶対にあってはならないのだから。
(2015年3月17日)

澤藤統一郎の憲法日記 © 2015. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.